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21/3/17 シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇の感想 もうどうでもゲリオン

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇

以下、全文ネタバレです。

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満を持して『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を見た。
ガチで泣きました。映画としてはそう大したものでもないのに「『シンエヴァ𝄇』を見た日のことは人生の区切りの一つとして忘れないであろう」みたいな心境になってしまうあたり、俺は自分が思っていたよりもエヴァが大好きだったらしい。

語るべきことの終わり

正直なところ、『シンエヴァ𝄇』が「二十年前の青春に決着を付ける」「庵野が出した答えとは何か……」みたいな文脈で消費される風潮はあまり快くは思っていなかった。それは映画そのものを語るというよりは単に映画をダシにした自分語りであり、新海誠を見て自分の恋愛遍歴を滔々と語り始めるのとそう大きな違いはないからだ。
とはいえ、『シンエヴァ𝄇』を見終わった今はそういう感想を書きたくなる気持ちもよくわかる。『シンエヴァ𝄇』はあらゆる意味で説明がひたすら丁寧であり、謎は消えていくばかりで新たに付け加わる謎もわだかまりのように残る謎もない。設定考察も前衛演出もにわか批評も、少なくとも旧劇の頃にあったようなエヴァ的な語りは全て劇中でわかりやすく説明し尽くされてしまった。
わざわざ鑑賞者が改めて語ることがない今、「語ることがないことについて語ること」が世代的な感傷くらいにしか行き着かないのも頷ける。

実際、難解なことで知られてきた設定群は『シンエヴァ𝄇』では普通に見て聞いていれば普通に理解できてしまう。カヲルはゼーレと組んでループしていた、式波アスカは惣流アスカと違って綾波と同じ量産型。考察する余地もない真相が提出されてそれで終わりだ。良く言えばわかりやすいが、悪く言えば広げた風呂敷を畳むための場当たり的な設定追加という印象もある。
特にQでシンクロ率0%だったシンジを再びエヴァに乗せるためにシンクロ率∞%の誤認だったことにするという、サムライ8レベルの安直な後付けには目を疑った。今までだったら恐らくリツコが「シンクロ率なんて所詮は<新出の専門用語1>に過ぎない……シンジくんはエヴァの中の<新出の専門用語2>と和解することができたのかもしれない」とか適当に意味深なことを言って謎を増やしながら解決していたものを。

意味深な設定とセットになって謎を深めていた前衛的な演出すら、旧劇から何一つ進歩していない。シンジとゲンドウが戦っている最中に世界が破壊されて書き割りのセットが現れる演出は押井守が何十年も前から何十回もやっているものだし、最後の最後に絵コンテになるシンジはもはやエヴァっぽい演出をなぞる二次創作だ。タイトルロゴが映し出されるメタ演出も、ドローン撮影の実写風景が空にフェードアウトしていくのも、どれもこれも二十年前の旧劇レベルの前衛さでしかない。旧劇が2chだったことをなぞって安易にTwitter画面を表示しなかったのが意外なくらいだ。
そんな古臭い演出を背景にして「新世紀(ネオンジェネシスエヴァンゲリオン」が遂にタイトル回収されたのには泣き笑いしてしまった。もう四半世紀が終わりそうになっているのにようやく新世紀に辿り着くタイミングの遅さは、まさにそれが表示される演出の時代錯誤感によくマッチしている。

謎を生まない懇切丁寧な説明が、かつて一世を風靡したにわか批評にまで行き届いているのは驚くべきことだ。「ああいう田園の風景がセカイ系が短絡して取り落としてきた中間項なのだ」とか、「シンジは女の子一人に世界を懸けることがなくなったからアヤナミレイ(仮称)が目の前で爆発してももう動じずに戦えるのだ」とか、「シンジに裸を見られても動じなくなったアスカは身体と自己像の問題をクリアしているのだ」とか、わざわざ書き起こすのも虚しい。
アスカは「ガキには恋人じゃなくて母親が必要」などと精神分析的な評価をはっきり述べてしまうし、カヲルもカヲルで「(シンジは)リアリティの中で立ち直っていた」と社会反映論ぽいことをあっさり言ってしまう。メタ発言ギリギリの冷徹な視点は辛うじてエンタメ要素であったはずの恋愛模様にまで及び、アスカはシンジのことを「昔は好きだった」と極めて冷静に俯瞰する。キャラクターたち自身がもう自己分析を完了してしまっているならば、鑑賞者が謎解きとして分析することはもう残っていない。

