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21/8/9 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトの感想 どうでもよくライト

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

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さすがに神映画でした。大場ななさん、好きです。

初週に見に行って号泣した割には感想を今更書いているのには若干の理由が無いこともない。基本的に俺はこのコンテンツのことをかなり素朴な意味で美少女コンテンツとしてしか見ていないため(女の子が可愛いから)、相互参照のために迅速さが求められそうな解読作業的なムーブメントにはあまり関心が無かったのだ。
迫力ある演出の妙に言いたいことがないとまでは言わないが、それは俺にとっては黙って自分の胸にしまっておけばよい類のインプレッションに過ぎない。豊潤なメタファーの読み解きもどうでもいいとまでは言わないが、俺より得意な人がやってくれるのがfixした頃に読みに行けばよいという程度の情熱しかない。
美少女アニメオタクであるところの俺にとって最も関心が高かったのは、この映画が教育アニメ化が著しい美少女アニメの潮流に正面からNOを突き付けたことにある。

 

テレビ放送版:ウェルメイドな美少女アニメ

もともと、俺は3年前にテレビ放送版を視聴した時点ではこのアニメに対して「期待ほどのものではなかった」という感想しか持てなかった。というのも、本編全体を通して第一話で設定したハードルを超えられたようには見えなかったからだ。
確かに第一話冒頭では凡庸な美少女動物園アニメのように偽装しておきながら、突然異次元から出現するレビューで「舞台少女はそんな生温いものじゃあないんだぜ」と叩き付けてくるショッキングな構成は見事だった。しかし、そんな反骨精神煮え滾るスタートを切った割には、続く内容はせいぜい「極めてよく出来た美少女アニメ」の域を出ていなかったように思う。

特にレビューパートでの敗者が死亡するでも退学するでもなく、日常パートでは何となく関係を維持して劇を演じてしまう消化不良感はその最たるものだ。あれだけ勝ちにこだわっていた純那も、あれだけサイコな執着を見せたまひるも、誰も彼もが最終的にはお行儀よく観客席で華恋の添え物に収まる末路。舞台少女のきらめきはオーディションに負ければ消えてしまうという解釈も無しではないが、それならそれで退学すればいいものを、何を雁首揃えて仲良しこよししているのだろう。

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とはいえ変にデスゲームみたいな設定があったところでそれは却って作品をチープにするだけだろうし、美少女アニメとしては仲良しオチが正着であることは間違いない。「絶対に負けられない戦いに負けたけど、なんか爽やかに終わったのでヨシ!」というなあなあ敗戦処理が美少女アイドルものや美少女スポ根もので多用されることは周知の通りだ。とりあえずキャラ同士を仲良くする教育アニメを見せておけば、子供向けコンテンツと百合カルチャーを好む傾向にある美少女オタクは良かった良かったと手を叩いて喜んでくれるだろう。

よって美少女キャラ同士の変則バトルアニメとしては最上級の出来なのだが、それならそれでキリンとか第一話で過剰に期待を上げないでほしかったかもしれんという程度の感想で俺はテレビ放送版の視聴を終えた。

 

劇場版:美少女の文法を超えていく美少女アニメ

だが、まさにその美少女らしい収まりの良い末路こそが最大の問題であったことが明らかになるのが劇場版だ。
劇場版は戦いを終えたエピローグの日常としての進路決定シーンから始まり、それなりの場所でそれなりの進路に収まったキャラたちはオーディションで負けたときから当初のきらめきを忘れてしまったままだ。香子だけはその現状を自覚して不満を漏らすものの、彼女もかつての貪欲さを失い、オーディションの機会が降ってくるのを口を開けて待っているに過ぎない。

