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20/12/31 ゲートルーラーは「本物」かもしれない

Let's ゲートルーラー

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先日、元カードゲーマーたちで集まる機会があったので、つい先週正式に発売されたゲートルーラーのスターターデッキを購入してプレイした。
現在ローンチ時点ではスターターデッキには上級者向けの「魔竜召喚」と初心者向けの「妖怪&巨大ロボ」の2種類あり、とりあえず1つずつ買って戦わせることにした。

ゲーム開始まで

ルールわからない問題

まずスターターデッキを空けて驚くのは、デッキ以外のアイテムが何も入っていないことだ。
他のカードゲームであればルールブックやフィールドシートが入っているところ、ゲートルーラーでは代わりにQRコードを読んでアクセスしたHPでルールを把握するらしい。「さあカードで遊ぼう」と思った瞬間に皆が自分のスマホを見始める時間が発生していきなりテンポが削がれるものの、いまどきHPに載っている情報をわざわざ刷る必要はないという判断は理解できる。家庭用ゲームソフトだって紙の説明書は付けないのがデファクトスタンダードだ。

youtu.be

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公式HPで閲覧できる動画はこんな感じ。
フィールドシートが入っていない割にやたら複雑なカード配置にビビるが(その動画で使ってるシート入れといてくれよ)、池っち店長の説明自体はわかりやすい。とりあえずこの動画を見て、公式HPのルールページから「遊び方」を読めばゲームは始められそうだ。

gateruler.jp

だが、一戦も終わらないうちに「ルールわからない問題」が発生する。それも多発する。ルール不明点は例えば以下の通り(ちなみにこれらは最後まで解決しなかった)。

  • 守備ゾーンのユニットに縦置きの位相はあるのか
  • 守備ゾーンから攻撃ゾーンに移動する際にユニットはアクトするのか(そのターン殴れるのか)
  • ドライブした際に場が埋まっていて使いきれないカードはどうすればよいのか(場の既存カードを廃棄していいのか、単に墓地にいくのか、デッキの上に留まるのか)
  • 警戒を持つカードを自身の効果で移動させる際に守備カードと入れ替えてよいのか
  • 不要なユニットを墓地に送ることはできるのか
  • 不要なセットカードを墓地に送ることはできるのか
  • イベントのコストはいつ支払うのか
  • ウルガードしたカードが破壊を置換するとき累積ダメージはどうなるのか
  • 宇宙怪人リクルーターで一時的にコントロールを得るときに場の空きは必要か(場の空きがないときもコントロールを交換していいのか)

俺もカードゲーム歴は長いので、カードゲームのルールが複雑になりがちなことはよく理解している。恐らく「遊び方」に書いてあるのは本当に基本中の基本だけで、更なるルールについては詳しく説明した補足文書なりFAQなりが存在することは予想がつく(とはいえ毎ゲーム生じるような疑問は「遊び方」に記載しておいてほしかったが)。

実際、ルールページには以下の3種類の説明が存在している。

①遊び方:とりあえずプレイするための主要ルールやゲームの流れ
②ルーラールール:ルーラーという特殊なカードに関する個別ルール
③総合ルール:詳細なルールを全てまとめている

この中で最も詳しいのは「総合ルール」であり、上に列挙したような疑問点に関してはそちらを調べて解決すると良さそうだ。
だが、総合ルールはほとんど文字だけで40ページ以上に及ぶ契約書のようなpdf文書であり、1ゲームも完了していない状態で見てもどこに求める情報があるのか全くわからない(ちなみに総合ルールの表示は環境によって異なるようだ。スマホではpdfファイルだが、PCではHP上に埋め込まれていてもう少し見やすい)。
それに加えて、総合ルールは高度に体系化されているために拾い読みを許さない。最初から読み進めて全ての専門用語の定義を把握して初めて意味を成すものであり、集まって遊んでいる最中にそのコストを払うのはとても現実的ではない。

結局「総合ルール」に載っていないルールはそんなに重要ではないのだろうと判断してとりあえず暫定ルールを決めて遊ぶことになるのだが、そうして無視したルールが割とクリティカルに勝敗を左右することがすぐにわかり始める。
「もしこのルールが正しければ俺の勝ちだけど、違ったら負けだね」というようなゲームになってきて、正しい勝敗がわからない。本来ゲームとは勝ちを目ざして争う営みのはずで、そもそも正しい勝敗がわからないストレスはなかなかのものだ。

テキストわからない問題

また、とりあえず暫定ルールを決めても「テキストわからない問題」が立ち塞がる。
テキストに書いてあるキーワード能力が複雑とか難しいというレベルではなく、説明のない初見の専門用語が多用されるので、藤井聡太でも理解できない。例えば「魅入られし異才 ヨハン」の効果テキストは以下の通り。

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深淵召喚 通常:これを墓地に置く。そうしたら君の墓地からアビスシンフォニアを持つユニットを1体、その条件を満たすことで特殊召喚してもよい。

太字部が「遊び方」には記載のない用語であり、初見で意味不明の用語が立て続けに3つ登場する。「アビスシンフォニア」が何なのかわからないので「その条件」とやらがどこに表記されているのかもわからない。
軽くルールを調べる用途では「総合ルール」は役に立たないことが既にわかっているので、公式HPの情報提供は諦めてGoogleTwitterやnoteでキーワード能力を調べることになる。皆でしばらくスマホと睨めっこして、プレリリースや体験会からのプレイヤーが残してくれた説明を発見し、要するに「深淵召喚」とはリアニメイト能力のことで、「アビスシンフォニア」が蘇生可能なカードだということがわかった。
だが、公式HPの説明ではないので詳細に関しては不明点が多く、更なるルールの疑問が積み重なっていく一方だ(これらも最後まで解決しなかった)。

  • アビスシンフォニアの条件として深淵召喚で墓地に送ったカードを選べるのか
  • アビスシンフォニアの条件が闇5枚の場合に、墓地に闇4枚の状況で深淵召喚を持つ闇であるカードを墓地に送って深淵召喚できるか
  • 荒塵王が深淵召喚されたときの1回復で取り除くダメージカードは自由に選べるのか
  • 荒塵王が深淵召喚されたときの1回復で取り除くダメージカードはデッキに戻すのか墓地に置くのか使用不可能なカードとして除外するのか

キーワード能力の説明不足により、もはやカードに書いてあるテキスト全体への信頼が失われていた。スターターデッキに入っているカードのキーワード能力すらほとんど説明しないのならば、他にも「ルール上重大な含意のある専門用語」が注釈無しで使用されている可能性が拭えないからだ。もうテキストを読んでも無駄というか、最大でも80%くらいの正確さでしかテキストを解釈できない。

このあたりでゲートルーラーというゲームを正確に遊ぶことを諦め、「とりあえず今ゲームっぽく楽しく遊べればそれでいい」というスタンスに変わった。
それはそれで遊びとしては楽しいというか、小学校に通っていた頃を思い出す遊び方ではある。小学生の時分は正確な遊戯王のルールが誰もわからないために表側守備表示で「ルイーズ」を召喚したり、「スケープ・ゴート」を「魔法除去」で無効にしたりしていたものだ。
「あの頃のように、仲間たちと遊ぶカードゲーム」というキャッチコピーはそういうことなのかもしれないという説もある。

デザインが視認しにくい問題

ここまで妥協に妥協を重ねてルールとキーワード能力を何とか片付けたはいいが、今度はなんだかイマイチゲーム自体が進行しづらいというか、やっていることは単純なのにいちいち細かい確認が挟まってゲームが小気味よく進まないことに気付く。
このテンポの悪さはどこから来るのかと考えたとき、カードデザインが見づらいのでいちいち情報把握に時間がかかるという問題、「デザインが視認しにくい問題」に思い至る。その場で出た意見は以下の通り。

  • ルーラーが上からHP・ATK・STKの順で表記してあるのに対し、ユニットはATK・HP・STKの順であり、戦闘によって用いる数値が違うのでどれを使うべきかわかりにくい
  • アビスシンフォニアでよく参照する「闇」という属性(?)の表記が右上に非常に小さく書いてあるだけでわかりにくい
  • CNT表記が小さい上にユニットとイベントで書いてある場所が異なるため確認しにくい(カードを捲ったときにそれがCNTかどうかの確認にいちいち時間がかかるせいで「CNT引いた!」という盛り上がりが殺される)
  • 効果テキストとフレーバーテキストが同じ色で小さく並べて書いてある上に効果テキストがフレーバー(技名)から始まるので効果とフレーバーを区別しにくい
  • ダメージ量がカードの束で表示されるので終盤に10枚くらいあるといちいち数えるのが面倒くさい
  • イベントカードが横向き印刷のせいでテキストを読むためにカードを横に持つ必要があるしイベントを引いたことがバレる

カード情報が完全に頭に入るまでプレイすれば慣れるのかもしれないが、一日プレイしたくらいではまだカードの内容を確認する必要があり、このあたりの視認の鬱陶しさから逃れることはできなかった。

ゲーム内容

「ルール」「キーワード能力」「カード情報」を必死に処理してようやく肝心のゲームプレイに辿り着く。しかしこれだけ準備した割には別にそれほど面白くない。

まずシンプルに駆け引き要素があまりなく、「上手くやっている感」が得られないためにプレイに伴う快感がほとんどない。基本的にデッキの上にあるカードを毎ターン全部バラ撒いて使っていくだけなので、ちょっと複雑なくじ引きをしているような感覚だった。

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一応注意しておくが、別に運ゲールーラーこと「アプレンティス」のことだけを指してそう言っているわけではない。「手札がなくトップで引いたカードをコストを踏み倒して使用する」というルールでゲームを行うことが非プレイヤーにまで悪目立ちしているが、もう一体のルーラー「ナイト」もやることは大差がない。
「ナイト」も基本的にカードを手札に温存する余裕がなく、ドローで引いたカードをとりあえず全部使い切って手札0枚になりがちだ。マナを使う割には、マナを増やす手段がない上に召喚権も限られているというちぐはぐな設計によって、手札を温存したところで使う機会があまりないからだ。

また、プレイしていて面白くないだけでなく、ユニット戦闘やダメージ計算のような他のシステムもどこかで見たようなルールばかりで、「これは新しい」と思うものは特になかった。実績のあるシステムが多いためプレイに違和感はないものの、ゲートルーラー以外のTCGでも同じようなゲームが出来るのに、ルールもよくわからないゲートルーラーでやる必要は特にないと感じてしまう。「デッキによって基本ルールが異なる状態で対戦する」という試みもアンリミテッドヴァーサスがもう既にやっているので、ゲートルーラーが初というわけでもない。
ちなみに発売前PVでは遊戯王とDMに言及していたが、ルーラーの扱いやダメージシステムはヴァイスシュヴァルツ、カオスTCGヴァンガード等のブシロード系列のカードゲームに近い。

補足369:コメントで「ゲートルーラーに先んじて異種格闘ルールを実装していたらしい『アンリミテッドヴァーサス(UVS)』って何やねん」という尤もな疑問を受けたのでここで補足する(UVSは大して流行らなかった上にサ終も早かったので調べてもほとんど情報が出てこない)。UVSはゲームを中心としたキャラクターコンテンツを一堂に会して戦わせるコラボ版権TCGで、『閃乱カグラ』『ブレイブルー』『ネプテューヌ』あたりの作品が参戦していた。「ヴァイス」等と違ってUVSが独特だったのは、作品ごとにゲームシステムが異なっていた点だ。具体的に言えば、『閃乱カグラ』のカードと『ネプテューヌ』のカードではシステム自体が異なるためそれぞれのカードを混ぜたデッキを作ることは出来ないのだが、『閃乱カグラ』デッキと『ネプテューヌ』デッキで相互に対戦はできるという仕様だった。ただし、この仕様は「版権タイトルごとの独自性を表現する」というトップダウンの要請から来ているものであって、ゲームメカニクスから作られたシステムではなく、はっきり言ってしまえば別にカードゲームとして面白いものではなかった。実際、「異種格闘が一応成り立たないこともない」程度の評価が実情であり、カード種類数が多い『閃乱カグラ』だけが他のタイトルよりも圧倒的に強く、大会は使用可能タイトルを一つに絞って開催することも多かったと記憶している。よってシステム的な完成度で言えばゲートルーラーのルーラーシステムには大きく劣っており、歴史的事実として「一応UVSというカードゲームもあった」という記録を提示するに留まる。

ゲームプレイを終えて

「ルールはよくわからないし特に面白くも新しくもない」というのがスターターデッキを購入して遊んだ上での素朴な感想ではある。

もしこれが素人が適当に作った同人カードゲームならここでこの記事を終えるのだが、ゲートルーラーに関してはまだ投稿ボタンを押さずにしばらく考え直す程度には侮らない理由があり、それは池っち店長への信頼である。

アンチ云々のくだらない論争に巻き込まれるのはダルいのでここではっきり言っておくが、俺は少なくともゲームクリエイターとしての池っち店長のことは高く評価しているし、さしあたりゲーム内容を評価する局面では池っち店長の存在はプラス方面にしか影響しない。
カードゲーム産業の第一線で販売から制作まで手広くこなしてきた彼のカードゲーム知識は本物だろうし、単に池っち店長がヴァイスシュヴァルツを知らなくてヴァイスシュヴァルツみたいなものを作ってしまったということは有り得ないと思っている。俺はそこまで池っち店長を甘く見ていないし、僅かな評価点からゲートルーラーが持つ真のポテンシャルを発見しようと試みるのも吝かではない。

スターターデッキがつまらないのでは?