そういう、設定考察的にも前衛演出的にもにわか批評的にも収まりが良すぎてとにかく葛藤のない映画だから、もし俺が『シンエヴァ𝄇』の上映を受けて初めて新劇場版の序破Qをまとめて見てから映画館に向かうような人間だったら、「言うほどのコンテンツか?」「演出は良かった」くらいで終わって忘れていたのは間違いない。
しかし、エヴァに関してはそういうわけにもいかない。俺の中ではシンジやゲンドウはあれこれ批評する対象としての寓意一般ではなく、彼らには彼らなりの人生があることを認められるような、虚構的ではあるが完全な人物だったらしい。自分の子供が人並みに成長するのを見て「批評的に安直な成長だ」と批判する親がいないのと同じだ。シンジくんが批評的に安直な成長をしたとしても両手を叩いておめでとうと祝福する準備がある。

 

エヴァに関心を失う子供たち

とはいえ、『シンエヴァ𝄇』が「彼らは大人になった」というだけの話だからといって、旧劇と同じ「現実に帰れ」系の話だと一括してしまうのも解像度が低いと言わざるを得ない。
旧劇と『シンエヴァ𝄇』の最大の違いは、『シンエヴァ𝄇』で成長した子供たちは思春期的な葛藤に対してもう素朴に興味を失っていることだ。大人になるというのは人生にかかる問題に答えを出すことではなく、問題の枠組み自体への関心を失い、無根拠で放棄できてしまうことなのだ。
旧劇のシンジは「ミサトとの関係」「父との関係」「ヤマアラシのジレンマ」「エヴァに乗るか乗らないか」といった表現のバリエーションを無数に伴って出現する葛藤から最後まで抜け出せなかった。だから旧劇ではシンジとアスカが世界に二人きりになってもなおお互いに拒絶せざるを得ないのだが、『シンエヴァ𝄇』では意味もなく否定し合うモチベーションがもうない。ヤマアラシのジレンマが氷解したのは輝かしいソリューションが発見されたからではなく、単にもうどうでもよくなったからだ。

思えば、「問題を解決するのではなく問題への関心を失う」という路線を最初に強く示唆していたのはマリだ。マリは旧劇までに他の皆が思い悩んでいた物事に対して本当に関心が無い。
それを象徴するのが「エヴァに乗るかどうかなんて、そんな事で悩む奴もいるんだ」という屈託のなさすぎる感想で、その発言はもう破で出ていた。同様に、マリがシンジに言う「早く逃げちゃえばいいのに」はシンジが言う「逃げちゃダメだ」やミサトが言う「乗りなさい」とは全く別の次元にある。「乗るか乗らないか」について考え抜いた末に逃げるという結論を出すのではなく、そもそも「乗るか乗らないか」自体が割とどうでもいいのでもちろん逃げてもいいのだ。
マリは戦闘中も一貫して冷めていて余裕があり、シンジのように死への恐怖に取りつかれたり、惣流アスカのように訳のわからない回想を始めたりすることもない。それどころか、マリは自発的に人間であることを捨ててビーストモードを披露した初めてのパイロットでもある。『シンエヴァ𝄇』の戦闘に通底する「私TUEEEEEEEE」感というか、あまり苦労することもなく敵を次々に撃破しているように見える異世界転生っぽさも、マリの無関心さに端を発しているように思われる。

マリの「旧シリーズ的な葛藤に対して関心を持たないスタンス」が式波アスカにまで伝播していたことは言うまでもない。式波アスカもマリと同様、裏コードや使徒の力を使うことに躊躇いがない。
アスカがシンジのことを「メンタル弱すぎ!」って叱るのがもう身も蓋も無さすぎて笑ってしまった。人間関係の問題を「メンタルの強度」に帰すほど文学的主題を破壊する行為が他にあるだろうか? メンタルが弱い少年少女大人たちが延々と苦しむ話であるところのエヴァに「メンタルを強くする」という回答が許されるのであれば、それでもう全てが終わってしまう。ここにもやはり、問題を内側から丁寧に解決するのではなく、「そんなことはどうでもよくないか」と外側から丸ごと棄却するマリ的なスタンスがよく現れている。
式波アスカも最後には取って付けたような旧シリーズっぽい回想をして去っていくが、それは式波アスカが既に乗り越えた問題の再確認か、そうでなければ惣流アスカの弔いに過ぎない。どう考えても、第三村でシンジを導いた式波アスカはかつて親子関係と男女関係に苛まれていた惣流アスカではない。失語症に陥ったシンジにやたらヌルヌル動く作画で乱暴にレーションを食わせたとはいえ、それは決して旧シリーズのように男性に固執して引き起こされた病的な暴走ではないのだ。口では罵倒しながらも海辺で打ちひしがれるシンジを遠くでコッソリ見守ることができる式波アスカは、もうとっくに他人と適切な距離を取れるようになっている。

