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21/12/20 【第11回サイゼミ】東浩紀『観光客の哲学』は数学的に妥当か

第11回サイゼミ

2021年12月20日に新宿で第11回サイゼミを催した。コロナ禍の合間で半年ぶりの開催となる。

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題材は東浩紀の『観光客の哲学』。これに決まった経緯はよく覚えていないが、動ポモシリーズ以降の東の動向を追う回そろそろやっとくかみたいなノリだったはず。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

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いつも通り読んだ前提で俺の関心が高かった点について書くので、内容が知りたければ各自で読んでほしい(これは解説記事ではない)。
特に今回は東が第四章『郵便的マルチチュードへ』でネットワーク理論をガッツリ援用して主張の正当化を試みていたため、俺は理系担当としてネットワーク理論を一通り勉強してその議論の妥当性を検討することにした。前回の複雑ネットワーク書籍群についての記事は『観光客の哲学』を読むためのものである。

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第三章『二層構造』まで

第三章まではネットワーク理論は登場せず、主に人文系のゆあさが解説したので簡単にだけ触れる。

東の現状分析と図式化はいつも通り明晰で説得力のあるものだが、その上で東が何をしたいのかが少し議論になった。
第二章を読む限り、東はヘーゲルとそのフォロワーたち(シュミット、コジェーヴアーレント)には否定的であるように見える。二層構造は彼らの乗り越えとして導出されており、ヘーゲルクラスタが立脚しているナショナリズムが既に無効であることを指摘したり、彼らが否定的に切り捨てる観光客的な概念を擁立したりすることを通じて、ナショナリズムグローバリズムの並置が現れてくる。
だが、実は東の目的意識そのものはむしろヘーゲルと同一であることに注意が必要だ。あくまでも弁証法的上昇というヘーゲル的な手段を否定しているに過ぎない。このことは第四章の冒頭で明確に述べられている。

帝国の体制と国民国家の体制、グローバリズムの層とナショナリズムの層が共存する世界とは、つまりは普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界ということだ。ぼくはそのような世界に生きたくない。だからこの本を記している。言い換えれば、ぼくはこの本で、もういちど世界市民への道を開きたいと考えている。(p154)

つまり、これは是非というよりは可否の問題だ。別にヘーゲルのやり方が有効であるならばそれでも構わないのだが、その前提になっているナショナリズムの世界観が事実として既に終わっているためにそれができないところに問題がある。「二層構造という新しいゲームボードにおいてヘーゲルオルタナティブは如何にして可能か」という文脈で東のモチベーションを捉える必要がある。

これはやや唐突にも思えるが、よく読めば東は別に観光客や誤配が満ちている(相対主義的な?)世界を理想としているわけではなく、ヘーゲルの夢を叶えるための置き石として有効であると述べているに過ぎない。
それは第四章で改めて提示されている。最終的に東は誤配を言い換えたソリューションである「つなぎかえ」をグローバリズムに抵抗するものとして位置付けている。それは二層構造を変革する目的意識を意味するが、観光客は二層構造の間を繋ぐ存在だったはずで、もし本当につなぎかえによってグローバリズムに抵抗することが可能であるならば、最終的にはグローバリズムと観光客は共に消滅していくのだろう。

 

第四章『郵便的マルチチュードへ』

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ここから数学的に見て東のネットワーク理論の運用が妥当かどうかを検証する。東はネットワーク理論の利用についてはまだ粗っぽいアイデア段階に過ぎないことを繰り返し留保しているが、読者側としては特に評価を差っ引かずに普通に読むしかない。

①小さい平均距離はナショナリズムを示すか?

