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21/10/16 ウマ娘 プリティーダービー Season2の感想 ライスシャワーは何故いじめられたのか

ウマ娘 プリティーダービー Season2の感想

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2期は明確に1期より良かった。ライスシャワー周りのエピソードが良すぎた。それに尽きる。
2期7・8話のライスシャワーだけがウマ娘というコンテンツの裏面を描き、ストーリー全体にかかるチープさを正当化できている。俺にとってはライスシャワーの存在だけがアニメ版ウマ娘の評価を担保していると言っても過言ではない。

史実がチープさを正当化する

元々ウマ娘アニメはストーリーのメインであるはずのレース周りのドラマがかなり貧弱だ。
どのエピソードにおいても最終目標はレースの勝利しかなく、乗り越えるべき障害は骨折か故障しかなく、達成はリハビリとトレーニングを経ての復帰試合での勝利しかない。周囲の人間関係に多少のバリエーションは有りつつも、適切な解像度で捉えれば全く同じストーリーラインが多用されていることは端的に事実だ(サイレンススズカメジロマックイーントウカイテイオー×n……)。

しかしウマ娘に限っては、お話が単調だからといってただちにコンテンツが陳腐ということにはならない仕掛けがある。「いやでもこれ史実だから」という最強の弁解によって安い話の連打を正当化できるのだ。
つまり「さすがにトウカイテイオー故障しすぎじゃね」という無粋なアニメオタクに対しては、「トウカイテイオーが度重なる故障に見舞われたのは史実、現実にもそうだった」という反論ができる。それによって、かつて馬の方のトウカイテイオーが現実でそのような苦難を被ったことが(大抵の人にとっては仮想的に)想起され、ストーリーの完成度の話が現実における辛苦の話にすり替えられる。そうなると無粋なオタクも「一見すると単調なストーリーだが、実際にこういう出来事があって大変だったのだなあ……」としみじみしてしまい、美少女の方のトウカイテイオーの頑張りに感動してしまうという仕組みがあるわけだ。

擬人化ものや歴史人物ものが流行する昨今、現実世界の史実に立脚したキャラクターが登場すること自体は大して珍しくはないが、大抵はキャラクターのちょっとした性格や言動の一部に史実からエピソードが反映される程度に留まっている。アニメで描かれるストーリー自体の全体が史実をなぞっているというのはそれなりに珍しいアプローチの部類に入る(もちろん比較的稀というだけで、ウマ娘が唯一の例だと言っているわけではない)。

補足393:このアプローチが有効かどうかは、「キャラクターが人物をモチーフにしているかどうか」がとりあえず第一の分岐点になりそうだ。人物モチーフのキャラクターを史実通りに動かした場合、それは単に美形キャラクターで歴史教科書を再演するだけになってしまい、あまり面白そうな感じはしない。

その点、ウマ娘がストーリーをフリーライドさせる史実の元に競馬という題材を選んだことは慧眼というほかない。もともと競馬においてはファンは劇的なドラマを重視する傾向にあり当事者たちにとっては感動的なエピソードが色々あること、そして(競馬ファン以外は競馬史にあまり詳しくないので)それに美少女のガワを被せれば比較的新鮮なコンテンツとして提供できることを見抜いた企画者が有能すぎる。

このあたりで一応誤解を受けないように言っておきたいのは、俺はいま「現実における感傷を持ち込むことで質の低いストーリーを量産する悪質な手口を用いている」などとウマ娘を糾弾したいわけではないということだ。別にウマ娘は「全く新しいストーリーの数々をお見せしますよ」などと予告していたわけではないのだし、魅力の多くをストーリーではなくキャラクターに振っている美少女コンテンツとしては、ストーリーが単調であることは大きな問題ではない。このレベルで同じ話を無限に擦っているコンテンツは他にもいくらでもあるし、むしろ史実というエクスキューズを用意していた分だけ優れたアプローチと言ってもよい。

補足394:俺は今「物語の類型がたかだか有限個しかないことはプロップを引かずとも明らか、全く新しい物語を求めるよりは既知の物語をどう変奏するかという小手先の工夫の方がむしろ本質だ」みたいなことを一瞬書きかけたが、それはちょっと弁が立ちすぎているというか、本当は思っていないことを何となく手なりで書いているだけだなと思ったのでやめた。

史実は人が作るもの

俺がいま語りたいのは、ウマ娘のストーリーの背後で強力な後ろ盾となっている史実という制度についてである。

史実とはさしあたり現実に起きた出来事を因果的な連鎖によって結び付けたストーリーのことである。しかし一般に史実として想定される因果の連鎖は、科学的に厳密な意味での因果の連鎖とは水準が全く異なっていることに注意されたい。例えば「広島への原爆投下によって日本が降伏した」という史実的因果関係を、「水素分子二つと酸素分子一つが結合して水になった」という科学的因果関係と同一視することはできない。

何故ならば、史実とは現実に起きた出来事の系列をフラットに並べたものではなく、誰かが意図をもって構築するものからだ。史実の構成には必ず誰かの関心が作用しており、それ故に史実はそれを構築する主体を必要とする。
またしても誤解されそうなので慎重に弁解しておくと、ここで俺は「歴史とは本質的にアジテーションなのだ」などと主張したいのではない。政治的な云々を抜きにしても、史実は原理的に誰かがその手で構成する人工物以外では有り得ないのだ。少し言い換えると、観測者のいない世界に出来事の時系列は発生するが、史実は絶対に発生しない。史実に残すべき事態とそうではない事態の見分けが付かないからだ。
例えば「恐竜が絶滅した」というイベントが史実として認識されているのは、恐竜の絶滅に関心を持っている誰かがその出来事を無限の時系列の中から拾い出したからだ。世界に「恐竜の絶滅など屁が綺麗に出たのと同じくらいどうでもいいことだ」という価値観の人しかいなければその史実は構築されない。

補足395:本筋とそこまで関係ない割には長いので補足に回すが、現実における史実的因果関係と実験室における科学的因果関係が異なる理由を二つ挙げておこう。
一つには、単に現実の出来事は複雑すぎることがある。「誰かが何かを喋ったからそれが起きた」という単純な史実でさえ、科学的に厳密な意味で言えば、口を開いたから周囲の空気中の分子が移動して云々というものまで含まれてくる。他にも「誰かが会話を盗み聞きして得たアイデアが数年後に芽吹いた」とか、「本人も気付かないうちに身体がぶつかったことが後の因縁の一つになっていた」とかいうことは有り得るし、実際あるだろう。そういうもの全てを完全に拾い上げて正確な因果関係を構成することはできない(ちなみに「些末な出来事は取り上げる意味が無い」という反論はナンセンスだ。「何が些末な出来事か」を決定するのが史実だからである)。そうやって無数に起きていた事象から史実に編入する事象を拾い出すこと自体に恣意性が伴う。
もう一つには、史実に関与する事象は大抵が一回性の出来事であるために厳密な因果関係を立証することが不可能だということがある。ここで言う「厳密な因果関係」とは、形式的には「もしAが起きなかったのであればBは起きなかったであろう」の反実仮想のことだ。「広島への原爆投下によって日本が降伏した」という因果関係を立証したいのであれば、「広島へ原爆が投下されなければ日本は降伏しなかった」を示す必要がある(もしそうでなければ、日本の降伏は原爆投下とは無関係に生じていたことになる)。だが、何度でも実験を行える実験室とは違って、現実には「広島に原爆が投下されなかった日本」など存在しないため、それを示すことは不可能である。

「一定の関心の下で人為的に構築される」という史実の性質は、史実が娯楽として消費される競馬のような現場では顕著に際立ってくる。競馬においても「可能な限り面白く劇的な物語としてレースを捉えたい」という観客たちの欲求があって初めて、トウカイテイオーが故障して復帰して故障して復帰して云々という史実の構築が起こってくる。

よって、ウマ娘のストーリーが史実をなぞっているだけで感動的なものとして受容されていくことは二重の意味でむしろ必然的である。すなわち、一つには単純に多くの人々が娯楽のために構築してきた競馬史はそれ故に娯楽としての完成度が最初から高いこと。もう一つにはアニメにおいて競馬ファンが作り上げた史実を再演することはそれ自体が再構築として史実をより強固に承認していくこと。競馬がもともと史実を娯楽として消費していることを踏まえて、アニメ版ウマ娘はそこに乗っかる形でコンテンツを成立させたわけだ。

史実を妨害した罪

さて、現実と史実の順序について考えてみると、ふつうは現実は史実に先んじるし、史実は現実に遅れる。つまり現実に起きた事象を誰かが関心に基づいて適切に加工することで、事後的に史実が生まれる。
当たり前のことだが、トウカイテイオーが現実に故障したからトウカイテイオーの故障という史実が残ったのであって、トウカイテイオーが故障したという史実があったからトウカイテイオーが現実に故障したのではない。

だが、常に現実が史実の手綱を握っているとは限らない。ときには暴走した史実が現実から主導権を奪い取り、現実の方が史実に隷属する異常事態が発生する。これこそがウマ娘アニメで競馬ファンライスシャワーにやたら厳しかった元凶であり、ライスシャワーが聖域である史実の侵犯という重罪を犯してしまった所以でもある。

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ライスシャワー菊花賞に出走する時点で期待されていた「ミホノブルボンの三冠」とは、いわば「成立前に先行して公認された史実」である。本来であれば「ミホノブルボン菊花賞優勝」という現実が発生してから「ミホノブルボンの三冠」という史実が残るのだが、史実という娯楽に忠実な競馬ファンはその順序を逆転させてしまったのだ。
それは史実が一定の関心の下で人為的に構築されることを考えればむしろ自然なことではある。劇的な史実を求めてやまない競馬ファンにとって、「ミホノブルボンの三冠」というあまりにも完成度の高い史実は魅力的すぎた。この史実を作るために必要な現実はもちろん「ミホノブルボン菊花賞優勝」であり、それを用いて完璧な史実を完成させるのが彼らの関心である。よって、ライスシャワーがそれを阻止したことは史実成立の妨害に相当する。その罪は史実を愛する競馬ファンにとってあまりにも重い。

よって、7・8話でやたらライスシャワーに厳しい世界だったのは、突然皆がライスシャワーにだけ意地悪になったわけではないのだ。競馬ファンの態度はずっと一貫しており、娯楽として史実を求めているという態度の裏表に過ぎないのである。史実には現実を事後的に編纂するという表面と、現実に先立って期待されるという裏面がある。表面の史実を利用した娯楽として競馬が営まれてきた一方で、裏面の史実を侵犯したライスシャワーが激しいバッシングを受けるのも当然と言える。

ライスシャワーが一番かわいそうだったシーンであるところの冷え冷えウィニングライブは実に象徴的だ。
何度も言うが、史実とは歴史の当事者というよりは第三者が事後的に構築していくものであって、時系列を観測して編纂する外野が必須なのだ。ウィニングライブとはレースの勝敗という事実を史実の編纂者である観客に明示する機会であり、史実が構築される舞台そのものと言っても過言ではない。だからこそ、期待されていた史実を破壊してしまったライスシャワーはウィニングライブで観客から完全に拒絶されるのだ。

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ちなみにウマ娘がアイドル要素を捻じ込んできた合理性もここにある。史実同様、アイドルという制度もアイドル本人だけでは機能しない。アイドルを見てくれる観客がいて初めてアイドルはアイドル足り得るのであり、いずれも第三者を必要とする点で一致している。ウマ娘とは競馬史を構成するイベントの当事者であると共に歌って踊ってみせるアイドルでもあり、二重の意味で観客を求めている。この二つを綺麗に回収するウィニングライブは極めて優れた舞台装置と言える。

補足396:もっとも、最終的にはライスシャワーの勝利ですらもこうしてウマ娘のアニメとして消費されるように史実として残った。この事件がいわば「史実的ではなかったという史実」として回収されていくという捻れた構造がある。

まとめよう。

競馬においては一定の関心の下で人為的に構築される史実という制度が強力に作用しており、ウマ娘というコンテンツ自体がそれに立脚することで比較的チープなストーリーが正当化されむしろ感動的なものとして消費されてきた。しかしその一方、アニメ内では逆向きに作用した史実の成立を妨害したライスシャワーがやたら厳しく当たられる様子が描かれた。
競馬における史実という力学の二面性が認識され、コンテンツ自体がその表面を利用しつつもライスシャワーという裏面を妥協せずに描き切ったこと、最初から最後まで一貫してライスシャワーには厳しい世界を崩さなかったことは高い評価に値する。

21/10/3 お題箱回89:個人で作品発注できる良い時代etc

お題箱89

334.LWさんって音声作品を作りたいと思ったことはありますか?

無くは無いですが、モチベーションはそこまで高くないです。自分が作りたいであろう内容とそう遠くない同人音声作品がそこそこリリースされているので、手間と差し引きでわざわざ自分で作るほどでもない感じです。一般性癖の勝利です。

ちなみにここで言う「自分で作る」とはもちろん自分で声をあてるわけではなく声をあててくれる女性声優を見つけて仕事を依頼することを指しているわけですが、そういうムーブをとりあえず検討できる程度には発注が安価かつ簡単になったのはとても良い時代だなと思います。
ネット文化の発展による制作&発表環境の普及によってプロとアマの垣根が崩れた~みたいな話はボカロが勃興したくらいから散々言われてきていますが、それに伴って発注側のハードルもどんどん下がっています。僕を含めて自分自身でイラストを描いたり声をあてたりしない大抵のオタクにとっても、クリエイターの裾野が広がったことで礼儀とお金さえあれば個人依頼でコンテンツを作ってもらえるようになった恩恵は非常に大きいですよね。

 

335.人生の大きな目標がなんにもなくなってしまったので目先の楽しみだけを頼りに生きているのですが、『ゲーミング自殺、16連射ハルマゲドン』は本当に楽しみです。応援しています。(ちなみに、完全自殺マニュアルを読んでおいたほうが楽しめますか?)

ありがとうございます。僕も人生の大きな目標は無く目先の楽しみで生きる派です。今年度中くらいには投稿したい『ゲーマゲ』をよろしくお願いします。

完全自殺マニュアル』を読んでおく必要は特にないです(しかし割とすぐ読めて面白いのでオススメの本です)。すめうじもそうですが、美少女萌え娯楽ラノベにつき事前知識が無いとわからない衒学的な文章はあまり書かないように心がけています。

 

336.爆アド.comメンバーとは仲良いんですか(LWさんが遊戯王やってた時期的に同期?)

昔は仲が良かったですが、いつからか相互リムーブとなり完全に終わってしまいました。
別になんかエピソードがあるわけでもなく、何となくリムブロされて終了という感じです。年齢的にもプレイ時期的にも重なっていたので悲しいですが、知り合いや知り合いの知り合いにブロックされていることは割とよくあります。

LWのサイゼリヤは爆アド.comを応援しています。チャンネル登録はこちらから→

 

337.サイゼミに入りたいんですけど、その場合の要件とかってあったりします…?

特にないです。「門戸は開けておいてやべえやつが来たらキック」みたいな方針なのでリプライかDMをくれればdiscordに招待します。
ちなみに今は緊急事態宣言も明けたので次回サイゼミをやってもいいのですが、最近僕が数学書ばかり読んでいるため扱うコンテンツがあまりなくどうしようかなみたいな状態です。

 

338.映画版少女歌劇スタァライトを見られたようですが、アニメ視聴時点からの考えに違いはありますでしょうか

saize-lw.hatenablog.com

書きました!

アニメ放送版より大きく評価が上がり、「まあ面白かったコンテンツ」から一気に「人生に残るコンテンツ」に躍り出ています。主題的にもアニメ放送版は劇場版の布石に過ぎず、劇場版まで含めて真のコンテンツとして完成したという認識です。放送版が微妙で消化不良だった人ほど面白いと思います。

 

339.LWさんって今まで格ゲーの経験はあったんですか?
僕はブリジットで毎日シコってるのでブリジットが来たらGGSTで初めて格ゲーやってみようかと思ってます

10年前くらいにGGAC+をちょっとやっていました。
RAPまで買って自宅でちょいちょい遊んでいたんですが、当時はオンライン対戦もなかったためブリジットの6P始動対空エリアルとかソルのワインダーループが出来るようになったあたりでやることもなくなってやめました。周りにGGACをやっている人が特に誰もいなかったのが最大の敗因で、そもそも中高生の段階で周りで誰もやってない対戦ゲームを一人で本腰入れて始めようとするあたりに当時からソロプレイ体質を感じます。

僕もブリジットが一番好きなので当初は「DLCでブリジット来たらやります」と言っていました。が、ラムレザルのカルヴァドスが萌えというだけの理由で前倒しで購入しました(4:24~)。

youtu.be

今では周りは全員ストVをやっていますが、今のところ転向するつもりは全くありません。萌え豚なので女の子が可愛いことは最低条件である一方、アルカナハートとかMBAACCは萌えが露骨すぎて嫌という微妙なプライドがあって、今も昔もギルティギアだけが萌えすぎない萌えというギリギリのライン取りに成功しています。

 

340.4月消費コンテンツに書かれているトップをねらえ!について短くても良いので感想を読みたいです。

うーん、正直あまり思うところが無かったです。マトリックスジュラシックパーク然り、当時としてはテーマとモチーフが優れていたがそれ故に模倣されるのも早いパイオニア系の作品という印象でした。ちなみに僕はどちらかと言うと2の方が好きですが、チコのキャラデザが良いのとノノの「なぜならば!」が好きだからくらいの理由しか無いです。

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341.lw氏小説待ち望み界隈の為にもはてブの小説リンクを宣伝すべきだと思います

ありがとうございます。

これどういうことですかね?と思ってTwitterで聞いてみたら

342.昔lwさんがブログで書いた小説が埋もれているので時々宣伝したらいいのにという意図でした

こういうことらしいです。「昔ブログで書いた小説」となると、ひょっとしてだいぶ前に鬱病記事がバズってたブログのすめうじの前身の方ですかね? アレはあまり人様に読んで頂くことを想定したブログではないのでリンクは貼りませんが、気になる人は探してみてください。

ちなみにごく稀に書く二次創作は全部pixivに投げています。

www.pixiv.net

 

343.受験勉強って殆ど暗記ゲーじゃないですか?
例えば計算問題を何問も解いている内に12×12のような簡単な計算であれば計算せずに反射で出力できるようになるのと同様に、問題に対して解法を瞬時に出力できるようになるための訓練が受験勉強の大部分を占めていると思うのですが、かつて受験ガチ勢だったLWさんはどうお考えですか?

うーん、理想的には仰る通りですが、所詮は受験勉強程度の時間ではそこまでのレベルには至らないというのが現実であるような気はします。試験の作問者も色々考えて焼き直しではない問題を膨大な数生み出し続けているわけで、勉強時にそれを凌駕するバリエーションの網羅でもしていない限りは初見の問題に対応することは避けられません。

とはいえ、問題ごとへの解法そのものではなくても、問題のタイプを見てアプローチのタイプを暗記する訓練という程度の話であれば真実だと思います。例えば関数の大小が何たらみたいな問題なら「導関数を見る」「二乗項を作る」「平均値の定理を試みる」とか色々アプローチの手札があって、そのどれが良いかを選ぶ勘を磨くことで最終解法に辿り着きやすくなるとかそんな感じじゃないでしょうか。

東大に入る人でも精々そのレベルで、あらゆる問題に対して最初から解法を瞬時に出力できる人はほとんどいないと思いますが、それができる超人がいてもおかしくはないとは思います。

21/9/23 「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦

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「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦

saize-lw.hatenablog.com

ありがたいことにこの前書いた記事(『フブかつ』)へのレスポンスとそれに触発された記事を貰ったのでそれについて書きます。
ちなみにキーラ氏は友人の師匠(?)で、稀にdiscordでコミュニケーションすることもある知り合いの知り合いくらいの方です。僕が今まであまり一貫性なくバラ撒いてきた文書も読んで頂いて発展的な御指摘を頂けるのは非常に嬉しいです。ありがとうございます。

文中でたまに引用される『Vだけど、Vじゃない!』(『VV』)というのは僕が以前に書いたVtuberを題材にした短編のことです。

kakuyomu.jp

こうして使うつもりで書いたわけではないですが、確かに言われてみれば僕のVtuberの設定に対するスタンスと認識がよく滲み出ていて、他でもVtuberの話をするときに「それVVじゃん」とよく言われるので読んで頂いても面白いと思います。

 

1.絶えず自壊する泥の反論集:インタラクティヴィティと論理的(不)完全性

keylla.hatenablog.com

『泥反』からの指摘は以下の4点です。わかりやすく番号を付けて頂いたので答えやすくて助かります。

  1. LW氏は、「正典に依拠する情報かどうか」と「公式設定かどうか」とを混同しているのではないか
  2. LW氏は、発言の信頼性と正しさとを混同しているのではないか
  3. LW氏は、フィクションがもつ時間と我々が持つ時間とを混同しているのではないか
  4. LW氏は、キャラクターが世界に所属するものという前提をとっているが、果たしてこの前提は我々にとって有益だろうか

全体的に、僕が「このあたりまでは厳密に書けるけど、ここから先は怪しくなるからバレないように誤魔化しておくか」と思ってお得意のレトリックで誤魔化した部分が看破されているというのが率直な感想です。
『フブかつ』に限ったことでもないですが、僕は普段から一貫性を最重視して断定的な論を立て、多少の違和感や不整合はレトリックや補足に押し込んではぐらかす傾向があります。これは恐らく理系出身者の悪癖であり、デメリットよりメリットの方が勝ると思っているので直すつもりは無いですが、これで騙されてくれない賢い友人からは「お前ここ誤魔化しただろ?」「ここ本当に思ってるか?」と突っ込まれて開き直ることが割とよくあり、今もそのタイプの状況に追い込まれています。

よって今から僕が行うのは「この指摘は論理的にどうこう」という明晰なレスポンスではなく、主にそうせざるを得なかったモチベーションの説明や、原因や代替案についての共有です。応答する言葉のレイヤーが当初の『フブかつ』とズレていて、全体的に一つ水準が高い楽屋裏的なメタトークになります。そのあたりの温度感はキーラ氏も正しく汲み取っており、「正当に排除されてきたトリヴィアルな状況への言及」「LW氏のとった前提のちょっと外側に位置する話をしよう」と仰っています。恐らくこれを言ったら泥仕合になるだろうという正しい予感が記事タイトルにも現れているのはいいですね(主に推論の論理的正当性を巡る反論ではなく、前提を破棄するタイプの反論なので)。

以下の内容は全て『泥反』を読んだ前提なので先に読んでおいてください。

 

1-1.LW氏は、「正典に依拠する情報かどうか」と「公式設定かどうか」とを混同しているのではないか

そうですね(上に前置きしたような事情により、以下のレスポンスは全て「そうですね」から始まる気がします)。

『フブかつ』でも若干触れましたが、これは恐らく文学界隈で言うところのいわゆる「信頼できない語り手」の問題だと思います。
一応雑に説明しておくと、読者に対して情報を発信している者が嘘や勘違いや精神疾患等の何らかの事情によって正しい情報を寄こさないために信頼できない状態のことを指します(なおキーラ氏の認識とは異なり三人称視点の地の文ですら生じることが知られていますが、「地の文かどうか」という話題は小説技巧的なものに過ぎずあまり重要ではないので省略します)。白上フブキの発言も正典だからといって信頼できるとは限らないため、ただちにその自供を公式設定と同一視することは問題があるという話です。
これは仰る通りで、特に僕は白上フブキが実際に存在する女の子であるという立場を取りたいので、なおさら彼女の発言に全幅の信頼を寄せることには問題があります(実際に存在する女の子は正しい情報を報告するとは限らないため)。実際、僕も白上フブキの報告が信頼できない可能性は考慮した方がいいとは思いつつも、そのレベルでの真理値の検証は困難であるという理由で諦めています。以下は『フブかつ』からの引用です。

