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22/7/2 【第12回サイゼミ】NP完全性について/有限性の後で

第12回サイゼミ

2022年6月19日に木場で第12回サイゼミを催した。
前回(→)もコロナ禍の影響で半年空いたが、今回もコロナ禍で更に半年空いた。

サイゼミのために大阪から来た人が二人も参戦しており、大阪勢が勢力を伸ばしている(これで大阪勢は三人目となる)。

NP完全性について

あの人気ブログ「みそは入ってませんけど→」のみそ氏が担当。

補足416:みそ氏とは今では普通に仲良くなっていてサイゼミにも割とよく来ているし、サイゼミ外でカードゲームで遊んだりもしているので、スペシャルゲストというよりはいつメン感がある。

「計算量クラッシュコース」と題された36ページもの解説資料が用意されていて気合が入っていた。ざっくり「計算量の概要→P問題とNP問題の区別→P≠NP予想→NP完全性」という流れで、定義した概念に対して定理を提示して証明を追うという割とオーソドックスな理系ゼミスタイルで進行する(例えばこれはNP完全性の二つの定義が等価であることの証明部分)。

miso_np

とはいえサイゼミは理系研究室ではなくオタクの集まりなので、理論的な基礎を踏まえた上で、工学的な応用よりは「結局この話はエンタメとしてどのように面白いのか」に関心があり、市販の解説書よりもみそ氏謹製の資料で説明を聞く価値もそのあたりにある。

具体的にはP≠NP予想のコアが「創作と批評はどちらが難しいのだろうか?」と表現されるところがそれだ。これが本質。

我々の興味がある言明P/NPとは、次のような言明である。

1. 決定問題に対する多項式時間のプログラムに関して、解くこと(solve)と検証(verify)の間には違いがあるのだろうか?
詩的な表現:創作と批評はどちらが難しいのだろうか?

 

(「計算量クラッシュコース」より抜粋)

理論そのものは各自で調べてもらうとして、多少の心得がある人向けにアナロジーについて軽く説明すると、多項式時間でsolveできるP問題が当初の問いを吟味した回答を提示するという意味での「創作」に、多項式時間でverifyできるNP問題が一つの作品に対して部分的に判断を加えるという意味での「批評」に対応する。
このアナロジーはなかなか使い出があるものだ。例えば現実的にはNP問題に対しては「verifyする証拠をどうやって一旦確保するのか(しかもなるべく正解であってほしい)」という悩みがボトルネックになるが、批評において「批評する対象であるところの一つの回答としての作品をどうやって一旦創造するのか(しかもなるべく有意義であってほしい)」という悩みが同じ位置に対応する。
ただしここで創作をsolveと見做していることには一つの飛躍があることは間違いない。批評をやる人は自分が創作するにしてもきっちり問いを立ててそれに対する解釈なり回答なりを与える方向で進みがちだが、創作全体としてはそれはどちらかと言えば少数派のやり方なのだろう。

2. 多項式時間のプログラムに関して、非決定性(Non-determinism)は何か役割を果たすのだろうか?
詩的な表現:常に正しい選択ができることは、どれほどよいのだろうか?

 

(「計算量クラッシュコース」より抜粋)

こちらはNPの定義において非決定性と検証が等価であることについて、これも詩的な表現が本質。
常に(多項式時間で)正しい選択ができる非決定性の計算機は一見すると何もかもを解決する万能の一手のように思われるが、計算量理論的には(多項式時間で)証拠をverifyできることと同程度の能力でしかない。

そして「これは結局まどマギマトリックスの話なんですね」というみそ氏に頷く。つまりほむらが問題を解決するために複数の可能世界を証拠として検証作業をブン回すことや、マトリックスのオラクルが尋ねられればその都度正確な検証結果を返すこと。計算量理論的には彼女らが持っている能力は常に正しい選択ができることと等価だが、彼女らはそれほど善い人生を送っているわけではない。何作もかけて色々な苦難を乗り越えなければならない程度には……

 

有限性の後で

メイヤスーの哲学書『有限性の後で』は俺が担当した。二人とも理系だがたまたま綺麗に文理に分かれていてバランスがいい。

俺のモチベーションは以前にブログで取り上げたときと同じで、「オモシロ哲学のワンランク上の理解をしよう」という目的を設定して解説した。

saize-lw.hatenablog.com

「ハイパーカオス」というメイヤスーの主張自体はいかにもポップ哲学で好まれそうなわかりやすく奇妙なものであるため、上辺だけ理解するのは容易い。ただ我々としてはメイヤスーをちゃんと読んでない人にはっきり差を付けられる程度には哲学史上の位置づけやロジックについてきちんと理解したいところだ。
実際、俺がメイヤスーを好むのは、彼がロジカルな戦闘民族だからだ。環境変遷を追った上で現状の問題を確認して自分の満たすべき勝利条件を明確化してから戦いを始めるやり方はゲーマーの攻略ブログにも似ている。たぶんMtGやったらかなり強いと思う。

