LWのサイゼリヤ

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24/3/3 ボーはおそれている チンポマン鬼つええ!

ボーはおそれている

だいぶ面白かった!

『ミッドサマー』も『ジョーカー』もまあまあ……という感じだったので期待は中の上くらいだったが、先発作品に比べるとエンタメ要素とスリラー要素のバランスがよくて最初から最後まで飽きない。

 

街の治安悪すぎて草

まず病的に心配性な主人公の世界認識が過剰に提示されるプロローグで引き込まれる。薬を服用したあとに水を飲まなかったくらいで死の恐怖を感じ、自宅に施錠していなかったくらいで部屋がならず者たちのパーティー会場になって全てが崩壊する、僅かな不安が悉く現実化していく様子はコメディ風味すらある不条理ムービーだ。

真昼間から全裸の包丁男がうろつく治安が悪すぎる世界は、現実世界そのものではなく彼の脆い精神世界を投影してもいるのだろう。実際、因果関係が破綻しているシーンは色々なところに大なり小なり挿入されている。例えば監視カメラの画面をリモコンで送ると未来が見えてしまったり、少女がペンキで乱暴に塗った壁には何故かボーの名前が描かれていたり、ここが尋常な世界ではないことの示唆には事欠かない。

そんな描写ばかりだが、しかし全編を通してどこが妄想でどこが現実かを知ることに大した意味もないだろう。結局、主人公からは世界がそう見えているというだけだ。独立して内面を持つキャラクターは主人公以外には一人も登場していないし、誰も彼もが主人公から見た限りでの戯画に過ぎない。そもそもタイトルからして『ボーはおそれている;BEAU IS AFRAID』だし、とにかく主人公からはそう見えていた(おそれていた)ことが一貫している。

主人公の内面を世界に投影しているからこそ、音声も込みで画作りが巧みで記憶に残るシーンが多い。例えば荒れ果てた部屋の中でミキサーだけが回り続けていたり、母の死を知って呆然とするボーの足元にまで風呂の水が溢れてきたりするシーンは印象的だ。凍り付いたように動かない世界が決して平穏なものではなく、隅っこで何か一つ二つ滲み出る液体のように不気味な影が蠢いている構図は確かに不安の原形質である。

 

エッチなのは駄目 死刑

序盤から節々で垣間見えていた破綻の気配は、軍人に追われて逃げ込んだ森で長尺の劇を見るあたりからいよいよ激しくなっていく。主人公が自らの内面に没入していくことはいよいよ自らのルーツを辿る旅が始まることでもあり、劇中劇において「自分に子供がいたかもしれない」という未来の可能性を見ることから遡及的にルーツへの疑念が始まるストーリーテリングは巧みだ。

というのも、主人公が神経症を患ったそもそもの原因は母親から「家系の男は心臓が弱くてセックスすると死ぬ」「父親もセックスしたときに死んでいる」と言われたことにある。男性器から快楽を得ることに対して死という根源的なペナルティを結び付けることで、その力を失わせる変則的な去勢不安が母親から与えられていると言ってもいい。いつもマリア像を持ち歩くマザコンの主人公は言いつけを信じ、幼少期に出会った女の子ともセックスしないままに別れてしまい、童貞のままで自信も持てずに罪悪感だけを強く感じるパーソナリティが培われていった経緯がある。

しかし劇中劇という妄想の中で(架空の)子供たちから「子供を作ったにも関わらず何故父親=主人公は死んでいないのか」と投げかけられたことで、「子供を作ると死ぬはずなのにどうして自分は生きているのか」という疑念の種が芽を生やす。これが彼の精神世界であることを踏まえてもっと正確に言うならば、「何故自分は射精すると死ぬと理解しているにも関わらず不条理にも子供と話す未来を空想できるのか」、更には「何故自分は母親を信じているにも関わらず母親の言いつけを棄却しなければ不可能な未来を空想するのか」。そこで父親らしき人物もちょうどよく登場する、いや、これも正確に言えば、父親が存在する=母親が嘘を吐いている可能性をはっきりと幻視したことになる。

そして疑念は解けぬまま実家に辿り着いたところで、かつてセックスしないまま別れた少女とも再会する。そこで強引なエスコートによって逆レイプ気味にセックスに突入し、遂にイっても死なないことを発見する! その生存が証明したのは母親がかけた呪いは完全な嘘であること、そして根本的な原因をクリアした主人公は病的な不安から解放されて健全な人生を歩めるようになるということ。もっとも、それは映画がここで終わっていればの話だが……