とはいえ、これは決してVtuberに限ったことではないのであるが、ただちにここで問題になるのが、いわゆる「信頼できない語り手」の問題である。というのは、語り手が嘘を吐いていた場合、つまり虚構世界の実態と異なる報告を行っていた場合、何が真で何が偽なのかが全くわからなくなってくるということだ。わたくしはVtuberの発言は時に過去の発言を覆すことも含めて常に更新されていくと述べてきた以上、ここで都合よく白上フブキは絶対に嘘を吐かないと信じてしまうわけにもいかない。

一見すると、信頼できない語り手に関する話題は語用論に属する問題として棄却してよいように思われるかもしれない。すなわち、発話に嘘を含めるかどうかは純粋に言葉の使い方の問題に過ぎないため、我々の関心対象ではないという逃げの一手が打てると思われるかもしれない。しかし、今考慮しなければならない信頼性の問題は作者や演者ではなく虚構的存在者に紐付いたものである。第二節でも述べた通り、立場上わたくしが棄却できるのは演者の言語使用のみであり、キャラクターの言語使用においては立ち止まって検討しなければならない。

しかし、この問題をこれ以上深堀りすることは難しい。『シャーロック・ホームズ』でも語り手のワトソンは完全なる薬物中毒者で、記述の一切は彼の妄想の報告に過ぎないとしてしまうことは不可能ではないが、それは不毛な懐疑論というものだ。その極論とVtuberに固有の発話の自由さを同一視することがフェアではないことは承知しているが、最大限譲歩してVtuberが完全に信頼できる権威ではないということを念頭に置いた上でなお、常識的な判断によって一部の命題は自明に真であることにできるとしておこう。

一応、白上フブキの発言が信頼できない可能性についても考慮しうる代替案を二点挙げておきます。これらの主張は僕の目から見ても説得力が微妙なので『フブかつ』本文からは削除されましたが(説得力が低い弁明は何も言わないより相手を懐疑的にすることがよくあります)、泥以下のヘドロな選択肢として一応置いておきます。

まず一つには、「白上フブキを信頼できないと考えるインセンティブが特にない」という消極的な理由で白上フブキを信頼する選択肢があります。
これは文学における「信頼できない語り手」の技法的な使用例を見ることで一定の正当化が可能です。もともと「信頼できない語り手」という技法は、相当に特殊な小説でもない限りは、基本的には合目的的に用いられるものです。最も典型的には、小説の中盤以降で語り手が信頼できなかったことが初めて発覚し、そこで読者に「こいつのこと信じてたのに嘘だらけだったんかい」という若干メタな「オチ」を付けるために使用されます。更に「信頼できない語り手が本当は信頼できないこと」はいずれどこかで読者に対して発覚する必要があります。そもそも語り手が完璧に虚偽を遂行していれば読者が「こいつは信頼できない語り手だ」と気付くこと自体がなく、文学的な効果も生まれないからです。よって情報の不整合や他のキャラクターからの指摘等で何らかのぼろを出すことによって、「ああ、こいつは信頼できない語り手だったのか」と理解させる手順が必要です。
このように、「信頼できない語り手」は典型的には「語りは最初は読者に信頼されている→途中で信頼できないことが発覚する→それによって読者に驚きを与える」という計算された流れによって効果を持つ立派な技法のひとつであり、「特に何の意味もないが本当は全部語り手の妄想なのでは?」という読者からの懐疑は類似してはいますが、技法的な効果が見当たらない場合にそれを行う動機は特にありません。よって、文学批評的な立場から見れば「語り手が信頼できないと考えるインセンティブが特にない」という消極的な理由だけでも「語り手が信頼できる」と考える合理性があります。
とはいえ、既に勘付いていると思いますが、この主張に説得力がありません。まず、これはあくまでも小説技法として合目的的に構成されたコンテンツを考えた場合の話であって、白上フブキが実際に存在する美少女であると考えるスタンスとは全く相容れないものです。現実の嘘吐きは「相手に気付いてもらって劇的な効果を与えよう」などと考えませんし、仮に白上フブキが嘘吐きだったとしても彼女もその手の完璧な虚偽の遂行者と考えるべきです。更に言えば、百歩譲って仮に白上フブキの言動が上に述べたような文学的合理性を持つと仮定したとしても、彼女が信頼できない語り手である可能性は特に排除されません。何故なら、白上フブキというコンテンツは明らかに現在も進行している最中であるため、一年後の「ネタばらし」に向けてコツコツと信頼できない語り手を装っていることは十分に想定できるからです。

さて、第二の選択肢として、白上フブキの主張そのものは公式設定としては信頼しないが、それでも主張に伴って真と思われる副産物だけを抽出して信頼することが可能です。
具体的には、白上フブキが「お茶を飲みます」と言ったとき、「お茶を飲んでいること」は真と見做せなくても「白上フブキが『お茶を飲みます』と述べたこと」は真として良いと思われます。この路線で真と見做して良いと思われる命題は、キーラ氏が指摘しているような「~と述べた」以外にも実はまだ数多くあります。例えば、「(それが本当か否かを問わず)白上フブキには『お茶を飲みます』と述べる動機があったこと」「(それが本当か否かを問わず)白上フブキには発話の時点で『お茶を飲む』と思わせる意図があったこと」「(それが本当か否かを問わず)白上フブキは視聴者が『白上フブキはお茶を飲んでいる』と思うだろうと思ったこと」あたりは白上フブキが信頼できないとしても依然として真であるとして良いでしょう。つまり、白上フブキを信頼しない代わりに、白上フブキの発言から得る事実のレベルを一歩退却させるという対応です。
この方向性では依然として彼女本人の情報を入手できることは魅力的ですが、その代償は計り知れません。真理値を確定できる情報は彼女の発声に伴う動作・意図・動機くらいにまで縮退してしまい、彼女に関する形質的な性質や世界の情報の一切を諦めることになってしまいます。そしてこの路線が途方もなく退屈な最大の理由は、白上フブキに関する命題と話者に関する命題にそう大きな違いがなくなることです。というのも、白上フブキの演者をMさんとしたとき、白上フブキに関して得られる命題について「白上フブキ」を全て「Mさん」に自動変換しても同様の真理値分析が成り立ってしまうのです。つまり、「Mさんには『お茶を飲みます』と述べる動機があったこと」「Mさんには発話の時点で『お茶を飲む』と思わせる意図があったこと」「Mさんは視聴者が『Mさんはお茶を飲んでいる』と思うだろうと思っただろうこと」は全て真です。この事実自体がただちに白上フブキの存在までも演者の存在に帰すわけではないにせよ、わざわざ表立ってやる分析にしてはほとんど何も残らないほど消極的な解決策であると言わざるを得ません。

 

1-2.LW氏は、発言の信頼性と正しさとを混同しているのではないか

そうですね。実はサイゼミでも一番突っ込まれたのはこの部分でしたが、僕は皆さんが何に引っかかっているのかが最後までよくわからなかったので正直に言えば指摘を無視してそのまま書いてしまいました。が、『泥反』を含む『フブかつ』へのレスポンスを見るにつけ、僕が当たり前に持っていた感性が実は自明ではないことが原因であるようだということがわかってきました。

というのは、僕は我々人間と同じようなコミュニケーション対象として白上フブキが存在することをあまりにも自明に肯定していたということです。僕にとって、初配信における命名儀式の「信頼性」とは、フィクションの問題というよりはただ単に対人関係の問題であり、その背景には白上フブキは実際に存在するという存在論的感性があります。
少なくとも現実における対人関係の問題として見れば、「文章で紹介することよりも本人が申告する方が強力に指示を固定する」という主張は納得して頂けるように思われます。僕の背中に「こいつがLW」とかいう張り紙がベタっと貼ってあるのと、僕自身が「僕がLWです」と述べるのでは、極めて素朴な意味で後者の方が情報としてノイズが乗っておらず信頼できそうな感じがします。少なくともこの状況において「この人がLWであると信じる信頼ゲージが上がること」「この人がLWであるという情報の正しさゲージが上がること」はほぼ同時に生起し、かつ、その二つはあまり厳密な区別なく受け入れられます。僕は概ねこのようなニュアンスで「地の文よりも初配信の方が強力だ」と言っていたのですが、前提となる「Vtuberとの関係は対人関係と同様に考えて良い」という感性が共有されていなかったため話が通じなかったというのが真相のように思われます。

もちろんこれに関しては全面的に僕が悪いです。というのも、「Vtuberは我々同様に存在する」という感性を前提とするのは論点先取以外の何物でもないからです。ちなみにこの論点先取はもう少し前にまで遡ることができ、そもそも因果説を支える「企図」という概念が社会的な対人関係をベースにしていることに鑑みれば、この手の議論を行ってもよいと判断した段階で白上フブキの存在を何らかの意味では仮定していることになります。
更に自責を続けると、これは十分条件と必要条件のすり替えでもあります。本来、「白上フブキは存在する」という証明は①「xならば白上フブキは存在する、かつ、xであるので、白上フブキは存在する」という推論であるべきです。しかし、僕の論法は厳密に言えば②「白上フブキが存在するならばxである、かつ、xであるので、白上フブキは存在する蓋然性が消極的に高い(少なくとも白上フブキが存在しないということはない)」という結論を密輸入した誤謬を用いています。
とはいえ、僕はこうした理由によって僕の主張が論理的に破綻していたとして撤回するつもりは毛頭ありません。『フブかつ』内に書いた以下の留保でも自覚されているように、白上フブキが虚構世界に存在することの完全に積極的な立証はそもそも不可能であり、せいぜい部分的な証拠収集と消極的な立証によって段階的に正当性を上げていく以外の道筋はそもそも有り得ないからです。「しかじかの直観を認めれば部分的に正当である」という程度の括弧付きの納得で十分建設的だと考えます。

補足24:ただし、指示が有効で有りうることはただちに指示先の存在を意味するわけではないことに注意されたい(プログラミングに明るい読者はポインタ型変数の値がnullであるような場合を想像せよ)。それは白上フブキが虚構世界に存在することを認めるための必要条件であって十分条件ではないのである。わたくしは依然として白上フブキが虚構世界に存在することの完全な立証には成功していないし、正直に言えば、それは永久に不可能であるように思われる。

よって、この節で指摘されている僕の欠点については、僕はキーラ氏とは見解を異にしています。キーラ氏は「信じること」と「正しいこと」の混同という主観と客観のギャップに混乱の原因を見出していますが、僕が思うに、これは「仮にでもVtuberとの対人関係を認めてしまえるか」と「Vtuberとの対人関係を素朴には認めないか」という存在論的な感性のギャップであるように思われます。僕は「美少女キャラクターには何らかの意味で実際に存在していてほしい」というのはオタク共通の願いと感性であるように思っていたのですが、それが別に全然自明ではなかったというのが学びではあります。

ちなみにTwitterでの感想で「『フブかつ』は神の存在証明と同じタイプの議論ではないか」と言っている人を見かけましたが、それは言い得て妙だなと思います。原理的な不可能ごとを何らかの信仰に基づいて無理筋で擁護しなければならないという意味で似通った状況にあり、そもそも可能世界という概念自体がライプニッツが神学の文脈で創始したものですから、歴史的な経緯を辿っても源流は一致します。

 

1-3.LW氏は、フィクションがもつ時間と我々が持つ時間とを混同しているのではないか

そうですね。この指摘は楽屋裏ではなくステージで扱わなければならないクリティカルなものです。というのも、これだけは感性の問題ではなく、真理値関数の問題だからです。

まずは『フブかつ』で延々と行っていた真理値の議論をアップデートして、時間を考慮できるように進化させるところから始めましょう。命題の真理値を時間依存にすることは、関数に時間変項を埋め込むだけで可能になります。
一応形式的に復習しておくと、今まではf(存在者x,性質a)=「xがaである」という二変項関数についてxとaに様々な値を代入したときの真理値を検討していたのでした。例えば「『白上フブキは狐である』は真である」というような主張は、x=白上フブキ、a=狐としたとき、「f(白上フブキ,狐)=True」のように表現できます。
ここに新たに時間tを加え、g(存在者x,性質a,時刻t)=「時刻tにxがaである」とします。xとaの選び方によって、真理値が時間tに依存して変化することは珍しくありません。例えば、g(ソクラテス,呼吸する,B.C.400)=「B.C.400にソクラテスは呼吸する」は真ですが、g(ソクラテス,呼吸する,A.D.2021)=「A.D.2021にソクラテスは呼吸する」は偽です(wikipediaによればg(ソクラテス,呼吸する,t)はB.C.470<t<B.C.399で真、otherwiseで偽です)。この表記を用いてf(白上フブキ,髪の毛奇数)=「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」をアップデートすると、g(白上フブキ,髪の毛奇数,t)=「時刻tに白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」となります。
この際、ついでに世界変項wも付け加えておきましょう。もともと僕の立場が「虚構的に真=虚構世界で真」という直観を擁立していたことを考えると、どの世界で真であるかを表記できた方が都合が良いですし、時間軸がどの世界のものかも指定できて扱いやすいです。よって、h(存在者x,性質a,時刻t,世界w)=「世界wにおいて時刻tにxがaである」とします。我々の所属世界を「AW(Actual World)」、白上フブキの所属世界を「SW(Shirakami World)」とでも置くことにすると、h(ソクラテス,呼吸する,B.C.400,AW)は真です。

この表記を用いると、キーラ氏が提示する状況「例えば、2021年12月31日までは、白上フブキに髪の毛の本数の設定はなかったが、2022年1月1日に、白上フブキの髪の毛の本数が奇数だという設定が公式のものとなった、というようなシナリオを考えてみよう」は以下のように簡潔に表記できます。

h(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,AW)=F
h(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,AW)=T

同様に、『泥反』で提示されている「それがその世界における事実であるなら、白上フブキの髪の毛の本数は最初から奇数であり、これからも奇数である」という見解も以下のように全称命題で表記できます。

∀t,h(白上フブキ,髪の毛奇数,t,SW)=T

このように、AWとSWでは事態に関する付値の仕方が明確に異なっているのみならず、そもそもAWの時間軸とSWの時間軸の対応関係すらも不明であるため、真理値関数に時刻を導入した途端に性質に関する議論が破綻するというのが『泥反』の見解であるように思います。

ただし、これに対しては僕は真っ向から反論できます。キーラ氏と僕の間での大きな見解の相違は主に二点あり、結論から言えば僕の主張は「SWでの真理値も時間依存していること」と「AWでの白上フブキに関する命題は彼女自身の直接的な命題ではなく知識に関する間接的な命題であること」です。

まず第一には、僕が思うに白上フブキの設定はSWで時間的に変動するということがあります。これに関しては『フブかつ』ではそうとはっきり明記しないどころかホームズに関する議論と並べることで明確に誤解を招く書き方になっていたことを反省していますが、僕は白上フブキの髪の毛の本数は固定されていないと考えています。
何故ならば、真理値が時刻に依存しないと考える場合、白上フブキを我々と同じタイプの存在者であると考えるのが難しくなるからです。具体的に言えば、「白上フブキの髪の毛の本数は最初から奇数であり、これからも奇数である」という性質を認めてしまうと、「白上フブキは髪が抜けない(生えない)」というかなり顕著な存在論的性質を付加せざるを得ません。よって白上フブキに余計な性質を付与しないためには、髪の毛は抜け変わると考えた方が都合が良いです。若干不自然な状況ですが、ここでは議論の簡単のために「白上フブキは2019年10月10日は髪の毛が奇数だったが、ちょうど日付の切り替わり時刻で毛が一本抜けて2019年10月11日には髪の毛が偶数になった」という状況を考えましょう。これは以下のように表記できます。

h(白上フブキ,髪の毛奇数,2019年10月10日,SW)=T
h(白上フブキ,髪の毛奇数,2019年10月11日,SW)=F

このように僕はSWにおける真理値の時間依存性を認めます。よって「現実世界において2022年1月1日に白上フブキが生放送で髪の毛が奇数だと報告した」というイベントが起きたとして、それはその瞬間に対応するSWの時刻において真理値が確定したに過ぎません。よって、時間についても真理値関数の完全性を求めるのであれば、白上フブキが生まれてからの現在までのSWにおける全時刻について「y年m月d日h時m分s秒に髪の毛は奇数でしたか」という赤スパを送り続ける必要があります。ちなみに未来に関して真理値が確定しないことは真理値決定の完全性を損なわせません。それは未来の時点tでの値が欠けているからではなく、そもそも未来はtの定義域に含まれていないからです。

そして第二に、白上フブキに関する真理値はあくまでもSWで定まることであって、AWで定まることではないと考えます。AWで起こる変化は、あくまでもSWにおける真理値を知っているか否かだけです。
具体的に言うと、「2021年12月31日までは、白上フブキに髪の毛の本数の設定はなかったが、2022年1月1日に、白上フブキの髪の毛の本数が奇数だという設定が公式のものとなった」という状況で起きているのは、

h(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,AW)=Fかつh(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,AW)=T

ではなく、

2021年12月31日までは我々はh(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,SW)の真理値を知らなかったが、2022年1月1日にはh(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,SW)=Tであることを知った

です。AWにおける真理値、h(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,AW)もh(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,AW)はそもそも定まっていません。白上フブキはAWではなくSWに所属しているため、白上フブキに関する真理値関数の付値はw=SWのときのみ可能であり、AWでは値が付きません。それはx=白上フブキ、w=AWのときにhの値が欠落することを意味するため、一見するとAWの完全性を危うくするように見えますが、xの定義域をwで指定した世界に存在するものだけに縛ることで一応はその危機を回避できます(とはいえ、例えばh(白上フブキ,存在しない,t,AW)については明確にTrueを返すことが望ましく、これについては本来はもっと慎重な議論が必要です)。

以上の二つの見解をまとめると以下のようになります。
まず、SWにおいては白上フブキが存在している期間で全てのtについてh(白上フブキ,髪の毛が奇数,t,SW)が定まり、値はTかFのどちらかであり、一般には時間に依存して変動します。
次に、AWにおいては白上フブキが存在している期間かどうかを問わず∀tでh(白上フブキ,髪の毛が奇数,t,AW)は定まりません。代わりにAWで起きるのはh(白上フブキ,髪の毛が奇数,t,SW)の真理値を知っているかどうかだけです。真理値関数は入れ子状になり、正しい命題は以下です。

h(LW,h(白上フブキ,髪の毛が奇数,2022年1月1日,SW)=Tを知っている,2022年1月1日,AW)
=「AWにおいて2022年1月1日にLWは『SWにおいて2022年1月1日に白上フブキは髪の毛が奇数であることが真である』と知っている」

これが僕の正確な可能世界の認識ですが一点だけ補足します。ここまでは時間軸をAWとSWで共有しているように話してきましたが、一般には一致していなくてもよいです。AWで白上フブキの髪の毛の本数が奇数であることが判明した2022年1月1日はSWでは5041年13月99日であるとしても全く構いません。その場合、AWとSWにおいて以下の二つが真となります。

h(白上フブキ,髪の毛奇数,5041年13月99日,SW)
h(LW,h(白上フブキ,髪の毛が奇数,5041年13月99日,SW)=Tを知っている,2022年1月1日,AW)

もちろん、「AW歴2022年1月1日とSW歴5041年13月99日が等しいとはいかなる事態であるのか、そもそも別世界間での時間の対応関係はどうなっているのか」「逆行する時間軸を持つVtuberに対応できるのか」等、もっと詳しく世界間の時間軸の関係を掘り下げることは可能です。しかしそれはそのときやればいいとして、僕がここで明らかにしたいのは「AWにおいて起こる時間的事態とは単にSWの事態を知るか知らないかでしかなく、SWにおける時間的事態での真理値はそれとは独立に定まっている」という基本指針です。

何にせよ、この暫定方針が正しいかどうかも含め、世界間での真理値の時間依存性という観点でVtuberの意味論を掘り下げることは極めて有益であるように思います。というのも、古典的な分析哲学において持ち出されるフィクションはほぼ全てが時間的に凍結した静的な世界であるため、現代的なコンテンツを存在論的に捉える際にはどういう方向性でも必須のアップデートとなるように思うからです。

 

1-4.LW氏は、キャラクターが世界に所属するものという前提をとっているが、果たしてこの前提は我々にとって有益だろうか

そうですね。これはロジックというよりはモチベーションの共有ですが、この疑問に対しては僕は明確な回答を持っています。僕が思うに、キャラクターが別世界に所属するものとする前提のうまみは「美少女キャラクターが我々と同じような時空間的な存在者である」という前提を擁立できることであり、その点において極めて有益です。

確かにキャラクターを現実世界に所属していると考えることも全く可能ですが、その際に最大のネックになるのはキャラクターが我々とは異なるタイプの存在者であると考えざるを得ないことです。
というのも、僕はいま岩本町のカフェヴェローチェでPCのキーボードを叩いているというように時空間的な位置を占める物理的存在者ですが、キャラクターソングを歌うアイドルが現実世界に存在していると考えたとき、それは僕と同じような意味で時空間的な位置を占める物理的存在者であると考えることはできません(『泥反』の表現では「時空間に宙吊りになる」)。時空間的な位置を占めない存在者自体は珍しくなく、大抵の概念はそのようにして存在しています。「日本」「後悔」「正義」といったものは全て物理的オブジェクトとは異なる何らかの抽象的な存在者として存在しています(唯物論者は「これらは我々の脳内のどこかに存在する電子パターンとして確かに時空間的な位置を占めている」などと反論してきそうですが、それは一旦無視します)。

かなり大雑把に言うと、ここで問われているのは美少女キャラクターを「ソクラテス」「織田信長」「LW」と同タイプの物理的存在者と見做すか、「日本」「後悔」「正義」と同タイプの概念的存在者と見做すかという選択です。世界の選択もそれに準ずるため、美少女キャラクターの存在を巡って我々が取れる道は以下の二つです。

①美少女キャラクターは別世界に住んでいるが我々と同じ時空間的な位置を占める物理的存在者である
②美少女キャラクターは我々とは異なり時空間的な位置を占めない概念的存在者だが現実世界に住んでいる

つまり「現実世界」と「物理的存在者」が二者択一であり、どちらを取りたいかは完全に趣味の問題です。僕は①の方が夢があって望ましいため、意地でも①を正当化するための理屈をこねくり回しているということです。

