LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

21/4/2 お題箱回:エヴァンゲリオン延長戦

お題箱79

前回の記事でシンエヴァエヴァンゲリオンにケリがついたので、無限に溜まっていたエヴァ関連の投稿を処理します。 

saize-lw.hatenablog.com

 

253.シン・エヴァンゲリオンの記事お願いします!

書きました!

 

254.エヴァ新劇って今からでも見る必要ありますか?

見る必要あります。
シンエヴァを見るまでは「僕は旧劇信者なのでどっちでもいいです」みたいな感じでしたが、今やもう見ないという選択肢はありません。

 

255.エヴァ劇場版観に行きますか?

見に行きました。
周りには「そんな気になるものでもないけど一応見に行くか」みたいなこと言ってましたが、よく思い返してみればエヴァ見に行く前日に十五年ぶりくらいに髪をバッサリ切って気合入れてました。

 

256.LWさん的に貞本版ってどんな扱い⁉︎

他の映像版よりも登場人物がまともだし世界も優しい、比較的まともなロボットものとしてのエヴァンゲリオンという印象があります。
特にアスカが鳥葬される前にシンジが間に合うのはさすがに椅子から転げ落ちてしまいました。「そこでシンジが間に合ったらもうエヴァンゲリオンじゃなくない?」というコメントが喉から出てきます。

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テレビシリーズと旧劇がグズグズに破綻して何も解決しなかった一方、新劇と貞本版は一応の決着を付けているという意味では大雑把な方向性は似ているようにも思います。そういう意味では新劇と貞本版を比較したようなテキストっていかにも誰かが書いていそうですが、まだ見た記憶がありません。
そういえば貞本版もなんかラストが新海誠っぽかったですよね。ぽかったっていうか、『君の名は』に同じシーンありましたよね。

 

257.これから初めてエヴァを観ようと思ってるんですけど一番正しいエヴァンゲリオンってどのシリーズですか?

正典は旧劇であるという見解は新劇が終わった今でも変わっていません。エヴァ的なものを終わらせたのが新劇であるとして、(それがどういう意味であるかという解釈は分かれるにせよ)そもそも「エヴァ的なもの」って何だったんですかということは旧劇に書いてあるからです。
また、旧劇は一応テレビ版最終二話のリメイクという位置付けなので、旧劇を見る前にテレビ版を見るのはマストです。

 

258.エヴァ記事わかりみが深かったです。
ところで重箱の隅を何とやらではありますが、冬月の「心半ば」は「志半ば」ではないですかね?

ありがとうございます。御指摘頂いた点修正しました。 

 

259.テレビ版と旧劇も見直してから臨んでほしい、心からのお願いです

シンエヴァ見る前に序破Qは見直しましたが、テレビ版と旧劇は見直しませんでした……魂に刻まれてるから見直すまでもない(建前) 時間がかかるし面倒臭い(本音)

 

260.エヴァ批評って何から読めば良いんですか?

261.最近エヴァのアニメ、旧劇、新劇を履修したのですが、エヴァに関連して読んでおいたほうがいいテキストとかってありますか?
(いわゆる設定の考察とかは今更だと思うので、それ以外の楽しみ方ってありますか?)

262.でもLWさんの考えるエヴァ批評のために読んどくべき本は気になる

何故かこの手のことを無限に聞かれていて、TwitterのDMでも聞かれました。
エヴァ放送当初からゼロ年代にかけてエヴァ批評としか言いようがないものが流行して、今でも一部のオタクジジイがそのボキャブラリーでエヴァを語っていることが多々あるのですが、当時の一過性の批評を井戸の底から掘り出して改めて体系立てるような時代感覚がフリーズした人間も特におらず、いまや当時使われたジャーゴンの残骸やスノッブな雰囲気だけが残存し、新劇完結を期にエヴァをかつての受容文脈も込みで今からきちんと履修したいと思っている殊勝なオタクが、どこから手を付ければいいのかわからず戸惑っている……というような状況があるんでしょうか?
大前提として僕は埃の積もったエヴァ批評とやらを今更抑える必要は特にないと思っているのですが、前回のシンエヴァ感想で葬送という形であれうっすら言及してしまった負い目があるので一応書いておきます。

この手のゼロ年代批評でエヴァが出てくる文脈ってだいたい決まってて、データベース論か、セカイ系論か、精神分析論の三つくらいじゃあないでしょうか。

東浩紀の超必殺技であるデータベース論は『動ポモ』を読んでおけば概ね事足ります。暇ならついでに大塚英志の『物語消費論』も読んでおいてください。
タイトルにも帯にも書いていないですが、この本は半分くらいはエヴァの本で、主にガンダムあたりと比較したエヴァの特徴が延々語られています。とはいえ、論の内容としては、物語としてのエヴァというよりは、メディアミックスのような商業形式や外伝の位置付けといった受容態度に関するものが主です。だからこれを読んだからといって旧劇や新劇のよくわからない点がわかるようになるというようなことは特にないように思います。
また、今読んでも内容が当たり前すぎてピンと来ないという人も何人も見ました。この本での指摘内容は今はもうエヴァ特有の事情では全くなく、むしろこれに該当しないものについて考えた方がまだ有益なような段階です。今だとSNS上でドライブしているVtuberとかソシャゲの二次創作中心のオタクカルチャーは明らかにこの本で指摘されたものの延長線上にあり、そういう現代の常識を今更省みるという意味では正しく古典なのかもしれません。

 

セカイ系としてのエヴァンゲリオン、つまり「少年少女の青い衝動が何故か世界を変革してしまう話」の代表格としてのエヴァンゲリオンについては前島賢セカイ系とは何か』が詳しいです。セカイ系とかいうワード、もう懐古系バズツイートを生成したいときか新海誠を叩きたいとき以外の使い道がないような気がしますが、それでも二つも用途があるのだから噛んで膨らませるフーセンガム程度には有用なのかもしれません。
セカイ系でプラスアルファの論としては、宇野常寛ゼロ年代の想像力』が非常にオススメです。セカイ系を持ち上げるオタクの盛り上がりに「ボケがよ」と冷や水を浴びせる内容であり、オタク内での自己正当化と性暴力の回路がどのように形成されているのかという冷徹な自省は一度は読んでおく価値があります。セカイ系批判は今だと献血やポスターでたびたび起こる騒動にも繋がってくると僕は思っていますが、萌えに対して過度に自省的なのもそれはそれでひと昔前のオタクしぐさという感じもします。

上記のデータベース論とセカイ系論の二つが「当時は語る価値が大いにあった」という一過性の歴史的産物という趣がある一方、たぶんエヴァの中身についてちゃんと語っていて読解として最も有益なのは精神分析論です。文学理論では割と正統な精神分析批評の流れの中にあり、古典的には『ハムレット』を解釈するような営みとそう違わないというのも権威主義者としては高評価です。
物凄く大雑把に言えば精神分析は幼児期の主に両親との関係による人格形成みたいな側面から精神的な問題について語るような営みです。この説明が半分くらいはエヴァの説明であることは錯覚ではなく、標準的な精神分析入門書籍を何か一冊適当に読めば誰でも「これってエヴァじゃん」みたいな感想を持つと思います。
また、精神医学関係者が割と頻繁にこの文脈でエヴァを語っており、ネットをちょっと検索するだけでも論文がポロポロ出てきます。直リンして良いpdfかわからないので名前を挙げるに留めますが、「漫画『新世紀エヴァンゲリオン』からみる思春期のこころ」「新世紀エヴァンゲリオンにみる思春期課題と精神障害」などがGoogleで簡単にヒットし、そこそこ面白く読めます。この手の分析は無理を承知であくまでも分析の練習としてアニメをサンプルにしたような手触りになりがちですが、エヴァの場合は地に足の着いたアニメの解釈として無理なく読めるのが嬉しいところです。
特に体裁が整って優れているものとして、以下に所収の高田明典『アニメーション構造分析方法論序説』という論文がオススメです。この書籍は特に誰にも省みられておらず無数にある謎本のような扱いしかされていないと思いますが、優れた批評的な姿勢と当時の熱気が伝わってきてお気に入りの一冊です(Amazonレビューでは「まぁ言ってしまえばエヴァについての考察本の類です」などと評されていますが……)。

 

263.有料noteとかサブスク購読とかやらないんですか?Amazon欲しいものリスト公開でもなんでもいいですが大抵の有料記事より質が高いのでなんかあってもいいのにと思いました

ありがとうございます。リンクにAmazon欲しいものリストを貼りました。

www.amazon.jp

僕は人に勧められたものを消費する腰が非常に重い方ですが(お題箱にも数十件のコンテンツ消費要望が溜まっている上に更に催促の投稿すら若干溜まりつつあるような状況です)、欲しいものリストから届いたものは可能な限り最速で消費するのでよろしくお願いします。

21/3/17 シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇の感想 もうどうでもゲリオン

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇

以下、全文ネタバレです。

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満を持して『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を見た。
ガチで泣きました。映画としてはそう大したものでもないのに「『シンエヴァ𝄇』を見た日のことは人生の区切りの一つとして忘れないであろう」みたいな心境になってしまうあたり、俺は自分が思っていたよりもエヴァが大好きだったらしい。

語るべきことの終わり

正直なところ、『シンエヴァ𝄇』が「二十年前の青春に決着を付ける」「庵野が出した答えとは何か……」みたいな文脈で消費される風潮はあまり快くは思っていなかった。それは映画そのものを語るというよりは単に映画をダシにした自分語りであり、新海誠を見て自分の恋愛遍歴を滔々と語り始めるのとそう大きな違いはないからだ。
とはいえ、『シンエヴァ𝄇』を見終わった今はそういう感想を書きたくなる気持ちもよくわかる。『シンエヴァ𝄇』はあらゆる意味で説明がひたすら丁寧であり、謎は消えていくばかりで新たに付け加わる謎もわだかまりのように残る謎もない。設定考察も前衛演出もにわか批評も、少なくとも旧劇の頃にあったようなエヴァ的な語りは全て劇中でわかりやすく説明し尽くされてしまった。
わざわざ鑑賞者が改めて語ることがない今、「語ることがないことについて語ること」が世代的な感傷くらいにしか行き着かないのも頷ける。

実際、難解なことで知られてきた設定群は『シンエヴァ𝄇』では普通に見て聞いていれば普通に理解できてしまう。カヲルはゼーレと組んでループしていた、式波アスカは惣流アスカと違って綾波と同じ量産型。考察する余地もない真相が提出されてそれで終わりだ。良く言えばわかりやすいが、悪く言えば広げた風呂敷を畳むための場当たり的な設定追加という印象もある。
特にQでシンクロ率0%だったシンジを再びエヴァに乗せるためにシンクロ率∞%の誤認だったことにするという、サムライ8レベルの安直な後付けには目を疑った。今までだったら恐らくリツコが「シンクロ率なんて所詮は<新出の専門用語1>に過ぎない……シンジくんはエヴァの中の<新出の専門用語2>と和解することができたのかもしれない」とか適当に意味深なことを言って謎を増やしながら解決していたものを。

意味深な設定とセットになって謎を深めていた前衛的な演出すら、旧劇から何一つ進歩していない。シンジとゲンドウが戦っている最中に世界が破壊されて書き割りのセットが現れる演出は押井守が何十年も前から何十回もやっているものだし、最後の最後に絵コンテになるシンジはもはやエヴァっぽい演出をなぞる二次創作だ。タイトルロゴが映し出されるメタ演出も、ドローン撮影の実写風景が空にフェードアウトしていくのも、どれもこれも二十年前の旧劇レベルの前衛さでしかない。旧劇が2chだったことをなぞって安易にTwitter画面を表示しなかったのが意外なくらいだ。
そんな古臭い演出を背景にして「新世紀(ネオンジェネシスエヴァンゲリオン」が遂にタイトル回収されたのには泣き笑いしてしまった。もう四半世紀が終わりそうになっているのにようやく新世紀に辿り着くタイミングの遅さは、まさにそれが表示される演出の時代錯誤感によくマッチしている。

