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21/9/5 白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか:Vtuberの存在論と意味論

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前置き

これはもともとVtuber批評同人誌への寄稿を依頼されて書いたのですが、ちょうど書き上げたあたりで主催者と連絡が取れなくなって死蔵されていた文章です。音信不通から半年経ったので「まあもういいか」ということでブログにそのまま掲載します。

4万字以上あってクソ長いですが、要するに「Vtuberから演者を取り払って自律した美少女キャラクターとして見る可能性」について分析哲学の知見を援用して延々と語っています。僕はVtuberの演者にはほとんど興味が無くてVtuber批評で主流(?)の「ペルソナ」「魂とガワ」「ロールプレイ」みたいな演者を前提としたジャーゴンにあまりノれず、むしろそういうものを完全にオミットしたキャラクター論を立てたかったというモチベーションがあります。

内容はそこそこ哲学的ですが知らない人でも読めるように結構丁寧に解説を書いているので普通に読めると思います。白上フブキについても特に何も知らなくて大丈夫ですが、ビジュアルと簡単な設定くらいは知っておいた方がスムーズに読めるので、一応参考用に公式HPから引っ張ってきたプロフィールを貼り付けておきます。

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(公式HPより:https://hololive.hololivepro.com/talents/shirakami-fubuki/)

白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか

1.「白上フブキとはどのような存在か」とはどのようなことか:虚構的な存在と虚構的な命題

Vtuberとはどのような存在か。

この問いへの答え方は一様ではない。技術的な見地からVtuberを実現するテクノロジーを語るかもしれないし、文化批評的な見地からVtuberに類似するカルチャーとの差異を語るかもしれないし、美学的な見地からVtuberを鑑賞する際の態度を語るかもしれない。抽象的な質問の多くがそうであるように、この問いへの答え方自体がその人の思う最大の関心を提示するだろう。そしてそれは個々人の多様な興味に相対的であり、Vtuberという存在については今までにも多くのことが語られてきた。

しかし、わたくしにとってのこの問いの核心は「Vtuberを名乗る美少女その人はどのような存在であるのか」であり、意外にもこのタイプの答え方はあまり顧みられることなく放置されてきたように思えてならない。紋切型の表現が若干の誤解と反発を生むことを警戒しつつも、読者の円滑な理解のためにまずは断言しよう。わたくしの言う「Vtuberを名乗る美少女その人」とは「演者ではなく美少女キャラクターの方」という意味であり、わたくしは演者の振る舞いを徹底的に取り除いた上でVtuberを語ることを志向していると。わたくしは「演者がどうやってVtuberを生み出しているのか」とか「演者のステータスがVtuberにどう反映されているのか」とか「演者がVtuberを通じてどのような試みを行っているのか」とかいうような話題にはもううんざりしてしまっているのだ。わたくしが語ろうとするのは常にあの美少女だけであって、それを動かしている人間には深く感謝しこそすれ、その者について何事かを語ろうとしているのではない。語るべき対象を取り違えることはもうやめようとあなたにも同意して頂けるのであれば、わたくしは心強い味方を一人増やしたことになる。

とはいえ、演者を失ったとき、「純粋なVtuber」なる存在は最大の拠り所を失うことは紛れもない事実である。そうやって寄る辺なき暗黒の宇宙に宙吊りになった彼女をどう救い出せばよいか。その救出は彼女の名前が紡ぐ糸を手繰って彼女の存在を見つけ出し、虚構世界という足場に着地させる作業であることをわたくしはこれからの議論で示すことになるだろう。しかしさしあたり「演者を完全にパージした文脈においてVtuberはどのような存在なのか」という問いの立て方が見た目よりも遥かに厄介であるということは、Vtuberに関する非常に簡単な命題を一つ取り上げるだけで明らかになる。

命題F:「白上フブキは狐である」

さて、この命題Fは真か偽か? それを考えるところから始めよう。

補足1:以下、具体的なVtuberの固有名を使用したい場合は常に「白上フブキ」を用いることにする。「白上フブキ」というワードが出てきたら、それは白上フブキに固有の特殊な性質について語っているのではなく、「Vtuberの適当な名前を一つ挙げている」というニュアンスであることを了解して頂きたい。伴ってVtuber一般を「彼女」という代名詞で受けることがあるが、それは本稿の議論が女性に限ることを意味しない。また、「現実に存在する人物」の代表としては「ソクラテス」を、「(Vtuber以外の)フィクション一般の登場人物」の代表としては「シャーロック・ホームズ」を用いることをここで予告しておく。なお、知名度を考慮すればチャンネル登録者数が最も多い「キズナアイ」をVtuberの代表に用いるべきだが、いまやキズナアイ存在論的に極めて特殊な挙動をするVtuberであるため、代表として取り上げるのは適切ではない。また、現時点でキズナアイの次に登録者数が多いのは「Gawr Gura」だが、彼女は英語話者であるために統語論的な文脈で彼女の発言を取り上げる際に厄介になりそうなので見送り、消去法で登録者数三位の「白上フブキ」を用いることに決めた。ところで、ここまで述べた理由は後付けで捻り出したものであり、本当の理由はわたくしが白上フブキのファンだからということは言うまでもない。

まず最初にはっきり言っておかなければならないのは、命題Fが端的に「真である」と結論することは、不可能とは言わないまでも極めてラディカルな立場を受け入れざるを得ないということである。何故なら、生物学的な常識としては狐は人語を喋らないからだ。もし白上フブキが狐であることをあなたが認めるのであれば、あなたは人語を介して二足歩行する狐を発見したことになる。次にあなたがやるべきことは、今すぐに全世界で出版されている生物学の文献全てに異議を申し立てる論文を執筆することだ。言語が人間だけのものでないことを証明したあなたの発見は言語学のみならず精神分析脳科学にまで多大な影響を及ぼすに違いない。人類知を大きく前進させた二十一世紀最大の偉人の一人として、あなたの名前は十世紀くらいは語り継がれることになるだろう。

あなたがその輝かしい栄光を手に入れるために行動を開始することなく、愚かにもまだこの文章を読み進めているのであれば、あなたは少なくともその手の狂人ではないということだ。実を言えばわたくしもまた底抜けの常識人であるから、先ほどは軽い冗談を披露したに過ぎない。要するにわたくしの言わんとすることは、命題Fを端的に真であるとするのはかくも難しいということだ。

加えて、我々のように全く常識的な立場から考えれば、そもそも命題Fが何を意味しているかも判然としないことに気付く。何故なら、命題Fに含まれている「白上フブキ」という固有名が示す対象はこの世界のどこにも存在していないからだ。もしあなたが「白上フブキ」という固有名を用いる際にあの白髪で狐耳の生えた女の子の実在を主張しているなら、それはそれであなたは生物学を大きく更新してしまうように思われる。常識的に考えれば「白上フブキ」なる固有名にはそれが指す対応先が存在しない。よって、「白上フブキ」という単語及び「白上フブキ」を用いた文が何を意味しているかは不明ということになる。

補足2:ただし、もし白上フブキが端的に存在しないという立場を取るとしても、「白上フブキ」という単語を含む命題の全てが真ではないとは限らない。例えば、「『白上フブキ』の二文字目は『上』である」や「白上フブキは存在しない」といった命題は、白上フブキが存在しないとしても真であるように思われる。

さて、ここまで述べたことによれば、あなたがかなり気合いの入った狂人でない限り、命題Fは良くて真ではなく、悪ければ意味不明であるようだ。

だが、わたくしが自信ありげに述べているところに反して、あなたの常識はむしろ声高に否と叫ぶ頃合いであるに違いない。というのも、「命題Fは意味不明だ」という主張は明らかに直観と合致しないからだ。ここまで上記の通り語ってきたわたくしであろうとも、日常的な会話では命題Fが真であると述べることは否定できない。このことは「白上フブキは女性である」と「白上フブキは男性である」という二つの命題を比べることでよりはっきりする。我々は明らかに前者の方が後者よりも何らかの意味で真であるという確信を持っているし、どちらも同じくらい意味不明だと言って並べて棄却する振る舞いはそれはそれで狂人じみていると言わざるを得ない。そして、こうして現に性別についての言説を診断できる以上、白上フブキもまた何らかの意味で存在すると言わざるを得なくなってくる。

ああ、わたくしはもう全くわからなくなってしまった! 白上フブキは存在するのか、そして命題Fは真なのか?

だが幸いにも、わたくしの残してきた記述にはそれを解決するヒントが眠っているようだ。注意深い読者がわたくしよりも先に勘付いていたと期待したいのは、ここまで命題Fの真理値について、わたくしは一貫して「真ではない」という表現しか与えていないことだ。わたくしは「真ではない」とは言ったが「偽である」とは言っていない。というのも、その二つが同値であるとは限らないからだ。確かに標準的な二値論理においては「真ではない」は「偽である」を意味するが、三つ以上の真理値が可能な場合はその限りではない。

命題Fが言葉通りの意味で真ではないのは明らかだが、かといって端的に偽であるとすることにも大きな抵抗があり、むしろ何らかの意味では真なのだ。こうした曖昧な立場を調停するために、ここで第三の真理値としてわたくしは「命題Fは虚構的に真である」という回答を認めることにしよう。命題Fは何らかの虚構においては真である。すなわち、確かに現実世界には白上フブキは存在しないが、ある虚構世界においては白上フブキが存在し、かつ、その世界において白上フブキは狐である。命題Fはこの現実世界では偽かもしれないが、その虚構世界においては真なのだ。

もし我々が命題Fを「虚構的に真である」と胸を張って言えるようになるのであれば、もう少し都合よく拡大解釈すれば、「ある虚構世界において」を意味する句として「虚構的に」を用いることもできるだろう。例えば、「虚構的に白上フブキは存在する」「虚構的に白上フブキは女性である」「虚構的に白上フブキは綾鷹を好む」は端的に真であるとして良いように思われる。これらは現実世界の話ではなく、虚構世界の話として提示されているからだ。

補足3:以下、「虚構的に真である」「虚構において真である」「虚構世界で真である」といった表現を全く同じ意味で用いる。

さて、我々は「虚構的な」という句を発見することによって、白上フブキの虚構的な存在と虚構的な命題の真理値を得ることに成功したことにしよう。そろそろ種明かしをすると、ここまでの話はVtuberに限ったことでもなく、一般的なフィクション全般に関しても同じことが言える。すなわち、「白上フブキ」ではなく「シャーロック・ホームズ」についても全く同様の議論が展開できる。例えば命題「シャーロック・ホームズは名探偵である」は『シャーロック・ホームズ』の世界で虚構的に真だと言えよう。念のために繰り返すと、それは「『シャーロック・ホームズ』の世界にはシャーロック・ホームズが存在し、その世界においてシャーロック・ホームズは名探偵である」を意味するのだった。

しかし、わたくしが関心があるのはフィクション一般についてではなく、あくまでもVtuberについてである。よって、フィクション一般とVtuberの共通点を見つけて喜んでいるわけにはいかないのだ。わたくしが真に発見しなければならないのはVtuberの独自性であり、それはフィクション一般とVtuberのむしろ相違点であることをここではっきり述べておきたい。わたくしの大きな目的の一つとして、ここまでに述べてきたような「虚構世界の存在者」及び「虚構的な命題の真理値」の二点について、フィクション一般から区別されるVtuberに特有の事柄を発見し、その背景や帰結について論じることがある。それは現実世界にいる演者の手が届かない虚構世界において、Vtuberが小説やアニメのキャラクターとはどのように異なる存在なのかを探ることでもある。

だが、わたくしは少し先走りすぎてしまったようだ。わたくしが本論に入る前に語るべきことは山積みになっており、それらは主として以下の二点に集約される。

まず第一には、Vtuberを論じる言説の中でのわたくしの立ち位置を固めなければならないことがある。これはわたくし個人の狭い観測範囲に依存した偏狭な見解であることは前置きしておかなければならないにせよ、今ここでわたくしが扱おうとしている「Vtuberの固有名」だとか「Vtuberに関する命題の真理値」だとかいう話題は、よくVtuberについて論じられているような事柄とは大きくかけ離れているように思われてならない。冒頭でも軽く触れたように、「Vtuberのガワと魂」がどうとか、「Vtuberのペルソナ」がどうとか、「Vtuberのロールプレイ」がどうとかいう、もっとそれらしい話題は山のようにあり、どちらかと言えば読者はそちらへの関心が高い傾向にあるはずだ。もしそうならば、わたくしが卑怯にも脇道から行おうとしている哲学めいた話はメインストリームの話題に対してどういったポジションに置かれるのかを詳しく説明する義務があるだろう。ついでに言えばわたくしはあまり哲学的な話題に馴染みのない読者にも容易に理解できる文章を書きたいと思っているし、そのために前提を明記しない飛躍や無駄に権威的な引用を避けた記述を心掛けたいと思っている。その際に捨象されざるをえない正確さや誠実さについては、ある程度は補足や参考文献で弁明するが、生け贄に供されるものが少なくないことを許して頂きたい。 

そして第二に、哲学的な議論の基盤をもう少し真面目に固めなければならないことがある。今まで当たり前のように書いてきた「白上フブキは虚構世界に実在する」という理屈は、人生でフィクションに慣れ親しんできたオタクたちにとっては直感的に理解できるものだと信じたい一方、それ以外の人々にとっては全くそうではない。というのも、それは「別世界の存在」などという明らかに形而上学的で疑わしい主張を含むからだ。これは命題Fを真であると主張するのと同じかそれ以上に了解し難いと糾弾されることは容易に想像できる。その完全なる解決は望むべくもないとしても、わたくしの主張にはどういった背景や代替案があるのかくらいは提示する義務があるだろう。幸いにも、その作業もまたフィクション一般に関する分析をベースにして行うことで、Vtuberだけの際立った特徴の発見に繋がることをわたくしは最大の自信を携えて予告しておこう。

プロローグの最後に、わたくしは「Vtuberの定義」なるものを行わないし行う気も無いということを述べておきたい。強いて言えば、「わたくしがVtuberとして思い浮かべているキャラクター」という主観的にして個別的な定義を挙げるしかない。わたくしが頑なにVtuberの定義を避ける理由は、定義自体が不毛であることと、定義を固く定めて論じる営みが不毛であることの二点ある。

まず第一に定義が不毛であるというのは、Vtuberという言葉の定義は内包と外延のいずれもが主に拡張される方向で日々目まぐるしく変化し続けていることを念頭に置いている。無理にVtuberの定義を設けようとしたところで、あまりにも自明な条件によってVtuberの豊潤な特徴を捉え損なうか、あまりにも厳しい条件によって限られたVtuberの先鋭化した特徴しか論じられないかで終わるだろう。その暗澹たる末路よりは、必要でも十分でもないことを自覚した定義もどきで満足することの方が、最終的には優れた結論を導くとわたくしは信じる。

そして第二に定義を固く定めて論じる営みが不毛であるというのは、枠組みの硬直した議論を展開するよりも、Vtuberの定義が更新されることに併走して更新していけるような柔軟な議論の枠組みを用意する方が有益であるということだ。今いるVtuberの定義に対してのみ適用できる一過性の議論を繰り広げることの生産性の低さはそろそろ周知されていると信じたい。わたくしが妄想するVtuberの定義もどきが変化して時代遅れになるようであれば、新しい定義もどきに沿うように議論を組み立て直せばいいだけなのだ。その再建に必要なパーツは用意するつもりである。そしてそれは将来的な広がりだけではなく、今ある広がりに対しても言える。すなわち、今いるVtuberの中でもわたくしの定義もどきにそぐわないVtuberがいるならば、その暫定的例外に合わせて議論の細部を改訂する仕事はあなたにお願いしたい。その改修に必要なツールを用意するのもやはりわたくしの仕事である。これは甚だ傲慢な意欲ではあることは承知しているが、わたくしは場当たり的な各論ではなく頑強な原論を志向しているのである。

さて、これで準備は整った。本稿の構成は以下の通りである。第二節ではVtuberに対する言語的な関心の水準を整理することで、既存の言説に対する本論の位置付けと、本論が持つ関心を明確化する。第三節と第四節では哲学的な基盤を固める作業を行う。第三節では固有名について記述説と因果説を対立させた上でVtuberの固有名に関しては後者が親和的であることを示す。第四節ではフィクション一般における世界の不完全性について論じた上で、Vtuberがそれを受け入れたり克服したりする可能性を示唆する。第五節では虚構的な命題の真理値を決定する方法について論じ、Vtuberに特有のロールプレイを演者をオミットした意味論的観点から解釈する。第六節では本稿のまとめに加えて参考書籍を紹介するという体裁で本稿の不備に関する言い訳を一通り並べて結びとする。