逆に言えば、僕が本当に擁立したいのは「物理的存在者」の方であって、「別世界」の方は勝手に付いてくるオプションというか、この立場を取るならばやむを得ず説明しなければいけないオマケでしかないです。
よって、どこかの世界に住んでいること自体は実はそれほどこだわりたいポイントではありません。そんなにやる気がないときはキャラクター単独でもいいんじゃないですかという態度を取りますし、第三の道として「美少女キャラクターは我々と同じ時空間的な位置を占める物理的存在者であるが、特にどこの世界に所属しているわけでもない」という選択肢も無しではないです(ただ、そう書きながらやっぱり「時空間的な位置を占めるのにどこにも所属してないってどういうこと?」という気持ちになります)。

 

2.デットンは存在し、かつ、弟であるのか

keylla.hatenablog.com

こちらは『フブかつ』の特撮バージョンといった趣で、特撮キャラクターもVtuberと同じように設定が流動的に変わっていく中で、それに何らかの実在を想定するのであれば様々な情報元から来る性質の変動に対してどのような態度が妥当かを論じています。
キーラ氏も「『フィクションキャラの存在論』という話題が盛り上がることを望みます」と仰っている通り、こうして色々な分野でそこに特有のキャラクターの性質を元手にしてオタクたちが思い思いにキャラクターの存在論を立てていくというのはかなり面白い事態だと思います。そうなるといいですね。

僕とキーラ氏のキャラクターの実在と設定に対するスタンスは当初のモチベーションからしてかなり割れているため何かを付け加えるという感じでもないのですが、その相違は以下でまとめられています。

LW氏にはどうやら、キャラクターの実存とキャラクターの設定とをかなり近い位置で接着する(あるいは同一視する)という発想の傾向があるらしい。そしてなおかつ、時間軸上で発生する「設定の変更」という現象と「キャラクターの実際的あり方の変化」の間にも“必然的”つながりを読み取る。そして、「キャラクターの実際的あり方の変化」が(疑似的にだが)時間軸上で起こっているかのように感じ、これに驚く。こういった発想の傾向は『Vだけど、Vじゃない!』からも端的に伝わってくる。
私が素朴に受け入れている発想というのは、LW氏のそれとはだいぶ違っていて、「設定による記述とキャラクターの実際的あり方との間には多少の遊びがあり」、「設定の変更によって、(時間的に)ただちに指示対象のキャラクターが変化するわけではなく、記述の流動性に対してキャラクターの実在はある程度固定的である」というものである。公式サイトの記述が今日変わったからと言って、今日のキバーラが昨日のキバーラと別人というわけではない。

これは仰る通りだと思います。
さっき述べたように、僕には「何としてもキャラクターは我々と同じように実際に存在していると考えたい」というモチベーションが最初にあります(ちなみにそれは美少女キャラクターに対する執着に由来しています)。そこだけは絶対に譲れないので、その前提に合うように思考して論を立てるという制約を負っています。「設定は本当に別世界の事実を記述している」と考えざるを得ませんし、設定の変更についても別世界の事実が実際に変更されたとして「真に受けて驚く」という態度を取らざるを得ません。
それに比べればキーラ氏は大人なスタンスを取っていて、あくまでも現実世界ベースで「明らかに制作側が意思統一できていない」「明らかに制作側の表記ブレ」といった事態を率直に認めた上で設定にあそびがあるような記述の束でモデルを作っていくことを想定しています。それは緩やかに誤りを許容できるという点で非常に穏当な立場であり、相対的に僕の方が過激派であることは間違いありません。

21/9/11 お題箱回88:フブかつの一人称何?、悪の教典etc

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お題箱88

基本数ヶ月遅れで順番に回答しているお題箱回ですが、タイムリーなものは先に答えています。

 

324.初投稿です。白上フブキの文章を楽しく読ませて貰いました。LWさんはあれ程長大な文章を書き上げるのにどの位の時間を要しましたか?それと細かい話ですが、一人称が「わたくし」だったのは何故ですか?

ありがとうございます!!
この文章にはそれなりに魂が入っていて、個人的な総決算と言っても差し支えありません。最近Vtuberについての記事を書いていないのは、僕がVtuberについて言いたかった話はだいたい全部ここに書いてしまったからです。

saize-lw.hatenablog.com

時間は測っていないので具体的にはわかりませんが、手法と論旨は最初から決まっていたのでそんなに大変だった記憶は無いです。体感的には5000字くらいまでが一息で適当に書ける量、10000字が頑張らずに書ける限界、15000字以降は分割作業がマストになるくらいのイメージです。実際、普段のブログ記事もだいたい少なくて4000字から多くて10000字弱くらいまでの幅です。なので長めのブログ4~5本くらいの労力ということになりますかね? そう書くと結構多いような気もしてきました。

一人称が「わたくし」であることを含め、全体的にわざわざこなれていない直訳調の文体を選択したことにはそれなりの理由があります。ちなみに文体のコピー元はたまたま読んでいた『蜂の寓話』です。
最大の理由は、Vtuberという題材的に重箱の隅を突くような例外の指摘や揚げ足取りを受けることが予想されたからです。というのも、Vtuberカルチャー自体がもはや誰にも全体像を把握できないくらい薄く広く広がってしまっているので、少しでも油断して抽象的な論を立ててしまうとすぐに例外を持ち出されて「その論はこのVtuberには当てはまらないんですけど? 視野が狭くないですか?」みたいな攻撃を受ける可能性が高いです。それらを迎撃するためにはいつも以上に補足を多用して譲歩と再反論を何重にもかけておき、徹底的に防衛線を張る必要がありました。そういうまわりくどい保身をするのにはまわりくどい直訳調の文体が適していたということです。
他にも文の固さの落としどころというのもあります。いつもの「俺」か「僕」だと砕けすぎていて内容と合いませんが、かといって「私」だといよいよ論文みたいになってしまって読むのがしんどいので、改まってる風のギャグみたいな妥協案が「わたくし」です。あとはVtuberに関しての文章なので僕も少しくらいロールプレイしてもいいだろうという気持ちもあります。

 

325.美少女主人公アニメしか見ないLWさんがエヴァ視聴者なのちょっと驚きです どういった経緯で見られたのですか?

マジですか? 確かに一番好きなのは美少女主人公アニメですが、それ以外も普通に見ます。経緯というほどの経緯も特になく、有名なものは適当に見ます。コードギアスガンダムもぼちぼち見ています。

ちなみに僕のシンエヴァの感想(→)はリアルタイムでエヴァと人生を共にしてきたアラフォーくらいのヤバいオタクジジイの感想として「同世代」の皆さんに共感される形でネットに拡散していたのですが、僕とエヴァとの付き合いは5年くらいだと思います。エヴァ放送当初は物心付いていない可愛いキッズでしたし、ようやく見たのも大学に入ってからです。

 

326.ナショナリズムについて学ぶ際に触れとくべき文章のおすすめなどありますか?LWさんに感化され鑑賞作品を分析的に見ていこうとしたときに必須項目かなと思いまして

そう仰って頂けるのは嬉しいですが、ナショナリズムはあんまり思い当たるところがないです(僕がナショナリズムの話をガッツリしたことありましたっけ?)。
オタク界でナショナリズムと言えば大塚英志がパッと浮かびますが、それは飲み会での連想ゲームのようなもので、そんなにちゃんと参考にすべきものでもないような気もします。
もししたことが無ければですが、普通に高校世界史の勉強とかをするのがいいような気もします。僕もちゃんと勉強しようと思ってちょっと前に教科書会社で世界史の高校教科書とワークブックを三冊くらい買ったんですが、今のところ興味が他に移ってしまって積んでいる状態です。いつか他にやることが無くなったらちゃんとやります。

 

327.フレンチ?ってどうだったんですか?

今年のゴールデンウィークにオタク4人で15000円くらいのフレンチを食べに新橋に行ったやつですね。急な誘いに付き合ってくれたオタクたちありがとうございました。

僕は普段吉野家とか鳥貴族で全然美味しい人間なので価値観が変わるような衝撃を受けることを期待していたのですが、「まあかなり美味い」というだけでそれ以上のことは特にありませんでした。スタミナ太郎を0、安安を1、牛角を2、叙々苑を3とすればフレンチは順当に4くらいです。一人で行ってたら「この値段は高くね?」ってなってたと思いますが、複数人で行ったおかげで写真を撮ったりフォアグラで騒いだりして楽しめたので経験としては良かったです。

 

328.LWさんの経歴謎すぎる(いつ頃遊戯王始めたとか、どこの学科いたとか、いつ留年休学したとか含めて)

いつか自分の半生振り返る記事出して欲しい

興味を持って頂けるのは幸いですが、別に波乱万丈でもないですしそんなに面白くないと思います。むしろ割とテンプレ寄りの人生の気はします。

聞かれたことだけ全部答えると、遊戯王を始めたのは中学生のとき、学科は理科一類→工学部計数工学科システム情報コース→情報理工学系研究科システム情報学専攻、留年は学部四年時に卒論を断念したときに確定し、休学はそのときと大学院の二年目にしました。

 

329.悪の教典読みました!?
(読んで覚えてたら語って欲しい)

伊藤英明が主演の映画版は見ました。かなり好きな映画です。
サイコキラーvs生徒たちの攻防というアクションサスペンスみたいな体裁を取っている割には特に何も解決せずに普通にサイコキラーが勝利するのがいいですね。和製『ファニーゲーム』と言うとちょっと褒めすぎかもしれませんが、かなり近い位置にカテゴライズしています。

一番好きで何度も巻き戻して見たシーンは、生徒が放ったアーチェリーの矢と伊藤英明が放ったショットガンの弾が衝突するシーンです。あのスローモーション演出って明らかに何か奇跡が起こって運命が変わるときの劇的な逆転を意図しているのですが、この映画では形勢逆転は成立しません。全ての希望を託された矢はあっさり弾かれてそれで全部終わりです。この不条理さはファニーゲーム終盤での巻き戻しにも通じるものがあります。

ただ、伊藤英明が最後に精神疾患狙いのことをベラベラ喋ったあとに生徒がその意図を説明する演出は要らなかったです。伊藤英明が薄く笑ってそれで終わりで良くないですかね? そのくらいは説明しなくてもわかると鑑賞者を信じてほしかったです。

 

330.LWさんの異常性って具体的にどこら辺にあるんですか?

僕自身よりも僕と親しい人に聞いた方が詳しく言語化してくれる気がしますが、恐らく他人からの評価を行動基準に組み入れる能力が欠如していることです。これは「わかった上で気にしない」という性格の問題ではなく、「そもそも他人が自分をどう見ているかが理解できない」という認知の故障です。
ただ、このタイプの人間は別にそんなに珍しくもないです。実際、僕の周囲には明らかに類友現象で大なり小なりこの属性を持つ人間が集まっています。定義上この手のやつは異質な人間の声を聞く能力は絶望的に低い一方、同じ傾向性を持つ人間の声だけは辛うじて検出できるので、集団の同質性が高くなる傾向があるような気がしています。

 

331.虫の小説を読ませていただきました。それぞれのキャラで思想や信念が一貫しているため、敵味方が入れ替わっているのに違和感がなく展開していって素敵でした。
質問なのですが、小説を書いている最中に「キャラが勝手に動き出す」という感覚はありましたか?

ありがとうございます!! 素敵なすめうじをよろしくお願いいたします。

kakuyomu.jp

「キャラが勝手に動き出す」という感覚自体がよくわからないですが、よくわからないということは多分勝手に動いてはいないのだと思います。

基本的に僕は「最終的にこのシーンは絶対に作る」みたいな目標地点を最初に決めていて、あとはそこに辿り着くようにキャラの行動とか状況を逆算してパズルを埋めるような感じで書き進めていきます。
例えば白花が群体に分解されるシーンは絶対にやることが決まっている→誰かが白花を四肢切断しないといけない→誰かが白花を殺したがっていないといけない→登場済みのキャラで白花を殺したくて四肢切断できるキャラはいるか?→いればそいつが動ける状況を与える→いなければ新しく作って出す→……みたいな感じです。逆算の過程で誰かがちょうどよく動いてピースを嵌めてくれると楽なので嬉しいですが、多分それは勝手に動き出すとは表現されません。全部書き終わってからでないと投稿できないのも、パズルを埋めるためにピースを遡って変形させることがかなりあるからです。

 

332.サイゼミ受験業界回マジですか?
部外者だけど参加したいです

すみません、これは自分の影響力考えて発言してください案件なのですが、受験回が開催される可能性は高くないです。というのも僕自身にはそこまで受験回で喋るモチベーションがないからです。現役で学校関係者の友人が一番詳しくて喋る内容を持っているので、彼がやるならあるかもくらいの感じです。僕も彼がやってくれるならその話はかなり聞きたいです。

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ちなみに現在は僕の心がコロナ禍で折られたことによってサイゼミは一時閉店状態になっており、東京の病床がある程度確保されるくらいまでは再オープンしない気がします。

 

333.総合格闘技に関して書いてみてほしいです

うーん、総合格闘技には全然詳しくないですね……マジで格闘漫画(主にバキと喧嘩稼業)の知識くらいしかないです。なんか昔のオタクはドルオタとか鉄オタとかに並ぶオタク先として格闘技はメジャーなものの一つだったようですが、最近はどうなんでしょう。

21/9/5 白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか:Vtuberの存在論と意味論

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前置き

これはもともとVtuber批評同人誌への寄稿を依頼されて書いたのですが、ちょうど書き上げたあたりで主催者と連絡が取れなくなって死蔵されていた文章です。音信不通から半年経ったので「まあもういいか」ということでブログにそのまま掲載します。

4万字以上あってクソ長いですが、要するに「Vtuberから演者を取り払って自律した美少女キャラクターとして見る可能性」について分析哲学の知見を援用して延々と語っています。僕はVtuberの演者にはほとんど興味が無くてVtuber批評で主流(?)の「ペルソナ」「魂とガワ」「ロールプレイ」みたいな演者を前提としたジャーゴンにあまりノれず、むしろそういうものを完全にオミットしたキャラクター論を立てたかったというモチベーションがあります。

内容はそこそこ哲学的ですが知らない人でも読めるように結構丁寧に解説を書いているので普通に読めると思います。白上フブキについても特に何も知らなくて大丈夫ですが、ビジュアルと簡単な設定くらいは知っておいた方がスムーズに読めるので、一応参考用に公式HPから引っ張ってきたプロフィールを貼り付けておきます。

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(公式HPより:https://hololive.hololivepro.com/talents/shirakami-fubuki/)

白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか

1.「白上フブキとはどのような存在か」とはどのようなことか:虚構的な存在と虚構的な命題

Vtuberとはどのような存在か。

この問いへの答え方は一様ではない。技術的な見地からVtuberを実現するテクノロジーを語るかもしれないし、文化批評的な見地からVtuberに類似するカルチャーとの差異を語るかもしれないし、美学的な見地からVtuberを鑑賞する際の態度を語るかもしれない。抽象的な質問の多くがそうであるように、この問いへの答え方自体がその人の思う最大の関心を提示するだろう。そしてそれは個々人の多様な興味に相対的であり、Vtuberという存在については今までにも多くのことが語られてきた。

しかし、わたくしにとってのこの問いの核心は「Vtuberを名乗る美少女その人はどのような存在であるのか」であり、意外にもこのタイプの答え方はあまり顧みられることなく放置されてきたように思えてならない。紋切型の表現が若干の誤解と反発を生むことを警戒しつつも、読者の円滑な理解のためにまずは断言しよう。わたくしの言う「Vtuberを名乗る美少女その人」とは「演者ではなく美少女キャラクターの方」という意味であり、わたくしは演者の振る舞いを徹底的に取り除いた上でVtuberを語ることを志向していると。わたくしは「演者がどうやってVtuberを生み出しているのか」とか「演者のステータスがVtuberにどう反映されているのか」とか「演者がVtuberを通じてどのような試みを行っているのか」とかいうような話題にはもううんざりしてしまっているのだ。わたくしが語ろうとするのは常にあの美少女だけであって、それを動かしている人間には深く感謝しこそすれ、その者について何事かを語ろうとしているのではない。語るべき対象を取り違えることはもうやめようとあなたにも同意して頂けるのであれば、わたくしは心強い味方を一人増やしたことになる。

とはいえ、演者を失ったとき、「純粋なVtuber」なる存在は最大の拠り所を失うことは紛れもない事実である。そうやって寄る辺なき暗黒の宇宙に宙吊りになった彼女をどう救い出せばよいか。その救出は彼女の名前が紡ぐ糸を手繰って彼女の存在を見つけ出し、虚構世界という足場に着地させる作業であることをわたくしはこれからの議論で示すことになるだろう。しかしさしあたり「演者を完全にパージした文脈においてVtuberはどのような存在なのか」という問いの立て方が見た目よりも遥かに厄介であるということは、Vtuberに関する非常に簡単な命題を一つ取り上げるだけで明らかになる。

命題F:「白上フブキは狐である」

さて、この命題Fは真か偽か? それを考えるところから始めよう。

補足1:以下、具体的なVtuberの固有名を使用したい場合は常に「白上フブキ」を用いることにする。「白上フブキ」というワードが出てきたら、それは白上フブキに固有の特殊な性質について語っているのではなく、「Vtuberの適当な名前を一つ挙げている」というニュアンスであることを了解して頂きたい。伴ってVtuber一般を「彼女」という代名詞で受けることがあるが、それは本稿の議論が女性に限ることを意味しない。また、「現実に存在する人物」の代表としては「ソクラテス」を、「(Vtuber以外の)フィクション一般の登場人物」の代表としては「シャーロック・ホームズ」を用いることをここで予告しておく。なお、知名度を考慮すればチャンネル登録者数が最も多い「キズナアイ」をVtuberの代表に用いるべきだが、いまやキズナアイ存在論的に極めて特殊な挙動をするVtuberであるため、代表として取り上げるのは適切ではない。また、現時点でキズナアイの次に登録者数が多いのは「Gawr Gura」だが、彼女は英語話者であるために統語論的な文脈で彼女の発言を取り上げる際に厄介になりそうなので見送り、消去法で登録者数三位の「白上フブキ」を用いることに決めた。ところで、ここまで述べた理由は後付けで捻り出したものであり、本当の理由はわたくしが白上フブキのファンだからということは言うまでもない。

まず最初にはっきり言っておかなければならないのは、命題Fが端的に「真である」と結論することは、不可能とは言わないまでも極めてラディカルな立場を受け入れざるを得ないということである。何故なら、生物学的な常識としては狐は人語を喋らないからだ。もし白上フブキが狐であることをあなたが認めるのであれば、あなたは人語を介して二足歩行する狐を発見したことになる。次にあなたがやるべきことは、今すぐに全世界で出版されている生物学の文献全てに異議を申し立てる論文を執筆することだ。言語が人間だけのものでないことを証明したあなたの発見は言語学のみならず精神分析脳科学にまで多大な影響を及ぼすに違いない。人類知を大きく前進させた二十一世紀最大の偉人の一人として、あなたの名前は十世紀くらいは語り継がれることになるだろう。

あなたがその輝かしい栄光を手に入れるために行動を開始することなく、愚かにもまだこの文章を読み進めているのであれば、あなたは少なくともその手の狂人ではないということだ。実を言えばわたくしもまた底抜けの常識人であるから、先ほどは軽い冗談を披露したに過ぎない。要するにわたくしの言わんとすることは、命題Fを端的に真であるとするのはかくも難しいということだ。

加えて、我々のように全く常識的な立場から考えれば、そもそも命題Fが何を意味しているかも判然としないことに気付く。何故なら、命題Fに含まれている「白上フブキ」という固有名が示す対象はこの世界のどこにも存在していないからだ。もしあなたが「白上フブキ」という固有名を用いる際にあの白髪で狐耳の生えた女の子の実在を主張しているなら、それはそれであなたは生物学を大きく更新してしまうように思われる。常識的に考えれば「白上フブキ」なる固有名にはそれが指す対応先が存在しない。よって、「白上フブキ」という単語及び「白上フブキ」を用いた文が何を意味しているかは不明ということになる。

補足2:ただし、もし白上フブキが端的に存在しないという立場を取るとしても、「白上フブキ」という単語を含む命題の全てが真ではないとは限らない。例えば、「『白上フブキ』の二文字目は『上』である」や「白上フブキは存在しない」といった命題は、白上フブキが存在しないとしても真であるように思われる。

さて、ここまで述べたことによれば、あなたがかなり気合いの入った狂人でない限り、命題Fは良くて真ではなく、悪ければ意味不明であるようだ。

だが、わたくしが自信ありげに述べているところに反して、あなたの常識はむしろ声高に否と叫ぶ頃合いであるに違いない。というのも、「命題Fは意味不明だ」という主張は明らかに直観と合致しないからだ。ここまで上記の通り語ってきたわたくしであろうとも、日常的な会話では命題Fが真であると述べることは否定できない。このことは「白上フブキは女性である」と「白上フブキは男性である」という二つの命題を比べることでよりはっきりする。我々は明らかに前者の方が後者よりも何らかの意味で真であるという確信を持っているし、どちらも同じくらい意味不明だと言って並べて棄却する振る舞いはそれはそれで狂人じみていると言わざるを得ない。そして、こうして現に性別についての言説を診断できる以上、白上フブキもまた何らかの意味で存在すると言わざるを得なくなってくる。

ああ、わたくしはもう全くわからなくなってしまった! 白上フブキは存在するのか、そして命題Fは真なのか?

