・お題箱61
119.以前ツイッターで反応していた「<現在>という謎 時間の空間化批判」という本(と関連文章)については読まれましたか?自分もひととおり読んでみたので、既に読んでいて、何かコメント等あればお聞きしたいです。
これですね。
Twitterで反応したときは読むつもりだったんですけど、いわゆる「谷村ノート」を見て読む気が無くなってしまいました。
ただ、谷村ノートの方は非常に面白くて友人と一緒にサイゼリヤで読んだりしたので、それについて少し書こうと思います。
本題に入る前に「そもそも谷村ノートって何?」という話からすると、「<現在>という謎」の著者の一人である物理学者の谷村氏がWeb上に公開した100ページ超の長大な文書のことです。
谷村氏がこの文書の公開に至った経緯は谷村氏のHPで説明されています(谷村ノートの本文もここから閲覧可能です)。
書籍『〈現在〉という謎』は物理学者たちと哲学者たちの紙上討論という形で編まれています。本は無事完成したのですが、哲学者の皆さんに十分に伝えられなかったことと、哲学者の皆さんの見解を理解しきれなかったことを、私は抱えました。そこで、本には書き切れなかったことを、場外編として書き、発表しようと考えました。
つまり、谷村ノートは「<現在>という謎」の補足文書なのですが、本来のテーマである時間論を超えて物理学者と哲学者のスタンスの激突にまで及んでおり、非常に熱の入った筆勢がとても面白いということで書籍よりこちらの方がバズりました(書籍は4200円+税と高価であるのに対して、谷村ノートは無料で読めるというのもあります)。質問者の方がわざわざ「本(と関連文章)」という書き方をしているのも谷村ノートの存在を踏まえているからでしょう。
色々書く前に一つだけ前置きをしておくと、僕は職業学者のことを非常にリスペクトしています(権威主義!)。
話題に出てくる谷村氏にせよ青山氏にせよ森田氏にせよ僕よりも確実に頭の良い人ですから、僕は自分のことを「自分は職業学者よりも賢くて彼らの誤りを指摘できる立ち位置にいる」などとは全く思っておりません。
・心身一元論について
物理学が正しいならば、心身一元論が正しく、心身二元論は間違っている
原子核・電子の物理的状態を同定してもなお「異なった状態」があるとはいかなることだろうか?
谷村氏はこう述べて明確に心身一元論を肯定しています。
これはかなり強烈です。「心身一元論と心身二元論のどちらが正しいか」は哲学界隈では太古の昔より幾度となく争われてきた未解決問題であり、一元論が正しいとあっさり言い切る主張は相対的にかなりラディカルです。
補足235:「心身一元論」とか「心身二元論」とか言うとき、「心」とは痛みや悲しさのような心の状態、「身」とは原子配列や脳内の電気状態のような身体の状態を指します。よって、「心身一元論」とは悲しさが原子配列で説明できるとする立場、「心身二元論」とは悲しさは原子配列だけでは説明できないとする立場です。雑なイメージとしては、「心身一元論」は冷徹な科学者、「心身二元論」はスピリチュアルアドバイザーみたいな感じ。
僕は最初に谷村ノートを読んだときは「まあ言われてみれば確かに心身一元論が正しいかも」と思いました。この主張に限ったことでもないのですが、僕は元々物理系出身なので谷村氏が言っていることもその気持ちもよくわかります。
しかし、哲学畑の友人と話した結果「心身一元論では説明できないことも多くある」「物理学の功績を認めてもなお心身一元論が肯定される理由はない」と反論され、特に以下の二つが腑に落ちました。
一つ目はいわゆる「なぜ私は私なのか」の問題です。
例えば、仮に二人の人体が全く同じ物理状態にあったとします。心身一元論が正しいならばこの二人はあらゆる意味で等価でなければなりません。しかし、もしこの二人が「私」と「私以外の誰か」である場合、「私」の身体は「これは私のものだ」という認識が存在する点で明らかに差別化されており、二人は等価ではありません。
よって、「私という認識」は心身一元論では説明できないものの一つです。
二つ目は立証の問題です。
心身一元論を物理学的に実証するならば、物理状態と心の状態をそれぞれ観測して突き合わせる作業が必要なはずです。しかし、現行の物理学において、痛みや悲しさを距離や質量と同じレベルの精度で数値測定することはできていません。
よって、物理学の手法(数値実験)では心身一元論を肯定できない以上、物理学の功績を認めることと心身一元論を認めることは別のことです。
この二つの反論は完全に正しいと思ったので、僕は「心身一元論と心身二元論はどちらが正しいとも言えない」という無難な立場に鞍替えしました。