2.白上フブキを語るとはどのようなことか:言語的フィクションを語る三つの水準

既に察しが付いているように、わたくしが行うVtuberの探求は言語的な戦略を取る。すなわち、Vtuber自身が行う営み及び、我々がVtuberに対して行う営みが言語によることを前提する。

わたくしが不誠実にもわたくしの論が取り落とすものに関して黙秘していると思われないためにここで言わなければならないことは、言語的な側面はVtuberが持つ様々な側面のごく一部に過ぎないということだ。よってわたくしが言語的な戦略を取ると宣言することは、ただちにそれに沿わない要素を少なからず捨象することを意味する。例えばVtuberが喋ったり歌ったりするときの聴覚的な音階や声色、指のトラッキング等の微細な視覚的効果、Vtuberとコミュニティの間で取り交わされる金銭的な交換など。

だが、幸いにも我々の言語はVtuberの営みを記述するのに十分すぎるほどの表現力を持っている。先ほど除外したような言葉を伴わない活動が副次的なものに過ぎないと言うつもりはないが、Vtuberの主な活動の一つは言語的なそれであるということくらいは試しに主張してみたところで完全に反駁されるものではないように思われる。実際、Vtuberからの発信にはトークやツイートがあり、コミュニティからのレスポンスにも配信へのコメントなり同人誌なりブログなりがあり、そうした言葉を介して行う活動が最大派閥の一つを占めるという見解は最大まで譲歩してもまだ正当でいられるだろう。

さて、Vtuberを言語的な側面から語るという試みが最も親和的なのは配信型のVtuberであることは間違いない(この鍵括弧内ではVtuberの代表としてではなく固有の性質を持つものとして言及するのだが、例えば白上フブキがそうだ)。配信型のVtuber、すなわちほとんど編集動画の投稿をせずに生配信で雑談やゲーム実況をするようなVtuberにおいては、動的には表情や口パクを示す程度の3DモデルやLive2Dが画面の一部を占めるに過ぎず、視覚的効果への関心が明らかに低下している。そこでは主に本人の声と視聴者のコメントによる言語的な応酬によってVtuberという営みが駆動する。とはいえ、わたくしは本稿の関心が配信型のVtuberにしかないと誤解されることを大いに警戒している。わたくしの前置きが言わんとすることはあくまでも「配信型のVtuberを思い浮かべると理解が容易であるかもしれない」という程度のことでしかなく、実際にはもっと幅広い適用先を持つ論となることを意図している。

補足4:わたくしはVtuberに関わるパロールエクリチュールの違いについて掘り下げるつもりはないし、それらはむしろ言語的な営みであるという点で同一項として括るだろう。

補足5:むろん主として言語を用いないVtuberもいるし、例外は常にある。だが、例外に対して敏感に言及することが不毛であるのは既に述べた通りであり、例外だと感じるものは適宜議論から除外するなり、議論を変形させるなりの対応を読者側に求めたい。

わたくしが言語的な側面への注目を宣言したことにより、分析に際してVtuberとの比較の足場とするフィクション一般についても、主として言語的フィクションを扱うことになる。さしあたって、最も典型的には小説を、近縁のバリエーションとしては演劇の台本や設定資料集や言語化されたあらすじなどを想定して頂ければよい。なお、漫画やアニメのようなかなり視覚寄りの媒体であっても、Wikipediaに記載される情報のようにテクストへと加工したものであれば言語的フィクションの一例として考えることもできるだろう。

補足6:以下、単に「フィクション」とだけ書いたときは言語的フィクションを想定していると考えてよい(彫刻や絵画を想定しなくてもよい)。

さて、これからやりたいことはフィクション一般と比べてVtuberがどのような顕著な特徴を示すかの分析である。ただし、フィクションの特徴と言ってもそれには様々なものがある。例えば、「~ぺこ」というような妙な語尾の使用だったり、「狐が人語を解する」というような現実とは異なる事態だったり、演者が日常会話と違って演技をしているというような言葉の使い方の違いだったりする。これらを一緒くたにして扱うことには無理があるので、まず最初の仕事として、フィクションがその特徴を示す水準について三つの区別を確認しておきたい。すなわち、統語論・意味論・語用論という三つのレベルについて、それぞれの水準で語るということがどのような論点を含むのかをはっきりさせておこう。最初に前置きしておけば、わたくしの関心があるのは主に意味論の水準であり、他の二つは関心を正確に峻別するためのガイドとして敷設していくに過ぎない。

まず第一に、統語論の水準について。統語論とは語彙の選択や語を繋げる文法の選択のように、言葉の形式的な使われ方を論じることを指す。例えば、「今日は寒いな」と「寒いな、今日は」を比べたとき、語順の形式的な逆転について関心を向けるのであれば、統語論的な関心が作用していると言える。

フィクション一般における統語論的な効果としては、独特の語彙や文法が用いられることがよく知られている。例えばフィクション特有の語彙としては、「どんぶらこ」という擬音語が挙げられる。「どんぶらこ」という語は日常生活ではまず使用しないものであるから、それが登場した瞬間に「これは恐らくフィクションの一節だな」と考えるのは自然な推測であろう。また、フィクション特有の文法としては、「過去を示さない過去形」が挙げられる。例えば「明日は誕生日だった。」という文は小説の一節として読めば明日が誕生日であることを示すものとして自然に読めるが、会話で使用した途端に過去形で未来を示すという時制的に奇妙なものになってしまう。

補足7:一応、「明日が誕生日であることを今思い出した」という状況で「明日は誕生日だった!」と叫ぶことは日常的にも自然である。ただし、その際の「だった」は「思い出した」の流れを汲む過去形ないし完了形であり、単に「誕生日である」と言うときの「である」を過去形にしたものではない。正直に言えば、わたくしは日本語には詳しくないのでこの文法分析にはあまり自信がないのだが、ともかく今わたくしが認めて頂きたいのは以下のことである。通常の会話で「明日は誕生日だった」の使用が自然であるケースは「明日が誕生日であることを今思い出した」というような特殊なシチュエーションに限られる一方、フィクションにおいては「ずっと前から明日が誕生日であることを知っていた」というシチュエーションを含め、特に含意の無いフラットな記述として読めるだろうということだ。

他にもフィクション特有の特殊な語法としては奇妙な人称があるだろう。例えば、小説においては「ホームズはとても不安になった」のように、誰が語っているのか明確に特定できないような、いわゆる三人称視点が用いられることが珍しくない。この一節をホームズが語っていることは有り得ないし、かといって他の誰かが語っているとも考え難い。というのも、ホームズはぶりっ子のOLのように自分のことを自分の名前で呼ぶわけではないし、他の誰かであれば何故彼の心情をはっきり確信して語れるのかが不明だからである。

総じて、統語論的な水準においては、フィクション一般に独特なしるしが見られると言えよう。

補足8:こうしたフィクション一般に見られる奇妙な統語論的性質が何に由来して何を示すのかは本稿の関心外なので一旦脇に置いておく。そうした特徴が観測されるということだけとりあえず把握して頂ければ十分である。

補足9:ただし、フィクションにおいても統語論的なしるしは何ら存在しないという立場もある。わたくしはさしあたり統語論的なしるしの存在を肯定するが、正直に言えばその方が論の展開に都合が良いというだけなので、否定派から議論を再構成して頂いても構わない。

ところが、統語論の水準においてVtuberは奇妙な挙動をほとんど示さない。キャラ付けのための独特な一人称や語尾の使用は見られるが、それを除けばVtuberが発する言葉は我々が日常的な会話で発する文と完全に同じであると言ってもよいように思われる。白上フブキが「明日は誕生日だった」と述べたとして、その言い回しは少なからず独特なものか、補足で述べたように余計な含意を含むものと感じられるだろう。そして我々がVtuberを語る際に用いる文章からも異常な過去形や三人称視点は放逐されている。

補足10:ただし、Vtuberに関連する営みでありながら、Vtuberをキャラクターとして用いた創作ではこの限りではない。例えば、わたくしが白上フブキの穏やかな一日を綴る小説を執筆したとして、そこで「明日は白上フブキの誕生日だった」という文を用いることは適切である。ただし、それはVtuberというよりはVtuberをダシにしたフィクション一般であると考えても問題ないように思われる。よって、わたくしはこれ以降「Vtuberをキャラクターとして用いた創作」は必ずしもVtuber固有の特徴を示すものには含まれないとして、フィクション一般とVtuber固有の特徴を比較する文脈では原則として考慮しないことにする。それに不満がある方は自ら論を補正すること。

よって、Vtuberは「一般的にフィクションに見られる性質を示さない」という消極的な意味で統語論的に顕著な性質を持っていると考えられる(もちろん、わたくしが些末な事柄であるとして棄却した「独特な一人称や語尾」に注目し、それだけが残っていると表現して頂いても構わない)。この取っ掛かりから、その消極的性質が会話劇や演劇における発話と全く同様の事情で発生しているのかなどの議論を更に掘り下げていくことは有効であろう。だが我々の関心はこの水準にはないため、その捜索はひとまずここで打ち切ってしまおう。

続いて第二に、意味論の水準について。これは文字通り言葉の意味を巡る水準、すなわち文の命題としての真偽であるとか、固有名の指示について論じるレベルであると考えて頂いてよい。既に述べた通り、この水準こそわたくしの関心先として後節でよく掘り下げるものであるので、今は簡単に意味論と存在論の関係について紹介するだけに留めておこう。

補足11:ところで「命題」をきちんと定義するのは実はかなり厄介なのだが、差し当たっては「表現のバリエーションに依存しない判断の中身」くらいの理解で良い。「白上フブキは女だぜ」と「白上フブキちゃんは女だよ」と"Shirakami fubuki is a woman."の三つは統語論的な表現としては明らかに異なっているが、それが言わんとする内容が全く同一であることはわかるだろう。つまり、命題としては「白上フブキは女性である」なのだ。説明を少し先取りするが、命題を巡る意味論は統語論的な語彙の違いや語用論的な状況の違いには原則として関心を持たないと考えて頂いてよい(ただし厳密に言えば意味論も完全に状況から逃れられるわけではないということは、「私は男性である」という命題の真偽がその話者の性別に依存することからわかる)。

わたくしが関心を持つのは「白上フブキ」のような虚構的な固有名の指示と、命題F「白上フブキは狐である」のような虚構的な命題の真偽の二点であることは既に述べた。これが虚構的でない場合、つまり「実在の固有名」を用いた「実在的な命題の真偽」なら話は簡単だ。例えば「ソクラテスは狐である」は端的に偽である。というのも、「ソクラテス」という固有名に対応するおじさんが確かに存在し、かつ彼は人間であって狐ではなかったからだ。一方、「白上フブキは狐である」においては、白上フブキが狐であるか否かを判定するに際して「白上フブキ」という固有名に対応する少女が存在するか否かがまず問題となる。よって、意味論的な問題意識においても、「白上フブキ」という固有名が指す先としての存在を考える議論が必要になってくるということだ。

補足12:念のため書いておくが、「ソクラテスが本当に存在していたかどうかはわからない、そしてそもそもこの世界に私の認識を離れて独立に存在しているものなどあるのか?」などという懐疑論は積極的に棄却する。哲学的な議論だからといって常にそのレベルで疑う必要は無い。わたくしは常識的な存在論的感性を信じているので「常識的に考えて存在すると思われるものは存在する」とだけ述べてこの話を終わらせる。ただし心の底から「今目に見える富士山が本当に存在しているかどうかわからない」と不安に思っている人も稀にいるようではあり、あなたがその手の例外者でないことを祈るしかない。

最後に、第三の語用論の水準について。これは言葉が使われる状況や話者の意図について論じる水準である。語用論的に異なる言葉の使い方とは、例えば教育勅語復活を目指す極右のコミュニティで「天皇万歳!」と叫ぶことと、天皇制打倒を目指す極左のコミュニティで「天皇万歳!」と叫ぶことを比べれば良い。前者ではこの言葉は文字通り「天皇は素晴らしい」というメッセージになるが、後者ではそれは真逆の意味を持つ皮肉となるだろう。このように発する言葉が全く同じでも、話し手や受け手の持つ意図や文脈によって言葉が持つ内容は変化しうる。

フィクション一般においては、話者とは作者に相当するので、語用論的には作者がどのような意図や状況でフィクションを語っているかを考えることになる。その問いには無数の回答があり得るが、典型的なアンサーとして「フィクションの文面は本物の主張ではない」という考え方は直感的に最も理解しやすいように思われる。というのも、日常会話で「東京に震度3の地震が発生した」と述べることは現に東京に震度3の地震が発生したと話者が主張していることを意味するが、フィクションの文中に「東京に震度3の地震が発生した」と書くことは現に地震が発生したと作者が主張していることを意味しない。この例を以て今ここでわたくしが言わんとしていることは、語用論的な関心の下ではフィクションにおける記述は作者の言語使用として、作者と結びついて捉えられる傾向にあるということである。

さて、Vtuberにおいて、言葉を使う話者=フィクションを語る作者は明らかにVtuberの演者であろう。冒頭にも挙げたような「演者がどうやってVtuberを生み出しているのか」といった演者の言葉の使い方や意図を問題にするタイプの議論は語用論の水準にある。また、ここで詳しい解説をするつもりはないが、「魂とガワ」「転生」「ペルソナ」「ロールプレイ」あたりのジャーゴンも主にはこの水準で開発され、大きな関心が向けられてきたように思われる。

補足13:正確に言えば、語用論とは必ずしも作者や演者のような現実に存在する言語使用者にのみ紐付くものではない。もっと緩く「言葉の使われ方」の問題であると考えるならば、とりあえず言語を使用していると措定できる主体や、言語が機能していると思われる環境さえあれば、語用論的な議論を開始することはできる。例えば「小説内部におけるキャラクターの語り方」や「看板に書かれた文字が解釈される様子」を論じることがそれに相当する。そしてわたくしのモチベーションはあくまでも演者という視点をパージすることにあるので、必ずしもVtuber自身の語用論までも排斥する必要はない(とはいえ積極的に言及する予定もないが)。つまり、わたくしが誠実であるために密輸入してはならないのは語用論の中でも特に「演者の語用論」に限られる。

わたくしが語用論の水準を紹介することで読者と認識を共有しておきたいのは、「演者の言語使用という視点を持ち出さずに議論を行いたい」ということに尽きる。冒頭でも宣言したように、わたくしの最大の目標は演者をパージした限りにおいてのVtuberの存在を捉えることにある。しかし、演者の言語使用にその存在や命題真理値の根拠を帰すような実に人間的な分析は極めて魅力的であり、少しでも気を抜けばそのようなやり方で問題を収拾したくなる。だが、今仮に白上フブキの演者をMさんとすれば、白上フブキではなくMさんに関心を向ける道はキャラクターそれ自体に達する道ではない。まさしく白上フブキとして名指される美少女その人に出会う唯一の道は、演者の意図や発話の水準を自覚的に退け、時には形而上学的胡散臭さを纏うとしても、ただひたすらに存在論を切り詰めることであると信じる。わたくしの持つモチベーションと演者の言語使用という局面の噛み合わなさは、わたくしが固執する存在についての議論が、演者を持ち出した途端に「まるで白上フブキというキャラクターであるかのように言葉を用いるMさんが『存在する』」と述べるだけで店仕舞いとなる不毛さからも理解して頂けよう。

補足14:語用論の水準での議論を正確に行うためには、Vtuber自体の固有名と演者の固有名を厳密に切り分ける必要がある。演者の固有名としては、Googleの検索窓に「白上フブキ 前世」と打ち込むと一番上に出てくる「も」で始まる女性のハンドルネームを使いたい誘惑には抗しがたいものがある。しかし必要以上の解像度で演者に言及することを蛇蝎の如く嫌う人間が相当数いることをわたくしは大いに承知している。わたくしはそうしたマナーを遵守することが有意義だとは決して思わないのだが、本筋を外れたところでヘイトを集めるのは本意ではないことと、正確なハンドルネームを用いなくても議論には何ら支障はないことから、演者の固有名を用いる必要があるときはそれを「Mさん」と書くことにしたい。

