LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/12/24 表紙が三枚あるノートを特注した話

トリプルカバーノート

大抵の二者択一には第三の選択肢が隠れているように、ノートの表紙も表と裏だけではない。

俺はいわゆるメモ魔である。
常にノートと赤ペンを携帯し、いつでもどこでもメモを取らずにはいられない。食事しながら何か書いているくらいならまだいい方で、歩いている最中や電車に乗っているときに突然ノートを取り出してメモを取り始めることも珍しくない。机が無い場所でメモを取るのは日常茶飯事であり、その場合は立ったままノートを空中に保持してペンを走らせることになる。
更に、俺にはノートにびっしり文字を書き込まないと気が済まないという悪癖もある。食べ物は平気でトイレに流す割にノートの紙面は非常に大切にしており、小さな文字を端から端まで書き込まなければ気持ち悪くて仕方がない。

この「空中でメモを取る」&「文字をびっしり書き込む」という二つの性質が融合したとき、「右ページの右端に書き込めない問題」が発生する。「右ページの右端に書き込もうとすると右手が宙に浮くためにペン先が安定せず文字が書けない問題」と言葉で説明するより、写真で見た方がわかりやすい。

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まず、こうして左ページに書く分には問題ない。ペンを持つ右手を右ページに置いて支えられるので、ある程度表紙が硬いノートでさえあればペン先はブレない。

問題は右ページだ。

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これである。
右手を置く場所が無いので右手が宙に浮いてしまい、ペン先が安定しない。空中で書きものをしたことが無い人は今ここで試してほしいのだが、この体勢で文字を書くのは難しい。

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今まで苦肉の策としてカッターマットを持ち歩いてノートと一緒に持つことでどうにか「右手置き場」を確保する技を使っていたが、面倒臭いし疲れるし変な人だしであまり良いことがない。最後の手段として左手で文字を書く訓練をして両利きになるという手も検討したものの、この文字サイズを自在に操るには何十時間を投資するのか想像もつかない。

俺が両利きになるよりはノートの方を改造した方が手っ取り早い。
この前ちょうどノートを使い切って新調する機会があったので、「右ページの右端に書き込めない問題」を解決するノートを特注することにした。要するに「右手置き場」をノートに一体化してしまえば良いわけで、俺にはそれを実現するアイデアがあった。あとはノートを特注できる専門店で制作してもらえばよい。

資本主義への反発かどうかは知らないが、いまどき「一点ものの受注」というコンセプトは多くのプロダクトでニッチ産業として成立している。特に手頃で身近なノートのオーダーメイドを受け付けている専門店はいくつもある。どこでも良かったのだが、原宿の『HININE NOTE』が一番近かったのでノートを片手に自転車を走らせた。

hininenote.jp

公式HPに記載があるオーダーメイド項目は①サイズ②カバー③リング④中紙⑤留め具等オプションの5つだけで、そこから外れた特殊規格のノートを作れるかどうかは不明だったが、店で相談すると快く引き受けてくれた。
応対してくれた技術者のお姉さんは見るからに有能そうな職人で、口頭で2分ほど説明するだけでノートの仕様と目的を完全に理解した。「なるほど……(作るのが)楽しそうですね」というコメントにはかなりの強キャラ感があった。

そして完成したのがこのノート。

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正面から見てすぐわかるようにリングが本来あるべき左側だけでなく右側にも付いており、触手の如き異形の風格を漂わせている。

肝心の構造は上から見るとこの通り。

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普通のノートの裏表紙にもう一つリングを接続して「三枚目の表紙」を取り付けている。なお、折り畳んだときにリングに重ならないように三枚目の表紙は他の表紙よりも少し短く裁断されている。

全部開いて持つとこんな感じ。

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通常のノートが持つ「左ページ」と「右ページ」に加え、「右ページ」の更に右側に「超右ページ」が出現する(三枚目の表紙)。この「超右ページ」の存在によって、ノートの両面開きには

①左ページと右ページを開く
②右ページと超右ページを開く

の二つのモードがある。動画で見ればすぐにわかる。

動画では①から②へのモードチェンジを撮影している。②では「右ページ」が相対的に左ページに置き換わると共に、「超右ページ」が右ページとして右手置き場に使用できる。

補足367:ちなみにゴムバンドも通常とは裏表を逆に付けるように特注している。本来はゴムの両端を裏表紙に留めて表表紙を渡るようにバンドをかけるのだが、
・三枚目の表紙もまとめて留めたい
・片手だけでバンドを外してノートを開けたい
という二つの理由によってゴムの両端が表表紙に留められている。

値段は税込みで3610円。特注に伴う技術費・加工費はかかっておらず、通常オーダーに加えて必要になった表紙やリング等の材料費のみの加算となる。他のどこでも買えないという価値に鑑みればかなり安い買い物だったと思う。

この三枚表紙ノートを使い始めて一ヶ月ほど経つが、全く問題なく意図通りに使用できている。2020年買って良かったランキング一位はこのノートで間違いない。

補足368:一応注意しておくが『HININE NOTE』のHPには特注に関する記載はなく、本来のオーダーメイドを超えた特殊仕様をどのくらい受け付けているかはわからない。常識的に考えて値段や可否は仕様や制作状況ごとにケースバイケースだと思われる。特注は自己責任で。

20/12/19 お題箱回:恋愛事情、小説入門書、作者の死etc

お題箱75

213.恋愛とかされたりしないんですか

「このコンテンツ消費しないんですか」みたいなノリで来ましたけど、しないと思います。

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僕が最後にプライベートで異性と会話したのは小学六年生の卒業式なのでもう終わりです。逆にその環境でヤバいミソジニーモンスターとかになってないのが偉くないですか?

 

214.結婚や恋愛をするオタクとしないオタクって、何が違うんですかね
自分は死ぬまで恋愛というものをしないだろうという確信があるんですけど、それまで恋愛のれの字も言ってこなかった周りのオタク達が気付けば結婚してコミュニティから離れていくみたいな事が続いて驚いています。
いつか休みの日に気軽に遊びに誘えるような友人がいなくなるのではと思うと少し寂しくなってきました。
KSUみたいなコミュニティでもみんな結婚していくんでしょうか(みなさん結婚してたらすみません)

僕にそれを聞く意味はないと思いますが、僕も取り残されるサイドなので仰っている気持ちはよくわかります。
この年齢になると友人の結婚によって我々が受ける被害って結婚した男に対する嫉妬などでは全くなく、男友達を奪った女への怒りっていうヤンホモみたいなものになっていきますね。我々からすると悲しいですが、KSUでもサイゼミでも男どもはぼちぼち結婚していくと思います。その流れはもう止まらないです。

補足366:そういう男しかいないオタクコミュニティの異常性をネット上ではポップにホモソーシャルと呼びがちですが、僕は男子校的なオタクコミュニティをいわゆるホモソーシャルと見做すことには異議を唱えたい立場です。というのは、イヴ・セジウィックが提唱した原義のホモソーシャルって女性を所有することでメンバー同士が認め合うような輪姦的コミュニティを指すんですが、それって基本的に体育会系サークルみたいなモテるマッチョ男性のものです。それはあくまでも異性愛によって駆動するコミュニティなので、そもそも異性を排除して介在させないオタクコミュニティには妥当しません。セジウィック式のホモソーシャルでは結婚した男性に対して「これでようやく一人前だな」みたいな引力が働くのですが、投稿者の方とか僕にとっては「そうですか、さよなら」みたいな斥力が働くわけですから、もっと素朴に同性愛的な空間だと思います。

もし本当に周りのオタクが皆結婚して誰とも連絡が取れなくなったら大きめの新興宗教に入信すると良いと思います。「結婚」のオルタナティブとして「入信」という選択肢があることは忘れない方がいいでしょう。
これは冗談で言ってるわけではなく、新興宗教は我々の末路みたいな孤独な独身男性にとって最後のセーフティーネットの一つだという認識があります。田舎から集団就職で上京してきて身寄りのない人間たちを吸収することでデカくなっていったのが日本の新興宗教ですから、元々家族代わりの即席コミュニティを提供する機能は備わっています。「新興宗教なんて始めたら周りにどう思われるか」なんて心配するような「周り」がいるうちはまだ良くて、その周りすらいなくなったときが恐らく真剣に入信を検討すべきタイミングでしょうね。

 

215.哲学や思想モチーフで書いているのだとは思うのですが、小説書く際に小説そのものの書き方は勉強しましたか?(何かワナビー本的な参考書みたいなの読みましたか?)参考になったものがあれば紹介してほしいです。

「小説の書き方」みたいな本は無限にあるので、図書館で何冊か適当に読みました。

ほとんどの本は参考にならなかったのでまずはその話からすると、「何を書くべきか」を説明する本はあまり役に立ちませんでした。だいたい以下のような事柄について懇切丁寧に解説する本と言えばイメージはわかると思います。

・典型的な物語構造(例:自立と成長、貴種流離譚、時事問題の寓意……)
・典型的な小説ジャンル(例:ファンタジー、ラブコメ、SF、推理……)
・典型的な登場人物(例:陽気、冷静、陰湿……)
・典型的なプロットの進行パターン(例:仲違いからの和解、課題発生と解決……)

こうしたテンプレートの把握が大いに参考になるのは事実ですし、知っておくに越したことはないと思います(とりあえず読んだ方がいいとは思います)。が、それはどこまでも補助線として参考になるだけであって、真に役立つことはあまり無いような気がします。

素朴に根本的にズレていると思うのは、常識的に考えて、「適当なジャンルのポイントと流れを押さえてそれに当てはまるような小説を書こう!」というモチベーションで素人が小説を書き始めることは有り得ないのではないだろうかということです。
我々は売れる小説を書けと出版社から圧をかけられている職業作家でも、週明けまでに課題の短編を書き上げないといけない専門学校生でもないはずです(もしそうだったらすいません)。書いても書かなくてもいい立場なのに書いているのは書かなければならない内容がもう既に頭の中にあるからではないでしょうか? そうやって書き終えたものが結果的にラブコメやサスペンスの類型であることは大いに有り得ると思いますが、それは最初から「類型を押さえてそれに当てはまるように書こう」というモチベーションで書き始めるのとは全く別のことです。

だから我々素人が本当に知りたいのは「何を書けばいいのか;What to write」ではなくて、「どうやって書けばいいのか;How to write」のはずです。そこのところ、『スクリプトドクターの脚本教室』という本が非常に良かったです。