遊んだ中で唯一出てきたポジティブな声として、「ルーラーを変えればもっと色々できそうな気配はある」「ルーラー次第ではもっと面白くなるかも」という拡張性を評価する意見があった。
確かに、ルーラーに関する自由度と拡張性には特筆すべきものがある。ルーラーによって指定される可変の要素はデッキ構築ルールからターン中の行動に至るまで極めて多岐に渡り、デザイン空間は他に類を見ないほど広い。

そして、この「デザイン空間の広さ」という明確な強みは当然ながらスターターデッキでは全く活かされていない。スターターデッキで使用できるカードはルーラーを含めて完全に固定されており、そこにある以上のカードデザインが目に入る機会が一切ないからだ。逆に言えば、スターターデッキに形だけでも拡張用パックを3つほど付けておいて、それしか買っていないユーザーでもデッキを組み換える余地があるようにしておけば、プレイ体験もだいぶ違ったものになっていたように思う。

総じて、ゲートルーラーがつまらないというよりスターターデッキがつまらなかっただけという可能性はある。スターターデッキを買って遊んだ感想が最悪だったのは、ゲートルーラーの強みとスターターデッキという商法が破滅的に噛み合っていないからなのかもしれない。

ルーラーのデザイン空間

実際、ここまで批難してきた数々の不満点についても、主にルーラーによって担保されるデザイン空間の広さに注目すれば、一貫したコンセプトの表現として納得できる点は多い。

gateruler.jp

例えばルーラールールの詳細ページを見れば、「攻撃ゾーン」「守備ゾーン」「セットゾーン」の数字まで指定されていることがわかる。それらはスターターデッキのルーラーではたまたま一致していたが、本当は攻撃用や守備用として使えるユニットの数も変動する対象なのだ。カードの配置を指定するゲームフィールドもこれから出てくるルーラー次第では変わりうるということになる。
それならスターターデッキにフィールドシートを入れなかったことにも納得がいく。フィールドが固定されたものではなくルーラールールで変動する以上、フィールドシートを入れても別の配置を使うルーラーでは使えないことになってしまうからだ。それだけではなく、最大限好意的に見れば「ゲートルーラーのコンセプトにそぐわないが故に封入を避けた」という一貫した思想が背景に伺える。

フィールドシートを封入しない背景に「システムを確定させないことで拡張のためのマージンを取っておきたかった」という事情があり、それが初見でのわかりにくさに繋がっているとすれば、こうしたトレードオフはルール解説にも見出せる。つまり、ルールがわかりにくい理由として、(もちろん説明や導線が不親切なことは前提としても)確定したルールは最低限にしておきたいという都合もあっただろう。
まずゲートルーラーのルールには、ルーラーによって不変の「共通ルール」と、ルーラーによって可変の「ルーラールール」の二つがある。このうち、構築による拡張性を確保するために有効なのは後者だけだ。よって、「拡張性が高い」というゲートルーラーの強みを活かすのであれば、「ルーラールール」の裁量を大きく取り、その分だけ「共通ルール」の裁量を小さくしておく必要がある。一般的なルール説明である「遊び方」に記述できるのは相対的に貧弱な「共通ルール」だけなので、初見のプレイヤーにはゲームのプレイが難しくなるという構図がある。
よって、「遊び方」にルールの一部しか記載しない不明瞭さについても、単なる不親切ではなく思想的一貫性の表現という解釈も不可能ではない。これから変動する可能性のあるルールを基本ルールとして提示してしまうことは、「ルールの拡張性」というゲートルーラー最大の強みを誤認させることになるからだ。

更にルーラーごとに設定された「デッキ構築ルール」も、一見したときの窮屈な印象とは裏腹に、構築戦でのデザイン空間の広さを活かす工夫として理解できる。
「デッキ構築ルール」とはルーラーごとにかけられたデッキ構築の制約であり、使用可能クラスからデッキ枚数に至るまで複数の条件に合わせてデッキを組む必要がある。「制約に違反がないかのチェックが面倒でトラブルも起きそうだしもっと自由に構築したいなあ」というのが素朴な第一印象であったが、この制約によってデッキ構築の幅が飛躍的に広がることは疑えない。

「自由度が低いほど構築の幅が広がる」というロジックは一見すると矛盾しているようだが、「制約条件が増えることによって最適解が見えにくくなる」と言い換えれば伝わるだろうか。
一般的に言って、カードゲームで強い構築は複数の条件を満たしている必要がある。具体的に言えば「強いカードが入っている」「強いコンボがある」「マナカーブが整っている」「環境上の立ち位置が良い」などがそれだ。これらは同時に満たせることもあるが、基本的にはトレードオフである。例えばコンボで強いカードは単体では弱いし、環境的に強い尖ったカードは汎用性が低い。やや大雑把なイメージではあるが、こうした条件への適合度を足し合わせた総合評価をMAXにしたデッキがその時点で最も強いデッキと言っても良い。
ゲートルーラーの場合、ここにルーラールールによって強制的な制約条件が更にいくつも追加される。「デッキレベル上限」「CNT上限」「所属クラス数」等、構築を大きく縛るものが多い上に、これからいくらでも追加できるだろう。こうした制約によって「一つを強く取ると他が弱くなる」というトレードオフの関係が更に増え、複雑度はどんどん増していく。個々のカードやコンボの強さだけではなく無数の制約に鑑みた上で構築を決定する必要があり、一枚のカードを入れ替えるだけでも様々な条件から来る総合評価が変動するため、デッキ構築の可能性はより多様なものになり得る。

こうした「制約の追加によって構築の多様性を確保する」というアプローチは、近年カードゲーム界全体が直面している「環境解明早すぎ問題」に対する一つのアンサーでもあり得るだろう。
というのは、SNSが普及して情報交換が超高速化した結果、ユーザーコミュニティが新弾リリースから1週間かそこらで「構築の最適解」に辿り着いてしまい、それをコピーするのが一番強いので構築を練る余地が無くなってしまうという問題である。いまやデッキ調整とは、せいぜい十数種類のアーキタイプから立ち位置が良さそうなものを選び、完成されている構築のテンプレートから2~3枚の自由枠をチューニングする程度のものに成り下がりつつある。
各種TCGでは構築の固定化を避けるために様々な試みを行っており、MtGでは緩やかにメタカードやカウンター戦略を常備してメタゲームの読みと変遷に競技性を見出したり、遊戯王ではカードテキストやシナジーの難易度を莫大なものに引き上げることで解明速度を遅らせたりするなどの対策が行われている。
以上の問題意識を踏まえるならば、ゲートルーラーのアプローチもルーラールールの調整によって「構築にかかる制約条件の強制追加」という手法でデッキの評価関数を複雑にして環境解明を遅らせる、ないしメタゲームを複雑化させるものとして解釈できる。

なお、こうしてルーラーから与えられる制約条件はカードデザインにもかかってくる。つまり、構築段階でのカード選定だけではなく、各々のカードに記載されている情報に関しても複数の潜在的な条件に対応することで多元化した評価軸が与えられ、カード評価も難解なものになってくる。
その典型例がマナコストで、スターターデッキで遊んでいる最中にはマナコストがどういう基準で設定されているのかよくわからなかった。マナコストの支払いに困ることはほとんどない割には0コストのカードが普通に強かったりもして、一般的なカードゲーム感覚で言うと適当に付けたとしか思えないような意味不明なコスト設定が頻出していた。
だが、それもルーラールールによって構築条件として参照されることを想定しているならば理解できる。つまり、ゲートルーラーのマナコストには「ゲーム中の支払いコスト」と「デッキ構築にかかる条件付与」という最低でも二つの重要な役割がある。こうして各種情報は基本的なものですら多元的にデザイン・評価されることになってくる。その際に用いられる評価軸はルーラールールの数だけ有り得るため、新規ルーラーの登場によって事後的にも大きく変動していくことになるだろう。

構築とプレイの分離

ここまで見てきたように、ゲートルーラーには「複雑さに起因する面白さを構築戦に全振りする」という思想があるならば、プレイが簡単すぎてイマイチ面白くなかったことに関しても一貫した正当化が可能になる。

「環境解明早すぎ問題」の続きに話を戻せば、ゲートルーラーの「構築条件を難しくして構築難易度を上げる」というアプローチは、一見すると「カードテキストとカード間の関係を難しくして構築難易度を上げる」という遊戯王のアプローチにも似ている。しかしゲートルーラー側の明確な優位点は、「カードゲームとしての難易度が構築にのみ押し付けられているので、プレイは相対的に簡単になる」という点だ。構築の難しさがプレイの難しさにまで響かないと言い換えてもいい。
既に書いた通り、少なくともスターターデッキをプレイした限りではゲートルーラーのプレイ自体はかなり簡単なように思われる。アプレンティスを筆頭に、引いたカードを適当にピシピシ投げつけていればゲームが成立するからだ。だが、本当の戦いがデッキ構築の水準で行われるのであれば、プレイがシンプルであることは特に問題がない。ゲームプレイが駆け引きが無い淡泊なものに思われたのは、本当の駆け引きはデッキ構築で行われるからではないのか。

「構築は上級者向けで難しい」「プレイは初心者向けで簡単」と遊ぶ段階で難易度のレイヤーを切り分ける構成が極めて優れるのは、これがゲーム全般が持つ「複雑すぎると初心者が参入できないが、簡単すぎると上級者がすぐに飽きてしまう」というジレンマに対するアンサーとなるからだ。
このジレンマもやはり「環境解明早すぎ問題」と深く関連する。現実的に考えて上級者がほとんどいないor上級者の影響力が低いようなカードゲームは有り得ず、その上級者が爆速で環境を攻略してしまう以上、基本的にはトップ層に合わせて難易度は上がり続けるしかない。これも各種TCGが対策を試みているポイントであり、遊戯王は複雑化しすぎた本編を切り離してラッシュデュエルとしてシステム自体を再構築したし、MtGはレアリティに応じてテキスト難易度の許容度を変えることで初心者と上級者が触れるカードの複雑さを区別している。

これらとは異なる選択肢として、ゲートルーラーは構築とプレイで複雑さを変えるというアプローチを取っているのかもしれない。
デッキを構築するのはそれなりにカードを集めている中級者以上で、参入するかしないかの初心者はプレイしかしないという想定はかなりリーズナブルなものに思われる。それぞれがただ気の向くままに遊んでいるだけで勝手に両者に対して適切な難易度の面白さを担保できるのであれば、これほど理想的な対策もない。
対戦シーンにおいても同じことが言えそうだ。PVで「手札が無いからトップ勝負で配信が盛り上がる」という売り文句を見て「トップ勝負しかないゲームが盛り上がるわけねえだろ」と思っていたが、初心者と上級者で見ているものが違うことは大いに有り得る。初心者がデッキトップ勝負を見て盛り上がる一方、上級者が「あのカードがあの枚数入っているとは」と構築を見て驚くことができるようなシーンは十分に想定できるように思われる。

ゲートルーラーのポテンシャル

ここまで書いてきた内容をまとめると以下の通り。

  • スターターデッキ対戦はルールわからんし新しくも面白くもなかった
  • だがその不満は拡張性という一貫したコンセプトの表現として正当化できる
  • 恐らくスターターではなく構築戦が非常に面白い
  • ルーラーによる新しいアプローチはTCG界が直面している種々の問題へのアンサーで有り得る

