LWのサイゼリヤ

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20/2/23 『異種族レビュアーズ』をポリコレで賛否決めるより他にやることあるだろ

・『異種族レビュアーズ』から見る天原の慧眼

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今期は『異種族レビュアーズ』のクリムくんが可愛い。
俺には異種族萌えがないのでエロシーンは別にあってもなくてもいいというか、正直クリムくん以外は別にあってもなくてもいいのだが、クリムくんがいるので毎週見ている。

そんなクリムくんが可愛い『異種族レビュアーズ』だが、時節柄(?)ポリコレ的な文脈に乗せられることも多い。ちょっとTwitterを検索したりニコニコのコメントを見たりするだけでも、「ミソジニーが酷く見るに堪えない」「多様性を肯定する道徳的なアニメだ」などの賛否両論が入り乱れている。
しかし、俺は「ポリコレで賛か否か」という二者択一でこのアニメを語ることに大した意味があるとは思わない。賛否を同時に内蔵していることにこそ、天原の慧眼があるからだ。まず全体としてポリティカルにコレクトかインコレクトかを決定するのではなく、その二つが共存していることを認めたい。そしてその所在を整理した上で、それにどのような意義があるのか考えるという手続きで『異種族レビュアーズ』(と作者の天原)を評価しようという話をする。

補足238:念のために言っておくが、「ポリコレで賛否を決定することをやめよう」というのは「アニメを政治的な文脈で語ること自体をやめよう(アニメは頭を空にして楽しむものだから!)」という意味では全くない。そういう反政治的スタンスと一緒くたにされることを俺は最も警戒している。

まずインコレクトな側面の話から入ると、女性に対する扱いがそれであり、『異種族レビュアーズ』にはホモソーシャルミソジニーが通底していると断言してよいと思う。

anond.hatelabo.jp

このはてな匿名エントリは少し言葉が強すぎるが、内容には全面的に同意する。

攻撃的な文章を少し要約すれば、要するに「異種族レビュアーズは最初の最初からジェンダーバイアスがバリバリに出ている、政治的には全く不適切なアニメだった」ということだ。
第三話でようやくわかりやすい描写が出てきたからといってそこで初めて告発文を書くのはサッカーで後半がスタートしてからようやく「このゲームは手が使えないんだ」とコメントするようなものだ。「お前は前半に何を見ていたんだよ」「流石に鈍すぎるだろ」と返答されても仕方ない。
ニコニコで見ていると、メイドリーちゃんにセクハラをするシーンで流れてくる「ここだけはちょっと」「それはあかんやろ」というようなコメントにも同じことを思う。OPで男同士が「同じ店行ったなら種族超えた仲間さ~♪」などと歌っているアニメで、わかりやすくセクハラをするシーンに来てようやく女性が性的に消費されていることに違和感を持つというのは何テンポか遅れている。

withktsy.com

このレビューもよく書かれていて、この内容にも全面的に同意する。クリムくんを中心とするホモフォビアを代表に、もはや露悪的と言ってよいレベルでホモソーシャルの絆とそれに伴うミソジニーが描かれている。

しかし、女性蔑視が通底する一方、「多様性を肯定する道徳的なアニメだ」という感想が一定数流通しているのも事実である。俺はそれにも同意する。
これはダブスタではなく、評価している対象が違うのだ。「男-女」という分類で定まる男女構造に目を向ければインコレクトだが、「人間-エルフ-オーク-サキュバス-……」という分類で定まる異種族構造に目を向ければ、「差異に対して寛容な認め合いの風土がある」としてコレクトと言える。どんな種族にも性的嗜好の多様性に基づいて生まれたままの素養を肯定される余地があり、種族的な差別を被らない様子が描かれていることは確かに認めて良いと思う。

補足239:ただし、「異種族間の認め合いは男女の性的な交わりの中で男性が女性に対して承認を与えるという構図でなされている以上、結局のところ男性優位なバイアスの再生産に寄与するものでしかないのではないか」という反論は有力だ。そういう構図は頻出するし、特にそれが最もよく描かれたのは単眼娘回である。しかし、そうでない回も多くあるし、女性の側が自分の素養を活かして自ら性的な交わりに参入していると解釈できる回もある(サラマンダー回など)。結局それは人によるとしか言えない。この手の「女性が客体として承認されることでホモソーシャルに組み込まれているのか、それとも主体として自ら能動的に行動しているのか」という議論には決定打がなく、イエスともノーとも言い難いことが多い。どちらにも取り得るということだけ意識しておけばよいのではないだろうか。

以上の二側面を踏まえて俺が言いたいのは、『異種族レビュアーズ』において、「政治的に公正か否か」は男女に対するものと異種族に対するものが全く反対方向を向いているということだ。具体的に言えば、男女に対してはインコレクトな一方で、異種族に対してはコレクトである。
ネット上での議論の噛み合わなさもこのあたりに起因しているものが多いように感じる。フェミニズム的な感覚を持つ側がクリムに対するホモフォビアを挙げて「ホモソーシャルで抑圧的な描写が酷い」と言えば、異種族に注目する側が「様々な種族の間に認め合いがある」などと反論することになる。その二つは両立するものであって、「『異種族レビュアーズ』は全体的に見ればポリティカルにインコレクトだ」とか、「いやいや、総合的に考えればコレクトだ」とかいう議論をすることにはあまり意味があるとは思われない。
その二つが共存していることを認めるべきだし、そこに天原の慧眼がある。

