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23/10/21 就活に苦しむインテリの学生に社会の真実を教える

お題箱124

671.以前ツイートされていた雑な格言シリーズの「面接では嘘を吐いてもよい」や「結果が全て」等の意味を詳しく教えて欲しいです。現在進行形で振り回されてます

このツイートですね。

いま無職なのでやや気が引けますが書きます(無職が語ることじゃねえだろと思ったので、念のため信頼できる社会人の友達に下読みしてもらって内容に問題ないことを確認しました)。

最初に書いておくと、僕は数百人規模の中小ITでしか働いたことがないので、価値観がその規模感に寄っています。仕事の感性は職や規模によってかなり違って、例えば同じ業種でも数十人規模のスタートアップと数万人規模の大手では全く変わります(その理由もこの記事も読み終えた頃にはうっすらわかります)。あと中途採用だと就活もスキルベースに変わるので、これは基本的に新卒だけの話です。

 

インテリ学生vs就活

最初に前置きっぽいことを書くと、ある種のインテリの学生、具体的には「哲学を嗜む」「メタ認知能力が高い」「言語運用能力に長じている」「高潔な倫理観を持つ」「人間性へのリスペクトがある」などの性質を持つインテリは、文理問わず就活でだいたい皆似たようなことを理不尽に思ったり、気持ち悪く感じたりする傾向があります。これは最近たまたまタイムラインに流れてきたツイートですが、例えばこういう感想は極めて典型的です。

インテリの強みが就活の要請と正面衝突しており、「インテリ故に世界や人生の複雑さを語る能力を持っているために単純化して語ることを嫌う」「インテリ故に人間性をリスペクトしているため人生を捻じ曲げて語ることを嫌う」「インテリ故に高潔な倫理観を持つために本心でない説明を嫌う」という事態は全く珍しくありません。

ここから一歩進んで「社会にはバカしかいないからバカ向けに振る舞わないといけない」という理解を形成するインテリの学生もよくいますが、それは非常に良くありません。社会はインテリの学生が思うほどバカでも不道徳でもないし、理不尽に思うことの95%には合理的な理由があって(マジで意味ないことも5%くらいある)、そうしなければ社会の幸福度が著しく下がることが数年働けば割と肌感覚でわかってきます。が、その辺をインテリ向けにちゃんと書く人があんまりいないので僕が書きます。

 

面接では本心ではなく「体(てい)」を聞いている

そもそも大前提として、面接で本心を聞くことはまずなくて、聞いているのは体裁だけです(以下、「体裁」「体」とは「周囲の環境を考慮したスタンス」くらいの意味です)。

言い換えると、あらゆる質問と回答の末尾には暗黙に「~という体です」という留保が付いています。例えば「あなたの強みは何ですか?」「自己研鑽が得意です」というやり取りは「あなたの強みは何という体ですか?」「自己研鑽が得意という体です」という意味になります。

ここで「体」ではなく「本当の強み」を聞かれていると勘違いした就活生が「政治的な批判能力に長けています」みたいな本当のことを言ってしまうと、「あなたの強みは政治的な批判能力に長けていることなのですね」とはならず、「いま政治的な批判能力に長けている体であることには何の意味があるんだろう?(何故この場で仕事と関係のないことについてのスタンスを表明したのだろう?)」というディスコミュニケーションが起きます。だから「そういう体であること」に意味がある形で答えないといけなくて、強みをちょっとマイルドにして「他の人が見逃している問題を発見できます」と答えると、「なるほど、他の人が見逃した問題を発見できるという体なのですね(仕事で役に立ちそうなスタンスで振る舞うのは妥当ですね)」とスムーズに理解できます。

「体」を聞かれている以上、もちろん本音は言わなくてもいいし、何なら(明らかな問題を生まない範囲で)嘘でも構いません。「あなたの強みは何ですか?」という質問に対して「正直、本心では自己研鑽が得意とはあまり思っていないが、これから自己研鑽が得意という体でやっていきたい」の意で「自己研鑽が得意です」と答えるのは嘘ではありません。その回答は自動的に「自己研鑽が得意という体です」という意味で解釈されるからです。

