LWのサイゼリヤ

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18/9/7 不在の百合と構造主義

・百合と構造主義

-本質主義から関係主義へ

タイムラインに流れてきた百合小説家のインタビュー→を読んだ。
こういう、ある特定のボキャブラリーを備えた百合好きコミュニティのことは俺は昔からよくわからないと思っていて、あえて単語の定義や造語に拘泥することで集団のアイデンティティを維持する排他的なコミュニティの一種だと思っていたが、彼らが言っていることが少しわかったような気もする。

補足153:個人的には百合を消極的なルッキズムとして消費していることを否定する気はない。

要するに、キャラクターの想像力が本質主義から関係主義へと移行しているのかもしれない。
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例えば、この相関図には5人のキャラクターが記されているが、名前や年齢は省略されており、直接含まれるキャラクターの情報は見た目くらいしかない。その代わりに全組み合わせでのコメントが表記されており、ピンクと青の名前はわからないにせよ、ピンクと青の仲が良いことだけはわかるようになっている。キャラクターを構成する情報のうち、キャラ単独のものではなくキャラ同士の関係のものにウェイトが置かれているわけだ。
このアニメは20年近く前のものだが、このウェイトの変化を現在起こっているキャラクターの想像力の転回として捉えられる。つまり、キャラクターはそれ自身が単独で持つ属性だのステータスで定義されるのではなく、他のキャラクターとの差異や関係の中で意味を持つものとして扱われるようになったということ。

こうした本質主義から関係主義へという転回は、20世紀に構造主義の発展によって行われた思想の転回をそのままなぞっている。あまり深く掘り下げる気はないが、とりあえずは「天体の論理」と「星座の論理」を比較するのがわかりやすいだろう。
天体を扱う物理学者にとって、最も重要な情報は星そのものである。星がどういう軌跡を描いているのか、どういう物質で構成されているのか、出来てから何年かということに最も興味があるわけだ。
その一方、星座を見る羊飼いにとって、星そのものの情報はそれほど重要ではない。特定の星が特定の星座を構成していることだけが問題なのであり、その星が他の星から見て適切な位置にあるならば、大きさや明るさが多少変動したところで気付きもしないだろう。
ベテルギウスは物理学者にとっては0.034 - 0.047″の視直径を持つ恒星だが、羊飼いにとってはオリオン座の左上にある限りにおいてその構成要素でしかない。
このイメージを図式として描けば、以下のようになる。
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左が物理学者が見る天体の論理、右が羊飼いが見る星座の論理である。星自体を本質と捉えるか、星の関係を注視するかによって本質主義か関係主義が分かれてくる。これをそのままキャラクターに適用すれば、左がプロフィールの論理、右が相関図の論理となる。キャラクター自体を本質と捉えるか、キャラクター関係を注視するかが分かれるわけだ。

右図ではもはやキャラクターは結節ノード程度の役割しか果たしていない。具体的なキャラクターは省略され、誰と誰を繋いでいるのかもわからない抽象的な相対関係だけが宙に浮いて残ることになる。
その状態でもコンテンツは成立している、つまり、今までキャラクターの本質と思われていたそれ自身の情報ではなく、それらを結ぶ関係の情報こそが消費対象であるというのが彼らの世界観と言って大筋で間違ってはいないと思う。こういう構造主義的なキャラクター想像力の暫定的な呼称として「百合」という単語が流用されているように感じる。

-不在の百合

インタビュー内で主張される、不在の百合に対してもこの構図で理解できる。
ノードではなくエッジに力点を置き、関係ネットワークの網目こそをコンテンツの要とすれば、具体物としてノードに何が代入されるのかはさして重要ではないので、更に押し進めて消去してしまっても問題無い。代わりに図像表現ができない抽象的な関係を提示するのは共有ボキャブラリーの利用となる。彼らが引用符や括弧を付けた言葉にやたらと固執するのは、図像ではなく抽象的なネットワークがコンテンツの強度を担保する拠り所だからだろう。

ただ、そんな話をガストでオタクとしていたらそこそこ反論を受けた。
ノードの重みが下がっていることは理解できるが、かといってそれを消去しても良いというのは行きすぎで、何かしらの質点(腐女子が言う床と天井とか)を措定する必要はあるんじゃないか、有ると無いとの間の溝は大きいんじゃないかというあたりが実感にそぐわないようだ。
とはいえ、これへの再反論はそれほど難しくない。というのは、現実の思想史でも構造主義は既に批判的継承が行われて下火となり、現在では関係を構成する主体の確かな存在自体が疑問視されるようになっているからだ。キャラクターの想像力として言えば、キャラクターの現前自体が不可能であるとして不在の百合を肯定する方向に進んでいると言えなくもない。

