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20/3/14 劇場版ハイスクールフリートの感想 日常の延長にある戦争

・劇場版ハイスクールフリート

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終わりそうで終わらないコンテンツ、ハイスクールフリート
二期の音沙汰がない割には地域密着イベントやOVAパチスロをしぶとく展開し、でもゲームアプリは速攻で終わったハイスクールフリートの劇場版を見た。何故かサークルの後輩が余ってる前売り券をくれたので無料で見れた。無職ゆえありがたい。

後半の作画が事実上完成していない状態で封切りし途中から完成版に切り替えて「400カット以上をブラッシュアップした新バージョンでの上映」と言い張るという強気なムーブをかましてきたが、俺が見たのは旧バージョン(未完成版)だった。
普段あまり作画を気にする方では無いので別にいいのだが、かなり気合が入っていた日常パートから物語が盛り上がっていくにつれて作画がグダグダになっていくのは、ハイスクールフリートというコンテンツや放送版の展開に似ていてかなりウケた。

全体としてはまあ期待を裏切らない出来で面白かった。
前半で大量のキャラクターに一通りの見せ場を与える日常パートを消化したあと、後半で一気に海戦にもつれ込んで戦闘パートという、放送版で言うところのAパートとBパートの流れを踏襲したものになっている。

しかし放送版との大きな相違点として、海戦を繰り広げる敵にテロリストという「悪意ある人間」が導入されたことがある。これは放送版では人間の同士討ちでドンパチやっておきながらも最終的には「新種ウィルスの蔓延事故」が全ての元凶であることが判明し、「悪意ある人間」がいない結末に収束したのとは真逆の事態だ。

元々、ハイスクールフリートは放送開始までタイトルを『はいふり』と告知しておきながら、第一話ラストで『ハイスクールフリート』に改題するというタイトル詐欺によってスタートしたことは、今や知らない人も多いのかもしれない。
明らかに「日常系と見せかけたシリアスもの」という(まどマギ以降は手垢のついた)文脈で「味方艦隊から攻撃を受けて孤立無援になる」というハードな状況がスタートするのだが、そんな厳しいシチュエーションにも関わらず、キャラクターたちはとことん能天気だった。毎回Aパートでは水浴びだの誕生日だのと緊張感のない日常系アニメ的イベントが展開し、Bパートでようやく思い出したように戦闘を開始するという独特のスタイルで毎話が進行していった。
つまりタイトル詐欺で仕掛けたギミックとは完全に逆で、「シリアスかと思ったら日常」の方が実態に近い。むしろ日常の延長として生死に関わる戦闘をやるという異常性が際立つアニメとして俺の中に記憶されている。

実際、放送版では戦闘そのものがシリアスな主題になることはなかった。
戦闘は艦長のミケちゃんが毎回いい感じのアイデアで小気味よく切り抜けていくコメディに近く、精神的に疲弊することがない。ハードな状況にも関わらず、「味方から攻撃されて精神を病む」「味方を撃つことに葛藤する」という事態はまず起こらない。指名手配されているにも関わらず雑な変装で楽しそうに買い物に出かけ、「ごめんなさーい」とか言いながら普通に砲撃する。戦闘の代わりに一応シリアスなものとして精神的な主題になるのは「疑似家族コミュニティの絆」というテーマであり、これも美少女同士がキャッキャキャする日常系の延長線上にあるモチーフだ(それは指名手配されながらすることか?)。
また、物理的にも傷付くことはない。揺れて頭を打ったり炊飯器が壊れたりするくらいが精々で、皆が健康体のまま甲板を駆け回っている。普通に実弾をバンバン撃ち合っているし、絵的には一つ間違えれば死んでいる描写も結構あるのだが、死に怯える者は誰もいない。まるで死なないし怪我をしないことは暗黙の了解であると言わんばかりに、明るく楽しく砲弾を撃ち合うのだ。

つまるところ、放送版では「悪意と損傷の排除」が徹底していた。物理的にも精神的にも美少女をグロテスクさから隔離する偏執的な保護政策が戦闘とプロットの両面で機能していた。改めて確認すれば、それは各話単位ではAパートでの日常系のテンションを維持したままBパートで楽天的な戦闘を展開し、シリーズ単位では最終的に悪意の介在しないパンデミックとして黒幕が現れないまま事態が収拾されたことを指している。

補足244:本来こういう、悪意を介在させることなく、むしろ爽やかなイメージを伴って戦闘行為をさせるのは「スポーツもの」の専売特許である。実際、近年の美少女ミリタリーアニメとしてハイスクールフリートと双璧を成すガルパンでは、戦車戦という限りなくヘビーな戦いを部活として描くことによって、シリアスな生々しさを完全にパージして戦争と美少女を掛け合わせることに成功している。ハイスクールフリートもやろうとしていることは恐らくガルパンと同じなのだが、スポーツという手段を採用しなかったために、キャラクターたちがシリアスな状況に比してあまりにも能天気に見えるということは放送当時からよく指摘されていた。

劇場版では、こうした保護政策は単に引き継がれるどころか更に強化されて現れる。
象徴的なのはスーちゃんとかいう新キャラの立ち位置だ。彼女は実はテロリストの協力者であったことが判明したにも関わらず、その罪は不問に付されてすぐに仲間になる。騙されていただけとはいえ、犯罪者の仲間が次の瞬間には治安組織に加入するという限りない美少女への寛容さは、この作品がどこまでもキャラクターコンテンツであることを声高に主張する。

補足245:この「美少女の罪は不問になる」というシステムを最も強く感じたのは『ビビッドレッド・オペレーション』だった。ビビオペのメインヒロインは最初は敵として登場し、船を沈めたりヘリを落としたりと国防軍隊にただならぬ損害を与える(たぶん何人か死んでる)。しかし正体が発覚するシーンでは、彼女は主人公とのしょうもない行き違いについて逆ギレし、それ以降は「美少女同士の和解」という話題へとシフトしていく。それに伴い、当然のように過去の罪については有耶無耶になる。俺はそれを見て「美少女は人を殺してもいいんだ!」という気付きを得た。

放送版からの流れを踏まえ、俺はテロリストという悪をどう処理するのか気にしながら見ていた。戦闘が日常と連続した場所にあるならば、悪意を正面から扱って非日常を呼び込むわけにはいかないからだ。一番ベタなところで「実はテロリストも美少女で、何かのっぴきならない事情があって悪いやつではないし最後には和解する」的な展開になるのかと思いきや、それよりも遥かに単純な方向に話が転がっていく。
テロリストの男たちを限りなく弱体化させ、悪意あるキャラクターというよりは舞台装置に押し下げることで対応したのだ。テロリストたちの目的は深く掘り下げられることもなく、そもそも敵キャラクターとして成立していない状態のまま、本職の先輩たちがコメディじみたアクションで一蹴することによって退場していく。結局、最後まで主人公陣営(ミケちゃんとその仲間たち)がテロリストと直接接触することは無かった。
では主人公陣営がアクションシーンで代わりに何と戦うのかと言えば、オートマチックメカである。テロリストが敵だと生々しいので、戦争を障害物レースに置き換えたわけだ。これによって、やはりミケちゃんたちは悪意から隔離される。最後の最後にクライマックスとして立ち塞がるのも天井の崩落という無機物の障害であり、シロちゃんがそれを突破するところでアニメ版オープニングが流れて大団円となる。最終的に解決するのも「シロちゃんが疑似家族内に留まるか否か」というやはり日常系的なテーマに過ぎない(それはテロリストと戦いながらやることか?)。