謎を生まない懇切丁寧な説明が、かつて一世を風靡したにわか批評にまで行き届いているのは驚くべきことだ。「ああいう田園の風景がセカイ系が短絡して取り落としてきた中間項なのだ」とか、「シンジは女の子一人に世界を懸けることがなくなったからアヤナミレイ(仮称)が目の前で爆発してももう動じずに戦えるのだ」とか、「シンジに裸を見られても動じなくなったアスカは身体と自己像の問題をクリアしているのだ」とか、わざわざ書き起こすのも虚しい。
アスカは「ガキには恋人じゃなくて母親が必要」などと精神分析的な評価をはっきり述べてしまうし、カヲルもカヲルで「(シンジは)リアリティの中で立ち直っていた」と社会反映論ぽいことをあっさり言ってしまう。メタ発言ギリギリの冷徹な視点は辛うじてエンタメ要素であったはずの恋愛模様にまで及び、アスカはシンジのことを「昔は好きだった」と極めて冷静に俯瞰する。キャラクターたち自身がもう自己分析を完了してしまっているならば、鑑賞者が謎解きとして分析することはもう残っていない。

そういう、設定考察的にも前衛演出的にもにわか批評的にも収まりが良すぎてとにかく葛藤のない映画だから、もし俺が『シンエヴァ𝄇』の上映を受けて初めて新劇場版の序破Qをまとめて見てから映画館に向かうような人間だったら、「言うほどのコンテンツか?」「演出は良かった」くらいで終わって忘れていたのは間違いない。
しかし、エヴァに関してはそういうわけにもいかない。俺の中ではシンジやゲンドウはあれこれ批評する対象としての寓意一般ではなく、彼らには彼らなりの人生があることを認められるような、虚構的ではあるが完全な人物だったらしい。自分の子供が人並みに成長するのを見て「批評的に安直な成長だ」と批判する親がいないのと同じだ。シンジくんが批評的に安直な成長をしたとしても両手を叩いておめでとうと祝福する準備がある。

 

エヴァに関心を失う子供たち

とはいえ、『シンエヴァ𝄇』が「彼らは大人になった」というだけの話だからといって、旧劇と同じ「現実に帰れ」系の話だと一括してしまうのも解像度が低いと言わざるを得ない。
旧劇と『シンエヴァ𝄇』の最大の違いは、『シンエヴァ𝄇』で成長した子供たちは思春期的な葛藤に対してもう素朴に興味を失っていることだ。大人になるというのは人生にかかる問題に答えを出すことではなく、問題の枠組み自体への関心を失い、無根拠で放棄できてしまうことなのだ。
旧劇のシンジは「ミサトとの関係」「父との関係」「ヤマアラシのジレンマ」「エヴァに乗るか乗らないか」といった表現のバリエーションを無数に伴って出現する葛藤から最後まで抜け出せなかった。だから旧劇ではシンジとアスカが世界に二人きりになってもなおお互いに拒絶せざるを得ないのだが、『シンエヴァ𝄇』では意味もなく否定し合うモチベーションがもうない。ヤマアラシのジレンマが氷解したのは輝かしいソリューションが発見されたからではなく、単にもうどうでもよくなったからだ。

思えば、「問題を解決するのではなく問題への関心を失う」という路線を最初に強く示唆していたのはマリだ。マリは旧劇までに他の皆が思い悩んでいた物事に対して本当に関心が無い。
それを象徴するのが「エヴァに乗るかどうかなんて、そんな事で悩む奴もいるんだ」という屈託のなさすぎる感想で、その発言はもう破で出ていた。同様に、マリがシンジに言う「早く逃げちゃえばいいのに」はシンジが言う「逃げちゃダメだ」やミサトが言う「乗りなさい」とは全く別の次元にある。「乗るか乗らないか」について考え抜いた末に逃げるという結論を出すのではなく、そもそも「乗るか乗らないか」自体が割とどうでもいいのでもちろん逃げてもいいのだ。
マリは戦闘中も一貫して冷めていて余裕があり、シンジのように死への恐怖に取りつかれたり、惣流アスカのように訳のわからない回想を始めたりすることもない。それどころか、マリは自発的に人間であることを捨ててビーストモードを披露した初めてのパイロットでもある。『シンエヴァ𝄇』の戦闘に通底する「私TUEEEEEEEE」感というか、あまり苦労することもなく敵を次々に撃破しているように見える異世界転生っぽさも、マリの無関心さに端を発しているように思われる。

マリの「旧シリーズ的な葛藤に対して関心を持たないスタンス」が式波アスカにまで伝播していたことは言うまでもない。式波アスカもマリと同様、裏コードや使徒の力を使うことに躊躇いがない。
アスカがシンジのことを「メンタル弱すぎ!」って叱るのがもう身も蓋も無さすぎて笑ってしまった。人間関係の問題を「メンタルの強度」に帰すほど文学的主題を破壊する行為が他にあるだろうか? メンタルが弱い少年少女大人たちが延々と苦しむ話であるところのエヴァに「メンタルを強くする」という回答が許されるのであれば、それでもう全てが終わってしまう。ここにもやはり、問題を内側から丁寧に解決するのではなく、「そんなことはどうでもよくないか」と外側から丸ごと棄却するマリ的なスタンスがよく現れている。
式波アスカも最後には取って付けたような旧シリーズっぽい回想をして去っていくが、それは式波アスカが既に乗り越えた問題の再確認か、そうでなければ惣流アスカの弔いに過ぎない。どう考えても、第三村でシンジを導いた式波アスカはかつて親子関係と男女関係に苛まれていた惣流アスカではない。失語症に陥ったシンジにやたらヌルヌル動く作画で乱暴にレーションを食わせたとはいえ、それは決して旧シリーズのように男性に固執して引き起こされた病的な暴走ではないのだ。口では罵倒しながらも海辺で打ちひしがれるシンジを遠くでコッソリ見守ることができる式波アスカは、もうとっくに他人と適切な距離を取れるようになっている。

むろん、式波アスカと同じくらい大人なのは、つまりエヴァに乗る責任がどうとか親子関係がどうとかいう話に関心がないのは、第三村の面々も同じだ。シンジに対する人たちがシンジの回復のために「適切な距離を取って落ち着くのを待つ」という実に大人な対応を取るのが『シンエヴァ𝄇』のスタンスをよく表わしている。「問題と正面から取り組む」というのは子供の解決方法で、大人には「問題がどうでもよくなるまで待つ」という選択肢があるのだ。旧劇のようにいちいちあがかなくても、ただぼんやりしていればどうでもよくなることもある。シンジが第三村で学んだのは「関心を失うまで待つ」という解決方法だ。

更に言えば、Qから登場したヴンダー搭乗員たちもエヴァ云々には興味がない。民間たたき上げのクルーの連中は自分の生活がどうなるかというレベルでしか戦いに関心が無く、ミサトが散々悩んできたような他人を戦わせることや責任についての倫理的な葛藤ももちろんない。
特に、冬月による物理侵食タイプの機体がヴンダーに取りついたときにピンク髪のやつが発する「エヴァっぽいやつ」っていう表現が最高だった。今までなら「エヴァっぽいやつ」が出てきたらそれは謎が謎を呼んで設定考察を巻き起こすチャンスだ。ミサトかリツコあたりが「アレは私たちの知らないエヴァシリーズ? それとも新しい使徒? まさか……あれもまたヒトの形だというの?」とかなんか意味深っぽい台詞を吐いて、オタクがうおおお!!とか言って考察をするのが今までの「流れ」だったはずだ。だが、ピンク髪は「エヴァっぽいやつ」をそのまま「エヴァっぽいやつ」と見たままの表現で呼べてしまう。彼女はエヴァに興味がないから。

 

エヴァ固執する大人たち

小学校に入った女の子がお人形遊びから卒業するように、大人になった子供たちは「エヴァ的な問題」への関心をすっかり失ったようだ。だが、既にいい年齢だったにも関わらずそれに囚われていた大人たちには卒業する機会がもうない。
それは今この文章を読んでいるお前かもしれないが、『シンエヴァ𝄇』では冬月やゲンドウやミサトあたりの面々がそれである。彼らは死ぬまでその問題を考え続けるしかないし、死ぬことでしかこの問題を終わらせられない。

トウジやケンスケはちゃんと結婚して子供を作って皆で協力して働いている一方、一生ロボット作って戦ってる冬月とゲンドウを見ているとマジで泣けてくる。組織立って働いてくれる部下を全て失い、それでもずっとロボットを作ったりロボットに乗ったりして喜んでいる彼らはいい年して無職でガンプラにハマってるオッサンみたいなものだ。『シンエヴァ𝄇』で明らかになったのは、一番ヤバい子供なのはぶっち切りでゲンドウと冬月のツートップであり、それに比べればシンジの青さなんて若気の至りでしかなくて勝負にもならないということだ。
一見すると、この二人は冬月が志半ばで死亡したのに対し、ゲンドウが無事問題を解決したという大きな違いがあるように思われるかもしれない。だが、彼らは二人とも最後の最後まで旧エヴァ的な問題に囚われていた点では同じだ。シンジが親との対話をあっさり終えてエヴァ無きネオンジェネシスの創世に着手できるのに対し、ゲンドウは「子供とどう向き合うか」という問題が解決した時点で物語からフェードアウトする。ゲンドウの人生を語るボキャブラリーはそれしかなく、他に語るべきことを持たないからだ。

ミサトは一応子供を生んで人の親になったというアドバンテージがあるとはいえ、それでも冬月やゲンドウと同じ側にカテゴライズされる。というのも、ミサトは子供たちとは違って「問題を遠ざけて忘れる」という選択肢を持たないからだ。ネルフの中で大人になってしまったミサトの人生は、「責任を履行すべきか否か」という旧シリーズ的な問題系の中でしか進まない。それが終わるときは死ぬときだから、責任を果たすと同時に死なざるを得ない。問題に関心を失うことが出来ず、正面から格闘し続けた者の末路である。 

 

もうどうでもゲリオン

誰だって思春期には「自分が生まれた意味とは」「死とは何か」みたいな実証的には何の意味もないが実存的には極めて重要なことを一度は考える。そしていずれそれを考えなくなるのは、その問題が解決したからではない。脱構築批評がよくやるように問題設定に矛盾が見出されるからでもない。そういう問題自体がもうどうでもよくなって、問題の枠組みごと放棄されるというだけだ。
最終的にシンジがエヴァの無い世界を目指したのも同じことだ。「エヴァに乗るべきか乗らないべきか」という問題に解決や崩壊の契機があったわけではない。シンジは第三村で特にこれといった劇的なエピソードもなく時間の経過で回復できた経験から、「単に関心を無くす」という選択肢を学んだのだ。

困難な問題を掘り下げるには子供でいなければならず、大人は「関心がない」というだけであらゆる問いを無効にできてしまう。大人になってわかることなんてほとんどないのに、大人になったらどうでもよくなることはいくらでもある。

21/3/7 2021年1月消費コンテンツ

2021年1月消費コンテンツ

2020年秋アニメの感想は別記事で書いてしまったし、正月周りの休みでゴロゴロして消費ペースが落ちてしまったので今回は内容に乏しい。やはり働いていた方がコンテンツ消費のペースを保ちやすい。