数学的な性質と哲学的な解釈の対応付けについて、東はスケールフリー性がグローバリズムに、スモールワールド性がナショナリズムに対応するとしている。スケールフリー性はパレートの法則と概ね等価な資本主義の申し子であるから、それが経済的なグローバリズムに対応することは議論の余地なく正しいとして良いように思われる。よって検討すべきはスモールワールド性がナショナリズムに対応するかどうかだ。

スモールワールド性の二つの性質はナショナリズムと以下のように対応するとされている。

  1. 小さい平均距離について
    「一本の枝で結ばれたふたつの対等な頂点」「一対一で向かい合う対等な人間」「一対一のコミュニケーション」
  2. 大きいクラスター係数について
    国民国家の規律訓練は、クラスターの三角形を伝って頂点ひとつひとつに、つまり人間ひとりひとりに働きかける」

正直なところ、この辺はどうとでも解釈できるので賛成も反対もしにくい。例えば小さい平均距離を元にして訓練を捉えるならば(厳しい規律訓練ではなく)知り合いの知り合い同士の仲良しごっこかもしれないし、大きいクラスター係数を元にして対人コミュニケーションを捉えるならば(対等な人間同士ではなく)内輪で似通ったもの同士の同質でツーカーなコミュニケーションかもしれない。
とはいえ、現実のネットワークでスケールフリー性とスモールワールド性が成立していることは既に事実であるから、解釈が恣意的であることがモデル自体の妥当性を損なうことはない。実在するネットワークによる解釈を行おうというモチベーションからスタートしている以上、一意ではない解釈を挟むのもそこまで大きな問題はない。

ただ、直感的に言えば、「小さい距離」はナショナリズムよりはグローバリズムに対応させた方が妥当な気はする。地理的に遠く一見すると繋がりの無さそうな人でも実はネット等の人脈を通じてすぐに繋がれるというのは、まさしくグローバリズムの表現の一つではないだろうか。そしてそれにも関わらず依然として人々には近場で徒党を組む傾向がある、つまりナショナリズムが共存している様子が「大きいクラスター係数」に現れているというのが、最も安直なスモールワールド性の解釈のように思われる。実際、その後の対応においても規律権力との対応が語られるのは「大きいクラスター係数」だけで、「小さい平均距離」の方は近代的主体っぽいイメージを一度作ってからは放置気味だ。

総じてスモールワールド性とスケールフリー性という対置にこだわらず、グローバリズムが「スケールフリー性&小さい平均距離」、ナショナリズムが「大きいクラスター係数」に対応しているとした方が説得力があるような気もする。
ネットワーク理論での便宜的な呼称に引き摺られているのかもしれないが、数学的な生起状況を考えても、スモールワールド性自体に「小さい距離であるにも関わらず大きいクラスター係数」という逆接、二層構造的なニュアンスが元から含まれている。その二つは両立が稀で特殊な領域でのみ成立するからこそ注目されて呼称を持つのであり(例えばWSモデルで言えばパラメタpが大きすぎたり小さすぎたりしない特定の中間領域でのみ成り立つ)、個々の性質を切り分けて解釈するならば対置させても特に問題ない。

②ネットワークの性質は必然的ではない

数学的な必然性を語る以下の記述は概ね意味不明である。

もしそうだとすれば、国民国家と帝国の二層化は、数学的な必然で支えられた構造であることになる。人類社会がひとつのネットワークであるかぎり、そこには必ず、スモールワールドの秩序を基礎とした体制とスケールフリーの体制を基礎とした体勢が並びたつ。(p184)

「もしそうだとすれば」には「国民国家の秩序がスモールワールド性を活用し、帝国の秩序がスケールフリー性を活用するならば」というようなことが受けられているが、現実にスケールフリー性とスモールワールド性が存在することと、それが必然的であることは全く別のことだ。ネットワーク科学は必然性までは特に保証していない。

ネットワーク科学が主張しているのは「現在の人類社会をネットワークとして分析するとスモールワールド性とスケールフリー性という性質が出てきます」ということだけだ。スモールワールド性とスケールフリー性が両立していないネットワークはいくらでもあるし、現在両立しているからといって絶対に両立しなければいけない理由は特にない。「昨日収穫した林檎が赤かった」という報告は「未来永劫に林檎が赤いことは必然的だ」という主張を含意しない。そのレベルの話だ。