補足15:なお、語用論の水準でVtuberを語る際に最強の切り札になるのは間違いなくケンダル・ウォルトンのメイクビリーブ理論であるように思われる。実際のところ、わたくしがその魅力に抗うのが最も難しい道具立てだと感じているのもそれなのだ。極めて広範な射程を持ち、かつ、フィクションの本質をごっこ遊びと見做すウォルトンの理論はVtuberとの相性が良すぎる。それはあまりにもVtuberに対して強力すぎるが故に、それを用いてVtuberの分析することが、ただひたすらに理論の正しさを追認する当てはめゲームに終始してしまうのではないかと心配になるほどだ。

さて、ここまでVtuberを含むフィクションの特徴を語る水準を統語論・意味論・語用論の三つに区別してきた。こうした水準の違いは発言自体を分類するものではなく、個々の発言を様々なアスペクトから見るものであることに注意されたい。例えば、白上フブキによる「今日はマインクラフトを実況しまーす」という発言について、それぞれの水準で関心があり得る論点としては、具体的には以下のようなものが挙げられよう。統語論的には、彼女が「実況するぜ!」でも「遊びます」でもなく「実況しまーす」という言い回しを使っていることに関心があるかもしれない。意味論的には、この発言を受けて「白上フブキがマインクラフトを実況する」という命題にどのような真理値が与えられるかに関心があるかもしれない。語用論的には、Mさんが実際にマインクラフトを遊ぶという行為の遂行を意図した発言であるのかどうかに関心があるかもしれない。

しつこいようだが、わたくしは意味論の水準で「白上フブキ」というような固有名の指示と、「白上フブキは狐である」というような命題の真偽の二つに関心があるということは述べてきた通りである。他の水準に浮気することのないように細心の注意を払いつつ、次節から本来の関心がある議論へと歩を進めよう。

3.白上フブキを指示するとはどのようなことか:直接指示と因果説

「虚構的な固有名の指示」と「虚構的な命題の真偽」の二点について関心があることは既に何度も述べてきたが、本節で扱うのは前者についてである。

わたくしが当初に命題F「白上フブキは狐である」のソリューションとした「虚構的に真」という真理値は、虚構世界に存在する虚構的存在者の指示に成功することを前提としていた。既に注意した通りこれはある種の異世界を認めるという点で、かなり強力な形而上学的主張を含んでいる。とりわけ、「白上フブキ」という固有名について、現実世界と虚構世界を越境して指示に成功しているという貫世界的な能力が認められることがその最たるものだ。「白上フブキ」という固有名が世界の内実に依らずにただ一つの白上フブキという対象への指示を行えることを、「直接指示」と呼ぶことにしよう。むろん直接指示があるからには、やや不正確な表現ではあるが、「間接指示」をそれに対置するのがわかりやすかろう。

ここで本節でのわたくしの目的を少々先取りして言えば、直接指示である因果説と、間接指示である記述説とを対比させ、Vtuberについては前者に軍配が上がると主張することにある。以後、まずは記述説についてしばらく説明を行い、その難点を解決する別案として因果説を取り上げ、フィクション一般及びVtuberでの適用を比較するという手順で着実に議論を進めていこう。

ということで、まずは記述説について。「記述説」などと言うと堅苦しい学説のようだが、その内実は「固有名を記述の束と同一視する」ということに過ぎず、それは我々が日常あまりにも当たり前のように行っていることであるから、逆にわざわざ説の名を冠させることに読者が困惑するのではないかとわたくしは心配になってしまうくらいだ。

固有名を記述の束と同一視するということを具体的にやってみよう。例えば固有名「ソクラテス」には「古代ギリシャ時代の人物である」「哲学に強い」「毒杯で死んだ」などの様々な性質が付随していると思われるので、命題「ソクラテスは男性である」は以下のように書き換えることができる。

「あるものがただ一つ存在し、それは古代ギリシャ時代の人物であり、哲学に強く、毒杯で死に、そしてそのようなものは男性である」

補足16:∃x(古代ギリシャ(x)∧哲学(x)∧毒杯(x)∧∀y(古代ギリシャ(y)∧哲学(y)∧毒杯(y)⊃x=y)∧男性(x))と書いた方がわかりやすい読者が一定数いることは承知しているが、この表記を説明するための一節を設けるよりは、この手の表記を省く方が効率的だというわたくしの判断を尊重して頂ければ幸いである。

要するに、ソクラテスが持つ様々な性質の連言を取って存在命題とみなすことによって、命題からは「ソクラテス」という固有名を消去できる。具体的に言えば、「ソクラテス」と書く代わりに、「あるものがただ一つ存在し、それは古代ギリシャ時代の人物であり、哲学に強く、毒杯で死ぬ」と書くわけだ。実際にはソクラテスが持つ性質群は三つどころではなく、「プラトンを弟子とした」「哲人王思想を持つ」「わりと嫌われていた」等々を含む膨大なリストになるだろうが、それら全てをかき集めてソクラテスを特定するのに十分な記述の束を作成し、それを固有名の代わりに用いると考えて頂いて構わない。ソクラテスを説明するのに十分な性質を数え上げたものが作成できると仮定した上で、そのリストを「ソクラテスの性質リスト」とでも呼ぶことにしよう。固有名を記述の束であると考える記述説においては、「ソクラテス」という固有名を「ソクラテス的性質のリスト」と同一視する。この戦略は我々が固有名を説明する際に日常的に行っていることである。実際、わたくしが「ソクラテスとは何か?」と聞かれたとして、わたくしが行うのは「古代ギリシャ時代の人物で、哲学に強くて、毒杯で死んで、わりと嫌われていて……」のような思い付く限りの性質の列挙だろう。

この記述説の直感的な正しさはと言えば、今のところ他に固有名を説明する仕方など有り得ないようにすら思われるほどだが、すぐに困ったことが起こってくる。それは「反事実的条件が有効である」という事態によってである。反事実的条件とは文字通り事実に反する条件のことで、これも具体例から入るのがわかりやすかろう。例えば、以下のように仮定を条件として含む命題を考える。

命題S:「もしソクラテスが毒杯を飲まなかったら、ソクラテスはもっと長生きしただろう」

素朴に考えると命題Sは真であるように思われるが、偽である状況も考えられないわけではない。例えば、意外にも寛大な裁断によってソクラテスは死刑を免れたために毒杯を飲まなかったが、その帰り道にアテナイを歩いているときにうっかり足を滑らせて頭をぶつけて死亡したようなケースである。

他にも色々なケースを考えることは出来そうだが、実を言えば、わたくしがこれから行う議論においては命題Sの真偽そのものはあまり重要ではない。毒杯を飲まなかったソクラテスがどのくらい長生きできるかは実はどうでもよく、我々が命題Sを理解するに際して「毒杯を飲まなかったソクラテス」を自明に想定できてしまうことが本当の問題なのである。

ここで先ほどの記述説を思い出して頂きたい。それによれば、「ソクラテス」という固有名は「ソクラテス的性質のリスト」と全く同一であり、そのリストには「毒杯で死んだ」という性質も含まれていたのであった。このとき、「もしソクラテスが毒杯を飲まなかったら」という反事実的条件は、「ソクラテス的性質のリスト」から「毒杯で死んだ」という性質を除外することに等しい。そしてその「『ソクラテス的性質のリスト』から『毒杯で死んだ』という性質を除いたリスト」は明らかに「ソクラテス」とは同一視できない。何故なら、「ソクラテス」と同一視されるのはあくまでも「ソクラテス的性質のリスト」であり、「『ソクラテス的性質のリスト』から『毒杯で死んだ』という性質を除いたリスト」は「毒杯で死んだ」という性質が除外されている点において「ソクラテス的性質のリスト」と異なるものだからだ。要するに、命題Sの前件たる反事実的条件によってリストの更新が行われたことで、「ソクラテス」という固有名は命題Sからは失われたと言わざるを得ないのである。

だが、我々は命題Sの後件で「ソクラテスはもっと長生きしただろう」と述べる時点で、明らかに「ソクラテス的性質のリスト」から「毒杯で死んだ」を除外した何者かを「ソクラテス」と呼んでいる。これこそが大問題なのだ。「ソクラテス」と同一視されるはずの性質のリストとは異なるものを依然として「ソクラテス」と呼んでいる以上、「毒杯で死んだ」という性質は「ソクラテス」という固有名とは無関係だったと言わざるを得ない。何故なら、毒杯を飲もうが飲まなかろうが我々はソクラテスを指示できてしまうからである。この議論は「ソクラテス的性質のリスト」に含まれる全ての性質に対して適用できる。「ソクラテスが女だったら」という反事実的条件から始まる文を我々は当たり前に理解できる。

こうして、一つの驚くべき結論が帰結する。「ソクラテス」という固有名はソクラテスが持つ性質とは全く関係なく、ソクラテスその人を指すのである。これにより、虚構世界という状況の異なる世界においてもソクラテスを指示できる道が開けてくる。というのも、記述説とは原則として現実世界に準拠する考え方だからだ。記述説によって固有名を記述の束に分解する際、そのリストに記載されている性質は現実で実現されているものに他ならない。よって、記述説は確かに現実世界においては有効である一方、反事実的条件を付与した異なる世界においては効力を失い、固有名の対応先を見失ってしまう。何故なら、反事実的条件で記述されるような異なる世界においては、固有名の対応先が持っていると思われる性質も当然異なってくるからだ。それに対し、固有名の対応が性質の記述に依らないと考える直接指示の道は反事実的な世界においても有効であり得る。

こうして記述説を退けることは、Vtuberを含むフィクション一般の虚構的存在者が現実世界でない虚構世界に存在すると考えるにあたって極めて強力に作用する。というのも、記述説の枠組みにおいては命題Fや命題Sは記述の束を用いた存在命題へと帰着される以上、存在しない虚構的固有名を含む命題は意味を持たないものとして退けられざるを得ないからだ。

補足17:厳密に言えば、「固有名を記述の束に分解する」という発想がただちに虚構的存在者を退けるわけではない。というのも、虚構的固有名でも適当な性質の束に分解することは依然として可能であるように思われるからだ。例えば、「白上フブキ」という固有名を「狐である」「綾鷹を好む」「少女である」といったリストと同一視することはできる。だが、この場合はそれらの性質群を何に帰せばよいのかが問題となる。性質はそれ自体単独で命題を構成するものではなく、それが帰されるところの存在者を必要とするからだ(「『狐である』は狐である」ではなく「狐であるものは狐である」と言わなければならない)。結局、記述の束を用いた固有名の解釈は、それが命題の中で用いられた途端に性質が帰される存在者に関する存在命題を呼び込まざるを得ない。

実際、「シャーロック・ホームズが男性でなかったら」「白上フブキが女性でなかったら」といった反事実的条件も、毒杯を飲まなかったソクラテスと同様に明らかに有効に作用するものであるから、固有名「シャーロック・ホームズ」「白上フブキ」も記述とは無関係に直接指示してもよいという主張は筋が通っているように思われる。

そして、こうした反事実的条件の取り扱いに関しては、実在する人物やフィクション一般の固有名よりもVtuberの固有名がとりわけ親和的である。すなわち、ソクラテスシャーロック・ホームズよりも白上フブキの方が反事実的条件を想定しやすいのだ。というのも、Vtuberは時々刻々と変化するコンテンツであるために記述説であれば固有名が還元されるところの性質の束が極めて流動的だからである。更に、Vtuberは現実に存在する人物に対しては物理的な制約を受けないという点において、既存のフィクション一般に対しては正典とされるテクストを固定されないという点において、潜在的な可変性が相対的に高い。この二点についてはもう少し詳しく論じる必要があるだろう。

まず現実世界においては物理的な制約は非常に強固であり、いくらわたくしが「ソクラテスが男ではなかったら」と述べたところで、ソクラテスのペニスがヴァギナに変わることなど起こり得ない。現実世界で性質の実現可能性を規定している物理法則なるものが自然科学という近代的イデオロギーが作り出した擬制であるかどうかはともかくとして、フィクション一般に比して相対的に実現される性質の幅が狭いということくらいは抵抗なく認めて頂けるだろう。

その一方、小説や劇台本においては虚構的存在者が持つ性質は物理的制約から解き放たれて想像の翼を纏う。小説内の話であればソクラテスが性転換することはいくらでもあり得よう。だが、今度は性質の記述が有限な正典テクスト内に限られるという強い制約を負ってしまう。例えば『シャーロック・ホームズ』シリーズにおいて、「シャーロック・ホームズ」が持つ性質は書籍内に列挙されたもので全てである。コナン・ドイルが没した今、『シャーロック・ホームズ』の正典はこれ以上増えないため、現状で存在する書籍に記載された性質を否定するような性質が新たに出現することはない。結局のところ、シャーロック・ホームズの性転換もソクラテスの性転換と同じくらい起こり得ないのだ。

補足18:わたくしは今ここで正典の定義に関する問題、例えば極めて権威的な二次創作において新たに付与される性質をどう扱うかというような問題については立ち入って論じるつもりはないが、少なくとも小説においては有効な記述が「ここからここまで」と量的に決まっていることくらいは同意して頂けるだろう。

つまり、「ソクラテスが男性でなかったら」「ホームズが男性でなかったら」という反事実的条件は機能するが、これらはまさしく起こり得ない反事実として措定されるものに過ぎず、我々はただ言説としてこれらを理解できるに過ぎない。それらに比べると、Vtuberにおいては、おたくどもがいみじくもよく言うようにコンテンツが「開いている」。それは二次創作ではなくVtuberのオリジナルが日々様々な媒体によって更新されるというほどの意味であり、具体的には毎日の動画投稿ないし配信やツイートで思いもよらぬ新情報が開示されることを挙げておけば十分だろう。我々が寝たり食ったりしている瞬間にも白上フブキが持つ性質は唐突に更新される可能性が常にあり、それは墓より蘇ったコナン・ドイルが突然シャーロック・ホームズの設定を更新することに比べればよほど現実的だ。作者が存命の小説やアニメのキャラクターでも性質リストの更新はせいぜい離散的にしか行われないのに比べ、Vtuberにおいては配信中は連続的に性質リストが更新され続ける。そしてそれは現実の事物とは異なり物理的な制約を受けないことから、極めて突飛な更新ですらも許容されよう。潜在的な性質の変容を大いに受け入れるという意味で、Vtuberの固有名は記述的な捉え方よりも直接指示の捉え方に親和性が高い。

補足19:念のために述べておくが、これはVtuberに限ったことでもなく、物理的制約を受けず、かつ、流動的なコンテンツにおけるキャラクターであるものに関しては同様である。例えば、ソーシャルゲームのキャラクターも同じ理由で潜在的な性質の可変性が高い、すなわち直接指示に親和的であろう。技術的な変化に応じてコンテンツ展開の枠組みが変化しつつあり、その急先鋒として運営型のジャンルとしてのVtuberソーシャルゲームがあるように思われる。

さて、ここまではVtuberの固有名に関して、記述に依らずに直接に指示を行うという発想を肯定してきた。次にただちに浮上する問題は、固有名を記述の束から独立したものと考えたとき、如何にして固有名の指示先を特定できるかである。というのも、固有名が記述の束ではないと考えることは、固有名の内実を説明する際に記述を利用できないことを意味するからだ。例えば「白上フブキとは何か」と聞かれて「Vtuber」とも「女の子」とも「狐」とも言わずに説明することは果たして可能だろうか?