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

  • 作者:三宅 隆太
  • 発売日: 2015/06/25
  • メディア: 単行本
 

この本では脚本の原動力をテンプレートではなく作者自身に求めています。
そのため、面白くない脚本が面白くない理由は、(テンプレ紹介系の入門書がよく言うように)「テンプレートに沿っていないから」「流れを押さえていないから」ではなく、「作者自身が保守的な性格だから」「作者が自分自身の嗜好を理解できていないから」というような自己理解へと還元されます。作品と作者を不可分に捉えている以上、脚本の修正は作者のカウンセリングという側面も持ちます(作者の仕事エピソードでは幼少期のトラウマを解消する精神分析家のようなことをしている話が語られます)。もちろんテクニックもいくつも提示されますが、その目的は自分をよく理解してよく描写するためであって、テンプレートへの当てはめゲームをするためではありません。

僕が特に共感したのは冒頭で素人が書きがちな小説のタイプを「窓辺系」と括ってその解決を最大の目的とするところです。今この本は手元に無いのでググって出てくる記事の孫引きをしますが(引用元→)、窓辺系とは以下のような小説です。

典型的なストーリーラインは、「人づきあいの苦手なOLが田舎に帰って自分探しをした結果、少しだけ元気になった(つもりで)東京に戻ってくる話」です。

また、「友だちとプリクラやカラオケに行くのを極度に嫌うおとなしめの文学系女子が、図書館や美術館などで出会った理知的な年上の男性から褒められて承認欲求を満たした(つもりになる)話」

(中略)

いずれのパターンでも共通しているのは、主人公が極端に内向的で、思っていることを口にしたり、問題を解決するための具体的な行動をとったりすることがなく、かわりに独りで「窓辺」に立ち、物思いに耽ったり、思い悩んだりする場面が繰り返し出てくるという点です。

この本の思想では小説の内容は作者の人格を映しているので、「窓辺系」を書いてしまう作者もまた「窓辺系作家」として分析対象となります。

『窓辺』系作家とは、非常に簡単に言うと、内向的で自分自身に自信がないが、その割にプライドが高く、そして人と関わることが苦手な脚本家(志望)を指す。そんな彼らの書く脚本はどんなものか。さえない主人公の日常にちょっぴり「何か」が起こり、読み手がその「何か」を把握しきれないまま、いつの間にか解決し、新しい日常へ歩み出す。

これ「わかる!!」って叫びたくなりません? 僕はなります。

ここまで具体的に提示されてしまうと、(この本はそこまではっきり言っているわけではないにせよ)「つまらない人間はつまらない脚本しか書けないのでまずは人間の方を何とかしなさい」という一見暴論じみた思想もかなり説得力を持つように思います。著者の三宅氏にとっては窓辺系作者こそが「自己認識が甘い素人」の典型であり、彼らが自己理解と自己表現を通じて面白い脚本を書くにはどうすればよいかという流れで本旨が展開していきます。

実際のところ、三宅氏が窓辺系を問題視する理由は「窓辺系は誰でも書けすぎて脚本として売り物にならないから」というのが大きいように思われ、その商業的なインセンティブに対して共感するわけではありません(僕は脚本家志望ではないので)。ただ、もっと単純に個人的な好みとして僕は特にこれといった事件も起きずに謎にほっこりして終わる窓辺系が本当に嫌いだということ、それを徹底的に回避しなければならないこと、少なくとも僕にとってはテンプレートに沿ったものより自己表現を深めたものを目指すべきだろうことなどをはっきり認識できたのは大きかったです。以下はこの本に書いてあったか内容だったどうかは自信がありませんが、例えば

・登場人物をなるべく一人にしない(独りよがりな内省に入ることを封じるため)
・登場人物の心情はモノローグにせずなるべく口に出させる(問題をはっきりさせるため)
心理的な発展や成長はなるべく会話を通じて処理する(自己完結、自己満足をさせないため)

などの工夫は窓辺系を避けるために意識しています。

最後に一応欠点を挙げるとすれば、この本は別に素人創作趣味のためではなく本当に真剣な脚本家志望者のために書かれていることがあります。よって、業界の内情、脚本の形式的な扱い方、仕事の取り方などにもかなりページ数が割かれており、正直そこはどうでもいいです。つまり参考になる実質的なページ数はそれほど多くないのですが、逆に厚さの割には読みやすいと言ってもよいでしょう。オススメです。

 

216.最近『化物語』や『幼女戦記』のコミカライズに「原作者はもっと原作読め」みたいな感想がつくのを散見するのですが、これって「作者の死」の言い換えって理解で合ってますか?

(ついでに「作者の死」にオタク的な一家言があれば語って欲しいです)

この投稿が来たのでそろそろ『作者の死』を読んどくかと思って読んだのが4回前くらいの謎記事でした。

saize-lw.hatenablog.com

ちなみに『作者の死』自体は数ページの極めて短い論文なので関心があるならば目を通すと良いですが、その中で前提されている構造分析とテクスト分析の差異については他の論文を参照する必要があり、結局のところ『天使との格闘』や『作品からテクストへ』を読む羽目にはなると思います。

バルトの原典を踏まえるのであれば、「原作者はもっと原作読め」は「作者の死」に相当するかという疑問は半分は合っていますが半分は間違っています(というのはやや好意的な裁断であって、まあ正直に言えば9割くらいは間違っています)。

まず、「原作者はもっと原作読め」が「作者の手から作品を分離させる」という発想を前提しており、この発想をバルトが構造分析から引き継いでいることはかなりの程度事実だと思われます(少なくとも、作品を作者の人生史に紐づける素朴な文化批評に距離を取っている点は共通します)。
とはいえ、構造分析において抽出される構造とはレヴィ=ストロース的に言えば「変換に対して不変なもの」、すなわち色々な作品で細部が変奏されるにも関わらず変化しない通奏低音のことです。典型的には、様々な要素を六人の行為者が持つ関係に還元するプロップのモデルが挙げられます。

送り手-対 象→受け手
     ↑
援助者→主 体←敵対者

これですね。といっても全然ピンと来ないと思うので、例えば挙げられている『化物語』シリーズの『傷物語』で構造分析をやってみましょうか(劇場版三部作でまとまりが良いので)。まずはこの六項に適当に登場人物を嵌めていく作業をやります。

とりあえず「主体」は主人公の「阿良々木暦」で良いでしょう。彼が欲望している「対象」を何にするかは、『傷物語』の主題を何と見るかでいくつかの選択肢があり得ます。
例えば彼が自分自身の生身を取り戻す自己理解としての物語として読むならば対象は「人間としての阿良々木暦」になりますが、対象を「(大人の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」と見るならばこれはもっと素朴にヒロインの吸血鬼を救うための冒険譚になるでしょう。もしくは、対象を「羽川翼」にして青春物語?として捉えるのもアリかもしれません。
別にどれでもいいのですが、簡単そうな「ヒロインの吸血鬼を救うための冒険譚」という解釈でいきましょう。よって、「対象」は阿良々木暦が取り戻そうとする「(大人の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」となります。
わざわざ「大人の」と書いたのは、「(子供の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」が阿良々木暦に力を授けて協力する「援助者」になるからです。無論、「敵対者」は「吸血鬼ハンター」です。「対象」が誰から誰に受け渡されるのかを考えると、「送り手」は肢体を持っている「吸血鬼ハンター」、「受け手」は「(子供の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」になるでしょうか。
こうすると、「受け手」と「援助者」が一致し、「送り手」と「敵対者」が一致しているという、極めて単純な「対象」の奪い合い、「主体」である阿良々木暦を媒介とした代理戦争という構造が見えてきます。適当に主題を設定したせいでやたら単純な読みになってしまいましたね。

とはいえ、『傷物語』の真骨頂は最終盤で「対象」だったはずの「(大人の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」が「敵対者」に反転して、依然として「主体」である「阿良々木暦」との戦争に突入することです。これによって「阿良々木暦」が欲望する対象は「羽川翼」に変化し、援助者も「忍野メメ」に変わります。
こうした露骨で意図的な構造の急変から主題のシフトが可視化され、前半と後半を結び付ける力学は何なのかとか適当な批評を展開する余地が出てきます。

この先の分析は来週までのレポート課題にするとして、僕が言いたいのは、「原作者はもっと原作読め」と言っているオタクは別にこういう構造への還元を想定して「原作」と言っているわけではないだろうということです。
彼が「原作」と言って指しているのはこういう普遍的な典型プロットではなく、むしろ作品固有の設定とか特殊な流れのことだと、少なくとも彼自身は思っているのではないでしょうか。よって、構造分析に現れるような「普遍性への還元」という意味での作者のオミットは「原作者はもっと原作読め」には妥当しないように思われます。

では、バルトが提示するテクスト分析はどうでしょうか。
バルトは「作者の死」に加えて「読者の誕生」を支持している点で構造分析から先に進んでいます。彼自身、テクスト分析を明晰に定義しているわけではないので断定する自信はありませんが、読者の誕生とは「無意識のように無際限に広がる多様な読みの可能性」のことだと言ってそう当たらずも遠からずという感じだと思います。
重要なのは、バルトが言う作者の死には、その代わりに読者の読みが多様化するという解釈の複数性の方に力点があることです。そうなると「原作者はもっと原作読め」と言っているオタクと噛み合わなくなってくるのは、そういうオタクは恐らく一元的な読みを想定していることです。確かにこのオタクは読者側の解釈を重視しているようですが、恐らく彼が許容している解釈はむしろコミュニティで是認されている唯一のもので、それにそぐわない解釈を作者が提出したことに異を唱えているのでしょう。バルト的に散逸する読みを許容するのであれば、一つの読みを絶対視して他の読みを否定することは起こりません。

よって、構造分析としてもテクスト分析としても、恐らく「作者の死」は「原作者はもっと原作読め」とは無関係であると思われます。なんか怒涛の全否定みたいになりましたね、すいません。

ちなみに僕自身は「原作者の解釈が唯一正しいものではない」「原作者が知らない正しい解釈は全く有り得る」「原作者も一度創作を終えれば読者の一人に過ぎない」みたいなことは割とよく言う方であり、比較的バルトに即した意味で作者の死を内面化しているような気はします。

20/12/12 お題箱回:創作近況、サイドデッキ理論、反出生百合etc

お題箱74

気付けばお題箱がかなり溜まってますがマイペースに処理していきます。

 

201.短編読みました。ややこしいテーマなのに読みやすくて面白かったです。
今後もラノベは書き続けるのでしょうか?