補足403:これは邪推だが、東自身が紹介しておりそのあたりに大風呂敷を広げるマーク・ブキャナンの一般書『歴史は「べき乗則」で動く』に感化されたのかもしれない。

補足404:指示詞の解釈を最大限好意的に取って「もしそうだとすれば」が「もしスモールワールド性を生成するWSモデルやスケールフリー性を生成するBAモデルのような機構が存在するならば」というような内容と考えるならばこの引用は概ね正しい。が、それはそれで「スモールワールド性を生成する機構が存在するならばスモールワールド性が存在する」というトートロジーを述べているに過ぎず、「数学的な必然」という言い回しにはやはり問題がある。それは数学的な必然ではなく文法的な必然である。

③つなぎかえは万能の特効薬ではない

東がソリューションとして提示する「つなぎかえ」について。
結論から言えば、第四章の終盤で東がソリューションとして提案する「再誤配の戦略」は少なくとも数学的に言えばあまり意味のある操作ではない。このアイデアはネットワークの生成モデルを援用した「神話」から生まれてきているのだが、その推論は概ね誤っている。
東自身も捏造した神話から現実の処方箋を取り出す論理展開が強引であることは自覚しており、「ネットワーク理論の論理的展開を、なかば強引に歴史的展開に置き換えて作った物語である」と気にしながら述べているが、要点はそこではない。仮に神話が実際の歴史的事実だったとしてもなお、神話から現実へのアナロジーは無効なのである。

実際のところ、俺は提示される神話自体には同意してもよいと思う。
散発的に作られていたクラスターが技術の発展に伴ってショートカットを得てスモールワールドネットワークとなり、資本の原理によってスケールフリーネットワークに行き着いたという描像にはそれなりに説得力がある(もし可能ならばそれを検証するのは恐らく数学ではなく社会学の仕事だろうが)。
そして、この神話モデルにおいて優先的選択が発生しないように押しとどめておけばスケールフリー性は生成しないというのも正しい。スケールフリー性を生成する操作を行わなければスケールフリー性が生まれないというのはほとんどトートロジーである。ただし一応注意すれば、これはつなぎかえの意義を積極的に主張するものではない。つなぎかえから優先的選択に移行するモデルにおいては、優先的選択を行わないということがつなぎかえを行うことと等価になってしまうというだけだ。

この留保を踏まえた上であれば、以下の神話に関する記述は概ね正しい。

僕が本書で提案する観光客、あるいは郵便的マルチチュードは、スモールワールドをスモールワールドたらしめた「つなぎかえ」あるいは誤配の操作を、スケールフリーの秩序に回収される手前で保持し続ける、抵抗の記憶の実践者になる。(p186)

問題はここから拡大解釈された以下の記述である。

だとすれば、ここでぼくたちは、グローバリズムへの抵抗の新たな場所を、(略)スモールワールドとスケールフリーを同時に生成する誤配の空間そのもののなかに位置づけることができるのではないだろうか。(p192)

二十一世紀の新たな抵抗は(略)誤配を演じ直すことを企てる。(p192)

つまり「再誤配の戦略」とは、神話において誤配(つなぎかえ)を行い続ければスケールフリー性が生じなかったという経験から、もう一度誤配をやり直せばスケールフリー性への抵抗になるのではないかという拡大解釈だが、これは二重の意味で誤っている。

まず第一に、先ほども注意した通り、神話においてつなぎかえを維持することでスケールフリー性が生まれなくなるのは「つなぎかえを行ったから」ではなく「優先的選択を行わなかったから」だからだ。たまたまこのモデルでは優先的選択を行わないこととつなぎかえを行うことがイコールになっているだけで、そもそも原因と結果が違う。