ここで発想を大きく変えて、固有名は社会的に受け渡されていくことによって指示を追跡すると考えたい。例えば、ソクラテスの親だか友人だかが聴衆の前でソクラテスの右側に並び、すぐ左を指さして「彼がソクラテスです」と紹介したとしよう。この名指しによって、聴衆は今指さされている彼こそが「ソクラテス」という固有名の対応先であることを彼の性質とは無関係に知ることができる。むろん、人間の寿命はたかだか百年かそこらであるから、固有名の持ち主その人を指さして紹介できる期間はそう長くはないだろう。とはいえ、書物や伝聞を通じて間接的に固有名をある特定の対象に紐づけ続けることは依然として可能である。実際、我々も倫理の教科書か何かによって「ソクラテス」という固有名と並べてある人物を紹介されることによって、今まで固有名が辿ってきた長い道程を逆に辿り、当初のソクラテスにまで行き着くことができると考えられよう。

こうした、「固有名を受け渡すことで指示を繋ぐ」という因果的な連関に固有名の同定能力を見出す説明を、記述説に対比させて因果説と呼ぶ。また、ソクラテスが聴衆に紹介されるように、固有名の対応先が紹介や伝聞によって受け渡される過程を「因果連鎖」と呼ぶ。因果連鎖の終端が我々にまで辿り着いた固有名だとして、因果連鎖の始端には固有名の指示先が初めて固定される瞬間がある。それはソクラテスが生まれた瞬間に親が彼を取り上げて「この子はソクラテスだ」と叫ぶ瞬間であり、これを「命名儀式」と呼ぶ。「命名儀式」によって固定された固有名の対応先が「因果連鎖」によって紹介や伝聞で受け渡されることで、固有名は対応先を追跡できるというわけだ。

補足20:わたくしはなるべくテクニカルタームを避けて本稿を執筆することを冒頭で決意したのだが、因果説における「命名儀式」と「因果連鎖」に限っては説明の都合で仕方なく用いることにした、というのは真っ赤な嘘で、この何かの技名のようなクールなフレーズたちを使いたくて仕方なかったのである。

さて、フィクション一般について、虚構的固有名に因果説を適用するに際しての最大の問題は、果たして命名儀式が有効かどうかである。最も愚直に考えれば、フィクション一般の虚構的固有名における命名儀式とは、その固有名が紐付けられるキャラクターが生まれた瞬間の名付けであろう。だが、その瞬間には作者を含めた誰も実際に立ち会ったわけではない。如何にコナン・ドイルとて、「ホームズはこのようにして生まれて名付けられたことにしよう」と考案するのが精々で、「ホームズがこのようにして生まれて名付けられたのを実際に見た」と主張するほどエキセントリックな創作スタイルを持っていたとは言うのはなかなか難しい。よって、固有名「シャーロック・ホームズ」を巡る因果連鎖は命名儀式にまで辿り着かずに途中で切断され、因果説による説明は無効となるように思われる。

とはいえ、我々の当初の問題意識が「記述によらずに固有名の指示を行うにはどうすればよいか」であったことを思い出そう。それを踏まえれば命名儀式の本来の役割とはあくまでも「最初に固有名に指示を固定すること」であり、それに成功する限りは必ずしも誕生の瞬間に立ち会う瞬間はない。

実際、フィクション以外の文脈では存在しない対象に命名儀式を行うことは可能であり、その典型例として惑星「ヴァルカン」という固有名が挙げられる。ヴァルカンとは19世紀頃に太陽系の一員として水星の内側に存在を予言された惑星であるが、現在ではその仮説は誤りとされて存在しないことになっている。よって、ヴァルカンが目視で観測されたことは人類史上で一度もなく、最も厳しく想定した場合の「シャーロック・ホームズ」の例と同様、「ヴァルカン」の因果連鎖も命名儀式まで辿り着くことはない。だが、不可視のヴァルカンが真剣な議論の対象となっていた時代があったことから明らかなように、固有名が有効であるには必ずしも直接に視認する段階が必要なわけではない。重要なのは、架空の対象であろうが物理学の理論的枠組みによってともかく指示を固定することであり、その限りにおいて疑似的な命名儀式が有効だったと言ってよいだろう。シャーロック・ホームズについても同様であり、コナン・ドイルが『シャーロック・ホームズ』シリーズの最も早い段階で特定の描写と共に「シャーロック・ホームズ」という固有名を用いた時点で指示が固定され、のちに因果の鎖を繋ぐ命名儀式が疑似的に行われたと考えることは理に叶っている。

以上のように、わたくしはフィクション一般を含む非存在の対象に対しても固有名に対して因果説による直接指示が有効であると主張する。これをVtuberに適用したとき、Vtuberにおける命名儀式とは何か。それが「初投稿動画」ないし「初配信」であることは言うまでもない。

補足21:初投稿動画による命名儀式は主に短い動画を編集して投稿するタイプのVtuber、初配信による命名儀式は主に生放送を行うタイプのVtuberが行うものであるが、以下の議論にはどちらを用いても支障がないため、白上フブキが後者であることに鑑みてさしあたり「初配信」と書くことにする。

繰り返すと、記述に依らない固有名の指示が有効であると考えるに際して必要な命名儀式におけるポイントは「指示を固定すること」であった。よって、目下の問題は「初配信は指示を固定するか否か」に帰着される。わたくしの答えは以下の通りである。「初配信は指示を固定する。それも、フィクション一般よりも更に強力に」。

そもそも初配信において、Vtuberは自らの固有名をどのように自らに紐付けるだろうか。それは自己紹介によって、すなわちVtuber自身が名乗りを上げることによってである。典型的には「新人Vtuberの白上フブキです」というようなフレーズを用いて、白上フブキは自らが白上フブキその人であると宣言する。このやり方が、シャーロック・ホームズ命名儀式よりも強力な理由は二つある。

まず一つは、命名儀式が別の誰かではなくVtuber自身の申告である点だ。小説等のフィクション一般においては、キャラクター自身が自らの固有名を申告することによって命名儀式を行うことはそう多くはない。最も典型的なのは、三人称視点の持ち主というあの誰だかわからないが少なくともキャラクター自身ではない何者かの語りによって、地の文にキャラクターの名前が記載されるパターンだろう。その一方、Vtuberにおいてはキャラクター自身が明確に自らの責任において自らの固有名を申告することでそれを自らに紐づける。それはオギャーとしか言わない赤ん坊に両親が代理で名付けを行う現実の命名儀式よりも強力なものですらあり得るかもしれない。

もう一つは、命名儀式が他の誰かに向けてではなく我々に向けた固有名の固定を明確に企図している点だ。確かに小説やアニメにおいても、キャラクター自身の自己申告によって命名儀式を行うパターンもないわけではない。例えば、転校生が黒板に自らの名前を書き付けて自己紹介するシークエンスがそうだ。だが、その場合でも転校生は読者ではなくクラスメイトに対して自らと固有名の対応を固定しているのに対して、Vtuberはカメラではなくリスナーに対してそれを行っている。もともと因果説とは固有名が流通するような社会的なコミュニティを前提したものであるから、固有名を受け渡す企図が明確に存在することは今後の因果連鎖の有効性を担保するにあたって大きな加点要素となる。これに比べれば、小説を読んで我々が固有名をキャラクターに結び付けるのは、それが語り手が第四の壁を突破しているようなメタフィクションでもない限り、せいぜい不当な盗み聞きに過ぎないと言わざるを得ない。

補足22:とはいえ、わたくしが誠実であるために自ら指摘しておかなければならないことは、この命名儀式の有効性に関する議論には論点先取のきらいが若干あることだ。わたくしは白上フブキが虚構世界に住むことを正当化するために命名儀式の有効性を立証しなければならないのであって、虚構世界に住むことから命名儀式の有効性を導くのは手順が逆である。「疑似的な命名儀式」という保険をかけた表現によって胡散臭さをいくらかは緩和できるにせよ、このマジックワードがどこまで有効であるかは判然としない。

補足23:関連して、Vtuberにおける因果連鎖の有効性についてもわたくしとしては強く主張することには躊躇いを覚えざるを得ない。というより、むしろ最大の問題は命名儀式のあとに因果連鎖が成立するかどうかにかかっているようにすら思われる。というのも、本来は因果連鎖による追跡が有効であるためには、指示先の個体が常に時空間的に同一であって、ある瞬間に突然離れた空間から出現したり、昨日から明日にワープしたりしないというような連続性があることが必要だからである。それは誰かが視覚的に確認するわけではないにせよ、そういう確信を伴っていなければ因果連鎖は成り立たない。この成立がVtuberに限っては若干怪しいところがある。むろん、魔法が解けることを恐れたシンデレラのように「疑似的な因果連鎖」という表現に逃げるのも一つの手ではあるが、いずれ戻ってくるためのガラスの靴が用意できるかどうかは疑わしいところだ。謙虚なわたくしとしては、「白上フブキが因果的同一性を維持することを前提するならば、命名儀式からの因果連鎖によって直接指示が成立すると強力に主張できる」と条件付きの形で述べるのが妥協点であるように思われる。

本節の議論をまとめておこう。固有名を記述の束に還元する記述説に対抗し、我々はVtuberについては固有名を記述によらない対象への直接指示と見做し、その手段として命名儀式と因果連鎖によって固有名の指示先を追跡する因果説を擁立したい。その理由として、Vtuberにおいては固有名が持つべき諸性質の潜在的な可変性が相対的に高いことと、初配信における命名儀式が強力であることの二点が挙げられる。

4.白上フブキの住む世界とはどのようなものか:虚構世界の不完全性と空白の補充

前節において、わたくしは反事実的条件の理解が可能であることを根拠として、「白上フブキ」という虚構的固有名によって現実的な性質の記述には依存せずに虚構世界にいる白上フブキを同定できることを見た。それを受けて、本節では白上フブキが属するところの虚構世界について取り扱う。

補足24:ただし、指示が有効で有りうることはただちに指示先の存在を意味するわけではないことに注意されたい(プログラミングに明るい読者はポインタ型変数の値がnullであるような場合を想像せよ)。それは白上フブキが虚構世界に存在することを認めるための必要条件であって十分条件ではないのである。わたくしは依然として白上フブキが虚構世界に存在することの完全な立証には成功していないし、正直に言えば、それは永久に不可能であるように思われる。

今まで漠然と用いてきた世界というタームについてもそろそろ明解な定義を与えておこう。さしあたり、世界とは真である命題の集合とする。例えば、世界のうちの一つである現実世界は「ソクラテスは人間である」「地球は太陽の周りをまわっている」「人間は二百年以上は生きない」といった真なる命題を全て集めた集合と同一視できる。今回は存在者のリストも存在命題を用いて真なる命題の集合に繰り込んでしまおう。すなわち、ある世界にxが存在することは、「xが存在する」という命題が真としてその世界を構成していることによって表現する。

フィクション一般の舞台となる虚構世界も世界の一つであるから、それを命題の集合として構成することは、直感的にも問題がないように思われる。例えば『シャーロック・ホームズ』の世界、すなわち『シャーロック・ホームズ』において真である命題の集合においては、「シャーロック・ホームズが存在する」「シャーロック・ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」といった命題群がその元となろう。

ただし虚構世界においては、現実世界と違って真とも偽とも断定できない命題が無数にあることが知られている。その典型的な例として以下の命題がある。

命題H:「シャーロック・ホームズの髪の本数は奇数である」

もしわたくしがホームズに匹敵する名探偵だったとしても、命題Hが真実かどうかを見抜くことは永久に不可能であると思われる。シャーロック・ホームズの髪の本数が作中で直接描写されたことは一度も無いし、その手がかりすら全く見当たらないからだ。よって命題Hを真と言うのも偽と言うのも落ち着かないが、かといって、命題~H「シャーロック・ホームズの髪の本数は偶数である」も全く同様に真とする理由がない。だがH∨~H、すなわち「シャーロック・ホームズの髪の本数は奇数か偶数である」が真なのは明らかであり、通常の推論規則が成り立つとするならばHか~Hのいずれかは真でなければならない。

さて、この「Hも~Hも真とは言えないような命題Hがある」という事態は「世界が不完全である」と表現できる。一般に、ある世界が完全であるとは「あらゆる命題pについてpか~pが真である」ことを指す。要するに、全ての命題で真か偽かが定まって真偽不明の命題が無いということだ。一般的に言って、虚構世界においては現実世界と違って世界の完全性が担保されない。

ここで、世界の完全性は検証可能性の問題ではなく、原理的な問題であることに注意されたい。現実世界においても「ソクラテスが毒杯を飲み終えた瞬間に髪の本数が奇数だった」を検証することは実質的には不可能であり、その真偽を決定できることはあり得ないと言ってよい。だが、現に真か偽のどちらかであったことは明らかである。これに対し、シャーロック・ホームズの場合は髪の毛の偶奇は最初から決まっていない。ソクラテスの場合は実際に真理値が決まっていた時点や座標があるのにも関わらず実効的な限界によってそれが得られないのだが、シャーロック・ホームズの場合はそもそも最初から真理値が決まっていないためにどんな手段を用いてもそれを得ることができないのだ。

賢い読者は「命題Hは真か偽かのどちらかには決まっていることにしてしまって、例えば暫定的に真として虚構世界を構成してしまえばよいではないか」と思われるかもしれないが、命題の集合を世界と同一視してしまった今、事態はそれほど簡単ではない。命題Hのように作中で全く手がかりが得られていない命題は無数にあり、それら全てを暫定的な真理値で構成した命題の集合、すなわち世界には無数のパターンが考えられることになるだろう。よって、天文学的な奇跡でも起こらない限り、読者によって『シャーロック・ホームズ』の世界は全くバラバラであることになる。もしそうであるならば、我々は同じ作品の舞台の話をしているつもりで実際には全く異なる舞台について語っているという著しく直感に反する結論を導いてしまう。

それよりは、作品が提示するのは単一の世界ではなく世界の集合であるとした方がまだ穏当だろう。つまり、命題Hのように真偽を決定できない命題に関しては、それが真であったり偽であったりする世界全てを含めた「世界の集合」を構成するのである(世界が命題の集合であったことから、世界の集合は集合の集合であることに注意されたい)。この「世界の集合」に含まれる世界はいずれも「ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」といった明らかに虚構的に真である命題を含んでいる一方、「ホームズの髪の本数は奇数である」や「ホームズの髪の本数は偶数である」といった命題を含むか否かは世界によってまちまちである(ただし、どの世界も奇数バージョンか偶数バージョンのいずれかは必ず含んでいる)。つまり、簡単のために世界に含まれる命題が四つしかないとするならば、『シャーロック・ホームズ』が提示するのは以下の二つの世界を合わせた世界の集合であることになる。

世界1:「ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」「ホームズの髪の本数は奇数である」

世界2:「ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」「ホームズの髪の本数は偶数である」

ただし実際には命題Hのような真偽が判然としない命題は無数にあるため、作品が提示する集合に含まれる世界は膨大な数になることに注意されたい。このように世界の集合を扱う路線は個々の虚構世界の特殊性を解消するために取り回しが良く、Vtuberと衝突するような懸念点も特にないので、我々もこれに素直に従うことにしよう。次節以降ではわたくしはVtuberを含めたフィクションが世界の集合を提示するという見方を採用することにする。

しかしそれとは別の選択肢として、世界の不完全性をむしろ積極的に認めてしまう道と、逆にそもそも世界の不完全性を認めずに完全な世界を構成する道の二つがあることは確認しておきたい。これら二つの道は次節には持ち越さないが、それは議論の都合で暫定的にそうするというだけの話であり、決して無効なものとして棄却するからではない。むしろVtuberに限っては建設的な見方をいくつも提示する有望な選択肢たちであることをわたくしは胸を張って言える。

まず、一つ目の世界の不完全性をむしろ積極的に認める道について。つまり、虚構世界で判然としない命題の真偽を無理に定めて補充したり、いくつもの案の重ね合わせとして集合を作ったりするのではなく、虚構世界をいくつかの空所がある不完全な「歯抜け」の世界であるとそのまま認める方向性である。

この路線が極めて興味深いのは、世界の不完全性がただちにそこに所属する存在者へと感染することだ。すなわち、シャーロック・ホームズのような虚構的存在者もまた髪の毛の偶奇に関する情報をそもそも持たないような、空白のある不完全なキャラクターということになる。今まではシャーロック・ホームズのようなキャラクターをソクラテスのような実在の人間と同様に捉えることを自明の前提としてきたが、もう少し抽象的な存在者として捉えることが可能になるわけだ。自身の性質に歯抜けがあることを許容する抽象的な存在者としては、例えば「寓意」や「種」や「理論的対象」が挙げられる。以下、それぞれを簡単に紹介した上でVtuberとの親和性を確認しておきたい。