個人的には、自分が未だ理系的な唯物論の支配下にあったことがわかってなんか微妙な気持ちになりました。永井均を読んでいるにも関わらず心身一元論に同調するあたり哲学的な意識が低い、本当の意味で哲学の問題を共有していたわけではないことを裏付けるエピソードです。多分「なぜ私は私なのか」は僕にとっては自明としてスルーできる類の問いで、アクチュアルな重みを持っていません(自分が他人であった世界を想定できないし、想定する必要も感じない)。
もっとも、谷村氏も「物理学が正しいならば」という条件付きでしか心身一元論を擁護していませんし、物理学と他の学問ではルールが違うということも再三書かれています。心身一元論は(少なくとも現時点では)厳密な証明が完了している類のものではないということも恐らく認めるでしょう。
しかし、それ故にこの心身一元論擁護は信仰告白以上の意味は特に持たないのではないかと今は思います。
・言語論的転回について
このような言語的な批判や分析は、いくらやっても、そのいいかげんな言葉で指示されている対象についての科学的な知見をもたらしはしない。「明るい未来」という言葉をいくら分析しても、「未来」の電磁気的・光学的性質や「未来」の明るさの有無についての知見は得られないのと同じように、「時間の経過」を言語分析しても、時間の経過の有無についての知見は得られない。真実にかすりもしない。
これもかなり熱いです。言語分析という哲学にありがちな手法に対して根本からの批判を加えています。
多くの箇所で谷村氏が批判する、「言語を分析することは世界を分析することである」という態度は概ね「言語論的転回」のことと言ってよいと思います。非常に乱暴に説明すると、言語論的転回とは「あらゆる問題とは要するに言語の問題なのだ(結局我々は言葉を使ってしか世界にアクセスできないから)」という20世紀に発生した世界探求の方針転換のことです。
もっとも、今でもこれが完全に有効というわけではなく、言語を素朴に崇める態度は疑問視されることも多いです。しかし、その際も別に言語論的転回そのものが否定されたわけではないと僕は認識しています。ポスト構造主義の主流は「言語システムにも欠陥はある」「言語では汲みつくせない領域はある」というような方向に言語を乗り越えていく試みであって、言語そのものを全く無為なものとしてひっくり返す棄却ではないはずです。
言語上での活動自体を疑問視する谷村氏の言語分析批判は、明らかに言語論的転回を否定するものであるように読めます。よって、これは谷村氏が「哲学者たちは(略)現代物理学の根幹を否定するような論説を平気で披露してくれる」と語るのと同じくらい、哲学の根幹を否定するような論説ではあります。
しかし、仮にそうだとして、それに対するアンサーは可能なのかどうかは僕にはよくわかりません。つまり、哲学的伝統ということ以上に、言語を分析することで何かを得るという営みの合理性がわかっていません。すなわち、言語論的転回が起きたあとの世界からその受容の様子を事後的に承認するのではなく、言語論的転回が起きる以前の世界から見てそれを要請する合理性はどこにあったのかについて、なんかいい感じの書籍とかあったら教えてください。
・実証主義の学問とそうでない学問について
物理学者は、決着のつく論争をやりたいのである。できれば実験で決着を着けたい。直接実験が難しければ、間接的な観察証拠を積み上げるか、数学的にぬかりのない論理で証明するかしたい。主義・主張の言い放しはしたくないのである。
哲学が対立する複数の「○○主義」をいつまでも抱えているのは、白黒決着をつける方法論が哲学自体の中にないからだ、と私は見ている。
実証に関する谷村氏の見解には完全に賛同します。
物理学を筆頭とする経験科学は仮説にはっきり白黒決着を付ける方法を持っていて、かつ、それに準拠して研究が進められる一方、哲学を筆頭とする他の学問の多くはそうではないというのは僕も常々感じています。そして恐らくこれは哲学に限ったことでもなく、例えば社会科学における実証主義と非実証主義の対立は以下の本で詳しかったです。
また、前回サイゼミで反出生主義を扱ったとき、参加者のヨグルティがまさにこのギャップについて言及していました。反出生主義について議論する際、その真偽を実証的に定める方向には場が進まなかったということです。
反出生主義の時が一番わかりやすくて、俺は「こんなん前提もアレやし論理もコレやしで、どう見ても間違ってるだろ」とだけ思ってたんだけど、場全体はこの主義がどんな観点から必要とされてるか、これを使ってどんな話ができるかみたいなことを話題にしてて、そもそものスタンスが違ったんだよな
— ヨグルティ (@jugurti_write) 2020年1月2日
個人的には、物理学が現時点で最も正しいと思われる知識を収納する百科事典のようなものだとすれば、哲学や思想は使用可能な道具を収納する道具箱のようなイメージを持っています。