もっとも、俺はキャラクターコンテンツとしてハイスクールフリートが好きなので、それで一向に構わない。テロリストを敵に設定してもなお対人戦を排除し、徹底して日常の延長に戦争を置くことにはむしろ好感が持てる。
これからもこんな感じでゆるゆると後続作品を作ってほしい。

20/3/13 劇場版SHIROBAKOの感想 リアルとファンタジーの狭間で

・劇場版SHIROBAKOの感想

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まあ面白かった。
一番良かったのがクノギちゃんとエマちゃんがルームシェアしてるところで、ああいう低燃費なところがくっ付くとうまくいく。俺は女の子同士の同棲に詳しい。

相変わらず、最初から最後まで一秒も退屈しないのは本当に凄い。
アクションの無い会話中心のアニメなのに、純粋な会話だけで出来ているシーンは恐らく一つもない。喧嘩はゲーセンで格ゲーをしながら、脚本の議論はキャッチボールしながら、殴り込みは殺陣を演じながら、必ず同時進行で大袈裟なリアクションやイベントが展開するので画面の情報量が多く、見ていて飽きることがない。五年前にテレビ放送版を見て以来なので正直記憶に残っていないキャラも多かったが、誰だかよくわからない上に美少女ではないキャラクターの会話シーンですら面白く見られるのは凄いことだ。

このように、ファンタジックでいかにもアニメらしい描写によって本来は社会的でリアルなシーンを描くという手法が用いられているのは、何も表現レベルに限ったことではない。プロットもその影響を受け、リアルな問題をファンタジックな勢いで解決するというスタイルは放送版から通底している。
放送版において、それが最も印象的なのは第23話だ。無能な編集に痺れを切らした監督が原作者への直談判に向かう掟破りの交渉という社会的には限りなくシリアスなシーンを、ほとんどギャグに近いアクションシーンとして描いてみせた。更にはそこで第三飛行少女隊の新キャラクターが発生したことにより、ヅカちゃんが声優として振るわないというもう一つのシリアスな問題も雪崩れるように解決した。

すなわち、リアリスティックな土台の上にファンタジーを乗せるという手法は、表現レベルとプロットレベルのいずれでも働いている。それぞれ具体的に言えば、個々のシークエンスの内部ではリアルな会話内容をファンタジックな背景に包んで提供し、シークエンスの連続においてはリアルで社会的な問題をファンタジックな解決方法で氷解させるということだ。
これを悪く言えば「お仕事もの」として要求されるはずの世間の厳しさをファンタジー描写の「ご都合展開」で誤魔化していると言えばそれはそうなのだが、かといって「これはご都合展開だなあ」というみみっちい感想を持たせないところがSHIROBAKOの優れるところだ。むしろ良く言う方が妥当で、最低限のシリアスさは土台として描いておきながら、そのままやると陰鬱になりすぎる部分だけは適宜明るいファンタジーで吹き飛ばすという、リアルとファンタジーのバランス感覚が楽しいアニメだった。

ファンタジーサイドを最もよく象徴するのが宮森が使役(?)する二体のぬいぐるみで、劇場版も彼らが放送版の内容を復習するシーンから始まる。冒頭のシーンは一貫してSDキャラクターで構成されており、アニメ版をコメディとして明るく思い出すことを要請する。
しかしその直後には彼らは黙り込み、今度は意気消沈している宮森が画面に映る。そこからしばらくは暗い雰囲気が続き、武蔵野アニメーションは大失敗を経て力を失い、宮森も仲間たちも仕事に躓いている現状が描かれる。とはいえ、それはあまりにもわかりやすい「解決されるべき障害」であり、もはや希望への予兆と言ってもいいほどのマッチポンプの絶望ではあるのだが。

大方の予想通り、その後はどん底から下克上的に逆転していくストーリーが展開する。プロット上ではその転機になるのは宮森が元社長に会いに行ってカレーを食べるシーンだ。たしか「原動力を思い出せ」とかそんなような自己啓発的な励ましを経て宮森は奮起する。

しかしその取って付けたような再起はどうでもよく、重要なのはその直後だ。宮森が「アニメを作ろう」と連呼し続ける強迫観念に満ちた歌詞を歌いながら踊り狂うという狂気的なミュージカルがかなりの長尺で流れる。
このシーンで最も注目すべきは、宮森が(SHIROBAKO作中の)アニメキャラクターと共に歌ったり踊ったりすることだ。これによって、宮森は彼女が見たり作ったりしてきたキャラクターと同じレイヤーに置かれる。要するに宮森は「アニメのキャラクター」になるのだ。
このミュージカルによって宮森は視聴者から見てアニメのキャラクターであるという立ち位置を自覚的に引き受けることになる。つまりリアルな社会の担い手であることをやめ、「アニメ的」な振る舞いをするキャラクターに変貌する。開始早々、放送版にも見られたリアルからファンタジーへの越境があからさまに行われるわけだ。
主人公の宮森が「アニメキャラクター」になったことを受け、このシーンからストーリー全体が動き始める。陰鬱で・リアルな・社会が終わり、楽しい・ファンタジーの・夢の世界がスタートする。リアルとファンタジーのバランスという話題に照らせば、あのミュージカルシーンが全てのクライマックスであるわけだ。

放送版とは異なり、劇場版ではこのリアルからファンタジーへの切り替わりは一度発生すると戻ってくるタイミングがない。
というのは、放送版ではメディアの都合で24分を区切りとして視聴者の意識が毎週リセットされるため、概ねどの回も冒頭はリアルでシリアスなシーンから始まり、話が展開していくうちに解決を見るというパターンだった。一方で、劇場版では話数の切り替わりがないため、リセットがない。アニメ版で結果的に生じていた緩急は失われ、全体はミュージカルシーンを唯一の切り替わりとして前後に分けられることになる。

とはいえ、ただちに手の平を返すようであるが、決して劇場版の後半部が全てファンタジーの産物だったとは言わない。関係者各所に声をかけていく地味なシーンも多いし、少なくとも放送版第23話のようなギャグじみたアクションシーンだけで構成されていたとはとても言えない。
しかし、冒頭でも述べたように、SHIROBAKOでは退屈のないようにあらゆるシーンで何かしらのファンタジー描写が挿入されることも事実である。舞茸氏が疲労度合いに応じてボロボロになっていったり、ムサニの新人男が大袈裟な動作や言い回しをしたり、細かいところまで見れば挙げきれない。画面を退屈させないようにする努力も、それが現実的には有り得ないという意味ではファンタジーの一環でもある。
そうしたグレーゾーンのシーンをどう見るかという解釈の指針は、やはりあの衝撃的なミュージカルシーンによって与えられてしまう。ミュージカル以降は基本的にファンタジーの論理によって駆動し、御都合的に解決していくことに疑問のないモードとして視聴の意識が作り替えられていた。

正直なところ、今回の社会折衝的な側面でのクライマックスとして設定されている、宮森と仕事仲間の女性(?)が着物を着て敵陣に乗り込んでいくシーンは少し寒々しい気持ちで見ていた。
確かにアクションは素晴らしいし、俺も宮森のことは好きだから着物を着て華麗に戦っているシーンが見られて嬉しい気持ちはある。とはいえ、これはリアルな問題をファンタジックに解決するというSHIROBAKOの基本スタイルをあまりにも忠実に踏襲していて何の意外性もない。というか、完全に放送版第23話の焼き直しだ。クライマックスに全く同じシーンが来てしまうあたり、僅かに状況設定が変わっただけで全体のプロットは何も変わっていないことに少し落胆した。