だが幸いにも、わたくしの残してきた記述にはそれを解決するヒントが眠っているようだ。注意深い読者がわたくしよりも先に勘付いていたと期待したいのは、ここまで命題Fの真理値について、わたくしは一貫して「真ではない」という表現しか与えていないことだ。わたくしは「真ではない」とは言ったが「偽である」とは言っていない。というのも、その二つが同値であるとは限らないからだ。確かに標準的な二値論理においては「真ではない」は「偽である」を意味するが、三つ以上の真理値が可能な場合はその限りではない。

命題Fが言葉通りの意味で真ではないのは明らかだが、かといって端的に偽であるとすることにも大きな抵抗があり、むしろ何らかの意味では真なのだ。こうした曖昧な立場を調停するために、ここで第三の真理値としてわたくしは「命題Fは虚構的に真である」という回答を認めることにしよう。命題Fは何らかの虚構においては真である。すなわち、確かに現実世界には白上フブキは存在しないが、ある虚構世界においては白上フブキが存在し、かつ、その世界において白上フブキは狐である。命題Fはこの現実世界では偽かもしれないが、その虚構世界においては真なのだ。

もし我々が命題Fを「虚構的に真である」と胸を張って言えるようになるのであれば、もう少し都合よく拡大解釈すれば、「ある虚構世界において」を意味する句として「虚構的に」を用いることもできるだろう。例えば、「虚構的に白上フブキは存在する」「虚構的に白上フブキは女性である」「虚構的に白上フブキは綾鷹を好む」は端的に真であるとして良いように思われる。これらは現実世界の話ではなく、虚構世界の話として提示されているからだ。

補足3:以下、「虚構的に真である」「虚構において真である」「虚構世界で真である」といった表現を全く同じ意味で用いる。

さて、我々は「虚構的な」という句を発見することによって、白上フブキの虚構的な存在と虚構的な命題の真理値を得ることに成功したことにしよう。そろそろ種明かしをすると、ここまでの話はVtuberに限ったことでもなく、一般的なフィクション全般に関しても同じことが言える。すなわち、「白上フブキ」ではなく「シャーロック・ホームズ」についても全く同様の議論が展開できる。例えば命題「シャーロック・ホームズは名探偵である」は『シャーロック・ホームズ』の世界で虚構的に真だと言えよう。念のために繰り返すと、それは「『シャーロック・ホームズ』の世界にはシャーロック・ホームズが存在し、その世界においてシャーロック・ホームズは名探偵である」を意味するのだった。

しかし、わたくしが関心があるのはフィクション一般についてではなく、あくまでもVtuberについてである。よって、フィクション一般とVtuberの共通点を見つけて喜んでいるわけにはいかないのだ。わたくしが真に発見しなければならないのはVtuberの独自性であり、それはフィクション一般とVtuberのむしろ相違点であることをここではっきり述べておきたい。わたくしの大きな目的の一つとして、ここまでに述べてきたような「虚構世界の存在者」及び「虚構的な命題の真理値」の二点について、フィクション一般から区別されるVtuberに特有の事柄を発見し、その背景や帰結について論じることがある。それは現実世界にいる演者の手が届かない虚構世界において、Vtuberが小説やアニメのキャラクターとはどのように異なる存在なのかを探ることでもある。

だが、わたくしは少し先走りすぎてしまったようだ。わたくしが本論に入る前に語るべきことは山積みになっており、それらは主として以下の二点に集約される。

まず第一には、Vtuberを論じる言説の中でのわたくしの立ち位置を固めなければならないことがある。これはわたくし個人の狭い観測範囲に依存した偏狭な見解であることは前置きしておかなければならないにせよ、今ここでわたくしが扱おうとしている「Vtuberの固有名」だとか「Vtuberに関する命題の真理値」だとかいう話題は、よくVtuberについて論じられているような事柄とは大きくかけ離れているように思われてならない。冒頭でも軽く触れたように、「Vtuberのガワと魂」がどうとか、「Vtuberのペルソナ」がどうとか、「Vtuberのロールプレイ」がどうとかいう、もっとそれらしい話題は山のようにあり、どちらかと言えば読者はそちらへの関心が高い傾向にあるはずだ。もしそうならば、わたくしが卑怯にも脇道から行おうとしている哲学めいた話はメインストリームの話題に対してどういったポジションに置かれるのかを詳しく説明する義務があるだろう。ついでに言えばわたくしはあまり哲学的な話題に馴染みのない読者にも容易に理解できる文章を書きたいと思っているし、そのために前提を明記しない飛躍や無駄に権威的な引用を避けた記述を心掛けたいと思っている。その際に捨象されざるをえない正確さや誠実さについては、ある程度は補足や参考文献で弁明するが、生け贄に供されるものが少なくないことを許して頂きたい。 

そして第二に、哲学的な議論の基盤をもう少し真面目に固めなければならないことがある。今まで当たり前のように書いてきた「白上フブキは虚構世界に実在する」という理屈は、人生でフィクションに慣れ親しんできたオタクたちにとっては直感的に理解できるものだと信じたい一方、それ以外の人々にとっては全くそうではない。というのも、それは「別世界の存在」などという明らかに形而上学的で疑わしい主張を含むからだ。これは命題Fを真であると主張するのと同じかそれ以上に了解し難いと糾弾されることは容易に想像できる。その完全なる解決は望むべくもないとしても、わたくしの主張にはどういった背景や代替案があるのかくらいは提示する義務があるだろう。幸いにも、その作業もまたフィクション一般に関する分析をベースにして行うことで、Vtuberだけの際立った特徴の発見に繋がることをわたくしは最大の自信を携えて予告しておこう。

プロローグの最後に、わたくしは「Vtuberの定義」なるものを行わないし行う気も無いということを述べておきたい。強いて言えば、「わたくしがVtuberとして思い浮かべているキャラクター」という主観的にして個別的な定義を挙げるしかない。わたくしが頑なにVtuberの定義を避ける理由は、定義自体が不毛であることと、定義を固く定めて論じる営みが不毛であることの二点ある。

まず第一に定義が不毛であるというのは、Vtuberという言葉の定義は内包と外延のいずれもが主に拡張される方向で日々目まぐるしく変化し続けていることを念頭に置いている。無理にVtuberの定義を設けようとしたところで、あまりにも自明な条件によってVtuberの豊潤な特徴を捉え損なうか、あまりにも厳しい条件によって限られたVtuberの先鋭化した特徴しか論じられないかで終わるだろう。その暗澹たる末路よりは、必要でも十分でもないことを自覚した定義もどきで満足することの方が、最終的には優れた結論を導くとわたくしは信じる。

そして第二に定義を固く定めて論じる営みが不毛であるというのは、枠組みの硬直した議論を展開するよりも、Vtuberの定義が更新されることに併走して更新していけるような柔軟な議論の枠組みを用意する方が有益であるということだ。今いるVtuberの定義に対してのみ適用できる一過性の議論を繰り広げることの生産性の低さはそろそろ周知されていると信じたい。わたくしが妄想するVtuberの定義もどきが変化して時代遅れになるようであれば、新しい定義もどきに沿うように議論を組み立て直せばいいだけなのだ。その再建に必要なパーツは用意するつもりである。そしてそれは将来的な広がりだけではなく、今ある広がりに対しても言える。すなわち、今いるVtuberの中でもわたくしの定義もどきにそぐわないVtuberがいるならば、その暫定的例外に合わせて議論の細部を改訂する仕事はあなたにお願いしたい。その改修に必要なツールを用意するのもやはりわたくしの仕事である。これは甚だ傲慢な意欲ではあることは承知しているが、わたくしは場当たり的な各論ではなく頑強な原論を志向しているのである。

さて、これで準備は整った。本稿の構成は以下の通りである。第二節ではVtuberに対する言語的な関心の水準を整理することで、既存の言説に対する本論の位置付けと、本論が持つ関心を明確化する。第三節と第四節では哲学的な基盤を固める作業を行う。第三節では固有名について記述説と因果説を対立させた上でVtuberの固有名に関しては後者が親和的であることを示す。第四節ではフィクション一般における世界の不完全性について論じた上で、Vtuberがそれを受け入れたり克服したりする可能性を示唆する。第五節では虚構的な命題の真理値を決定する方法について論じ、Vtuberに特有のロールプレイを演者をオミットした意味論的観点から解釈する。第六節では本稿のまとめに加えて参考書籍を紹介するという体裁で本稿の不備に関する言い訳を一通り並べて結びとする。

2.白上フブキを語るとはどのようなことか:言語的フィクションを語る三つの水準

既に察しが付いているように、わたくしが行うVtuberの探求は言語的な戦略を取る。すなわち、Vtuber自身が行う営み及び、我々がVtuberに対して行う営みが言語によることを前提する。

わたくしが不誠実にもわたくしの論が取り落とすものに関して黙秘していると思われないためにここで言わなければならないことは、言語的な側面はVtuberが持つ様々な側面のごく一部に過ぎないということだ。よってわたくしが言語的な戦略を取ると宣言することは、ただちにそれに沿わない要素を少なからず捨象することを意味する。例えばVtuberが喋ったり歌ったりするときの聴覚的な音階や声色、指のトラッキング等の微細な視覚的効果、Vtuberとコミュニティの間で取り交わされる金銭的な交換など。

だが、幸いにも我々の言語はVtuberの営みを記述するのに十分すぎるほどの表現力を持っている。先ほど除外したような言葉を伴わない活動が副次的なものに過ぎないと言うつもりはないが、Vtuberの主な活動の一つは言語的なそれであるということくらいは試しに主張してみたところで完全に反駁されるものではないように思われる。実際、Vtuberからの発信にはトークやツイートがあり、コミュニティからのレスポンスにも配信へのコメントなり同人誌なりブログなりがあり、そうした言葉を介して行う活動が最大派閥の一つを占めるという見解は最大まで譲歩してもまだ正当でいられるだろう。

さて、Vtuberを言語的な側面から語るという試みが最も親和的なのは配信型のVtuberであることは間違いない(この鍵括弧内ではVtuberの代表としてではなく固有の性質を持つものとして言及するのだが、例えば白上フブキがそうだ)。配信型のVtuber、すなわちほとんど編集動画の投稿をせずに生配信で雑談やゲーム実況をするようなVtuberにおいては、動的には表情や口パクを示す程度の3DモデルやLive2Dが画面の一部を占めるに過ぎず、視覚的効果への関心が明らかに低下している。そこでは主に本人の声と視聴者のコメントによる言語的な応酬によってVtuberという営みが駆動する。とはいえ、わたくしは本稿の関心が配信型のVtuberにしかないと誤解されることを大いに警戒している。わたくしの前置きが言わんとすることはあくまでも「配信型のVtuberを思い浮かべると理解が容易であるかもしれない」という程度のことでしかなく、実際にはもっと幅広い適用先を持つ論となることを意図している。

補足4:わたくしはVtuberに関わるパロールエクリチュールの違いについて掘り下げるつもりはないし、それらはむしろ言語的な営みであるという点で同一項として括るだろう。

補足5:むろん主として言語を用いないVtuberもいるし、例外は常にある。だが、例外に対して敏感に言及することが不毛であるのは既に述べた通りであり、例外だと感じるものは適宜議論から除外するなり、議論を変形させるなりの対応を読者側に求めたい。

わたくしが言語的な側面への注目を宣言したことにより、分析に際してVtuberとの比較の足場とするフィクション一般についても、主として言語的フィクションを扱うことになる。さしあたって、最も典型的には小説を、近縁のバリエーションとしては演劇の台本や設定資料集や言語化されたあらすじなどを想定して頂ければよい。なお、漫画やアニメのようなかなり視覚寄りの媒体であっても、Wikipediaに記載される情報のようにテクストへと加工したものであれば言語的フィクションの一例として考えることもできるだろう。

補足6:以下、単に「フィクション」とだけ書いたときは言語的フィクションを想定していると考えてよい(彫刻や絵画を想定しなくてもよい)。

さて、これからやりたいことはフィクション一般と比べてVtuberがどのような顕著な特徴を示すかの分析である。ただし、フィクションの特徴と言ってもそれには様々なものがある。例えば、「~ぺこ」というような妙な語尾の使用だったり、「狐が人語を解する」というような現実とは異なる事態だったり、演者が日常会話と違って演技をしているというような言葉の使い方の違いだったりする。これらを一緒くたにして扱うことには無理があるので、まず最初の仕事として、フィクションがその特徴を示す水準について三つの区別を確認しておきたい。すなわち、統語論・意味論・語用論という三つのレベルについて、それぞれの水準で語るということがどのような論点を含むのかをはっきりさせておこう。最初に前置きしておけば、わたくしの関心があるのは主に意味論の水準であり、他の二つは関心を正確に峻別するためのガイドとして敷設していくに過ぎない。

まず第一に、統語論の水準について。統語論とは語彙の選択や語を繋げる文法の選択のように、言葉の形式的な使われ方を論じることを指す。例えば、「今日は寒いな」と「寒いな、今日は」を比べたとき、語順の形式的な逆転について関心を向けるのであれば、統語論的な関心が作用していると言える。

フィクション一般における統語論的な効果としては、独特の語彙や文法が用いられることがよく知られている。例えばフィクション特有の語彙としては、「どんぶらこ」という擬音語が挙げられる。「どんぶらこ」という語は日常生活ではまず使用しないものであるから、それが登場した瞬間に「これは恐らくフィクションの一節だな」と考えるのは自然な推測であろう。また、フィクション特有の文法としては、「過去を示さない過去形」が挙げられる。例えば「明日は誕生日だった。」という文は小説の一節として読めば明日が誕生日であることを示すものとして自然に読めるが、会話で使用した途端に過去形で未来を示すという時制的に奇妙なものになってしまう。

補足7:一応、「明日が誕生日であることを今思い出した」という状況で「明日は誕生日だった!」と叫ぶことは日常的にも自然である。ただし、その際の「だった」は「思い出した」の流れを汲む過去形ないし完了形であり、単に「誕生日である」と言うときの「である」を過去形にしたものではない。正直に言えば、わたくしは日本語には詳しくないのでこの文法分析にはあまり自信がないのだが、ともかく今わたくしが認めて頂きたいのは以下のことである。通常の会話で「明日は誕生日だった」の使用が自然であるケースは「明日が誕生日であることを今思い出した」というような特殊なシチュエーションに限られる一方、フィクションにおいては「ずっと前から明日が誕生日であることを知っていた」というシチュエーションを含め、特に含意の無いフラットな記述として読めるだろうということだ。

他にもフィクション特有の特殊な語法としては奇妙な人称があるだろう。例えば、小説においては「ホームズはとても不安になった」のように、誰が語っているのか明確に特定できないような、いわゆる三人称視点が用いられることが珍しくない。この一節をホームズが語っていることは有り得ないし、かといって他の誰かが語っているとも考え難い。というのも、ホームズはぶりっ子のOLのように自分のことを自分の名前で呼ぶわけではないし、他の誰かであれば何故彼の心情をはっきり確信して語れるのかが不明だからである。

総じて、統語論的な水準においては、フィクション一般に独特なしるしが見られると言えよう。

補足8:こうしたフィクション一般に見られる奇妙な統語論的性質が何に由来して何を示すのかは本稿の関心外なので一旦脇に置いておく。そうした特徴が観測されるということだけとりあえず把握して頂ければ十分である。

補足9:ただし、フィクションにおいても統語論的なしるしは何ら存在しないという立場もある。わたくしはさしあたり統語論的なしるしの存在を肯定するが、正直に言えばその方が論の展開に都合が良いというだけなので、否定派から議論を再構成して頂いても構わない。

ところが、統語論の水準においてVtuberは奇妙な挙動をほとんど示さない。キャラ付けのための独特な一人称や語尾の使用は見られるが、それを除けばVtuberが発する言葉は我々が日常的な会話で発する文と完全に同じであると言ってもよいように思われる。白上フブキが「明日は誕生日だった」と述べたとして、その言い回しは少なからず独特なものか、補足で述べたように余計な含意を含むものと感じられるだろう。そして我々がVtuberを語る際に用いる文章からも異常な過去形や三人称視点は放逐されている。

補足10:ただし、Vtuberに関連する営みでありながら、Vtuberをキャラクターとして用いた創作ではこの限りではない。例えば、わたくしが白上フブキの穏やかな一日を綴る小説を執筆したとして、そこで「明日は白上フブキの誕生日だった」という文を用いることは適切である。ただし、それはVtuberというよりはVtuberをダシにしたフィクション一般であると考えても問題ないように思われる。よって、わたくしはこれ以降「Vtuberをキャラクターとして用いた創作」は必ずしもVtuber固有の特徴を示すものには含まれないとして、フィクション一般とVtuber固有の特徴を比較する文脈では原則として考慮しないことにする。それに不満がある方は自ら論を補正すること。

よって、Vtuberは「一般的にフィクションに見られる性質を示さない」という消極的な意味で統語論的に顕著な性質を持っていると考えられる(もちろん、わたくしが些末な事柄であるとして棄却した「独特な一人称や語尾」に注目し、それだけが残っていると表現して頂いても構わない)。この取っ掛かりから、その消極的性質が会話劇や演劇における発話と全く同様の事情で発生しているのかなどの議論を更に掘り下げていくことは有効であろう。だが我々の関心はこの水準にはないため、その捜索はひとまずここで打ち切ってしまおう。

続いて第二に、意味論の水準について。これは文字通り言葉の意味を巡る水準、すなわち文の命題としての真偽であるとか、固有名の指示について論じるレベルであると考えて頂いてよい。既に述べた通り、この水準こそわたくしの関心先として後節でよく掘り下げるものであるので、今は簡単に意味論と存在論の関係について紹介するだけに留めておこう。

補足11:ところで「命題」をきちんと定義するのは実はかなり厄介なのだが、差し当たっては「表現のバリエーションに依存しない判断の中身」くらいの理解で良い。「白上フブキは女だぜ」と「白上フブキちゃんは女だよ」と"Shirakami fubuki is a woman."の三つは統語論的な表現としては明らかに異なっているが、それが言わんとする内容が全く同一であることはわかるだろう。つまり、命題としては「白上フブキは女性である」なのだ。説明を少し先取りするが、命題を巡る意味論は統語論的な語彙の違いや語用論的な状況の違いには原則として関心を持たないと考えて頂いてよい(ただし厳密に言えば意味論も完全に状況から逃れられるわけではないということは、「私は男性である」という命題の真偽がその話者の性別に依存することからわかる)。

わたくしが関心を持つのは「白上フブキ」のような虚構的な固有名の指示と、命題F「白上フブキは狐である」のような虚構的な命題の真偽の二点であることは既に述べた。これが虚構的でない場合、つまり「実在の固有名」を用いた「実在的な命題の真偽」なら話は簡単だ。例えば「ソクラテスは狐である」は端的に偽である。というのも、「ソクラテス」という固有名に対応するおじさんが確かに存在し、かつ彼は人間であって狐ではなかったからだ。一方、「白上フブキは狐である」においては、白上フブキが狐であるか否かを判定するに際して「白上フブキ」という固有名に対応する少女が存在するか否かがまず問題となる。よって、意味論的な問題意識においても、「白上フブキ」という固有名が指す先としての存在を考える議論が必要になってくるということだ。

補足12:念のため書いておくが、「ソクラテスが本当に存在していたかどうかはわからない、そしてそもそもこの世界に私の認識を離れて独立に存在しているものなどあるのか?」などという懐疑論は積極的に棄却する。哲学的な議論だからといって常にそのレベルで疑う必要は無い。わたくしは常識的な存在論的感性を信じているので「常識的に考えて存在すると思われるものは存在する」とだけ述べてこの話を終わらせる。ただし心の底から「今目に見える富士山が本当に存在しているかどうかわからない」と不安に思っている人も稀にいるようではあり、あなたがその手の例外者でないことを祈るしかない。

最後に、第三の語用論の水準について。これは言葉が使われる状況や話者の意図について論じる水準である。語用論的に異なる言葉の使い方とは、例えば教育勅語復活を目指す極右のコミュニティで「天皇万歳!」と叫ぶことと、天皇制打倒を目指す極左のコミュニティで「天皇万歳!」と叫ぶことを比べれば良い。前者ではこの言葉は文字通り「天皇は素晴らしい」というメッセージになるが、後者ではそれは真逆の意味を持つ皮肉となるだろう。このように発する言葉が全く同じでも、話し手や受け手の持つ意図や文脈によって言葉が持つ内容は変化しうる。

フィクション一般においては、話者とは作者に相当するので、語用論的には作者がどのような意図や状況でフィクションを語っているかを考えることになる。その問いには無数の回答があり得るが、典型的なアンサーとして「フィクションの文面は本物の主張ではない」という考え方は直感的に最も理解しやすいように思われる。というのも、日常会話で「東京に震度3の地震が発生した」と述べることは現に東京に震度3の地震が発生したと話者が主張していることを意味するが、フィクションの文中に「東京に震度3の地震が発生した」と書くことは現に地震が発生したと作者が主張していることを意味しない。この例を以て今ここでわたくしが言わんとしていることは、語用論的な関心の下ではフィクションにおける記述は作者の言語使用として、作者と結びついて捉えられる傾向にあるということである。

さて、Vtuberにおいて、言葉を使う話者=フィクションを語る作者は明らかにVtuberの演者であろう。冒頭にも挙げたような「演者がどうやってVtuberを生み出しているのか」といった演者の言葉の使い方や意図を問題にするタイプの議論は語用論の水準にある。また、ここで詳しい解説をするつもりはないが、「魂とガワ」「転生」「ペルソナ」「ロールプレイ」あたりのジャーゴンも主にはこの水準で開発され、大きな関心が向けられてきたように思われる。

補足13:正確に言えば、語用論とは必ずしも作者や演者のような現実に存在する言語使用者にのみ紐付くものではない。もっと緩く「言葉の使われ方」の問題であると考えるならば、とりあえず言語を使用していると措定できる主体や、言語が機能していると思われる環境さえあれば、語用論的な議論を開始することはできる。例えば「小説内部におけるキャラクターの語り方」や「看板に書かれた文字が解釈される様子」を論じることがそれに相当する。そしてわたくしのモチベーションはあくまでも演者という視点をパージすることにあるので、必ずしもVtuber自身の語用論までも排斥する必要はない(とはいえ積極的に言及する予定もないが)。つまり、わたくしが誠実であるために密輸入してはならないのは語用論の中でも特に「演者の語用論」に限られる。

わたくしが語用論の水準を紹介することで読者と認識を共有しておきたいのは、「演者の言語使用という視点を持ち出さずに議論を行いたい」ということに尽きる。冒頭でも宣言したように、わたくしの最大の目標は演者をパージした限りにおいてのVtuberの存在を捉えることにある。しかし、演者の言語使用にその存在や命題真理値の根拠を帰すような実に人間的な分析は極めて魅力的であり、少しでも気を抜けばそのようなやり方で問題を収拾したくなる。だが、今仮に白上フブキの演者をMさんとすれば、白上フブキではなくMさんに関心を向ける道はキャラクターそれ自体に達する道ではない。まさしく白上フブキとして名指される美少女その人に出会う唯一の道は、演者の意図や発話の水準を自覚的に退け、時には形而上学的胡散臭さを纏うとしても、ただひたすらに存在論を切り詰めることであると信じる。わたくしの持つモチベーションと演者の言語使用という局面の噛み合わなさは、わたくしが固執する存在についての議論が、演者を持ち出した途端に「まるで白上フブキというキャラクターであるかのように言葉を用いるMさんが『存在する』」と述べるだけで店仕舞いとなる不毛さからも理解して頂けよう。

補足14:語用論の水準での議論を正確に行うためには、Vtuber自体の固有名と演者の固有名を厳密に切り分ける必要がある。演者の固有名としては、Googleの検索窓に「白上フブキ 前世」と打ち込むと一番上に出てくる「も」で始まる女性のハンドルネームを使いたい誘惑には抗しがたいものがある。しかし必要以上の解像度で演者に言及することを蛇蝎の如く嫌う人間が相当数いることをわたくしは大いに承知している。わたくしはそうしたマナーを遵守することが有意義だとは決して思わないのだが、本筋を外れたところでヘイトを集めるのは本意ではないことと、正確なハンドルネームを用いなくても議論には何ら支障はないことから、演者の固有名を用いる必要があるときはそれを「Mさん」と書くことにしたい。

補足15:なお、語用論の水準でVtuberを語る際に最強の切り札になるのは間違いなくケンダル・ウォルトンのメイクビリーブ理論であるように思われる。実際のところ、わたくしがその魅力に抗うのが最も難しい道具立てだと感じているのもそれなのだ。極めて広範な射程を持ち、かつ、フィクションの本質をごっこ遊びと見做すウォルトンの理論はVtuberとの相性が良すぎる。それはあまりにもVtuberに対して強力すぎるが故に、それを用いてVtuberの分析することが、ただひたすらに理論の正しさを追認する当てはめゲームに終始してしまうのではないかと心配になるほどだ。