ありがとうございます。
ややこしいテーマなのに読みやすくて面白い『Vだけど、Vじゃない!』を宜しくお願いいたします。

kakuyomu.jp

とりあえず次の長編は書いてますし、創作も趣味の一つとして続くような気はします。
モチベーションが一番湧いてくるときってあんま面白くないアニメとか見てて「こんなんより俺のが絶対面白いの作れるわ~」って言ってるときと、自分で書いた文章読み返して「やっぱ俺の書いたやつが世界一面白いわ~」って言ってるときで、それがある限りは続きます。
とはいえ別に絶対一発当てるみたいな強い志があるわけでもないです。もういいやと思って辞めるのがいつかはわかりません。ほとんどの趣味はそうだと思いますが。

ついでに今書いてるやつの話もうちょっとしていいですか!? 周りに創作趣味の人がいなくて一人で孤独に書いてて普段誰にも話す機会がないので……
主人公がフィジカルエリートのプロゲーマー女子高生ということは前に書いたのですが→、メインヒロインは主人公とタッグチームを組んでいるロリ可愛い同級生の女の子です。
カッコイイ系の主人公とは対照的に女の子らしい外見と嗜好を持っており、特に花が大好きです。自分の眼球にアサガオの根を寄生させて眼窩での栽培を試みた結果、失明して片目の視力を完全に失い、今は義眼で同じ趣味を楽しんでいます。
共感能力が低めで他人を蹂躙することに抵抗が無いところは主人公と気が合うのですが、主人公からの熱烈なラブコールに対しては非常に冷淡です。毎日のように受けている告白にはイエスともノーとも返すことがないまま、主人公に抱えられて移動したりお姫様扱いを受ける毎日です。

 

202.フィクション世界内で提唱される理論ってどれも作者によって恣意的につくられた世界内での運用を前提にしているものじゃないですか?だからそれが正しいかどうかは別としても究極的には全て(それこそ道徳の教科書や聖書のようなものも含めて)信頼に値しないと思うんですけどLWさん的にはどう思いますか?

あまり質問の意図が掴めていない気もしますが、基本的には僕もそうだと思います。

ただ、「理論」というワードが指しているものの幅にもよります。
大雑把に言って、物理学を筆頭とした実証主義的な自然科学をフィクション世界で実験する意義が皆無である一方、哲学のような思弁的な営みは十分に有効であり得ます(実際、哲学の議論でよくやる極端な思考実験をフィクションと明確に区別するのは難しいと思います)。「道徳の教科書や聖書」を例に挙げているあたり、道徳や倫理に関する理論を想定しているのだとしたら、信頼に値する結論が出てもおかしくはありません。

 

203.普段BL漫画は読まれますか?(同人誌ではなく、一般書店で発売されているものです)

特に読まないですね……丁寧に注釈を付けて頂いていますが、同人誌も特に読まないです。
とはいえ男同士っぽいTwitter漫画はたまにRTしていますし、平均的な男性に比べてBLっぽい描写は嫌いではない方だと思います(それは僕が男子校育ちであることと無関係ではないでしょう)。
ただ、これは偏見かもしれませんが、女性作家が描く典型的なBLみたいなもの、顎の尖ったイケメンが顔を赤らめて「やめろよ、そんなところ……」みたいな女性的な悶え方をするやつ、明らかに異性愛の想像力で描かれているBLはそんなに好きではないです。もう少し匂わせるくらいでいいです。

ちなみにこれはかなりの確信を伴ってツイートしています。ヘテロはエロ以外需要無いです。

 

204.KSUに激しく興味があるんですけど、ガチ部外者は入れない集団だったりします?

形式的な入部手続きを備えたサークルとかではないので、ガチ部外者は入れないのかと聞かれればそうなのかもしれません。
サイゼミは定期会合という実体を持っていますが、KSUは「いつメン」くらいの意味で適当に使ってるだけです。「いつメンで旅行くか」って言う代わりに「KSU旅やるか」とか言ってる感じです。てかカスみたいな集団なので興味持つ意味無いですよ。

 

205.lwさんが原根健太さんについて好きなところを語ってください

jspeed.hatenadiary.jp

伝説のブログ「くされにっき」やTwitterを通じてカードゲーム界に大きな影響を及ぼしてきたハラケンですが、その中でも最大のものはサイドチェンジ概念のレベルを底上げしたことだと思います。

彼が広めた「サイド後のデッキも完成形でなければならない」という思想ってカードゲーム全般の理論が洗練された今でこそ常識になってますけど、十年も前はかなり革命的でした。
かつての古い思想としてはやっぱり「サイドデッキ=メタカード置き場」という固定観念がかなり強固で、いざサイドデッキを組むとなると「環境的に強いメタカードを選ぶ」「用途別にメタカードを揃える」「苦手な相手には有効なメタカードを厚く取る」みたいな水準で構築する人がほとんどだったと思います。メタカード以外を入れるとすればあとはもう一発芸の完全スイッチくらいで、【チェーンバーン】を【甲虫装機】に、【カウントダウン】を【自爆スイッチ】にシフトするための15枚を詰め込むくらいが精々でしょう。

しかしJSPEEDが明確にしたのは「サイド後のゲームもまず最初にあるのはメタカードではなくゲームプランである」ということです。
例えば相手の仕掛けが数ターンがかりなら罠を置くタイミングを変えるなり、相手が裏守備への対抗手段を持っていなければ裏から入るプランを備えるなり、相手が一対一交換しか出来ないデッキならアドバンテージで突き放すなりというような無数のプランが有り得ます。メタカードを入れるにしても、サイド後のゲームプランの中で「メタカードで対処することで勝てる」という判断があればメタカードに頼ってもよいということに過ぎません。
気付いている人も20年は前から気付いていた(そして勝っていた)ことだと思いますが、少なくとも遊戯王においてこれをはっきり言語化してゲームのレベルを一段上に押し上げたのはやはりJSPEEDの功績でしょう。

ちなみに、そのようなプランレベルでの考え方から導かれる「サイドチェンジはデッキのパワーを下げる」という結論も驚くべきものです。デッキが目指すべきプランはメインが一番強い形に最適化されているはずで、サイドチェンジはその完成形をわざわざ崩す行為だからです。ここから「サイドチェンジはしないに越したことはない」という地点にまで達したのが沖縄のすねーくはーとさんで、サイドデッキ無しの縛りプレイで優勝したりしていました。

 

206.銀髪の基礎打点高すぎない?

高すぎます。銀髪だけで100点満点中70点くらい入ります。

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207.何の知識もない文系にも分かるようなニューラルネット記事待ってます

saize-lw.hatenablog.com

上の記事から適当な本を読んでください。この中で一番のお勧めは『高校数学でわかるディープラーニングの仕組み』ですが、いまどきディープラーニングの本は無限にあるので大きめの本屋に行って読み通せそうな本を探すことをお勧めします。

ちなみに大抵の記事は「書いてください」と言われればしょうがねえなあと書いている気がしますが、ディープラーニングの解説は何件来ても絶対に書かないという固い意志があります(理系分野は得意なだけで好きではないので)。

 

208.LWさんって割と効率重視っぽいのに、好きでもないソシャゲとかに時間投下してるの謎

効率重視の人間というのはその通りですが、ソシャゲには言うほど時間投下してないです。
余暇にわざわざ遊ぶソシャゲはハースストーンとアズールレーンくらいで、ハースストーンは基本アニメ見ながらとか家事しながらとかマルチタスクでしかやりませんし、アズールレーンもイベントは周回せずにガチャで欲しいキャラだけ取って済ませることの方が多いです。

ちなみにソシャゲのことは結構評価していて、何が起きているかを追っておきたい程度には関心があります。
FGO以降オタク界にもソシャゲが浸透して2010年頃の「俺たちオタクはソシャゲなんてやらねえ」みたいな空気はもう消え去りましたが、当時よくあった批判として「ソシャゲはゲームとしては下の下の下、プレイヤースキルが問われずに時間か金だけで勝てるクソゲー」という指摘は未だに事実だと思います。
しかし、その批判はいまや問いに転化されるべきです。すなわち、「何故ゲームとしては下の下の下なのにオタクが皆ソシャゲをやるようになったのか」という疑問に対する答えは一つしか無くて、ソシャゲは(当時の批判が想定していた据え置き機のような)ゲームとは別の評価軸を持つ別の遊びだからです。
ソシャゲはアニメとかゲームとかに並ぶ新しいカテゴリの娯楽であって、いわゆるゲームの下位種として無視できる段階はもう終わっています。そう思うと、動向を知るのに払う時間はある程度は無駄ではありません。

 

209.物語消費論を読んでから初めて多重人格探偵サイコの原作が大塚英志って気づいたのでサイコの感想を伺いたいです

僕は逆に『サイコ』から入って『ロリータ℃の素敵な冒険』とかを読んだあと、大塚英志が評論もやっているのを知りました。だから最初に読んだ評論もたしか『キャラクター小説の作り方』とかで、『物語消費論』でも『サブカルチャー文学論』でもありませんでした。最初が『サイコ』だったせいで僕にとっては大塚英志は批評家の中でもかなり特別な位置を占めています。すいません、いま自分語りをしました。

『サイコ』って西園伸二が生きてる頃は快楽猟奇殺人サスペンスをちゃんとやってたと思います。当時中学生だった僕は当然そういう『サイコ』が好きで、上野達のフラワー殺人でかなりブチ上がってました。『サイチョコ』までわざわざ読んでて、「ひらりん」って『物語の体操』では事務所のイラストレーター(だっけ?)みたいな紹介されてたと思いますけど、それも僕にとっては「『サイチョコ』の作者」の方が先に来ます。
ただ、主人公が弖虎に変わったあたりから真相を巡るサスペンスとしてはシンプルに破綻したと思います。全ての元凶としてルーシー・モノストーンと学窓(ガクソ)を措定しておきながら、明らかにその真相を語るつもりは一切ないでしょう。むしろ真相自体を投げ捨てることで物語が矮小なプロットに収まることを慎重に避け、それらしいモチーフをパッチワークしたようなイメージの集合体、高度に象徴的な漫画を目指していたような気がします。今丁寧に読めばバーコードやスペアが何を象徴していたのかには一定の回答が出せる気もしますが、ボードリヤール等を援用するのがむしろ想定されている感想なんでしょうね。

なんか『サイコ』って中高時代に好きだったコンテンツなのであまり距離を取って冷静に語ることが出来ませんね。気が向いたらまた何か書くかもしれません(多分書きませんが)。

 

210.echo showもレビューして❤️

Echo Show 5 (エコーショー5) スマートディスプレイ with Alexa、チャコール

Echo Show 5 (エコーショー5) スマートディスプレイ with Alexa、チャコール

  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: エレクトロニクス
 

Primeセールで5000円で売ってたのでとりあえず買ったんですが、今のところバックライト付き置き時計としてしか使っていません。搭載されているアレクサに話しかける用事も特にないし、多分買う意味は無いと思います。

 

211.8月消費コンテンツ記事めちゃくちゃ面白かったです!ウォッチメン各話タイトルまじで格好いいですね……

ひとつだけ。
"この姿勢には一貫性があり、わざわざ「個人の主義主張、思想、信条の表現や発言に寛容でありますが」と前置きするあたり好感度が持てる。"
好感度→好感 のタイプミスではないでしょうか。

次回も楽しみに待ってます!