そして第二に、時間的な段階の違いがある。神話においてつなぎかえが劇的な効果を持ったのは、WSモデルが初期段階だったからである。つなぎかえはネットワークの平均距離が大きい状態においては極めて劇的に平均距離を減少させるが、その距離短縮効果は急速に漸減することが知られている。つまり効果的なのは最初だけで、既にスモールワールドであるネットワークで繰り返してもスモールワールド性への大局的な影響はほぼない。

このように操作の有効性がネットワークの状態に依存することは多く、操作そのものというよりは「その操作をいつどうやって行うのか」の方がネットワークの生成モデルにおいて本質的である。であるにも関わらず、つなぎかえという操作自体を数学的に意義深いものだと捉えてしまっているという点こそが、誤配をソリューションとすることの根本的な問題点であるように思われる。
つなぎかえ自体はシンプルな汎用操作に過ぎない。そもそもネットワークの操作など最初からリンクとノードの追加と削除で計2×2=4種類くらいしかなく、つなぎかえはそのうちリンクの削除と追加を行うだけだ。WSモデルが画期的だったのはつなぎかえを行ったことではなく、つなぎかえが劇的な効果をもたらす状況を提示したことだ。
実際、「つなぎかえでネットワークの性質を変える」と述べるだけでは何も言っていないに等しい。というのも、つなぎかえは任意の対象に対して任意の回数行うことで自由にネットワークを作り替えられるからだ(リンク数は保存されるが)。この意味では、理想的なつなぎかえがスケールフリー性を減じることがあるというのは事実ではある。ただし、それはチンパンジーシェイクスピアを書き上げるのを待っているのと大差がない。理論上は可能というのは当たり前で、厳密にどのような規則の下でつなぎかえを行えばスケールフリー性を減じられるのかを考えるところがスタート地点だ。
ちなみにBAモデルの発展として、ノードを除去したり老化の概念を組み込むことでスケールフリー性を失うことも含めた変化が起きるモデルは既に提案されており、つなぎかえについても適当な条件下でそうした性質の変化を起こすモデルを考案することは十分に考えられそうに思われる。

結局、つなぎかえを万能の特効薬だと妄信することは一度は追放したロマン主義の再雇用に他ならない。その残党と改めて決別し、数学の作法に従った具体的な手続きの中で泥臭くモデルを検証しない限り、つなぎかえが望む薬効を発揮することは永久にないだろう。

④ネットワーク(のクラス)と生成方法は一対一対応しない

これはわかった上で書かれていそうだし相対的に些細なポイントではあるが、一応神話の問題点をもう一つ指摘しておく。

一般的に言って、ある性質を持つネットワークを生成する方法は無数にある。ノードやリンクを足したり引いたりする操作を組み合わせて最終的に求めるネットワークが作れるならどう作ってもよいわけで、ネットワーク(のクラス)とその生成方法は一対一対応しない。
東はスモールワールドネットワークの生成方法はWSモデル、スケールフリーモデルの生成方法はBAモデルしか紹介しておらず、また、それらのみを用いてやや強引に哲学的な議論との接続を行っているが、実際には他のモデルも想定できる。スモールワールド性とスケールフリー性を併せ持つネットワークを生成するモデルもいくつかある(例えばHolme-Kimモデル、確率的な優先的選択)。
現時点での第一次近似としては誤りというほどではないが、生成にどのモデルを想定するかは「神話」の説得力にもダイレクトに関わるため論旨への影響がそこそこ大きい。ネットワーク理論に準拠した議論を進めるならば早晩きちんと詰めなければいけないポイントではある。

⑤東がやるべきことは?