さて、ここまでVtuberを含むフィクションの特徴を語る水準を統語論・意味論・語用論の三つに区別してきた。こうした水準の違いは発言自体を分類するものではなく、個々の発言を様々なアスペクトから見るものであることに注意されたい。例えば、白上フブキによる「今日はマインクラフトを実況しまーす」という発言について、それぞれの水準で関心があり得る論点としては、具体的には以下のようなものが挙げられよう。統語論的には、彼女が「実況するぜ!」でも「遊びます」でもなく「実況しまーす」という言い回しを使っていることに関心があるかもしれない。意味論的には、この発言を受けて「白上フブキがマインクラフトを実況する」という命題にどのような真理値が与えられるかに関心があるかもしれない。語用論的には、Mさんが実際にマインクラフトを遊ぶという行為の遂行を意図した発言であるのかどうかに関心があるかもしれない。

しつこいようだが、わたくしは意味論の水準で「白上フブキ」というような固有名の指示と、「白上フブキは狐である」というような命題の真偽の二つに関心があるということは述べてきた通りである。他の水準に浮気することのないように細心の注意を払いつつ、次節から本来の関心がある議論へと歩を進めよう。

3.白上フブキを指示するとはどのようなことか:直接指示と因果説

「虚構的な固有名の指示」と「虚構的な命題の真偽」の二点について関心があることは既に何度も述べてきたが、本節で扱うのは前者についてである。

わたくしが当初に命題F「白上フブキは狐である」のソリューションとした「虚構的に真」という真理値は、虚構世界に存在する虚構的存在者の指示に成功することを前提としていた。既に注意した通りこれはある種の異世界を認めるという点で、かなり強力な形而上学的主張を含んでいる。とりわけ、「白上フブキ」という固有名について、現実世界と虚構世界を越境して指示に成功しているという貫世界的な能力が認められることがその最たるものだ。「白上フブキ」という固有名が世界の内実に依らずにただ一つの白上フブキという対象への指示を行えることを、「直接指示」と呼ぶことにしよう。むろん直接指示があるからには、やや不正確な表現ではあるが、「間接指示」をそれに対置するのがわかりやすかろう。

ここで本節でのわたくしの目的を少々先取りして言えば、直接指示である因果説と、間接指示である記述説とを対比させ、Vtuberについては前者に軍配が上がると主張することにある。以後、まずは記述説についてしばらく説明を行い、その難点を解決する別案として因果説を取り上げ、フィクション一般及びVtuberでの適用を比較するという手順で着実に議論を進めていこう。

ということで、まずは記述説について。「記述説」などと言うと堅苦しい学説のようだが、その内実は「固有名を記述の束と同一視する」ということに過ぎず、それは我々が日常あまりにも当たり前のように行っていることであるから、逆にわざわざ説の名を冠させることに読者が困惑するのではないかとわたくしは心配になってしまうくらいだ。

固有名を記述の束と同一視するということを具体的にやってみよう。例えば固有名「ソクラテス」には「古代ギリシャ時代の人物である」「哲学に強い」「毒杯で死んだ」などの様々な性質が付随していると思われるので、命題「ソクラテスは男性である」は以下のように書き換えることができる。

「あるものがただ一つ存在し、それは古代ギリシャ時代の人物であり、哲学に強く、毒杯で死に、そしてそのようなものは男性である」

補足16:∃x(古代ギリシャ(x)∧哲学(x)∧毒杯(x)∧∀y(古代ギリシャ(y)∧哲学(y)∧毒杯(y)⊃x=y)∧男性(x))と書いた方がわかりやすい読者が一定数いることは承知しているが、この表記を説明するための一節を設けるよりは、この手の表記を省く方が効率的だというわたくしの判断を尊重して頂ければ幸いである。

要するに、ソクラテスが持つ様々な性質の連言を取って存在命題とみなすことによって、命題からは「ソクラテス」という固有名を消去できる。具体的に言えば、「ソクラテス」と書く代わりに、「あるものがただ一つ存在し、それは古代ギリシャ時代の人物であり、哲学に強く、毒杯で死ぬ」と書くわけだ。実際にはソクラテスが持つ性質群は三つどころではなく、「プラトンを弟子とした」「哲人王思想を持つ」「わりと嫌われていた」等々を含む膨大なリストになるだろうが、それら全てをかき集めてソクラテスを特定するのに十分な記述の束を作成し、それを固有名の代わりに用いると考えて頂いて構わない。ソクラテスを説明するのに十分な性質を数え上げたものが作成できると仮定した上で、そのリストを「ソクラテスの性質リスト」とでも呼ぶことにしよう。固有名を記述の束であると考える記述説においては、「ソクラテス」という固有名を「ソクラテス的性質のリスト」と同一視する。この戦略は我々が固有名を説明する際に日常的に行っていることである。実際、わたくしが「ソクラテスとは何か?」と聞かれたとして、わたくしが行うのは「古代ギリシャ時代の人物で、哲学に強くて、毒杯で死んで、わりと嫌われていて……」のような思い付く限りの性質の列挙だろう。

この記述説の直感的な正しさはと言えば、今のところ他に固有名を説明する仕方など有り得ないようにすら思われるほどだが、すぐに困ったことが起こってくる。それは「反事実的条件が有効である」という事態によってである。反事実的条件とは文字通り事実に反する条件のことで、これも具体例から入るのがわかりやすかろう。例えば、以下のように仮定を条件として含む命題を考える。

命題S:「もしソクラテスが毒杯を飲まなかったら、ソクラテスはもっと長生きしただろう」

素朴に考えると命題Sは真であるように思われるが、偽である状況も考えられないわけではない。例えば、意外にも寛大な裁断によってソクラテスは死刑を免れたために毒杯を飲まなかったが、その帰り道にアテナイを歩いているときにうっかり足を滑らせて頭をぶつけて死亡したようなケースである。

他にも色々なケースを考えることは出来そうだが、実を言えば、わたくしがこれから行う議論においては命題Sの真偽そのものはあまり重要ではない。毒杯を飲まなかったソクラテスがどのくらい長生きできるかは実はどうでもよく、我々が命題Sを理解するに際して「毒杯を飲まなかったソクラテス」を自明に想定できてしまうことが本当の問題なのである。

ここで先ほどの記述説を思い出して頂きたい。それによれば、「ソクラテス」という固有名は「ソクラテス的性質のリスト」と全く同一であり、そのリストには「毒杯で死んだ」という性質も含まれていたのであった。このとき、「もしソクラテスが毒杯を飲まなかったら」という反事実的条件は、「ソクラテス的性質のリスト」から「毒杯で死んだ」という性質を除外することに等しい。そしてその「『ソクラテス的性質のリスト』から『毒杯で死んだ』という性質を除いたリスト」は明らかに「ソクラテス」とは同一視できない。何故なら、「ソクラテス」と同一視されるのはあくまでも「ソクラテス的性質のリスト」であり、「『ソクラテス的性質のリスト』から『毒杯で死んだ』という性質を除いたリスト」は「毒杯で死んだ」という性質が除外されている点において「ソクラテス的性質のリスト」と異なるものだからだ。要するに、命題Sの前件たる反事実的条件によってリストの更新が行われたことで、「ソクラテス」という固有名は命題Sからは失われたと言わざるを得ないのである。

だが、我々は命題Sの後件で「ソクラテスはもっと長生きしただろう」と述べる時点で、明らかに「ソクラテス的性質のリスト」から「毒杯で死んだ」を除外した何者かを「ソクラテス」と呼んでいる。これこそが大問題なのだ。「ソクラテス」と同一視されるはずの性質のリストとは異なるものを依然として「ソクラテス」と呼んでいる以上、「毒杯で死んだ」という性質は「ソクラテス」という固有名とは無関係だったと言わざるを得ない。何故なら、毒杯を飲もうが飲まなかろうが我々はソクラテスを指示できてしまうからである。この議論は「ソクラテス的性質のリスト」に含まれる全ての性質に対して適用できる。「ソクラテスが女だったら」という反事実的条件から始まる文を我々は当たり前に理解できる。

こうして、一つの驚くべき結論が帰結する。「ソクラテス」という固有名はソクラテスが持つ性質とは全く関係なく、ソクラテスその人を指すのである。これにより、虚構世界という状況の異なる世界においてもソクラテスを指示できる道が開けてくる。というのも、記述説とは原則として現実世界に準拠する考え方だからだ。記述説によって固有名を記述の束に分解する際、そのリストに記載されている性質は現実で実現されているものに他ならない。よって、記述説は確かに現実世界においては有効である一方、反事実的条件を付与した異なる世界においては効力を失い、固有名の対応先を見失ってしまう。何故なら、反事実的条件で記述されるような異なる世界においては、固有名の対応先が持っていると思われる性質も当然異なってくるからだ。それに対し、固有名の対応が性質の記述に依らないと考える直接指示の道は反事実的な世界においても有効であり得る。

こうして記述説を退けることは、Vtuberを含むフィクション一般の虚構的存在者が現実世界でない虚構世界に存在すると考えるにあたって極めて強力に作用する。というのも、記述説の枠組みにおいては命題Fや命題Sは記述の束を用いた存在命題へと帰着される以上、存在しない虚構的固有名を含む命題は意味を持たないものとして退けられざるを得ないからだ。

補足17:厳密に言えば、「固有名を記述の束に分解する」という発想がただちに虚構的存在者を退けるわけではない。というのも、虚構的固有名でも適当な性質の束に分解することは依然として可能であるように思われるからだ。例えば、「白上フブキ」という固有名を「狐である」「綾鷹を好む」「少女である」といったリストと同一視することはできる。だが、この場合はそれらの性質群を何に帰せばよいのかが問題となる。性質はそれ自体単独で命題を構成するものではなく、それが帰されるところの存在者を必要とするからだ(「『狐である』は狐である」ではなく「狐であるものは狐である」と言わなければならない)。結局、記述の束を用いた固有名の解釈は、それが命題の中で用いられた途端に性質が帰される存在者に関する存在命題を呼び込まざるを得ない。

実際、「シャーロック・ホームズが男性でなかったら」「白上フブキが女性でなかったら」といった反事実的条件も、毒杯を飲まなかったソクラテスと同様に明らかに有効に作用するものであるから、固有名「シャーロック・ホームズ」「白上フブキ」も記述とは無関係に直接指示してもよいという主張は筋が通っているように思われる。

そして、こうした反事実的条件の取り扱いに関しては、実在する人物やフィクション一般の固有名よりもVtuberの固有名がとりわけ親和的である。すなわち、ソクラテスシャーロック・ホームズよりも白上フブキの方が反事実的条件を想定しやすいのだ。というのも、Vtuberは時々刻々と変化するコンテンツであるために記述説であれば固有名が還元されるところの性質の束が極めて流動的だからである。更に、Vtuberは現実に存在する人物に対しては物理的な制約を受けないという点において、既存のフィクション一般に対しては正典とされるテクストを固定されないという点において、潜在的な可変性が相対的に高い。この二点についてはもう少し詳しく論じる必要があるだろう。

まず現実世界においては物理的な制約は非常に強固であり、いくらわたくしが「ソクラテスが男ではなかったら」と述べたところで、ソクラテスのペニスがヴァギナに変わることなど起こり得ない。現実世界で性質の実現可能性を規定している物理法則なるものが自然科学という近代的イデオロギーが作り出した擬制であるかどうかはともかくとして、フィクション一般に比して相対的に実現される性質の幅が狭いということくらいは抵抗なく認めて頂けるだろう。

その一方、小説や劇台本においては虚構的存在者が持つ性質は物理的制約から解き放たれて想像の翼を纏う。小説内の話であればソクラテスが性転換することはいくらでもあり得よう。だが、今度は性質の記述が有限な正典テクスト内に限られるという強い制約を負ってしまう。例えば『シャーロック・ホームズ』シリーズにおいて、「シャーロック・ホームズ」が持つ性質は書籍内に列挙されたもので全てである。コナン・ドイルが没した今、『シャーロック・ホームズ』の正典はこれ以上増えないため、現状で存在する書籍に記載された性質を否定するような性質が新たに出現することはない。結局のところ、シャーロック・ホームズの性転換もソクラテスの性転換と同じくらい起こり得ないのだ。

補足18:わたくしは今ここで正典の定義に関する問題、例えば極めて権威的な二次創作において新たに付与される性質をどう扱うかというような問題については立ち入って論じるつもりはないが、少なくとも小説においては有効な記述が「ここからここまで」と量的に決まっていることくらいは同意して頂けるだろう。

つまり、「ソクラテスが男性でなかったら」「ホームズが男性でなかったら」という反事実的条件は機能するが、これらはまさしく起こり得ない反事実として措定されるものに過ぎず、我々はただ言説としてこれらを理解できるに過ぎない。それらに比べると、Vtuberにおいては、おたくどもがいみじくもよく言うようにコンテンツが「開いている」。それは二次創作ではなくVtuberのオリジナルが日々様々な媒体によって更新されるというほどの意味であり、具体的には毎日の動画投稿ないし配信やツイートで思いもよらぬ新情報が開示されることを挙げておけば十分だろう。我々が寝たり食ったりしている瞬間にも白上フブキが持つ性質は唐突に更新される可能性が常にあり、それは墓より蘇ったコナン・ドイルが突然シャーロック・ホームズの設定を更新することに比べればよほど現実的だ。作者が存命の小説やアニメのキャラクターでも性質リストの更新はせいぜい離散的にしか行われないのに比べ、Vtuberにおいては配信中は連続的に性質リストが更新され続ける。そしてそれは現実の事物とは異なり物理的な制約を受けないことから、極めて突飛な更新ですらも許容されよう。潜在的な性質の変容を大いに受け入れるという意味で、Vtuberの固有名は記述的な捉え方よりも直接指示の捉え方に親和性が高い。

補足19:念のために述べておくが、これはVtuberに限ったことでもなく、物理的制約を受けず、かつ、流動的なコンテンツにおけるキャラクターであるものに関しては同様である。例えば、ソーシャルゲームのキャラクターも同じ理由で潜在的な性質の可変性が高い、すなわち直接指示に親和的であろう。技術的な変化に応じてコンテンツ展開の枠組みが変化しつつあり、その急先鋒として運営型のジャンルとしてのVtuberソーシャルゲームがあるように思われる。

さて、ここまではVtuberの固有名に関して、記述に依らずに直接に指示を行うという発想を肯定してきた。次にただちに浮上する問題は、固有名を記述の束から独立したものと考えたとき、如何にして固有名の指示先を特定できるかである。というのも、固有名が記述の束ではないと考えることは、固有名の内実を説明する際に記述を利用できないことを意味するからだ。例えば「白上フブキとは何か」と聞かれて「Vtuber」とも「女の子」とも「狐」とも言わずに説明することは果たして可能だろうか?

ここで発想を大きく変えて、固有名は社会的に受け渡されていくことによって指示を追跡すると考えたい。例えば、ソクラテスの親だか友人だかが聴衆の前でソクラテスの右側に並び、すぐ左を指さして「彼がソクラテスです」と紹介したとしよう。この名指しによって、聴衆は今指さされている彼こそが「ソクラテス」という固有名の対応先であることを彼の性質とは無関係に知ることができる。むろん、人間の寿命はたかだか百年かそこらであるから、固有名の持ち主その人を指さして紹介できる期間はそう長くはないだろう。とはいえ、書物や伝聞を通じて間接的に固有名をある特定の対象に紐づけ続けることは依然として可能である。実際、我々も倫理の教科書か何かによって「ソクラテス」という固有名と並べてある人物を紹介されることによって、今まで固有名が辿ってきた長い道程を逆に辿り、当初のソクラテスにまで行き着くことができると考えられよう。

こうした、「固有名を受け渡すことで指示を繋ぐ」という因果的な連関に固有名の同定能力を見出す説明を、記述説に対比させて因果説と呼ぶ。また、ソクラテスが聴衆に紹介されるように、固有名の対応先が紹介や伝聞によって受け渡される過程を「因果連鎖」と呼ぶ。因果連鎖の終端が我々にまで辿り着いた固有名だとして、因果連鎖の始端には固有名の指示先が初めて固定される瞬間がある。それはソクラテスが生まれた瞬間に親が彼を取り上げて「この子はソクラテスだ」と叫ぶ瞬間であり、これを「命名儀式」と呼ぶ。「命名儀式」によって固定された固有名の対応先が「因果連鎖」によって紹介や伝聞で受け渡されることで、固有名は対応先を追跡できるというわけだ。

補足20:わたくしはなるべくテクニカルタームを避けて本稿を執筆することを冒頭で決意したのだが、因果説における「命名儀式」と「因果連鎖」に限っては説明の都合で仕方なく用いることにした、というのは真っ赤な嘘で、この何かの技名のようなクールなフレーズたちを使いたくて仕方なかったのである。

さて、フィクション一般について、虚構的固有名に因果説を適用するに際しての最大の問題は、果たして命名儀式が有効かどうかである。最も愚直に考えれば、フィクション一般の虚構的固有名における命名儀式とは、その固有名が紐付けられるキャラクターが生まれた瞬間の名付けであろう。だが、その瞬間には作者を含めた誰も実際に立ち会ったわけではない。如何にコナン・ドイルとて、「ホームズはこのようにして生まれて名付けられたことにしよう」と考案するのが精々で、「ホームズがこのようにして生まれて名付けられたのを実際に見た」と主張するほどエキセントリックな創作スタイルを持っていたとは言うのはなかなか難しい。よって、固有名「シャーロック・ホームズ」を巡る因果連鎖は命名儀式にまで辿り着かずに途中で切断され、因果説による説明は無効となるように思われる。

とはいえ、我々の当初の問題意識が「記述によらずに固有名の指示を行うにはどうすればよいか」であったことを思い出そう。それを踏まえれば命名儀式の本来の役割とはあくまでも「最初に固有名に指示を固定すること」であり、それに成功する限りは必ずしも誕生の瞬間に立ち会う瞬間はない。

実際、フィクション以外の文脈では存在しない対象に命名儀式を行うことは可能であり、その典型例として惑星「ヴァルカン」という固有名が挙げられる。ヴァルカンとは19世紀頃に太陽系の一員として水星の内側に存在を予言された惑星であるが、現在ではその仮説は誤りとされて存在しないことになっている。よって、ヴァルカンが目視で観測されたことは人類史上で一度もなく、最も厳しく想定した場合の「シャーロック・ホームズ」の例と同様、「ヴァルカン」の因果連鎖も命名儀式まで辿り着くことはない。だが、不可視のヴァルカンが真剣な議論の対象となっていた時代があったことから明らかなように、固有名が有効であるには必ずしも直接に視認する段階が必要なわけではない。重要なのは、架空の対象であろうが物理学の理論的枠組みによってともかく指示を固定することであり、その限りにおいて疑似的な命名儀式が有効だったと言ってよいだろう。シャーロック・ホームズについても同様であり、コナン・ドイルが『シャーロック・ホームズ』シリーズの最も早い段階で特定の描写と共に「シャーロック・ホームズ」という固有名を用いた時点で指示が固定され、のちに因果の鎖を繋ぐ命名儀式が疑似的に行われたと考えることは理に叶っている。

以上のように、わたくしはフィクション一般を含む非存在の対象に対しても固有名に対して因果説による直接指示が有効であると主張する。これをVtuberに適用したとき、Vtuberにおける命名儀式とは何か。それが「初投稿動画」ないし「初配信」であることは言うまでもない。

補足21:初投稿動画による命名儀式は主に短い動画を編集して投稿するタイプのVtuber、初配信による命名儀式は主に生放送を行うタイプのVtuberが行うものであるが、以下の議論にはどちらを用いても支障がないため、白上フブキが後者であることに鑑みてさしあたり「初配信」と書くことにする。

繰り返すと、記述に依らない固有名の指示が有効であると考えるに際して必要な命名儀式におけるポイントは「指示を固定すること」であった。よって、目下の問題は「初配信は指示を固定するか否か」に帰着される。わたくしの答えは以下の通りである。「初配信は指示を固定する。それも、フィクション一般よりも更に強力に」。

そもそも初配信において、Vtuberは自らの固有名をどのように自らに紐付けるだろうか。それは自己紹介によって、すなわちVtuber自身が名乗りを上げることによってである。典型的には「新人Vtuberの白上フブキです」というようなフレーズを用いて、白上フブキは自らが白上フブキその人であると宣言する。このやり方が、シャーロック・ホームズ命名儀式よりも強力な理由は二つある。

まず一つは、命名儀式が別の誰かではなくVtuber自身の申告である点だ。小説等のフィクション一般においては、キャラクター自身が自らの固有名を申告することによって命名儀式を行うことはそう多くはない。最も典型的なのは、三人称視点の持ち主というあの誰だかわからないが少なくともキャラクター自身ではない何者かの語りによって、地の文にキャラクターの名前が記載されるパターンだろう。その一方、Vtuberにおいてはキャラクター自身が明確に自らの責任において自らの固有名を申告することでそれを自らに紐づける。それはオギャーとしか言わない赤ん坊に両親が代理で名付けを行う現実の命名儀式よりも強力なものですらあり得るかもしれない。

もう一つは、命名儀式が他の誰かに向けてではなく我々に向けた固有名の固定を明確に企図している点だ。確かに小説やアニメにおいても、キャラクター自身の自己申告によって命名儀式を行うパターンもないわけではない。例えば、転校生が黒板に自らの名前を書き付けて自己紹介するシークエンスがそうだ。だが、その場合でも転校生は読者ではなくクラスメイトに対して自らと固有名の対応を固定しているのに対して、Vtuberはカメラではなくリスナーに対してそれを行っている。もともと因果説とは固有名が流通するような社会的なコミュニティを前提したものであるから、固有名を受け渡す企図が明確に存在することは今後の因果連鎖の有効性を担保するにあたって大きな加点要素となる。これに比べれば、小説を読んで我々が固有名をキャラクターに結び付けるのは、それが語り手が第四の壁を突破しているようなメタフィクションでもない限り、せいぜい不当な盗み聞きに過ぎないと言わざるを得ない。

補足22:とはいえ、わたくしが誠実であるために自ら指摘しておかなければならないことは、この命名儀式の有効性に関する議論には論点先取のきらいが若干あることだ。わたくしは白上フブキが虚構世界に住むことを正当化するために命名儀式の有効性を立証しなければならないのであって、虚構世界に住むことから命名儀式の有効性を導くのは手順が逆である。「疑似的な命名儀式」という保険をかけた表現によって胡散臭さをいくらかは緩和できるにせよ、このマジックワードがどこまで有効であるかは判然としない。

補足23:関連して、Vtuberにおける因果連鎖の有効性についてもわたくしとしては強く主張することには躊躇いを覚えざるを得ない。というより、むしろ最大の問題は命名儀式のあとに因果連鎖が成立するかどうかにかかっているようにすら思われる。というのも、本来は因果連鎖による追跡が有効であるためには、指示先の個体が常に時空間的に同一であって、ある瞬間に突然離れた空間から出現したり、昨日から明日にワープしたりしないというような連続性があることが必要だからである。それは誰かが視覚的に確認するわけではないにせよ、そういう確信を伴っていなければ因果連鎖は成り立たない。この成立がVtuberに限っては若干怪しいところがある。むろん、魔法が解けることを恐れたシンデレラのように「疑似的な因果連鎖」という表現に逃げるのも一つの手ではあるが、いずれ戻ってくるためのガラスの靴が用意できるかどうかは疑わしいところだ。謙虚なわたくしとしては、「白上フブキが因果的同一性を維持することを前提するならば、命名儀式からの因果連鎖によって直接指示が成立すると強力に主張できる」と条件付きの形で述べるのが妥協点であるように思われる。