ありがとうございます。この記事ですね、当該部分を修正しました。 

saize-lw.hatenablog.com

というか、もう12月ですね。記事を書くまでに2ヶ月あって、返答までに2ヶ月あって、8月って4ヶ月前ですね。

 

212.最近どこかで見た、反出生主義者だけど性欲は存在する人類にとっての答えが「百合」であるというほら話で笑うと同時に感心してしまいました
lwさんはどう思います?答えにくい話題なのでこの質問は飛ばしても構いませんが......

どうなんでしょう? 反出生主義も一枚岩ではないので一概には言えませんが、素朴な感想としては反出生から入って百合に至るまでの理論的整合性を確保するのは結構難しい気がします。
というのは、現在ブームになっているディヴィッド・ベネターの反出生主義ってかなり実利ベースの議論で規範や欲望に関する話題はあまり扱わないので、恐らく「子供を作りたくないけどセックスの快楽は得たいならコンドーム使って避妊セックスすればいいじゃん」という回答になると思われます。反出生原理主義者(?)が否定するのはまさしく出生そのものだけですから、別にヘテロセックス自体が規範的にどうこうという話ではありません。レズセックスも否定はされないと思いますが、直観的に考えてもっと無難な選択肢である避妊セックスを押しのけてまで主張するのは困難でしょう。

出生に繋がり得る行動も全面的に否定するという規範的な主張を採用するのであれば、恐らくベネター風の合理的な分析哲学ではなく、何かアクティビィストが絡むような社会運動を想定したものになるような気がします。となると、安直にリベラルなモチベーションで反男性の論陣を張るレズビアンフェミニズムの助けを借りるのが良いでしょうか。

反出生からフェミニズムに行く困難さに比べれば、ある種のフェミニズムから反出生に行くのはそう難しくないでしょう。男女という関係を否定するレベルでラディカルに家父長制を否定するのであれば、現実問題として子供を作れないことに対する正当化は必要になるはずだからです。以前も少し触れたように→、反出生主義とフェミニズムって(女性や非存在者という)周縁者を擁護するという点で相性は決して悪くないと思いますが、その場合は「非存在者に対するリベラリズム」という悪魔的事態を認めるかどうかが焦点になるでしょう。

補足365:「非存在者に対するリベラリズム」という表現がよくわからないというツイートを見かけたので補足します。まず、僕が思うにフェミニズムと反出生主義の相性が実はそこまで悪くないというのは

フェミニズムは男性に抑圧されてきた女性の権利を担保する
・反出生主義は存在者に抑圧されてきた非存在者(=まだ生まれていない赤ちゃん)の権利を担保する

というように今まで省みられてこなかった者たちを擁立しようという構造が形式的には似通っているからです。
ただ、フェミニズムに限らずリベラルって「今現に女性が抑圧されているなら、その事態は無視できない!」みたいな、現にある個々人の苦しみを過大評価することによって活動として成立しているようなところがあるじゃないですか。これをそのまま反出生主義に適用しようとすると「今現に非存在者が抑圧されているなら、その事態は無視できない!」っていうモチベーションになるんですが、非存在者って存在していない以上、明らかに今現在に苦しんではいないわけです。そういう現実化していないものって、いわゆるリベラルが擁立する対象になるのかどうか全然わからないですねという気持ちを込めて、あえて矛盾した標語を掲げるようなつもりで「非存在者に対するリベラリズム」と書きました。

思想的な整合性はともかく、サブカルのモチーフとしては『少女終末旅行』然り、終末ものと百合ものは相性が良いっていうのは確実にあるでしょうね。男女だったら他にどんだけ人類滅びてても近親相姦連打で捲れるやんみたいな希望ありますけど、女女だったら無事に詰みなので。

20/12/6 2020年10月消費コンテンツ

2020年10月消費コンテンツ

最近映像作品を見るより書籍を読むのがメインになっている感じがある。

メディア別リスト

映画(6本)

TENET
AI崩壊
マッドマックス2
ハンニバル・ライジング
マッドマックス3
ドラゴンクエスト ユア・ストーリー

書籍(8冊)

大衆の反逆
機械学習入門 ボルツマン機械学習から深層学習まで
基礎から学ぶ人工知能の教科書
高校数学でわかるディープラーニングのしくみ
最短コースでわかるディープラーニングの数学
やさしく学ぶ機械学習を理解するための数学のきほん
はじめての構造主義
フランス現代思想

アニメ(60話)

デカダンス(全12話)
Lapis Re:LiGHTs(全12話)
Re:ゼロから始める異世界生活 第2期前半(全13話)
攻殻機動隊(全23話)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

【アニメ】Re:ゼロから始める異世界生活(第2期前半)

消費して良かったコンテンツ

【アニメ】Lapis Re:LiGHTs
【映画】AI崩壊
【映画】ドラゴンクエスト ユア・ストーリー
【書籍】大衆の反逆
【書籍】最短コースでわかるディープラーニングの数学
【アニメ】デカダンス

消費して損はなかったコンテンツ

【アニメ】攻殻機動隊
【映画】TENET
【書籍】はじめての構造主義
【書籍】高校数学でわかるディープラーニングのしくみ
【書籍】基礎から学ぶ人工知能の教科書

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

【書籍】やさしく学ぶ機械学習を理解するための数学のきほん
【映画】ハンニバル・ライジング
【書籍】フランス現代思想

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

【書籍】機械学習入門 ボルツマン機械学習から深層学習まで
【映画】マッドマックス2
【映画】マッドマックス3

ピックアップ

Re:ゼロから始める異世界生活(第2期前半)

saize-lw.hatenablog.com

一期の時点では「最近の異世界系流行りアニメ(このすば、SAO、オーバーロードみたいなライン)の中では頭一つ抜けてる」くらいの印象だったが、二期で強固な主題を持つ突出して優れた作品という評価が確固たるものになった。早く見た方がいい。

一期では萌えるキャラがイマイチいなかったが、二期はエキドナとフレデリカが萌えでありがたかった。後半山のように出てくる魔女たちもかなり萌え。
魔女って物語の元凶ポジションのはずなのでちょっとずつ消化していくのかと思いきや突然一気に出てきたし、しかも最終的には何となく協力者サイドみたいな雰囲気を出すのでビックリしてしまった。続きを楽しみにしている。

 

機械学習関連書籍

saize-lw.hatenablog.com

上の記事に詳しく書いたので参照。
初学者に向けてどれか一冊を選ぶとすれば「高校数学でわかるディープラーニングの仕組み」だが、モアベターな書籍が他にもありそうな気はする。

 

Lapis Re:LiGHTs

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面白かった。
俺は常に毎期『ギャラクシーエンジェル』みたいなアニメを求めていて、その枠にきっちり収まった感じ。第三話のドッヂボール回あたりが最高潮で後半に向かうにつれて失速した感じはあるが、こういうアニメが期に一本あると助かる。あと腋がめっちゃ出るのもありがたい。

補足360:『ギャラクシーエンジェル』みたいなアニメ→主要登場人物に女の子しか登場しない、作画が良い、登場人物のキャラが強い、コメディとギャグが厚い、シリアスや道徳にあまり走らない、ライトな百合要素があると完璧。

アイカツ』や『ラブライブ』あたりから学園アイドルアニメというジャンルが尊い努力による偉大な成功を説く教育アニメポジションを占めがちになり、道徳の教科書を愛読していそうなオタクたちに好まれるようになって久しい。それらとの差別化のためかどうかは知らないが、KLab×KADOKAWAという王道企業がバックにいながら相対的に邪道であるギャグコメディ路線が選択されたことには、『ギャラクシーエンジェル』みたいなアニメを未だに求め続けている俺のようなやつに希望を感じさせなくもない。
学園アイドルアニメとして特に面白かったのが第10話前後。「退学を回避するため」というありがちなモチベーションで行ったライブで普通に退学を食らい、学校を追い出された末に「別に退学したけどよくない?」「他の学校でもよくない?」みたいな空気になって目的を忘れてダラダラしてるシーンがめっちゃ良かった。そう、君たちは別に成功に向かって努力しなくてもいい。

www.lapisrelights.com

メディアミックスの一環でゲームにもなるらしいのだが、教師役の男主人公になってキャラたちとギャルゲー風味に交流していく感じらしいので興味が全くなくなってしまった。そういうのは求めていない。ゲームが売れればアニメ二期が作られる可能性があるのでとりあえず表面的には応援するフリをしたいと思うが、インストールすることはないだろう。
ソシャゲがアニメ化する際に男性主人公がオミットされて女の子だけが残り百合っぽい感じになることはよくあるが、ラピライの場合はアニメが先行したせいで逆パターンになってしまったようだ。

www.youtube.com

あとIV KLOREの曲がいい感じ。

 

AI崩壊

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なかなか面白かった。いや、映画としては全然面白くないと思うが、最初の期待が虚無だったので相対的にかなり楽しめた。
俺が「どうせ駄作だろう」という期待でこの映画を見始めたのを責められる人はいないだろう。「その日、AIが命の選別を始めた。」というキャッチコピーの地雷臭がすさまじいからだ。多少なりとも情報科学的なバックグラウンドがある人にとって、このキャッチコピーは水素水と同じくらい疑似科学臭がすると言っても過言ではない。

補足361:こういうAIを神と同一視するオカルト思想の源流が一神教にあることやその背景にあるイデオロギー的な企図を指摘する書籍として『AI原論』が非常に面白い→

しかし、「AIが何の略なのかもしらない層に向けた似非科学オカルト大衆SFなんだろな~」と脱力しながら再生ボタンを押した瞬間、まず開幕で松尾豊が出てきて椅子から転げ落ちてしまった。他のどの俳優よりも先に松尾豊が喋るという神采配である。
松尾豊は深層学習界では日本トップクラスの研究者だ。まさか松尾豊が似非科学オカルトSFに名前を貸すはずが無いし、それどころか、もし仮にオカルトっぽい描写があったとして、向こうのバックに松尾豊が付いている以上は間違っているのはこちら側の知識である可能性の方が高い。開始10秒で完全にパワーバランスが逆転し、似非科学オカルト大衆SF野郎の嫌疑がかかるのはこちら側になってしまった。情報科学を齧った視聴者が舐め切った態度で見始めるのに対して、最速で先制ジャブを放つ強力な構成である。

まあ、松尾豊の監修権限がどれだけあったのかは知らないが、AI関連の描写は実際かなりしっかりしていた。それは必ずしも「全ての描写が現実の技術で実現可能」という意味では無いが(そもそも「統一AIが全インフラを統御している」という基本設定はそれなりにファンタジックだし)、技術的なツボというか、「こういうことをしたらオカルト科学だろ」みたいなギリギリのラインを超えないような気配りが随所に見られる。