まず第一に「寓意」について。もっともわかりやすい例で言えば、さしあたり教訓的な童話を考えて頂ければよい。例えば、イソップ童話の「北風と太陽」における「北風」や「太陽」や「旅人」といったキャラクターを考えよう。この童話には明らかに「人には厳しく当たるより優しく接する方が良いこともある」という教訓が込められており、それを踏まえれば、「北風」とは「厳しさ」一般の擬人化、「太陽」とは「優しさ」一般の擬人化、「旅人」とは「気紛れな人間」一般の擬人化であろう。彼らは我々人間のように物理的に充実した生物というよりは何らかの性質を象った曖昧な存在者であり、髪の毛の本数などは設定されていなくても問題にならない。これをキャラクター一般に適用するならば、シャーロック・ホームズもまた決して我々と同じ生物としての人間ではなく、「優秀でやや変人な探偵」一般の寓意と考えることになる。

次に第二に「種」について。種とは生物学的な意味合いのタームと考えて頂いて構わない。つまり、具体的な個体ではなく、それらが共通して持つ特徴だけを抽出して構成した類型としての分類のことだ。例えば、「ダックスフント」という種について考えよう。わたくしが飼っている「ダッちゃん」「フンちゃん」の二匹が持つ体毛の色や体型は各個体によってまちまちで、命題Hが定まらなかったのと同様、一意な合意は得られそうもない。だが、その一方で「四足歩行である」「胴が長い」といった共通する特徴もあり、それら共通項だけを取りまとめたものが「ダックスフント」という種であると考えられる。この種においては、具体的に実現される個体から一致する性質だけを抜き出して記載しているのであるから、不完全である方がむしろ自然だ。これをキャラクター一般に適用してみると、『シャーロック・ホームズ』という小説で描かれる「シャーロック・ホームズ」とは要するに一部の性質だけを記した「シャーロック・ホームズ種」に過ぎないという見方ができる。

最後に第三の「理論的対象」について。これは物理学における「光子」や「ニュートリノ」と類比的に考えて頂ければよい。そうした理論的なタームが指す対象が実在するかどうかはまた厄介な議論を呼び込むのであまり言及したくはないのだが、少なくとも理論的対象は知覚によって直接観測されるものだけに限られるわけではない。理論的対象の中には、観測の産物というよりは理論的な枠組みの中で存在を予言される仮説的な存在者に過ぎないものも多くあるだろう。つまり、「光子が存在する」という主張は「物理学理論においては光子が存在することになっている」という読み替えを要求する。こうした存在者については実際に存在を主張しているのではなく、括弧付きで理論上での存在を主張しているのに過ぎないのであるから、その性質が理論に依存して不完全なものであることには問題が無い。これをフィクションに適用すると、「ホームズが存在する」という主張は「文学的な解釈や読解においてはホームズが存在する」へと読み替えられる。それはホームズそのものへの言及と言うよりは理論的な枠組みを経由した間接的な言及となり、我々が文学的な営みの対象にする限りにおいての存在であるから、現実の事物と異なって不完全であることにはやはり問題が無い。

さて、Vtuberに対してこれらの案を適用してみよう。

まず第一に、Vtuberを寓意と見做すことはあまり有望でないように思われる。というのも、キャラクターを寓意と捉える見方は「キャラクターやイベントが何を象徴しているのか」という象徴的な水準での読解を要求するからだ。太陽も北風も一連の営みがあって初めて優しさや厳しさの寓意を帯びるのであって、単独で見たところで何を示しているのかはわからない。つまり個々のキャラクターというよりはそれが物語全体の中でどのような位置付けを占めるかに関心があり、物語的構造の中でキャラクターが取るポジションこそがそれが何を寓意としてカリカチュアしたものかを定めるのである。このように、寓意という見方はキャラクターよりもプロットを重く見ることを前提するのだが、Vtuberにおいては明らかにキャラクターがまずありきで、その後にキャラクターの行動が決まってくるという手順の逆転がある。キャラクターがどのようなプロットを描くかは常に開かれており、いつまで待っても物語的構造が確定することはない。よって、Vtuberを寓意とする見方は不可能とは言わないにせよ、極めて親和性が低いように思われる。

補足25:とはいえ、いわゆる「属性」として性質のカリカチュアライズがVtuberに纏わりついていることも紛れもない事実であり、「属性」と「寓意」の違いについてはもう少し綿密な議論をしてもよいようにも思われる。これはあまり自信のない暫定的な回答ではあるが、わたくしにとってはその存在全てがある性質で尽くされるような場合は寓意であり、逆にせいぜい存在の一部をある性質が占めるに過ぎない場合を属性と呼ぶのが直感に合っている。不完全性の議論に合わせるならば、寓意がある性質に尽くされない部分を空白として放逐する一方、属性はむしろ空白部を補充することを前提としているように思われる。

次に第二に種について。Vtuberを種と見做すことは、寓意よりはまだ見込みがあるように思われる。というのも、実際にVtuberが命題Hのような暗黙の未確定設定だけではなく、明示したはずの設定ですらも変更して、パラレルな個体として自らを示すことは珍しくないからだ(この括弧内では特殊な事例として言及するが、黒上フブキがそれである)。ビジュアルとそれに付随するいくつかの設定についてのVtuberのマイナーチェンジはよく行われるところであり、この営みを「本来は種であるキャラクターが放送の回に応じて異なる下位種ないし具体物を生成している」と解釈することに何ら不都合はないように思われる。さて、「個々の事例を分析する各論はやらない」と冒頭で宣言したが、今から三センテンスだけその誓約を外すことを許して頂きたい。というのも、キズナアイという例外的なVtuberに限って言えば、「キズナアイとは個体ではなく種である」と述べるのはほとんど事実であるように思われるからである。周知の通り、キズナアイは全く同じ見た目を持つキズナアイの下位種をいくつも生産して同時並行的に動画配信を営んでおり、せいぜい共通項を括り出すだけの種の名前として「キズナアイ」という固有名を運用している。これは明らかに虚構的存在者の不完全性を逆手に取った営みであり、影響力に鑑みればここで言及しないわけにもいくまい(ここから再び誓約をかける)。

最後に、第三の理論的対象にもかなりの説得力があるように思われる。わたくしにはこれを否定する強力な根拠はあまり思い付かない。というより、わたくしが今まさに書いているこの文章が理論的な営みであるという点で、この説を語ろうとするときそれは常に自己言及的な正統性を主張できてしまうという繰り込まれた構造がある。逆に言えば、わたくしが今まさにそれをしているということ以上にどのような合理性があるかについてはわたくしには手の余る議題であり、いずれ検討が行われることを期待したい。

補足26:なお、このように空白を含む存在者としてVtuberを捉えるのであれば、(わたくしの当初の想定とは異なり)Vtuberは虚構世界ではなく現実世界に存在すると考える路線を取ることもできる。というのも、Vtuberが我々と同じように特定の時空間を占める具体的存在者として現実世界に存在することは有り得ないというだけで、「ダックスフント種」のようにもう少し抽象的な存在者であれば、現実世界に所属していると考えることに不都合はないからだ。我々との相違点を収拾するための選択肢が「所属する世界」「存在者のタイプ」の二つあると表現してもよいかもしれない。

さて、ここまでは世界の不完全性を積極的に認めてしまう道について論じてきたが、それとは全く逆に、そもそも世界の不完全性を認めない道もあると数段落前に予告したことはまだ覚えているだろうか。その第二の道が意味するのは、Vtuberには世界の完全性を担保できる可能性、すなわち世界内のあらゆる命題について真偽を定められる可能性があるということだ。何故なら、我々は命題Hのように真偽の判然としない命題を見つけたら、当事者のVtuberにそれが真か偽かを聞けばよいだけだからである。「白上フブキの髪の本数は奇数である」という命題の前で頭を悩ませるよりも前に、白上フブキに直接「髪の本数は奇数ですか?」と聞けばよいのだ。しつこく赤スパを送り続ければ、白上フブキが自分の髪の毛の本数を数えて「奇数でした」とか返答してくれることもあるだろう。それでめでたく命題の真偽が確定する。原理的には、これを繰り返すことで世界と存在者の完全性を担保できる。

すなわち、Vtuberが持つ「双方向のコミュニケーションが可能である」という性質は、世界及び存在者を構成する命題の集合という観点からは、「完全性を担保できる」という性質として発現しうる。これはキャラクター自身が質問と回答を受け付けるVtuberに固有の特徴であり、フィクション一般とは明確に異なると言ってよい。むろん、実際には無限の時間がかかる作業を終えることは不可能だろうが、実現可能性が無いことは現実における命題の確定と同じことだ。経験的に可能かどうかではなく原理的に可能かどうかが問題だということは既に述べた通りである。

補足27:賢い読者Aは、Vtuberがリスナーへの応答によって空白を補充する営みは、作者が作品の解説によって空白を補充する営みと何が違うのかを疑問に思うかもしれない。「久保帯人TwitterBLEACHに関する質問に無限に答える」という作業でも虚構世界内を原理的には無限に充実できるという意味では同じことではないかというわけだ。しかし、わたくしにとって決定的な違いは、第二節でしつこく注意したように、Vtuberの例では演者や作者という視点を持ち出さずに空白を補充できる点にある。実際、「空白を補充するのは白上フブキではなくMさんではないか」という反論に対しても、わたくしは「Mさんとは誰ですか」と切り返すことができる。

補足28:賢い読者Bは、応答によって空白を補充できるタイプのキャラクターはVtuberに限ったことではないことに気付くかもしれない。例えば、くまモンのようなゆるキャラがそうだ。くまモンもまた、「体毛の数は奇数ですか?」という質問に対して100%の精度で作者を持ち出さずに真偽を確定できる(なお、そこで問われているのは着ぐるみに生えている毛の本数ではないことは言うまでもない)。これに関しては、少なくとも虚構世界に完全性を担保するという議論においてはVtuberゆるキャラは同様に理解できることを認めざるを得ない。つまりわたくしはそれをVtuberならではの特徴ではないことを認めることになり、あとは感覚的な類似ではなく論理的な議論によって意外なところに隣接領域があることを発見できるのも一つの成果だという逃げ口上を残すことしかできないようだ。

こうして、白上フブキを完全な一世界に住まわせることは原理的に可能であり、シャーロック・ホームズとの対比という観点から言ってそれはかなり魅力的かつ有力な提案であるように思われる。残念ながら、次節においてはフィクション一般との比較検討を行いたいという便宜的な理由で世界の集合を扱うことになるが、完全な一世界を構成する方向でVtuberの存在に関する議論を深めて頂いても一向に構わない。

この節の議論をまとめておこう。世界を命題の集合と捉えたとき、フィクションにおいては世界の不完全性をどう処理するかという問題が生じてくる。大枠としては我々はフィクション一般において最も穏当と思われる道、つまり作品によって提示されるものを一世界というよりは世界の集合として捉える戦略を採用して次節に進む。だが、その副産物には実り多いものがあり、不完全性をむしろ積極的に認めたり、逆に不完全性を完全に棄却したりする路線を取る可能性においてもVtuberの独自性を見出すことが出来よう。

5.白上フブキは狐なのか:虚構的命題の真偽

前節では、Vtuberが所属する世界の完全性について検討した。他のフィクション一般と異なって一世界を取ることができるとする提案は極めて魅力的であるが、以下の議論では決定不能な命題のバリエーションを全て備えた世界の集合が提示されると考えることにしておこう。

本節では命題の真理値について考える。言うまでもなくその検討の対象はVtuber自身ないしVtuberの所属する世界に関する命題だが、とはいえ、その中にも改めて検討する価値のあるものとそうでないものがある。すなわち、命題の真理値の怪しさにもいくつかの水準があるのだ。我々が最初に行う必要がある作業は、世界の不完全性の議論において「シャーロック・ホームズは男性である」と「シャーロック・ホームズの髪の毛の本数は奇数である」を区別したように、真偽が自明に確定する命題とそうでない命題を峻別することである。

この作業はそこまで困難ではないと思われるかもしれない。というのも、当の作品がはっきり提示するものを前者、そうでないものを後者とすればよいだけのように思われるからだ。小説においては単にテクストに表記されているかどうか、Vtuberにおいては主にVtuber自身が自己申告したかどうかで区別できるだろう。概ね、白上フブキ自身が断定している事柄については真であるとしてよいように思われる。

とはいえ、これは決してVtuberに限ったことではないのであるが、ただちにここで問題になるのが、いわゆる「信頼できない語り手」の問題である。というのは、語り手が嘘を吐いていた場合、つまり虚構世界の実態と異なる報告を行っていた場合、何が真で何が偽なのかが全くわからなくなってくるということだ。わたくしはVtuberの発言は時に過去の発言を覆すことも含めて常に更新されていくと述べてきた以上、ここで都合よく白上フブキは絶対に嘘を吐かないと信じてしまうわけにもいかない。

一見すると、信頼できない語り手に関する話題は語用論に属する問題として棄却してよいように思われるかもしれない。すなわち、発話に嘘を含めるかどうかは純粋に言葉の使い方の問題に過ぎないため、我々の関心対象ではないという逃げの一手が打てると思われるかもしれない。しかし、今考慮しなければならない信頼性の問題は作者や演者ではなく虚構的存在者に紐付いたものである。第二節でも述べた通り、立場上わたくしが棄却できるのは演者の言語使用のみであり、キャラクターの言語使用においては立ち止まって検討しなければならない。

しかし、この問題をこれ以上深堀りすることは難しい。『シャーロック・ホームズ』でも語り手のワトソンは完全なる薬物中毒者で、記述の一切は彼の妄想の報告に過ぎないとしてしまうことは不可能ではないが、それは不毛な懐疑論というものだ。その極論とVtuberに固有の発話の自由さを同一視することがフェアではないことは承知しているが、最大限譲歩してVtuberが完全に信頼できる権威ではないということを念頭に置いた上でなお、常識的な判断によって一部の命題は自明に真であることにできるとしておこう。

少し脱線が長くなったが、わたくしが今言わんとしていることは、フィクション内で自明に真とできる命題が一定数存在する一方で、そうではない命題の真偽をどのように考えるかが我々の関心事だということだ。その区別は前節で世界の不完全性の議論に際して行った区別と完全に一致しており、前者がある作品が提示する世界の集合全てで真である命題、後者が個々の世界によって真偽がまちまちな命題に対応する。

前提を整理したところで本論に入っていこう。フィクションにおける真偽は通常、反事実的条件を含む命題の解釈と類比的に捉えられる。よって、しばらくは現実における反事実的条件を含む命題について考えよう。

命題T:「もしスカイツリーがいきなり倒れたら、少なくとも数十人の犠牲者が出るだろう」

この反事実的条件を含む命題Tは真であるように思われる。スカイツリーがいきなり倒れたら展望台に登っていた観光客はだいたい皆死んでしまうだろうし、下敷きになった墨田区民も無事ではいられまい。

さて、例によって、命題Tの真偽そのものはそこまで重要ではない。ポイントはいまわたくしが命題Tを解釈するにあたり、スカイツリーが倒れたという一点以外は現実となるべく一致するように想定したということだ。というのも、わたくしはスカイツリーがいきなり倒れるような空想の世界について考えているのだから、スカイツリーが倒れた瞬間にフワフワのマシュマロになる世界とか、スカイツリーが倒れた日だけ奇跡的に誰も来場者がいなかった世界を考えても良さそうなものだ。それらのケースではスカイツリーが倒れても死者はそう多く出ないだろうから、命題Hは偽と言っても構わないことになる。だが、我々は通常そうしない。命題Hを解釈するにあたっては「反事実的条件以外は現実に合わせて温存したまま後件の真偽を考える」というルールで解釈を行うことになっている。今は我々が何故かそう解釈してしまうと言う認知的な問題については深堀りしない。重要なのは、ともかくそのような機構で反事実的条件の解釈が行われるということだけだ。

これをフィクションに適用してみよう。

命題P:「『シャーロック・ホームズ』の世界において、ペンギンは卵生で繁殖する」

は真か偽か。これは恐らく真であるように思われる。

補足29:わたくしは『シャーロック・ホームズ』内でペンギンの生態についての言及、例えば「ペンギンは雌雄が番になって卵を産む」とか「ペンギンは分裂して増える」とかが記載されていないという前提で以下の話を進める。しかし全てを読んで確認したわけではないので、万が一どこかでホームズやワトソンがペンギンの生態について言及していたとしたら、わたくしは甚だ不適切な例を選んでしまったことになる。