道具には真偽は無く、ただ何に使うかという用途だけがあります。だからその都度適当な道具を恣意的に持ってきて、自分が有益だと思う言説の製作に使えばいいと僕は思っています(それ故、概念の操作は根本的に政治的です)。道具箱の中身を充実させたり、道具の機能や組合せを検証することは、道具箱全体の有用性を増していくことに繋がるので有益な作業です。
そうした作られた言説が説得力を持つかどうかは最終的には多数決みたいなレベルの話になりますが、それに矛盾も問題も特にありません。
・論理の公理系について
谷村ノートの第三章では、森田氏の時間論は論理も日本語も破綻していて訳がわからないということが延々と書かれており、確かに僕が読んでも意味不明でした。
哲学系の書籍に限らず本の記述が意味不明な場合ってだいたい「単に自分の頭が悪い」か「書かれていない前提がある」の2パターンなのですが、一流の物理学者が50回読んでもわからない書籍があるということは、最初のパターンを否定するちょっとした自信になります(そして一流の物理学者が50回読んでもわからない本を門外漢が読む必要はあるのか?)。
ただ、これは正しいかどうかよくわからないのですが、「哲学は論理学の公理系をも検討すべき立場にあるので、各種論理学のルールを自明としていない(その気になればあらゆる既存の推論規則を無視できる)」という節はあるんじゃないのかと疑っています。
つまり、一見すると全く意味不明な演繹が行われていたとしても、それは未知の論理体系を用いているからで、その謎の公理系の理解に努めるのが誠実な態度ではないかと思っている節はあります。具体的に言うと、恐らく僕が森田氏の文章を読んだ場合(読んでないんですが)、表面的に遂行されている推論から背後にある公理系を読み取るという逆向きの読みを試みるため、谷村氏のように推論が破綻しているという結論には至らない可能性が高いです。
この辺の、ある種の哲学は論理体系自体を勝手に立てて良いのだろうかということは僕もよくわかってないです。分析哲学は論理体系を遵守しないといけないのに対して、実存哲学は心から出た考察なら何でも言っていいみたいな印象は何となくありますが。
なお、谷村氏も指摘するように論理自体は唯一無二ではなく様々なものがあるので、論理体系も実証主義でない学問と同じで道具箱に収納するもののようなイメージを僕は持っています。ただ、実証主義でない学問にも実証できる可能性は残っているのとは異なり(哲学理論を実証する実験設定を考えること自体は可能だから)、論理に真偽を定めることは原理的に不可能であるという違いはあります(そもそも真偽を定めるのに使用するのが論理だから)。
・形而上学論
形而上学は、経験・感覚によって調べることができず想像するしかないことがらに関する知識を生産し整理する学問である。形而上学の存在理由は、人間の経験・感覚によって調べられないことがらに関しても知識を得て推論ができるようになりたいというニーズに応えることであった。形而上学は宿命的に、アイデアを乱発し、どうにか理屈をつけてアイデアの優劣を競うが、決着はつかないという構造になった。また、枝葉の問題は想像力をかきたてないので形而上学者には取り上げられず、答えの出せそうにない大問題が形而上学のテーマになりやすい。結果的に、形而上学は「根本的な問題を研究する学問」ぽくなった。というのが私の見立てである。
これいいですね。谷村ノートのサビはここだと思います。
僕も「形而上」っていうワードを今までかなり適当に使ったり読んだりしてきましたが、確かにこの定義はしっくり来ます。谷村ノートを読んでから「形而上」というワードに当たるたびにこの「谷村定義」を参照するとスルッと読めるのでビックリしました。
形而上は空想だと言い切ってしまうことで、むしろフィクションとの親和性の高さが明らかになるように思います。誰かに怒られそうですが、谷村定義に従うならば、形而上学の話って要するにフィクションの設定と言ってしまってもいいんじゃないでしょうか。
現実の話じゃなくて空想の話だからそこで整合が取れててうまい感じのことが言えてれば気持ちいいし面白いし支持されるっていうのは、可能世界論もスタンドバトルも大差ないように思います。今までD4Cは可能世界論をモチーフにした空想だと思っていましたが、そもそもD4Cと可能世界論は同じ立ち位置のレベルにある言説なのかもしれません。
逆に、非常にナンセンスだなとよく思うのは、可能世界を用いて何事かを説得しようとするタイプの言説です。具体的に言うと、「必然的であるということは全ての可能世界で妥当するということなので~」から始まるような論証は好意的な聴衆に頷いてもらうのが精々で、反対者を説得して折伏するようなものにはなり得ません(フィクションだから!)。ただ、説得としては無意味でも説明としては有意義ですし(面白いから)、この手の「説得」と「説明」の切り分けが必要だということはTwitterでの不毛なリプライ合戦を見ていてもよく思うことではあります。