例えばその一つは、主人公が天才AI研究者という肩書きの割には悪と戦うために自らAIを作り出したりしないことだ。「悪のAIに指名手配された天才AI研究者の逃走劇」というあらすじからして「どうせ逃げた先で正義の最強AIを開発して悪のAIに対抗するんだろ?」とか思っていたが、全然そんなことはなかった。
「データ収集環境が整っていなければどんな天才でもAIを作れない」というのは科学的に見てかなり正しい。現代的な統計ベースAIの作成には、コードだけではなく数百万規模の大量のビッグデータを必要とする。漫画とかでよくあるみたいに天才プログラマがブラインドタッチでチャチャッとコードを書いて作れるものではなく、地道なデータ収集が必ず必要になる。

また、「命の選別をするAI」は決して自ら意志を持って暴走したわけではなく、暴走させるようにコードを改変した黒幕がいたこともきちんと描かれている。単純娯楽SFならともかく、仮にも社会派映画を気取るなら「人間の黒幕の存在」は外せないポイントである。
科学的に言って、数多のSFで無限に描かれてきたファンタジーとは異なり、AIが自発的に暴走することは有り得ない。AIは内発的な動機を持たないし持てない、外部から目的性を設定されなければ始動しないことがAIと生命の最大の溝だ。これはまさに補足361で勧めた『AI原論』でよく議論されている。AIが内発的な動機を持たない以上、「責任を取ることは人間にしかできない」というようなことを主人公が決め台詞で述べるのも正しい。

上記二点のような科学考証を貫徹した犠牲に、正直なところAI的な見どころには欠ける映画になっている。つまり一応情報技術的な戦いが行われているものの、「これ冷静に考えたらAI技術あんま関係なくない?」と感じざるを得ない。映画内でAIが引き起こす破滅的な事態に対し、AI管理社会の到来そのものは必要条件程度のものでしかないのだ。
例えば、主人公が用いたのはハッキングスキルであって人工知能スキルではないし、AIが人間社会に対する脅威となった原因もAI自身が持つ原理的な欠陥とはあまり関係がない。問題があるとすれば、AIに生命管理を含めたアクチュエータを完全に譲り渡している物理構成や、認証もなく簡単に内部コードを書き換えてしまう杜撰なセキュリティ設計だろう。

だが、それはそれでいい。この作品のタイトルは「AI」なのだから、AI周りのツボを押さえていた誠実さだけで十分だ。

補足362:実際のところ、俺は科学的な考証がしっかりしているかどうかは実は割とどうでもいいと思っている方だし、そのこと自体は作品の評価を直接に決定するわけでもない。だが、ことAIに限っては技術的なツボを押さえていることは好感度を上げやすい。それは定量的な意味での陳腐化を回避することに繋がるからだ。AI研究が進んでいなかった時代からAIが適当に暴走する作品は既に星の数ほどあるわけで、その屍の山に新たな屍を乗せることに何か意味があるとは思われない。それに比べれば、AIの活躍が現実的になってきた時流に乗っかったエンタメ邦画として大々的に宣伝されておきながら、かつ、AIをそれなりにまともに描くことも両立させるというポジション取りには同時代的な価値を見出せる。

 

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー

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まあ面白かった。
幸いネタバレを踏まずに見ることができたが、公開当時の荒れ方からして「まあだいたいこんなような内容だろ」と思っていた内容そのままだった。

今更書くのはかなり恥ずかしいのだが、皆が薄々思っていることは誰かが言わないと始まらない。すなわち「旧劇以来の『現実に帰れ』に対する『現実に帰らないバージョン』」であると。その試み自体安直というか、拍手して褒め称えるほどのものではない。最初から逆張りしそうなコンテンツならともかく、よりにもよってドラクエでやってしまったという規模感によってのみ無駄に燃えている。

ただ、俺はそれでもやはりこういうやつが好きだ。ルフィが敵をブッ飛ばすシーンにワクワクするのと同じくらい浅薄な意味で、今まで現実だと思っていた世界が作りものだったと判明するシーンにはワクワクしてしまう。
「現実に帰らない」を日和らずに貫徹しているのも良かった。ここまでの話がアトラクションであることが判明してもなお、まるでそんなことが無かったかのようにドラクエ内の文脈で感動的な振りをして寒々しいエンディングをやってみせるのがそれだ。もはや自慰行為でしかないことが明らかとなった登場人物たちとの絆をそれでもきちんと描く余白を設けるのは気合が入っている。

 

デカダンス

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みそ氏がやたら推してきたので見たやつ。とりあえず一話を見たら女性主人公で「これはみそ&LW公認アニメきたか」と結構ワクワクしながら見たが、終わってみれば当初の期待ほどは面白くなかった。

俺だけではなく皆そうだと思うが、最初に「おおっ!」と思うのは、マトリックス的な種明かしを第2話冒頭という理論上最速のスピードで実行したことだ。伏線を張りまくった末に第10話で明かすようだと陳腐なアニメだが、最速で世界の真実を明かしてしまった以上、その上に更に何を積み立てていくのかを楽しみにしていた。
が、よくあるディストピアものに差を付けるスタートダッシュは負の加速度によって二次関数的に減速し、最終的には結局よくあるディストピアものに落ち着いてしまった。騙されたままのタンカーの人生を見て決意を固めるカブラギも、システムを知って絶望した末にそれでも自分の経験だけは本物だとして立ち直っていくナツキもベタベタから一歩も出ていない(実存!)。

ただ、最終的にシステムの外に出るのではなく、多少改変されたシステムを運営する状態に落ち着いたことには好感が持てる。安定状態はシステムの外にはない。システムは進化して温存されるし、進んでそうされなければならない。
それに自覚的であったことを示すのは、オメガをあっさり討伐してしまったことだ。つまり、仮に「一般にシステムは破壊されなければならない」という単純な二元論を取るのであれば、オメガもまた保護すべき対象のはずだ。
何故なら、ガドルもタンカーと同じシステムの被害者だからである。サイボーグの都合によって生み出されたり殺されたりするガドルの事情は、一応の人生を謳歌できるタンカーよりも酷い。サイボーグにとってのバグがカブラギで、タンカーにとってのバグがナツキであったように、ガドルにとってのバグはオメガだ。ガドルにとっては生殺与奪を握られている屈辱的な状況を打開する起死回生の一手がオメガだった。
しかしカブラギやナツキはあれほどバグの素晴らしさを語ってきたというのに、同じ立場のはずのオメガを「自分たちにとって都合が悪いから」というだけの理由で華々しく討伐してしまう。彼らは徹底的に利己的であり、バグの称揚はあくまでも有益な範囲でしか発動しない。ガドルは一貫して倒すべき敵としてしか描かれず、サイボーグとタンカーが結束するための餌として利用され、最終的にも飼いならされている状態は変わっていない。

こうしたオメガの扱いはダブスタとして低評価に数えてもいいし、建設的な提案として高評価に数えてもいいが、俺は後者を選びたい。彼らが主体的に生きるということは結局のところ何らかの利己的なシステムを作り出してしまうことのはずで、そこを誤魔化しても仕方ないからだ。

補足363:システムというワードから『サイコパス』との類似を指摘するような感想も多く見たが、『サイコパス』が優れていたのは「実存志向↔本質志向」の他に「現実主義↔理想主義」という軸を設けた上で最終的にシビュラシステムを無傷で存続させたことだ→。『デカダンス』もシステムを全否定しないという意味では路線は似ているが、この土俵で比べてしまうなら、より繊細な議論を展開した『サイコパス』に軍配が上がることは否めない。

  

攻殻機動隊

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劇場版は『G.I.S.』と『イノセンス』を見ており、アニメ放送版をようやく見た。
劇場版の印象からもっと衒学的な感じかと思っていたが、意外と手堅い内容だった。前半は毎回異なる主題の電脳や義体を巡る事件を扱って世界観を提示していき、後半はバトーや局長が活躍するキャラ回も増えつつ、全体的に笑い男事件が通底するという丸い構成。娯楽アニメとしてかなり楽しめた。

全体を通して扱われる笑い男事件は、最終的に「オリジナルを欠いた偶像」というパトレイバー劇場版あたりと同じ押井守的主題に落ち着いていく。実家のような安心感はあるが、これもう他でやってるのにわざわざテレビシリーズでやる意味あったかというモヤモヤ感もある。
一番気に食わないのは、タチコマの自我発生をギャグではなくシリアスな最終回答として提出してしまったことだ。タチコマが完全機械サイドからの協力者として重要なキャラクターであることはわかるし、タチコマ回で自我は発生することは全然構わない。ただ、それはコメディでしかないのだ。自然発生する人格として笑い男と並列に扱ってしまったら、それはもう『AI崩壊』の懸念として書いたような浅薄なオカルトSFではないか?

補足364:こういう文脈で具体的な作品名を挙げるのは気が引けるが、例えば『イヴの時間』。

確かに、『G.I.S』での人形遣いは無機的なネットワークから自動発生したという意味ではタチコマと同質の存在ではある。しかし『G.I.S.』の主題は人形遣いの発生それ自体だけではない。人形遣いの発生と同時に進行する草薙素子の電脳化とセットで初めて主題なのだ。電脳世界の無機物から現実世界の有機物へ向かう人形遣いと鏡合わせに全く逆向きの軌跡を辿る草薙素子がいて、その存在を前提とした上での変遷を描いたからこそ中間地点の合流が描かれていたわけだ。
つまり、テレビ放送版では「どのようにタチコマのようなものが生まれるか」という生成論に関心があった一方、『G.I.S.』では「人形遣いのようなものはどのようなものか」という存在論に関心がある→。これは俺の関心に相対的な意味であることは前置きしておかなければならないとはいえ、存在の様態に関して広汎な議題を提示できる存在論に対し、せいぜい局所的な妄想を提示するにとどまる生成論を主題とするのは得策ではない。

 

TENET

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タイムラインのオタクどもが皆揃って見ている作品がラブライブやきららアニメではなく『TENET』になってしまったあたりに男オタクの加齢を感じる。
普通に面白かったのだが(正直に言うとよくわからんかったところは考察サイトを見て「へーそうなんだ」と思った)、素朴な単純娯楽映画以外の感想があまりない。これに限らずクリストファー・ノーランの作品はだいたい全部そんな感じで、『メメント』『プレステージ』『インセプション』あたりも軒並みそのような感想しか持てない。これは決してディスっているわけではないのだが、そんなに高尚な作品ではないというか、俺の中ではヤングジャンプ青年漫画とかにかなり近いところにカテゴライズされている。

20/11/26 Re:ゼロから始める異世界生活(第2期前半) 深化するループ者の倫理

Re:ゼロから始める異世界生活(第2期前半)

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一期に続いて非常に面白かった。
俺は普段あまり人に「これ見て」みたいなことを言わない方のオタクだが、『リゼロ』は例外的に勧めざるを得ない。『リゼロ』を見た人と見ていない人では参照可能なトピックのレパートリーが違いすぎて会話が成立しない恐れがあるからだ。『エヴァ』を見ていないヤバさを100とすれば『リゼロ』を見ていないのは50くらいヤバい。

saize-lw.hatenablog.com

一期については既存のループものから問題意識を前に進めた「ループ者の倫理」という主題を巧みに扱っていることを称賛する記事を書いたが、二期でもそれを受け継いで深化させている。論点は一期から一貫しているため、上の記事を読んだ前提で話を進める(読んでいない人は読んでおいてほしい)。