やや批判的なことばかり書いてしまったが、東が二層構造を整合的にイメージできるようなモデルを求めるにあたって、一つのネットワークが一見すると相矛盾するような性質を併せ持てることに注目したのは素晴らしい着眼点だと思う。可能な限り明確な描像を求めて抽象的なイメージに終始してきたポストモダンを葬送しようとしている点も好ましく、彼が自負する通り、少なくともリゾームのような雑なイメージでの議論とは一線を画している。

ただし慧眼だったのはそこまででもある。彼自身も自覚しているように、やはり数学の議論には精彩を欠く。
まだ発展途上のアイデアに過ぎないことを差っ引くとしても、読んでいて不安になるのは、数学的主張を拡大解釈をする際に留保するポイントが少しズレているように思われることだ。東は読者への哲学的な説得力が失われるかどうかということばかりを気にしているが、数学的なアイデアを膨らませる際に気にすべきことはそこではない。批評が半ば露悪的に元の文脈を無視した読みを加えることはよくあるし、実際、他の章でもカントの思想やドストエフスキーの著作や家族概念は過剰に展開されて持論の糧になっているが、数学だけはそのノリで扱うべきではないのだ。

どんな提案を行うにせよ、数学において絶対に正しいのは解釈ではなく数式の方だ。よって、少しでも解釈を拡大したい場合は、必ず数式に戻らなければならない。例えば、ある数式的な分析Aから解釈Aが得られたとする。解釈Aを拡大解釈して、解釈Bが妥当であるように思われたとする。このとき次にやるのは解釈Bを分析Bとして数式に差し戻し、数式の世界でその妥当性を検証することだ。解釈Aと比べて解釈Bがどう思われるか気にすることではない。数学の表現を借用した文学をやるのではなく、真剣に数学的な裏付けが欲しいならば、拡大解釈を行った瞬間にまず心配すべきことは再モデリングと再検証が可能かどうかだ。

とはいえ、その作業は東の手にはとても負えないだろう(すぐ下で述べるように、東が数学に秀でているわけではないことは伝わってくる)。よって、数学的な誠実さを保ったままで二層構造をネットワークで説明するという慧眼を活かしきるためには、アイデアを数学の言葉でモデル化して分析する部分は数学者にアウトソーシングするしか道は残っていないように思われる。
言うまでもなくネットワーク理論を専門とする理系の人間は無数におり、彼らならば東がソリューションとして提示しようとした「どのようなつなぎかえがスケールフリー性を減じるか」という論点を定量的に解決できるだろうし、もうされているかもしれない。そうして得られた回答を哲学的イメージないし(非)政治的実践へと結び付けるのは数学者には出来ない仕事のはずだ。

きちんとした数学者の後ろ盾を得て、今度こそ真に数学を味方に付けた観光客の哲学の完成版を読むことを楽しみにしている。

数学的に怪しい記述について

致命的に本論に差し支えるほどではないが、少し引っかかった怪しい記述についてまとめておく。誤りというほどではない微妙な表現レベルのものも含む。

「それ(クラスター係数)は、あるネットワークにおいて、理論的に成立可能なクラスターのうち、実際にどれほどのクラスターが成立しているかを表す指標である」(p164)

微妙な表現。

素直に読むとまるでクラスター係数が「ネットワーク上で成立しているクラスターの数」を「ネットワーク上で成立するクラスターの最大数」で割って定義されるような気もしてしまうが、一般にはクラスター数とクラスター係数は対応しない。
確かにクラスター数が増えるとクラスター係数が大きくなる傾向はあるが、定義からただちに従うわけではないので、「実際にどれほどのクラスターが成立しているかを表す指標になる」くらいの表現に留めておいた方が適切ではある。
ただ、この直後の「数学的には、その任意の頂点について、それと接続するふたつの頂点がたがいに接続している確率の平均として定義される」という記述は厳密に正しい。

「三角形が高い密度で重なることで構成されている」(p164)

微妙な表現。
クラスター係数が大きいことは概ね三角形の個数が多いことに対応するが、「重なる」ことまでは要請しない。例えば全く重なっていない三角形が敷き詰められているようなネットワークでもクラスター係数は高くなる。「三角形が高い密度で集まる」くらいの方が適切ではある。