未だに読んでいる途中なので消費コンテンツには入れていないが、2021年1月はアニメを見る他には向井雅明『ラカン入門』をよく読んでいた。

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:向井 雅明
  • 発売日: 2016/03/09
  • メディア: 文庫
 

難解で知られるラカン理論を適切な密度とトピックで解説してくれており、レベリング系コンテンツのお手本のような手ごたえがある(それ自体がそこまで面白いわけではないが、他の活動に対して基礎的な力を提供してくれるもののことをレベリング系コンテンツと呼んでいる)。ラカンがやたら大量に繰り出してくる、繋がりがあるような無いような個別のトピックを結び付けることに意識的なのがありがたい。
ただ、電子書籍で買ったのは失敗だった。これはもともとkindleを買った頃にセールで売っていたものだ。表紙のオシャレさと文庫という肩書的に薄めの新書くらいのバーチャルイメージを幻視して購入したのだが、完全に見誤った。内容の密度が高すぎるし、ラカン特有の意味不明な図式も総動員して説明を試みるためにページを行ったり来たりする必要がある。
今は何とか前期ラカンまで読んだが、続きは時間のあるときに図書館で紙媒体を借りて読もうと思う。

メディア別リスト

映画(5本)

ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝
ポセイドン・アドベンチャー
スタンドバイミー
がっこうぐらし(実写)
快楽の漸進的横滑り

アニメ(111話)

おちこぼれフルーツタルト(全12話)
戦翼のシグルドリーヴァ(全13話)
くまクマ熊ベアー(全12話)
ご注文はうさぎですか?第三期(全12話)
安達としまむら(全12話)
魔女の旅々(全12話)
ヴァイオレットエヴァーガーデン(全14話)
レヱル・ロマネスク(全12話、5分アニメなので実質2話換算)
アサルトリリィ(全12話)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

魔女の旅々
アサルトリリィ
おちこぼれフルーツタルト
戦翼のシグルドリーヴァ
安達としまむら

消費して損はなかったコンテンツ

くまクマ熊ベアー
ヴァイオレット・エヴァーガーデン

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

ご注文はうさぎですか?第三期
レヱル・ロマネスク
がっこうぐらし(実写)

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

ポセイドン・アドベンチャー
快楽の漸進的横滑り
スタンドバイミー
ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝

ピックアップ

2020秋アニメ

saize-lw.hatenablog.com

女性主人公の美少女アニメが画期的に多い良い期だった。体感的には一年半に一度くらいこういうボーナス・アニメ・シーズンがある。魔女の旅々とアサルトリリィは二期以降にも期待しているが、他のアニメはまあもういいかなという感じではある。

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

saize-lw.hatenablog.com

俺の「最悪でした」という感想に対してTwitterで「わかる」「ほんまそれ」みたいな賛同の声なき声(空リプ)がFF外からもぼちぼち上がっており、まあ俺だけじゃないよなという感じでした。

 

がっこうぐらし(実写)

saize-lw.hatenablog.com

アニメ版と漫画版の感想を書いた流れで一応見ておいたが、概ね同じ話で特に発展のないタイプのメディア変えだったと言わざるを得ない。ゾンビたちを彼女ら自身と同一視する視点がアニメ版にしかないとわかったのは収穫ではあるが、がっこうぐらしというコンテンツ自体これ以上伸びしろも無いだろうから、どこかで活かされるかどうかは怪しいものだ。

 

レヱル・ロマネスク

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道の駅の隅っこにあるブラウン管テレビで流れている地元紹介VTRみたいなアニメだった。美少女を集めた割には特にお色気イベントもないあまりにも穏健で退屈な内容は、まいてつコラボがR18の壁を乗り越えられず町おこしを挫折した過去を踏まえての安全策なのかもしれない。
とはいえ、レヱル・ロマネスクというリニューアルしたIPで改めて九州の町おこしをリベンジするというわけでもないらしい。代わりに音声作品を大量販売してDLsite起こしをやっているようだが、レヱル・ロマネスクの明日はどっちだ。

 

快楽の漸進的横滑り

快楽の漸進的横滑り(字幕版)

快楽の漸進的横滑り(字幕版)

  • 発売日: 2019/11/01
  • メディア: Prime Video
 

精神分析ぽいタイトルだなと思ったらやはりその手のうまぶり映画ではあった。つまりシュールとか前衛的とか言われてカルトな人気を集めがちな映画、具体的には『アンダルシアの犬』『イレイザーヘッド』『天使のたまご』みたいなもの、実はやっていることにはあまり大差のない映画の中の一つだ。
プロットよりもイメージを優先した映像表現について、「シミュラークル」とか「シニフィアンの連鎖」とかそれっぽい概念をあてがってわかったつもりになることは容易いが、それは感想としては空虚で何も言っていないのに等しい。提示される映像の形式について述べたものでしかなく、どの作品に対しても同じことが言えてしまうからだ。
とはいえ、明らかに直接的な文脈を欠いたイメージの提示に対して実質的な意味を充填するのもそれはそれで個人的に記号を解釈する営みでしかないから、映画そのものというよりは個々の関心を語ることに帰着されてしまう。それはそれでかなり面白いことではあり、実際、俺も『イレイザーヘッド』のシーンのいくつかには「とてもよくわかる」という感想を持つし、そういうシーンは叙述的なストーリーが優れた映画のシーンよりも印象に残ることが少なくない。

そんなわけで、この手の映画に対して俺が持つ「イメージの表層的な快楽ってこれとして提示されるものではなくて、漸進的に横滑りして示唆されるだけだよね」みたいな感じをタイトルがはっきり指摘していたのにはグッと来た。ちなみに内容は別に全然面白くなかったし記憶にも残らないと思う。

 

21/2/28 お題箱回:宗教学、鬱、留年etc

 お題箱78

238.2年前の記事ですが、『ゴジラシリーズと新海誠作品の宗教理論分析』を拝読させていただきました。大変面白く、宗教学に興味を抱いたのですが、初心者にお勧めの文献を紹介していただけないでしょうか。

ありがとうございます。これですね。

saize-lw.hatenablog.com

上の記事にも書いた通り、これは宗教学の講義で書いたレポートです。

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僕が宗教学で一番興味深いと思ったのは「宗教の定義とは」「宗教の本質とは」みたいなタイプの議論です。宗教学では学の名を冠する対象が未だにはっきり画定されておらず、論者によって主張はまちまちです。例えば宗教の本質を社会的連帯機能に見る人もいれば、全く逆に内的な神秘体験に求める人もいます。その定義論争にかこつけて様々なバックグラウンドを持つ論者が様々な側面から宗教を論じているイメージで、諸々のロジックを把握して「確かに宗教ってこういうことあるよね」「この論者の思想で言えばあの現象も宗教的かもしれない」みたいに分析ツールとして使っていくのが門外漢としては最も有益な利用法のように思います。

ただ、僕は主に書籍ではなく大学の講義(教授の板書や口頭)で学んだので、初心者にオススメの文献はあまり思い付きません。もちろん『プロ倫』とか『金枝篇』みたいないわゆる基本文献と呼ばれる書籍はありますが、それは研究対象であって入口に手頃な本では全くありません。

宗教学の名著30 (ちくま新書)

宗教学の名著30 (ちくま新書)

 
岩波講座 宗教〈第1巻〉宗教とはなにか

岩波講座 宗教〈第1巻〉宗教とはなにか

  • 作者:鶴岡 賀雄
  • 発売日: 2003/12/12
  • メディア: 単行本
 

もっと良いものがあるかもしれませんが、手堅い本は島薗進『宗教学の名著30』とか岩波講座の『宗教とはなにか』あたりでしょうか。いずれも著名な宗教学者たちが書いており、宗教という概念そのものや定義にかかる問題を大枠で扱っているので問題意識がわかりやすいです。とはいえ、これらは哲学や思想の流れについてある程度は知識がある学部生向けで前提知識の説明が弱いのと、基本が各論で体系化志向が薄いため記憶に残りづらいという問題もあります。まえがきや各章の出だしで雰囲気だけ掴んで、サッと流し読みしたあとは本屋か図書館でもっと軽めの本を探した方がいいような気もします。

また、以下は完全な私見ですが、僕みたいな門外漢が宗教学に触れようとしたときにパッと見は面白そうだけど実際にはあまり面白くない罠的な論が二タイプあるような気がしています。

一つは、各宗教ごとの歴史や設定を辿る資料集みたいなやつです。ナツメ社がよく出してる「図解雑学 キリスト教」みたいな本に載っている内容、例えば旧約聖書新約聖書の違いとか、仏の名前と種類の一覧とか、その手の個別的な知識の収集に終始するような勉強はあまり面白くない気がします(宗教関連の小ネタに詳しいオタクにはなれるかもしれません)。もちろん必要に応じて参照した方が良い内容ではあるものの、それはやむを得ず行うレベリングみたいなもので、そればかりやっても仕方がないという印象です。

もう一つは、オタク文化現象をダイレクトに研究しているものです。ちょっと前に流行った「聖地巡礼ブーム」とか「神様擬人化ブーム」を宗教学的に捉えるみたいなやつは一定数ありますが、「宗教現象に若干似ている」ということを書いているだけであまり踏み込んだ解説をしないという印象です(宗教現象の周縁サンプルとして関心があるだけでオタク論ではないので)。むろんこれは僕の不見識である可能性も十分にあるので、この手の学術的な文献で面白いものを知っている方がいれば教えてほしいです。

 

239.本棚公開して❤️

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本棚自体は部屋に5つあるんですが、どれも列が多い上に分散して置かれていて全部撮影するのは諦めました。
僕は基本的に書籍は買わずに図書館で借りるので、読んだ本も読みたい本も本棚にはなかなか置かれず、そこまで本棚が関心を反映するわけではありません(積読も一切やりません)。本棚に並ぶのは図書館に無くてやむを得ず購入した本とか、人から貰った本とか、例外的に長期に渡って参照する本とか、珍しく新刊で読みたかった本とかです。

 

240.エヴァ新劇って今からでも見る必要ありますか?

僕はエヴァはテレビ放送版と旧劇だけ見ればよいと思うタイプですが、新劇もどうせ一日で見終わる量しかないので見た方がいいと思います。

 

241.その割には殆ど武装錬金に言及してなくないですか…

「その割には」の「その」ってこのツイートですかね?

武装錬金に限らず、僕の中では傑作だけど特に言及したことのない作品は結構あると思いますが、僕は好き嫌いはあまり積極的に発信する方ではないというような気がします。

 

242.薬以外の鬱対策って何かやってますか?

環境を変えることです。
僕は向精神薬がほとんど効かず、結局それしか効果が無かった気がします。主治医と「この薬は効かないすね」「じゃあこっち試してみようか」みたいな感じでかなり頻繁に薬や量を変えて全部で10種類くらいは飲んだ気がするのですが、「これは来た!」みたいな薬は特になかったです。夜とかにマジでヤバくなったときの緊急用に頓服で飲むやつは流石にちょっと効きましたが、中長期的にはピンとくる薬は無かったです(とはいえ薬を飲んでいなければもっとヤバくなっていたというか、悪化させなかったことに薬の効果があったという説はあります)。

症状が回復するのは長期休みとか休学で全ての元凶であるところの大学から離れることだけで、それをすると割とすぐ回復してました(ちなみに一般的には院生には長期休みは無いようですが、僕は「8月と9月は研究しません」と教授に宣言して一人だけ勝手に長期休暇を取っていました)。恐らく僕の問題は鬱病というよりは適応障害であり、適応できない環境が直面した場合に症状が抑うつ状態として発現するというのが真相であるような気はしています。

 

243.人生然り、オタク然り、終着点の見えない作業って不安になりませんか?(もしくはLWさん的には終着点のある作業ですか?)