本節の議論をまとめておこう。固有名を記述の束に還元する記述説に対抗し、我々はVtuberについては固有名を記述によらない対象への直接指示と見做し、その手段として命名儀式と因果連鎖によって固有名の指示先を追跡する因果説を擁立したい。その理由として、Vtuberにおいては固有名が持つべき諸性質の潜在的な可変性が相対的に高いことと、初配信における命名儀式が強力であることの二点が挙げられる。

4.白上フブキの住む世界とはどのようなものか:虚構世界の不完全性と空白の補充

前節において、わたくしは反事実的条件の理解が可能であることを根拠として、「白上フブキ」という虚構的固有名によって現実的な性質の記述には依存せずに虚構世界にいる白上フブキを同定できることを見た。それを受けて、本節では白上フブキが属するところの虚構世界について取り扱う。

補足24:ただし、指示が有効で有りうることはただちに指示先の存在を意味するわけではないことに注意されたい(プログラミングに明るい読者はポインタ型変数の値がnullであるような場合を想像せよ)。それは白上フブキが虚構世界に存在することを認めるための必要条件であって十分条件ではないのである。わたくしは依然として白上フブキが虚構世界に存在することの完全な立証には成功していないし、正直に言えば、それは永久に不可能であるように思われる。

今まで漠然と用いてきた世界というタームについてもそろそろ明解な定義を与えておこう。さしあたり、世界とは真である命題の集合とする。例えば、世界のうちの一つである現実世界は「ソクラテスは人間である」「地球は太陽の周りをまわっている」「人間は二百年以上は生きない」といった真なる命題を全て集めた集合と同一視できる。今回は存在者のリストも存在命題を用いて真なる命題の集合に繰り込んでしまおう。すなわち、ある世界にxが存在することは、「xが存在する」という命題が真としてその世界を構成していることによって表現する。

フィクション一般の舞台となる虚構世界も世界の一つであるから、それを命題の集合として構成することは、直感的にも問題がないように思われる。例えば『シャーロック・ホームズ』の世界、すなわち『シャーロック・ホームズ』において真である命題の集合においては、「シャーロック・ホームズが存在する」「シャーロック・ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」といった命題群がその元となろう。

ただし虚構世界においては、現実世界と違って真とも偽とも断定できない命題が無数にあることが知られている。その典型的な例として以下の命題がある。

命題H:「シャーロック・ホームズの髪の本数は奇数である」

もしわたくしがホームズに匹敵する名探偵だったとしても、命題Hが真実かどうかを見抜くことは永久に不可能であると思われる。シャーロック・ホームズの髪の本数が作中で直接描写されたことは一度も無いし、その手がかりすら全く見当たらないからだ。よって命題Hを真と言うのも偽と言うのも落ち着かないが、かといって、命題~H「シャーロック・ホームズの髪の本数は偶数である」も全く同様に真とする理由がない。だがH∨~H、すなわち「シャーロック・ホームズの髪の本数は奇数か偶数である」が真なのは明らかであり、通常の推論規則が成り立つとするならばHか~Hのいずれかは真でなければならない。

さて、この「Hも~Hも真とは言えないような命題Hがある」という事態は「世界が不完全である」と表現できる。一般に、ある世界が完全であるとは「あらゆる命題pについてpか~pが真である」ことを指す。要するに、全ての命題で真か偽かが定まって真偽不明の命題が無いということだ。一般的に言って、虚構世界においては現実世界と違って世界の完全性が担保されない。

ここで、世界の完全性は検証可能性の問題ではなく、原理的な問題であることに注意されたい。現実世界においても「ソクラテスが毒杯を飲み終えた瞬間に髪の本数が奇数だった」を検証することは実質的には不可能であり、その真偽を決定できることはあり得ないと言ってよい。だが、現に真か偽のどちらかであったことは明らかである。これに対し、シャーロック・ホームズの場合は髪の毛の偶奇は最初から決まっていない。ソクラテスの場合は実際に真理値が決まっていた時点や座標があるのにも関わらず実効的な限界によってそれが得られないのだが、シャーロック・ホームズの場合はそもそも最初から真理値が決まっていないためにどんな手段を用いてもそれを得ることができないのだ。

賢い読者は「命題Hは真か偽かのどちらかには決まっていることにしてしまって、例えば暫定的に真として虚構世界を構成してしまえばよいではないか」と思われるかもしれないが、命題の集合を世界と同一視してしまった今、事態はそれほど簡単ではない。命題Hのように作中で全く手がかりが得られていない命題は無数にあり、それら全てを暫定的な真理値で構成した命題の集合、すなわち世界には無数のパターンが考えられることになるだろう。よって、天文学的な奇跡でも起こらない限り、読者によって『シャーロック・ホームズ』の世界は全くバラバラであることになる。もしそうであるならば、我々は同じ作品の舞台の話をしているつもりで実際には全く異なる舞台について語っているという著しく直感に反する結論を導いてしまう。

それよりは、作品が提示するのは単一の世界ではなく世界の集合であるとした方がまだ穏当だろう。つまり、命題Hのように真偽を決定できない命題に関しては、それが真であったり偽であったりする世界全てを含めた「世界の集合」を構成するのである(世界が命題の集合であったことから、世界の集合は集合の集合であることに注意されたい)。この「世界の集合」に含まれる世界はいずれも「ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」といった明らかに虚構的に真である命題を含んでいる一方、「ホームズの髪の本数は奇数である」や「ホームズの髪の本数は偶数である」といった命題を含むか否かは世界によってまちまちである(ただし、どの世界も奇数バージョンか偶数バージョンのいずれかは必ず含んでいる)。つまり、簡単のために世界に含まれる命題が四つしかないとするならば、『シャーロック・ホームズ』が提示するのは以下の二つの世界を合わせた世界の集合であることになる。

世界1:「ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」「ホームズの髪の本数は奇数である」

世界2:「ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」「ホームズの髪の本数は偶数である」

ただし実際には命題Hのような真偽が判然としない命題は無数にあるため、作品が提示する集合に含まれる世界は膨大な数になることに注意されたい。このように世界の集合を扱う路線は個々の虚構世界の特殊性を解消するために取り回しが良く、Vtuberと衝突するような懸念点も特にないので、我々もこれに素直に従うことにしよう。次節以降ではわたくしはVtuberを含めたフィクションが世界の集合を提示するという見方を採用することにする。

しかしそれとは別の選択肢として、世界の不完全性をむしろ積極的に認めてしまう道と、逆にそもそも世界の不完全性を認めずに完全な世界を構成する道の二つがあることは確認しておきたい。これら二つの道は次節には持ち越さないが、それは議論の都合で暫定的にそうするというだけの話であり、決して無効なものとして棄却するからではない。むしろVtuberに限っては建設的な見方をいくつも提示する有望な選択肢たちであることをわたくしは胸を張って言える。

まず、一つ目の世界の不完全性をむしろ積極的に認める道について。つまり、虚構世界で判然としない命題の真偽を無理に定めて補充したり、いくつもの案の重ね合わせとして集合を作ったりするのではなく、虚構世界をいくつかの空所がある不完全な「歯抜け」の世界であるとそのまま認める方向性である。

この路線が極めて興味深いのは、世界の不完全性がただちにそこに所属する存在者へと感染することだ。すなわち、シャーロック・ホームズのような虚構的存在者もまた髪の毛の偶奇に関する情報をそもそも持たないような、空白のある不完全なキャラクターということになる。今まではシャーロック・ホームズのようなキャラクターをソクラテスのような実在の人間と同様に捉えることを自明の前提としてきたが、もう少し抽象的な存在者として捉えることが可能になるわけだ。自身の性質に歯抜けがあることを許容する抽象的な存在者としては、例えば「寓意」や「種」や「理論的対象」が挙げられる。以下、それぞれを簡単に紹介した上でVtuberとの親和性を確認しておきたい。

まず第一に「寓意」について。もっともわかりやすい例で言えば、さしあたり教訓的な童話を考えて頂ければよい。例えば、イソップ童話の「北風と太陽」における「北風」や「太陽」や「旅人」といったキャラクターを考えよう。この童話には明らかに「人には厳しく当たるより優しく接する方が良いこともある」という教訓が込められており、それを踏まえれば、「北風」とは「厳しさ」一般の擬人化、「太陽」とは「優しさ」一般の擬人化、「旅人」とは「気紛れな人間」一般の擬人化であろう。彼らは我々人間のように物理的に充実した生物というよりは何らかの性質を象った曖昧な存在者であり、髪の毛の本数などは設定されていなくても問題にならない。これをキャラクター一般に適用するならば、シャーロック・ホームズもまた決して我々と同じ生物としての人間ではなく、「優秀でやや変人な探偵」一般の寓意と考えることになる。

次に第二に「種」について。種とは生物学的な意味合いのタームと考えて頂いて構わない。つまり、具体的な個体ではなく、それらが共通して持つ特徴だけを抽出して構成した類型としての分類のことだ。例えば、「ダックスフント」という種について考えよう。わたくしが飼っている「ダッちゃん」「フンちゃん」の二匹が持つ体毛の色や体型は各個体によってまちまちで、命題Hが定まらなかったのと同様、一意な合意は得られそうもない。だが、その一方で「四足歩行である」「胴が長い」といった共通する特徴もあり、それら共通項だけを取りまとめたものが「ダックスフント」という種であると考えられる。この種においては、具体的に実現される個体から一致する性質だけを抜き出して記載しているのであるから、不完全である方がむしろ自然だ。これをキャラクター一般に適用してみると、『シャーロック・ホームズ』という小説で描かれる「シャーロック・ホームズ」とは要するに一部の性質だけを記した「シャーロック・ホームズ種」に過ぎないという見方ができる。

最後に第三の「理論的対象」について。これは物理学における「光子」や「ニュートリノ」と類比的に考えて頂ければよい。そうした理論的なタームが指す対象が実在するかどうかはまた厄介な議論を呼び込むのであまり言及したくはないのだが、少なくとも理論的対象は知覚によって直接観測されるものだけに限られるわけではない。理論的対象の中には、観測の産物というよりは理論的な枠組みの中で存在を予言される仮説的な存在者に過ぎないものも多くあるだろう。つまり、「光子が存在する」という主張は「物理学理論においては光子が存在することになっている」という読み替えを要求する。こうした存在者については実際に存在を主張しているのではなく、括弧付きで理論上での存在を主張しているのに過ぎないのであるから、その性質が理論に依存して不完全なものであることには問題が無い。これをフィクションに適用すると、「ホームズが存在する」という主張は「文学的な解釈や読解においてはホームズが存在する」へと読み替えられる。それはホームズそのものへの言及と言うよりは理論的な枠組みを経由した間接的な言及となり、我々が文学的な営みの対象にする限りにおいての存在であるから、現実の事物と異なって不完全であることにはやはり問題が無い。

さて、Vtuberに対してこれらの案を適用してみよう。

まず第一に、Vtuberを寓意と見做すことはあまり有望でないように思われる。というのも、キャラクターを寓意と捉える見方は「キャラクターやイベントが何を象徴しているのか」という象徴的な水準での読解を要求するからだ。太陽も北風も一連の営みがあって初めて優しさや厳しさの寓意を帯びるのであって、単独で見たところで何を示しているのかはわからない。つまり個々のキャラクターというよりはそれが物語全体の中でどのような位置付けを占めるかに関心があり、物語的構造の中でキャラクターが取るポジションこそがそれが何を寓意としてカリカチュアしたものかを定めるのである。このように、寓意という見方はキャラクターよりもプロットを重く見ることを前提するのだが、Vtuberにおいては明らかにキャラクターがまずありきで、その後にキャラクターの行動が決まってくるという手順の逆転がある。キャラクターがどのようなプロットを描くかは常に開かれており、いつまで待っても物語的構造が確定することはない。よって、Vtuberを寓意とする見方は不可能とは言わないにせよ、極めて親和性が低いように思われる。

補足25:とはいえ、いわゆる「属性」として性質のカリカチュアライズがVtuberに纏わりついていることも紛れもない事実であり、「属性」と「寓意」の違いについてはもう少し綿密な議論をしてもよいようにも思われる。これはあまり自信のない暫定的な回答ではあるが、わたくしにとってはその存在全てがある性質で尽くされるような場合は寓意であり、逆にせいぜい存在の一部をある性質が占めるに過ぎない場合を属性と呼ぶのが直感に合っている。不完全性の議論に合わせるならば、寓意がある性質に尽くされない部分を空白として放逐する一方、属性はむしろ空白部を補充することを前提としているように思われる。

次に第二に種について。Vtuberを種と見做すことは、寓意よりはまだ見込みがあるように思われる。というのも、実際にVtuberが命題Hのような暗黙の未確定設定だけではなく、明示したはずの設定ですらも変更して、パラレルな個体として自らを示すことは珍しくないからだ(この括弧内では特殊な事例として言及するが、黒上フブキがそれである)。ビジュアルとそれに付随するいくつかの設定についてのVtuberのマイナーチェンジはよく行われるところであり、この営みを「本来は種であるキャラクターが放送の回に応じて異なる下位種ないし具体物を生成している」と解釈することに何ら不都合はないように思われる。さて、「個々の事例を分析する各論はやらない」と冒頭で宣言したが、今から三センテンスだけその誓約を外すことを許して頂きたい。というのも、キズナアイという例外的なVtuberに限って言えば、「キズナアイとは個体ではなく種である」と述べるのはほとんど事実であるように思われるからである。周知の通り、キズナアイは全く同じ見た目を持つキズナアイの下位種をいくつも生産して同時並行的に動画配信を営んでおり、せいぜい共通項を括り出すだけの種の名前として「キズナアイ」という固有名を運用している。これは明らかに虚構的存在者の不完全性を逆手に取った営みであり、影響力に鑑みればここで言及しないわけにもいくまい(ここから再び誓約をかける)。

最後に、第三の理論的対象にもかなりの説得力があるように思われる。わたくしにはこれを否定する強力な根拠はあまり思い付かない。というより、わたくしが今まさに書いているこの文章が理論的な営みであるという点で、この説を語ろうとするときそれは常に自己言及的な正統性を主張できてしまうという繰り込まれた構造がある。逆に言えば、わたくしが今まさにそれをしているということ以上にどのような合理性があるかについてはわたくしには手の余る議題であり、いずれ検討が行われることを期待したい。

補足26:なお、このように空白を含む存在者としてVtuberを捉えるのであれば、(わたくしの当初の想定とは異なり)Vtuberは虚構世界ではなく現実世界に存在すると考える路線を取ることもできる。というのも、Vtuberが我々と同じように特定の時空間を占める具体的存在者として現実世界に存在することは有り得ないというだけで、「ダックスフント種」のようにもう少し抽象的な存在者であれば、現実世界に所属していると考えることに不都合はないからだ。我々との相違点を収拾するための選択肢が「所属する世界」「存在者のタイプ」の二つあると表現してもよいかもしれない。

さて、ここまでは世界の不完全性を積極的に認めてしまう道について論じてきたが、それとは全く逆に、そもそも世界の不完全性を認めない道もあると数段落前に予告したことはまだ覚えているだろうか。その第二の道が意味するのは、Vtuberには世界の完全性を担保できる可能性、すなわち世界内のあらゆる命題について真偽を定められる可能性があるということだ。何故なら、我々は命題Hのように真偽の判然としない命題を見つけたら、当事者のVtuberにそれが真か偽かを聞けばよいだけだからである。「白上フブキの髪の本数は奇数である」という命題の前で頭を悩ませるよりも前に、白上フブキに直接「髪の本数は奇数ですか?」と聞けばよいのだ。しつこく赤スパを送り続ければ、白上フブキが自分の髪の毛の本数を数えて「奇数でした」とか返答してくれることもあるだろう。それでめでたく命題の真偽が確定する。原理的には、これを繰り返すことで世界と存在者の完全性を担保できる。

すなわち、Vtuberが持つ「双方向のコミュニケーションが可能である」という性質は、世界及び存在者を構成する命題の集合という観点からは、「完全性を担保できる」という性質として発現しうる。これはキャラクター自身が質問と回答を受け付けるVtuberに固有の特徴であり、フィクション一般とは明確に異なると言ってよい。むろん、実際には無限の時間がかかる作業を終えることは不可能だろうが、実現可能性が無いことは現実における命題の確定と同じことだ。経験的に可能かどうかではなく原理的に可能かどうかが問題だということは既に述べた通りである。

補足27:賢い読者Aは、Vtuberがリスナーへの応答によって空白を補充する営みは、作者が作品の解説によって空白を補充する営みと何が違うのかを疑問に思うかもしれない。「久保帯人TwitterBLEACHに関する質問に無限に答える」という作業でも虚構世界内を原理的には無限に充実できるという意味では同じことではないかというわけだ。しかし、わたくしにとって決定的な違いは、第二節でしつこく注意したように、Vtuberの例では演者や作者という視点を持ち出さずに空白を補充できる点にある。実際、「空白を補充するのは白上フブキではなくMさんではないか」という反論に対しても、わたくしは「Mさんとは誰ですか」と切り返すことができる。

補足28:賢い読者Bは、応答によって空白を補充できるタイプのキャラクターはVtuberに限ったことではないことに気付くかもしれない。例えば、くまモンのようなゆるキャラがそうだ。くまモンもまた、「体毛の数は奇数ですか?」という質問に対して100%の精度で作者を持ち出さずに真偽を確定できる(なお、そこで問われているのは着ぐるみに生えている毛の本数ではないことは言うまでもない)。これに関しては、少なくとも虚構世界に完全性を担保するという議論においてはVtuberゆるキャラは同様に理解できることを認めざるを得ない。つまりわたくしはそれをVtuberならではの特徴ではないことを認めることになり、あとは感覚的な類似ではなく論理的な議論によって意外なところに隣接領域があることを発見できるのも一つの成果だという逃げ口上を残すことしかできないようだ。

こうして、白上フブキを完全な一世界に住まわせることは原理的に可能であり、シャーロック・ホームズとの対比という観点から言ってそれはかなり魅力的かつ有力な提案であるように思われる。残念ながら、次節においてはフィクション一般との比較検討を行いたいという便宜的な理由で世界の集合を扱うことになるが、完全な一世界を構成する方向でVtuberの存在に関する議論を深めて頂いても一向に構わない。

この節の議論をまとめておこう。世界を命題の集合と捉えたとき、フィクションにおいては世界の不完全性をどう処理するかという問題が生じてくる。大枠としては我々はフィクション一般において最も穏当と思われる道、つまり作品によって提示されるものを一世界というよりは世界の集合として捉える戦略を採用して次節に進む。だが、その副産物には実り多いものがあり、不完全性をむしろ積極的に認めたり、逆に不完全性を完全に棄却したりする路線を取る可能性においてもVtuberの独自性を見出すことが出来よう。

5.白上フブキは狐なのか:虚構的命題の真偽

前節では、Vtuberが所属する世界の完全性について検討した。他のフィクション一般と異なって一世界を取ることができるとする提案は極めて魅力的であるが、以下の議論では決定不能な命題のバリエーションを全て備えた世界の集合が提示されると考えることにしておこう。

本節では命題の真理値について考える。言うまでもなくその検討の対象はVtuber自身ないしVtuberの所属する世界に関する命題だが、とはいえ、その中にも改めて検討する価値のあるものとそうでないものがある。すなわち、命題の真理値の怪しさにもいくつかの水準があるのだ。我々が最初に行う必要がある作業は、世界の不完全性の議論において「シャーロック・ホームズは男性である」と「シャーロック・ホームズの髪の毛の本数は奇数である」を区別したように、真偽が自明に確定する命題とそうでない命題を峻別することである。

この作業はそこまで困難ではないと思われるかもしれない。というのも、当の作品がはっきり提示するものを前者、そうでないものを後者とすればよいだけのように思われるからだ。小説においては単にテクストに表記されているかどうか、Vtuberにおいては主にVtuber自身が自己申告したかどうかで区別できるだろう。概ね、白上フブキ自身が断定している事柄については真であるとしてよいように思われる。

とはいえ、これは決してVtuberに限ったことではないのであるが、ただちにここで問題になるのが、いわゆる「信頼できない語り手」の問題である。というのは、語り手が嘘を吐いていた場合、つまり虚構世界の実態と異なる報告を行っていた場合、何が真で何が偽なのかが全くわからなくなってくるということだ。わたくしはVtuberの発言は時に過去の発言を覆すことも含めて常に更新されていくと述べてきた以上、ここで都合よく白上フブキは絶対に嘘を吐かないと信じてしまうわけにもいかない。

一見すると、信頼できない語り手に関する話題は語用論に属する問題として棄却してよいように思われるかもしれない。すなわち、発話に嘘を含めるかどうかは純粋に言葉の使い方の問題に過ぎないため、我々の関心対象ではないという逃げの一手が打てると思われるかもしれない。しかし、今考慮しなければならない信頼性の問題は作者や演者ではなく虚構的存在者に紐付いたものである。第二節でも述べた通り、立場上わたくしが棄却できるのは演者の言語使用のみであり、キャラクターの言語使用においては立ち止まって検討しなければならない。

しかし、この問題をこれ以上深堀りすることは難しい。『シャーロック・ホームズ』でも語り手のワトソンは完全なる薬物中毒者で、記述の一切は彼の妄想の報告に過ぎないとしてしまうことは不可能ではないが、それは不毛な懐疑論というものだ。その極論とVtuberに固有の発話の自由さを同一視することがフェアではないことは承知しているが、最大限譲歩してVtuberが完全に信頼できる権威ではないということを念頭に置いた上でなお、常識的な判断によって一部の命題は自明に真であることにできるとしておこう。

少し脱線が長くなったが、わたくしが今言わんとしていることは、フィクション内で自明に真とできる命題が一定数存在する一方で、そうではない命題の真偽をどのように考えるかが我々の関心事だということだ。その区別は前節で世界の不完全性の議論に際して行った区別と完全に一致しており、前者がある作品が提示する世界の集合全てで真である命題、後者が個々の世界によって真偽がまちまちな命題に対応する。

前提を整理したところで本論に入っていこう。フィクションにおける真偽は通常、反事実的条件を含む命題の解釈と類比的に捉えられる。よって、しばらくは現実における反事実的条件を含む命題について考えよう。

命題T:「もしスカイツリーがいきなり倒れたら、少なくとも数十人の犠牲者が出るだろう」

この反事実的条件を含む命題Tは真であるように思われる。スカイツリーがいきなり倒れたら展望台に登っていた観光客はだいたい皆死んでしまうだろうし、下敷きになった墨田区民も無事ではいられまい。

さて、例によって、命題Tの真偽そのものはそこまで重要ではない。ポイントはいまわたくしが命題Tを解釈するにあたり、スカイツリーが倒れたという一点以外は現実となるべく一致するように想定したということだ。というのも、わたくしはスカイツリーがいきなり倒れるような空想の世界について考えているのだから、スカイツリーが倒れた瞬間にフワフワのマシュマロになる世界とか、スカイツリーが倒れた日だけ奇跡的に誰も来場者がいなかった世界を考えても良さそうなものだ。それらのケースではスカイツリーが倒れても死者はそう多く出ないだろうから、命題Hは偽と言っても構わないことになる。だが、我々は通常そうしない。命題Hを解釈するにあたっては「反事実的条件以外は現実に合わせて温存したまま後件の真偽を考える」というルールで解釈を行うことになっている。今は我々が何故かそう解釈してしまうと言う認知的な問題については深堀りしない。重要なのは、ともかくそのような機構で反事実的条件の解釈が行われるということだけだ。