また、更に言えば、冒頭で提起された宮森たち五人の閉塞感という大きな問題が「仕事が順調に進む」というだけで解決されてしまうことにも少し拍子抜けした。
例えば、冒頭でタイヤ女は部下(?)との間で意見の食い違いを抱えていることが描かれる。このシーンから読み取れる問題は以下の二つのいずれかだ。一つはただ単に「仕事が上手くいっていないと困る」という問題、もう一つは「仕事そのものが夢と相反する妥協を要する」という問題である。
SHIROBAKOは放送版から一貫して夢の成就というテーマを扱っていること、劇場版では五人共が既に短くない期間を社会人として過ごしていることから、全体のテーマもアップデートされていることが期待され、俺は今回は後者の問題について扱うことを予想していた。
しかし、それ以降のアニメ映画制作がトントン拍子で良かったねというストーリーを見る限り、面白い仕事があるかないか、仕事が順調かそうでないかという程度の問題しか読み取れない。テーマそのものは放送版から特に前進しておらず、それにがっかりしなかったと言えば嘘になる。一応、最後の方で作中アニメのラストシーンに不満を持った宮森が急遽そこだけ作り直すというそれらしいシーンは挿入されているものの、その工程は関係者全員の賛同する下で進行しており、冒頭に見られたようなコンフリクトは見いだせない。

全体として、アニメ版で確立した手法を劇場版らしく大きなスケールでなぞっており、アニメ放送版のファンが求めていたものを高い精度で提供し直した反面、テーマを含めて同じものをなぞっているという焼き直しの感は否めない。俺は宮森が好きだから以前と同じように動いてくれてもいいが、もしこれがキャラクターコンテンツじゃなかったらちょっと厳しかったかなというのが正直な感想だ。

逆に、そのキャラクターコンテンツとしての性格こそが放送版と同じ基本線を抜け出せない原因なのかもしれないとも思う。
今回見ていて地味にずーっと気になっていたのは、四年という短くない歳月が経過しているにも関わらず、キャラクターの外見が一切変わっていないことだ。もしかしたら設定資料レベルでは細部のデザインが変更されているのかもしれないが、少なくとも俺の目では四年前からの変化は一つも見つけられなかった。大人は子供に比べて変化が少ないとはいえ、二十代の女性がそれまでと全く異なる環境で四年も過ごせば容姿もそれなりに変わってくるのではないか。
現実的なことを言えば、SHIROBAKO美少女アニメとしては設定上キャラクターの年齢が高めかつ大人寄りのデザインであったために変更の余地がなかったのだろう(元が高校生であれば、適当に髪を伸ばすなり背を伸ばすなりが出来たかもしれない)。成人女性でありながら美少女として描かれているという微妙な立ち位置が、サザエさん時空でもないのに(むしろきちんと実時間が経過する誠実な時間経過なのに)、「歳を取らない」という異常事態を発生させる。別にそれが悪いと言っているわけではない。俺だって妙にきちんと年を重ねてスレた宮森は見たくないし、短大を出たままのビジュアルで構わない。
しかし、このキャラクターデザインの固定化は言うまでもなくファンタジックな領分に入る特徴である。つまり、ミュージカルシーンと同じく「宮森はアニメキャラクターである」という見方を補強するわけだ。キャラクターコンテンツとしての制約により容姿を変えないことを選択した時点で、放送版で木下監督が昇竜を打ったのと全く同じように、宮森が定規片手に戦うことは避けられなかったのかもしれない。
結局のところ、歳を取らない宮森は最初からアニメのキャラクターなのだから。

20/3/12 第五回サイゼミ(後) ボードリヤール『消費社会の神話と構造』

ボードリヤール『消費社会の神話と構造』

前回の続き。

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前回のプラトン『国家』が人類史の古典だったのに対して、こちらはオタク史上の古典という気持ちで読んだ。

消費社会の神話と構造

消費社会の神話と構造

 

 ・全体的な印象

典型的な構造主義分析。パノプリ論から始まる構造主義的な消費社会の描像を基本骨格として、「メディア」「肉体と性」「人間関係と気遣い」「暴力」等の各論へと派生していく。
日本語版の訳者あとがきにもあるように、マルクスの価値形態論、フロイトの欲望論、ソシュールの言語体系論を下敷きにしており、これらを踏まえれば理解しやすい。逆にこれらの前提知識が無ければ相当厳しそう。持って回った皮肉や煮え切らない言い回しなども多く読みやすくはないが、二周すればそれなりに意味は取れる。

日本でも有名な古典だけあって、一度はどこかで読んだような話が頻出する。
例えば、ボードリヤール大塚英志(物語消費論)→東浩紀動物化するポストモダン)というラインでサブカル評論に多大な影響を及ぼしているほか、ブランディングとは使用価値よりイメージと立ち位置の問題だというような話はCMなどのマーケティングの文脈でよく聞く。

・資本主義批判として

消費社会には階級や貧困を再生産するイデオロギーが密輸入されていることは何度も語られるが、その一方で階級や貧困そのものの発生源を陽に語っている部分はあまり見られない。様々な角度から徹底して現状分析を行っている割に、資本主義の生成(始まり)や打開(終わり)については具体性を欠く。しかし、生成や打開についても下敷きにされているマルクスを参照すれば一定の手がかりを得られる。

まず、資本主義システム及びそれに伴う階級と貧困の「生成」については、素直にマルクスを引き継いでいるのだろう。資本主義が資本の多寡に応じた階級を形成したことで、階級を明らかにする差異表示記号とそれを隠蔽するイデオロギーが需要され、その役割を大量生産商品と消費社会が引き受けるという基本線が読み取れる。

次に、資本主義システムの「打開」については、結語に以下のポエムが刻まれている程度しかない。

ある日突然氾濫と解体の過程が始まり、千九百六十八年と同じように予測はできないが確実なやり方で、黒ミサぬらぬこの白いミサをぶち壊すのを待つことにしよう。 

最初はこの記述は何かに対する当てつけなのかとすら思ったが、「逆にマルクス擁護としても読めるのではないか」という意見を聞いて確かにそうだなと思った。
1848年に『共産党宣言』でマルクスが目指したプロレタリアートの団結と勝利は、『消費社会の神話と構造』が書かれた1970年にはどう好意的に見ても当時ほどの説得力を持っていなかっただろう。資本主義打倒が結実しなかったことを素直に認め、その敗因を分析する作業として執拗な消費社会のイデオロギー分析を読むことができる。資本主義はマルクスの予想を遥かに超えて強大だったというわけだ。

SNSの発展

今の感覚で読んで最も素直に違和感があるのは価値体系の一意性だった。
『消費社会の神話と構造』では広告やテレビが神器として働き、それらが作り出した価値体系が社会全体を覆うことになっているが、昨今のSNS普及に伴うテレビの凋落は改めて語るまでもない。大衆全体に対して有効な価値体系も少なからず残存している一方、コミュニティに依存したローカルな価値体系も複数林立しているように思われる。
このあたりは「SNSは社会を分断したか否か」という話題に繋がってくるが、グローバリゼーションは確かに地理的に離れた人々を一つの価値観の中に押し込んでいく一方で、相対的に特殊性の高い嗜好性を持つ人々を相互に繋げてローカルコミュニティの形成を支援する側面もある。

ただし、価値体系のスケールが変動したからといってパノプリ論の骨子が無効になるわけではないし、むしろ依然として分析に利用できるはずだ。ローカルなコミュニティ内部で構造的な差異の体系が生成されるという構図は有効だし、それを個人的な使用価値が尊ばれる構図と混同してはならない。小規模コミュニティ内のマウントの取り合いと個々人の欲求充足は異なる。この区別はすぐ後に述べるようなオタク的想像力を見るにあたっても意識しておいた方が良さそうだ。