ならないですね。昔はそういう感じもあったんですけど、最近は今の状態が1000年くらい続いても別にいい心境です。むしろ終わらない方がいいみたいな……

就職したあたりからいよいよ本格的に吹っ切れて、一定の終着点を目指して線形発展していくような人生のイメージから解放された気がします。確かに知識とか筋肉を蓄積することは好きですが、それはその運動が自己目的化しているだけで別に目標のある積み立てではないので、終着点の完璧な状態と比較して達成度を計るようなものでもないです。

 

244.ブログ書いて❤️

245.もっとお題箱消化して❤️

246.もっとブログ書いて❤️

247.もっとお題箱回答して💌

248.そろそろLWさんの記事を摂取したい

他の活動に支障をきたさないようにブログ更新は週一が上限という縛りを設けていますが、下限は特にないのでそれ以上遅れることは有り得ます。ちなみに読者の意向によって投稿ペースが変わることはあまりありません。

 

249.留年で心が壊れそうなんですけど、おすすめの対処法ないですか

逆に留年に心が壊れる要素ありますか?

「留年できなくて心が壊れそうなんですけど」みたいな投稿なら「お気の毒に」とかかける言葉もありますが、そもそも留年することは問題ではないので対処しなくていいです。僕は浪人や留年や休学や退学について「しなければ良かった」と思ったことは一度も無いですし、逆にストレートに歩んでいれば僕の人生はもっと貧相なものになっていたという恐怖があります。何度人生をやり直しても留年したいです。

サブスクの普及で娯楽の費用対効果が急降下するこの御時世に暇を持て余すということもないでしょう。本も映画もタダみたいな値段でいくらでも見られますしもちろん勉強してもいいです。何をしていてもストレートより一年多く経験を積めるわけですから、留年はアドバンテージでしかないです。

ただ、学費や生活費等の金銭的な問題については親に金を出してもらうとか色々クリアできないと厳しいという説はあります。国立大学は最初から年間学費がめちゃ安かったり休学の申請をすれば支払いが免除されたり色々噛み合いますが、そのあたりの事情は人によって千差万別なので何とかしてください。

 

250.LWさんが書くような考察系(分類をうまく言語化できません、すいません)のブログやnoteを読んでいると、高く評価されている記事も含め、大抵が長々と理論を喋り倒したあと、最後に結論を持ってきているように見えます。
これは、ビジネスにおいて優れていると言われるドキュメントとは真逆をいく方式だと思うのですが、界隈ではスタンダードな手法なのでしょうか?
あるいは、前半の感想が私の見当違いでしたら申し訳ありません。

結論と過程のどちらに関心があるかの違いだけだと思います。ビジネスで優れたドキュメントは「結局何を提案・主張するのか」に力点があるので「我々はAプランで進むべきだ!」みたいな結論をドカーンと持ってくるのですが、アニメの感想とかで「サムライ8は思想が古い!」みたいに結論をドカーンと言っても「ほうほう、その心は?」みたいな感じになると思います。結論を先に書いてもいいですが、主な関心があるのはそこではないというだけのように思います。

ちなみに仰っている「界隈」というのがどこを指すのか僕には全然わからず、手法のスタンダードさについても同様です。リンクの貧弱さからも明らかなように僕には所属する界隈もなく単騎でブログを書いているような自己認識です。

 

251.最近は新しいカードゲームが誕生しては速攻で消えていますが、ゲートルーラーは数年単位で生き残れると思いますか?
それからゲートルーラーの感想も聞かせて欲しいです。

252.ゲートルーラーレポ希望。商法や関係者云々ではなく主にゲームデザインの面で。

書きました!

saize-lw.hatenablog.com

ちなみにゲートルーラーに限ったことでもないのですが、お題箱は回答ペースに対して投稿ペースが早すぎて基本数ヶ月前の投稿にようやく答えているような状態なので、回答までに時差があります(お題箱に投稿が来た時点では僕はゲートルーラーの記事を書いていなかったということです)。

 

21/2/21 2020年12月消費コンテンツ

2020年12月消費コンテンツ

まだ2020年から抜け出せないのか!?

メディア別リスト

映画(6本)

帝都物語
ブレージングサドル
ダーケスト・マインド
チャーリーとチョコレート工場
マッドマックス4 怒りのデスロード
アーチャー 地獄のデスロード

書籍(2冊)

フィクションとは何か
フィクションの哲学

ゲーム(1本)

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団

アニメ(12話)

Vivid Strike!(全12話)

漫画(28巻)

鬼滅の刃(全23巻)
アンサングシンデレラ(全5巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

鬼滅の刃
フィクションとは何か
フィクションの哲学
ダーケスト・マインド

消費して損はなかったコンテンツ

ブレージングサドル
チャーリーとチョコレート工場

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

Vivid Strike!
アンサングシンデレラ
マッドマックス4 怒りのデスロード
アーチャー 地獄のデスロード

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

帝都物語
ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団

ピックアップ

鬼滅の刃

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以前15巻くらいまで出ていた頃にも軽く内容を把握するために流し読みしたのだが、今回全巻一気読みしたときの方が明らかに面白かった。その勝因としては、「もう社会現象だし流石にちゃんと読んどくか」と思ってコマの隅々まできちんと目を通したりあとで忘れそうな伏線はメモを取ったりしていたことがある。漫画に限ったことでもないが、コンテンツは気合を入れて消費した方が面白い傾向にあるのは間違いない。

見ればわかる中心的なテーマとして「相続」があり、血統主義ではないにせよ世代間の受け渡しに過剰な意義を見出す姿勢は細田守を思い出すほどだ。第一次近似として乱暴に言ってしまえば反リベラルというかわりと保守的な世界観だと思うが、その古めかしさは大正という時代設定とよく噛み合っている。
相続の重要性を表現するため、柱が鬼と戦うのは基本的に一度限りとしているのはなかなか気合が入っていた。個が強い鬼と対比して群として強い鬼滅隊を描くためには、柱の一人一人が無双できるほど強くては都合が悪い。だから柱たちは戦うたびに普通に死んだり後遺症を負ったりして脱落する必要がある。シビアなゴア表現が鬼滅隊の存在意義に説得力を持たせる仕掛けとして活かされているわけだ。
また、相続の力を描くに際して印象に残っているシーンとして、中盤で自信のない鍛冶屋の子供に対して炭治郎が「君には無理でも諦めなければ君の子供や孫が成し遂げるかもしれない」みたいな声をかけていたところがある。それは冷静に考えればかなり残酷な発言で、ほとんど「お前には無理だ」と言っているのに等しい。将来的に相続によって実現する達成のために個人の達成を埋却するという覚悟が見て取れる。

ただし、本当に個人の人生を潰して家族的な繋がりへの貢献に全てを帰そうとすると、それはそれで魅力のない家父長制に陥ってしまう(サムライ8にはそういうところがあったというのは以前にも鬼滅と比較して書いた→)。もっと局所的な「思いやり」や「優しさ」が並走することは、個人の抑圧を回避するロジックとして機能している。「繋がりを支えられる一人前の男になる」というマチズモ的文脈を徹底して追放し、「緩やかな共感によって繋がりを維持する」という気持ちベースの連帯を描いているのがそれである。個々人の大きな文脈への接続が、直線に長く伸びるレールを鳥瞰するのではなく、せいぜい局所的な接合が連続するチェーンになっているという比喩でイメージが伝わるだろうか。
特に炭治郎が初期には義勇や鱗滝や錆兎といった男らしい男である面々から優しさを糾弾されたり「冷徹であれ」「男であれ」と怒られたりしまくったにも関わらず、一向にスタンスを変えずに鬼を気遣い続けた。「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という台詞に象徴される厳しさは、炭治郎が棄却していくための踏み台として配置されたように思われる。

容易にマチズモを呼び込む規範的な大義を排除するため、敵についても常に情状酌量の余地があるように描かれているが、かといってそれをアメコミのように「善悪は立場の問題でしかない」「敵には敵の正義がある」と解釈するのもあまりしっくりこない。というのも、鬼滅の鬼はあまり大局観のない悪行をこなす割と素朴な悪だからだ。彼らが正義のオルタナティブであるような強い信条を持つようにはあまり思われない。鬼には「世界はこうでなければならない」という「彼らなりの正義」はあまりなく、せいぜい「世界にこうあってほしい」という「彼らなりの事情」があるくらいでしかない。
「鬼には思想はなく境遇しかない」ということを象徴するのが、最終盤での炭治郎の鬼化ではある。炭治郎は信条的には鬼になる理由は全く無いのだが、清貧な生活を送っていたというだけの理由で鬼になるポテンシャルがあるのだ(炭治郎は11巻で「俺が鬼になったら殺してくれ」みたいなことを言って自分が鬼になり得ることを予見している)。禰豆子の唐突な鬼化解除にも全く同じことが言えよう。

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フォロワーが言ってたこれはマジでそうで、禰豆子を取り巻く環境には若干の関心がある一方、禰豆子という一人の人間にはほとんど意識が向けられなかったような印象がある。敵サイドは掘り下げるべき悪い境遇が豊富にあるが、主人公サイドにはせいぜい「貧乏だったこと」と「鬼に襲われたこと」くらいしかないので、あまり語りたいことがないかもしれない。「自分とは?人生とは?」みたいな実存について一生ウダウダやってるセカイ系みたいなオワコンとは感性が異なることを感じざるを得ない。

特に「信条の無さ」としての敵を追求したのが無惨で、少年漫画のラスボスとしては稀に見る魅力の無いキャラ造形にはびっくりした。鬼滅を読む前に「無惨は子供達には全く人気がない」というようなツイートを見たときは「今の子供はDIOとかクロコダイルみたいなヴィランをもう好まない世代なのかしらん」などと思っていたが、そういう話ではないことがわかった。ただ単に、無惨には悪のカリスマが全く無いのだ。部下には徹底してパワハラを働いてるだけで、部下は怯えっぱなしだし会話も通じない。
無惨の空虚さを象徴するのが「しつこい」から始まる演説で、アレは本当によくできている。普通少年漫画では最終局面でラスボスと改めて対話するシーンでは主人公とラスボスがそれぞれの信条をぶつけ合って立場をはっきりさせつつ戦う理由を再確認すると相場が決まっているのだが、無惨には炭治郎にぶつけたい信条が一切ない。代わりにあるのは生存にかかる不快感だけだ。価値観が一致しないことへの断念ではなく、生存上の利害が一致しないことへの不快感を延々と述べるだけという異様な対話によって、もはや交渉の余地なしとしてラストバトルへと突入するシーンが見事。あの演説までは無惨も「実は何かあるボス」ではないかと疑っていたのだが、あのお気持ち表明ではっきり「マジで何もないボス」だと示したのは凄い。

「悪性を思想の危うさではなく境遇の危うさに帰す」というスタンスが相続というテーマから呼び込まれたことは言うまでもない。悪性ですらも個々の人間ではなく相続に由来するというわけだ。この背景には、規範的に機能していた昭和の家父長制からリベラルな時代を経由して、お気持ち的に機能する令和のSNS的連帯思想が出現しているという見解に俺はかなり同意する。

 

フィクションとは何か

芸術界隈の基本文献だが割と最近邦訳された……みたいな本らしい。ページ数が多いが、初出の単語や概念には定義を欠かさない明晰な書き方をするので読むのはそこまでしんどくはない(ただし中盤以降は若干読みにくいということを後で書く)。