メイヤスーの理論についてここで詳説はしないが、下記のサイトが非常によくまとめていてレジュメを作る手間がかなり省けた。

naruhoudou.com

あと千葉雅也の訳者解説も非常に丁寧なのでそれらを読めば内容的にはあらかた把握できる気もする。とはいえメイヤスーはわかりやすい割には熱い文章を書く哲学者なので、興味を持ったら本文を読んだ方が面白い。

色々と出た異論の中から印象的なものについて二点だけまとめておく。

まず第一に、ヒュームへのカウンターについて。
ハイパーカオスに対して即座に提出される「じゃあなんでビリヤードのボールは無垢だがふてくされた女に変身しないのですか?」という当然の疑問に対して、メイヤスーが答えとして持ち出す「再帰的な冪集合である可能世界群に対しては全事象が発散して定義できないので確率概念が適用できない」という論法はあまり頷ける気がしない。単に直観に別に合わないというのもあるが、この路線はどこまでいっても「確率概念を適用できない」という否定形の結論しか出ないため、突き詰めてもあまり有望な感じがしないのだ。
本来メイヤスーはこの問いに応答する義務はないはずだが(ハイパーカオスは法則が一見すると安定している状態も普通に許容できるから)、「そうはいってもあまりにも不自然だから」という人間的な理由で無理に反論を試みているように見えて少し苦しい。

第二に、当初の目的であったはずの哲学と自然科学の調停は実現したのかについて。
『有限性の後で』は祖先以前性に関する問題提起から始まり、終章でもプトレマイオス的反転について語っており、自然科学の権能を取り戻すことが一つのテーマであることは間違いないのだが、ハイパーカオスを擁立することでそれが果たされているとはあまり思えない。

補足417:講義中に一番ウケたのは「プトレマイオス的反転」というメイヤスーから相関主義者へのインテリ罵倒だった。

メイヤスーの議論は物理学者にとっては反駁可能なものではないため、彼らは否定はしないだろうが気にも留めないだろう(「仮にハイパーカオスが真だったとしても現在の偶然的な法則を研究するのが我々の仕事だ」と述べるのが最も妥当な態度のように思われる)。メイヤスーの戦略は何らかの実質から様相のレベルに退却して絶対性を付与するものとも解釈できるのだが、自然科学者の研究対象は様相ではなく実質なのである。
また、物理学者を見る哲学者の視線がアップデートされるともあまり思われない。ハイパーカオス以後の世界観では物理学者は「たまたま今有効な必然的に偶然的な法則について詳しい人たち」という位置付けになるが、この次の瞬間にでも崩壊するアドホックなポジションは当初の擁護対象とはギャップがあるように思えてならない。

 

ブログとか飲み会について

たまたま俺が更新するまでの時間が空いて他の人もブログを書いているので貼っておく。

hifumijus.hatenablog.com

note.com

飲み会では「最近ブログにお題箱と消費コンテンツしかなくね?(最後にアニメの単発記事書いたの一年前とかじゃね?)」と突っ込まれた。それは正しいが、今年はデータサイエンスをやる年になってしまったのであまりアニメ視聴が回復する見込みはない。

あとサイゼミ女人禁制説の話になるたびに同じ主張をしている気がするのだが、ブログに書いたかどうか記憶がないので一応ここに書いておく。
ホモソーシャル」というワードはTwitterではかなり適当に使われており、具体的には「①ホモソーシャルは良くない」→「②男がたくさん集まっているのはホモソーシャル」→「③男がたくさん集まっているのは良くない」という三段論法によって男しかいないコミュニティを無条件で攻撃できる飛び道具となっている。
だが、その運用は元々セジウィックフェミニズムの文脈で指摘した問題意識を把握しない浅薄な理解に基づくものであることは言うまでもない(元々のロジックはこの記事が割とよくまとまっている→)。確かにセジウィックが言うように、女性を蔑視することで成立している男社会(原義のホモソーシャル)が存在することは俺も否定しないが、それとは独立に、そもそも女性が通貨としてすら全く介在していない男社会も普通にたくさんある。それをホモソーシャルと名指すのは拡大解釈であり、批判の前提が成立しない。
これは観測問題でもある。女性が本当に介在しない男社会は、定義上、女性論者の目に入らない。よってフェミニズムの文脈で可視化されるのは難しいし、最悪の場合は「どうせ女性蔑視が根底にあるのだろう」と意図的に混同されるだろう。