サブカル的には

「印象」の項にも書いたが、オタク界ではサブカル批評の源流として既に吟味され尽くしている古典のような味わいがある。俺もまた聞きでしか知らないが、「ボードリヤールが予言したような現代的な消費社会の形態が最もよく現れているのはオタクたち及びオタク文化である」というような言説は20年くらい前に出回り切ったという認識でいる。

例えば、オタクは「オタクとしての唯一無二アイデンティティを無数に存在する大量生産品でしか担保できない」というわかりやすい矛盾を持っている。これはボードリヤールのパノプリ論で説明でき、「商品の価値は背景にある記号体系の中の差異的な立ち位置で決定され、それは階級表示記号でもある」というロジックをそのまま流用すればよい。つまり、「オタクグッズの価値は背景にある流通体系や作品体系の中の、他のグッズと比較した立ち位置で決定され、それはオタクのステータスも表示する」というように。

これを作品世界と結び付けて発展させたものが大塚英志の物語消費論である。ビックリマンシールは単体で価値を持つのではなく、背景にあるシール体系に組み込まれていることによって大きな物語を示唆するのだ。
しかし、物語消費論においてはパノプリ=記号体系が大きな物語=近代的な超越性とアナロジカルに解釈されているところに民俗学の知見を取り込んだ跳躍があるように感じる。ボードリヤールの段階では記号体系は商業的な理由で適宜更新されたり流行したりする程度のもので、超越者としての役割はあまり与えられていなかったはずだ。ボードリヤールの、超越性を無化していくいかにもポストモダン的な論の展開に対して、あえて超越性の読み込みというモダンに帰るような解釈を与えたことが大塚の慧眼だったように思う。そしてそれは東浩紀に継承されデータベースとして再解釈される時点で再び各消費者が勝手に読み込む無機質なデータベースへと変換されている。

オタク的な読み替えが可能な箇所は他にもあり、第三部第四章「自己確証と同意」でボードリヤールは人間関係について以下のように語っている。

……集団が何を生産するかについてよりもその集団内部での人間関係についての方に、大きな関心が払われるようになる。この意味では、集団のなすべき重要な仕事はいわば関係を生産し、それらの関係を次々と消費することだといってもよい。……「雰囲気」の概念は、こうした状況をかなりよく要約している。「雰囲気」とは、人びとの集団によって生産・消費されるさまざまな関係の漠然とした総和、つまり集団の現実の姿そのもののことだ。……「目標」と超越性の価値(目的論的・イデオロギー的価値)が、関係の成立と同時に消滅する「消費される」雰囲気の価値(関係的、内在的で目標を持たない価値)に取ってかわられる社会が消費社会である。

これは百合に傾倒する昨今の日常系アニメそのものだ。

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最近流行っている関係ベースの百合は構造主義的なキャラクターの想像力だよねということを二年前に書いた。記号体系が支配的になる消費社会では人間関係もそのうちに回収されて構造主義的な差異の戯れに変質するという事情を踏まえれば、百合が流行る源流にもやはりオタクと消費社会の親和性があるのかもしれない。

・暴力とアノミー

ボードリヤールは暴力に対してもパノプリ論を適用し、消費社会においては暴力はパッケージングを免れておらず、稀に真の暴力が現れたときは社会を揺るがす力を持つというような話をしている。
大澤真幸も「資本主義の果てに全的な否定が欲される地平が来る」という似たような話をしていたことを思い出す。大澤の論では、たしか資本主義は目的=超越性を無限に更新し続けるためにそれが摩耗していき完全にすり減ったあとは逆に全く無目的な行為しか目的にできなくなるというようなロジックだったはずだ。

暴力のパッケージングと聞いてただちに連想するのは、最近新宿南口の歩道橋が自殺の名所と化しつつあることだ。2014年には焼身自殺、2020年には首吊り自殺が試みられ、似たような自殺が二件連続したことで点が線になればそこには文脈が形成される。
あの場所での自殺が特異なのは、物理的に高所かつ透明なガラス張りを通じて行われるために可視性が極めて高いということだ。更に都心であるために常に目撃者も多い。閉鎖された一室で完結する首吊りや、地面に落ちた死体をビニールシートで被えてしまう飛び降りは容易に隠蔽されてしまうためにこうはいかない。
自殺というイベントが言葉を通じて共有されるのではなく、自殺によって生成される死体そのものが展示される稀な空間が南口歩道橋だ。死と自然から最も遠い、静謐な都会の中心に突如空いたブラックホール

この、まるでショーウィンドウのような歩道橋で実行される自殺ショーに対する反応は割れている。スマホを向けてパシャパシャと写真を撮る健全な消費者がいる一方で、撮影による自殺のSNS消費を食い止めようとする良心的市民も少なくない。その緊張関係こそ、都会の中央に突如出現した死がパノプリの中に組み込まれるか、それ自体として認識されるかという緊張関係だ。

とはいえ、ちゃぶ台を返すようではあるが、資本主義はその果てに狂気(分裂病)や死に行き着くというような論はもう見飽きているという気持ちもある。そこのところ、資本主義の末路としてもっと生産的な(と言うと怒られそうだが)ビジョンを提示できる加速主義の優位性が見えてくるというものだ。

20/3/11 第五回サイゼミ(前) プラトン『国家』

・第五回サイゼミ

ほぼ月一定例会、サイゼミ第五回。

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第四回では反出生主義というナウいトピックを扱った反動で「古典を読もう」という機運が高まっていたので、人類史の古典であるプラトン『国家』と日本オタク史の古典であるジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』を扱った。
その二つのトピックで記事を前後編に分割する。

今までのテーマは以下。

第1回 ニッポンの思想 / 新反動主義 / アンチ・オイディプス(19/8/18、本郷)
 <主要参考文献>
  『ニッポンの思想』佐々木敦
  『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』木澤佐登志
  『ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』仲正 昌樹

第2回 宇野常寛特集(19/9/30、池袋)
 <主要参考文献>
  『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』『母性のディストピア宇野常寛
 <鑑賞映画>
  『リンダリンダリンダ

第3回 フェミニズム / 新実在論(19/11/9、本郷)
 <主要参考文献>
  『女ぎらい』上野千鶴子
  『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』岩内章太郎
 <鑑賞映画>
  『ジョーカー』

第4回 反出生主義 / 世界史の構造 / オートポイエーシス(19/12/28、中野)
 <主要参考文献>
  『生まれてこない方が良かった』ディヴィッド・ベネター
  『世界史の構造』柄谷行人
  『オートポイエーシス論入門』山下和也

第5回 国家 / 消費社会の神話と構造(20/2/23、阿佐ヶ谷)
 <主要参考文献>
  『国家』プラトン
  『消費社会の神話と構造』ジャン・ボードリヤール

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プラトン『国家』

・全体的な印象

分量は多いが小説らしい対話形式で平易に書かれており、表面的な意味を汲むだけならば今まで扱った本の中で一番簡単。物理学におけるニュートン力学のように「乗り越えられたパイオニア」という立ち位置を感じる。
現代から見るとナイーブな見解や詭弁のように感じる箇所も多いが、それを論うのはアナクロで不当な読みだろう。正確な理解を目指すというよりは、今の興味に照らしてどこにどう注目するか、現代との繋がりをどう捉えるかという外部との広がりのある読みをする方が建設的。

正義や不正(ズル)に関する倫理観は現代とほぼ同じ感覚で語られていて「人間は何年経っても変わらない」という親近感がある一方で、ギリシャ神話の扱いや都市国家群の在り方については現在の感覚とは乖離した背景が前提されている。イデア論や民主制を論じる部分ではそれを踏まえなければ何故そういう論理展開をするのかが理解しにくい。