「フィクションとは何か」という大上段のタイトルには偽りが無く、小説から見立て遊びまで含めた広範な営みをフィクションとして一括で議論の対象にできる汎用性の高い理論が強力だ。分析系の学者らしく、既存のフィクション論とは汎用性の高さで差別化していることは本文中でもはっきり明言されている。主に電子技術の発達によってスマホHMDを用いた新しい性質のフィクションが次々に出現する昨今、論の射程は広いに越したことはない。

大雑把に言えば、ウォルトンは鑑賞者のごっこ遊びという営みにフィクションのフィクションたるゆえんを見出している。作り手ではなく受け手にその根拠を帰すスタンスは、正典を緻密に読むというよりはSNSで盛り上がるような現代的な大衆娯楽の在り方とも相性が良く、もっとはっきり言えばマス層のオタクにはかなり使い道の多い理論のように思われる。特定のワードを流通させることでフィクションを駆動させるバズマーケティング的な手法や、Vtuberがリスナーとの合意形成の中で相互にコンテンツの内容を規定するインタラクティビティまで「受け手のごっこ遊び」という範疇に収まるのであれば、ごっこ遊び論の高い汎用性はいよいよその真価を発揮するだろう。

ただ、大枠の議論が非常に強力である一方、実際に小説や絵画への適用という各論めいた話になると途端に勢いが削がれる点はかなり気になった。語り口がモニョモニョしてきて「こういうこともあるしこういうこともあるよね、こういう理由かもしれないしそうじゃないかもしれない、結論は出ないけど筆を置きます」というような章が続いて少しゲンナリしてくる。
それは反論に対する再反論として想定されている細部の議論についても同じような印象がある。絵画に全く描かれていないことを言い立てるような不毛なフィクションをの消費態度を排除するために「非公認」とみなしたり、オペラで死に際に息も絶え絶えのキャラクターが雄弁に歌うという矛盾に疑問を呈するクソリプを「愚かな問い」として棄却することがそれだ。それら個々の判断が実際に恣意的であるか否かを議論する必要があるとは思わないが、個々の判定が可能性として恣意的であり得るか否かは気になるポイントだ。

そうした欠点は恐らく汎用性と裏表のものであり、受け手側に不当に高い自由度が与えられることを抑制するための理論武装の準備が形式的に必要なことは理解できる。とはいえ、その取って付けた感はもしかしたらウォルトンはそうした論点の具体的な判断を調停することは自分の仕事ではないと考えているのかもしれないとすら思うほどだ。

また、冒頭から一貫してフィクションの価値を予行練習や思考実験といった現実への適応能力を高める機能に見出している点にも疑問が残る。その見解は不自然なほど葛藤なく提出されているものの、もっと素朴にフィクションそれ自体が快楽であるとか、全く荒唐無稽なことであっても想像してしまうというような反論はいくらでも可能であるように思われる。ごっこ遊び論との整合性を保つために後付けで言っているような感触は否めず、どういう経緯でそのポジションを取ったのかの説明が欲しいところだ。

 

フィクションの哲学 

フィクションの哲学 〔改訂版〕

フィクションの哲学 〔改訂版〕

 

以前読んだが再読。

帯に「フィクションとは何か?」と書かれているように、全体的な著者の主張としてはウォルトンの議論に依拠しつつ問題点を修正するような話になっている。乱暴に言えば「何が描かれているのか」と「如何に描かれているのか」を区別する視点、フレーゲの言う意味と意義の区別をごっこ遊び論に上乗せしようというような話で、改訂としては非常に穏当で妥当であるように思われる。それは純粋に解像度を上げるもので特に反論が生まれるようなタイプの改訂でもないので、あまり思うところがない。

本論に入る前に議論を整理する各章には啓蒙的な色彩があり、議論の水準を切り分ける上でも便利だ。様々な既存の論点を提示して有名説を紹介し、反論と再反論を付していくというオーソドックスな構成でかなり読みやすい。ただ、それは決して悪いことではないが、作者に固有の関心が割と強く押し出されていることもあって、入門書としてベストかどうかはわからない。

 

ダーケスト・マインド

ダーケスト・マインド (字幕版)

ダーケスト・マインド (字幕版)

  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: Prime Video
 

X-MENのスタッフが作ったあくまでもX-MENとは別の映画らしいが、あまりにもX-MENと同じ設定なので外伝作品と言ってしまっていいような気がする(アメコミお得意のマルチバースか?)。

内容としても、X-MENシリーズが語り落としてきた部分をきっちり補完している。学校設定がある割には年齢層が高めで大人やジジイが戦いがちなX-MENとは異なり、ダーケストマインドでは明確にティーンエイジャーにフィーチャーしているのがそれだ。
ヒーロー映画では「守る側:大人と強者」と「守られる側:子供と弱者」は明確に区分されがちだが、実際にはその間には中間地点があるものだ。ダーケストマインドでは「チャイルド・リーグ」という組織がその両義性を表現しており、子供たちを守って収容所から脱出させたかと思えば、子供たちを訓練して兵士として戦わせたりしようとする。そうなると子供たちからチャイルド・リーグへの評価も割れてきて、自分たちを守ってくれる「味方」なのか、それとも自分たちの能力を利用しようとしている「敵」なのかは一向に判然としない。

だが、その二つはそもそも明確に分けられるものではないのだ。「実は悪の組織でした」「実は善い組織でした」という結論はついぞ出ることはなく、最終的には主人公は自分の判断で仲間を守るために仲間の記憶を消して組織の尖兵になることを受け入れる。その両義性はX-MENではプロフェッサーが繰り返し提示してきた論点でもある。精神操作能力は人々を正しく導くのに非常に便利である一方、他人を抑圧して反発を生むこともある。そうしたパワーバランスについての葛藤に年代的な問題を上乗せし、大人でも子供でもないティーンエイジャーを主人公として描かれたのがダーケストマインドだと言えよう。

オリジンストーリーとしては非常に面白かったが、これは主人公がポジションを決めるまでの過程に価値がある映画だから、続きがあったとしても単にX-MENの焼き直しになってしまうだろう。一作限りにしておいた方が無難そうだ。

 

Vivid Strike!

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別に面白くはなかった。流石に最終的にはリンネとフーカが決勝でバトルやろなあと思ったら、ヴィヴィオが前作主人公補正でリンネを倒して大会編が突然終わったのにはかなり笑ってしまった。

Vividからの流れで少女たちは世界の危機を云々しなくなり、代わりにリングに囲いまれた小さな世界で愛憎が描かれることは共通している。スラム上がりのフーカがリングにスポーツルールに組み込まれる中で規範を身に付けていく流れも前作のアインハルトと同じだ。A's系ならリンネとフーカのいざこざは世界を巻き込む大騒動へと発展するのだろうが、今作では街角で殴り合うだけで終わってしまう。個々人の問題を無駄に大袈裟に拡張させないという、アンチ・セカイ系みたいな趣きすら感じないこともない。

それに伴って二人の問題もかなり小さなレベルで収拾されることになる。回想が豊富な割にはフーカは一貫してリンネの過去を取り上げようとしないし、とにかく今現在に「嫌な目をしている」ことだけを問題視する。Vivid Strikeは更生物語であって復讐物語ではないのだ。
それは別にいいのだが、過去エピソードのインパクトが強すぎて「いや流石にいじめっ子が普通に全部悪くない?」みたいになるのは俺だけじゃないと思う。そこは素朴にプロットのバランス感覚がおかしい。リンネの抱える問題の設定が噛み合わないせいでフーカのスタンスもよくわからないことになっている気がするが……

 

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団 - PS4

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団 - PS4

  • 発売日: 2017/09/28
  • メディア: Video Game
 

クリアはしておらず、結局ラスボス戦で断念してしまった。厳密に言えば消費コンテンツではない。アクションゲームではなくRPGなのでラスボスを倒そうと思えば倒せるのだが、恐らく倒すまでには十時間くらいの追加時間投資が必要であることが見込まれ、それだけの気力がもう残っていない。

面白いか面白くないかで言えば面白くなかったのだが、それは俺にゲームを楽しむ能力が欠如していたからで、日本一ソフトウェアの責任ではない。俺が消費コンテンツの質と量を稼ぐコスパ思想に毒されすぎて、ゲームに真剣に向き合っていなかったのが全て悪い。日本一ソフトウェアRPGなので色々と要素があるのだが、俺は無限にレべリングしてステータスで殴って突破するという攻略法しかとらなかった。レベリング中が退屈なのでガスキーのハースストーンを観戦を並行しながら遊ぶためのスマホ台を購入したくらいだ。

(↑これの後ろでプレイしているのがルフラン)

レベル上げで詰まることがあればもう少し真面目にやったかもしれないのだが、恐らくある程度はゴリ押しでも突破できるようにレベルデザインされているのがまた厄介なところだ。俺はレベリングを一生やめなかったし、俺の話を聞いたひふみが漏らした「キャタピーLv100×6で殿堂入りを目指すポケモン」っていうのがマジでそう。

そしてキャタピーの群れで辿り着いたラスボスは流石に強く、ゴリ押しレベル上げでは倒せないのだが今更相性やスキルをきちんとやるモチベーションもないのでここで挫折となった(ただ厳密に言えば転生システムがあるのでもっとレベリングすれば多分倒せないことはない)。「全然終わらないし面白くないなー」と思っていたのが全部自分の攻略が全て誤っていたことが原因であり、それほどまでに自分のゲームを遊ぶ能力が衰えていたことにかなりショックを受けてしまった。俺はこれでもゲームを初めてプレイするジジイではなく一応遥か昔のワンダースワンの時代からそれなりにゲームをプレイしてきたはずである。年単位でゲームを遊ばないでいるとそのレベルのプレイをしてしまうんだなあと噛み締めた。

今回の失敗を受け、少なくとも一人用ゲームは真面目に向き合って遊んだ方がいいという教訓を得た。映画とか漫画は「見さえすればいい」「読みさえすればいい」というコスパ至上主義で取り組んでも割となんとかなるのだが、ゲームは「クリアしさえすればいい」みたいなスタンスでやると明確に体験の質が落ちる。色々試行錯誤する時間を確保するような余裕と意識を作ってから取り組まなければならない。「この一ヶ月は絶対に他のコンテンツには触れずにこのゲームだけやる」みたいな覚悟を決めてから遊んだ方がいいのかもしれない。

ゲームの話一切せずに自分語りしかしてないけど、消費コンテンツじゃなくて消費失敗コンテンツだから別にいいか……正直なところ、俺の失敗を抜きにしても思い付きで作られたような物語的な統一感のないダンジョンとひたすら殺伐としているだけで何が問題なのかよくわからないストーリーは言うほど面白くなかったという話もある。

 

アーチャー 地獄のデス・ロード

アーチャー 地獄のデス・ロード(字幕版)

アーチャー 地獄のデス・ロード(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/01
  • メディア: Prime Video
 

戦闘美少女が好きな人は少なくないと思うが、洋画において戦闘美少女は一つのクソ映画ジャンルを構成しており、何となく女の子が戦うというあらすじだが主演の女優はまともにアクションができず内容も普通に面白くないというカスみたいな作品が一定数ある(アクションができる女優はギャラが高いのだ!)。マッドマックスに便乗した邦題が目を引くこの映画もその典型である。

★弓×女子高生 「トゥームレイダー」「ハンガーゲーム」に続く究極のヒロイン・アクション誕生!
トゥームレイダーアリシア・ビカンダー、「ハンガーゲーム」ジェニファー・ローレンス、「タイガー・ハウス」カヤ・スコデラリオに続き、
【弓】を武器に、誰よりも強く、賢く、美しく戦うニューヒロイン誕生! !