しかし「喋りすぎ」とぼやく大場ななだけは、そういう日常的な語り口が本来の欲望を取り繕った偽装であると看破している。喋りすぎる、すなわち取り繕いすぎる美少女キャラクターたちに大場ななが遂にキレた皆殺しのレビューを皮切りに、本当のエピローグが始まる。
つまりワイルドスクリーンバロックとはテレビ放送版で美少女的教育アニメのテンプレートに抑圧されて積み残された欲望の大暴露と後処理なのだ。美少女キャラクターたちが美少女アニメ的文法に反旗を翻し、ウェルメイドなテンプレートを破壊して彼女たちが本当にやらないといけなかった殺し合いを繰り広げる。香子は双葉を鬱陶しく思っていたし、まひるはひかりが嫌いだったし、ななは純那を見下していたし、クロディーヌから見た真矢は気取っているだけ。それぞれの戦いが独立してオムニバス形式になっているのも、彼女らが一皮剥けば全く一枚岩ではなく、それぞれに異なる固有の鬱憤と激情を持っているからに他ならない。
比較的わかりやすい歪みを含んでいた他のカップルに比べ、テレビ放送版ではほとんど葛藤なく処理されたひかりと華恋のペアについても例外ではない。テレビ放送版では華恋のカリスマによって迷える子羊であるところのひかりの救済が割と都合よく完了したのだが、その問題の無さにこそ問題が潜んでいることが指摘される。ひかりは所詮は自分がファンガールに過ぎないという不安を吐露するし、完璧に思われた華恋にもわかりやすい目的を失うと脆いという弱点が明らかになる。

各キャラが抑圧していた内容が吐露されるにあたって、演技の両義性が現れてくることは興味深い。
というのも、「素vs演技」「真実vs嘘」という二つの対立において、常識的に考えれば「素が真実」で「演技が嘘」という方が自然な結合であるように思われる。しかし、彼女らが本心を告げるのはどこまでも舞台の上だ。すなわち、「演技」の中に「真実」があるという捻れがある。日常における素の「喋りすぎ」な空間の中では本心はむしろ抑圧されて嘘が跋扈するが、舞台の上では清算すべき真実が白日の光を浴びる。

この脱構築的な構造にどう言及するかはかなり人の関心によりけりなように思われるが、俺はこの映画を美少女アニメとして見ているので、マイナーな切り口であることを承知の上でいわゆる日常系の問題をここに読み込みたくて堪らない。
彼女らとてその気になれば出来合いのコメディをこなせてしまう美少女キャラクターであるから、刀を持ったり弓を構えたりしないで普通に喋ってしまえば、それはテンプレートをなぞって上滑りする会話になってしまうのだ。翻って、舞台の上では何を言っても許される。これは演技であるという共通了解があるが故に、美少女が普段はとても言えないような批難を投げかけることも容易なのだ(これは演技だからセーフ!)。むろん攻撃を受けた相手にも批難を正面から受け取る演技を行う義務が生じ、結果的に本心で会話することを余儀なくされる(この「本心を演じなければならない」という矛盾した要請から逃げ回ったひかりはまひるからガッツリ怒られた)。
こうして俺は美少女キャラクターが繰り広げる日常という惰性の営みに対置するものとして、演技としての本心というソリューションを記憶しておきたい。

 

どうでもよくライト

テレビ放送版であえてお行儀のよい美少女アニメを見せておいて、3年越しに劇場版でそれを徹底的に否定し尽くしたという入念なちゃぶ台返しを俺はこの映画に見る。そしてより一般には、世に溢れる美少女アニメが日常の中で取って付けたような道徳的処理によって本当に戦うべき葛藤をなあなあに済ませてきたことへの糾弾としてのポジションを占めることも出来よう。
総じてかなり価値が高い映画で、俺はこれから「これってもう劇場版スタァライトが終わらせた論点ですよね」みたいなことを何度も言ってしまうような気がしてならない。

 

補足388:たまたま公開時期が被ったシンエヴァとの対比は面白い。既に記事を書いたように、シンエヴァではシンジやアスカはウダウダした思春期的な葛藤に「もうどうでもいい」と素朴に興味を失うことでそれらに決着を付けた(→)。レビュースタァライトでも、ほとんどのキャラクターは美少女アニメのテンプレートという後ろ盾を借りて、青い熱情にはもう興味を失ったフリをして済ませようとした。しかし一人だけ子供で異常者の大場ななが「どうでもよくないだろ」と大人の同級生たちを皆殺しにしたことでワイルドスクリーンバロックが開幕する。どうでもよくないのがレビュースタァライト、どうでもよくライトなのである。