どうでもいいが、あまり賢くない雑魚の敵をソクラテスが最強論破して味方が持ち上げてくれるパターンが多く、「なろう系」っぽさがかなりある。議論の相手がソクラテスみたいなスタンスだったらまあまあウザい。これを街中でやられたら死刑にしたくなる気持ちはわかる。

・正義論について

俺の関心が最も高い部分はここだった。

・常に不正をした方が利益は大きいのではないか
・表面的には正義漢のフリをして、裏で不正を働くのが最も利益が大きいのではないか
・正義はそれがもたらす結果(名誉や報酬)ではなくそれ自体に価値があるのか

など、正義と不正に関する問題は人類不変のものらしい。今だと十代のうちに済ませておきたい青臭い議論ではあるが、近代資本主義社会でも十分に通用する話だ(むしろ今の方が……)。
前提が性悪説に寄っていることには好感が持てる。全体を通して無前提で導入されている価値観も多い中で、いわゆるヒューマニズムはそれに該当していない。それは教育論でも一貫しており、「人間は教えられたものに影響を受けるからこそ、教えるものは吟味してコントロールした方がいい」というように、教育を一種の洗脳とする前提がある。

しかし(当然ながら?)議論は満足がいくものではない。作中で正義を擁立するロジックは以下の通り。

1.国家における正義とは各種族が自らの本分に専心することである
2.国家における正義を用いて、人間における正義を類推できる
3.人間における正義とは各部分が自らの本分に専心することである

今から見ると、2以降がガバガバで説得力はない。最終的にはソクラテスの魂論と神話論に逆行し、問題提起で見せていたリアリスティックな態度は消えてしまった。
一応、利他主義ヒューマニズムに傾いていないのは良かった。不正行為を働かないのは自身の保持する徳のためであり、別に他人のためではない。

とはいえ、誠実な読みとしては、そもそも国家と人間をアナロジーに捉えることに疑問を抱かない論理展開に注目すべきだろう。個人が当たり前のように国家の安定に従属するリベラルでない世界観、全体主義的な安定を目指す都市国家の大前提が伺える。

・国家論について

ソクラテスは優秀者支配制(理想的な専制)を民主制よりも上に置いている。
これに関しては、率直にソクラテスは正しかったと考えることは可能だ。つまり、人類が衆愚の危険を孕む民主制に移行してきたのは、ソクラテスが指摘するように妥協と堕落の結果であるという見方ができる。もし理想的な専制が可能であるなら、それに越したことはないという見解にも俺は同意できる。
ただ、この議論においては「専制vs民主制」なる対立よりは、「理想vs現実」なる対立の方が決定的な役割を担っているようにも思える。すなわち、ソクラテスが比較しているのは「理想的な専制」と「現実的な民主制」であり、この比較であれば理想的なものが上位に置かれるのは当たり前だ。
一応、「理想的な専制」と「理想的な民主制」の難易度を比べた場合、前者はトップ一人が理想状態であれば実現できるのに対して、後者は構成員全てが外れ値なく理想状態に無ければならないという比較はできなくもない。

また、ソクラテスは現代で民主主義の果てに起きていることを、粗い解像度ではあるが正しく予見しているとも読める。
つまり、民主制においてはその自由さ故に政治が無秩序化し内紛が発生して独裁的僭主が生み出されるという構図は、行き過ぎたリベラルとポリコレへの忌避感が生じダイバーシティを回収しきれなくなった末にトランプ大統領が誕生するという構図に対応する。この意味で、民主制の破局というソクラテスの言及は非常に現代的。

その一方、ソクラテスも民主制を頭ごなしに否定して階級社会を肯定するのではなく、前者に含まれる自由の価値は認めている。高く評価しているわけではないにせよ、多様性は非常に魅力的に見えるだろうこと、美しく多彩であることを述べている。
そのように、全体主義的な哲人王構想を練っている割にはリベラルな価値観にも一定の評価をしているように読める部分は他にもある。例えば、少なくとも都市国家内の市民においては、とにかく「現にある能力」に注目し、その者が持っている素養を高く評価しようという基本姿勢がある。これは男女の区別に対しても同じように適用され、「男女問わず、あるべき人生を強制されるよりは今ある素養を活かす人生であれ」というジェンダーバイアスを廃したスタンスが伺える。

補足242:しかし、その一方で「現実問題として女性は男性に劣る傾向があるため、素養に従うと女性が劣位になる」という強烈な女性蔑視が光る。もっとも、当時は頭脳労働よりも肉体労働の需要が高かったのだろうし、ある程度はやむを得ないところではある。

ただし、何度も言及される「素養」というワードの中で、「やれること」と「やりたいこと」が区別されていないことには注意しておいた方が良さそうだ。
得意なことを行うのが良いとするのはあくまでも国家全体が良く動作するためだ。「集団的な特性ではなく個々人の特性に注目する」というところだけ抜き出せばリベラルチックだが、その背景にあるのは個々人の人権や人生に対する尊重ではなく、全体への奉仕の効率化である。そもそも、当時は奴隷が都市国家を支えていたのだし。

実際、一貫して前提されているのは「複数の国家が林立し、自分の国家の周囲には敵味方の国家が入り乱れている」というような国家群の存在だ。グローバリゼーションの発想は一切なく、今から見ると排外主義が強い。守護者論にかなりの分量が割かれているのも国家の防衛が自明の前提とされているからだろう。
もっとも、当時は地球が球であることもまだ知られていなかったわけで、それもやむを得ないことではある。

形而上学について

「可視的なものより可知的なものの方が本質的だ」という理由で経験科学を下位、形而上学を上位に置いており、実証主義の学問が尊ばれる現代とは真逆だ。谷村ノートでもこの二つの地位が逆転した歴史が回想されていたことを思い出す。

saize-lw.hatenablog.com

『国家』の時代でも現代でも数学だけは変わらず高い地位を占めているが、数学が担う責務は大きく変わっている。ソクラテスは数学を形而上学にカテゴライズして重視している一方、現在でも数学に高い価値が置かれているのは経験科学に奉仕しているからだろう。形而上学としての文脈で純粋数学の需要が高いわけではない。

サブカル的な使い道

『国家』の議論においては現代で言うところのフィクションという概念がなく、現実的でないものは全てイデア界における実在の模倣だと見做されている。詩人追放論は素直に読むとノンフィクションにしか適用できないようにも感じるが、当時は完全なフィクションが存在しなかったと考える方が建設的だ。神話の類はアクチュアリティを持っているという前提がある。
この背景は教育論にも読み取れる。教えるべき神話を取捨選択する段階では神々の既成エピソードを「言う」「言わない」の二択で議論が展開し、教育的なエピソードを「捏造する」というような視点は存在しない。神話は作るものではなく、既にあるものを伝えるか伝えないかの問題でしかない。

オタク的な想像力で言うならば、イデア界が作品世界であり、現実世界でアニメや漫画として出力される動画像は作品世界で実際にあったことの射影ということになるだろうか。作品の背後に大きな物語を想定し、断片を集めてそこに向かうという発想は大塚英志の物語消費論そのものだが、作品世界という発想自体がいつ成立したのかは気になるところだ。

また、詩人追放論に関連してブロッコリーマンくんがしてくれた話で、デリダ的な文脈で話法とミメーシスを結び付ける話がかなり面白かった。
ソクラテスに言わせれば、情熱的に演じる劇はミメーシスなので良くなく、それよりも冷静な語りの方が良いとされるが、この違いは書き言葉ではそれぞれ直接話法と間接話法に対応する。

補足243:
直接話法は鍵括弧等を用いて発声内容をそのまま記述する記法。

彼は、「私がアイアンマンだ」と言った。
He said, “I am IRON MAN.”