総じて、ゲートルーラーはTCGを革命する本物の革新的プロダクトである可能性は十分にある。

ただ、主に「デザイン空間の広さ」による革新性が十全に発揮されるまでには、それを十分に探索する時間が必要になることは付言しなければならない。本当にゲートルーラーの真価が明らかになるのは、将来的に何弾かのパックがリリースされてルーラーとルールの多様性が確保されたときだろう。
また、俺がスターターデッキを投げ捨てそうになったように、真に革新的なプロダクトは古いパラダイムではその価値がわからないものだ。適切な評価にはパラダイム自体の乗り換えも要求される。ゲートルーラーが評価される新しいパラダイムが普及して本当のポテンシャルが発揮されるまで、ゲートルーラーが生き残るかどうかはわからない。

もしかしたら池っち店長はスティーブ・ジョブズでゲートルーラーはiPhoneで、その革命的価値をもう理解できた人とまだ理解できない人がいるフェイズなのかもしれない。
いずれゲートルーラーがそのポテンシャルを発揮し、革命的な面白さが周知されることを期待したい。

オマケ:世界観について

ここまでの話とは全然関係ない話題として、最後に世界観について触れておきたい。

フレーバーテキストは字が小さくて読みづらいのでゲーム中はほとんど読んでいなかったのだが、さっき目を通した感じはかなり面白いと思った。怪異とロボットのような異種のものを組み合わせる試みは十分成功している。巷では寒い寒い言われている変な捻り方をしたテキストも俺は独特で魅力的だと思う。

ただ、俺がゲートルーラーの世界観を面白いと感じるのは、それが「ホビーアニメ的な子供っぽい世界観だから」であることは付け加えておかなければならない。
どこまでいっても俺の主観的な評ではあるが、ゲートルーラーのカードはどう見ても「子供向け」だし、普通に「萌える」。例えば「白骨姫」はかなりレベルの高い萌えコンテンツで通用しそうな強度を持つし、イケメンの「ジョー」とイケおじの「リッパー」が次元を超えて激突する「刹那の攻防」のイラストとシチュエーションは腐女子的にかなり熱い。

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率直に言って意味不明なのは、ゲートルーラーは公式には「子供っぽくないし萌えでもないから大人でもプレイできる」という路線を目指しているらしいことだ。パンフレットか何かに書いてあった「大人が会社でプレイできるカードゲーム」という売り文句は輪をかけて意味がわからない。常識的に考えて、オタク色の無い職種で会社の昼休みにゲートルーラーをやるのは無理だろう(別にゲートルーラーだから無理と言っているわけではなく、遊戯王もDMもMtGも無理寄り)。
池っち店長はカードゲームやその周辺のサブカルチャーに関しては圧倒的な才覚とキャリアがあるし、少なくとも俺はその手腕を期待している。別にメインカルチャーとしての美術的・芸術的知識があるわけではないだろうし、それには期待していない。

全体的にゲートルーラーが回避しようとする「萌え」や「子供向け」に対する感性はちょっと古いというか、それらのワードで想定する対象が20年前くらいの水準で止まっているように思えてならない。
恐らくそれは代表的萌えカードゲームであるところの「リセ」「ヴァイスシュヴァルツ」「カオス」等が古いギャルゲーの文法に支配されていたことと無関係ではないだろう。この手のカードゲームは昔はほとんどギャルゲー版権ないしギャルゲー絡みのイラストレーターの寄与で成立しており、「目が大きい」「胸がでかい」「頭身が低い」というような古典的萌え文法が萌えキャラを構成していた。
ただ、この手の古典的萌え文法は2010年代にはめっきり衰退したと俺は認識している。その代わりに今ではグラブルのような頭身が高いリアル寄りの萌え絵が台頭しており、白骨姫もその文脈の上にある。白骨姫は20年前の基準で見ると萌え絵ではないが、今の基準で見ると萌え絵の中央道をブッチ切っている。
また、「子供向け」というフレーズの感触も20年前とは大きく様変わりしている。オタク文化が普及した結果、20代30代の「大人」が楽しむコンテンツにも子供向けの意匠は無数に流入するようになった。その典型はアメコミであり、子供向けでしかないコスチュームや武器をほとんど変えることなくアベンジャーズバットマンが大人の視聴に堪えうるものとして消費されている。
そういう事態を「子供向けのものが大人にまで広がった」と表現するか「子供向けのものが大人向けに変質した」と表現するかは些末な問題でしかない。ロボや怪異といった意匠を「子供向けか否か」という基準で管理しようとすること自体がナンセンスであり、そんなことを気にせずに面白いと思うものを提供してくれればそれで良いと思う。

いずれにせよ、俺が邪推するような認識のズレがあるのか無いのかはともかくとして、今のところゲートルーラーが不服ながらも(?)オタク受けしそうなデザインになっているのは事実であり、この路線を続けてくれた方が俺はありがたい。

20/12/24 表紙が三枚あるノートを特注した話

トリプルカバーノート

大抵の二者択一には第三の選択肢が隠れているように、ノートの表紙も表と裏だけではない。

俺はいわゆるメモ魔である。
常にノートと赤ペンを携帯し、いつでもどこでもメモを取らずにはいられない。食事しながら何か書いているくらいならまだいい方で、歩いている最中や電車に乗っているときに突然ノートを取り出してメモを取り始めることも珍しくない。机が無い場所でメモを取るのは日常茶飯事であり、その場合は立ったままノートを空中に保持してペンを走らせることになる。
更に、俺にはノートにびっしり文字を書き込まないと気が済まないという悪癖もある。食べ物は平気でトイレに流す割にノートの紙面は非常に大切にしており、小さな文字を端から端まで書き込まなければ気持ち悪くて仕方がない。

この「空中でメモを取る」&「文字をびっしり書き込む」という二つの性質が融合したとき、「右ページの右端に書き込めない問題」が発生する。「右ページの右端に書き込もうとすると右手が宙に浮くためにペン先が安定せず文字が書けない問題」と言葉で説明するより、写真で見た方がわかりやすい。

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まず、こうして左ページに書く分には問題ない。ペンを持つ右手を右ページに置いて支えられるので、ある程度表紙が硬いノートでさえあればペン先はブレない。

問題は右ページだ。

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これである。
右手を置く場所が無いので右手が宙に浮いてしまい、ペン先が安定しない。空中で書きものをしたことが無い人は今ここで試してほしいのだが、この体勢で文字を書くのは難しい。

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今まで苦肉の策としてカッターマットを持ち歩いてノートと一緒に持つことでどうにか「右手置き場」を確保する技を使っていたが、面倒臭いし疲れるし変な人だしであまり良いことがない。最後の手段として左手で文字を書く訓練をして両利きになるという手も検討したものの、この文字サイズを自在に操るには何十時間を投資するのか想像もつかない。

俺が両利きになるよりはノートの方を改造した方が手っ取り早い。
この前ちょうどノートを使い切って新調する機会があったので、「右ページの右端に書き込めない問題」を解決するノートを特注することにした。要するに「右手置き場」をノートに一体化してしまえば良いわけで、俺にはそれを実現するアイデアがあった。あとはノートを特注できる専門店で制作してもらえばよい。

資本主義への反発かどうかは知らないが、いまどき「一点ものの受注」というコンセプトは多くのプロダクトでニッチ産業として成立している。特に手頃で身近なノートのオーダーメイドを受け付けている専門店はいくつもある。どこでも良かったのだが、原宿の『HININE NOTE』が一番近かったのでノートを片手に自転車を走らせた。

hininenote.jp

公式HPに記載があるオーダーメイド項目は①サイズ②カバー③リング④中紙⑤留め具等オプションの5つだけで、そこから外れた特殊規格のノートを作れるかどうかは不明だったが、店で相談すると快く引き受けてくれた。
応対してくれた技術者のお姉さんは見るからに有能そうな職人で、口頭で2分ほど説明するだけでノートの仕様と目的を完全に理解した。「なるほど……(作るのが)楽しそうですね」というコメントにはかなりの強キャラ感があった。

そして完成したのがこのノート。

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正面から見てすぐわかるようにリングが本来あるべき左側だけでなく右側にも付いており、触手の如き異形の風格を漂わせている。

肝心の構造は上から見るとこの通り。

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普通のノートの裏表紙にもう一つリングを接続して「三枚目の表紙」を取り付けている。なお、折り畳んだときにリングに重ならないように三枚目の表紙は他の表紙よりも少し短く裁断されている。

全部開いて持つとこんな感じ。

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通常のノートが持つ「左ページ」と「右ページ」に加え、「右ページ」の更に右側に「超右ページ」が出現する(三枚目の表紙)。この「超右ページ」の存在によって、ノートの両面開きには

①左ページと右ページを開く
②右ページと超右ページを開く

の二つのモードがある。動画で見ればすぐにわかる。

動画では①から②へのモードチェンジを撮影している。②では「右ページ」が相対的に左ページに置き換わると共に、「超右ページ」が右ページとして右手置き場に使用できる。

補足367:ちなみにゴムバンドも通常とは裏表を逆に付けるように特注している。本来はゴムの両端を裏表紙に留めて表表紙を渡るようにバンドをかけるのだが、
・三枚目の表紙もまとめて留めたい
・片手だけでバンドを外してノートを開けたい
という二つの理由によってゴムの両端が表表紙に留められている。

値段は税込みで3610円。特注に伴う技術費・加工費はかかっておらず、通常オーダーに加えて必要になった表紙やリング等の材料費のみの加算となる。他のどこでも買えないという価値に鑑みればかなり安い買い物だったと思う。

この三枚表紙ノートを使い始めて一ヶ月ほど経つが、全く問題なく意図通りに使用できている。2020年買って良かったランキング一位はこのノートで間違いない。

補足368:一応注意しておくが『HININE NOTE』のHPには特注に関する記載はなく、本来のオーダーメイドを超えた特殊仕様をどのくらい受け付けているかはわからない。常識的に考えて値段や可否は仕様や制作状況ごとにケースバイケースだと思われる。特注は自己責任で。

20/12/19 お題箱回:恋愛事情、小説入門書、作者の死etc

お題箱75

213.恋愛とかされたりしないんですか

「このコンテンツ消費しないんですか」みたいなノリで来ましたけど、しないと思います。

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僕が最後にプライベートで異性と会話したのは小学六年生の卒業式なのでもう終わりです。逆にその環境でヤバいミソジニーモンスターとかになってないのが偉くないですか?

 

214.結婚や恋愛をするオタクとしないオタクって、何が違うんですかね
自分は死ぬまで恋愛というものをしないだろうという確信があるんですけど、それまで恋愛のれの字も言ってこなかった周りのオタク達が気付けば結婚してコミュニティから離れていくみたいな事が続いて驚いています。
いつか休みの日に気軽に遊びに誘えるような友人がいなくなるのではと思うと少し寂しくなってきました。
KSUみたいなコミュニティでもみんな結婚していくんでしょうか(みなさん結婚してたらすみません)

僕にそれを聞く意味はないと思いますが、僕も取り残されるサイドなので仰っている気持ちはよくわかります。
この年齢になると友人の結婚によって我々が受ける被害って結婚した男に対する嫉妬などでは全くなく、男友達を奪った女への怒りっていうヤンホモみたいなものになっていきますね。我々からすると悲しいですが、KSUでもサイゼミでも男どもはぼちぼち結婚していくと思います。その流れはもう止まらないです。

補足366:そういう男しかいないオタクコミュニティの異常性をネット上ではポップにホモソーシャルと呼びがちですが、僕は男子校的なオタクコミュニティをいわゆるホモソーシャルと見做すことには異議を唱えたい立場です。というのは、イヴ・セジウィックが提唱した原義のホモソーシャルって女性を所有することでメンバー同士が認め合うような輪姦的コミュニティを指すんですが、それって基本的に体育会系サークルみたいなモテるマッチョ男性のものです。それはあくまでも異性愛によって駆動するコミュニティなので、そもそも異性を排除して介在させないオタクコミュニティには妥当しません。セジウィック式のホモソーシャルでは結婚した男性に対して「これでようやく一人前だな」みたいな引力が働くのですが、投稿者の方とか僕にとっては「そうですか、さよなら」みたいな斥力が働くわけですから、もっと素朴に同性愛的な空間だと思います。

もし本当に周りのオタクが皆結婚して誰とも連絡が取れなくなったら大きめの新興宗教に入信すると良いと思います。「結婚」のオルタナティブとして「入信」という選択肢があることは忘れない方がいいでしょう。
これは冗談で言ってるわけではなく、新興宗教は我々の末路みたいな孤独な独身男性にとって最後のセーフティーネットの一つだという認識があります。田舎から集団就職で上京してきて身寄りのない人間たちを吸収することでデカくなっていったのが日本の新興宗教ですから、元々家族代わりの即席コミュニティを提供する機能は備わっています。「新興宗教なんて始めたら周りにどう思われるか」なんて心配するような「周り」がいるうちはまだ良くて、その周りすらいなくなったときが恐らく真剣に入信を検討すべきタイミングでしょうね。