これをフィクションに適用してみよう。

命題P:「『シャーロック・ホームズ』の世界において、ペンギンは卵生で繁殖する」

は真か偽か。これは恐らく真であるように思われる。

補足29:わたくしは『シャーロック・ホームズ』内でペンギンの生態についての言及、例えば「ペンギンは雌雄が番になって卵を産む」とか「ペンギンは分裂して増える」とかが記載されていないという前提で以下の話を進める。しかし全てを読んで確認したわけではないので、万が一どこかでホームズやワトソンがペンギンの生態について言及していたとしたら、わたくしは甚だ不適切な例を選んでしまったことになる。

何故なら、現実世界においてペンギンは卵生で繁殖するからである。『シャーロック・ホームズ』はどうせフィクションなのだから、ペンギンが胎生で繁殖する世界でもいいいだろうとは我々は通常は考えない。「フィクションにおける設定以外の部分は現実に合わせて温存したまま後件の真偽を考える」というのが我々の流儀なのである。

既に察しは付いているだろうが、命題Tと比較して考えたとき、命題Pのケースにおいては「『シャーロック・ホームズ』の世界において」という前件が反事実的条件として機能していることがわかる。つまり、フィクションの設定というのは「そのようなキャラクターは現実にはいない」とか「そのような事件は現実に起きていない」という点において事実に反しているという意味で反事実的条件の一種であり、その真理値決定方法を受け付けると理解できる。

ここで、前節で主張して冒頭でも確認した通り、フィクション一般が提示するのは単一の世界というよりはむしろ世界の集合であったことを思い出そう。それらの世界においては「ワトソンはホームズの助手である」のように作中から明らかに真とされる命題については全て真であるが、「ペンギンは卵生である」のように真偽の明確でない命題についてはそれを真とする世界と偽である世界が混在している。もう少し具体的に言えば、『シャーロック・ホームズ』を表現する世界の集合の元である世界3では真なる命題として「ワトソンはホームズの助手である」「ペンギンは卵生である」が含まれており、世界4では「ワトソンはホームズの助手である」「ペンギンは胎生である」が含まれているとする。

更に加えて、少なくとも我々が行った「虚構的に真」の定義によれば、フィクションにおける命題の真理値を決定することは、どの虚構世界(群)を真理値の判定に用いるかを決定することと等価である。というのも、極めて簡単な話で、わたくしが世界3を命題Pの真理値判定に使うことにすれば『シャーロック・ホームズ』の世界でペンギンは卵生だし、世界4を使うことにすれば『シャーロック・ホームズ』の世界でペンギンは胎生なのである。そして、実際のところわたくしは世界3を用いることが妥当であり、それは世界4よりも世界3の方が現実世界に近いからなのだった。

以上の考察を踏まえて、わたくしは以下の法則を得る。「虚構作品における命題の真理値は、虚構作品が提示する世界の集合のうち、最も現実世界に近い世界における真理値と一致する」。無数に想定できる世界の集合に対して、現実世界がいわば基準座標として振る舞い、そこからの不要な逸脱を禁ずるのである。この法則を用いれば『シャーロック・ホームズ』の世界においても恐らくソクラテスは毒杯を服したのであろうし、水素二つと酸素一つが結合すると水になることが言えよう。少なくとも、それは『シャーロック・ホームズ』の世界ではソクラテスは毒杯ではなくギロチンで死んだのだと主張したり、水素二つと酸素一つが結合すると金になるような独特の化学法則が働いているのだと主張したりするよりはもっともらしいと思われる。

だが、これがある程度は正しいだけの原則に過ぎないことは、以下のような状況を考えることで明らかになる。例えば、あなたがありふれた没個性的なファンタジー小説を読んでいたとして、その作中で角と翼を持つ馬のような生き物、いわゆるペガサスが初めて登場したとする。先ほどわたくしが発見した法則によれば、このペガサスは空を飛ぶとは考えられない。というのも、可能な限り現実に引き付けて考えるのであれば、そのペガサスは我々のよく知る馬に角と翼のように見える異常な器官が生えた変種に過ぎず、そのような生物が空を飛ぶことは物理的に考えて有り得ないからだ。ライト兄弟とて、あの決して大きくない翼が馬の体重を支えて安定飛行できるとは考えるまい。つまり、ペガサスが空を飛ぶと考えるためには物理法則の大幅な改変という現実世界からの重大な逸脱を要求するので、現実に沿おうとする限りはペガサスは飛ばないと推測されるのである。だが、ストーリーを読み進めていくうちにそのペガサスが空を飛んだとして、あなたは驚くだろうか。「まさか角と翼のような部位を持つ馬の変種が空を飛ぶなんて予想外だ」と言うだろうか。言うわけがない。ペガサスは空を飛ぶものだ。ペガサスが登場した時点でどこかで空を飛ぶことは予想されていた事態であり、むしろ飛べない方がファンタジーとしては新鮮ですらある。

法則と矛盾したこの事態を収拾するのはそう難しくない。先ほどの法則を改訂し、現実世界だけではなくファンタジージャンル一般の共通認識を集めた最大公約数的な世界(そこではペガサスが空を飛ぶ)もまた基準座標として採用でき、そこからの逸脱が禁じられることもあると考えればよい。こうした、基準座標とする世界には様々なマイナーチェンジがあり得る。例えば、天動説が信じられていた時代に書かれた小説においては明示的な記述がなくても太陽系の惑星は地球の周りを周っているだろうし、スピリチュアルパワーの実在を信じるコミュニティで描かれた小説においては明示的な記述が無くても超能力とかテレパシーが用いられていると考えるべきだ。こうした事例を全て拾い上げるのには労力がかかるので、これらは共有された信念の世界、共有信念世界とでも言っておこう。これにより、先に得た法則を少し改善し、「虚構作品における命題の真理値は、虚構作品が提示する世界の集合のうち、現実世界か共有信念世界に近い世界における真理値と一致する」というバリエーションを用いたい。

補足30:世界間の距離、すなわち「現実世界に近い」「共有信念世界に近い」とかいう類似性がどのようにして定まるかという具体的な検証法を論じることはここでは避ける。というのも、それには本筋を逸脱した長大な議論が必要になる上、わたくしには誰もが納得するような原則を提出することは不可能であるように思われるからだ。物理法則の有効性を信じることと物理法則の個別的な方程式を理解することは別のことであるとして溜飲を下げて頂ければ幸いである。

補足31:また、一つに定まる現実世界とは異なり、共有信念世界は単一の世界というよりは境界が確定しない共有信念世界群と呼んだ方が適切であろう。ジャンルや時代や地域によって共有信念が変化することは暗に指摘した通りだが、それは連続的に変化するものであって、ある小説に用いる共有信念がこれであると確定できないことは明らかだ。とはいえ、それは議論の大勢に影響を与えないので、さしあたっては現実世界と類比的に記述する便宜のために共有信念世界は一つであるかのように書くことを許して頂きたい。

補足32:この法則によって一部の真偽不明な命題については真理値を推測できる一方、それは全ての真偽不明な命題に対して真理値の推測を可能とするわけではないことに注意されたい。この法則を信頼したところで命題H「シャーロック・ホームズの髪の本数は奇数である」には依然として答えが出ない。というのも、現実世界ないし共有信念世界において、ホームズの髪の毛の本数を云々する世界は特に存在しないからである。

さて、Vtuberにおける曖昧な命題に対する真理値の判定も、原則的にはフィクション一般のそれと一致する。つまり、「Vtuberにおける命題の真理値は、Vtuberが提示する世界の集合のうち、現実世界か共有信念世界に近い世界における真理値と一致する」。ただし、Vtuberにおいては判定に使われる基準の世界が現実世界か共有信念世界かが明確に定まっておらず、それら二つの間でのいわば綱引きが恒常的に行われていることが特徴的だとわたくしは主張したい。

それはフィクション一般においては現実世界と共有信念世界のどちらを判定に使うか迷うようなことがほとんどないのとは対照的である。というのも、フィクション一般では表記されている情報ならまだしも、表記されていない情報に関しては無用な混乱をもたらさないように制御されているからだ。ペガサスが登場したにも関わらずそれが飛ぶか飛ばないか、どういった性質の生物であるかイマイチよくわからないファンタジー小説など読みにくくて仕方ないだろう。大抵の場合はペガサスは共有信念世界に依拠して飛べることに決まっているだろうが、例外的なケースでも現実世界に依拠して飛べないことに決まっているのであり、どちらに依拠するのかがよくわからずに読者を困惑させるような小説は単に技術的に未熟であると判断せざるを得ない。

補足33:これがかなり粗雑な第一次近似であることは了解している。むしろ現実世界と共有信念世界が異なることを利用して叙述トリックめいたギミックを作ることができたり、その境を曖昧にすることそのものを楽しむジャンルとして幻想小説があったりすることをわたくしは認める。他にも、ギャグ漫画で窓から飛び降りたキャラがコマの隅で普通に骨折しているというギャグはその典型である(ギャグ漫画の共有信念世界に寄せれば骨折しないのだが、現実世界に寄せれば骨折するというギャップに面白さがある)。ただし、それはあくまでも例外的な営みであり、いわば王道に違反しているために価値を持っているのに対し、Vtuberの場合はむしろジャンルの典型例としての現象を発現する恒常的な営みである。

しかし、Vtuberの場合は真理値の判定において依拠すべき世界が一定しておらず、発話のたびに付随情報が真か偽かわからない事態をもたらす。例えば、白上フブキが「自分は狐である」と言ったとして、それに関連して明言はされていないが真偽が曖昧な命題はいくつか考えられよう。狐の生態を踏まえ、「白上フブキは四足歩行する」「白上フブキはエキノコックス症を媒介する」「白上フブキは食事を穴に埋める」「白上フブキは昆虫を食べる」あたりが手頃なものとして挙げられる。要するに、現実的な狐の性質に関する命題である。これらの真偽を判定するに際して現実世界に依拠すれば、白上フブキは狐であるというフィクションに特有の仮定を除いてあとは現実と一致するものと考えることになるため、上に挙げたような命題は全て真であると推測される。

補足34:視覚的に得られる情報によって命題の真偽を得る路線、つまり「配信を見る限りは白上フブキはほとんど人間と同じような身体のつくりをしているし四足歩行しない」というような推論は無視してもよいとまでは言わないが、一時的に効力を大きく減じる分には全く構わない。というのも、我々は原則として言語的営みとしてVtuberを捉えることは既に述べた通りであり、視覚情報も言語情報に変換することで間接的に対象にできるにせよ、その変換に全幅の信頼を置く動機は我々にはないからだ。

だが、共有信念世界においてはその限りではない。オタク界に流布している共有信念世界は多様であり、一意に同定することは困難であるものの、「自分は狐である」という発話が「擬人化」というジャンルに依拠していることは多くの者が認めるだろう。何らかの超常的原因によって動物が人間の(大抵は少女の)姿を得るそのジャンルにおいて、元の動物の性質は極一部だけが受け継がれる。共有信念世界において、狐という自称は実際には「狐娘」という架空の生物種を意味し、狐娘は大抵は二足歩行し、エキノコックス症を媒介せず、食事を穴に埋めず、昆虫を食べたりもしないという事情によって、白上フブキもまた同様であると考えられる。

よって、「白上フブキは昆虫を食べる」は現実世界に依拠して考えれば真だが、共有信念世界に依拠すれば偽である。そうした、基準座標とする世界が曖昧であるが故に命題の真偽も曖昧である事柄について積極的に言及することがいわゆるロールプレイである。例えば白上フブキが「わりと虫とかも食べますよ、狐だし」と述べることは個人的にはかなり面白いロールプレイだと思われるのだが、このときに何が起こっているのかと言えば、命題の真理値の決定が現実世界に依るか共有信念世界に依るかが不確定であるという前提の下、どちらかと言えば後者側で解釈されていたことをあえて前者側に寄せて真理値を変更することに意外性が見出されているのである。

加えて、何度も述べてきたようにVtuberは設定を時々刻々と更新する運営型のコンテンツであるから、共有信念世界の内実も日々更新されている。つまり、虚構的命題の真理値決定にかかる要素の動的な変化はスケールを変えて二重に起こっている。第一にマクロに見ればVtuberの解釈にあたって何を共有信念世界とするかの合意が移り変わり、第二にミクロに見れば各動画の中でロールプレイによって各命題が現実世界と共有信念世界のどちら寄りに判定するかというウェイトが揺れ動く。

補足35:共有信念世界が変遷する具体例を一つ挙げると、2018年頃にはVtuberの共有信念世界はサイバーな世界観が支配的であったためにAIとか電脳少女とか電脳巫女が大量発生したのに対して、現在は共有信念世界が更新されて電脳的なものはだいぶ脱色されているように思われる。

本節の議論をまとめよう。本節では、虚構的な命題の真理値を定めるにあたってフィクション一般で行われる反事実的条件の解釈方法を用いて、ロールプレイという営みが真理値決定に際しての現実世界への依拠と共有信念世界への依拠が一意に決まらないことを利用したものであることを明らかにした。逆に辿るなら、ロールプレイの萌芽は実は演者を想定せずともフィクション全般に見られるものであり、それは反事実的条件の解釈に端を発しているということでもある。

6.まとめと参考文献と言い訳

以上、Vtuber存在論と意味論について長々論じてきた。その議論の大枠は冒頭にも記載したので省略するとして、各節でVtuberのどのような性質に注目したのかは議論を終えた今再確認する価値があるように思われる。第三節でVtuberの存在を直接指示する可能性を論じるにあたっては、性質が日々更新されていくという潜在的な可能性の開きに注目した。また、命名儀式の有効性を主張するに際してキャラクター自身が自分から我々に固有名を受け渡すというコミュニケーションの営みが指示の固定と伝達という目的に照らして強力であることを見た。第四節でも、世界の完全性を論じるにあたってVtuberが我々とコミュニケーションできることがあらゆる命題の真理値を一義的に確定しうることがわかった。第五節では、命題の真理値を論じるにあたって、Vtuberが現実世界と共有信念世界の綱引きを利用して自らの持つ性質を積極的に変更したり消極的に曖昧なままにしておけることがロールプレイの意外性を導くことを見た。

加えて、わたくしの議論の枠組みがどういった点でVtuberと類縁的と思われるものの分析と差別化していたのかも改めて主張しておきたい。まず、わたくしは一貫して演者の言語使用ではなく主にキャラクターの意味論を論じてきたことによって白上フブキをMさんのような演者と区別した。次に、わたくしはVtuberが現実世界に存在するのではなく虚構世界に存在するという前提を可能な限り擁立する道を探ることによって白上フブキをソクラテスのような実在の人物と区別した。最後に、わたくしは性質の連続的な更新やコミュニケーション可能性に注目して存在の様式や真理値決定方法を論じることで白上フブキをシャーロック・ホームズのような古典的フィクション一般のキャラクターと区別した。

最後に、わたくしがそれによって不本意な評価を被ることが想定される生じうる誤解について、保身のために弁解することを許して頂きたい。

第一に、わたくしはVtuberではこれこれこうしたことができるのだという新現象を発見することに対して労力を割いたのではない。ここで挙げた事例は何年も前から誰もが知っていることであり、むしろよく知られた事例がわたくしの関心のある問題設定の下でどのような効果を発動するのかを分析することに主眼がある。よって、現象としては読者に全く既知の事柄ばかりを列挙して退屈させたことについては弁明のしようもないし、本稿は「だからVtuberは凄いんだ」系の言説としてもあまり機能するものではないが、逆に言えば、既にVtuberにある程度詳しい者に対して「そういう見方もあるな」と思わせることが出来たならばこれ以上の喜びはない。

第二に、そうしたよく知られた現象について、わたくしの論は既によくある語用論的な分析を否定するものでもなければ後追いするものでもない。わたくしが示したかったのは、演者の言語使用という水準で議論されることが多かった論点に関しても、意味論や存在論の水準から光を当てることによって、キャラクターとしてのVtuberそれ自体を解釈する可能性が開けてくることである。例えばその成果の一つとしていわゆるロールプレイの解釈があり、従来はそれが演者がキャラクターであるかのように演じる意図を持って発する発言であるというような形で主に語用論の水準で扱われていた。しかし、その事態を意味論的に解釈すると、フィクション一般における虚構的命題の真理値を判定する方法の応用として、演者に言及せずとも意外性の源を突き止めることもできるのである。

本節の残りは参考文献の提示に充てたいのだが、その前置きとして長々とした弁明を書かねばならないことはわたくしにとっても読者にとっても若干憂鬱である。何故ならば、それは先ほどの誤解を防ぐための安全弁とは異なって本物の言い訳であるからだ。
まず何よりもお詫びしなければならない点として、わたくしは本文中で先人の議論を参照する際に怠惰にも適切な参照元を明示しておかなかった。むろん、他の誰かが書いた文章の一節を引用符にも入れずに完全に引き写すような最悪の痴態を晒してはいないことはわたくしの誇りに懸けて断言するにせよ、論点や論理展開に関してそうと明示することなく参照している内容が多くあることについては陳謝しなければならない。本来であれば、参照元が新しく現れるたびに最初にそれを言った偉人のテクスト名とページ数くらいは付記しておくのが作法というものだ。それを行わない怠惰は学術論文であれば到底許されないことであるが、わたくしがこの寄稿依頼を受けてから締め切りまでの間に一次文献を精査して主張がどのページでどういう文脈で述べられているかをリストアップする作業はとても間に合わなかったし、言いづらいことを本当に正直に言えば、特に何かの箔が付くわけでもない寄稿文にそれだけの労力を支払うのはとても見合わなかったということがある。もちろん物によっては手元にある一次文献のページを捲ることも可能だったのだが、一部だけそれをしてしまうと、却って逆に何も引用を付与していない部分が全てわたくしのオリジナルであるかのように見られかねないため、本文中では参照元についての記述を一切省き、その代わりに最後に最大の弁明を図るという方針を取ることにした。だが、根本的にわたくしは本来は情報系の出自であり、哲学など完全な門外漢であるから、それすらも孫引きであるものが多いことについては今度こそ全く弁解のしようもない。同じ理由で、議論の細部が粗雑であったこともわたくしにも全て責がある。正直なところ、そもそも固有名が指示を行うという前提自体が別に自明ではないとか、固有名の意味から命題の意味が定まるのではなく順序が逆だとか、命題の真理値自体と真理値の決定条件は別物だとか、存在論というより指示論ではないかとかいうような諸々の欠陥は、議論の簡単のために省略されたのか、それともわたくしの力量不足でなおざりになったのかはわたくしにも判然としない。そして、そうした瑕疵についてはわたくしは最後の手段を取ることにしたい。すなわち、共にホワイトボードの前で本稿の内容を吟味したサイゼミ一同に深く感謝すると述べることにより、わたくしが独占していたはずの責任の一部を彼らに分散させるのである。

三浦俊彦『虚構世界の存在論勁草書房, 1995.
清塚邦彦『フィクションの哲学 〔改訂版〕』勁草書房, 2017.
・ソール・A・クリプキ, 八木沢敬(訳), 野家啓一(訳)『名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題』産業図書, 1985.
・マリー=ロール ライアン,岩松正洋(訳)『可能世界・人工知能・物語理論』水声社, 2006.
・藤川直也『名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学』勁草書房, 2014.
・ケンダル・ウォルトン, 田村 均(訳)『フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―』名古屋大学出版会, 2016.

 

後日追記:延長戦

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21/9/4 2021年7月消費コンテンツ

2021年7月消費コンテンツ

7月は映画もアニメも見ずにハァハァ言いながら数式を解いていた記憶しかない。朝も夜も紙にペンで書き続けていた。

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最近リアタイで追いたいアニメが特にないのは、たまたまそういう期なのか老化なのか微妙なところ。

メディア別リスト

書籍(3冊)

物理数学の直観的方法
新装改訂版 現代数理統計学
統計学入門

ゲーム(1本)

GUILTY GEAR -STRIVE-

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

物理数学の直観的方法
現代数理統計学

消費して損はなかったコンテンツ

統計学入門

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

(特になし)

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

(特になし)

進行中

GUILTY GEAR -STRIVE-

ピックアップ

物理数学の直観的方法

理系界隈では有名な名著。学生時代にも読んだが再読。

タイトルに若干語弊があるような気もするが、物理数学というものを直観的に扱うための方法論というよりは、もう少し各論的に物理数学において登場頻度の高い数式の諸々を直観的に理解するための説明を与えているに過ぎない。
難易度はそこまで高くなく標準的な理系学部前半くらいのレベル感ではあるものの、逆に言えばそこまで到達していない人には全く役に立たない。「ストークスの定理は知っているがそれにどういう意味があるのかは知らない」という人向けで、「ストークスの定理を知らない」という人には読めない。

この書籍が扱う「直観的方法」が既存の解説書と一線を画すのは、それがいわゆる数学的な証明とは異なるレベルの理解を目指していることにある。
数学的な証明とは定義及び論理的に妥当な推論から真である命題を積み重ねる営みである。しかし、この書籍において暗に前提されているのは、少なくとも物理数学においてはそういう数学的に正しい説明が必ずしも理解に資するわけではないということだ。実際、数式を弄って形式的には不等式が成立することが確認できたはいいが、この式変形は結局何だったのかが全然わからないという経験は理系の人なら一度はあるはずだ。
そのために新たに導入されるのが「数式が何を意味しているのか」というレイヤーでの直観的理解である。この理解は数学的証明の範囲を逸脱してはいるが、もちろん相矛盾するわけではないという微妙な関係にある。統語論的な操作を道具として利用しつつも、最終的には意味論的な納得を得るという落としどころが求められている。

この指針の下、線形代数学や熱力学等の比較的独立性の高いトピックについて様々な説明が試みられる。個人的には最も感心したのは第八章の複素積分周りの解説で、二次元空間から二次元空間への写像が単にダルくなっただけのようにも見える複素積分路について画鋲の比喩を用いて明確なイメージが得られるのが素晴らしい。
そして前に読んだときはあまり気にしなかったが、巻末のあとがきがかなり良い。線形代数の一般論からいわゆる三体問題が一般には解けないことを示し、そこからこの書籍が提示する物理数学の直観的方法が今必要であることを主張する論理展開は鮮やか。そこまでさんざ説明してきたような直観的方法を用いることによって、この本自体のポジションが正当化されるという入れ子状の構造となっており、必ずしも物理数学の範疇には収まらない実践的跳躍の可能性がまさしく示されている。