直後、このセックスすらも母親に仕組まれていたことが発覚する。このあたりからストーリーはトゥルーマンショーじみた内省的な舞台裏へと急転していき、いよいよどこまでも逃れられない罪悪感が前景化してくる。母親が語ることによれば、つまり主人公が母親に対して感じていることによれば、母親が底抜けに愛情深かったが故に却ってそれに応じきれなかったことによって根本的な挫折と罪の意識が生じているらしい。母親も所詮は他人のバリエーションであるということをついぞ理解できなかったがために他人との適切な距離感を得られず、魚に餌をやるように乞食にも施すべきだったという過剰な良心の呵責から逃れられない。

 

母は強し そしてエロし

ポップ精神分析じみたことを言えば、これは現代式の変則的なエディプスコンプレックスのように思われる。本来のエディプスコンプレックスにおいては子供は母親を性的に欲することを父親から禁止されて去勢を被ることになるが、しかし現代において父親は超自我として振る舞えるほど強権的な存在でもない。「友達親子」という流行語も死語になって久しいが、わざわざそんな表現をしなくなったのは親子関係が昭和の上下関係へと逆戻りしたからではなく、むしろ友達気分が当たり前になってしまったからだろう。

だからいまどき父親は去勢を施せないとして、しかしかといっていよいよ子供は父親になり替わって母親とセックスできるわけでもないのだ(母親の側にそのインセンティブがないから)。今度は母親が前もって父親を殺害しておくことによって子供から父性を得る機会を奪い去り、結局のところは子供を去勢してしまう。男根という性的な経路を失った子供はただひたすらに母親と同一化しようと試みるが、所詮は他人である母親に完全に一致することなどできようはずもなく、あとは母親が放つ無限の愛情に応えられないという罪悪感が空回るばかりなのだ。

補足499:ボーが少なくとも潜在的には母親に性的な価値を認めていたことは同級生に母の下着を提供したエピソードではっきり示されている。

特に屋根裏に潜む父親が謎の最強チンポマン(Tier S)と化して軍人(Tier A)を瞬殺したシーンは、母親が再構成した世界観における父親の立ち位置として非常にわかりやすい。圧倒的な暴力性能を誇るまさしく男根であるような旧世代の父親をこそ母親は前もって封印しておいたのであり、その封印によって母親が去勢した子供に唯一許される振る舞いはといえば、母親と一緒に恐れおののくことだけなのである。この母親の支配下で再編されたニューオーダーにおいても、子供がチンポマンになり替わることは依然として禁忌となる。

補足500:ところでこの記事の冒頭に貼ったポスター画像で正面から捉えたボーの顔が男性器のように見えるのは俺だけだろうか?

こうして見れば、ボー=ホアキンがオッサンであることに反し、意外にもこの映画で描かれた母親-男児関係は実にZ世代的というか、頑固おやじとしての父親が失われた時代においてはむしろ典型的なものであるようにも思われる。最近も就活で親に確認を取るオヤカクという言葉がニュースで紹介されていたが、セックスすら母親に支配されたボーの姿はそれに近しいものがある。

 

脳外科と泌尿器科に行こう(提案)

ところで、オープニングで謎に挿入されていた出産シーンは、罪悪感から抜けられなかった絶望的なエンディングに対応する明確な希望のアンサーであったのかもしれない。というのも、主人公が頭を打ったことで病的な人生が始まったのであれば、母との葛藤とかチンポマンがどうこうとかを一切合切抜きにして「主人公の頭がおかしいのは出生時に頭を打ったから」で全て済むからだ。母は真っ当に子供を心配していたし、不幸な事故でそうなっただけ。だとすれば、ボーのおそれは然るべき外科的な処置を受ければ完治する程度の話でしかないのかもしれない。

この精神的な混迷と物理的な外傷との対応については、中盤で外科医が主人公に対して「精巣の病気でキンタマが腫れすぎている」と謎のコメントをしていたことも思い出させる。これもやはりアクロバティックな仮説ではあるが、もし仮にボーが父親にチンポマンの幻影を見たりセックスを恐れたりする性器周りの不安を抱く本当の理由が「キンタマが腫れているから」というだけのことなのだとしたら、それに生来の不安症の気質や過去の記憶が結び付いて去勢不安を捏造していたのだとしたら。幽霊の正体見たり枯れ尾花と言うように、不安というのは意外とそんな程度だったりもするものだ。