補足356:正直なところ、俺の称賛は作者の意図とは必ずしもリンクしない偶然的な解釈の産物で続編では梯子を外されることも多い(とはいえ、作者の意図に沿っていないことは解釈の価値を何ら減じないことは言うまでもない)。リゼロもその手の「解釈違い」だったら二期は見なかったことにしてシリーズごと記憶の奥底に埋葬しようと思っていたのだが杞憂で済んだ。リゼロ二期を経て長月達平に一目置くようになり、現在絶賛放送中の『戦翼のシグルドリーヴァ』も「彼が噛んでいるなら見届けておくか」という気持ちで見続けている。『シグルリ』でも「死者をどう弔うか」という観点が『リゼロ』と共通しており、その回答がどう提示されていくのか楽しみにしている。

ループへの適応と糾弾

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二期でまず起きる事態は、スバルの死に戻りへの適応だ。
一期では一貫して死に戻りを拒絶していたスバルだが、二期ではループを活かすというポジティブな利用可能性を見出し始める。それによって、スバルはベアトリスに助けられた際に怒ったり(ループが切れる危険があるから)、オットーやオズワルドに動揺が薄いことを指摘されたり(ループすれば元に戻るとわかっているから)、極めつけには彼自身が「試して持ち帰る」と発言したりするようになる。
もともと、スバルが死に戻りを嫌う理由は二つあったのだった。上の記事に書いたように、一つはスバル自身の死が肉体的苦痛を伴うこと、もう一つは(仮にリセットされるとしても)他人の死が精神的苦痛を伴うことだ。よって、スバルが死に戻りを厭わなくなることは、自身と他人の苦痛を共に軽視することを意味する。
また、ループに対する「スバルの慣れ」は「視聴者の慣れ」ともパラレルだ。『シュタゲ』や『AYNIK』では作品全体を通して一つの課題をループで解決しようとする一方で、『リゼロ』では課題がはっきり複数のセクションに分節されており、レムを助けたら次、エミリアを助けたら次というように、各目標をクリアするたびに次の目標が設定されていく。そして二期冒頭の聖域編ではこのゲームステージも6回目だかに突入し、それだけ繰り返せば見ている側も流石にもう慣れてきてしまう。そもそも『リゼロ』のプロットのパターンはそう豊富なものでもない。Bパートの終わり間際まで平和なムードだったらだいたい最後の引きで誰かが死ぬし、誰かが死ねば死に戻りするのは予想が付く。もはや衝撃の展開に既視感を持たない方が難しいだろう。
視聴者の飽きに呼応する形でスバルもまた自身の死に鈍感になり始めたという、二期にして三クール目というシリーズの長期化(小説としては長編化)を組み込んだ前提の更新が行われているわけだ。

しかし既に指摘したように、スバルがループを利用するループ者になるということは全く歓迎すべき事態ではなく、それどころか明確に反倫理的な行為だ。
少なくとも一期において、「スバルはループを上手く使えないし使わない」というところに、スバルがループ者として可能世界の全責任を背負っていることに対する倫理が現れていたのではなかったか。スバルがループを活用する岡部やキリヤのような存在になることは、スバルにとっては自らが果たすべき責任に対して鈍感になるという完全な退化に他ならない。
実際、中盤で頂点に達した「死に戻り利用路線」は第二の試練で最強の批難を受けることとなる。まさしくスバルが捨ててきた可能世界における顛末が提示され、スバルはそれらに対して責任を果たしていない=放棄した可能世界の全人類を殺害したことを激しく糾弾されるのだ。確かにスバルは多少死に戻りを活用しようとしてしまったとはいえ、第二の試練で回想されるような第一期の時点においては誰も死なないように血を吐きながら頑張っていたはずだ。にも関わらず、そうしたやむを得ない不履行までもがスバルに永遠に憑りついてくる、病的なまでの潔癖さが第二の試練からは垣間見える。

補足357:ちなみに中盤でベアトリスから提示される「ベティを一番にして」という要望もループ者一般に対する糾弾として読める。ループ者であるスバルは「皆が幸せになれる可能性」を探しがちだが、その対象の複数性はループ者が持つ並行世界の複数性とパラレルであることは言うまでもない。最初から誰か一人を選んで他の全てを切り捨てて彼女と心中できるのであれば、つまり、ただ一つの世界を選んでその世界と心中する覚悟が決められるのであれば、ループ者になどなる必要はないのだ。そして全く同じことを後半でロズワールも述べている。なお、ゼロ年代ギャルゲー批評(笑)の亡霊を呼び起こしてくるならば、もっとベタにルートシステムにおける複数ヒロイン攻略への批判として読んでもいい。

ループ者自身の幸福

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そして時系列的には逆になるが、この第二の試練を踏まえるならば、第一の試練で唐突に転生前のエピソードが挿入されたことの意義も明らかになってくる。
第一の試練で普通の過去回想が普通に始まって俺は本当にビックリしてしまった。あまりにも乱暴な概観ではあるが、異世界転生というジャンルには「現世での不憫な境遇に対する根本的ソリューション」という側面が間違いなくあるはずで、現世に残してきた問題に向き合ってしまったら、せっかく転生した意味がなくなってしまうではないか。実際、少なくとも他のファストフードのようにお気楽な異世界転生作品においては、現世を振り返ることはせいぜい教訓やモチベーションや知識のような都合の良い優越を得るための踏み台に過ぎず、『リゼロ』のように正面から真摯に反省することはまず有り得ないと言っていいだろう。
しかし、『リゼロ』では第二の試練で提示された「死に戻りで放棄した世界ですら見捨てない」という激烈な倫理を前提するのであれば、それはスバル自身の転生前の世界にも適用されて然るべきだ。異世界転生ものの第一話で行われる転移とは、都合の悪い世界から都合の良い世界への移動であり、元いた世界を全く省みずに放棄していく営みであるとすれば、これも「死に戻り」の変奏と見て何の問題があろうか。「並行世界の問題ですら捨てることを許さない」というループ者に要求される病的な倫理性は、ループジャンルに対するアンチテーゼであるだけではなく、異世界転生ジャンルにすらその鋭い切っ先を差し向ける。

更に言えば、この第一の試練において、「絶対に見捨てない」という倫理的考慮の対象がループの被害者たるレムやエミリアだけではなく、ループの加害者たるスバルにまで広がる可能性が示唆される。つまり、スバルが第一の試練において異世界転移を死に戻りの亜種と見做すことで、異世界転移において放棄された自らの過去と、死に戻りにおいて放棄された他者の可能性を同一視する契機が生まれている。ここから、スバル自身もまた死に戻りのたびに自らの生を放棄させられるループの被害者であるという観点まで跳躍するのは難しくない。

補足358:第一期時点や第二の試練でのポジションにおいては、スバルだけが世界を乗り越えられる超越者であり、その強大さにかけられた縛りが「死に戻りを口外できない」という「誓約」に象徴されていた。ところが、二期シリーズではエキドナ、フレデリカ、ベアトリス、ロズワールなどのように直接間接にスバルの死に戻りに気付き始める人物や、別経路での「誓約」を持つ人物が次々に登場し、スバルの絶対的なポジションも多少は相対化されてくる。スバルもまた自分自身のループで見捨てられる被害者で有り得るという視点は、こうしたポジションの軟化からも支持される。

そして最終的にはエキドナによる「死に戻り活用路線」の露悪的な再提案に対して、スバルは「自分自身を大切にしなければならないから」という理由で明確に拒絶する。これによって「実は死に戻りを利用してもよいのではないか?」という視聴者の飽きとパラレルに現れてきた疑問に対して改めてNOを突き付けると共に、「(ループ者以外の幸福だけではなく)ループ者自身の幸福も求める」という新しい視点が導入される。
なお、第一期時点ではループ者と被ループ者の絶望的な断絶が維持されていただけに、「スバル自身も幸福になってもよいし、なるべきだ」という幸福観の転回はスバルに対して甘くなっただけではないか、問題設定のちゃぶ台返しではないかという指摘も予想される。
しかし、その見方は誤っているとここではっきり述べておこう。何故なら、最大の主題であるループに関してはスバルの状態は決して好転していないからだ。依然として死に戻りに際しては肉体的・精神的な苦痛を味わい続けなければならないし、立て続けの試練と幸福を求める意志によってそれらの苦痛は弱まるどころかむしろ強化されている(強化された倫理は死に戻りの苦痛に対して鈍感であってはならないことを求めるのだから)。
むしろループそのものに対してはより苛烈な制約が課されてくる中で、それと併走する形で新たな幸福の形を模索するところに価値がある。主題と矛盾しないところでも過度に自罰的になる必要はない。倫理的な義務を遂行できる範囲で新たな価値観を打ち立てることは生産的な営みであろう。

ループに協力的なラスボス

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そして最後に立ち塞がるラスボスはロズワールだ。
一期のラスボスであったペテルギウスと同様、二期のラスボスになる(のだろう)ロズワールもまた、ループ者一般に関する論点を持つ敵である。上の記事で書いたように、ペテルギウスは憑依によって生をリセットできるという意味でローカルな死に戻りを持っていたのであった。ロズワールも(彼自身はループしないにも関わらず)一回性の生を捨てており自分を大切にしないという、ペテルギウスに似た価値観を持っている。

だが、ロズワールが提示する問題はペテルギウスよりもラジカルでロジカルだ。ペテルギウスがループ者自体を徹底した先の極限だとすれば、ロズワールはループ者への協力を徹底した極限にいる。
二期前半クールの終盤において、ロズワールはスバルが死に戻りせざるを得ない状況を用意していた黒幕であったことが明らかになる。「ループを強要する」、それがロズワールの本質である。ある意味、岡部やキリヤのようなループ者にとってはこれほど嬉しいこともないだろう。彼らにとってはループとはポジティブに活用できる強力な能力であり、それを活かせる舞台をロズワールはわざわざ提供してくれるのだから、本来であればロズワールはループ者との共犯者ですら有り得る。もっと言えば、「主人公にループでどんな困難をクリアさせようかしらん」などと考えているループものの「作者」こそがロズワールであり、彼は明確にループジャンルに対するメタキャラクターだ。
しかし、『リゼロ』においてスバルに課される倫理性は、ループ者でありながらループを行わないという矛盾を要求する。ループできてしまうからこそ、それをなるべく行わないのが最大の倫理なのだ。