これが面接では嘘を吐いていいとされる理由です。本心ではなく体裁を聞いている留保が省略されているだけなので、表面上は嘘のように見える回答だとしても、適切な省略を補って嘘にならない場合は問題ありません。

 

「体」は「その場しのぎの建前」ではない

よって「本心ではない」という意味での嘘を吐くのはセーフですが、逆に「体」のレベルで嘘を吐くのは普通にギルティです(ここがややこしい!)。

まず「体」を「その場しのぎの建前」と誤解するのには大きな問題があり、「体」とはその場で繕うものではなく、むしろ外に向ける体裁であるが故に一貫していることが期待されます。つまり「一度表明した体を直接or間接に撤回する」、もう少し具体的に言うと「Aという体であると表明したにも関わらず、同時にAとは思えない体を見せる」という受け答えは面接では大減点になります。

例えば「自己研鑽が得意」という体でいくのであれば「学生時代に資格を取りまくった」みたいな、そういう体裁の強度を外向けに補強するエピソードが欲しいです。これもよく勘違いされていますが、エピソードなどで根拠を提示する目的は「(本心や真実ではないという意味での)嘘を吐いている可能性を払拭すること」ではなく、「外向けに張る体の強度を高めること」です。

面接において綺麗に話せて収まりのよい物語が歓迎される理由もこれです。求められているのは常に体なので、「こういう体であることについて十分な説得力を伴って外向きに開示できる」というストーリーは有効ですが、「本当にそう考えていることを包み隠さず立証する」という人生談は必要ありません(本当に考えている内容は聞いていないので)。

結局「本心でなくてもいいが、体は維持しろ」というのが本当の要請なのですが、この微妙な違いを捨象して「面接では話を盛ってもいい」とか「面接では嘘を吐いてもいい」などと雑に言語化されることで混乱が生じています。誠実さは社会でも重要だし、仕事で嘘を吐くやつは普通にクソ嫌われます。ただしそこで言う誠実さは「体」ベースであって「本心」ベースではないということが核心です。

 

「外向きの一貫性」という美徳

何故ここまで本心ではなく体を重視するのかと言うと、体が明確だと周りの人が仕事をしやすくなるからです。

世の中には色々な人がいて、大抵の会社では一クラス分では収まらないほどの人数と協働することになります。そのたびに全員にいちいちカウンセリングをして一人一人の本心を聞き出す時間はないので、「この人はこういう体です」という外向きの一貫性を開示してもらってそういうキャラクターとして扱うのが最も作業効率がよくなります。

逆に言うと、「こいつこういう体だと思ってたのに違くね?」ということになると、周りがどう接すればいいのかわからなくなって非常に困ります。面接で「体が一貫しない人」の評価が大きく下がるのは、将来的に周りから見てどういう体で扱っていい人かわからなくなり、作業のボトルネックになることが懸念されるからです。ちなみにインテリは主語が大きな話に慣れ過ぎているため、「周りが困る」と聞くと「そのような人間は許容されない」みたいな思想信条の話だと誤解しそうなので釘を刺しておきますが、ここで言う「周りが困る」というのは「誰かの残業時間が三十分伸びる」という意味です。

また「一貫性」とはインテリの世界では「明瞭な自我を持ち近代的な主体を確立している」みたいな文脈で「内面的な一貫性」が美徳とされやすいですが、社会的には「体が明確なので周りの人がどう接すればいいのかわかりやすく、無駄なコミュニケーションコストがかからない」という理由で「外向きの一貫性」が有用とされます。

つまり力点があるのは「他の人に向けた一貫性を保証すること」で、内向きの本心の一貫性は問題ではありません。実際、「本当に心から会社に貢献したいと思っているが、会社に貢献するか疑わしい体で振る舞う者」と「本心では会社に貢献したいとは全く思っていないが、とりあえず会社に貢献しそうな体で振る舞う者」を比べたとき、後者の方が優秀です。ずっとそういう体でさえいてくれるなら、周囲にとってはそれで何の問題もないからです。

