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19/8/5 「ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義」の感想

ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義

最近フォロワーの木澤さんが書いた『ニック・ランドと新反動主義


などを読むにつけ、いわゆる加速主義において「資本主義の拡大」と言ったときに理論の根底を成しているドゥルーズ+ガタリの思想をそろそろきちんと読みたいと思うようになった。
とはいえ、ドゥルーズ+ガタリの主著『アンチ・オイディプス』はとても素人の手に負える本ではない。開幕から

<それ>はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。<それ>は呼吸し、過熱し、食べる。<それ>は排便し、愛撫する。
<それ>と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。

という意味不明さであり、誰かの解説が無ければ通読はままならない。
どうしたものかと思ったところで、去年の今頃というかなり最近に仲正昌樹の入門講義シリーズで遂に『アンチ・オイディプス』解説が出たことを知り、ありがたく読ませて頂いた。


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このまえがきに書かれている対象読者層=「浅田彰を読んだはいいが元ネタが一切読めない素人」がまさに俺なので非常に心強い(正直に言えば、『構造と力』はまあ読めたが、『逃走論』はかなり怪しかった。パラノとスキゾについて恣意的に単純化して語っているエッセーの部分は読めるものの、対談で踏み込んだ議論をしているところはもうお手上げだ)。

さて、『ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』が解説する『アンチ・オイディプス』の内容としては、精神分析エディプス・コンプレックス批判としての「~ではない」という否定形の記述が多く(特に第Ⅱ章の文化人類学的な内容)、ポジティブな主張内容は実はそれほど多くないという印象を受けた。
まず構造から機械へというイメージの転回が根幹にあり、そこから「機械による分裂的な人間像が本当なんだけども→それを偽るためのイデオロギーとして精神分析と資本主義が共犯関係にあって→本当に重要なのは分裂分析をすること」という話になる。

俺がよくわからなかったのは「機械」というタームの正確な意味、ひいてはそもそも機械という概念が導入されるモチベーションはどこにあったのかということ。
マクロで秩序的な「構造」に対してミクロでカオスな「機械」という対比は何となくわかるが、このタームは全編を通じて割とファジーに使用されていて、「最後まで明確な定義がない」。なお、念のために擁護しておくと、これは仲正昌樹の解説が悪いという意味では決してなく、ドゥルーズ+ガタリ自身が少なくとも『アンチ・オイディプス』の中ではきちんと定義していないようだ(定義しろ!)。

それがわからないと困るのは、『アンチ・オイディプス』の根本的モチベーションがよくわからないことだ。
構造から機械へという転回は欲望の起源について哲学的形而上学的なレベルで定めた議論であってそこから演繹的に資本主義と精神分析の共犯関係を導いたという見方もできるし、または、それとは真逆に、精神分析が加担する資本主義のファシズム的動員を糾弾するという目的を達成するための道具立てとして機械というイメージを導入したという見方もできてしまう。前者が非政治的なら後者は政治的、さあどっちが正しいんだ?

これに関しては『ドゥルーズの哲学原理』が非常に参考になった。


これはドゥルーズの時系列的な足跡を追いながら彼の本当の主題を見定めるという本で、「機械」がどのような背景文脈を伴って醸成されてきたのかが非常に詳しく分析されている。
この本によれば、ドゥルーズ+ガタリが提出する機械という概念の起源にあるのは「超越論的経験論」、いわゆるイギリス経験論と大陸合理論を止揚する理論だ。この二つの対立はカントが先験性を巡る議論によって決着をつけたというのが一応の常識になっているが、ドゥルーズはそれを更に批判して新たな主体の生成論を論じている。つまり、機械概念の源流にあるのは主体の発生を巡る哲学的議論であり、その文脈で同じテーマを扱うフロイトラカン精神分析批判に向かうという流れも完全に理解できる。これを踏まえれば、機械というタームにこめられたイメージが主体を形成するような特異性との出会いにあることがわかってくる。なるほど。

とはいえ、当初の目的である「加速主義を導く資本主義の徹底プロセス」について明確なイメージが掴めたとはやや言い難い感じがある。
ドゥルーズの哲学原理』を経て更に詳しくわかったことはといえば、分裂分析が特異性・一回性・偶然性といった非常に分析向きではない(通常、否定形で定義されるような)概念との親和性が高いということだ。『アンチ・オイディプス』においても分裂分析の方向性こそ示されているものの、その具体的な手続きの記述はやや貧弱な印象を受ける。精神分析神経症に対置される分裂分析的精神病として最も卑近なサンプルはもちろん分裂病患者なのだが、フロイトが豊富に提示する神経症の症例に比べて具体例が少ない。分裂病患者としてはシュレーヴァー院長の症例がよく引用されてくるものの、都合の良い記述を残した人物を恣意的に引っ張っているようでもあり、いわゆる統合失調症の××××にこの水準で臨床の場から読み込みを行うことは果たして可能なのだろうか(『アンチ・オイディプス』に限ったことでもないのだが、現代思想的な文脈で「分裂病」と言ったときに想定されるイメージはあまりにも抽象理論に寄りすぎていて実践からは遠い印象を受ける)。
もっとも、加速主義の文脈で登場するシンギュラリティ的人工知能についても、その活動内容が明確に想定されているわけでは全くなく、むしろ「何をするのかわからない」という否定形の方がつきまとってくるイメージとしては一般的なようにも思える(単に議論が尽くされていないのか、本質的に否定形なのかはわからないが)。こうした否定形というコンセプトは新反動主義で登場するコズミック・ホラーなどのイメージとも共通してくる部分であり、否定神学的モチーフとの親和性が高い傾向があるのかもしれない。