LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

18/10/17 構造と力/となりの吸血鬼さん

・お題箱43

68.邪神ちゃん最終話とFD見たの?

逆に感想書いてるのに見てない可能性ってありますかね?

69.三次で抜くときもロリ系でシコるんですか?

強力な選択肢です。

・構造と力



おすすめ度:☆☆☆
初手度:☆

かなり面白かった。
読み始めたときはレトリック過剰で非常に読みづらかったんだけど、「それはノリの問題だからノれるまで読みなさい」というA級のアドバイスを信じて二周したらすんなり読めた。

構造主義の概要とそれが自壊する経緯を抽象的なレベルで説明しているのだが、抽象というのは諸刃の剣ではある。図像が何を表しているのかを必要に応じて具体化するための個別知識を持っている人にとっては本質的な理解に直結できる一方で、その知識を持たない人にとっては何について議論しているのかが図形以上のレベルではわからない。結果、地に足のつかない状態で終わってしまう……と、俺は思う。
では個別知識が本の中で十分に提供されているのかというとそんなことは全くなく、レヴィストロースがトーテミズムで説明したメタファーの構造やフロイトの無意識くらいは説明なしで承知していることが要求される。明らかに初学者向けの本ではなく、既に構造主義の基本を抑えた人が知識を整理するための本だと思う(正直に言うと、俺はバタイユについての知識がほとんどなかったのでその周辺はあまり理解できなかった)。かつてベストセラーになったというのはとても信じられないし、浅田が自分で言うようにチャート式のように使うのも無理じゃないか?

あともう一つ読みづらかった理由として、章を改めるごとにいちいち同じ文脈で同じ話をするために微妙に混乱することがある(ふつう一つの本の中で全く同じ話を繰り返す意味はないはずなので、大なり小なりコンテクストが変化していると考えるのが自然)。これはたぶん本になる前の名残なんだと思う。この本は各章ごとに中央公論現代思想などに別々に載っていた文章を再編集したものなのだが、雑誌に載せるときは突然途中から話をするのも悪かろうと思っていちいち仕切りなおして概要くらいは毎回喋っていたんだろう。いや、元の雑誌まで調べたわけじゃないから知らないけど、たぶん。

以上の困難を乗り越えれば、論理的な妥当性だけではなく現実的な実感を伴って楽しく読める。それが詩的な文章の功績なんだろう。

さて、浅田彰の言う象徴秩序と、リオタールの言う大きな物語の違いはきちんと認識しておかないといけないような気がするので確認しておきたい。「普通に全然違うじゃん」とか言われそうなのだが、どっちも「皆が正しいと信じていること」みたいなふんわりした認識でいると混同しそうなので。実感としても、「自殺を愛する人」「祝祭を望む人」「震災を望む人」「世が世なら間違いなくオウムの幹部になっていた人」みたいな混沌志向の異常者が俺の周りにはわりとよくいるのだが、彼らの望む転倒がプレモダンへの遡行なのか、モダンへの回帰なのか、ポストモダンの先鋭化なのかというのは意外と言い方次第で何とでも言えてしまうところがある。俺が最も興味のあることのうちの一つはこういう愛すべき異常者たちを正しく認識することであり、そのためにはこの辺のクリティカルな単語の正確な理解は避けて通れない。
まず時代区分について言えば、象徴秩序がプレモダンで支配的な概念であってモダンでは力を失うのに対して、大きな物語はモダンで支配的な概念であってポストモダンでは力を失うわけだから、一つずつズレている。もちろんこれは表層的な表れにすぎず、違いをきちんと理解するには、大きな物語はもともと科学的な知の言表の正当性を担保するものとして、科学哲学的な文脈で措定されていたことを思い出す必要がある。ここでいう科学が、カオスを無限に先送りする近代的なシステムに相当するのだろう。(プレモダンの象徴秩序と同様に)モダンの無限前進システムも単体では単なる仕組みでしかないので、それをイデオロギーに持ち上げるためには背中を押す存在が必要になる。大きな物語はそれ自体が体系を伴っているわけではなく、その内部に正当化される理由を持たないシステムを外部から肯定するという一つメタレベルの高いレイヤーで駆動しているというのがしっくりくるのだが、どうだろう。
違っていたらコメントとかで教えてください。

・となりの吸血鬼さん

今期のアニメ、面白いものは多いけど、面白いだけなのであんまり言うことがない。
7c53c9c9[1]
強いて言えば、となりの吸血鬼さんで吸血鬼が主人公に必要以上に近付かれたときに一定の反発を示すところは(新規性は無いし優れているわけでもないが)好ましく感じる。
日常系アニメにおける過剰な接近の回避、跳ね返りの余白の確保については今までにも何度か触れてきたような気がする。無限に分かり合う女の子が危険なのは、彼女らが完全に混ざり合って均質化すると、動的な変動項が一つもなくなって関係という概念自体が破綻するからだ。正のバネ定数のごとき抵抗力の存在はむしろ安全弁である……というのが俺の基本的なスタンスではあるが、まあ、好みの域は出ない。
なお、このジレンマはエヴァ四話以来の例のジレンマとは真逆のものだ。シンジとミサトの接近は闘争や傷を誘発するというのがヤマアラシのジレンマだったのだが、ソフィーと灯が抱えているのは接近がただちに更なる接近と同一化を誘発するというナメクジのジレンマ(命名)である。困難な接近をいかにして可能にするかとは反対に、あまりにも容易すぎる接近をいかにして回避するかというところに焦点がある。
ちなみにこれを一番うまく扱った日常系アニメは間違いなくスロウスタートで、それを超えることは多分有り得ないし期待もしていない。積極的な評価が有り得るとすれば、気兼ねなく萌えるための必要最小限の安全弁を設置したというミニマムさへの評価になると思うし、今のところそれは成功している。