「それでは、なぜ人間社会は狭いのか。じつはこの特徴は、数学では長いあいだモデル化することができなかった」(p165)

前後の文脈込みでやや微妙な表現。
「小さい平均距離」自体はネットワーク科学で一番最初に検討されたERモデルですら勝手に現れる性質であり、モデル化自体は全く難しくない。あくまでも「大きなクラスター係数」との両立をモデル化するのが大変なだけである。

「乱数を生成してそれがある特定の数よりも大きかったならば~」(p169,★5脚注)

内容自体は正しいが、「確率pで」とだけ言えば済むところを乱数アルゴリズムで説明してしまうところに数学に対する不慣れさを感じる。これは「牛乳250ml」とだけ書けば済むところを「牛乳を計量カップの250mlの線に達するまで注ぎ……」と説明するようなもので、あまり本質的ではない冗長な説明。

「ここで『確率』『つなぎかえ』『近道』といった言葉には、じつはそれぞれ数学的に厳密な定義がある。」(p169)

これ自体は正しいし親切な注釈だが、実は数学的に厳密な定義があることを注意する対象に「確率」まで含んでいるのはどういうニュアンスなのか少し気になる。確率が数学的に厳密な定義を持たないと思っている読者もいると想定しているのだろうか?

「スモールワールドグラフやランダムグラフでは次数分布は必ず偏る」(p170~171)

この段落の記述はほとんど誤っている。恐らく東は以下の3種類の異なる「偏り」を混同している。

  1. それぞれのノードが持つ次数が同一ではないこと
    図3aのグラフは偏っておらず図3bや図3cのグラフが偏っていると述べられるときの偏りの意味。
    この意味で、つまり各ノードが持つ枝数が均等ではないことを指して「次数が一様に分布していない」と表現されているが、数学的な言い回しとしては完全な誤り。
    文脈にもよるが、少なくとも統計的な話題における「分布」は確実に確率分布を指す。「一様な分布」とはむしろあらゆる状態が完全にランダムに生成されるような分布を指してしまう(ちなみにランダムネットワークの次数分布は一様分布ではなくポアソン分布に従うことに注意)。どうしても分布という言葉で表現したければ「それぞれのノードが持つ次数が同一であるような点が特異点になっているクロネッカーデルタ関数型の分布」あたりが妥当。
  2. 確率変数の実現値が変動を含むこと
    「スモールワールドグラフやランダムグラフでは次数分布は必ず偏る」という記述は1の意味では解釈できない。というのも、1の意味においてランダムグラフは「必ず偏る」とまでは言い切れないからだ。ランダムグラフは理論上は一応あらゆるグラフを生成できるので、運が良ければ各ノードが持つ次数が同一であるようなネットワークを生成することも有り得る。
    この記述を真とできるように最大限好意的に解釈するならば、確率変数の実現値に振れ幅があることを指していると考えられる。この意味では、偏っていないグラフとはクロネッカーデルタ関数のように一通りの実現値しかない確率分布によって生成されるようなグラフを指すだろう。それと比べるとスモールワールドグラフやランダムグラフの次数分布は様々な実現値が裾のように広がっているため、その変動を含むという意味で実現値が偏るというのは一応は正しい。
    とはいえ、この意味で分布が偏ると表現することは通常ない。何故ならばこれは(相当に特異な関数を除けば)確率変数全般に対して言えることであり、統計的な話題である時点でほとんど自明だからだ。
  3. 確率分布の形状が偏っていること
    一般的に「スケールフリー・ネットワークが偏っている」と述べる場合はこの意味である。実現値ではなくその背後にある確率分布の形状が他の分布とは著しく異なるというニュアンスにおいて、確かにべき乗分布は偏っている。
    ただ、この意味でスモールワールドグラフやランダムグラフは次数分布が偏っているとは通常は表現されない。むしろスモールワールドグラフやランダムグラフは次数分布が典型的な値を持つという意味で「偏っていない」ために平等なネットワークである一方、スケールフリー・ネットワークの次数分布は典型的な値を持たないために「偏っている」ところにその真価がある(そのことは東が紹介している『新ネットワーク思考』でもバラバシが散々強調していたはずだが)。