 

215.哲学や思想モチーフで書いているのだとは思うのですが、小説書く際に小説そのものの書き方は勉強しましたか?(何かワナビー本的な参考書みたいなの読みましたか?)参考になったものがあれば紹介してほしいです。

「小説の書き方」みたいな本は無限にあるので、図書館で何冊か適当に読みました。

ほとんどの本は参考にならなかったのでまずはその話からすると、「何を書くべきか」を説明する本はあまり役に立ちませんでした。だいたい以下のような事柄について懇切丁寧に解説する本と言えばイメージはわかると思います。

・典型的な物語構造(例:自立と成長、貴種流離譚、時事問題の寓意……)
・典型的な小説ジャンル(例:ファンタジー、ラブコメ、SF、推理……)
・典型的な登場人物(例:陽気、冷静、陰湿……)
・典型的なプロットの進行パターン(例:仲違いからの和解、課題発生と解決……)

こうしたテンプレートの把握が大いに参考になるのは事実ですし、知っておくに越したことはないと思います(とりあえず読んだ方がいいとは思います)。が、それはどこまでも補助線として参考になるだけであって、真に役立つことはあまり無いような気がします。

素朴に根本的にズレていると思うのは、常識的に考えて、「適当なジャンルのポイントと流れを押さえてそれに当てはまるような小説を書こう!」というモチベーションで素人が小説を書き始めることは有り得ないのではないだろうかということです。
我々は売れる小説を書けと出版社から圧をかけられている職業作家でも、週明けまでに課題の短編を書き上げないといけない専門学校生でもないはずです(もしそうだったらすいません)。書いても書かなくてもいい立場なのに書いているのは書かなければならない内容がもう既に頭の中にあるからではないでしょうか? そうやって書き終えたものが結果的にラブコメやサスペンスの類型であることは大いに有り得ると思いますが、それは最初から「類型を押さえてそれに当てはまるように書こう」というモチベーションで書き始めるのとは全く別のことです。

だから我々素人が本当に知りたいのは「何を書けばいいのか;What to write」ではなくて、「どうやって書けばいいのか;How to write」のはずです。そこのところ、『スクリプトドクターの脚本教室』という本が非常に良かったです。

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

  • 作者:三宅 隆太
  • 発売日: 2015/06/25
  • メディア: 単行本
 

この本では脚本の原動力をテンプレートではなく作者自身に求めています。
そのため、面白くない脚本が面白くない理由は、(テンプレ紹介系の入門書がよく言うように)「テンプレートに沿っていないから」「流れを押さえていないから」ではなく、「作者自身が保守的な性格だから」「作者が自分自身の嗜好を理解できていないから」というような自己理解へと還元されます。作品と作者を不可分に捉えている以上、脚本の修正は作者のカウンセリングという側面も持ちます(作者の仕事エピソードでは幼少期のトラウマを解消する精神分析家のようなことをしている話が語られます)。もちろんテクニックもいくつも提示されますが、その目的は自分をよく理解してよく描写するためであって、テンプレートへの当てはめゲームをするためではありません。

僕が特に共感したのは冒頭で素人が書きがちな小説のタイプを「窓辺系」と括ってその解決を最大の目的とするところです。今この本は手元に無いのでググって出てくる記事の孫引きをしますが(引用元→)、窓辺系とは以下のような小説です。

典型的なストーリーラインは、「人づきあいの苦手なOLが田舎に帰って自分探しをした結果、少しだけ元気になった(つもりで)東京に戻ってくる話」です。

また、「友だちとプリクラやカラオケに行くのを極度に嫌うおとなしめの文学系女子が、図書館や美術館などで出会った理知的な年上の男性から褒められて承認欲求を満たした(つもりになる)話」

(中略)

いずれのパターンでも共通しているのは、主人公が極端に内向的で、思っていることを口にしたり、問題を解決するための具体的な行動をとったりすることがなく、かわりに独りで「窓辺」に立ち、物思いに耽ったり、思い悩んだりする場面が繰り返し出てくるという点です。

この本の思想では小説の内容は作者の人格を映しているので、「窓辺系」を書いてしまう作者もまた「窓辺系作家」として分析対象となります。

『窓辺』系作家とは、非常に簡単に言うと、内向的で自分自身に自信がないが、その割にプライドが高く、そして人と関わることが苦手な脚本家(志望)を指す。そんな彼らの書く脚本はどんなものか。さえない主人公の日常にちょっぴり「何か」が起こり、読み手がその「何か」を把握しきれないまま、いつの間にか解決し、新しい日常へ歩み出す。

これ「わかる!!」って叫びたくなりません? 僕はなります。

ここまで具体的に提示されてしまうと、(この本はそこまではっきり言っているわけではないにせよ)「つまらない人間はつまらない脚本しか書けないのでまずは人間の方を何とかしなさい」という一見暴論じみた思想もかなり説得力を持つように思います。著者の三宅氏にとっては窓辺系作者こそが「自己認識が甘い素人」の典型であり、彼らが自己理解と自己表現を通じて面白い脚本を書くにはどうすればよいかという流れで本旨が展開していきます。

実際のところ、三宅氏が窓辺系を問題視する理由は「窓辺系は誰でも書けすぎて脚本として売り物にならないから」というのが大きいように思われ、その商業的なインセンティブに対して共感するわけではありません(僕は脚本家志望ではないので)。ただ、もっと単純に個人的な好みとして僕は特にこれといった事件も起きずに謎にほっこりして終わる窓辺系が本当に嫌いだということ、それを徹底的に回避しなければならないこと、少なくとも僕にとってはテンプレートに沿ったものより自己表現を深めたものを目指すべきだろうことなどをはっきり認識できたのは大きかったです。以下はこの本に書いてあったか内容だったどうかは自信がありませんが、例えば

・登場人物をなるべく一人にしない(独りよがりな内省に入ることを封じるため)
・登場人物の心情はモノローグにせずなるべく口に出させる(問題をはっきりさせるため)
心理的な発展や成長はなるべく会話を通じて処理する(自己完結、自己満足をさせないため)

などの工夫は窓辺系を避けるために意識しています。

最後に一応欠点を挙げるとすれば、この本は別に素人創作趣味のためではなく本当に真剣な脚本家志望者のために書かれていることがあります。よって、業界の内情、脚本の形式的な扱い方、仕事の取り方などにもかなりページ数が割かれており、正直そこはどうでもいいです。つまり参考になる実質的なページ数はそれほど多くないのですが、逆に厚さの割には読みやすいと言ってもよいでしょう。オススメです。

 

216.最近『化物語』や『幼女戦記』のコミカライズに「原作者はもっと原作読め」みたいな感想がつくのを散見するのですが、これって「作者の死」の言い換えって理解で合ってますか?

(ついでに「作者の死」にオタク的な一家言があれば語って欲しいです)

この投稿が来たのでそろそろ『作者の死』を読んどくかと思って読んだのが4回前くらいの謎記事でした。

saize-lw.hatenablog.com

ちなみに『作者の死』自体は数ページの極めて短い論文なので関心があるならば目を通すと良いですが、その中で前提されている構造分析とテクスト分析の差異については他の論文を参照する必要があり、結局のところ『天使との格闘』や『作品からテクストへ』を読む羽目にはなると思います。

バルトの原典を踏まえるのであれば、「原作者はもっと原作読め」は「作者の死」に相当するかという疑問は半分は合っていますが半分は間違っています(というのはやや好意的な裁断であって、まあ正直に言えば9割くらいは間違っています)。

まず、「原作者はもっと原作読め」が「作者の手から作品を分離させる」という発想を前提しており、この発想をバルトが構造分析から引き継いでいることはかなりの程度事実だと思われます(少なくとも、作品を作者の人生史に紐づける素朴な文化批評に距離を取っている点は共通します)。
とはいえ、構造分析において抽出される構造とはレヴィ=ストロース的に言えば「変換に対して不変なもの」、すなわち色々な作品で細部が変奏されるにも関わらず変化しない通奏低音のことです。典型的には、様々な要素を六人の行為者が持つ関係に還元するプロップのモデルが挙げられます。

送り手-対 象→受け手
     ↑
援助者→主 体←敵対者

これですね。といっても全然ピンと来ないと思うので、例えば挙げられている『化物語』シリーズの『傷物語』で構造分析をやってみましょうか(劇場版三部作でまとまりが良いので)。まずはこの六項に適当に登場人物を嵌めていく作業をやります。

とりあえず「主体」は主人公の「阿良々木暦」で良いでしょう。彼が欲望している「対象」を何にするかは、『傷物語』の主題を何と見るかでいくつかの選択肢があり得ます。
例えば彼が自分自身の生身を取り戻す自己理解としての物語として読むならば対象は「人間としての阿良々木暦」になりますが、対象を「(大人の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」と見るならばこれはもっと素朴にヒロインの吸血鬼を救うための冒険譚になるでしょう。もしくは、対象を「羽川翼」にして青春物語?として捉えるのもアリかもしれません。
別にどれでもいいのですが、簡単そうな「ヒロインの吸血鬼を救うための冒険譚」という解釈でいきましょう。よって、「対象」は阿良々木暦が取り戻そうとする「(大人の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」となります。
わざわざ「大人の」と書いたのは、「(子供の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」が阿良々木暦に力を授けて協力する「援助者」になるからです。無論、「敵対者」は「吸血鬼ハンター」です。「対象」が誰から誰に受け渡されるのかを考えると、「送り手」は肢体を持っている「吸血鬼ハンター」、「受け手」は「(子供の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」になるでしょうか。
こうすると、「受け手」と「援助者」が一致し、「送り手」と「敵対者」が一致しているという、極めて単純な「対象」の奪い合い、「主体」である阿良々木暦を媒介とした代理戦争という構造が見えてきます。適当に主題を設定したせいでやたら単純な読みになってしまいましたね。

とはいえ、『傷物語』の真骨頂は最終盤で「対象」だったはずの「(大人の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」が「敵対者」に反転して、依然として「主体」である「阿良々木暦」との戦争に突入することです。これによって「阿良々木暦」が欲望する対象は「羽川翼」に変化し、援助者も「忍野メメ」に変わります。
こうした露骨で意図的な構造の急変から主題のシフトが可視化され、前半と後半を結び付ける力学は何なのかとか適当な批評を展開する余地が出てきます。

この先の分析は来週までのレポート課題にするとして、僕が言いたいのは、「原作者はもっと原作読め」と言っているオタクは別にこういう構造への還元を想定して「原作」と言っているわけではないだろうということです。
彼が「原作」と言って指しているのはこういう普遍的な典型プロットではなく、むしろ作品固有の設定とか特殊な流れのことだと、少なくとも彼自身は思っているのではないでしょうか。よって、構造分析に現れるような「普遍性への還元」という意味での作者のオミットは「原作者はもっと原作読め」には妥当しないように思われます。

では、バルトが提示するテクスト分析はどうでしょうか。
バルトは「作者の死」に加えて「読者の誕生」を支持している点で構造分析から先に進んでいます。彼自身、テクスト分析を明晰に定義しているわけではないので断定する自信はありませんが、読者の誕生とは「無意識のように無際限に広がる多様な読みの可能性」のことだと言ってそう当たらずも遠からずという感じだと思います。
重要なのは、バルトが言う作者の死には、その代わりに読者の読みが多様化するという解釈の複数性の方に力点があることです。そうなると「原作者はもっと原作読め」と言っているオタクと噛み合わなくなってくるのは、そういうオタクは恐らく一元的な読みを想定していることです。確かにこのオタクは読者側の解釈を重視しているようですが、恐らく彼が許容している解釈はむしろコミュニティで是認されている唯一のもので、それにそぐわない解釈を作者が提出したことに異を唱えているのでしょう。バルト的に散逸する読みを許容するのであれば、一つの読みを絶対視して他の読みを否定することは起こりません。

よって、構造分析としてもテクスト分析としても、恐らく「作者の死」は「原作者はもっと原作読め」とは無関係であると思われます。なんか怒涛の全否定みたいになりましたね、すいません。

ちなみに僕自身は「原作者の解釈が唯一正しいものではない」「原作者が知らない正しい解釈は全く有り得る」「原作者も一度創作を終えれば読者の一人に過ぎない」みたいなことは割とよく言う方であり、比較的バルトに即した意味で作者の死を内面化しているような気はします。

20/12/12 お題箱回:創作近況、サイドデッキ理論、反出生百合etc

お題箱74

気付けばお題箱がかなり溜まってますがマイペースに処理していきます。

 

201.短編読みました。ややこしいテーマなのに読みやすくて面白かったです。
今後もラノベは書き続けるのでしょうか?