補足359:だが、ある意味ではこの矛盾こそが倫理の本質である。喩えて言えば、生後間もない赤子にとっては「人を殺さない」という倫理が意味をなさないのと同じだ。赤子には人を殺しうる腕力も精神力も存在しないのだから、そんな規範を与えたところで最初から機能しない。成長の末に「その気になれば人を殺しうる能力」を手に入れたときにこそ、「人を殺さない」という倫理が初めて現実味を帯びてくるのである。この意味で、倫理という概念には常に遂行能力が含意されており、その根底には可能と不可能の相転移が渦巻いている。

親切にも舞台設定を整えてくれるロズワールに対し、スバルが取れる道は実質的には存在しない。ループを利用して勝ってしまっては彼の倫理が敗北し、ループを利用せずに負けてしまっては彼の人生が敗北するからだ。
この詰み状態をどう収拾するのか、第二期後半を本当に楽しみにしている。

20/11/20 ロラン・バルト『物語の構造分析』メモ 構造分析vsテクスト分析

物語の構造分析

物語の構造分析

物語の構造分析

 

お題箱に「作者の死」に関する投稿が来ていたのでやむを得ず読んだ。
ロラン・バルト及びその著作については「構造主義ブームの記号論&物語担当」くらいの解像度でしか把握していなかったが、実際に著作を読むとロラン・バルト自身はグレマスやプロップのような古典的な構造分析に対しては明確に距離を取っているのが意外だった(同じ界隈だと思っていた)。
バルトのポジションは「作者ベースの批評(歴史的批評)vs読者ベースの批評(構造主義批評)」という対立において後者というよりは、構造主義批評の中で更に分裂した「構造分析vsテクスト分析」という対立において後者という方がしっくり来る(そしてテクスト分析は構造分析よりは歴史的批評に近い)。構造分析が単に所定の枠組みで作品を捉える原始的な構造主義であるとすれば、テクスト分析はその自律性に疑いを持つポストに片足を突っ込んだ構造主義という印象。

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実際、メインの論文である『物語の構造分析序説』では主として構造分析を深化させたモデルを提示しながらも、要所でテクスト分析の必要性を示唆する構成になっている。
バルトが提示する機能-行為-物語行為という三段階層モデルは直観的にも理解しやすく、構造への当てはめゲームに終始する節がある機能リストや行為項モデルに比べると、ゆがみや拡大といった説得力のある魅力を扱える点で上位版のように感じる。
ただ、この論文における最大の力点は決して機能-行為-物語行為モデルそのものではなく、むしろこの単純な腑分けに収まらない余剰への意識であるように思われる。それはバルトが物語行為について語るところで顔を出すが、これに関してはバルト自身より日本語訳者(花輪光)の訳解の方がはっきりと書いている。

物語の自律性を前提とする内在分析は、「物語の状況」に関して十分な意味規定をおこなうことができず、逆に外在的条件までも考慮すれば、物語外の要素の介入を避けえない。物語の構造分析のこのディレンマを解決するためには、物語のディスクールを含む包括的な「ディスクール言語学」、いやさらに「エクリチュール言語学」が必要であろう。

ここで物語の構造分析を補完する「エクリチュール言語学」として現れるのがテクスト分析であることは明らかだ。ちなみに統語論に終始して文化的価値体系と接続しない構造分析のことはレヴィ=ストロースも批判していたらしい。

実践を行う『天使との格闘』でも主にバルトが行ってみせるのは古典的な構造分析に過ぎないが、その過程でテクスト分析を示唆するという『物語の構造分析序説』と同じ構成を取る。こちらの方が構造分析とテクスト分析を峻別する態度がはっきりしており、構造分析を行っている最中にわざわざ「私の本意ではないのだが」という留保をいちいち挟むのが面白い。

最後にわたしは――もっと自分を殺して――われわれのテクストに二種類の構造分析を応用し、そうした応用の利点を示したいと思う――わたし自身の作業はいくぶん異なった方向を目ざしているのであるが

また、ではテクスト分析とは何なのかという自然な疑問に対して(比較的)明晰なバルトの定義が与えられるのもこの論文だ。

テクスト分析はもはや、テクストがどこからやって来るか(歴史的批評)、またどのように構成されているか(構造分析)を言うのではなく、テクストがどのように解体され、爆発し、散布されるか、つまり、テクストがコード化されたどのような道を通って立ち去るか、を言おうとつとめるのである。

ここでもやはり歴史的批評と構造分析とテクスト分析の三種がはっきりと区別されている。この論文では嫌々行われる構造分析が主題であり、テクスト分析そのものは陽に行われてはいないが、最後にその具体的な手続きが僅かに触れられている。

周知のように、換喩的論理は、無意識の論理である。それゆえおそらく、この方面にこそ探求を続けていくべきであろう。つまり、繰りかえして言うなら、テクストの読み取りを、テクストの真実ではなくテクストの散布を、追求していくべきであろう。(中略)少なくともわたしが身に課す問題は、実際「テクスト」を、何であれ一つの記号内容(歴史的、経済的、民間伝承的、ケリグマ的)に還元せず、テクストの表意作用を開かれた状態に保つようにすることなのである。

バルト自身も触れているように、この一節にはラカン精神分析の影響があることは明らかだ。事物を記号的に構築された構造の中でしか捉えられないとするならば、次第にその構造からはシニフィエが欠落してしまい(構造は自律して存在できるのだから)、通常のシーニュではなくシニフィアンだけが残るという見解が共通していることが伺える。

よって、『作者の死』に収録されている、「エクリチュール」に並んで有名なフレーズ「作者の死」もこの文脈で捉える必要があるだろう。
「作者の死」というキーワードだけからスタートしてバルトのテクスト分析を語ろうとすることはミスリーディングとは言わないまでも、少なくとも「読者の誕生」の方がウェイトが高いことは事実だろう。作者が死ぬこと自体は、作品を単純な構造の中に分類しようとするプロップらの構造分析の時点で既に見られるからだ。作者を排除して自律的に作品を捉える閉鎖性はむしろ構造分析の特徴ですらある。
バルト自身のテクスト分析としては、作者を廃してもなお到来する領域として読者に向かっての開きを確保したところに力点がある。ラカン精神分析では「無意識」に割り当てられているような本質的に解釈不可能な領域が、バルトでは「読者の読み」に相当しているように思われる。テクストについて語ることが主題の『作品からテクストへ』でもテクストはなかなか肯定形ではっきりとは定義されず、隠喩や否定形でのみ語られることにも納得がいく。

20/11/13 2020年9月消費コンテンツ

2020年9月消費コンテンツ

9月は『ルフランの魔女と地下迷宮』が終わらないばかりに50時間くらい奪われてしまい、変な和ゲーはもう金輪際やめようと心に決めた(この記事を書いてる今もまだ終わってない)。
俺が極稀にゲームを遊びたくなったときは「据え置き最新機種のパッケージで出てる」「オリジナル」「萌えとは言わないまでもJRPG系かアニメ系の絵柄」「願わくば女性主人公」みたいな基準でとりあえず選ぶのだが、これをもうやめたい。
この基準そのものが面白くないゲームを導くとは思わないのだが、これを満たすゲームを供給する国内サードが片手で数えられるほどしかない(ネプテューヌと愉快な仲間たち)。基本的に彼らのゲームを俺は面白いと思わないので、この基準で選んでいると終わることにようやく気付いた。

メディア別リスト

映画(4本)

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒
マッドマックス
バーフバリ
バーフバリ2

書籍(7冊)

蜂の寓話
カントの哲学 シニシズムを超えて
14歳からの哲学入門
寝ながら学べる構造主義
クリプキ 言葉は意味を持てるか
コロナ時代の哲学
フーコー入門

漫画(13冊)

がっこうぐらし(全12巻)
ドM女子とがっかり女王様(1巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

蜂の寓話
クリプキ 言葉は意味を持てるか
ドM女子とがっかり女王様

消費して損はなかったコンテンツ

バーフバリ
寝ながら学べる構造主義
フーコー入門
14歳からの哲学入門
がっこうぐらし
カントの哲学 シニシズムを超えて

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒
コロナ時代の哲学
マッドマックス
バーフバリ2

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

 (特になし)

ピックアップ

蜂の寓話

かなり面白かった。サブタイトル「私悪すなわち公益(Private Vices, Public Benefits)」がカッコイイ。
サブタイトルから予想されるように、いわゆる悪徳とされる利己主義が社会の繁栄と安定のために必要不可欠であることについて論じている。1714年刊行であり、「個々人が利益を追求していれば(=悪徳)、社会は勝手に安定する(=公益)」という文脈で経済学の祖たる1723年生のアダムスミスにも繋がっている。影響力の大きな書籍である割には内容はエッセー調かつシンプルに文章が面白いので非常に読みやすい。

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まもなくわたくしは小さなずんぐりした聖書を投げつけられ、頭を割られて死ぬであろう。そうした聖書は、真鍮の留め金をつけられて災いをおよぼすようにしかけが施されており、慈善学校の学習がやめになったので、閉じたままほかならぬ実戦にも真の論戦にも適するようになっているのである

ここで一分くらい笑ってしまった。「実戦にも適する聖書」という概念の世界観が『ベルセルク』だが。聖書に真鍮の留め金を付けると有利になる「真の論戦」って何?

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終始この調子で、主たる論旨に関してもデータを用いて客観性のある分析をしているというよりは、都合の良い主観的なエピソードを次々に出してきているガバガバ理論な感は否めない(だから面白いのだが)。
とはいえ、そのあたりの方法論を整備したらしいデュルケムが登場したのも19世紀後半だし、当時の社会学(?)の水準はこんなものなのかもしれない。数値に基づいた論証を行っていないために事実と考察が分離しておらず、常に経済的な側面と道徳的な側面が融合した独特のモザイクの中で主張がなされていく。

まず道徳的な側面については、「美徳とは追従が自負に生ませた政治的な申し子である」という金言が全てを表している。
人間の根源にある欲望とは自負すなわち自惚れであって、人に何かをさせようと思えば自惚れをくすぐるように賞賛や侮辱を与えれば事足りる。利他的な行為を持ち上げる価値観を形成しておけば、人々は賞賛を求めて追従し、逆の行為は侮辱を嫌って忌避するというわけだ。すなわち美徳とは、それに人間の自惚れをくすぐり模倣させることで社会を調停するものに他ならない。美徳とは結局私欲によってしか駆動しないため、それが退けたところの悪徳そのものである。

経済的な側面については、「結局のところ奢侈こそが社会を回すのだ」という旨の主張が無数の恣意的なエピソードによって延々と語られ続ける。
ただし、ここで「富めるものが富むことで社会が繁栄する」という理由で「富むべき」とされている範囲は上流階級に限定されている。「上流階級が富むことで結果的に貧者も富む」というトリクルダウンの構図は全く想定されていない。
むしろ貧者は貧者のままで過酷な肉体労働をして社会の下部を支えていてもらわなければ困るとして一貫して階級格差肯定の立場を取る。不用意な啓蒙をすることは社会を攪乱するので下級階層は無知のままで一生を終えてほしいという思いが「ロシアには知識のある人間が少なすぎるし、大ブリテンには多すぎるのである」という金言で表明されている(この本、金言が多すぎる)。