間接話法は鍵括弧を用いずに発声内容を要約記述する記法。

彼は、彼がアイアンマンだと言った。
He said that he was IRON MAN.

発声内容をそのまま記述する直接話法が「情熱的に演じる劇」に、発声内容を要約記述する間接話法が「冷静な語り」に相当する。ソクラテスの論理に従えば、直接話法は真似事であるために悪く、間接話法の方がまだ良いということになる。それは一見すると納得しにくく、あったことをありのままを書いている直接話法の方が誠実で正確なようにも思える。
しかし、パロールエクリチュールの間のズレを踏まえるならば、そもそも発声を正確に記述することなど土台無理である。そこには常にいくらかのズレが含まれるので、ありのままを写し取れると慢心している直接話法の方が悪性が高いというロジックが成立する。

 

次回に続く。

20/3/10 お題箱回

・お題箱62

121.私は、教養のある人は映画鑑賞や読書を趣味としている事が多いのではないかという偏見を持っています。
LWさんは教養の有無と映画鑑賞や読書の習慣は関係があると思いますか?

あると思います。

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「教養」という単語の辞書的な定義や歴史的な経緯はともかく、日常的に「教養のある人」って言ったらだいたい「いい感じに知識がある人」くらいの意味ですよね。一般的に言って知識は外部から吸収するものなので、インプットの多寡と教養の多寡に相関があるのは自然なことです。

もちろん知識には色々タイプがありますから、インプット以外で得られるタイプの知識もあります。
例えば「自転車の乗り方」や「トンカチの使い方」などの実践知がそうですね。しかし、実践知に詳しい人に対して「教養がある」という表現は普通はしないように思います。彼に対しては「技術がある」とか「〇〇が上手い」というような評価をするはずです。

また、知識が貧困で頭の良い人も想定することはできます。漫画だと「俺はバカだから難しいことはよくわかんねえけどよお~」とか言いながら鋭い指摘をするキャラがたまにいます。が、そういう人も「地頭が良い」とか「センスがある」とかいう称賛を受けることはあっても、「教養がある」とはあまり言われないように思います。

122.年金システムの維持条件とリベラル思想の相性の悪さについて一言お願いします

質問でもう回答まで完結してませんか!?
一言を求められているのは政治的な一般論と個人的な意見のどっちなんでしょうか。

一般論の話からすると、確かに原義のリベラルと福祉政策は相性が悪いですね。ラディカルに自由を求める立場からすると国家システム自体が自由の抑圧を含んでおり、夜警に支払う税金以上のあらゆる徴収に対しては反対する立場を取ることになります。
一方で、リベラリズムリバタリアニズムを比較するようなアメリカ政治的な文脈では、リベラリズムは経済的自由を軽視し、リバタリアニズムは重視するという違いが生じます。よって、逆にリベラリズムの方が年金のような福祉政策を肯定する立場になります。まあ、原義のリベラルがリバタリアンに置き換わり、代わりにリベラルというワードが社会的公正を含むようになったという単語レベルの話なので、大した問題ではありませんが。

個人的には、今の日本のように定量的に破綻している年金システムは論外としても、正常に動作している場合は別にあってもいいです。現実問題として僕はリバタリアン的な世界観で生きていくほど強くはないです。
しかし身も蓋も無いことを言うと、僕は自分の人生のリアリティ(特に未来について)をほとんど認識していないので、現実的な問題に対してはあまり思うところがないです。人生って詰んだら自殺すればいいだけなので、そんなに真面目に考える価値ないですよ。

123.「皇白花には蛆が憑いている」完結おめでとうございます。
一つだけ気になる記述があったのですがこの場で質問してもよろしいでしょうか。
第31話に「ブラウン運動している花粉」とありますがこれはどういう事でしょうか?(近況ノートで解説されているのを見逃していたなら申し訳ありません)
ある種のネタなのか、白花の文系アピールなのか、単なる誤りなのか、それとも本当にブラウン運動するサイズの花粉が存在するのか気になります。

ありがとうございます。『皇白花には蛆が憑いている』31話についてですね。

kakuyomu.jp

これは普通にミスです!
Wikipediaにはわざわざ単独のページまでありますが、正しくはブラウン運動するのは「花粉」ではなく「花粉から出た微粒子」です。
僕も質問を見た瞬間に「そういえば花粉じゃなくて微粒子だったか」と思い出す程度には知っているんですが、適当に流して書いてるとつい「ブラウン運動している花粉」などと書いてしまう程度には意識してないという感じです。

仰る通り、白花は文系で理系分野には全く疎いので、彼女が誤解していても問題のない内容ではあります。しかし、描写として特に面白くはないし混乱を招くだけなので「花粉」は「微粒子」に修正しておきます。御指摘ありがとうございます。

ついでに言うと、科学的にかなり致命的なミスをもう一点犯しています(ネタバレを含むので追記)。

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20/3/9 お題箱回

・お題箱61

118.件の蛆虫の小説読んでます。だんだん世界の感性にも慣れてきて素直に面白く読めるようになってきました。ちなみにカクヨム以外には投稿なさらないんですか?

ありがとうございます!

kakuyomu.jp

件の蛆虫の小説こと『皇白花には蛆が憑いている』を宜しくお願いします(先日完結しました)。独特の感性を持つキャラクターが多いのには思想的な背景があって、今月中には自分で自分の小説を批評解説する記事を書くと思うのでお待ちください。

他の媒体にも投稿するかもしれません。一度書き終わってしまったらあとはコピーペーストするだけなので手間は特にかからないんですが、なんか他の有名どころの素人投稿サイトにも投げておくといいんですかね。

119.LWさんの文章読みやすくて好きなんですが、文章を書くにあたって何か勉強したことやコツ等はありますか?

ありがとうございます。

理系ですし国語教育以外で勉強したことは特にないですが、最大のコツは文章の論理展開を整えることだと思います。
文同士はどういう文脈で繋がっているのか、スムーズに連結するためにはどんな単語や文を補充すればいいのか、順番はこれでいいのか、余計な文が挟まっていないかなどを検証する作業が重要です。国語や英語で「不要な文を選べ」「意味が通るように文を並び替えろ」みたいな問題を一度は見たことがあると思いますが、あの作業を自分の文章に対してよくやります。

他に細かい小テクは「結論から書く」「平仮名を続けない」「同じ単語や構文を続けない」「類語検索を活用する」「文章を長くしすぎない」とか色々あるものの、多分その辺はそれほど重要じゃなく、気が向いたら気を付ければいいオプションに過ぎません。論理の流れさえしっかりしていれば文章が読めないことはまず無いので。

ちなみに、この辺のコツは(上に挙げた)小説を書くときも全く同じでした。物語文を書くのも論説文を書くのもあまり変わらないとわかったのは収穫でした。

120.ゲームで勝ちを狙う時には、グレーゾーンなプレイやBMもするべきだと思いますか?
(例えば、遊戯王でET狙いの意図的な遅延をしたり、HSで無意味なエモを連打したりするやつ)

微妙なところですね~。この辺についての僕のスタンスはかなり変わってきています。
昔は競技プレイでやっていて(物によりますが)どちらかと言うとダーティ寄りのプレイにも比較的寛容な方だったんですが、今はカジュアルプレイに移行して「ダーティプレイはする意味がない」と考えるようになりつつあります。
とはいえ、それは単に対人ゲームに真剣に向き合わなくなっただけです。勝ち負けに固執しなくなっているので、マナーが悪い相手に当たってこれ以上続けたくないと思ったら「その場で投了して黙ってテーブルから離れる」で別にいいと思ってるんですよね。
逆に言うと、今でも勝ち負けに固執するモードになったら昔のマインドが息を吹き返します。バチバチの勝負に対する考え方は全く変わっていませんし、DCGの無意味エモート連打には今でも肯定派です(そもそもBMだと思っていません)。以下、そういう勝負モードのときのスタンスについて書きます。