ありがとうございます。
ややこしいテーマなのに読みやすくて面白い『Vだけど、Vじゃない!』を宜しくお願いいたします。

kakuyomu.jp

とりあえず次の長編は書いてますし、創作も趣味の一つとして続くような気はします。
モチベーションが一番湧いてくるときってあんま面白くないアニメとか見てて「こんなんより俺のが絶対面白いの作れるわ~」って言ってるときと、自分で書いた文章読み返して「やっぱ俺の書いたやつが世界一面白いわ~」って言ってるときで、それがある限りは続きます。
とはいえ別に絶対一発当てるみたいな強い志があるわけでもないです。もういいやと思って辞めるのがいつかはわかりません。ほとんどの趣味はそうだと思いますが。

ついでに今書いてるやつの話もうちょっとしていいですか!? 周りに創作趣味の人がいなくて一人で孤独に書いてて普段誰にも話す機会がないので……
主人公がフィジカルエリートのプロゲーマー女子高生ということは前に書いたのですが→、メインヒロインは主人公とタッグチームを組んでいるロリ可愛い同級生の女の子です。
カッコイイ系の主人公とは対照的に女の子らしい外見と嗜好を持っており、特に花が大好きです。自分の眼球にアサガオの根を寄生させて眼窩での栽培を試みた結果、失明して片目の視力を完全に失い、今は義眼で同じ趣味を楽しんでいます。
共感能力が低めで他人を蹂躙することに抵抗が無いところは主人公と気が合うのですが、主人公からの熱烈なラブコールに対しては非常に冷淡です。毎日のように受けている告白にはイエスともノーとも返すことがないまま、主人公に抱えられて移動したりお姫様扱いを受ける毎日です。

 

202.フィクション世界内で提唱される理論ってどれも作者によって恣意的につくられた世界内での運用を前提にしているものじゃないですか?だからそれが正しいかどうかは別としても究極的には全て(それこそ道徳の教科書や聖書のようなものも含めて)信頼に値しないと思うんですけどLWさん的にはどう思いますか?

あまり質問の意図が掴めていない気もしますが、基本的には僕もそうだと思います。

ただ、「理論」というワードが指しているものの幅にもよります。
大雑把に言って、物理学を筆頭とした実証主義的な自然科学をフィクション世界で実験する意義が皆無である一方、哲学のような思弁的な営みは十分に有効であり得ます(実際、哲学の議論でよくやる極端な思考実験をフィクションと明確に区別するのは難しいと思います)。「道徳の教科書や聖書」を例に挙げているあたり、道徳や倫理に関する理論を想定しているのだとしたら、信頼に値する結論が出てもおかしくはありません。

 

203.普段BL漫画は読まれますか?(同人誌ではなく、一般書店で発売されているものです)

特に読まないですね……丁寧に注釈を付けて頂いていますが、同人誌も特に読まないです。
とはいえ男同士っぽいTwitter漫画はたまにRTしていますし、平均的な男性に比べてBLっぽい描写は嫌いではない方だと思います(それは僕が男子校育ちであることと無関係ではないでしょう)。
ただ、これは偏見かもしれませんが、女性作家が描く典型的なBLみたいなもの、顎の尖ったイケメンが顔を赤らめて「やめろよ、そんなところ……」みたいな女性的な悶え方をするやつ、明らかに異性愛の想像力で描かれているBLはそんなに好きではないです。もう少し匂わせるくらいでいいです。

ちなみにこれはかなりの確信を伴ってツイートしています。ヘテロはエロ以外需要無いです。

 

204.KSUに激しく興味があるんですけど、ガチ部外者は入れない集団だったりします?

形式的な入部手続きを備えたサークルとかではないので、ガチ部外者は入れないのかと聞かれればそうなのかもしれません。
サイゼミは定期会合という実体を持っていますが、KSUは「いつメン」くらいの意味で適当に使ってるだけです。「いつメンで旅行くか」って言う代わりに「KSU旅やるか」とか言ってる感じです。てかカスみたいな集団なので興味持つ意味無いですよ。

 

205.lwさんが原根健太さんについて好きなところを語ってください

jspeed.hatenadiary.jp

伝説のブログ「くされにっき」やTwitterを通じてカードゲーム界に大きな影響を及ぼしてきたハラケンですが、その中でも最大のものはサイドチェンジ概念のレベルを底上げしたことだと思います。

彼が広めた「サイド後のデッキも完成形でなければならない」という思想ってカードゲーム全般の理論が洗練された今でこそ常識になってますけど、十年も前はかなり革命的でした。
かつての古い思想としてはやっぱり「サイドデッキ=メタカード置き場」という固定観念がかなり強固で、いざサイドデッキを組むとなると「環境的に強いメタカードを選ぶ」「用途別にメタカードを揃える」「苦手な相手には有効なメタカードを厚く取る」みたいな水準で構築する人がほとんどだったと思います。メタカード以外を入れるとすればあとはもう一発芸の完全スイッチくらいで、【チェーンバーン】を【甲虫装機】に、【カウントダウン】を【自爆スイッチ】にシフトするための15枚を詰め込むくらいが精々でしょう。

しかしJSPEEDが明確にしたのは「サイド後のゲームもまず最初にあるのはメタカードではなくゲームプランである」ということです。
例えば相手の仕掛けが数ターンがかりなら罠を置くタイミングを変えるなり、相手が裏守備への対抗手段を持っていなければ裏から入るプランを備えるなり、相手が一対一交換しか出来ないデッキならアドバンテージで突き放すなりというような無数のプランが有り得ます。メタカードを入れるにしても、サイド後のゲームプランの中で「メタカードで対処することで勝てる」という判断があればメタカードに頼ってもよいということに過ぎません。
気付いている人も20年は前から気付いていた(そして勝っていた)ことだと思いますが、少なくとも遊戯王においてこれをはっきり言語化してゲームのレベルを一段上に押し上げたのはやはりJSPEEDの功績でしょう。

ちなみに、そのようなプランレベルでの考え方から導かれる「サイドチェンジはデッキのパワーを下げる」という結論も驚くべきものです。デッキが目指すべきプランはメインが一番強い形に最適化されているはずで、サイドチェンジはその完成形をわざわざ崩す行為だからです。ここから「サイドチェンジはしないに越したことはない」という地点にまで達したのが沖縄のすねーくはーとさんで、サイドデッキ無しの縛りプレイで優勝したりしていました。

 

206.銀髪の基礎打点高すぎない?

高すぎます。銀髪だけで100点満点中70点くらい入ります。

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207.何の知識もない文系にも分かるようなニューラルネット記事待ってます

saize-lw.hatenablog.com

上の記事から適当な本を読んでください。この中で一番のお勧めは『高校数学でわかるディープラーニングの仕組み』ですが、いまどきディープラーニングの本は無限にあるので大きめの本屋に行って読み通せそうな本を探すことをお勧めします。

ちなみに大抵の記事は「書いてください」と言われればしょうがねえなあと書いている気がしますが、ディープラーニングの解説は何件来ても絶対に書かないという固い意志があります(理系分野は得意なだけで好きではないので)。

 

208.LWさんって割と効率重視っぽいのに、好きでもないソシャゲとかに時間投下してるの謎

効率重視の人間というのはその通りですが、ソシャゲには言うほど時間投下してないです。
余暇にわざわざ遊ぶソシャゲはハースストーンとアズールレーンくらいで、ハースストーンは基本アニメ見ながらとか家事しながらとかマルチタスクでしかやりませんし、アズールレーンもイベントは周回せずにガチャで欲しいキャラだけ取って済ませることの方が多いです。

ちなみにソシャゲのことは結構評価していて、何が起きているかを追っておきたい程度には関心があります。
FGO以降オタク界にもソシャゲが浸透して2010年頃の「俺たちオタクはソシャゲなんてやらねえ」みたいな空気はもう消え去りましたが、当時よくあった批判として「ソシャゲはゲームとしては下の下の下、プレイヤースキルが問われずに時間か金だけで勝てるクソゲー」という指摘は未だに事実だと思います。
しかし、その批判はいまや問いに転化されるべきです。すなわち、「何故ゲームとしては下の下の下なのにオタクが皆ソシャゲをやるようになったのか」という疑問に対する答えは一つしか無くて、ソシャゲは(当時の批判が想定していた据え置き機のような)ゲームとは別の評価軸を持つ別の遊びだからです。
ソシャゲはアニメとかゲームとかに並ぶ新しいカテゴリの娯楽であって、いわゆるゲームの下位種として無視できる段階はもう終わっています。そう思うと、動向を知るのに払う時間はある程度は無駄ではありません。

 

209.物語消費論を読んでから初めて多重人格探偵サイコの原作が大塚英志って気づいたのでサイコの感想を伺いたいです

僕は逆に『サイコ』から入って『ロリータ℃の素敵な冒険』とかを読んだあと、大塚英志が評論もやっているのを知りました。だから最初に読んだ評論もたしか『キャラクター小説の作り方』とかで、『物語消費論』でも『サブカルチャー文学論』でもありませんでした。最初が『サイコ』だったせいで僕にとっては大塚英志は批評家の中でもかなり特別な位置を占めています。すいません、いま自分語りをしました。

『サイコ』って西園伸二が生きてる頃は快楽猟奇殺人サスペンスをちゃんとやってたと思います。当時中学生だった僕は当然そういう『サイコ』が好きで、上野達のフラワー殺人でかなりブチ上がってました。『サイチョコ』までわざわざ読んでて、「ひらりん」って『物語の体操』では事務所のイラストレーター(だっけ?)みたいな紹介されてたと思いますけど、それも僕にとっては「『サイチョコ』の作者」の方が先に来ます。
ただ、主人公が弖虎に変わったあたりから真相を巡るサスペンスとしてはシンプルに破綻したと思います。全ての元凶としてルーシー・モノストーンと学窓(ガクソ)を措定しておきながら、明らかにその真相を語るつもりは一切ないでしょう。むしろ真相自体を投げ捨てることで物語が矮小なプロットに収まることを慎重に避け、それらしいモチーフをパッチワークしたようなイメージの集合体、高度に象徴的な漫画を目指していたような気がします。今丁寧に読めばバーコードやスペアが何を象徴していたのかには一定の回答が出せる気もしますが、ボードリヤール等を援用するのがむしろ想定されている感想なんでしょうね。

なんか『サイコ』って中高時代に好きだったコンテンツなのであまり距離を取って冷静に語ることが出来ませんね。気が向いたらまた何か書くかもしれません(多分書きませんが)。

 

210.echo showもレビューして❤️

Echo Show 5 (エコーショー5) スマートディスプレイ with Alexa、チャコール

Echo Show 5 (エコーショー5) スマートディスプレイ with Alexa、チャコール

  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: エレクトロニクス
 

Primeセールで5000円で売ってたのでとりあえず買ったんですが、今のところバックライト付き置き時計としてしか使っていません。搭載されているアレクサに話しかける用事も特にないし、多分買う意味は無いと思います。

 

211.8月消費コンテンツ記事めちゃくちゃ面白かったです!ウォッチメン各話タイトルまじで格好いいですね……

ひとつだけ。
"この姿勢には一貫性があり、わざわざ「個人の主義主張、思想、信条の表現や発言に寛容でありますが」と前置きするあたり好感度が持てる。"
好感度→好感 のタイプミスではないでしょうか。

次回も楽しみに待ってます!

ありがとうございます。この記事ですね、当該部分を修正しました。 

saize-lw.hatenablog.com

というか、もう12月ですね。記事を書くまでに2ヶ月あって、返答までに2ヶ月あって、8月って4ヶ月前ですね。

 

212.最近どこかで見た、反出生主義者だけど性欲は存在する人類にとっての答えが「百合」であるというほら話で笑うと同時に感心してしまいました
lwさんはどう思います?答えにくい話題なのでこの質問は飛ばしても構いませんが......