ところで、この本では直観的に理解することが重要と述べて実践してみせるのみで、直観的に理解したとはいかなる事態を指すのかについては厳密な定義を与えてはいない。もちろん直観的に理解した気持ちにはなれるが、ではそれは如何なる営みだったのかを正確に述べることが実はかなり難しい。
さっき述べたように大雑把に言えばこの本は数式を形式的な証明から解放してわかりやすい意味を与えることを目指しているのだが、かといって安直に物理的な対応物を出してきているわけでもないのだ。もっと具体的に言えば、「数式が対応する実世界とは何であるのか」「数式と実世界の対応は実在するのか」というような典型的な哲学の問いはこの書籍と若干ズレている。ストークスの定理を説明する際の「直観的理解」は依然として三次元ユークリッド空間内で閉じており、電磁気自体は別に動員されていない。恐らくこの話を突き詰めると、最終的には実は純粋数学の体系もそれ自体で閉じることは出来ず公理的な定義すら背景には「直観的な理解」を要求するという俗流不完全性定理のようなところに行き着く……ような気もする。

 

新装改訂版 現代数理統計学

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7月はほとんどこれに時間を取られた。概ね学部後期~大学院くらいのややハイレベルな書籍で難易度は高いが、解説自体は非常に丁寧なので詰まることはあまりないだろう。

 

統計学入門

上の『新装改訂版 現代数理統計学』から続けて読んだものの、それに比べると何段階か難易度が低いレベル帯の書籍。読む順番を間違えたというか、恐らくそもそも読まなくて良かった。大学入学したての頃に触れて難しかった記憶があってリベンジしようと思ったが、もう赤子の腕を捻るが如し……

内容自体は非常に良い本で、入門レベルの統計学の書籍としては最もお勧めできる。達成目標自体がそんなに高くないし解説も平易なので、高校数学程度の知識さえあれば難なく完全理解できるだろう。説明がとにかく地に足ついており、証明が高度過ぎるものに対しても一定の説明を与えようと努力しているのが好印象。例えば標本分散の定数倍がカイ二乗分布に従うことについて、「簡単な説明(証明ではない)を与えよう」と述べて厳密な証明ではないが直感的にはわかりやすい説明を与えている(これもまた「直観的方法」の一つなのだろうか?)。

ただ、これは全く欠点ではないのだが、時事的なコラムを入れる割には恐らく20年前の初版からほとんど情報が更新されておらず、化石のような記述が出てくるのが笑える。計算用ソフトとして未だにLotus 1-2-3が紹介されているのはギャグとしてはかなり面白いが、本気にしてインストールしようとする人が現れたらどうする。

 

GUILTY GEAR -STRIVE-

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サイゼミ格ゲー回を受けて遂に購入。

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元々10年前くらいにGGACをソロプレイ&動画視聴で遊んでおり、格ゲーをやるならGG最新作という意志は固かった。萌え豚なのでブリジットが参戦したらやりますと言い続けていたのだが、カルヴァドスを打つラムレザルが萌えだったので前倒しで購入まで踏み切った。
ソフト本体に加えてHitBoxとオンライン対戦利用権利1年分も買ったため初期投資に5万円くらいかかっている気がする(参入ハードルが高くないか?)。まだコンテンツ消費を完了したわけではなく、これからも長期的にズルズル遊ぶと思うが、とりあえずの区切りとしてここらで記録を付けておく。

今回格ゲーを遊ぶにあたって、「大人の対人ゲームの遊び方を掴む」という大目標を立てた。
というのは、社会に出たあたりから学生時代とは異なる対人ゲームとの付き合い方が求められていることをひしひしと感じているからだ。といってもこの手のゲーマー加齢話でよく言われる「就職してゲームに使える時間や体力が無くなったから」というのはあまり正確ではない。俺は残業をほぼしないし筋トレのおかげで体力も無限であるため、その気になれば学生時代にも劣らない時間をゲームに注げる自信がある。
そうではなく、もっと単純にそもそもゲームで強くなるというモチベーションが消滅したというだけのことだ。二十歳も後半になると世の中には対人ゲームより有益で役に立つ上に面白いことがいくらでもあることがわかってしまう(例えば統計の勉強)。そんな中、相対的に無益で役に立たずズバ抜けて面白いわけでもない対人ゲームに必要以上の時間を割く理由はもうない。

補足392:「有益である」というのは微妙な表現ではある。俺は身に着けたところで何の役にも立たない勉強をしていることは多々あり、その無益さはゲームとそう大きく変わらない。しかし「知識としての有益さ」という評価基準は明確にあり、それは接続する知識の総量が多いことを意味する。統計学の知識は機械学習や科学哲学などの隣接分野の知識と次々に接続していくが、コンボレシピの知識はせいぜい次回作での同キャラの使い方に接続するくらいで広がりが薄い。

よって、いまや対人ゲームに求めるのは余暇のバリエーションの担保でしかない。他の娯楽に飽きてきて気が向いたときに過剰ではない範囲で程々に時間を割くコンテンツだけが求められている。理想を言えば時間をかけずに勝てるのがベストだが、その両立が不可能なのであれば、時間をかけない方が優先度が高い。時間をかけて勝つくらいなら、時間をかけないで勝たない方がましということになる。
とはいえ、ガチの勝ちは目指さないとしても、依然として程々には勝ちを目指さないといけないのが難しいところだ。というのは対人ゲームは基本的に勝とうとしたときに面白くなるようにゲームがデザインされているため、完全に勝ちを放棄するとそれはそれで楽しむという最終目的まで共倒れになる。
そういうわけで、俺もゲームとのカジュアルな付き合い方を学ぶときが来たのだ。勝ちたくはないけど勝ちたいジレンマをいい感じに解消しつつ、必要以上に準備したり勝ちにこだわったりすることもなく、なんか適当に遊んで適当に楽しかったことにするスキルを育むための練習台としてGGSTがチョイスされたという経緯がある。

カジュアルに遊ぶための大雑把な方針としては、「あまり上手くなろうとしすぎない」ということがある。どうせ上には上がいてそれを超えるために頑張るつもりもないのだから常勝は目指せない。今ランクマッチで目の前にいる敵に勝つことを目標にして、まだ見ぬ強敵のことは考えないようにする。関心のある範囲を小さく絞って間に合わせのスキルセットを成長させるのが、恐らく細く長く勝っている感を味わい続けるための唯一の方法だろう(単に長期的に上手くなろうとしてやり込む時間を投資したくないというのもある)。
とはいえ、目の前のやつに勝てる程度には成長し続ける必要もあって、結局はやっぱりバランスなのである。今はこの「長期的に最速で上手くなろうとはしないが、短期的にはゆっくり勝てるくらい」というスピード感を求めて攻略方法を模索している段階と言えよう。当初は攻略情報をほとんど見ないで(と言いつつ簡単なコンボレシピくらいは見て)遊ぼうとしていたが、それは流石に無理があったので少しずつ制約を緩め、今は初心者向けYoutube攻略動画くらいまでなら見てもいいことになった。

ちなみに効率的な攻略の最後の砦は「上級者に聞く」である。対人ゲームは上級者に聞くのが一番上達が早いというのは常識だ。通常はその上級者の存在がボトルネックになるのだが、幸いにもサイゼミには格ゲー解説回をやったひふみがいる。
ひふみの説明は実際相当上手く、サイゼミで格ゲーの解説をしただけでそれまで全く触れたことのない初心者五人に「これなら格ゲー楽しめそう」と思わせて格ゲーを購入させた実績がある。上級者であるにも関わらず「初心者はわからないことがわからない」という状態を理解している上に、成長フェイズに応じて必要な知識が異なることもわかっている。「初心者への説明が下手くそな上級者は、初心者がいるレベル帯では相手が弱すぎたり前提が共有されていなかったりして実際には通用しないテクニックを教えがち」……とは彼の弁だ。よってGGSTが上手くなりたいだけなら今すぐドラえもんにお願いするのが最善であることはわかりきっているのだが、それをするときっと教えるのが上手すぎて俺は本当にすぐ上手くなって当初の「細く長く付き合う」という目標とズレてきてしまうことを警戒している。
そんなわけで、俺は今日もdiscordで「立ち回りの答えは教えないでほしいけどここで走り込んで5Sが効くかどうかだけ教えてほしい」などと面倒臭すぎることを言ったり言わなかったりしている。秘密道具は出さないでほしいけど程々に適切なアドバイスだけ貰って自力でジャイアンを倒したいカスののび太

 

生産コンテンツ

ゲーミング自殺、16連射ハルマゲドン

趣味で書いている小説の7月進捗報告です(前回分→)。7月は第九章「白い蛆ら」と第十章「MOMOチャレンジ一年生」を進行しました。正直遅れ気味なので早く第十一章に入りたい。
ついでに毎月キャラ紹介とかコンテンツを置いときます(ここに書く設定等は進捗に応じて変更される可能性があります)。

字数

203661字→219236字

各章進捗

第一章 完全自殺マニュアル【99%】
第二章 拡散性トロンマーシー【99%】
第三章 サイバイガール【99%】
第四章 上を向いて叫ぼう【99%】
第五章 聖なる知己殺し【99%】
第六章 ほとんど宗教的なIF【99%】
第七章 ハッピーピープル【99%】
第八章 いまいち燃えない私【90%】
第九章 白い蛆ら【80%】
第十章 MOMOチャレンジ一年生【30%】
第十一章 鏖殺教室【1%】
第十二章 別に発狂してない宇宙【1%】
第十三章 (未定)【0%】

キャラ紹介⑤ 樹さん

若手女性警察官のヒロインです。
婦警の制服をきっちりと纏い、爽やかな敬礼が板に付いた綺麗なお姉さんです。若干身長が低くて可愛らしいところもありますが、正義感の強い市民の味方です。主人公の彼方たちとは顔を合わせる機会が多く、今では通報代わりに個人携帯で連絡を取り合う仲になっています。

樹はゲームには疎いですが、警官として身に付けた護身術に長けています。それは軽い組手ならばフィジカルモンスターの彼方を一応は無力化できる水準に達しており、直接戦闘能力はプロゲーマーにも見劣りしません。よって常に強者を求める彼方は、樹がVRバトルロイヤルゲームに参加することを望んでいます。
しかし、樹は自らの能力を勝敗を競うために使うことには全く関心がありません。模範的な警官である樹は、自分の高い能力は他の人々を守ることに使うべきだと確信しているからです。そして樹にとっては彼方もまた守るべき市民の一人であり、彼方との軽い組手に付き合うことはあっても、本気で戦闘を行うことは有り得ません。

樹は最小不幸社会を志向するタイプの人道家であり、概ね弱者の肩を持つことが彼女にとっての正義です。それが弱者を虐げるものである限り、強者の特権にも暴力の使用にも反対します。この点において、躊躇なく弱者を蹂躙できる彼方とは強く敵対しています。
しかしその一方で、樹は一方的に弱者を保護するパターナリスティックな振る舞いにも否定的です。つまり彼女が最も尊重すべきと考えるのは弱者の自己決定権であり、もちろん愚行権を支持し、本人の納得尽くであれば自殺でさえも容認します。人間の自己決定能力をラディカルに尊ぶという点では彼方と一致しており、その部分的な思想の一致が彼女たちをそれなりに信頼のおける知り合い同士にしています。

21/8/21 お題箱回:AI、批評、勉強、受験、暗記、仕事など

お題箱87

316.東大合格者のノートはみんな美しいって本当ですか?

「みんな美しい」は恐らく嘘ですが、少なくとも東大合格者ノートの平均は一般ノートの平均よりもかなり美しいと思います。素朴に考えてノートの美しさと持ち主の理解度はそれなりに相関する気がします。
ちなみに僕は自分のノートを非常に美しいと思っていますが、「赤一色で目がチカチカする」「字が小さくて読みづらい」と極めて不評なので平均値を押し下げている可能性があります。

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317.AIモノを観る度に思うのですが、AIが実質的に亜人種族と変わらない扱いになっていたり、無条件に感情や人格を持っていると、一体誰が何の目的で人格なんて余計な機能を取り付けたのだと無粋なモヤモヤが込み上がってきます。これは自分が情報系を齧っているからなのでしょうが、LWさんはこのような経験はお有りですか?

あります。が、微妙に異なる気もします。

まずAIに人格があるかのように動く機能を付けること自体にはかなりの合理性があります。「CUIよりGUIの方が使いやすい」と同じくらい素朴な意味で、人間を模したUIは使いやすく優秀だからです。特にその手のアニメでありがちな汎用的かつ専門家以外も使用するAIであれば、人間を模倣した対話的なUIを用いることは誰にとっても理解しやすい優れた設計と言えます。

よって機能的なレベルでAIが感情や人格を持っているかのように描かれることは納得できますが、問題はそれがAIが内面的に人格を持っていることと同一視されること、及びそれ自体が主題化されることです。
当然ながら「外見上人格を持っているように見えること」と「内面的に人格を持っていること」は全く別の事態であり、前者と後者を結び付けることはまだ人類史で誰もクリアできていない難題のはずです。よって「自分以外の誰かが内面を持っている」という空想の対象をAIに限る理由はありません。それは他者一般に対して言えることです。
フィクションにおいてこの外面と内面の一致を正当化する必要は必ずしもありませんが、その飛躍を行った時点で題材がAIである必要と説得力が失われることが問題です。例えば「人間との触れ合いの中で感情を体得するAI」というモチーフはありふれていますが、僕はそれはある種の仮想的な精神障碍者に対する想像力に立脚したものであって、AIではなく精神障碍者の表象と見る方が妥当であるという立場を取ります。

補足389:更に言えば、内面的な人格を描写できているのは本当はAIという題材ではなく表現媒体の成果であり、メディアの力能を窃盗しているという罪も加わりかねません。それについては『イヴの時間』の感想で書きました(→)。

しかし逆に言えば、AIが感情や人格を持っているかのような描写それ自体はギルティではありません。それに慢心して題材を全く活かせていないことが問題なのであって、AIを用いる他の合理性を示したり、AIに特有なドラマを描けたりしていれば十分に面白い作品も可能です(というより、鑑賞者側も無理矢理にでもそういう視点で良いところを探してあげた方が建設的です)。
そういう観点では僕は意外と『AI崩壊』とか『A.I. Artificial Intelligence』あたりも結構好きですし、特に『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の評価は極めて高いです。『GIS』でも人形使い亜人格的なAIとして描かれていますが、それ自体はほんの前提に過ぎません。危うい境界を持つAIの存在様態を、無機物の側から人間の側へと近付く人形使いと、義体を介して人間から無機物に近付く草薙素子の鏡写しの間で照射することがこの作品の主題であり、それは明らかにAIに特有の題材です。

 

318.すめうじの食事描写好きなんですが、あれは食事への関心無しに書けるものなんでしょうか。Twitterの言動と印象が違って不思議に感じます。

ありがとうございます。食事描写が人気のすめうじをよろしくお願いします。

kakuyomu.jp

食事描写ってだいたい虫食描写ですが、開幕のこの辺でしょうか。

 蛆、パスタ、レタス、蛆、蛆、白米、蛆、ハンバーグ、蛆、蛆、牛乳、蛆。

 

 食卓の上のコンビニ弁当は酷い有様だった。消費期限は三ヶ月以上も前、ずっと部屋の隅で常温保存していた弁当だ。

 プラスチックの容器の上、食べ物の上に蛆の群れが乗っているようにも見えるし、蛆の群れの中に食べ物が埋まっているようにも見える。どちらが地でどちらが図なのかわからない。

 容器に充満した蛆はダイニングテーブルの上にまで這い出してきていた。

 

「うわー……」

 

 まずはレタスにフォークを突き刺した。

 持ち上げると、大量の小さな蛆がカビのようにへばりついてくる。軽く振っても脱落するのは一匹二匹、全てを振り払うのは無理がある。

 そのまま思い切って口に入れた瞬間、蛆が舌の上を元気よく転がって跳ね回る。茶色く変色したキャベツは紙のようにパサパサで苦みしか感じない。

 顎を開け閉めすると、ぷちぷちという感覚。蛆の半分を咀嚼で噛み殺し、もう半分はそのまま飲み込んだ。

せっかく好きだと仰って頂いているので「食事は好きなので頑張って書きました」みたいなことを言いたくなりますが、これに関してはそれっぽく書いてみただけで、仰る通り食事への関心は一切ないです。人真似をして何となくそれっぽい文章を出力するAIみたいですね。
ただ、美少女が蛆虫を食べるという最悪なシチュエーションへの関心はかなり高いのでそのファンタジーに対する追求心が働いた可能性はあります。しかしとはいえ、僕はそもそも題材への関心と文章の解像度にはそこまで相関がないと思う方です。別に興味のないことでも必要なら書けます。

 

319.LWさんみたいな批評ってどんな勉強すれば書けるようになるんですか?

うーん……勉強したことは無いですし、体系化されているわけでもないので思い当たるところが全然無いですね。
そもそも僕は批評を書いているという感覚はあまりなくて、批評クラスタ?が好む「批評とは何か」みたいな話にも関心が薄いです。作品を消費して得た解釈なり感想なりを駄弁る代わりに発信しているだけでそれ以上の意義はあまりありません。ブログタイトルの「LWのサイゼリヤ」もなんかオタクがサイゼリヤに集まったときにするような話を書くかという気分で命名されています。

強いて言えば、言語化能力を高めるのが良いと思います。そしてサイゼミをやって思ったのですが、やっぱり本の要約はかなり言語化能力が鍛えられる気がします。理系でも人文でも技術書でも新書でも何でもいいので一通りのロジックがありそうな本を一冊読んで、何も見ない状態で何も知らない人に一から説明して「へーそうなんだ」と言わせるのはかなり練習になると思います(これはそのままサイゼミでやっていることでもあります)。

ちなみにいわゆる文学批評の本は何冊か読んでいますし、大学でも文学部に潜って文学理論概論みたいな単位を取ったことがありますが、それがこのブログで書くような感想に活かされているとは全く思いません。一応何か読みたければ『批評理論入門』をオススメとして挙げておきますが、これはある程度確立された人文学的制度としての批評の解説なので、普通のオタクが言語化したい感想とはたぶんかなり異なると思います。

 

320.勉強とか学習を効率的に、効果的にやる工夫に関して。
学校や仕事の勉強もそうだし、新しいプログラミング言語とかスポーツみたいな新概念を身に着けて実務に生かすとか、単に知識をつけるとか。LWさん的にそんな感じのことを何かご存じでしたりお考えご経験がありましたら教えてください。

上の回答と被っていますが、アウトプットするのが一番だと思います。
アウトプットが目指すのは自分一人で議論を再構築できるようになることであり、それはただちに自分に知識が定着したことを意味します。なので原本を見ながらアウトプットしてもあまり意味がなくて、なるべく何も見ないで全部説明するのが望ましいです。ここまでガチる必要はありませんが、この有名な文書で言われていることはかなり真実です→
とはいえ研究ではなく趣味である場合、僕は議論の解像度はある程度は下げてもいいと思います。原本の全てを正確に再現しようとして迷走するよりは、多少粗くても自分の中で一本筋の通った議論を一つ構成する方が有益だと考えます。

もっとスケールのデカい話をすると、最近ようやく「勉強とは捨象である」ということがわかってきました。
大抵の本には情報が多すぎます。ほとんど言いがかりのような反論への再反論とか、絶対に後で思い出せなさそうなテクニカルな証明とか、些末な実証例や例外の指摘とか、そういう補足的な議論はあえて言えばやむを得ず記載されていることで、その本が本当に主張したい内容ではない場合が多いです。
よって、得た知見を頭に保存する段階ではそういう本筋でない話は一旦より分けておいて、コアの部分だけを抽出する作業が必要です。国語教育でやっていた「四百字で要約せよ」みたいな問題は本当に大事だったということを今更噛み締めています。

補足390:ただ、ガチな学者が書いた論文みたいな本や、本が扱っている分野によっては本当に必要な情報だけがギチギチに詰まっていて一切削れないこともありますし、ケースバイケースの範疇ではあります。

ただし最初から細かい部分を読み飛ばすのは最悪です。一度は全部ちゃんと読まないとそもそも何が重要な話なのかわかりませんし、コアを掴むことが大事とはいっても、コアだけあっても大抵は浅薄で使い物にならない知識しか得られません(削除した枝葉末節は完全に忘れるのではなく、頑張れば思い出せるか、少しのヒントがあれば再生できるくらいが望ましいです)。
オススメなのは、一度は細かいところまで丁寧に全部読む精読の作業をしてから、あとで必要な部分と不要な部分をより分けて整理しながら議論を再構築する作業をすることです。一周目がインプット、二周目がアウトプットに相当するイメージです。僕は難解な書籍は大抵その手順で二周以上回ります。ちなみに一周目でコアの部分がわかる場合はその時点で付箋紙とか貼っておくと、二周目で「どこが重要だったっけ?」といちいち考え直さなくて済むので楽です。

 

321.受験って結局のところ暗記ゲー?

普通に暗記とアドリブが半々くらいじゃないですかね?
なんかYoutuberとかは断言した方が再生数が伸びるので「受験は全て暗記だ!」とか「受験に暗記は全く必要ない!」とかいかにも言いそうですけど、常識的に考えてどちらも必要という方が真相に近いと思います。
あと「どこまでの記憶を暗記と呼ぶか」みたいな話もあって、例えば数学の整数問題とかだと個々の問題の解法は暗記できなくても一定の解法パターンを覚えておいてそれを総当たりで試すのが最上位層の標準的な戦略だったりします。年表のような個別知識に限らずそういうセオリーとかテクニックまで暗記に含めるのであれば、暗記で賄えることはもう少し多くなります。

補足391:これは僕が理系だから偏見があるかもしれないんですが、社会系の科目でよく言われる「世界史は流れを抑えるのが重要で暗記科目ではない」みたいな言説って普通に嘘ですよね? 流れを抑えるのは重要だし、それに加えて固有名詞や年代をかなり暗記する必要があるというのが真相のような気がします。

ちなみに僕は覚えなくても済むことは覚えたくない方だったので、いつでも導出できる定理とかはそんなに覚えていませんでした。三角関数の積和の公式を覚えていなくて東大を受けたときですらその場でちょっと頭捻って導出していましたが、それも暗記してしまった方が楽な人もいるでしょうし、人それぞれではあります。

 

322.スペースやらないんですか?(やるなら是非参加したい)

現状では特にやる予定はないです。別にやらないという信条があるわけではないですが、ブログの方が楽だし得意なのでスペースを開く動機が特にないくらいの感じです。
ちなみにブログ書いてる画面の配信とかしてもいいんじゃないかみたいな話をこの前友達としたので、それはするかもしれないし、しないかもしれません。

 

323.そろそろ研修おわる新社会人なんですが、配属が不安なのでlwさんの仕事への考え方とかこれやった方がいいよって事があったら教えていただきたいです。

これ三ヶ月前くらいの投稿ですが、そろそろ配属先に慣れましたかね?

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意外にも僕はわりと楽しく働いている方で、少なくとも興味ない研究室に配属された大学院よりは会社の方が明らかに良いです。ネットには仕事に行きたくない社会人が無限にいるので学生のうちはそれを鵜呑みにして怯えていましたが、アレは思想が先鋭化しているやつは声がでかいといういつものパターンに過ぎませんでした。
結果を出すまでが自己裁量の大学院と違って会社は退勤した瞬間に仕事のことを何もかも忘れていいですし、月収いくらで雇われてる限りは本質的に責任がないのが楽なところです。会社員は雇用主とリスクリターンを共有する運命共同体ではなく、雇用主が現金リソースを変換して確保する作業リソースに過ぎないので、会社員の動作不良は全部雇用主の責任です。