恐らく東は3の意味でスケールフリー・ネットワークが偏っていると表現する文章を読んだのだが、確率分布の扱いに習熟していなかったために日常的な用法を混入させてしまい、1や2の意味での記述をしてしまったように思われる。

ワッツたちのモデルでは枝に方向性がなかったが、バラバシたちのモデルでは枝に方向性が生まれることになった。(p173)

ほとんど完全な誤り。
BAモデルにおける「優先的選択」はノードが方向を持つことまでは含意していない。有向ネットワークでも無向ネットワークでも使えるし、どちらかといえば無向ネットワークの方が基礎的である。そもそも成長における優先的選択とは新規参入ノードが結合するノードを選ぶ際の確率の指定でしかなく、そこに方向性を読み取る解釈はドデカい飛躍を含んでいる。
一応、インターネットは有向ネットワークでもあるため(無向ネットワークとして分析されることも多い)、インターネットに限って言えば優先的選択に伴ってノードが方向性を持つという解釈は必ずしも誤りではない。とはいえ、一般的なBAモデルにおいて優先的選択という概念にそのまま方向性の概念を紐づける議論には大きな問題がある。
なお、文学的な表現ないしは哲学的な含意という可能性もあるが、いずれにせよネットワークの議論で「方向性」と言えば確実に有向性を指すため、非常に混乱を招く表現であることには変わりがない。

「ネットワーク理論は、全体の次数分布にのみ関わり、頂点の固有性には関知しない」(p178)

やや微妙な表現。
各頂点に固有の適応度(強さみたいなもの)を割り振ったモデル自体は普通に存在するし研究もされている(ビアンコーニ・バラバシ・モデル)。
とはいえそれは応用における話であって、ネットワーク科学の基本理念としては色々な特徴を持つ対象の固有性を一旦取り去ってノードとして匿名化するのは確かである。また、適応度の議論にしてもそれぞれの固有性というよりは全体の適応度分布で考えるのが標準なので、誤りというほどではない。

「富の偏りは、一部の富めるものがつくるのではなく、ネットワークの参加者ひとりひとりの選択が自然に、しかも偶然に基づいてつくりだしていくのだ。それが、バラバシたちの発見の教えである。」(p178)

微妙な表現。
最後の一文さえなければ許容できるが、「バラバシたちの発見の教え」というのは明らかに言い過ぎ(東の拡大解釈に過ぎない記述で数学者の名前を出して権威付けを図っているような箇所は他にもいくつか散見される)。
というのも、BAモデルにおいて偶然性が作用するのは、完全にフラットな初期配置から始めた場合に最初にたまたま誰が抜け出すのが分からないという局面に限られるからだ。それは初期配置依存であり、厳密に言えばBAモデルは初期配置までは指定していない。
最初からある程度偏りのある状況からスタートすればむしろほとんど偶然の余地なく先行者利益で古参が膨らんでいく過程になるし、偶然性がBAモデルの本質であるかのような解釈には疑問が残る。

「二一世紀のネットワーク理論では、むしろ木と格子が対置されている。」(p180)

微妙な表現。
確かに増田直紀の書籍では一般向けにわかりやすくそのような対置がなされている節はあるが、「二一世紀のネットワーク理論では」という前置きは言い過ぎ。
どちらも極端な事例としてたまに引っ張り出されてくるメルクマールではあるが、現実のネットワークからは程遠いため、そもそもそこまで重要な理論対象ではない(理念的なモデルの一つくらい)。また、必ずしも性質的に対極にあるというわけでもなく、例えば次数分布に関してはむしろこの二つは似通ったモデルである。