たくさんの議論があるが、キャラクターの想像力に流用できそうなものをいくつか挙げよう。

まず、関係ネットワークは流動的でほとんど固定できないということが挙げられる。
つまり、実際のキャラクターとキャラクターの間の関係を記述し尽くすことはほとんど不可能だろうということだ。関係は二次創作や感想によってどんどん増えていくし、人によって立場が異なることも珍しくない。関係主義的にキャラクターを定義するのであれば、関係が無限に変遷していく開いた系である以上は、それはただちにキャラクターの定義の不定性を導くことになる。であれば、無理に不安定なキャラクターの定義を与えるよりは、それが展開する場だけを与える方がむしろ穏当ということにもなってくる。

他にも、厳格に関係主義の立場を取る場合、結局は関係そのものが無限退行するのではないかという疑問も浮かぶ。本質的なものは存在せず差異だけが存在するのであれば、関係ネットワークもそれから逃れられる理由は無い。つまり、関係ネットワーク自体を差異によって担保するメタ関係ネットワークが必要なはずで、それはただちにメタメタ関係ネットワークを示唆し……ということになり、結局固定点まではたどり着けない。
まあ、これは多少理が勝ちすぎているというか、キャラクターの想像力の議論に流用しようとすると関係ネットワーク自体を擬人化するところまでは行っていないので多少説得力は翳ってくる。むしろアナロジー自体を諦めて、百合の関係を表現する際に使う言葉の不安定さについて考える方が建設的な気もしてくる。実際、インタビューを見ても彼らが造語やニュアンスを明確に定義することは一度もない。概念に言及する際にそれ自体で完結した言葉を扱うことができずパフォーマンスや引用符に頼らざるを得ないカルチャーがあるが、インタビューを受けているのが立派な作家であることを考えるとこれはかなり尋常でない事態である。

俺自身は別にこの手の百合に対して深くコミットしているわけではないので、可能性を提示する以上の実感的な説明はちょっと難しい(普通に萌えキャラいた方がよくない?)。

-新しい想像力の背景

こうした新しいキャラクターの想像力が導かれる背景については、まず真っ先に女オタク文化が挙がってくる。「男は所有、女は連帯」というガバガバなジェンダー論から導かれる「男オタクは萌え、女オタクは関係」という適当な主張は、しかし一定の説得力を持ってオタク黎明期から支持されてきた。女性のBL文化を源泉とする想像力の形態が同性愛ジャンルを通じて流入してきたことは多分間違いない。

しかし構造主義がそうであるように、関係主義的な立場が相対的に本質主義の軽視・疑問視をもたらすことからも、ある程度は合理性が理解できる。
コンテンツの飽和によってキャラクターのデザイン空間が使い果たされつつあり(特に単体で恐ろしいキャラ数を内包するソシャゲ)、せいぜい属性組み合わせ数の爆発に希望を見出すくらいしかない昨今、そこを見限って次の空間に向かおうとすることには一定の説得力がある。実際、ガルパのキャラクターは見た目として別に新しいところがあるとは思えない。関係の種類は有限だが、コンテンツ内での関係の配置(関係の関係)まで考慮すればかなりの延命になるはずだ。

-キャラクター自律論との整合

最後に、物語を脱して世界の乗り越えを行うような高い強度を持つキャラクターが蔓延している現状に対して、関係によって初めて存在を担保される強度の低いキャラクターが存在することは矛盾しているのではないか?という有り得そうな反論に対して前もって再反論して終わろうと思う。

結論としては想像力は並存しているのだが、それはコンテンツの分離・二極化を意味するわけではない。世界の乗り越えに対して、本質主義と関係主義のいずれの想像力も納得可能な落としどころを見つけることはできる。
キャラクター単独の強度を信奉する本質主義者にとっては世界の乗り越えはむしろ自然で特に問題が無いと思われるので、関係主義者についてだけ補足しよう。
確かに、あるひとつの世界で構成されるネットワークを盾に存在を主張していたキャラクターが、その中での関係を切断して世界を移行するというのであれば、それは自殺行為である。しかし、関係を切断せず保持したままでの世界の推移が行えると考えれば、むしろネットワークの強化に繋がる。同世界内での水平的ネットワークに加え、異世界での垂直的ネットワークを加えた二次元ネットワークを結べるからだ。これを行うためには、世界間の往復可能性を潜在的にであれ持っておくことが必要になってくる。基本的には世界を移動するのが同一個体であることを要求するわけだ。これは本質主義者が世界と同時にプロットも切断し、別個体のバリエーションを支持する傾向にあることを鑑みれば、逆の方向性と言える。
結論として、本質主義者は別個体寄り、関係主義者は同一個体寄りの貫世界同定を行うことで世界間移動という現状にも対応できるということでとりあえずの説明は成り立つと思う。