この内容紹介文はパッケージにも書いてあるのだが、よく読むと勝手に類似した内容の名作を並べて勝手に続いているだけで、 「トゥームレイダー」「ハンガーゲーム」「タイガー・ハウス」とは何の関係も無い。お前はポプテピピックの帯か?

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残忍な刑務官に、弓を武器に立ち向かう女子高生を描くヒロインアクション。女子高生のローレンは無実の罪で懲罰施設“パラダイス・リッジ”に送還される。そこは、刑務官による汚職やレイプ、殺人などが横行する地獄のような場所だった…。

あらすじも嘘だらけ。ローレンは無実の罪ではなく他人を病院送りにしているし、刑務所では汚職もレイプも殺人も起きていない。入浴中に風呂場の壁にある隙間からちょっと覗かれただけです。

21/1/30 お題箱回:ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン、就活話リターンズetc

お題箱77

227.ヴァイオレット・エヴァーガーデンを見た感想が気になります。

劇場版は未配信なのでまだですが、テレビ放送版13話+エクストラエピソード1話+外伝映画を見ました。最悪でした。
一応最初に言っておくとアニメとしては非常に良く出来ていると思います。アニメとしての質が低いみたいなことを言っていると誤解されると困るのですが、作画もプロットも一流のプロが作ったんだろうなあというのは見ればわかります。
ただ、僕も人間なのでネガティブな感情によって冷静さを保てなくなるような作品も世の中には一定数あって、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』もその数少ない一つです。こういう人間性ファシズムが今まで僕の人生を凌辱してきたし、これからも屈辱を受け続けるのだろうと思うと暗澹たる気持ちになります。
つまり今から書くことは作品内の整合性や完成度に関わることでは全くなく、作品外部に及ぶ世界観の醸成や個人的な実存が懸かっていることであって、さしあたって僕はいわゆるアスペルガーの当事者というポジションでそれを語ることが最も効率的なような気はします。

『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』を主人公がアスペを克服する話と言っても正面から異を唱える人はそんなにいないと思いますが、実際、初期のヴァイオレットちゃんのアスペぶりはかなり良く描かれています。
特に第二話で恋文の返信をしくじるエピソードはかなり良く出来ています。僕も(恋文では無いですが)ある程度は心象を織り込まないといけない司法的な依頼文書の代筆において全く同じ経験があります。ロジカルな部分は順番とか因果関係を整理して書けるんですが、それを受けてどう思ったかという心象については全くわからないので一言一句コピーして書かざるをえません。聞き取れなかった部分はとりあえず穴あきにしておいて、あとでそこは何て言っていたのか聞いて埋めようとしたら「わかるだろ」と言われ、そこから冷静さを取り戻すためには一度深呼吸する必要がありました。
他の誰もが当たり前にわかるのに僕だけがどうしても全くわからない事柄というのが世の中にはいくつかあり、それを平然と「普通にわかるだろ」と言われることが僕の数少ない地雷の一つで、それが起こると今そうであるように柄にもなく取り乱すことがあります。普通って何?

僕と違ってヴァイオレットちゃんが他人の心を理解できるようになるのが第三話で、学校で友人の手紙を代筆することで正常な人間性を獲得します。
そのシーンは僕から見たら完全に意味不明で、何か見落としているのかと思って何度か巻き戻して見てしまったのですが、ヴァイオレットちゃんは特に理由なく人の心を理解できるようになったようでした。アスペの克服を誰もが自明に乗り越えられるイニシエーションとして描かれることはまさしく僕が取り乱す事態で、人の心がそんな風に簡単にわかるなら僕も僕の家族も皆揃って仲良く精神科に通うようなことにはなりません。

更に終盤でとどめが刺されます。ヴァイオレットちゃんが幼少期にキルマシーンをやっていた頃にも少佐が「お前にも心があるはずだ」みたいなことを言ってヴァイオレットちゃんが「そうかも」みたいな感じになるシーンがありました。
実はこれはヴァイオレットちゃんが心を学ぶ物語ですらなくて、本当は最初から持っていた心を思い出す物語だったわけです。他人の心が理解できない人間は最初からいなかった! それが如何に病的でネガティブなものであるにせよ、ステータスとしてのアイデンティティを塗り潰されるだけでは飽き足らず、その存在そのものを遡及的に抹消される屈辱って皆さんには経験がないものなんでしょうか? この比喩は若干言い過ぎであるにせよ、それは「実は黒人なんて最初から世界にいなくて、皆白人だからそれを思い出せばいいだけ、それで一件落着」と言われているようなもので、多数派側の言説の強さに物を言わせた蹂躙です。

この作品が「寄せ書きで癌が治った」「癌なんて最初から無くて気の持ちようで克服できる」レベルの完全なる疑似科学的ファンタジーとして作られているならともかく、心を巡る繊細で実直な話であるという文脈で制作され受容されていることに対しては素朴な恐怖感があります。
人の心を解する人間性を誰もが獲得すべきものとして、そして誰もが本当は最初から持っているものとして、それ故に思い出すだけで獲得できるものとして描くことを人間性ファシズムと呼んで何の問題がありましょうか? そういえば僕は人間性ファシズムによって長らく社会から疎外されてきた異常者だったなという感触を久しぶりに思い出せたことには感謝します。

また、ヴァイオレットちゃんが心を学ぶにつれて戦闘美少女としての過去をどんどん否定していくこと、すなわち「人間性の獲得」という主題を描くに際して戦闘美少女のモチーフを踏み台に配置していることに関しても、戦闘美少女のフェティシストとしてかなりショッキングでした。
僕がこの作品で心から良いなと思ってよく覚えているシーンって四つあって、一つは幼少期のヴァイオレットちゃんがキルマシーンをやっているシーン、二つは現代のヴァイオレットちゃんが落ち葉を踏んで池を渡るシーン、三つは現代のヴァイオレットちゃんが空中降下して兵士を無力化するシーン、四つは現代のヴァイオレットちゃんが電車の上で兵士相手に無双するシーンです。要するにヴァイオレットちゃんの身体能力の高さが披露されるアクションシーンしか心に残らなくて、あとの心温まるエピソードはなんか色々あったなくらいの解像度です。

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ナチュラルにフィジカルエリートでキルマシーンのヴァイオレットちゃんって本当に素晴らしく描かれていて、気品と暴力を兼ね揃えた戦闘美少女が好きな人はそこだけでも見た方がいいです。僕はアニメ制作のことはよくわかりませんが、京アニの凄い技術力で理想的な戦闘美少女を描いているからこそ、それを否定すべきものとして踏み台にしようとしているのが不可解でなりません。
法的倫理的規範から逃れている戦闘美少女に外れ値としての象徴を勝手に委託して喜んでいたら後半でなんか知らんけどそれを反省し始めることで結局踏み台でしかなかったことがわかりオイオイみたいな感じ、『シャーマンキング』のアイアン・メイデン・ジャンヌとかでもありましたね。

ちなみに『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』みたいなものを見て心が傷付いたときに回復するための作品のリストもいくつかあって、『悪徳の栄え』や『ファニーゲーム』によって僕は心の安定を取り戻します。もし僕と同じような営みをしている人がいれば同じような特効薬を教えてください。

 

228.LWさんには是非法哲学をやって欲しい

229.法哲学とか興味ないですか

いいですね。あまりにも脆い虚構である規範性が現実とどう折り合いを付けているのかにはかなり興味があるので、いずれやってもいいリストに積んでおきます。
なんかイメージだけで語るんですけど、法哲学ってめっちゃコスパが良さそうなイメージがあります。実定法をきちんと扱うタイプの具体的な法学をやろうとすると無限にあるバリエーションと戦わないといけないので非常に労力がかかりそうですが、背景にあるフィロソフィーを攫うのはもう少し楽そうに思えます。全然違ったらすいません。

 

230.早く大学院進学して東大に戻ってきて❤️

231.LWさんはTwitterとかの市井とかじゃなくて、大学でオタク論を展開すべき人材だと思うからcome back!

いずれ大学院に戻るのはかなりアリ寄りのアリですが、社会もインプットとして得るものが結構あるので少なくとも三十代くらいまでは働こうと思っています。

ただ、最近多少なりとも進路を真剣に考えるにあたって、大学に戻るとは言ってもどこに戻ればいいのかがよくわからなくなってきています。
ありがたいことに僕に何らかの才能があると言ってくれる人は稀にいるのですが、それが活かされる具体的な研究室とか研究分野とか職種がさっぱりわかりません。僕の人生の立ち回りの下手さって、そういう上手くどこかに居場所を見つけられないような性質によって示されるようなものだったような気もしてきました(いま、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の後遺症で過剰に卑屈になっているような気がします)。

ここ良いですよみたいな具体的なやつがあったらリプライとかDMでコッソリ教えてくれるとありがたいです。

 

232.LW就活記録もっと見たい

それらしいエピソードはもう書き尽くしてしまって、あとは基本的に書類か一次選考で即落ちただけ、特に大手はどこも見向きしてくれなかったのでもうあまり書くことがありません。
ちなみによく言われる「東大なら書類選考くらいはとりあえず何処でも通る」というのは真っ赤な嘘で、「将来やりたいこと」の欄に「早く退職して大学院に戻りたい」とか書いていると余裕で落とされます。人格が規格外に終わっている場合、「東大大学院情報系卒」という恐らく日本で最強の一角と思われる学歴を完全に打ち消すことが可能です(ああ、また卑屈になっている!)。

ただ、そういう学歴だと黙っているとエンジニアになってしまうので、そのルートは頑張って避けました。理系の連中って皆自明にエンジニアになるし理系も文系もこぞってエンジニアを目指す時代ですが、僕は具体的な技術には普通に興味が無いし、休日に技術の勉強をしたくありませんでした。素朴に考えて「作る人間」より「作らせる人間」の方がいいなと思ったのもあります。その両方を兼任できれば楽しそうですけど、それって概ね起業するようなエンジニアのことであって、別に雇われエンジニアのことではないです。

今も依然としてエンジニアにならなくて良かったと思っているので、これは珍しく僕が僕の適性を正しく判断したエピソードであるような気がします。同じような悩みを持つ理系の方がいればエンジニアにはならないことをお勧めします。
せっかく情報系の知見があるのにエンジニアにはならないのは勿体ないみたいに思うかもですが、それは何だかんだ割とどこでも役立ちますし、むしろエンジニアじゃない方が相対的に便利な感じすらあります。エンジニアがtensorflow使ってコード書けても誰も褒めてくれないですけど、エンジニアじゃないのにPythonでexeファイルの一つでも作れたらそれは一つの特殊技能ですからね。

ちなみに東大卒の異常者の中には高みを目指して後天的な能力を磨き上げるのではなく、逆に低みを目指して先天的なスペックだけで無双しようとする就活の方向性が一定数あって、彼らはそれを「異世界転生」と呼んでいます。

 

233.どういう系の仕事してるんですか?