何故なら、現実世界においてペンギンは卵生で繁殖するからである。『シャーロック・ホームズ』はどうせフィクションなのだから、ペンギンが胎生で繁殖する世界でもいいいだろうとは我々は通常は考えない。「フィクションにおける設定以外の部分は現実に合わせて温存したまま後件の真偽を考える」というのが我々の流儀なのである。

既に察しは付いているだろうが、命題Tと比較して考えたとき、命題Pのケースにおいては「『シャーロック・ホームズ』の世界において」という前件が反事実的条件として機能していることがわかる。つまり、フィクションの設定というのは「そのようなキャラクターは現実にはいない」とか「そのような事件は現実に起きていない」という点において事実に反しているという意味で反事実的条件の一種であり、その真理値決定方法を受け付けると理解できる。

ここで、前節で主張して冒頭でも確認した通り、フィクション一般が提示するのは単一の世界というよりはむしろ世界の集合であったことを思い出そう。それらの世界においては「ワトソンはホームズの助手である」のように作中から明らかに真とされる命題については全て真であるが、「ペンギンは卵生である」のように真偽の明確でない命題についてはそれを真とする世界と偽である世界が混在している。もう少し具体的に言えば、『シャーロック・ホームズ』を表現する世界の集合の元である世界3では真なる命題として「ワトソンはホームズの助手である」「ペンギンは卵生である」が含まれており、世界4では「ワトソンはホームズの助手である」「ペンギンは胎生である」が含まれているとする。

更に加えて、少なくとも我々が行った「虚構的に真」の定義によれば、フィクションにおける命題の真理値を決定することは、どの虚構世界(群)を真理値の判定に用いるかを決定することと等価である。というのも、極めて簡単な話で、わたくしが世界3を命題Pの真理値判定に使うことにすれば『シャーロック・ホームズ』の世界でペンギンは卵生だし、世界4を使うことにすれば『シャーロック・ホームズ』の世界でペンギンは胎生なのである。そして、実際のところわたくしは世界3を用いることが妥当であり、それは世界4よりも世界3の方が現実世界に近いからなのだった。

以上の考察を踏まえて、わたくしは以下の法則を得る。「虚構作品における命題の真理値は、虚構作品が提示する世界の集合のうち、最も現実世界に近い世界における真理値と一致する」。無数に想定できる世界の集合に対して、現実世界がいわば基準座標として振る舞い、そこからの不要な逸脱を禁ずるのである。この法則を用いれば『シャーロック・ホームズ』の世界においても恐らくソクラテスは毒杯を服したのであろうし、水素二つと酸素一つが結合すると水になることが言えよう。少なくとも、それは『シャーロック・ホームズ』の世界ではソクラテスは毒杯ではなくギロチンで死んだのだと主張したり、水素二つと酸素一つが結合すると金になるような独特の化学法則が働いているのだと主張したりするよりはもっともらしいと思われる。

だが、これがある程度は正しいだけの原則に過ぎないことは、以下のような状況を考えることで明らかになる。例えば、あなたがありふれた没個性的なファンタジー小説を読んでいたとして、その作中で角と翼を持つ馬のような生き物、いわゆるペガサスが初めて登場したとする。先ほどわたくしが発見した法則によれば、このペガサスは空を飛ぶとは考えられない。というのも、可能な限り現実に引き付けて考えるのであれば、そのペガサスは我々のよく知る馬に角と翼のように見える異常な器官が生えた変種に過ぎず、そのような生物が空を飛ぶことは物理的に考えて有り得ないからだ。ライト兄弟とて、あの決して大きくない翼が馬の体重を支えて安定飛行できるとは考えるまい。つまり、ペガサスが空を飛ぶと考えるためには物理法則の大幅な改変という現実世界からの重大な逸脱を要求するので、現実に沿おうとする限りはペガサスは飛ばないと推測されるのである。だが、ストーリーを読み進めていくうちにそのペガサスが空を飛んだとして、あなたは驚くだろうか。「まさか角と翼のような部位を持つ馬の変種が空を飛ぶなんて予想外だ」と言うだろうか。言うわけがない。ペガサスは空を飛ぶものだ。ペガサスが登場した時点でどこかで空を飛ぶことは予想されていた事態であり、むしろ飛べない方がファンタジーとしては新鮮ですらある。

法則と矛盾したこの事態を収拾するのはそう難しくない。先ほどの法則を改訂し、現実世界だけではなくファンタジージャンル一般の共通認識を集めた最大公約数的な世界(そこではペガサスが空を飛ぶ)もまた基準座標として採用でき、そこからの逸脱が禁じられることもあると考えればよい。こうした、基準座標とする世界には様々なマイナーチェンジがあり得る。例えば、天動説が信じられていた時代に書かれた小説においては明示的な記述がなくても太陽系の惑星は地球の周りを周っているだろうし、スピリチュアルパワーの実在を信じるコミュニティで描かれた小説においては明示的な記述が無くても超能力とかテレパシーが用いられていると考えるべきだ。こうした事例を全て拾い上げるのには労力がかかるので、これらは共有された信念の世界、共有信念世界とでも言っておこう。これにより、先に得た法則を少し改善し、「虚構作品における命題の真理値は、虚構作品が提示する世界の集合のうち、現実世界か共有信念世界に近い世界における真理値と一致する」というバリエーションを用いたい。

補足30:世界間の距離、すなわち「現実世界に近い」「共有信念世界に近い」とかいう類似性がどのようにして定まるかという具体的な検証法を論じることはここでは避ける。というのも、それには本筋を逸脱した長大な議論が必要になる上、わたくしには誰もが納得するような原則を提出することは不可能であるように思われるからだ。物理法則の有効性を信じることと物理法則の個別的な方程式を理解することは別のことであるとして溜飲を下げて頂ければ幸いである。

補足31:また、一つに定まる現実世界とは異なり、共有信念世界は単一の世界というよりは境界が確定しない共有信念世界群と呼んだ方が適切であろう。ジャンルや時代や地域によって共有信念が変化することは暗に指摘した通りだが、それは連続的に変化するものであって、ある小説に用いる共有信念がこれであると確定できないことは明らかだ。とはいえ、それは議論の大勢に影響を与えないので、さしあたっては現実世界と類比的に記述する便宜のために共有信念世界は一つであるかのように書くことを許して頂きたい。

補足32:この法則によって一部の真偽不明な命題については真理値を推測できる一方、それは全ての真偽不明な命題に対して真理値の推測を可能とするわけではないことに注意されたい。この法則を信頼したところで命題H「シャーロック・ホームズの髪の本数は奇数である」には依然として答えが出ない。というのも、現実世界ないし共有信念世界において、ホームズの髪の毛の本数を云々する世界は特に存在しないからである。

さて、Vtuberにおける曖昧な命題に対する真理値の判定も、原則的にはフィクション一般のそれと一致する。つまり、「Vtuberにおける命題の真理値は、Vtuberが提示する世界の集合のうち、現実世界か共有信念世界に近い世界における真理値と一致する」。ただし、Vtuberにおいては判定に使われる基準の世界が現実世界か共有信念世界かが明確に定まっておらず、それら二つの間でのいわば綱引きが恒常的に行われていることが特徴的だとわたくしは主張したい。

それはフィクション一般においては現実世界と共有信念世界のどちらを判定に使うか迷うようなことがほとんどないのとは対照的である。というのも、フィクション一般では表記されている情報ならまだしも、表記されていない情報に関しては無用な混乱をもたらさないように制御されているからだ。ペガサスが登場したにも関わらずそれが飛ぶか飛ばないか、どういった性質の生物であるかイマイチよくわからないファンタジー小説など読みにくくて仕方ないだろう。大抵の場合はペガサスは共有信念世界に依拠して飛べることに決まっているだろうが、例外的なケースでも現実世界に依拠して飛べないことに決まっているのであり、どちらに依拠するのかがよくわからずに読者を困惑させるような小説は単に技術的に未熟であると判断せざるを得ない。

補足33:これがかなり粗雑な第一次近似であることは了解している。むしろ現実世界と共有信念世界が異なることを利用して叙述トリックめいたギミックを作ることができたり、その境を曖昧にすることそのものを楽しむジャンルとして幻想小説があったりすることをわたくしは認める。他にも、ギャグ漫画で窓から飛び降りたキャラがコマの隅で普通に骨折しているというギャグはその典型である(ギャグ漫画の共有信念世界に寄せれば骨折しないのだが、現実世界に寄せれば骨折するというギャップに面白さがある)。ただし、それはあくまでも例外的な営みであり、いわば王道に違反しているために価値を持っているのに対し、Vtuberの場合はむしろジャンルの典型例としての現象を発現する恒常的な営みである。

しかし、Vtuberの場合は真理値の判定において依拠すべき世界が一定しておらず、発話のたびに付随情報が真か偽かわからない事態をもたらす。例えば、白上フブキが「自分は狐である」と言ったとして、それに関連して明言はされていないが真偽が曖昧な命題はいくつか考えられよう。狐の生態を踏まえ、「白上フブキは四足歩行する」「白上フブキはエキノコックス症を媒介する」「白上フブキは食事を穴に埋める」「白上フブキは昆虫を食べる」あたりが手頃なものとして挙げられる。要するに、現実的な狐の性質に関する命題である。これらの真偽を判定するに際して現実世界に依拠すれば、白上フブキは狐であるというフィクションに特有の仮定を除いてあとは現実と一致するものと考えることになるため、上に挙げたような命題は全て真であると推測される。

補足34:視覚的に得られる情報によって命題の真偽を得る路線、つまり「配信を見る限りは白上フブキはほとんど人間と同じような身体のつくりをしているし四足歩行しない」というような推論は無視してもよいとまでは言わないが、一時的に効力を大きく減じる分には全く構わない。というのも、我々は原則として言語的営みとしてVtuberを捉えることは既に述べた通りであり、視覚情報も言語情報に変換することで間接的に対象にできるにせよ、その変換に全幅の信頼を置く動機は我々にはないからだ。

だが、共有信念世界においてはその限りではない。オタク界に流布している共有信念世界は多様であり、一意に同定することは困難であるものの、「自分は狐である」という発話が「擬人化」というジャンルに依拠していることは多くの者が認めるだろう。何らかの超常的原因によって動物が人間の(大抵は少女の)姿を得るそのジャンルにおいて、元の動物の性質は極一部だけが受け継がれる。共有信念世界において、狐という自称は実際には「狐娘」という架空の生物種を意味し、狐娘は大抵は二足歩行し、エキノコックス症を媒介せず、食事を穴に埋めず、昆虫を食べたりもしないという事情によって、白上フブキもまた同様であると考えられる。

よって、「白上フブキは昆虫を食べる」は現実世界に依拠して考えれば真だが、共有信念世界に依拠すれば偽である。そうした、基準座標とする世界が曖昧であるが故に命題の真偽も曖昧である事柄について積極的に言及することがいわゆるロールプレイである。例えば白上フブキが「わりと虫とかも食べますよ、狐だし」と述べることは個人的にはかなり面白いロールプレイだと思われるのだが、このときに何が起こっているのかと言えば、命題の真理値の決定が現実世界に依るか共有信念世界に依るかが不確定であるという前提の下、どちらかと言えば後者側で解釈されていたことをあえて前者側に寄せて真理値を変更することに意外性が見出されているのである。

加えて、何度も述べてきたようにVtuberは設定を時々刻々と更新する運営型のコンテンツであるから、共有信念世界の内実も日々更新されている。つまり、虚構的命題の真理値決定にかかる要素の動的な変化はスケールを変えて二重に起こっている。第一にマクロに見ればVtuberの解釈にあたって何を共有信念世界とするかの合意が移り変わり、第二にミクロに見れば各動画の中でロールプレイによって各命題が現実世界と共有信念世界のどちら寄りに判定するかというウェイトが揺れ動く。

補足35:共有信念世界が変遷する具体例を一つ挙げると、2018年頃にはVtuberの共有信念世界はサイバーな世界観が支配的であったためにAIとか電脳少女とか電脳巫女が大量発生したのに対して、現在は共有信念世界が更新されて電脳的なものはだいぶ脱色されているように思われる。

本節の議論をまとめよう。本節では、虚構的な命題の真理値を定めるにあたってフィクション一般で行われる反事実的条件の解釈方法を用いて、ロールプレイという営みが真理値決定に際しての現実世界への依拠と共有信念世界への依拠が一意に決まらないことを利用したものであることを明らかにした。逆に辿るなら、ロールプレイの萌芽は実は演者を想定せずともフィクション全般に見られるものであり、それは反事実的条件の解釈に端を発しているということでもある。

6.まとめと参考文献と言い訳

以上、Vtuber存在論と意味論について長々論じてきた。その議論の大枠は冒頭にも記載したので省略するとして、各節でVtuberのどのような性質に注目したのかは議論を終えた今再確認する価値があるように思われる。第三節でVtuberの存在を直接指示する可能性を論じるにあたっては、性質が日々更新されていくという潜在的な可能性の開きに注目した。また、命名儀式の有効性を主張するに際してキャラクター自身が自分から我々に固有名を受け渡すというコミュニケーションの営みが指示の固定と伝達という目的に照らして強力であることを見た。第四節でも、世界の完全性を論じるにあたってVtuberが我々とコミュニケーションできることがあらゆる命題の真理値を一義的に確定しうることがわかった。第五節では、命題の真理値を論じるにあたって、Vtuberが現実世界と共有信念世界の綱引きを利用して自らの持つ性質を積極的に変更したり消極的に曖昧なままにしておけることがロールプレイの意外性を導くことを見た。

加えて、わたくしの議論の枠組みがどういった点でVtuberと類縁的と思われるものの分析と差別化していたのかも改めて主張しておきたい。まず、わたくしは一貫して演者の言語使用ではなく主にキャラクターの意味論を論じてきたことによって白上フブキをMさんのような演者と区別した。次に、わたくしはVtuberが現実世界に存在するのではなく虚構世界に存在するという前提を可能な限り擁立する道を探ることによって白上フブキをソクラテスのような実在の人物と区別した。最後に、わたくしは性質の連続的な更新やコミュニケーション可能性に注目して存在の様式や真理値決定方法を論じることで白上フブキをシャーロック・ホームズのような古典的フィクション一般のキャラクターと区別した。

最後に、わたくしがそれによって不本意な評価を被ることが想定される生じうる誤解について、保身のために弁解することを許して頂きたい。

第一に、わたくしはVtuberではこれこれこうしたことができるのだという新現象を発見することに対して労力を割いたのではない。ここで挙げた事例は何年も前から誰もが知っていることであり、むしろよく知られた事例がわたくしの関心のある問題設定の下でどのような効果を発動するのかを分析することに主眼がある。よって、現象としては読者に全く既知の事柄ばかりを列挙して退屈させたことについては弁明のしようもないし、本稿は「だからVtuberは凄いんだ」系の言説としてもあまり機能するものではないが、逆に言えば、既にVtuberにある程度詳しい者に対して「そういう見方もあるな」と思わせることが出来たならばこれ以上の喜びはない。

第二に、そうしたよく知られた現象について、わたくしの論は既によくある語用論的な分析を否定するものでもなければ後追いするものでもない。わたくしが示したかったのは、演者の言語使用という水準で議論されることが多かった論点に関しても、意味論や存在論の水準から光を当てることによって、キャラクターとしてのVtuberそれ自体を解釈する可能性が開けてくることである。例えばその成果の一つとしていわゆるロールプレイの解釈があり、従来はそれが演者がキャラクターであるかのように演じる意図を持って発する発言であるというような形で主に語用論の水準で扱われていた。しかし、その事態を意味論的に解釈すると、フィクション一般における虚構的命題の真理値を判定する方法の応用として、演者に言及せずとも意外性の源を突き止めることもできるのである。

本節の残りは参考文献の提示に充てたいのだが、その前置きとして長々とした弁明を書かねばならないことはわたくしにとっても読者にとっても若干憂鬱である。何故ならば、それは先ほどの誤解を防ぐための安全弁とは異なって本物の言い訳であるからだ。
まず何よりもお詫びしなければならない点として、わたくしは本文中で先人の議論を参照する際に怠惰にも適切な参照元を明示しておかなかった。むろん、他の誰かが書いた文章の一節を引用符にも入れずに完全に引き写すような最悪の痴態を晒してはいないことはわたくしの誇りに懸けて断言するにせよ、論点や論理展開に関してそうと明示することなく参照している内容が多くあることについては陳謝しなければならない。本来であれば、参照元が新しく現れるたびに最初にそれを言った偉人のテクスト名とページ数くらいは付記しておくのが作法というものだ。それを行わない怠惰は学術論文であれば到底許されないことであるが、わたくしがこの寄稿依頼を受けてから締め切りまでの間に一次文献を精査して主張がどのページでどういう文脈で述べられているかをリストアップする作業はとても間に合わなかったし、言いづらいことを本当に正直に言えば、特に何かの箔が付くわけでもない寄稿文にそれだけの労力を支払うのはとても見合わなかったということがある。もちろん物によっては手元にある一次文献のページを捲ることも可能だったのだが、一部だけそれをしてしまうと、却って逆に何も引用を付与していない部分が全てわたくしのオリジナルであるかのように見られかねないため、本文中では参照元についての記述を一切省き、その代わりに最後に最大の弁明を図るという方針を取ることにした。だが、根本的にわたくしは本来は情報系の出自であり、哲学など完全な門外漢であるから、それすらも孫引きであるものが多いことについては今度こそ全く弁解のしようもない。同じ理由で、議論の細部が粗雑であったこともわたくしにも全て責がある。正直なところ、そもそも固有名が指示を行うという前提自体が別に自明ではないとか、固有名の意味から命題の意味が定まるのではなく順序が逆だとか、命題の真理値自体と真理値の決定条件は別物だとか、存在論というより指示論ではないかとかいうような諸々の欠陥は、議論の簡単のために省略されたのか、それともわたくしの力量不足でなおざりになったのかはわたくしにも判然としない。そして、そうした瑕疵についてはわたくしは最後の手段を取ることにしたい。すなわち、共にホワイトボードの前で本稿の内容を吟味したサイゼミ一同に深く感謝すると述べることにより、わたくしが独占していたはずの責任の一部を彼らに分散させるのである。

三浦俊彦『虚構世界の存在論勁草書房, 1995.
清塚邦彦『フィクションの哲学 〔改訂版〕』勁草書房, 2017.
・ソール・A・クリプキ, 八木沢敬(訳), 野家啓一(訳)『名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題』産業図書, 1985.
・マリー=ロール ライアン,岩松正洋(訳)『可能世界・人工知能・物語理論』水声社, 2006.
・藤川直也『名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学』勁草書房, 2014.
・ケンダル・ウォルトン, 田村 均(訳)『フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―』名古屋大学出版会, 2016.