今から見ると相対的に過激な思想ではあるが、著者のマンデヴィルが公益を追求する気持ちが本物であることについては注意が必要だろう。
この本で公益と言われているものは本当に文字通りの社会繁栄と安定であり、マンデヴィルは利他主義者でこそないものの局所的な功利主義者で有り得る。よって、社会を攪乱して終末に追いやる破滅型の「悪徳」は、『蜂の寓話』においては「私悪」としてカテゴライズされていない。それは恐らくマンデヴィルにとっても忌避すべき対象である。

更なる実践編として、「慈善と慈善学校における試論」で(一般的に道徳的な行為とされているところの)慈善と慈善学校の二つに最強の攻撃を加える補論が収録されている。
道徳的には慈善学校など周りからよく見られたいという自負心によって作られているにすぎないし、経済的にも子供たちを啓蒙することは長期的に見れば労働層を弱体化させて社会を不安定にする。慈善とはもはや悪徳の手を離れて遊離してしまった美徳であるために公益に寄与しない。
冒頭で「聖書にぶち殺される」と卑屈になっているのは、慈善学校でしょうもない読み書きの教科書や聖書の手引きで教育するのをやめてほしいというマンデヴィルの主張が通れば仕事を失った製紙工場業者の恨みを買うからだ。

クリプキ 言葉は意味を持てるか

ウィトゲンシュタインを論じたクリプキを論じるという二重入れ子構造になっている本。
大雑把には「人間にとって言葉の意味など存在しない」という懐疑論について。この記事は内容解説記事ではないので詳述はしないが、「現実的に人間は人生の中で有限の知見しか得られないのにそこから無限の精度を持つ論理的意味を帰納することはできない」というような論旨である。
前回の機械学習回でもちょろっと言及したが(→)、この手の言説が「機械は意味を理解できない」というAI関連でよくある批判に対してのアクロバティックなカウンターとして機能するわけだ、「機械だって人間と同じように意味を理解している」という常識的な反論の逆を行くという意味で。
いま改めて考えてみても、確かにこの方向で人間と機械の意味理解(という錯覚)の間に差が見いだせるとは思われない。人間は意味を理解しないとすれば、況や機械をや。

ただ、論理的に考えて不合理なことなど主に自然科学の領域には無数にあるわけで、懐疑論を是認したあとは「よくよく考えたら不合理でありながら何故それを当然のように享受しているのか」という問いに進む方が建設的ではある。

バーフバリ・バーフバリ2

バーフバリ伝説誕生(吹替版)

バーフバリ伝説誕生(吹替版)

  • メディア: Prime Video
 

1は面白かったが、2で一気に陳腐な話になってしまった。

1の時点では主人公のバーフバリが宗教的な色彩を交えて超越的な存在として称えられており、それは主に絶対的な上下関係によって担保されていたように思う。具体的にはカッタッパからバーフバリへの揺るがない忠義や、バーフバリからシヴァガミへの崇拝じみた信頼がそれに当たる。
インドらしい身分が強い世界の中では人々は生まれた時点で能力や階級が固定されており、誰もそこから逸脱することはできない。それ故に上位の者には身分相応の誇りと強さが求められると同時に、下位の者は上を仰ぎ見て安心感を得ることができる。
こうした階級社会制度は今では反リベラルな「悪」と括られがちではあるが、それ故に(あまりにも粗雑で安直な対立ではあるが)自由主義に毒されたアメリカ映画に対するカウンターとして身分制度を重視するインド映画というポジションがハマっていたように感じた。

だが、2では泥臭い権力闘争が話の本筋になり、それに応じて上下関係も曖昧なものに弱体化してしまう。
シヴァガミが王族の誇りにかけて立てた息子への誓いよりもデーヴァセーナの自由恋愛の方が尊重されるようになってしまうし、ラスボスであるバラーラテーヴァの目的にも王としての誇りは全く伺えず、ただひたすらに強大な権力を握るというハリボテのヴィランなものでしかない。1の頃にあった天上界で営まれるような荘厳な雰囲気は消え失せ、地上的な悪を倒すヒーロー映画に落ち着いてしまった。

補足355:ただ、1の段階で「王族が奴隷と食事を共にする」というエピソードが「分け隔てなく接する」的な文脈で肯定的に語られていたり、バーフバリ自身が身分を隠して雑魚のフリをすることに躊躇いが無かったりと、身分制度を否定するような描写もいくつかある。俺は現代のインド文化がどれだけリベラルかとかインド映画の制作事情がどうなっているかとかは全く知らないのであまり迂闊なことは言えないが、そのあたり元々かなり海外向けに作られていたような気配も感じる。

上下関係が崩壊して話がリベラルに転換していくことによって、荒唐無稽な表現に対してもどんどん冷めていってしまった。荒唐無稽な表現とは、具体的には船が空を飛び始めたり、いきなり皆揃って踊り出したり、いきなり民衆が合唱したり、「そうはならんやろ」的なやつのことだ。
上下関係に担保されたバーフバリの崇高さが維持されていた1の頃はそうした描写にも「それだけ強大な存在だから」という納得感があったのだが、それが消えてしまった2ではただ単に幼稚で子供だましのものに見えてしまう(ヒーロー映画と同じ)。船が空を飛ぶような描写が聖書によくある盛り話のような神格めいた崇高さの表現なのか、ピクサーのアニメーションのような子供っぽいファンタジーなのかは本当に紙一重だ。

がっこうぐらし

saize-lw.hatenablog.com

上の記事ではアニメ版と漫画版をまとめて割と肯定的なことを書いたが、2020年9月に消費したのは漫画版だけなので正直なところあまり得るものがなかった。漫画版はアニメ版で示した枠組みを超えていない上に基本的にアニメ版の方が優れていたことは既に書いた通り。学校卒業以降は概ね蛇足で、アニメを見れば十分な感じだ。
せめて好きなキャラが一人でもいればキャラ萌えパワーで戦えた気がするが、残念ながらその路線でも戦えなかった。

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(字幕版)

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(字幕版)

  • 発売日: 2020/05/22
  • メディア: Prime Video
 

あのハーレイ・クインがあのジョーカーと別れたという期待の持てるキャッチーな導入に対して、続く内容は本当に面白くなかった。
男性に抑圧されてきた女性たちの結束というモチーフがあまりにも透けて見えすぎている。ドラマ版『ウォッチメン』と全く同じ流れで、前作『スーサイド・スクワッド』が面白かったのに続編がポリコレにやられたシリーズとしてガッカリしてしまった。

主人公がジョーカーという男性に抑圧されてきた女性、女刑事が男上司に手柄を奪われて抑圧されてきた女性、女暗殺者が男マフィアに家族を殺されて抑圧されてきた女性、ダンサーが男性ボスに暴力を盾にいいように扱われて抑圧されてきた女性。全く同じ背景を持つ女性が四人も出てきて、「男性に抑圧されてきた女性たちよ、今こそ立ち上がれ」と叫びながら実際にそれをするだけの話だ。

念のために言っておくが、俺は女性が戦ったり暴れたりする作品は(政治的な実効性を抜きにして個人的なフェチズムとして)かなり好きな方だと思う。『ファイナルガール』だの『セブン・シスターズ』だの『トラジディ・ガールズ』だのといった、名前からしてうっすら内容に想像が付く駄作たちを見かけるたび、とりあえず借りて目を通している。
『華麗なる覚醒』が面白くないのは、彼女たちが男性に対するカウンター以外にどういう人物でどういう利害関係を持っているのかが全然見えてこないことだ。特にハーレイ・クインなんて元々そこらをうろつくキャラをミキサーにかけて三回ほど濃縮還元したような「濃い」キャラのはずなのに、クライマックスに向かっていくにつれてどんどんプロットの操り人形になっていく様子には涙を禁じ得なかった。

更に悲しいのは、これがDCEUの続編であることだ。本来DCEUの世界観は欲望と愛に満ちている。悪名高い「母の名前がマーサ」が象徴するように、愛があれば結果を問わないという破滅的なヒーロー像がMCUへのカウンターでもあり得ることは以前にも書いた。

saize-lw.hatenablog.com

それは『華麗なる覚醒』の前日譚にあたる『スーサイド・スクワッド』でも一貫している。『スーサイド・スクワッド』ではヴィランたちが色々あって世界を救ったにも関わらず、ラストでは破滅の化身であるジョーカーが監獄を破ってハーレイ・クインを救出しに来るシークエンスがハッピーエンドとして描かれることで、世界の救済とジョーカーの破滅的な愛が同じ直線上にあることが示される。
それが『華麗なる覚醒』では異性愛というだけの理由で退けられてしまい、代わりに女性というだけで何となく緩く連帯するだけの熱力のないコミュニティが何となく勝利して終わってしまう(これがレズビアンコミュニティであるならばまだ納得もいくのだが)。

コロナ時代の哲学

コロナ時代の哲学

コロナ時代の哲学

 

時代の当事者としてコロナ禍を人文的に語るタイプの書籍を一冊くらいは読んでおくかと思っていたところ、あの大澤真幸が出しているものを見つけたので読んだ。面白くはあったが、値段と期待ほどではなかったという感じ。

メインの論文『ポストコロナの神的暴力』では主に中国をモデルケースに想定してコロナ対策と監視社会のトレードオフをどう捉えるかが論じられる。
常識的には対立項にある全体主義と民主主義が陰陽魚の如く交代する機構について論じるところは実に大澤真幸らしく読み応えがあったし、そこだけで読む価値はある(「徹底した末の反転」というモチーフは『虚構の時代の果て』でも主題となっていて親近感があるものだ)。

だが、監視社会への具体的な対抗策を挙げるところでは一気にガッカリしてしまった。

モニタリング民主主義のIT版ということについての具体的なイメージを与えるならば、それは、スノーデンやウィキリークスがやったことである。彼らは非合法なことをやったとして国から逃亡せざるをえなくなっているが、むしろ、彼らはモニタリング民主主義の英雄である。つまり、スノーデンやウィキリークスの活動を合法的な市民運動として許容すれば、これが、そのままIT時代のモニタリング民主主義の実践例になるのだ。

「それはそうだろうよ」と口をあんぐり開けてしまうのは俺だけではないと信じたい。それが出来ないから監視社会なのであって、これは単なるちゃぶ台返しだ。
もっとも、この論文は実践的な具体策ではなく哲学的な知見を交えて考察を加えることに力点があるため、ことさらに具体例を取り上げるのはアンフェアな失望かもしれない。ただ、コロナ禍の当事者としての期待を持ってこの本を読んでいる以上は具体策に関心が偏ってしまうのも仕方ないではないか?