上に書いた理由でエンジニアを避けてプランナーみたいなやつをしていて、業界はエンタメ・コンテンツ系です。
それを言うと90%くらいの確率で「Cygames?」と聞かれるんですが、Cygamesも一次選考で落とされました。面接で作りたいゲームを聞かれて「どちらかと言うとソシャゲよりは据え置きゲームの方が作りたい気もしますね」とか言ってお前何しに来た?みたいになったのが敗因だと思われます。

今は志望動機を空欄で出す僕を採用するようなベンチャーでまあまあ楽しくやっているんですが、ベターではあってもベストでも無さそうなので、いずれ転職するような気はします。ちなみに万が一このブログを見て「是非僕を雇いたい」みたいな人がいれば話くらいは聞くのでDMかなんかでコンタクト頂けると幸いです。

 

234.「二期の終盤において、ロズワールはスバルが死に戻りせざるを得ない状況を用意していた黒幕であったことが明らかになる。」

「二期の終盤」ではなく「二期前半の終盤(3クール目の終盤?)」ではないでしょうか。観ていないのでよくわかりませんが……。

saize-lw.hatenablog.com

上の記事について仰る通りですね。ありがとうございます、訂正しました。
責任転嫁ではないですが、なんでリゼロって普通に第二期第三期って言わずに第二期前半後半という分け方をするんですかね。何か制作の都合とか商業的な事情があるんでしょうか。

 

235.読んだ本の内容ってどれぐらい・どの期間ぐらい覚えてますか?

本の内容をブログ記事にばしばし引用されてるので気になってます

本によってピンキリですが、有用そうな本の論点はなるべく覚えているように心がけています。基本的に内容や主張を綿密に覚えている必要はないですが、論点や話題は最低限覚えておいた方がいいという意識があります。例えば

「国内で製造される牛肉の総量は年々減少傾向にあり、その要因は三つ考えられ、①海外からの牛肉の輸入量増加 ②消費者の嗜好の変化 ③~……」

みたいな話があったとして、要因を三つもずっと覚えておくのは普通に無理です。だから「牛肉が減ってる」「牛肉の話」くらいの解像度に落としてそこだけ覚えておいて、後々牛肉の話が出たときに思い出して本自体なりメモなりを見返して内容を復活させるくらいの運用です。記憶には残していなくても以前に一度理解したものは読んでいるうちにすぐ思い出してきますし、そうやっているうちに定着することもあります。

 

236.LW流時間節約術公開してほしい

前に書いたことがだいたい全てだと思います。1日に使える時間は決まっているので、あとはそれを適切に割り振るだけです。

saize-lw.hatenablog.com

僕は毎日8時間くらいテレワークできちんと働いているわけですが、1日は24時間なので仕事をしても16時間余ります。ここから8時間を睡眠に、3時間を食事や風呂や掃除に充てても平日でも1日5時間は趣味の時間が確保できます(休日は予備日兼休息日みたいな感じで計算に入れていません)。
よって、趣味をこなす義務がある時間が週に5×5=25時間あって、そこから映画なり書籍なりアニメなりブログなりラノベなりに割り当てます。例えば全部映画に振ると朝と夜に1本ずつ見て月~金で10本は見られます。

最近気付いたことには社会人の場合は残業をしないということが最大の時間節約のような気がしていますが、それは皆さんの職場環境によるようです。

 

237.ジュエルペット!?

てぃんくるとサンシャインだけ見ており、サンシャインは非常に好きでした。当時中高生だったので土曜に登校して体育館で謎の集会に参加しつつガラケーワンセグで見ていたことをよく覚えています(「ワンセグ」って今通じるんですかね?)。

二年前くらいからサンリオ公式でジュエルペット全シリーズ全話無料配信しているので、暇な人はサンシャインを見ると良いと思います。特にサンシャイン屈指の謎回と名高い第36話がオススメです。

youtu.be

これ何かの伏線とか誰かの能力ではなくいきなり唐突に入ってきて最後まで特に解決しなかったんですよね。単発で見られて10分くらいで済みます。

21/1/24 2020秋アニメ感想まとめ

2020秋アニメ

2020秋はやたら見るアニメが多いシーズンだった。
俺は四半期の始まりには放映アニメのHPを一通り確認し、「女の子がまあまあ可愛いキャラデザで主人公が女の子のアニメ」を全て録画している。つまり、2020秋は女の子がまあまあ可愛いキャラデザで主人公が女の子のアニメがやたら多かった。

魔女の旅々

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面白かった。
こういう良い性格をしている主人公は普通に性癖でイレイナちゃんが今期最萌えヒロインだった。利己的なナルシストであることが、表面的なキャラクターだけではなく作品全体を通して貫徹されているのが良い。

補足370:一部でイレイナちゃんに付随している「わからせ」系のカルチャーはよくわからない。俺も虐待系の二次創作は結構好きだが、強者の鼻を折るタイプのものよりは弱者を更に虐げるタイプのものを好む(ゆ虐wikiにあるSSは昔全部読んだ)。

異世界転生でこそないものの主人公の魔法(=暴力)絡みのスペックは高めに設定されており、「私また何かやっちゃいました?」系のやつかと思いきや、意外にも強さは常識的な範囲に収まっている。魔女ではないチンピラやルーキーや一般兵士には圧勝するが、同様に熟達した魔女であるネームドキャラクター相手に勝るわけではない。むしろイレイナ自身のスペックがほどほどに収まっていることによって、彼女自身は遭遇する事件の解決に極めて消極的なスタンスを取ることが特徴的だ。
コメディで済む範疇であれば解決するに吝かではないが、自身がリスクを背負うようなシリアスな大事件となると途端に逃げの一手を決め込んでしまう(この態度はちょうど同期である『くまクマ熊ベアー』の主人公ユナが何でもかんでも解決してしまうことと好対照を成す)。三話や四話では街や国の崩壊を見届けておきながら特に誰も助けずにただただ立ち去ったほか、十一話では母親絡みの真相からあえて距離を取る態度を見せた。

特に圧巻だったのが最終話で、概ね最終話のためにあるアニメだったようにも思われる。
もともと、生まれついての悪のような幼女キャラクターがいきなり登場し、イレイナは力及ばず無力に打ちのめされるという前振りのようなシリアス話が展開したのが最終話少し前の九話だった。素朴に考えると最終話ではその事件を解決して綺麗に一件落着みたいな流れかと思いきや、実際の最終話ではイレイナの精神世界で自己分析を繰り広げるだけで30分を使い切ってしまった。
自分の性格には色々な側面があること、自分の行動にも様々な可能性があったこと、それらを直視することが自分の人生をより豊かにすること。全てのイベントを己に還元して自己愛を深め、自分と百合百合したことでイレイナの中では事件は解決してしまう。結果と過程が完全に逆転しており、「自分的には色々経験できて良かった」という結論を先に得たことで一件落着し、実際に起きている事件をどうにかするという過程は丸々放棄される。お前はテレビ版最終話のシンジくんか?

一話での「イレイナが旅に出る前の修行中に自分の弱さを知って号泣する」というオリジンエピソードが割と謎だと思っていたのだが、最終話まで見ると自分を認めて自分本位に物事を考えられるようになるという文脈だったのだろう。ナルシストの美少女主人公が持つ自己本位さが発生から発動まで貫徹しており、かつ、それが他人の利害には貢献しないことをはっきり描いていた点で好感度が高い。

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最終話で最後に出てきたこれから相棒になるらしい美少女もめちゃ可愛いので二期を楽しみにしている。いま最も二期が待ち望まれるアニメ。

 

くまクマ熊ベアー

f:id:saize_lw:20210117214230j:plain☝この左足壊死ニキコメがマジで天才

まあまあ面白かった。
異世界転生無双作品のあらすじを無限にインプットしたマシーンからテンプレート生成したようなアニメで、毎話藁人形みたいな薄っぺらい悪と幼稚園児向けみたいな問題を主人公の暴力性能によって一秒で解決していく。経済的な衝突も政治的な葛藤もなく、暴力に裏打ちされた適当なアイデアで何となく悪が淘汰されて身内がハッピーになっていく様子は缶詰生産工場のベルトコンベアを見ているようだった。男性主人公なら見ていられなかったが、女性主人公なら最終話まで見てしまうのでやはり無双するのは美少女の方がよい。

暴力だけで何となく全てを解決する主人公が唯一その範疇を超えた大義を口にしかけたのが第五話だ。浅い道徳によるウンチみたいな説教をしたあとにそれが割と勘違いだったことが発覚し、最終的に「私はもう少し大人だと思っていたんだけどね……」と猛烈に自省していたのはかなり良かった。
これを受けたのかどうかは知らないが、第十話あたりでは巨悪が暗躍する事件に対しても大義を振りかざすこともなくなり、完全な部外者として事情も良く知らないまま「私また何かやっちゃいました?」状態で何となく解決してしまうという成長が見られた。また、それと前後して「米が食いたい」とか「飯がうまい」とかカスみてえなモチベーションで力を使うことが増えていく。
自覚的な大義の行使ではなく無自覚な共生の成功として「私また何かやっちゃいました?」があるのであれば、それは一つの倫理的な態度であると言えなくもない。すごい力を持つ主人公が高貴な精神によって駆動するのではなく卑近な欲や身近な人のためだけに力を行使するという姿勢の優れること、裏を返せば暴力に裏打ちされた正義の幻想は剥き出しの暴力よりもタチが悪いということを『くまクマ熊ベアー』に教えてもらったような気がする。

ところで最後まで割と謎だったのが、このアニメは「ネトゲの世界を舞台にしている」という設定があったような気がすることだ。ユナはSAO式に仮想世界から出られなくなっているのか、それとも食事や排泄は描かれないだけで普通に適宜行っているのか、一話で適当に解説されてから二度と触れられないのでそれすらよくわからない。
同じように女性主人公がネトゲ世界で無双するアニメだった『防振り』では周囲がNPCではなく人間だったことに加えて、「運営に脅威として認識される」という形で明確に現実の水準でその異常性を披露される機会が与えられていた。ゲーム内で強いプレイヤーがゲーム内で強いのは当たり前なのだが、そこから現実に繋がる尾が運営や掲示板という接点を通じてリアルの美少女主人公であるメイプルにフィードバックされていたわけだ。
その一方で、『くまクマ』のユナはそういうフォローがない。つまりコンピュータプログラム相手に無双したり感謝されたり成長を語ったりするあまりにもヤバすぎる自慰行為を12週に渡り見ていたことになるが、それをやべえやつと思うのがもう時代遅れなのかもしれない。『ドラゴンクエスト ユアストーリー』が完全に内面化されてしまうとそれを云々言う必要すらなくなる。

ついでにどうでもいいことをもう一つ言えば、結局「熊」というモチーフは何だったのかもよくわからない。
「デザイン的な意匠として熊が用いられている」ということ以外に本当に全く何一つ熊要素がなく、何なら『しかシカ鹿ディア―』でも全く同じ話が成り立つだろう。オリジナルアニメならまだしも原作が文字媒体の小説でビジュアル要素だけの差別化点があったというのはよくわからないが、原作を読む気もしないのでわかる日も来ないだろう。

 

戦翼のシグルドリーヴァ

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まあまあ面白かった。
見るからに萌えアニメなキャラデザの割には萌えキャラに対する感性が若干古く、やたらビジュアルが強いアズズ以外はまあという感じ。園香が初期には腹黒キャラの片鱗を見せていたのだが、あまり回収されることもなく泣いているヒロイン枠に収まってしまったのは悲しい。

華々しく展開する戦争の裏で「死者をどう弔うか」というテーマが隠れて進行しているのはやはりリゼロの長月だなと思わざるをえない。戦争でキーになっているのは実は戦いそのものではなく戦死者なのだ。黒幕である神オーディンの目的はラグナロクに向けて戦死者の軍勢を完成させることだし、オーディンに対抗する人間陣営の中でも死にゆく兵士を救済し葬送する者としての主人公たち美少女の役割は何度も強調される。第三話の終盤で死にゆく男を救う宮古のポジションは少し前に流行った「看取らせ音声」そのものだ。人類の存亡を巡る生死という水準の戦いは物語が進むにつれて後退していき、オーディンが裏切ったあともなお人間たちに力を与えるあたりで完全に形骸化する。