また、本心ベースのやり取りに慣れているインテリは「自分が開示した体が本心であるかのように誤解されるのは嫌だな」と心配していることもありますが、それが外向きの一貫性に過ぎないことは面接官を含めて割と誰でもわかっています。実際、間柄によっては「一貫性が体でしかないこと」を明示しても許容されるケースもあって、例えば割と親しい上司とのキャリア面談とかだと「いや~まあ本当はそこまで興味ないんすけど、友達からのウケがめっちゃいいのでこの事業に興味がある体でキャリア積んでいきたいですね(笑)」「了解です(笑)」くらいのやり取りをすることも全然あります(飲み会はそういう「体」を一時的に解除する場として重要だったりもするのですが、これは職場によって本当に千差万別すぎるので深入りしません)。

少し脱線しますが、「『体が大事』ということは理屈ではわかるがピンとは来ない」という方は裁判傍聴に行ってみるとよいと思います。大抵の裁判には裁判長の説教パートというものがあって、裁判長と被告人が「スマホを盗むと被害者が困ると思いませんでしたか?」「思いました」「もう絶対に同じことをしないと言えますか?」「言えます」というようなやり取りをします。この儀式を「本心では反省してなくても口頭なら何とでも言えるのに意味なくない?」と思うかもしれませんが、「実際には本心ではなく体を制御しようとしているのだ」と考えるとスッと腑に落ちます。「本心では反省していないが、外向きには反省した体で振る舞う前科者」と「本心では反省しているが、外向きには反省していない体で振る舞う前科者」では、社会への実害の多寡という観点からは明確に前者の方がいいのであって、外向きに反省のポーズを徹底させる口頭の詰問からはそういう圧力を肌で感じることができます。

 

「本心vs嘘」というパラダイムを捨てろ

ここまで「体」という概念の実践的重要性を説明してきましたが、「そうは言っても『体を通す』というのが『本心に嘘を吐く』ということであるのは揺らがないのであって、俺は嘘を吐きたくない!」と食い下がる魂の高潔なインテリが一定数いることは重々承知しています。「たとえどんな内容でどんな理由があろうが嘘を吐くのはそれ自体で魂が汚れる」という古代ギリシャばりに強固な徳の感覚を持っているインテリが多いことを俺は良く知っています。

ここで「人生には嘘を吐かないといけないこともある」という言い方でインテリの説得を試みる人が一定数いますが、僕はそれはかなり微妙だと思っています。この見方は「嘘は悪である」という前提は捨てずにインテリに「悪人になる選択肢を持て」と言っているだけで、「インテリの魂が汚れる」という根本的な問題は解決していないからです。

なので別の言い方をすることにして、ここは「本心vs嘘」という二項対立そのものを捨てることを考えてみてください。「本心vs嘘」というのは教育機関やそこから接続している研究組織でのみ通用するごくごくローカルなパラダイムしかありません。「その発言が本心か嘘か」という変数には「その発言がバナナに関係するかそうでないか」と同じくらいの価値しかない、無数にある変数の一つでしかないという風に考え方を改めてください。この小さな変数にこだわることで得られるのはごくローカルな自尊心だけです。

そして今放棄した「本心vs嘘」の代わりに、「体の一貫性vs体の不整合」というパラダイムを用いることを検討してください。つまり発言をするときに「この発言は本心か嘘か」を気にするのではなく、「この発言は体が一貫しているか否か」で考えることを試してください。体裁さえ維持していれば誰も困らず物事が円滑に進むのですから、そちらの方が有益で有り得る場面があるという程度のことには納得してもらえるはずです。そして発言の審級として用いる公準自体を変えてしまえば、魂が汚れることはありません。

インテリに勇気を与えるため、各方面から雑語りと怒られそうなリスクを負ってアナロジーを一つあげておきます。今大流行しているAI技術は「本心vs嘘」の代わりに「体の一貫性vs体の不整合」を重視したからこそ現在の力を得たという見方もできます。AIはかつては「真である命題を論理的に積み上げて出力を得る」という真偽のロジックベースで推論を行っていたのですが、そのやり方には限界があったため、「(本当かどうかは知らないが)それっぽく一貫した繋がりの文章を出力する」という体裁を整える統計ベースの考え方に移行したことで世界を変革しました。

 