どうなんでしょう? 反出生主義も一枚岩ではないので一概には言えませんが、素朴な感想としては反出生から入って百合に至るまでの理論的整合性を確保するのは結構難しい気がします。
というのは、現在ブームになっているディヴィッド・ベネターの反出生主義ってかなり実利ベースの議論で規範や欲望に関する話題はあまり扱わないので、恐らく「子供を作りたくないけどセックスの快楽は得たいならコンドーム使って避妊セックスすればいいじゃん」という回答になると思われます。反出生原理主義者(?)が否定するのはまさしく出生そのものだけですから、別にヘテロセックス自体が規範的にどうこうという話ではありません。レズセックスも否定はされないと思いますが、直観的に考えてもっと無難な選択肢である避妊セックスを押しのけてまで主張するのは困難でしょう。

出生に繋がり得る行動も全面的に否定するという規範的な主張を採用するのであれば、恐らくベネター風の合理的な分析哲学ではなく、何かアクティビィストが絡むような社会運動を想定したものになるような気がします。となると、安直にリベラルなモチベーションで反男性の論陣を張るレズビアンフェミニズムの助けを借りるのが良いでしょうか。

反出生からフェミニズムに行く困難さに比べれば、ある種のフェミニズムから反出生に行くのはそう難しくないでしょう。男女という関係を否定するレベルでラディカルに家父長制を否定するのであれば、現実問題として子供を作れないことに対する正当化は必要になるはずだからです。以前も少し触れたように→、反出生主義とフェミニズムって(女性や非存在者という)周縁者を擁護するという点で相性は決して悪くないと思いますが、その場合は「非存在者に対するリベラリズム」という悪魔的事態を認めるかどうかが焦点になるでしょう。

補足365:「非存在者に対するリベラリズム」という表現がよくわからないというツイートを見かけたので補足します。まず、僕が思うにフェミニズムと反出生主義の相性が実はそこまで悪くないというのは

フェミニズムは男性に抑圧されてきた女性の権利を担保する
・反出生主義は存在者に抑圧されてきた非存在者(=まだ生まれていない赤ちゃん)の権利を担保する

というように今まで省みられてこなかった者たちを擁立しようという構造が形式的には似通っているからです。
ただ、フェミニズムに限らずリベラルって「今現に女性が抑圧されているなら、その事態は無視できない!」みたいな、現にある個々人の苦しみを過大評価することによって活動として成立しているようなところがあるじゃないですか。これをそのまま反出生主義に適用しようとすると「今現に非存在者が抑圧されているなら、その事態は無視できない!」っていうモチベーションになるんですが、非存在者って存在していない以上、明らかに今現在に苦しんではいないわけです。そういう現実化していないものって、いわゆるリベラルが擁立する対象になるのかどうか全然わからないですねという気持ちを込めて、あえて矛盾した標語を掲げるようなつもりで「非存在者に対するリベラリズム」と書きました。

思想的な整合性はともかく、サブカルのモチーフとしては『少女終末旅行』然り、終末ものと百合ものは相性が良いっていうのは確実にあるでしょうね。男女だったら他にどんだけ人類滅びてても近親相姦連打で捲れるやんみたいな希望ありますけど、女女だったら無事に詰みなので。

20/12/6 2020年10月消費コンテンツ

2020年10月消費コンテンツ

最近映像作品を見るより書籍を読むのがメインになっている感じがある。

メディア別リスト

映画(6本)

TENET
AI崩壊
マッドマックス2
ハンニバル・ライジング
マッドマックス3
ドラゴンクエスト ユア・ストーリー

書籍(8冊)

大衆の反逆
機械学習入門 ボルツマン機械学習から深層学習まで
基礎から学ぶ人工知能の教科書
高校数学でわかるディープラーニングのしくみ
最短コースでわかるディープラーニングの数学
やさしく学ぶ機械学習を理解するための数学のきほん
はじめての構造主義
フランス現代思想

アニメ(60話)

デカダンス(全12話)
Lapis Re:LiGHTs(全12話)
Re:ゼロから始める異世界生活 第2期前半(全13話)
攻殻機動隊(全23話)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

【アニメ】Re:ゼロから始める異世界生活(第2期前半)

消費して良かったコンテンツ

【アニメ】Lapis Re:LiGHTs
【映画】AI崩壊
【映画】ドラゴンクエスト ユア・ストーリー
【書籍】大衆の反逆
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Re:ゼロから始める異世界生活(第2期前半)

saize-lw.hatenablog.com

一期の時点では「最近の異世界系流行りアニメ(このすば、SAO、オーバーロードみたいなライン)の中では頭一つ抜けてる」くらいの印象だったが、二期で強固な主題を持つ突出して優れた作品という評価が確固たるものになった。早く見た方がいい。

一期では萌えるキャラがイマイチいなかったが、二期はエキドナとフレデリカが萌えでありがたかった。後半山のように出てくる魔女たちもかなり萌え。
魔女って物語の元凶ポジションのはずなのでちょっとずつ消化していくのかと思いきや突然一気に出てきたし、しかも最終的には何となく協力者サイドみたいな雰囲気を出すのでビックリしてしまった。続きを楽しみにしている。

 

機械学習関連書籍

saize-lw.hatenablog.com

上の記事に詳しく書いたので参照。
初学者に向けてどれか一冊を選ぶとすれば「高校数学でわかるディープラーニングの仕組み」だが、モアベターな書籍が他にもありそうな気はする。

 

Lapis Re:LiGHTs

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面白かった。
俺は常に毎期『ギャラクシーエンジェル』みたいなアニメを求めていて、その枠にきっちり収まった感じ。第三話のドッヂボール回あたりが最高潮で後半に向かうにつれて失速した感じはあるが、こういうアニメが期に一本あると助かる。あと腋がめっちゃ出るのもありがたい。

補足360:『ギャラクシーエンジェル』みたいなアニメ→主要登場人物に女の子しか登場しない、作画が良い、登場人物のキャラが強い、コメディとギャグが厚い、シリアスや道徳にあまり走らない、ライトな百合要素があると完璧。

アイカツ』や『ラブライブ』あたりから学園アイドルアニメというジャンルが尊い努力による偉大な成功を説く教育アニメポジションを占めがちになり、道徳の教科書を愛読していそうなオタクたちに好まれるようになって久しい。それらとの差別化のためかどうかは知らないが、KLab×KADOKAWAという王道企業がバックにいながら相対的に邪道であるギャグコメディ路線が選択されたことには、『ギャラクシーエンジェル』みたいなアニメを未だに求め続けている俺のようなやつに希望を感じさせなくもない。
学園アイドルアニメとして特に面白かったのが第10話前後。「退学を回避するため」というありがちなモチベーションで行ったライブで普通に退学を食らい、学校を追い出された末に「別に退学したけどよくない?」「他の学校でもよくない?」みたいな空気になって目的を忘れてダラダラしてるシーンがめっちゃ良かった。そう、君たちは別に成功に向かって努力しなくてもいい。

www.lapisrelights.com

メディアミックスの一環でゲームにもなるらしいのだが、教師役の男主人公になってキャラたちとギャルゲー風味に交流していく感じらしいので興味が全くなくなってしまった。そういうのは求めていない。ゲームが売れればアニメ二期が作られる可能性があるのでとりあえず表面的には応援するフリをしたいと思うが、インストールすることはないだろう。
ソシャゲがアニメ化する際に男性主人公がオミットされて女の子だけが残り百合っぽい感じになることはよくあるが、ラピライの場合はアニメが先行したせいで逆パターンになってしまったようだ。

www.youtube.com

あとIV KLOREの曲がいい感じ。

 

AI崩壊

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なかなか面白かった。いや、映画としては全然面白くないと思うが、最初の期待が虚無だったので相対的にかなり楽しめた。
俺が「どうせ駄作だろう」という期待でこの映画を見始めたのを責められる人はいないだろう。「その日、AIが命の選別を始めた。」というキャッチコピーの地雷臭がすさまじいからだ。多少なりとも情報科学的なバックグラウンドがある人にとって、このキャッチコピーは水素水と同じくらい疑似科学臭がすると言っても過言ではない。

補足361:こういうAIを神と同一視するオカルト思想の源流が一神教にあることやその背景にあるイデオロギー的な企図を指摘する書籍として『AI原論』が非常に面白い→

しかし、「AIが何の略なのかもしらない層に向けた似非科学オカルト大衆SFなんだろな~」と脱力しながら再生ボタンを押した瞬間、まず開幕で松尾豊が出てきて椅子から転げ落ちてしまった。他のどの俳優よりも先に松尾豊が喋るという神采配である。
松尾豊は深層学習界では日本トップクラスの研究者だ。まさか松尾豊が似非科学オカルトSFに名前を貸すはずが無いし、それどころか、もし仮にオカルトっぽい描写があったとして、向こうのバックに松尾豊が付いている以上は間違っているのはこちら側の知識である可能性の方が高い。開始10秒で完全にパワーバランスが逆転し、似非科学オカルト大衆SF野郎の嫌疑がかかるのはこちら側になってしまった。情報科学を齧った視聴者が舐め切った態度で見始めるのに対して、最速で先制ジャブを放つ強力な構成である。

まあ、松尾豊の監修権限がどれだけあったのかは知らないが、AI関連の描写は実際かなりしっかりしていた。それは必ずしも「全ての描写が現実の技術で実現可能」という意味では無いが(そもそも「統一AIが全インフラを統御している」という基本設定はそれなりにファンタジックだし)、技術的なツボというか、「こういうことをしたらオカルト科学だろ」みたいなギリギリのラインを超えないような気配りが随所に見られる。

例えばその一つは、主人公が天才AI研究者という肩書きの割には悪と戦うために自らAIを作り出したりしないことだ。「悪のAIに指名手配された天才AI研究者の逃走劇」というあらすじからして「どうせ逃げた先で正義の最強AIを開発して悪のAIに対抗するんだろ?」とか思っていたが、全然そんなことはなかった。
「データ収集環境が整っていなければどんな天才でもAIを作れない」というのは科学的に見てかなり正しい。現代的な統計ベースAIの作成には、コードだけではなく数百万規模の大量のビッグデータを必要とする。漫画とかでよくあるみたいに天才プログラマがブラインドタッチでチャチャッとコードを書いて作れるものではなく、地道なデータ収集が必ず必要になる。

また、「命の選別をするAI」は決して自ら意志を持って暴走したわけではなく、暴走させるようにコードを改変した黒幕がいたこともきちんと描かれている。単純娯楽SFならともかく、仮にも社会派映画を気取るなら「人間の黒幕の存在」は外せないポイントである。
科学的に言って、数多のSFで無限に描かれてきたファンタジーとは異なり、AIが自発的に暴走することは有り得ない。AIは内発的な動機を持たないし持てない、外部から目的性を設定されなければ始動しないことがAIと生命の最大の溝だ。これはまさに補足361で勧めた『AI原論』でよく議論されている。AIが内発的な動機を持たない以上、「責任を取ることは人間にしかできない」というようなことを主人公が決め台詞で述べるのも正しい。

上記二点のような科学考証を貫徹した犠牲に、正直なところAI的な見どころには欠ける映画になっている。つまり一応情報技術的な戦いが行われているものの、「これ冷静に考えたらAI技術あんま関係なくない?」と感じざるを得ない。映画内でAIが引き起こす破滅的な事態に対し、AI管理社会の到来そのものは必要条件程度のものでしかないのだ。
例えば、主人公が用いたのはハッキングスキルであって人工知能スキルではないし、AIが人間社会に対する脅威となった原因もAI自身が持つ原理的な欠陥とはあまり関係がない。問題があるとすれば、AIに生命管理を含めたアクチュエータを完全に譲り渡している物理構成や、認証もなく簡単に内部コードを書き換えてしまう杜撰なセキュリティ設計だろう。

だが、それはそれでいい。この作品のタイトルは「AI」なのだから、AI周りのツボを押さえていた誠実さだけで十分だ。

補足362:実際のところ、俺は科学的な考証がしっかりしているかどうかは実は割とどうでもいいと思っている方だし、そのこと自体は作品の評価を直接に決定するわけでもない。だが、ことAIに限っては技術的なツボを押さえていることは好感度を上げやすい。それは定量的な意味での陳腐化を回避することに繋がるからだ。AI研究が進んでいなかった時代からAIが適当に暴走する作品は既に星の数ほどあるわけで、その屍の山に新たな屍を乗せることに何か意味があるとは思われない。それに比べれば、AIの活躍が現実的になってきた時流に乗っかったエンタメ邦画として大々的に宣伝されておきながら、かつ、AIをそれなりにまともに描くことも両立させるというポジション取りには同時代的な価値を見出せる。

 