 

後日追記:延長戦

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21/9/4 2021年7月消費コンテンツ

2021年7月消費コンテンツ

7月は映画もアニメも見ずにハァハァ言いながら数式を解いていた記憶しかない。朝も夜も紙にペンで書き続けていた。

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最近リアタイで追いたいアニメが特にないのは、たまたまそういう期なのか老化なのか微妙なところ。

メディア別リスト

書籍(3冊)

物理数学の直観的方法
新装改訂版 現代数理統計学
統計学入門

ゲーム(1本)

GUILTY GEAR -STRIVE-

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

物理数学の直観的方法
現代数理統計学

消費して損はなかったコンテンツ

統計学入門

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

(特になし)

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

(特になし)

進行中

GUILTY GEAR -STRIVE-

ピックアップ

物理数学の直観的方法

理系界隈では有名な名著。学生時代にも読んだが再読。

タイトルに若干語弊があるような気もするが、物理数学というものを直観的に扱うための方法論というよりは、もう少し各論的に物理数学において登場頻度の高い数式の諸々を直観的に理解するための説明を与えているに過ぎない。
難易度はそこまで高くなく標準的な理系学部前半くらいのレベル感ではあるものの、逆に言えばそこまで到達していない人には全く役に立たない。「ストークスの定理は知っているがそれにどういう意味があるのかは知らない」という人向けで、「ストークスの定理を知らない」という人には読めない。

この書籍が扱う「直観的方法」が既存の解説書と一線を画すのは、それがいわゆる数学的な証明とは異なるレベルの理解を目指していることにある。
数学的な証明とは定義及び論理的に妥当な推論から真である命題を積み重ねる営みである。しかし、この書籍において暗に前提されているのは、少なくとも物理数学においてはそういう数学的に正しい説明が必ずしも理解に資するわけではないということだ。実際、数式を弄って形式的には不等式が成立することが確認できたはいいが、この式変形は結局何だったのかが全然わからないという経験は理系の人なら一度はあるはずだ。
そのために新たに導入されるのが「数式が何を意味しているのか」というレイヤーでの直観的理解である。この理解は数学的証明の範囲を逸脱してはいるが、もちろん相矛盾するわけではないという微妙な関係にある。統語論的な操作を道具として利用しつつも、最終的には意味論的な納得を得るという落としどころが求められている。

この指針の下、線形代数学や熱力学等の比較的独立性の高いトピックについて様々な説明が試みられる。個人的には最も感心したのは第八章の複素積分周りの解説で、二次元空間から二次元空間への写像が単にダルくなっただけのようにも見える複素積分路について画鋲の比喩を用いて明確なイメージが得られるのが素晴らしい。
そして前に読んだときはあまり気にしなかったが、巻末のあとがきがかなり良い。線形代数の一般論からいわゆる三体問題が一般には解けないことを示し、そこからこの書籍が提示する物理数学の直観的方法が今必要であることを主張する論理展開は鮮やか。そこまでさんざ説明してきたような直観的方法を用いることによって、この本自体のポジションが正当化されるという入れ子状の構造となっており、必ずしも物理数学の範疇には収まらない実践的跳躍の可能性がまさしく示されている。

ところで、この本では直観的に理解することが重要と述べて実践してみせるのみで、直観的に理解したとはいかなる事態を指すのかについては厳密な定義を与えてはいない。もちろん直観的に理解した気持ちにはなれるが、ではそれは如何なる営みだったのかを正確に述べることが実はかなり難しい。
さっき述べたように大雑把に言えばこの本は数式を形式的な証明から解放してわかりやすい意味を与えることを目指しているのだが、かといって安直に物理的な対応物を出してきているわけでもないのだ。もっと具体的に言えば、「数式が対応する実世界とは何であるのか」「数式と実世界の対応は実在するのか」というような典型的な哲学の問いはこの書籍と若干ズレている。ストークスの定理を説明する際の「直観的理解」は依然として三次元ユークリッド空間内で閉じており、電磁気自体は別に動員されていない。恐らくこの話を突き詰めると、最終的には実は純粋数学の体系もそれ自体で閉じることは出来ず公理的な定義すら背景には「直観的な理解」を要求するという俗流不完全性定理のようなところに行き着く……ような気もする。

 

新装改訂版 現代数理統計学

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7月はほとんどこれに時間を取られた。概ね学部後期~大学院くらいのややハイレベルな書籍で難易度は高いが、解説自体は非常に丁寧なので詰まることはあまりないだろう。

 

統計学入門

上の『新装改訂版 現代数理統計学』から続けて読んだものの、それに比べると何段階か難易度が低いレベル帯の書籍。読む順番を間違えたというか、恐らくそもそも読まなくて良かった。大学入学したての頃に触れて難しかった記憶があってリベンジしようと思ったが、もう赤子の腕を捻るが如し……

内容自体は非常に良い本で、入門レベルの統計学の書籍としては最もお勧めできる。達成目標自体がそんなに高くないし解説も平易なので、高校数学程度の知識さえあれば難なく完全理解できるだろう。説明がとにかく地に足ついており、証明が高度過ぎるものに対しても一定の説明を与えようと努力しているのが好印象。例えば標本分散の定数倍がカイ二乗分布に従うことについて、「簡単な説明(証明ではない)を与えよう」と述べて厳密な証明ではないが直感的にはわかりやすい説明を与えている(これもまた「直観的方法」の一つなのだろうか?)。

ただ、これは全く欠点ではないのだが、時事的なコラムを入れる割には恐らく20年前の初版からほとんど情報が更新されておらず、化石のような記述が出てくるのが笑える。計算用ソフトとして未だにLotus 1-2-3が紹介されているのはギャグとしてはかなり面白いが、本気にしてインストールしようとする人が現れたらどうする。

 

GUILTY GEAR -STRIVE-

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サイゼミ格ゲー回を受けて遂に購入。

saize-lw.hatenablog.com

元々10年前くらいにGGACをソロプレイ&動画視聴で遊んでおり、格ゲーをやるならGG最新作という意志は固かった。萌え豚なのでブリジットが参戦したらやりますと言い続けていたのだが、カルヴァドスを打つラムレザルが萌えだったので前倒しで購入まで踏み切った。
ソフト本体に加えてHitBoxとオンライン対戦利用権利1年分も買ったため初期投資に5万円くらいかかっている気がする(参入ハードルが高くないか?)。まだコンテンツ消費を完了したわけではなく、これからも長期的にズルズル遊ぶと思うが、とりあえずの区切りとしてここらで記録を付けておく。

今回格ゲーを遊ぶにあたって、「大人の対人ゲームの遊び方を掴む」という大目標を立てた。
というのは、社会に出たあたりから学生時代とは異なる対人ゲームとの付き合い方が求められていることをひしひしと感じているからだ。といってもこの手のゲーマー加齢話でよく言われる「就職してゲームに使える時間や体力が無くなったから」というのはあまり正確ではない。俺は残業をほぼしないし筋トレのおかげで体力も無限であるため、その気になれば学生時代にも劣らない時間をゲームに注げる自信がある。
そうではなく、もっと単純にそもそもゲームで強くなるというモチベーションが消滅したというだけのことだ。二十歳も後半になると世の中には対人ゲームより有益で役に立つ上に面白いことがいくらでもあることがわかってしまう(例えば統計の勉強)。そんな中、相対的に無益で役に立たずズバ抜けて面白いわけでもない対人ゲームに必要以上の時間を割く理由はもうない。

補足392:「有益である」というのは微妙な表現ではある。俺は身に着けたところで何の役にも立たない勉強をしていることは多々あり、その無益さはゲームとそう大きく変わらない。しかし「知識としての有益さ」という評価基準は明確にあり、それは接続する知識の総量が多いことを意味する。統計学の知識は機械学習や科学哲学などの隣接分野の知識と次々に接続していくが、コンボレシピの知識はせいぜい次回作での同キャラの使い方に接続するくらいで広がりが薄い。

よって、いまや対人ゲームに求めるのは余暇のバリエーションの担保でしかない。他の娯楽に飽きてきて気が向いたときに過剰ではない範囲で程々に時間を割くコンテンツだけが求められている。理想を言えば時間をかけずに勝てるのがベストだが、その両立が不可能なのであれば、時間をかけない方が優先度が高い。時間をかけて勝つくらいなら、時間をかけないで勝たない方がましということになる。
とはいえ、ガチの勝ちは目指さないとしても、依然として程々には勝ちを目指さないといけないのが難しいところだ。というのは対人ゲームは基本的に勝とうとしたときに面白くなるようにゲームがデザインされているため、完全に勝ちを放棄するとそれはそれで楽しむという最終目的まで共倒れになる。
そういうわけで、俺もゲームとのカジュアルな付き合い方を学ぶときが来たのだ。勝ちたくはないけど勝ちたいジレンマをいい感じに解消しつつ、必要以上に準備したり勝ちにこだわったりすることもなく、なんか適当に遊んで適当に楽しかったことにするスキルを育むための練習台としてGGSTがチョイスされたという経緯がある。

カジュアルに遊ぶための大雑把な方針としては、「あまり上手くなろうとしすぎない」ということがある。どうせ上には上がいてそれを超えるために頑張るつもりもないのだから常勝は目指せない。今ランクマッチで目の前にいる敵に勝つことを目標にして、まだ見ぬ強敵のことは考えないようにする。関心のある範囲を小さく絞って間に合わせのスキルセットを成長させるのが、恐らく細く長く勝っている感を味わい続けるための唯一の方法だろう(単に長期的に上手くなろうとしてやり込む時間を投資したくないというのもある)。
とはいえ、目の前のやつに勝てる程度には成長し続ける必要もあって、結局はやっぱりバランスなのである。今はこの「長期的に最速で上手くなろうとはしないが、短期的にはゆっくり勝てるくらい」というスピード感を求めて攻略方法を模索している段階と言えよう。当初は攻略情報をほとんど見ないで(と言いつつ簡単なコンボレシピくらいは見て)遊ぼうとしていたが、それは流石に無理があったので少しずつ制約を緩め、今は初心者向けYoutube攻略動画くらいまでなら見てもいいことになった。

ちなみに効率的な攻略の最後の砦は「上級者に聞く」である。対人ゲームは上級者に聞くのが一番上達が早いというのは常識だ。通常はその上級者の存在がボトルネックになるのだが、幸いにもサイゼミには格ゲー解説回をやったひふみがいる。
ひふみの説明は実際相当上手く、サイゼミで格ゲーの解説をしただけでそれまで全く触れたことのない初心者五人に「これなら格ゲー楽しめそう」と思わせて格ゲーを購入させた実績がある。上級者であるにも関わらず「初心者はわからないことがわからない」という状態を理解している上に、成長フェイズに応じて必要な知識が異なることもわかっている。「初心者への説明が下手くそな上級者は、初心者がいるレベル帯では相手が弱すぎたり前提が共有されていなかったりして実際には通用しないテクニックを教えがち」……とは彼の弁だ。よってGGSTが上手くなりたいだけなら今すぐドラえもんにお願いするのが最善であることはわかりきっているのだが、それをするときっと教えるのが上手すぎて俺は本当にすぐ上手くなって当初の「細く長く付き合う」という目標とズレてきてしまうことを警戒している。
そんなわけで、俺は今日もdiscordで「立ち回りの答えは教えないでほしいけどここで走り込んで5Sが効くかどうかだけ教えてほしい」などと面倒臭すぎることを言ったり言わなかったりしている。秘密道具は出さないでほしいけど程々に適切なアドバイスだけ貰って自力でジャイアンを倒したいカスののび太

 

生産コンテンツ

ゲーミング自殺、16連射ハルマゲドン

趣味で書いている小説の7月進捗報告です(前回分→)。7月は第九章「白い蛆ら」と第十章「MOMOチャレンジ一年生」を進行しました。正直遅れ気味なので早く第十一章に入りたい。
ついでに毎月キャラ紹介とかコンテンツを置いときます(ここに書く設定等は進捗に応じて変更される可能性があります)。

字数

203661字→219236字

各章進捗

第一章 完全自殺マニュアル【99%】
第二章 拡散性トロンマーシー【99%】
第三章 サイバイガール【99%】
第四章 上を向いて叫ぼう【99%】
第五章 聖なる知己殺し【99%】
第六章 ほとんど宗教的なIF【99%】
第七章 ハッピーピープル【99%】
第八章 いまいち燃えない私【90%】
第九章 白い蛆ら【80%】
第十章 MOMOチャレンジ一年生【30%】
第十一章 鏖殺教室【1%】
第十二章 別に発狂してない宇宙【1%】
第十三章 (未定)【0%】

キャラ紹介⑤ 樹さん

若手女性警察官のヒロインです。
婦警の制服をきっちりと纏い、爽やかな敬礼が板に付いた綺麗なお姉さんです。若干身長が低くて可愛らしいところもありますが、正義感の強い市民の味方です。主人公の彼方たちとは顔を合わせる機会が多く、今では通報代わりに個人携帯で連絡を取り合う仲になっています。

樹はゲームには疎いですが、警官として身に付けた護身術に長けています。それは軽い組手ならばフィジカルモンスターの彼方を一応は無力化できる水準に達しており、直接戦闘能力はプロゲーマーにも見劣りしません。よって常に強者を求める彼方は、樹がVRバトルロイヤルゲームに参加することを望んでいます。
しかし、樹は自らの能力を勝敗を競うために使うことには全く関心がありません。模範的な警官である樹は、自分の高い能力は他の人々を守ることに使うべきだと確信しているからです。そして樹にとっては彼方もまた守るべき市民の一人であり、彼方との軽い組手に付き合うことはあっても、本気で戦闘を行うことは有り得ません。

樹は最小不幸社会を志向するタイプの人道家であり、概ね弱者の肩を持つことが彼女にとっての正義です。それが弱者を虐げるものである限り、強者の特権にも暴力の使用にも反対します。この点において、躊躇なく弱者を蹂躙できる彼方とは強く敵対しています。
しかしその一方で、樹は一方的に弱者を保護するパターナリスティックな振る舞いにも否定的です。つまり彼女が最も尊重すべきと考えるのは弱者の自己決定権であり、もちろん愚行権を支持し、本人の納得尽くであれば自殺でさえも容認します。人間の自己決定能力をラディカルに尊ぶという点では彼方と一致しており、その部分的な思想の一致が彼女たちをそれなりに信頼のおける知り合い同士にしています。

21/8/21 お題箱回:AI、批評、勉強、受験、暗記、仕事など

お題箱87

316.東大合格者のノートはみんな美しいって本当ですか?