「不問に付す」という優しさ

「そうはいっても、体だけを話すことで本心が蔑ろにされる表面的なコミュニケーションは人間的ではない」とまだ食い下がるインテリがいることも僕はよく知っています。

「そういう人間的なコミュニケーションは恋人とか友達とやれ、会社でやるな」と一蹴されることが多く、それはかなり真実ではあります。が、もうちょっとポジティブな見方をすることもできて、別に本心をオミットした会社が全て冷たい機械のような世界というわけでもありません。体の世界には体の世界なりの優しさがあって、僕はそちらの方が真実に近いと思っています。

確かに、体にこだわることによって本心の議論が放置されることは事実です。しかしそれは必ずしも「本心を蔑ろにする」というわけでもなく、むしろ「本心を不問に付す」ことで他人の内面を保存して尊重する人道的な振る舞いでもあります。つまり「本心でなくても体さえ一貫していればよい」というのは、「体さえ整っていれば本心で何を考えていてもよい」ということでもあります。

「体」が支配的な世界で問題になるのは「体の良し悪し」という技巧だけですから、全人格的な肯定や否定を受けることはありません。体裁ベースであることによって思想の自由が守られている、むしろ常に本心を求めて他人を断罪することの方が一つの侵害的な暴力であるという見方もできます(ちなみにこの辺りは岡田索雲『ようきなやつら』に所収の『忍耐サトリくん』という短編漫画で極めて秀逸に描かれているので暇だったら読んでみてください)。

「結果が全て」みたいな話もそうで、確かに仕事において見られるのは外向けに開示される部分だけなので結果以外は捨象される傾向がありますが、それは「結果以外は蔑ろにされる」という意味でもなく、「結果以外は不問に付す」というある種の優しさが含まれている場合がけっこうあります。

新卒向けにものすごくプリミティブな例を出すと、例えばやむを得ない事情でMTGに遅刻した新卒が「家の目覚ましが壊れててそれは弟が悪戯をして~」みたいな結果に至る経緯を延々と話し出すことがあって、それを上司が「いや遅刻した結果が全てだから」ってスパッと言って新卒がガーンとショックを受けるみたいな光景はどこにでもあります。でもそれは必ずしも「結果が遅刻なんだからお前はゴミという結論は動かない!」と言っているわけでなくて(注:そう言ってる上司もけっこういますが!)、「結果と関係ない過程は不問に付すからそこで責めたりはしないし、そんな熱心に説明しなくてもやむを得ない事情があったんだと勝手に解釈するよ」っていう優しさによる打ち切りであることがよくあります。

自らの人格的な正しさを証明したいあまりに業務の結果とは関係ない部分で無駄な誠実さを発揮するのは新卒がやりがちなムーブですが、これも面接で「体」とは別に「本当の強み」を話し出すムーブと地続きです(その真相は別に誰も聞いてない)。

 

社会はバカでも理不尽でもない、あとは社会人の友達に聞け

ちょっと長くなったのでまとめっぽいことを書いておくと、社会には社会のロジックがあって、それはインテリのロジックと衝突することも多いけれど、それにはそれなりの合理性があって、優しさとか寛容さも割と含まれていたりします。理不尽に直面したら「社会にはバカしかいないから」みたいな思考放棄に逃げ込まず、どこに合理性があるのかを考えてみてください。

これは演習として残しておきますが、他にも例えばネットではクソバカにされている「『了解』は失礼なので『承知』と書く」みたいなしょうもないビジネスマナーにも、実際にはかなり合理的な意味がめちゃめちゃあります。ざっくり言うと「どうでもいい作法を本質と勘違いした毛づくろい」という認識は勘違いで、むしろ「どうでもいい非本質的な作業を徹底的に省いて効率化するための工夫」です(ヒント)。

あと最後に、就活周りの言説ってネットだと社会不適合者の声がデカくて「うんうん、就活ってクソだよね」みたいな反応しか得られないがちなので、身の周りにいる社会人の友達を呼び出して聞くのが一番いいです。ゲーム繋がりでもカード繋がりでもいいので、「いやそれにはこういう意味があって」みたいなことをちゃんと教えてくれる信頼できる社会人の友達を捕まえてください。