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー

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まあ面白かった。
幸いネタバレを踏まずに見ることができたが、公開当時の荒れ方からして「まあだいたいこんなような内容だろ」と思っていた内容そのままだった。

今更書くのはかなり恥ずかしいのだが、皆が薄々思っていることは誰かが言わないと始まらない。すなわち「旧劇以来の『現実に帰れ』に対する『現実に帰らないバージョン』」であると。その試み自体安直というか、拍手して褒め称えるほどのものではない。最初から逆張りしそうなコンテンツならともかく、よりにもよってドラクエでやってしまったという規模感によってのみ無駄に燃えている。

ただ、俺はそれでもやはりこういうやつが好きだ。ルフィが敵をブッ飛ばすシーンにワクワクするのと同じくらい浅薄な意味で、今まで現実だと思っていた世界が作りものだったと判明するシーンにはワクワクしてしまう。
「現実に帰らない」を日和らずに貫徹しているのも良かった。ここまでの話がアトラクションであることが判明してもなお、まるでそんなことが無かったかのようにドラクエ内の文脈で感動的な振りをして寒々しいエンディングをやってみせるのがそれだ。もはや自慰行為でしかないことが明らかとなった登場人物たちとの絆をそれでもきちんと描く余白を設けるのは気合が入っている。

 

デカダンス

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みそ氏がやたら推してきたので見たやつ。とりあえず一話を見たら女性主人公で「これはみそ&LW公認アニメきたか」と結構ワクワクしながら見たが、終わってみれば当初の期待ほどは面白くなかった。

俺だけではなく皆そうだと思うが、最初に「おおっ!」と思うのは、マトリックス的な種明かしを第2話冒頭という理論上最速のスピードで実行したことだ。伏線を張りまくった末に第10話で明かすようだと陳腐なアニメだが、最速で世界の真実を明かしてしまった以上、その上に更に何を積み立てていくのかを楽しみにしていた。
が、よくあるディストピアものに差を付けるスタートダッシュは負の加速度によって二次関数的に減速し、最終的には結局よくあるディストピアものに落ち着いてしまった。騙されたままのタンカーの人生を見て決意を固めるカブラギも、システムを知って絶望した末にそれでも自分の経験だけは本物だとして立ち直っていくナツキもベタベタから一歩も出ていない(実存!)。

ただ、最終的にシステムの外に出るのではなく、多少改変されたシステムを運営する状態に落ち着いたことには好感が持てる。安定状態はシステムの外にはない。システムは進化して温存されるし、進んでそうされなければならない。
それに自覚的であったことを示すのは、オメガをあっさり討伐してしまったことだ。つまり、仮に「一般にシステムは破壊されなければならない」という単純な二元論を取るのであれば、オメガもまた保護すべき対象のはずだ。
何故なら、ガドルもタンカーと同じシステムの被害者だからである。サイボーグの都合によって生み出されたり殺されたりするガドルの事情は、一応の人生を謳歌できるタンカーよりも酷い。サイボーグにとってのバグがカブラギで、タンカーにとってのバグがナツキであったように、ガドルにとってのバグはオメガだ。ガドルにとっては生殺与奪を握られている屈辱的な状況を打開する起死回生の一手がオメガだった。
しかしカブラギやナツキはあれほどバグの素晴らしさを語ってきたというのに、同じ立場のはずのオメガを「自分たちにとって都合が悪いから」というだけの理由で華々しく討伐してしまう。彼らは徹底的に利己的であり、バグの称揚はあくまでも有益な範囲でしか発動しない。ガドルは一貫して倒すべき敵としてしか描かれず、サイボーグとタンカーが結束するための餌として利用され、最終的にも飼いならされている状態は変わっていない。

こうしたオメガの扱いはダブスタとして低評価に数えてもいいし、建設的な提案として高評価に数えてもいいが、俺は後者を選びたい。彼らが主体的に生きるということは結局のところ何らかの利己的なシステムを作り出してしまうことのはずで、そこを誤魔化しても仕方ないからだ。

補足363:システムというワードから『サイコパス』との類似を指摘するような感想も多く見たが、『サイコパス』が優れていたのは「実存志向↔本質志向」の他に「現実主義↔理想主義」という軸を設けた上で最終的にシビュラシステムを無傷で存続させたことだ→。『デカダンス』もシステムを全否定しないという意味では路線は似ているが、この土俵で比べてしまうなら、より繊細な議論を展開した『サイコパス』に軍配が上がることは否めない。

  

攻殻機動隊

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劇場版は『G.I.S.』と『イノセンス』を見ており、アニメ放送版をようやく見た。
劇場版の印象からもっと衒学的な感じかと思っていたが、意外と手堅い内容だった。前半は毎回異なる主題の電脳や義体を巡る事件を扱って世界観を提示していき、後半はバトーや局長が活躍するキャラ回も増えつつ、全体的に笑い男事件が通底するという丸い構成。娯楽アニメとしてかなり楽しめた。

全体を通して扱われる笑い男事件は、最終的に「オリジナルを欠いた偶像」というパトレイバー劇場版あたりと同じ押井守的主題に落ち着いていく。実家のような安心感はあるが、これもう他でやってるのにわざわざテレビシリーズでやる意味あったかというモヤモヤ感もある。
一番気に食わないのは、タチコマの自我発生をギャグではなくシリアスな最終回答として提出してしまったことだ。タチコマが完全機械サイドからの協力者として重要なキャラクターであることはわかるし、タチコマ回で自我は発生することは全然構わない。ただ、それはコメディでしかないのだ。自然発生する人格として笑い男と並列に扱ってしまったら、それはもう『AI崩壊』の懸念として書いたような浅薄なオカルトSFではないか?

補足364:こういう文脈で具体的な作品名を挙げるのは気が引けるが、例えば『イヴの時間』。

確かに、『G.I.S』での人形遣いは無機的なネットワークから自動発生したという意味ではタチコマと同質の存在ではある。しかし『G.I.S.』の主題は人形遣いの発生それ自体だけではない。人形遣いの発生と同時に進行する草薙素子の電脳化とセットで初めて主題なのだ。電脳世界の無機物から現実世界の有機物へ向かう人形遣いと鏡合わせに全く逆向きの軌跡を辿る草薙素子がいて、その存在を前提とした上での変遷を描いたからこそ中間地点の合流が描かれていたわけだ。
つまり、テレビ放送版では「どのようにタチコマのようなものが生まれるか」という生成論に関心があった一方、『G.I.S.』では「人形遣いのようなものはどのようなものか」という存在論に関心がある→。これは俺の関心に相対的な意味であることは前置きしておかなければならないとはいえ、存在の様態に関して広汎な議題を提示できる存在論に対し、せいぜい局所的な妄想を提示するにとどまる生成論を主題とするのは得策ではない。

 

TENET

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タイムラインのオタクどもが皆揃って見ている作品がラブライブやきららアニメではなく『TENET』になってしまったあたりに男オタクの加齢を感じる。
普通に面白かったのだが(正直に言うとよくわからんかったところは考察サイトを見て「へーそうなんだ」と思った)、素朴な単純娯楽映画以外の感想があまりない。これに限らずクリストファー・ノーランの作品はだいたい全部そんな感じで、『メメント』『プレステージ』『インセプション』あたりも軒並みそのような感想しか持てない。これは決してディスっているわけではないのだが、そんなに高尚な作品ではないというか、俺の中ではヤングジャンプ青年漫画とかにかなり近いところにカテゴライズされている。

20/11/26 Re:ゼロから始める異世界生活(第2期前半) 深化するループ者の倫理

Re:ゼロから始める異世界生活(第2期前半)

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一期に続いて非常に面白かった。
俺は普段あまり人に「これ見て」みたいなことを言わない方のオタクだが、『リゼロ』は例外的に勧めざるを得ない。『リゼロ』を見た人と見ていない人では参照可能なトピックのレパートリーが違いすぎて会話が成立しない恐れがあるからだ。『エヴァ』を見ていないヤバさを100とすれば『リゼロ』を見ていないのは50くらいヤバい。

saize-lw.hatenablog.com

一期については既存のループものから問題意識を前に進めた「ループ者の倫理」という主題を巧みに扱っていることを称賛する記事を書いたが、二期でもそれを受け継いで深化させている。論点は一期から一貫しているため、上の記事を読んだ前提で話を進める(読んでいない人は読んでおいてほしい)。

補足356:正直なところ、俺の称賛は作者の意図とは必ずしもリンクしない偶然的な解釈の産物で続編では梯子を外されることも多い(とはいえ、作者の意図に沿っていないことは解釈の価値を何ら減じないことは言うまでもない)。リゼロもその手の「解釈違い」だったら二期は見なかったことにしてシリーズごと記憶の奥底に埋葬しようと思っていたのだが杞憂で済んだ。リゼロ二期を経て長月達平に一目置くようになり、現在絶賛放送中の『戦翼のシグルドリーヴァ』も「彼が噛んでいるなら見届けておくか」という気持ちで見続けている。『シグルリ』でも「死者をどう弔うか」という観点が『リゼロ』と共通しており、その回答がどう提示されていくのか楽しみにしている。

ループへの適応と糾弾

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二期でまず起きる事態は、スバルの死に戻りへの適応だ。
一期では一貫して死に戻りを拒絶していたスバルだが、二期ではループを活かすというポジティブな利用可能性を見出し始める。それによって、スバルはベアトリスに助けられた際に怒ったり(ループが切れる危険があるから)、オットーやオズワルドに動揺が薄いことを指摘されたり(ループすれば元に戻るとわかっているから)、極めつけには彼自身が「試して持ち帰る」と発言したりするようになる。
もともと、スバルが死に戻りを嫌う理由は二つあったのだった。上の記事に書いたように、一つはスバル自身の死が肉体的苦痛を伴うこと、もう一つは(仮にリセットされるとしても)他人の死が精神的苦痛を伴うことだ。よって、スバルが死に戻りを厭わなくなることは、自身と他人の苦痛を共に軽視することを意味する。
また、ループに対する「スバルの慣れ」は「視聴者の慣れ」ともパラレルだ。『シュタゲ』や『AYNIK』では作品全体を通して一つの課題をループで解決しようとする一方で、『リゼロ』では課題がはっきり複数のセクションに分節されており、レムを助けたら次、エミリアを助けたら次というように、各目標をクリアするたびに次の目標が設定されていく。そして二期冒頭の聖域編ではこのゲームステージも6回目だかに突入し、それだけ繰り返せば見ている側も流石にもう慣れてきてしまう。そもそも『リゼロ』のプロットのパターンはそう豊富なものでもない。Bパートの終わり間際まで平和なムードだったらだいたい最後の引きで誰かが死ぬし、誰かが死ねば死に戻りするのは予想が付く。もはや衝撃の展開に既視感を持たない方が難しいだろう。
視聴者の飽きに呼応する形でスバルもまた自身の死に鈍感になり始めたという、二期にして三クール目というシリーズの長期化(小説としては長編化)を組み込んだ前提の更新が行われているわけだ。

しかし既に指摘したように、スバルがループを利用するループ者になるということは全く歓迎すべき事態ではなく、それどころか明確に反倫理的な行為だ。
少なくとも一期において、「スバルはループを上手く使えないし使わない」というところに、スバルがループ者として可能世界の全責任を背負っていることに対する倫理が現れていたのではなかったか。スバルがループを活用する岡部やキリヤのような存在になることは、スバルにとっては自らが果たすべき責任に対して鈍感になるという完全な退化に他ならない。
実際、中盤で頂点に達した「死に戻り利用路線」は第二の試練で最強の批難を受けることとなる。まさしくスバルが捨ててきた可能世界における顛末が提示され、スバルはそれらに対して責任を果たしていない=放棄した可能世界の全人類を殺害したことを激しく糾弾されるのだ。確かにスバルは多少死に戻りを活用しようとしてしまったとはいえ、第二の試練で回想されるような第一期の時点においては誰も死なないように血を吐きながら頑張っていたはずだ。にも関わらず、そうしたやむを得ない不履行までもがスバルに永遠に憑りついてくる、病的なまでの潔癖さが第二の試練からは垣間見える。

補足357:ちなみに中盤でベアトリスから提示される「ベティを一番にして」という要望もループ者一般に対する糾弾として読める。ループ者であるスバルは「皆が幸せになれる可能性」を探しがちだが、その対象の複数性はループ者が持つ並行世界の複数性とパラレルであることは言うまでもない。最初から誰か一人を選んで他の全てを切り捨てて彼女と心中できるのであれば、つまり、ただ一つの世界を選んでその世界と心中する覚悟が決められるのであれば、ループ者になどなる必要はないのだ。そして全く同じことを後半でロズワールも述べている。なお、ゼロ年代ギャルゲー批評(笑)の亡霊を呼び起こしてくるならば、もっとベタにルートシステムにおける複数ヒロイン攻略への批判として読んでもいい。