基本原則としては「ルールで禁止されていないことは何をやっても良い」と考えます。ルールで禁止されておらずゲームを有利にする行為がある場合、プレイヤーがそれをするのは自然な流れです。あらゆる手段で勝ちを目指すのがゲームです。

こういうことを書くとすぐに「じゃあルールに『テーブルを揺らすな』って書いてないからテーブルを揺らして妨害してもいいのか?」とか「ルールに『風呂入れ』って書いてないから体臭で威圧してもいいのか?」とかいう人が現れるんですけど、それってゲームの話じゃなくて一般社会の話ですよね。「法律に『風呂入れ』って書いてないから風呂に入らずに電車に乗っていいのか?」と全く同じ質問です。
これらの質問に対しては「別に禁止はされてないけど、一般常識には反するし周りの人が注意したりして調整されるんじゃないですか」と答えるしかありません。これをゲームに関する質問だと勘違いして白黒はっきり付けようとしたりして、「ゲーム上で不正な行為」と「社会的に不正な行為」をごっちゃにすると訳の分からないことになります。

さて、例に挙げられている「遊戯王のET狙い」と「HSのエモ連打」はかなり違う行為です。LW的には前者は明確にNG、後者は明確にOKです。
遊戯王での遅延行為はルール文書によって明文で禁止されています(マナーの問題だと勘違いしている人も結構いますが)。だから現実的には「バレなければ遅延してもいいのか?」みたいな話になってきますが、これもやはりゲームルールの話ではなく社会の話です。「誰も見てなければ赤信号を渡ってもいいか?」と同じ質問であり、「バレなければ知らんけど、少なくとも聞かれたらアウトとしか言えない」と答えるしかありません。
その一方で、HSのエモートは標準で実装されている機能であり、「エモ連打」も当然ながら禁止されていません。僕も負けが込んでるときにエモート連打されたらスマホブン投げますけど、ルールで禁止されていない以上はBMだとすら思っていません。「エモ連打は不愉快に思う人が多いからやらないべきではないか?」という質問に対しては、これもゲームルールではなく社会の話……とはあまり考えません。エモ連打はブリザードが暗黙に認めている行為なので自粛運動を他人に求めるのはナンセンスだと考えます。

その背景にはアナログゲームデジタルゲームの媒体の違いがあります。大雑把に言って、アナログゲームは「物理的に可能なこと」と「ルール上可能なこと」が一致しないんですが、デジタルゲームは「物理的に可能なこと」と「ルール上可能なこと」が一致します。
例えば、リアルで遊戯王をやっている最中に物理的に可能なことはたくさんあります。遅延行為だけではなく、ダブルドローも二重召喚も膝から大嵐もやろうと思えば物理的にはできます。しかし、それらはルール上可能なことでは無いので、大抵のプレイヤーはやりません。その一方、デュエルリンクスで遊戯王をやっている場合は物理的に可能なことはもっと少なくなります。ダブルドローも二重召喚も膝から大嵐もどんなにやりたくてもできません。それを行うボタンが用意されていないからです。
こうした違いはカードゲームだけではなく、テーブルゲーム全般やスポーツゲームにもありますね。リアルのサッカーでは審判にバレないように足を引っかけたりできますが、ウィニングイレブンではできません。「審判にバレないように足を引っかける」というコマンドが無いからです。
このように、デジタルゲームプラットフォーマーが用意したインターフェイスを経由してしかゲームのプレイが出来ません。そのために最初からルール上適正な行為しか行えないし、ルール上禁止される行為は前もって仕様のレベルで弾かれるという特徴があります。結局のところ、我々の現実世界は物理法則というルールが第一原理である一方、ゲーム世界はプラットフォーマーの提供する仕様が第一原理なんですね。
よって、デジタルゲームアナログゲームに比べてマナー的な意味での行為の許容度が高いと思います。「明らかなバグ利用」など微妙な例はいくつかあるにせよ、デジタルゲーム内で可能な行為=プラットフォーマーが予見できたであろう行為についてはそもそもBMとするのはナンセンスであると考えます。

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ルールを守って楽しくデュエル!

20/2/23 『異種族レビュアーズ』をポリコレで賛否決めるより他にやることあるだろ

・『異種族レビュアーズ』から見る天原の慧眼

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今期は『異種族レビュアーズ』のクリムくんが可愛い。
俺には異種族萌えがないのでエロシーンは別にあってもなくてもいいというか、正直クリムくん以外は別にあってもなくてもいいのだが、クリムくんがいるので毎週見ている。

そんなクリムくんが可愛い『異種族レビュアーズ』だが、時節柄(?)ポリコレ的な文脈に乗せられることも多い。ちょっとTwitterを検索したりニコニコのコメントを見たりするだけでも、「ミソジニーが酷く見るに堪えない」「多様性を肯定する道徳的なアニメだ」などの賛否両論が入り乱れている。
しかし、俺は「ポリコレで賛か否か」という二者択一でこのアニメを語ることに大した意味があるとは思わない。賛否を同時に内蔵していることにこそ、天原の慧眼があるからだ。まず全体としてポリティカルにコレクトかインコレクトかを決定するのではなく、その二つが共存していることを認めたい。そしてその所在を整理した上で、それにどのような意義があるのか考えるという手続きで『異種族レビュアーズ』(と作者の天原)を評価しようという話をする。

補足238:念のために言っておくが、「ポリコレで賛否を決定することをやめよう」というのは「アニメを政治的な文脈で語ること自体をやめよう(アニメは頭を空にして楽しむものだから!)」という意味では全くない。そういう反政治的スタンスと一緒くたにされることを俺は最も警戒している。

まずインコレクトな側面の話から入ると、女性に対する扱いがそれであり、『異種族レビュアーズ』にはホモソーシャルミソジニーが通底していると断言してよいと思う。

anond.hatelabo.jp

このはてな匿名エントリは少し言葉が強すぎるが、内容には全面的に同意する。

攻撃的な文章を少し要約すれば、要するに「異種族レビュアーズは最初の最初からジェンダーバイアスがバリバリに出ている、政治的には全く不適切なアニメだった」ということだ。
第三話でようやくわかりやすい描写が出てきたからといってそこで初めて告発文を書くのはサッカーで後半がスタートしてからようやく「このゲームは手が使えないんだ」とコメントするようなものだ。「お前は前半に何を見ていたんだよ」「流石に鈍すぎるだろ」と返答されても仕方ない。
ニコニコで見ていると、メイドリーちゃんにセクハラをするシーンで流れてくる「ここだけはちょっと」「それはあかんやろ」というようなコメントにも同じことを思う。OPで男同士が「同じ店行ったなら種族超えた仲間さ~♪」などと歌っているアニメで、わかりやすくセクハラをするシーンに来てようやく女性が性的に消費されていることに違和感を持つというのは何テンポか遅れている。

withktsy.com

このレビューもよく書かれていて、この内容にも全面的に同意する。クリムくんを中心とするホモフォビアを代表に、もはや露悪的と言ってよいレベルでホモソーシャルの絆とそれに伴うミソジニーが描かれている。