むろん、式波アスカと同じくらい大人なのは、つまりエヴァに乗る責任がどうとか親子関係がどうとかいう話に関心がないのは、第三村の面々も同じだ。シンジに対する人たちがシンジの回復のために「適切な距離を取って落ち着くのを待つ」という実に大人な対応を取るのが『シンエヴァ𝄇』のスタンスをよく表わしている。「問題と正面から取り組む」というのは子供の解決方法で、大人には「問題がどうでもよくなるまで待つ」という選択肢があるのだ。旧劇のようにいちいちあがかなくても、ただぼんやりしていればどうでもよくなることもある。シンジが第三村で学んだのは「関心を失うまで待つ」という解決方法だ。

更に言えば、Qから登場したヴンダー搭乗員たちもエヴァ云々には興味がない。民間たたき上げのクルーの連中は自分の生活がどうなるかというレベルでしか戦いに関心が無く、ミサトが散々悩んできたような他人を戦わせることや責任についての倫理的な葛藤ももちろんない。
特に、冬月による物理侵食タイプの機体がヴンダーに取りついたときにピンク髪のやつが発する「エヴァっぽいやつ」っていう表現が最高だった。今までなら「エヴァっぽいやつ」が出てきたらそれは謎が謎を呼んで設定考察を巻き起こすチャンスだ。ミサトかリツコあたりが「アレは私たちの知らないエヴァシリーズ? それとも新しい使徒? まさか……あれもまたヒトの形だというの?」とかなんか意味深っぽい台詞を吐いて、オタクがうおおお!!とか言って考察をするのが今までの「流れ」だったはずだ。だが、ピンク髪は「エヴァっぽいやつ」をそのまま「エヴァっぽいやつ」と見たままの表現で呼べてしまう。彼女はエヴァに興味がないから。

 

エヴァ固執する大人たち

小学校に入った女の子がお人形遊びから卒業するように、大人になった子供たちは「エヴァ的な問題」への関心をすっかり失ったようだ。だが、既にいい年齢だったにも関わらずそれに囚われていた大人たちには卒業する機会がもうない。
それは今この文章を読んでいるお前かもしれないが、『シンエヴァ𝄇』では冬月やゲンドウやミサトあたりの面々がそれである。彼らは死ぬまでその問題を考え続けるしかないし、死ぬことでしかこの問題を終わらせられない。

トウジやケンスケはちゃんと結婚して子供を作って皆で協力して働いている一方、一生ロボット作って戦ってる冬月とゲンドウを見ているとマジで泣けてくる。組織立って働いてくれる部下を全て失い、それでもずっとロボットを作ったりロボットに乗ったりして喜んでいる彼らはいい年して無職でガンプラにハマってるオッサンみたいなものだ。『シンエヴァ𝄇』で明らかになったのは、一番ヤバい子供なのはぶっち切りでゲンドウと冬月のツートップであり、それに比べればシンジの青さなんて若気の至りでしかなくて勝負にもならないということだ。
一見すると、この二人は冬月が志半ばで死亡したのに対し、ゲンドウが無事問題を解決したという大きな違いがあるように思われるかもしれない。だが、彼らは二人とも最後の最後まで旧エヴァ的な問題に囚われていた点では同じだ。シンジが親との対話をあっさり終えてエヴァ無きネオンジェネシスの創世に着手できるのに対し、ゲンドウは「子供とどう向き合うか」という問題が解決した時点で物語からフェードアウトする。ゲンドウの人生を語るボキャブラリーはそれしかなく、他に語るべきことを持たないからだ。

ミサトは一応子供を生んで人の親になったというアドバンテージがあるとはいえ、それでも冬月やゲンドウと同じ側にカテゴライズされる。というのも、ミサトは子供たちとは違って「問題を遠ざけて忘れる」という選択肢を持たないからだ。ネルフの中で大人になってしまったミサトの人生は、「責任を履行すべきか否か」という旧シリーズ的な問題系の中でしか進まない。それが終わるときは死ぬときだから、責任を果たすと同時に死なざるを得ない。問題に関心を失うことが出来ず、正面から格闘し続けた者の末路である。 

 

もうどうでもゲリオン

誰だって思春期には「自分が生まれた意味とは」「死とは何か」みたいな実証的には何の意味もないが実存的には極めて重要なことを一度は考える。そしていずれそれを考えなくなるのは、その問題が解決したからではない。脱構築批評がよくやるように問題設定に矛盾が見出されるからでもない。そういう問題自体がもうどうでもよくなって、問題の枠組みごと放棄されるというだけだ。
最終的にシンジがエヴァの無い世界を目指したのも同じことだ。「エヴァに乗るべきか乗らないべきか」という問題に解決や崩壊の契機があったわけではない。シンジは第三村で特にこれといった劇的なエピソードもなく時間の経過で回復できた経験から、「単に関心を無くす」という選択肢を学んだのだ。

困難な問題を掘り下げるには子供でいなければならず、大人は「関心がない」というだけであらゆる問いを無効にできてしまう。大人になってわかることなんてほとんどないのに、大人になったらどうでもよくなることはいくらでもある。