補足240:「フェミニズム的な感覚を持つ人」という語を選択したのは、ネット界隈で「フェミニスト」という語に原義から離れた余計なコノテーションが乗るようになってしまった(そういう意味で使っていると思われたくない)からだが、もう一つ別の理由として、「理論的にフェミニズムを理解しているか」と「実践的にフェミニストかどうか」は別のこととして分けた方が良いと思うようになったからというのもある。

補足241:俺は今このアニメが女性蔑視を大いに含んでいることを認めたが、その善悪はひとまず問題にしない。しかし、それは「女性差別的なアニメでも面白かったり新規性があったりすればよいのだ」と主張することを意味しない。単にその論点を一旦脇に置いて言及しないということだ。例えば我々は新しい品種のバナナを見ると「結局そのバナナは美味いのか不味いのか」ということばかり気になってしまうが、そう聞いた相手が植物の系統樹について研究している生物学者だった場合、彼は「いま我々は味を問題にしていない」と答えるかもしれない。それと同じで、俺は今アニメ内における性差別的な表象について取り上げたが、「結局それは善いのか悪いのか」という質問に対しては、「いま俺は善悪を問題にしていない」と答える。

この食い違いを踏まえると、天原の慧眼は「異種族というフィクション特有の存在をそのまま描くことを認め、その多様性を現実にある人種や男女関係の表象として解釈しなくてもよい」と指摘した部分にある。天原はフィクションをフィクションとして語る嗅覚を持っているということだ。

これに関しては、ポリコレ熱が高まる昨今、洋画では既にスペースオペラにポリコレが侵食して久しいという背景がある。
例えば『スター・ウォーズ』において、様々な宇宙人が跋扈する多様性は女性や黒人の解放運動と結び付き、エピソード7以降では女性キャラクターや黒人が活躍するようになった。MCUでも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』で当初は様々な人外が居住する空間として提示された宇宙空間は『キャプテン・マーベル』でフェミニズムのモチーフと結び付き、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の最終局面では女性キャラクターが徒党を組むシークエンスが挿入された。これらの作品では宇宙人的多様性がジェンダー的人種的多様性にそのまま結び付いているということだ。

(補足241で述べたように)それが善いか悪いかはいま問題にしないし、そういうことは他でもよく行われている。つまり、フィクション特有の産物を現実にある何かに結び付けて解釈するのは、異種族やマイノリティに限ったことでもない。
例えば、ゼロ年代以降に注目を浴びた「パラレルワールド」という描写をどう見るかについて一家言持っているオタクは少なくないだろう。それは我々が生きえた可能世界なのだとか、加害者と被害者の関係なのだとか、様相に対する見解の相違なのだとか、色々な解釈を持ち出してパラレルワールドを扱う作品を分析することはできる(俺もよくやる)。
しかし言うまでもないことだが、パラレルワールドは端的に存在しない(と考えるのが常識的な見解だろう)。よって、今言ったような分析も「現実には存在しないものを現実にあるものに読み替えて解釈する」営みの一種である。そういう解釈のパターンの一つとして、「異種族的多様性」なるものは「人種的ジェンダー的多様性」に読み替えられることが多かったし、恐らくこれからも多くなるだろう。

そう考えたとき初めて、『異種族レビュアーズ』において「ファンタジー種族的多様性に対しては寛容」「性的多様性に対しては抑圧的」という真逆の見解を描いたことの意義が得られてくる。
扱いがはっきり食い違っている以上、「異種族→女性」という読み替えは『異種族レビュアーズ』の読みにおいては機能しないのだ(にも関わらず、無意識にこの読み替えを行おうとして議論が噛み合わなくなるということは既に述べた通りである)。そういう解釈のやり方は自明ではなく、「フィクションの産物はそれ自体で何にも読み替えずに尊重する余地がある」という指摘に意義を見出すのが最も建設的な天原への評価だと思う。

最後に、「ただ単に異種族風俗というテーマを扱うにあたって作者の女性蔑視が結び付いただけではないか」「ベースにあるのはオタク界では一般的な女性蔑視であり、結果的に食い違いが生じただけの事態に注目するのは過大評価ではないか」という反論にも再反論しておきたい。俺がこの話を『異種族レビュアーズ』論ではなくて天原論にしたい理由もそこにある。

結論から言えば、天原は『貞操逆転世界』というジェンダーバイアスをテーマにした作品群を制作しており、『異種族レビュアーズ』でそれを意識していなかったということはまず考えられない。
貞操逆転世界』は元々は(タイトルから想像できる通りの)「男女の性欲や貞操観念が真逆の、童貞並にがっついた処女がいっぱいいる世界で安い金額で売りやってやりまくる」という内容のエロ同人だったのだが、コミックヴァルキリー版のスピンオフで主人公が男性から女性に変更され、内容が一気に変わった。エロ同人版ではセックスしまくればいいだけだった男性に比べ、女性が主人公になったコミックヴァルキリー版では性的な恩恵はあまり受けない。代わりにジェンダーバイアスの逆転に違和感を持つコメディになっている。

貞操逆転世界』をことさらに持ち上げるつもりはないが(最近はエロ同人版と同じような話になってあまり面白くなくなってきた)、コミックヴァルキリー版を見る限り、天原ジェンダーバイアスに自覚的であり、しかもそれを転倒させるコメディ作品を既に作っているという事実がある。
よって、『異種族レビュアーズ』の女性蔑視をジェンダーバイアスに無自覚な作者が無意識に導入したものだとする見方は誤っている。天原が自覚的に選択した描写として、ギャップに注目した読みをする方が建設的なはずだ。