しかし、女性蔑視が通底する一方、「多様性を肯定する道徳的なアニメだ」という感想が一定数流通しているのも事実である。俺はそれにも同意する。
これはダブスタではなく、評価している対象が違うのだ。「男-女」という分類で定まる男女構造に目を向ければインコレクトだが、「人間-エルフ-オーク-サキュバス-……」という分類で定まる異種族構造に目を向ければ、「差異に対して寛容な認め合いの風土がある」としてコレクトと言える。どんな種族にも性的嗜好の多様性に基づいて生まれたままの素養を肯定される余地があり、種族的な差別を被らない様子が描かれていることは確かに認めて良いと思う。

補足239:ただし、「異種族間の認め合いは男女の性的な交わりの中で男性が女性に対して承認を与えるという構図でなされている以上、結局のところ男性優位なバイアスの再生産に寄与するものでしかないのではないか」という反論は有力だ。そういう構図は頻出するし、特にそれが最もよく描かれたのは単眼娘回である。しかし、そうでない回も多くあるし、女性の側が自分の素養を活かして自ら性的な交わりに参入していると解釈できる回もある(サラマンダー回など)。結局それは人によるとしか言えない。この手の「女性が客体として承認されることでホモソーシャルに組み込まれているのか、それとも主体として自ら能動的に行動しているのか」という議論には決定打がなく、イエスともノーとも言い難いことが多い。どちらにも取り得るということだけ意識しておけばよいのではないだろうか。

以上の二側面を踏まえて俺が言いたいのは、『異種族レビュアーズ』において、「政治的に公正か否か」は男女に対するものと異種族に対するものが全く反対方向を向いているということだ。具体的に言えば、男女に対してはインコレクトな一方で、異種族に対してはコレクトである。
ネット上での議論の噛み合わなさもこのあたりに起因しているものが多いように感じる。フェミニズム的な感覚を持つ側がクリムに対するホモフォビアを挙げて「ホモソーシャルで抑圧的な描写が酷い」と言えば、異種族に注目する側が「様々な種族の間に認め合いがある」などと反論することになる。その二つは両立するものであって、「『異種族レビュアーズ』は全体的に見ればポリティカルにインコレクトだ」とか、「いやいや、総合的に考えればコレクトだ」とかいう議論をすることにはあまり意味があるとは思われない。
その二つが共存していることを認めるべきだし、そこに天原の慧眼がある。

補足240:「フェミニズム的な感覚を持つ人」という語を選択したのは、ネット界隈で「フェミニスト」という語に原義から離れた余計なコノテーションが乗るようになってしまった(そういう意味で使っていると思われたくない)からだが、もう一つ別の理由として、「理論的にフェミニズムを理解しているか」と「実践的にフェミニストかどうか」は別のこととして分けた方が良いと思うようになったからというのもある。

補足241:俺は今このアニメが女性蔑視を大いに含んでいることを認めたが、その善悪はひとまず問題にしない。しかし、それは「女性差別的なアニメでも面白かったり新規性があったりすればよいのだ」と主張することを意味しない。単にその論点を一旦脇に置いて言及しないということだ。例えば我々は新しい品種のバナナを見ると「結局そのバナナは美味いのか不味いのか」ということばかり気になってしまうが、そう聞いた相手が植物の系統樹について研究している生物学者だった場合、彼は「いま我々は味を問題にしていない」と答えるかもしれない。それと同じで、俺は今アニメ内における性差別的な表象について取り上げたが、「結局それは善いのか悪いのか」という質問に対しては、「いま俺は善悪を問題にしていない」と答える。

この食い違いを踏まえると、天原の慧眼は「異種族というフィクション特有の存在をそのまま描くことを認め、その多様性を現実にある人種や男女関係の表象として解釈しなくてもよい」と指摘した部分にある。天原はフィクションをフィクションとして語る嗅覚を持っているということだ。

これに関しては、ポリコレ熱が高まる昨今、洋画では既にスペースオペラにポリコレが侵食して久しいという背景がある。
例えば『スター・ウォーズ』において、様々な宇宙人が跋扈する多様性は女性や黒人の解放運動と結び付き、エピソード7以降では女性キャラクターや黒人が活躍するようになった。MCUでも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』で当初は様々な人外が居住する空間として提示された宇宙空間は『キャプテン・マーベル』でフェミニズムのモチーフと結び付き、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の最終局面では女性キャラクターが徒党を組むシークエンスが挿入された。これらの作品では宇宙人的多様性がジェンダー的人種的多様性にそのまま結び付いているということだ。

(補足241で述べたように)それが善いか悪いかはいま問題にしないし、そういうことは他でもよく行われている。つまり、フィクション特有の産物を現実にある何かに結び付けて解釈するのは、異種族やマイノリティに限ったことでもない。
例えば、ゼロ年代以降に注目を浴びた「パラレルワールド」という描写をどう見るかについて一家言持っているオタクは少なくないだろう。それは我々が生きえた可能世界なのだとか、加害者と被害者の関係なのだとか、様相に対する見解の相違なのだとか、色々な解釈を持ち出してパラレルワールドを扱う作品を分析することはできる(俺もよくやる)。
しかし言うまでもないことだが、パラレルワールドは端的に存在しない(と考えるのが常識的な見解だろう)。よって、今言ったような分析も「現実には存在しないものを現実にあるものに読み替えて解釈する」営みの一種である。そういう解釈のパターンの一つとして、「異種族的多様性」なるものは「人種的ジェンダー的多様性」に読み替えられることが多かったし、恐らくこれからも多くなるだろう。

そう考えたとき初めて、『異種族レビュアーズ』において「ファンタジー種族的多様性に対しては寛容」「性的多様性に対しては抑圧的」という真逆の見解を描いたことの意義が得られてくる。
扱いがはっきり食い違っている以上、「異種族→女性」という読み替えは『異種族レビュアーズ』の読みにおいては機能しないのだ(にも関わらず、無意識にこの読み替えを行おうとして議論が噛み合わなくなるということは既に述べた通りである)。そういう解釈のやり方は自明ではなく、「フィクションの産物はそれ自体で何にも読み替えずに尊重する余地がある」という指摘に意義を見出すのが最も建設的な天原への評価だと思う。

最後に、「ただ単に異種族風俗というテーマを扱うにあたって作者の女性蔑視が結び付いただけではないか」「ベースにあるのはオタク界では一般的な女性蔑視であり、結果的に食い違いが生じただけの事態に注目するのは過大評価ではないか」という反論にも再反論しておきたい。俺がこの話を『異種族レビュアーズ』論ではなくて天原論にしたい理由もそこにある。

結論から言えば、天原は『貞操逆転世界』というジェンダーバイアスをテーマにした作品群を制作しており、『異種族レビュアーズ』でそれを意識していなかったということはまず考えられない。
貞操逆転世界』は元々は(タイトルから想像できる通りの)「男女の性欲や貞操観念が真逆の、童貞並にがっついた処女がいっぱいいる世界で安い金額で売りやってやりまくる」という内容のエロ同人だったのだが、コミックヴァルキリー版のスピンオフで主人公が男性から女性に変更され、内容が一気に変わった。エロ同人版ではセックスしまくればいいだけだった男性に比べ、女性が主人公になったコミックヴァルキリー版では性的な恩恵はあまり受けない。代わりにジェンダーバイアスの逆転に違和感を持つコメディになっている。

貞操逆転世界』をことさらに持ち上げるつもりはないが(最近はエロ同人版と同じような話になってあまり面白くなくなってきた)、コミックヴァルキリー版を見る限り、天原ジェンダーバイアスに自覚的であり、しかもそれを転倒させるコメディ作品を既に作っているという事実がある。
よって、『異種族レビュアーズ』の女性蔑視をジェンダーバイアスに無自覚な作者が無意識に導入したものだとする見方は誤っている。天原が自覚的に選択した描写として、ギャップに注目した読みをする方が建設的なはずだ。