ループ者自身の幸福

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そして時系列的には逆になるが、この第二の試練を踏まえるならば、第一の試練で唐突に転生前のエピソードが挿入されたことの意義も明らかになってくる。
第一の試練で普通の過去回想が普通に始まって俺は本当にビックリしてしまった。あまりにも乱暴な概観ではあるが、異世界転生というジャンルには「現世での不憫な境遇に対する根本的ソリューション」という側面が間違いなくあるはずで、現世に残してきた問題に向き合ってしまったら、せっかく転生した意味がなくなってしまうではないか。実際、少なくとも他のファストフードのようにお気楽な異世界転生作品においては、現世を振り返ることはせいぜい教訓やモチベーションや知識のような都合の良い優越を得るための踏み台に過ぎず、『リゼロ』のように正面から真摯に反省することはまず有り得ないと言っていいだろう。
しかし、『リゼロ』では第二の試練で提示された「死に戻りで放棄した世界ですら見捨てない」という激烈な倫理を前提するのであれば、それはスバル自身の転生前の世界にも適用されて然るべきだ。異世界転生ものの第一話で行われる転移とは、都合の悪い世界から都合の良い世界への移動であり、元いた世界を全く省みずに放棄していく営みであるとすれば、これも「死に戻り」の変奏と見て何の問題があろうか。「並行世界の問題ですら捨てることを許さない」というループ者に要求される病的な倫理性は、ループジャンルに対するアンチテーゼであるだけではなく、異世界転生ジャンルにすらその鋭い切っ先を差し向ける。

更に言えば、この第一の試練において、「絶対に見捨てない」という倫理的考慮の対象がループの被害者たるレムやエミリアだけではなく、ループの加害者たるスバルにまで広がる可能性が示唆される。つまり、スバルが第一の試練において異世界転移を死に戻りの亜種と見做すことで、異世界転移において放棄された自らの過去と、死に戻りにおいて放棄された他者の可能性を同一視する契機が生まれている。ここから、スバル自身もまた死に戻りのたびに自らの生を放棄させられるループの被害者であるという観点まで跳躍するのは難しくない。

補足358:第一期時点や第二の試練でのポジションにおいては、スバルだけが世界を乗り越えられる超越者であり、その強大さにかけられた縛りが「死に戻りを口外できない」という「誓約」に象徴されていた。ところが、二期シリーズではエキドナ、フレデリカ、ベアトリス、ロズワールなどのように直接間接にスバルの死に戻りに気付き始める人物や、別経路での「誓約」を持つ人物が次々に登場し、スバルの絶対的なポジションも多少は相対化されてくる。スバルもまた自分自身のループで見捨てられる被害者で有り得るという視点は、こうしたポジションの軟化からも支持される。

そして最終的にはエキドナによる「死に戻り活用路線」の露悪的な再提案に対して、スバルは「自分自身を大切にしなければならないから」という理由で明確に拒絶する。これによって「実は死に戻りを利用してもよいのではないか?」という視聴者の飽きとパラレルに現れてきた疑問に対して改めてNOを突き付けると共に、「(ループ者以外の幸福だけではなく)ループ者自身の幸福も求める」という新しい視点が導入される。
なお、第一期時点ではループ者と被ループ者の絶望的な断絶が維持されていただけに、「スバル自身も幸福になってもよいし、なるべきだ」という幸福観の転回はスバルに対して甘くなっただけではないか、問題設定のちゃぶ台返しではないかという指摘も予想される。
しかし、その見方は誤っているとここではっきり述べておこう。何故なら、最大の主題であるループに関してはスバルの状態は決して好転していないからだ。依然として死に戻りに際しては肉体的・精神的な苦痛を味わい続けなければならないし、立て続けの試練と幸福を求める意志によってそれらの苦痛は弱まるどころかむしろ強化されている(強化された倫理は死に戻りの苦痛に対して鈍感であってはならないことを求めるのだから)。
むしろループそのものに対してはより苛烈な制約が課されてくる中で、それと併走する形で新たな幸福の形を模索するところに価値がある。主題と矛盾しないところでも過度に自罰的になる必要はない。倫理的な義務を遂行できる範囲で新たな価値観を打ち立てることは生産的な営みであろう。

ループに協力的なラスボス

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そして最後に立ち塞がるラスボスはロズワールだ。
一期のラスボスであったペテルギウスと同様、二期のラスボスになる(のだろう)ロズワールもまた、ループ者一般に関する論点を持つ敵である。上の記事で書いたように、ペテルギウスは憑依によって生をリセットできるという意味でローカルな死に戻りを持っていたのであった。ロズワールも(彼自身はループしないにも関わらず)一回性の生を捨てており自分を大切にしないという、ペテルギウスに似た価値観を持っている。

だが、ロズワールが提示する問題はペテルギウスよりもラジカルでロジカルだ。ペテルギウスがループ者自体を徹底した先の極限だとすれば、ロズワールはループ者への協力を徹底した極限にいる。
二期前半クールの終盤において、ロズワールはスバルが死に戻りせざるを得ない状況を用意していた黒幕であったことが明らかになる。「ループを強要する」、それがロズワールの本質である。ある意味、岡部やキリヤのようなループ者にとってはこれほど嬉しいこともないだろう。彼らにとってはループとはポジティブに活用できる強力な能力であり、それを活かせる舞台をロズワールはわざわざ提供してくれるのだから、本来であればロズワールはループ者との共犯者ですら有り得る。もっと言えば、「主人公にループでどんな困難をクリアさせようかしらん」などと考えているループものの「作者」こそがロズワールであり、彼は明確にループジャンルに対するメタキャラクターだ。
しかし、『リゼロ』においてスバルに課される倫理性は、ループ者でありながらループを行わないという矛盾を要求する。ループできてしまうからこそ、それをなるべく行わないのが最大の倫理なのだ。

補足359:だが、ある意味ではこの矛盾こそが倫理の本質である。喩えて言えば、生後間もない赤子にとっては「人を殺さない」という倫理が意味をなさないのと同じだ。赤子には人を殺しうる腕力も精神力も存在しないのだから、そんな規範を与えたところで最初から機能しない。成長の末に「その気になれば人を殺しうる能力」を手に入れたときにこそ、「人を殺さない」という倫理が初めて現実味を帯びてくるのである。この意味で、倫理という概念には常に遂行能力が含意されており、その根底には可能と不可能の相転移が渦巻いている。

親切にも舞台設定を整えてくれるロズワールに対し、スバルが取れる道は実質的には存在しない。ループを利用して勝ってしまっては彼の倫理が敗北し、ループを利用せずに負けてしまっては彼の人生が敗北するからだ。
この詰み状態をどう収拾するのか、第二期後半を本当に楽しみにしている。

20/11/20 ロラン・バルト『物語の構造分析』メモ 構造分析vsテクスト分析

物語の構造分析

物語の構造分析

物語の構造分析

 

お題箱に「作者の死」に関する投稿が来ていたのでやむを得ず読んだ。
ロラン・バルト及びその著作については「構造主義ブームの記号論&物語担当」くらいの解像度でしか把握していなかったが、実際に著作を読むとロラン・バルト自身はグレマスやプロップのような古典的な構造分析に対しては明確に距離を取っているのが意外だった(同じ界隈だと思っていた)。
バルトのポジションは「作者ベースの批評(歴史的批評)vs読者ベースの批評(構造主義批評)」という対立において後者というよりは、構造主義批評の中で更に分裂した「構造分析vsテクスト分析」という対立において後者という方がしっくり来る(そしてテクスト分析は構造分析よりは歴史的批評に近い)。構造分析が単に所定の枠組みで作品を捉える原始的な構造主義であるとすれば、テクスト分析はその自律性に疑いを持つポストに片足を突っ込んだ構造主義という印象。

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実際、メインの論文である『物語の構造分析序説』では主として構造分析を深化させたモデルを提示しながらも、要所でテクスト分析の必要性を示唆する構成になっている。
バルトが提示する機能-行為-物語行為という三段階層モデルは直観的にも理解しやすく、構造への当てはめゲームに終始する節がある機能リストや行為項モデルに比べると、ゆがみや拡大といった説得力のある魅力を扱える点で上位版のように感じる。
ただ、この論文における最大の力点は決して機能-行為-物語行為モデルそのものではなく、むしろこの単純な腑分けに収まらない余剰への意識であるように思われる。それはバルトが物語行為について語るところで顔を出すが、これに関してはバルト自身より日本語訳者(花輪光)の訳解の方がはっきりと書いている。

物語の自律性を前提とする内在分析は、「物語の状況」に関して十分な意味規定をおこなうことができず、逆に外在的条件までも考慮すれば、物語外の要素の介入を避けえない。物語の構造分析のこのディレンマを解決するためには、物語のディスクールを含む包括的な「ディスクール言語学」、いやさらに「エクリチュール言語学」が必要であろう。

ここで物語の構造分析を補完する「エクリチュール言語学」として現れるのがテクスト分析であることは明らかだ。ちなみに統語論に終始して文化的価値体系と接続しない構造分析のことはレヴィ=ストロースも批判していたらしい。

実践を行う『天使との格闘』でも主にバルトが行ってみせるのは古典的な構造分析に過ぎないが、その過程でテクスト分析を示唆するという『物語の構造分析序説』と同じ構成を取る。こちらの方が構造分析とテクスト分析を峻別する態度がはっきりしており、構造分析を行っている最中にわざわざ「私の本意ではないのだが」という留保をいちいち挟むのが面白い。

最後にわたしは――もっと自分を殺して――われわれのテクストに二種類の構造分析を応用し、そうした応用の利点を示したいと思う――わたし自身の作業はいくぶん異なった方向を目ざしているのであるが

また、ではテクスト分析とは何なのかという自然な疑問に対して(比較的)明晰なバルトの定義が与えられるのもこの論文だ。

テクスト分析はもはや、テクストがどこからやって来るか(歴史的批評)、またどのように構成されているか(構造分析)を言うのではなく、テクストがどのように解体され、爆発し、散布されるか、つまり、テクストがコード化されたどのような道を通って立ち去るか、を言おうとつとめるのである。

ここでもやはり歴史的批評と構造分析とテクスト分析の三種がはっきりと区別されている。この論文では嫌々行われる構造分析が主題であり、テクスト分析そのものは陽に行われてはいないが、最後にその具体的な手続きが僅かに触れられている。

周知のように、換喩的論理は、無意識の論理である。それゆえおそらく、この方面にこそ探求を続けていくべきであろう。つまり、繰りかえして言うなら、テクストの読み取りを、テクストの真実ではなくテクストの散布を、追求していくべきであろう。(中略)少なくともわたしが身に課す問題は、実際「テクスト」を、何であれ一つの記号内容(歴史的、経済的、民間伝承的、ケリグマ的)に還元せず、テクストの表意作用を開かれた状態に保つようにすることなのである。

バルト自身も触れているように、この一節にはラカン精神分析の影響があることは明らかだ。事物を記号的に構築された構造の中でしか捉えられないとするならば、次第にその構造からはシニフィエが欠落してしまい(構造は自律して存在できるのだから)、通常のシーニュではなくシニフィアンだけが残るという見解が共通していることが伺える。

よって、『作者の死』に収録されている、「エクリチュール」に並んで有名なフレーズ「作者の死」もこの文脈で捉える必要があるだろう。
「作者の死」というキーワードだけからスタートしてバルトのテクスト分析を語ろうとすることはミスリーディングとは言わないまでも、少なくとも「読者の誕生」の方がウェイトが高いことは事実だろう。作者が死ぬこと自体は、作品を単純な構造の中に分類しようとするプロップらの構造分析の時点で既に見られるからだ。作者を排除して自律的に作品を捉える閉鎖性はむしろ構造分析の特徴ですらある。
バルト自身のテクスト分析としては、作者を廃してもなお到来する領域として読者に向かっての開きを確保したところに力点がある。ラカン精神分析では「無意識」に割り当てられているような本質的に解釈不可能な領域が、バルトでは「読者の読み」に相当しているように思われる。テクストについて語ることが主題の『作品からテクストへ』でもテクストはなかなか肯定形ではっきりとは定義されず、隠喩や否定形でのみ語られることにも納得がいく。