つまるところ、死者の弔いを巡る神と美少女の闘争が『戦翼のシグルドリーヴァ』だったと言ってよい。表面的な「生存闘争」においては美少女を擁する人間陣営が神の率いる怪物に打ち勝つ裏で、裏面での戦死者を巡る「死亡闘争」においても最終的には美少女たちが神を打倒する。すなわち、ラグナロクという更なる戦いに向けて神オーディンが死体を引き取ることと、コミュニティの中で神格化された美少女が死体を看取ることのうちで、後者の方が勝利したというわけだ。

こうした救済を巡る神vs美少女という構図は、まさしくオタク文化の中で実存を巡る水準で美少女が神的なポジションを占めてきたことのカリカチュアとしてよく出来ている。実際、美少女が男どもに安らかな死を与える神の如き存在と化すことと相対的に、美少女を担ぎ上げる男性陣はほとんど脱人格化されたアイドルオタクのモブとして描かれる。
このアニメで登場する男たちは皆が筋肉質なマッチョ兵士であることを見て、ムキムキな兵士は貧弱なアイドルオタクとは対極の存在ではないかなどと早合点してはならない。マッチョが現実には怒張した男根の如き肉体によって性欲を喚起するのとは異なり、アニメではむしろ性欲を排除された男性としてのステレオタイプがある。過度なマッチョの戯画化された肉体は裸体を晒しても性的な文脈を構成しない男性としての需要がある(女子高生たちの前で平然と脱衣していた街雄さん、マチズモなきマッチョ!!)。よって、性欲のような俗世の文脈を廃して美少女を生死を司る神のポジションに祭り上げるモブ男性としてマッチョという類型はむしろよく合致する。
そんな数百人の男性たちが数人の美少女をアイドル視している様子はそれなりにグロテスクである。男性社会の中で数少ない女性を女性であるというだけでありがたがって褒めちぎる有様は限りなく昭和的というか、想像的な輪姦と言っても過言ではない。いまどきポリコレ的にかなり問題のある扱いであり、少なくともこんな職場が衆目に晒されればただちに炎上することだろう。とはいえ、オタク文化における美少女の神的ポジションを可能な限り誠実に描こうとすればこんな構図にならざるを得ないというのもまた事実だ。個人的には露悪的と言わざるを得ないこの構図が自覚的に選択されたのかそうでないのかは長月達平に聞いてみたいものだ。

補足371:「クラウディアたちを可愛い可愛いとまつり上げるのはコミュニティ的な事情であって、実際のところ別にクラウディアたちはそれほど可愛いわけでもない」ということを示唆していればかなり面白かっただろうが、俺が視聴をやめていた危険もある。

 

アサルトリリィ

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面白かった。神琳ちゃんが激萌えです。

「アサルトリリィ」とかいう内容物を愚直に記載したタイトルを最初に聞いたときは「ペヤング 酢コショウ味」みてえな名前だなと思ったが、実際に見れば確かにアサルトでリリィというのは有りそうでなかったような気もしてくる。
百合ヶ丘女学園という学校名、姉妹の契り、ワンピース風のモノクロ制服、上級生への「~~様」呼び等々、テンプレートな特徴を無数に備えた全寮制女学校という舞台は『マリみて』『ストパニ』のような古典的ジャンル類型の自覚的なパロディと言ってしまって良いだろう。今まではそこで感情の機微を無限に云々していたお嬢様たちが巨大な武装を振るってバチバチに戦えるという基本設定はかなり魅力的だ。単なるバトル百合はいまどきいくらでもあるが、『神無月の巫女』のように裏で展開するでもなく、お嬢様たちが表立って戦闘を行えるという造形の優位性が先立っている感じはドールプロジェクトからという出自の成果なのかもしれない。

補足372:メインキャラデザが八重樫南なあたり、学園×戦闘×百合というテーマが共通する閃乱カグラオルタナティブのような印象もある。『閃乱カグラ』は比較的下品寄りというか「うお~胸デカ!!」的なテンションだが、アサルトリリィは綺麗な方の閃乱カグラみたいな感触がある。

やたらキャラデザの優れた美少女が無限に出てきて、ほどほどなやり取りが無限に展開しつつ、うるさくない程度に戦闘も入ってきて戦闘美少女ものとしては大満足の内容だった。しかし後半で展開する事件に関しては何がしたかったのかよくわからない。
中盤でユリを巡って展開した「ヒトとは? ヒュージとは?」みたいな論点は結局大した結論の出ないうちにユリが特攻して爆発四散してしまうし、百合アニメだし素朴にルッキズムを肯定する水準で収拾されたのかしらんと思いきや、今度は故人のお姉さまが出てきてヒュージ寄りの思想を述べてカリスマが発動し、それもそれで全然発展せずに主人公が有耶無耶にして設定的にも心情的にもよくわからないまま終わってしまう。
そのあたりの話題の取っ散らかり方はメディアミックスの悪いところが出ているという感じがある。アニメ設定を超えた膨大な設定資料集が背景に控えていることは、明らかに完全把握を想定していない美少女の人数や、やたらSFっぽい設定を詰め込まれているヒュージからも伺える。設定に振り回されて収集が付かなくなっていたというのは恐らく的を外した評価で、アニメでの消化不良点は先日配信が開始されたゲームとかでいずれ補填されていくような気もするのだが、未だにインストールしていない俺がそれを目にすることがあるかどうかはまだわからない。

 

安達としまむら

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まあ面白かった。

俺にしては珍しいことに『安達としまむら』は一巻から買って追いかけているコンテンツであり、古参!!の目から見てもかなり忠実に映像化されている。序盤のクライマックスである安達クエスチョンが終わったあたりから延々と安達がウダウダする話が続いて中弛みするのも原作通りだ。

ただ、メディアが小説からアニメに変わって明らかに問題が生じているのは、「ヤシロや樽見が普通にめっちゃ可愛い」ということに尽きる。
安達としまむら』は(適当にベチャベチャの百合百合を描くタイプのやつではなく)割と正統な青春恋愛小説を志向しているので、安達の恋路ないし友愛を遮る明確な障害を設けた上でそれを乗り越えるような構造で話がドライブしている。障害というのは例えば、安達個人としてはしまむらとの距離を詰めるにあたって相手からのレスポンスを恐れる内的な抵抗だったり、しまむらとの仲を引き裂くべく現れる新キャラという外的な妨害だったりする。
特に後者の外的な妨害キャラとして配置されているのが初期のヤシロや中盤の樽見であり、小説では概ね語り手である安達の意向を露骨に折るような形で明らかに鬱陶しいオブジェクトとして現れる。だからニコニコではヤシロや樽見安達としまむらの間に割って入るたびに「ガッガイアッッ」みたいなコメがテンプレ化しているのは非常に正しく、彼女らはいわば敵として安達の恋物語ないし友情物語をドライブするのに重要な役割を果たしているわけだ。
ところが、アニメではヤシロも樽見もビジュアルが可愛いので画面に入ってきても全く邪魔にならないのだ。小説であったときの鬱陶しさ、本当に邪魔な感じというのがすっかり消えてしまって、アニメで見るとめっちゃ可愛いので「いや別によくない?」という寛容さが頭をもたげてくる。特にヤシロは小説で読んでいると基本的に話が通じないし何がしたいのかよくわからない意味不明キャラだったのだが、アニメだと美少女が二人いるところにヤシロが参加すると三人になって画面が華やいで嬉しいくらいの全く逆の感想になってしまう。

もっと言えば、安達がしまむらへ一歩踏み出していくという最大の主題もイマイチその脆さというか切迫している雰囲気が伝わらず(切迫している安達もそれはそれで可愛いため)、何となく予定調和じみている、ビジュアル的にはまあそうなるよねという安心感のあるものにも見える。
更に加えて、しまむらの超受け身体質も本来は(つまり小説では)かなり長短あるものだったはずだ。態度の曖昧さ故に誰からの好意も宙吊りにして放置してしまい、それが他人を傷付ける割にはそれにすら鈍感という邪悪さを持ち合わせているのがしまむらのパーソナリティだ。しかしアニメでは受け身体質によって引き寄せられる美少女がやはりビジュアル的に可愛いというただそれだけの理由によって、「しまむらのハーレム」という美少女動物園的な文脈が生成され、それはただちに「まあ別にいいんじゃない」という許容に至る。

結局のところ、「女の子が可愛いだけで価値がある」という本来であればアニメの強みである部分が、「鬱陶しくあるべき女の子がそう思えない」という反転した弱みとして出てしまっていたようにも思う。
正直なところ、個人的な好みで言えば青春恋愛小説よりも激浅百合萌えアニメを好む俺はアニメ版の方が面白かったと言わざるを得ないのだが、コンテンツとしての性質を異にしていたことは書き留めておきたい。

補足373:これはメディアによって異なる時間性と人称の問題でもある。小説は時間的な断片を切り出すよりも連続した流れを描くことに長けているので「邪魔をしてくる」という行為にフィーチャーしやすいのだが、萌えアニメでは一時停止して切り出した断片ですら「描かれている女の子の静止画が可愛い」という大きな価値を持ってしまう。また、小説は一人称とか三人称とか諸説ありつつも概ね語り手となるキャラクターは決まっており、安達からの見解や推測を混ぜ込んで書くことが容易い。一方、アニメでは視点を示すカメラはだいたいいつもキャラの外部に浮いており、誰かに同一化することはそう多くない。『安達としまむら』は比較的モノローグを多用するアニメではあったが、それでもアバンやED直前といった重要な勘所以外ではなかなか安達の内なる声は聞こえてこない。

 

おちこぼれフルーツタルト

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話とやり取りが絶望的に面白くなく、ガチで美少女のキャラクターと作画だけで保っていたという意味で正しく萌えアニメだった。
ギャグの作り方が基本的にキャラの属性弄りしかないため、毎話状況が変わる割にはずーっと同じやり取りをしている。更にそのやり取りをするために各人に話題を順繰りにパスして回していく大喜利方式がめちゃめちゃ原始的で、萌え4コマ黎明期のアニメを見ているようだった(『らきすた』とかこんな感じだった気がする)。明らかに設定と噛み合っていない友達いないネタをマジで適当に擦るのもやめろ。

とはいえ、俺は固定化された属性弄りの中でヘモの「浅いヤンレズキャラ」とイノ&ニナの「ロリコンキャラ」が割と好き、リリさんの「25歳コスプレイヤーキャラ」が最強に好きだったため、そのへんを消化するノルマが毎話数秒だけ出てきたときだけ大いに盛り上がって楽しんでいた。一秒も面白くない萌えアニメも珍しくない中で、毎回数秒だけ面白いところがあるのは明確な強みだという説もある。

 

ご注文はうさぎですか?三期

f:id:saize_lw:20210124160047j:plainごちうさ、二期までは結構好きだったような記憶があるのだが、こんなに面白くなかっただろうか?
三期では「将来」というテーマが明確に前景化してキャラクターたちが折に触れて自身やコミュニティの行く末を考えるようになり、その副産物として職場や関係をシャッフルするような試みが随所に見られた。とはいえその過程も結論もギャグドリブンではなく成長ドリブンで営まれる女児アニメ的なものに過ぎないためあまりにも収まりが良く、予定調和のやり取りには全く思うところがなかった。
ただ、属性・コンプレックス弄りを一生擦り続けていた『おちフル』の惨状を見て思うことには、ごちうさがシャロの貧乏ネタとかリゼの拳銃ネタをそこまで活用せずに話を回そうという気概には(既にキャラクターが完成していることを前提とした強者の振る舞いであるにせよ)優れた姿勢を感じないこともない。