「みんな美しい」は恐らく嘘ですが、少なくとも東大合格者ノートの平均は一般ノートの平均よりもかなり美しいと思います。素朴に考えてノートの美しさと持ち主の理解度はそれなりに相関する気がします。
ちなみに僕は自分のノートを非常に美しいと思っていますが、「赤一色で目がチカチカする」「字が小さくて読みづらい」と極めて不評なので平均値を押し下げている可能性があります。

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317.AIモノを観る度に思うのですが、AIが実質的に亜人種族と変わらない扱いになっていたり、無条件に感情や人格を持っていると、一体誰が何の目的で人格なんて余計な機能を取り付けたのだと無粋なモヤモヤが込み上がってきます。これは自分が情報系を齧っているからなのでしょうが、LWさんはこのような経験はお有りですか?

あります。が、微妙に異なる気もします。

まずAIに人格があるかのように動く機能を付けること自体にはかなりの合理性があります。「CUIよりGUIの方が使いやすい」と同じくらい素朴な意味で、人間を模したUIは使いやすく優秀だからです。特にその手のアニメでありがちな汎用的かつ専門家以外も使用するAIであれば、人間を模倣した対話的なUIを用いることは誰にとっても理解しやすい優れた設計と言えます。

よって機能的なレベルでAIが感情や人格を持っているかのように描かれることは納得できますが、問題はそれがAIが内面的に人格を持っていることと同一視されること、及びそれ自体が主題化されることです。
当然ながら「外見上人格を持っているように見えること」と「内面的に人格を持っていること」は全く別の事態であり、前者と後者を結び付けることはまだ人類史で誰もクリアできていない難題のはずです。よって「自分以外の誰かが内面を持っている」という空想の対象をAIに限る理由はありません。それは他者一般に対して言えることです。
フィクションにおいてこの外面と内面の一致を正当化する必要は必ずしもありませんが、その飛躍を行った時点で題材がAIである必要と説得力が失われることが問題です。例えば「人間との触れ合いの中で感情を体得するAI」というモチーフはありふれていますが、僕はそれはある種の仮想的な精神障碍者に対する想像力に立脚したものであって、AIではなく精神障碍者の表象と見る方が妥当であるという立場を取ります。

補足389:更に言えば、内面的な人格を描写できているのは本当はAIという題材ではなく表現媒体の成果であり、メディアの力能を窃盗しているという罪も加わりかねません。それについては『イヴの時間』の感想で書きました(→)。

しかし逆に言えば、AIが感情や人格を持っているかのような描写それ自体はギルティではありません。それに慢心して題材を全く活かせていないことが問題なのであって、AIを用いる他の合理性を示したり、AIに特有なドラマを描けたりしていれば十分に面白い作品も可能です(というより、鑑賞者側も無理矢理にでもそういう視点で良いところを探してあげた方が建設的です)。
そういう観点では僕は意外と『AI崩壊』とか『A.I. Artificial Intelligence』あたりも結構好きですし、特に『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の評価は極めて高いです。『GIS』でも人形使い亜人格的なAIとして描かれていますが、それ自体はほんの前提に過ぎません。危うい境界を持つAIの存在様態を、無機物の側から人間の側へと近付く人形使いと、義体を介して人間から無機物に近付く草薙素子の鏡写しの間で照射することがこの作品の主題であり、それは明らかにAIに特有の題材です。

 

318.すめうじの食事描写好きなんですが、あれは食事への関心無しに書けるものなんでしょうか。Twitterの言動と印象が違って不思議に感じます。

ありがとうございます。食事描写が人気のすめうじをよろしくお願いします。

kakuyomu.jp

食事描写ってだいたい虫食描写ですが、開幕のこの辺でしょうか。

 蛆、パスタ、レタス、蛆、蛆、白米、蛆、ハンバーグ、蛆、蛆、牛乳、蛆。

 

 食卓の上のコンビニ弁当は酷い有様だった。消費期限は三ヶ月以上も前、ずっと部屋の隅で常温保存していた弁当だ。

 プラスチックの容器の上、食べ物の上に蛆の群れが乗っているようにも見えるし、蛆の群れの中に食べ物が埋まっているようにも見える。どちらが地でどちらが図なのかわからない。

 容器に充満した蛆はダイニングテーブルの上にまで這い出してきていた。

 

「うわー……」

 

 まずはレタスにフォークを突き刺した。

 持ち上げると、大量の小さな蛆がカビのようにへばりついてくる。軽く振っても脱落するのは一匹二匹、全てを振り払うのは無理がある。

 そのまま思い切って口に入れた瞬間、蛆が舌の上を元気よく転がって跳ね回る。茶色く変色したキャベツは紙のようにパサパサで苦みしか感じない。

 顎を開け閉めすると、ぷちぷちという感覚。蛆の半分を咀嚼で噛み殺し、もう半分はそのまま飲み込んだ。

せっかく好きだと仰って頂いているので「食事は好きなので頑張って書きました」みたいなことを言いたくなりますが、これに関してはそれっぽく書いてみただけで、仰る通り食事への関心は一切ないです。人真似をして何となくそれっぽい文章を出力するAIみたいですね。
ただ、美少女が蛆虫を食べるという最悪なシチュエーションへの関心はかなり高いのでそのファンタジーに対する追求心が働いた可能性はあります。しかしとはいえ、僕はそもそも題材への関心と文章の解像度にはそこまで相関がないと思う方です。別に興味のないことでも必要なら書けます。

 

319.LWさんみたいな批評ってどんな勉強すれば書けるようになるんですか?

うーん……勉強したことは無いですし、体系化されているわけでもないので思い当たるところが全然無いですね。
そもそも僕は批評を書いているという感覚はあまりなくて、批評クラスタ?が好む「批評とは何か」みたいな話にも関心が薄いです。作品を消費して得た解釈なり感想なりを駄弁る代わりに発信しているだけでそれ以上の意義はあまりありません。ブログタイトルの「LWのサイゼリヤ」もなんかオタクがサイゼリヤに集まったときにするような話を書くかという気分で命名されています。

強いて言えば、言語化能力を高めるのが良いと思います。そしてサイゼミをやって思ったのですが、やっぱり本の要約はかなり言語化能力が鍛えられる気がします。理系でも人文でも技術書でも新書でも何でもいいので一通りのロジックがありそうな本を一冊読んで、何も見ない状態で何も知らない人に一から説明して「へーそうなんだ」と言わせるのはかなり練習になると思います(これはそのままサイゼミでやっていることでもあります)。

ちなみにいわゆる文学批評の本は何冊か読んでいますし、大学でも文学部に潜って文学理論概論みたいな単位を取ったことがありますが、それがこのブログで書くような感想に活かされているとは全く思いません。一応何か読みたければ『批評理論入門』をオススメとして挙げておきますが、これはある程度確立された人文学的制度としての批評の解説なので、普通のオタクが言語化したい感想とはたぶんかなり異なると思います。

 

320.勉強とか学習を効率的に、効果的にやる工夫に関して。
学校や仕事の勉強もそうだし、新しいプログラミング言語とかスポーツみたいな新概念を身に着けて実務に生かすとか、単に知識をつけるとか。LWさん的にそんな感じのことを何かご存じでしたりお考えご経験がありましたら教えてください。

上の回答と被っていますが、アウトプットするのが一番だと思います。
アウトプットが目指すのは自分一人で議論を再構築できるようになることであり、それはただちに自分に知識が定着したことを意味します。なので原本を見ながらアウトプットしてもあまり意味がなくて、なるべく何も見ないで全部説明するのが望ましいです。ここまでガチる必要はありませんが、この有名な文書で言われていることはかなり真実です→
とはいえ研究ではなく趣味である場合、僕は議論の解像度はある程度は下げてもいいと思います。原本の全てを正確に再現しようとして迷走するよりは、多少粗くても自分の中で一本筋の通った議論を一つ構成する方が有益だと考えます。

もっとスケールのデカい話をすると、最近ようやく「勉強とは捨象である」ということがわかってきました。
大抵の本には情報が多すぎます。ほとんど言いがかりのような反論への再反論とか、絶対に後で思い出せなさそうなテクニカルな証明とか、些末な実証例や例外の指摘とか、そういう補足的な議論はあえて言えばやむを得ず記載されていることで、その本が本当に主張したい内容ではない場合が多いです。
よって、得た知見を頭に保存する段階ではそういう本筋でない話は一旦より分けておいて、コアの部分だけを抽出する作業が必要です。国語教育でやっていた「四百字で要約せよ」みたいな問題は本当に大事だったということを今更噛み締めています。

補足390:ただ、ガチな学者が書いた論文みたいな本や、本が扱っている分野によっては本当に必要な情報だけがギチギチに詰まっていて一切削れないこともありますし、ケースバイケースの範疇ではあります。

ただし最初から細かい部分を読み飛ばすのは最悪です。一度は全部ちゃんと読まないとそもそも何が重要な話なのかわかりませんし、コアを掴むことが大事とはいっても、コアだけあっても大抵は浅薄で使い物にならない知識しか得られません(削除した枝葉末節は完全に忘れるのではなく、頑張れば思い出せるか、少しのヒントがあれば再生できるくらいが望ましいです)。
オススメなのは、一度は細かいところまで丁寧に全部読む精読の作業をしてから、あとで必要な部分と不要な部分をより分けて整理しながら議論を再構築する作業をすることです。一周目がインプット、二周目がアウトプットに相当するイメージです。僕は難解な書籍は大抵その手順で二周以上回ります。ちなみに一周目でコアの部分がわかる場合はその時点で付箋紙とか貼っておくと、二周目で「どこが重要だったっけ?」といちいち考え直さなくて済むので楽です。

 

321.受験って結局のところ暗記ゲー?

普通に暗記とアドリブが半々くらいじゃないですかね?
なんかYoutuberとかは断言した方が再生数が伸びるので「受験は全て暗記だ!」とか「受験に暗記は全く必要ない!」とかいかにも言いそうですけど、常識的に考えてどちらも必要という方が真相に近いと思います。
あと「どこまでの記憶を暗記と呼ぶか」みたいな話もあって、例えば数学の整数問題とかだと個々の問題の解法は暗記できなくても一定の解法パターンを覚えておいてそれを総当たりで試すのが最上位層の標準的な戦略だったりします。年表のような個別知識に限らずそういうセオリーとかテクニックまで暗記に含めるのであれば、暗記で賄えることはもう少し多くなります。

補足391:これは僕が理系だから偏見があるかもしれないんですが、社会系の科目でよく言われる「世界史は流れを抑えるのが重要で暗記科目ではない」みたいな言説って普通に嘘ですよね? 流れを抑えるのは重要だし、それに加えて固有名詞や年代をかなり暗記する必要があるというのが真相のような気がします。

ちなみに僕は覚えなくても済むことは覚えたくない方だったので、いつでも導出できる定理とかはそんなに覚えていませんでした。三角関数の積和の公式を覚えていなくて東大を受けたときですらその場でちょっと頭捻って導出していましたが、それも暗記してしまった方が楽な人もいるでしょうし、人それぞれではあります。

 

322.スペースやらないんですか?(やるなら是非参加したい)

現状では特にやる予定はないです。別にやらないという信条があるわけではないですが、ブログの方が楽だし得意なのでスペースを開く動機が特にないくらいの感じです。
ちなみにブログ書いてる画面の配信とかしてもいいんじゃないかみたいな話をこの前友達としたので、それはするかもしれないし、しないかもしれません。

 

323.そろそろ研修おわる新社会人なんですが、配属が不安なのでlwさんの仕事への考え方とかこれやった方がいいよって事があったら教えていただきたいです。

これ三ヶ月前くらいの投稿ですが、そろそろ配属先に慣れましたかね?

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意外にも僕はわりと楽しく働いている方で、少なくとも興味ない研究室に配属された大学院よりは会社の方が明らかに良いです。ネットには仕事に行きたくない社会人が無限にいるので学生のうちはそれを鵜呑みにして怯えていましたが、アレは思想が先鋭化しているやつは声がでかいといういつものパターンに過ぎませんでした。
結果を出すまでが自己裁量の大学院と違って会社は退勤した瞬間に仕事のことを何もかも忘れていいですし、月収いくらで雇われてる限りは本質的に責任がないのが楽なところです。会社員は雇用主とリスクリターンを共有する運命共同体ではなく、雇用主が現金リソースを変換して確保する作業リソースに過ぎないので、会社員の動作不良は全部雇用主の責任です。

21/8/15 2021年6月消費コンテンツ

2021年6月消費コンテンツ

流石に劇場版レビュースタァライトが良かったです。

 

メディア別リスト

映画(5本)

幻夢戦記レダ
書を捨てよ町へ出よう
少女☆歌劇レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド
劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト
殺しの烙印

アニメ(13話)

ウマ娘 プリティーダービー(全13話)

書籍(3冊)

データサイエンス講義
法の世界へ
入門統計解析

 

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

消費して良かったコンテンツ

入門統計解析
書を捨てよ町へ出よう
法の世界へ

消費して損はなかったコンテンツ

ウマ娘 プリティーダービー
幻夢戦記レダ

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

少女☆歌劇レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド
データサイエンス講義

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

殺しの烙印

 

ピックアップ

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

saize-lw.hatenablog.com

大場ななさん、好きです……

 

書を捨てよ町へ出よう

5月の『田園に死す』(→)に続いて寺山修二を見た。

開幕と終幕で主人公が諦念を滔々と語るパートが筋少の語りパートみたいで本当にジーンと来たが、実は面白いのはそこだけという説もある。結局どこへも抜け出せず何者にもなれない時代というテーマが『田園に死す』とそう変わっていないので、早くも若干のマンネリ感は出てきた。時空を超えて主人公の葛藤に強くフィーチャーした『田園』に比べると、そこそこ多くの人々が参加する『書を捨てよ』の方が、話の筋は若干わかりづらい代わりにエンタメ寄りと言えなくもないかもしれない。

 

ウマ娘 プリティーダービー

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めちゃ流行っているので見たが面白くはなかった。
素直で猪突猛進な主人公、憧れの目標兼ライバル、飄々としているが熱いものを持っているコーチ。見る前に何となくこんな話かなとうっすら予想していた内容と完全に一致しており、「これが流行るのか」という素朴な驚きと「これは流行るよな」という素朴な納得が同居した奇妙な味わいがある。
とりわけ殺伐としたフィジカルの闘争を緩和して教育的な要素を盛り込むため、擬人化のどさくさに紛れて導入された「ウィニングライブ」という概念は強烈だ。何としてでもアイドルの文脈を割り込ませ、単なる勝利のみならず「皆に夢を与える」という手垢だらけの正しい目標をも盛り込みたかった欲張りな執念が伺える。
いずれにせよ、既に『 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』が登場してしまった今、まさにそれが棄却したような美少女教育アニメと言わざるを得ない。

とはいえ、昨今の標準的アイドル作品が友情努力勝利を組み込んでスポ根化していることは周知の通りだが、逆にスポ根ものに競技という枠を超えた見世物要素を組み込む作品は思い付くようで思い付かないような気もする。確かに勝利したチームないし個人が事実上のアイドルとして見世物になる作品はいくつもあるが、それを明確にシステム化していることはそれなりに新しいのかもしれず、 ここに「スポ根」と「アイドル」の間にある微妙な力学を感じないこともないものの、俺の関心が高くないのであまり掘り下げるモチベーションがない。

 

幻夢戦記レダ

太古の女性主人公異世界転移もの。当時のアニメらしく元の世界に戻ることが自明の目的になっており、最近のアニメみたいに無双したりハーレムを作って定住したりはしない。
全体のお話としても「異世界に逃げずに頑張って現実をやっていきましょう」みたいな寓話感が強く、主人公の女の子にとって異世界の冒険は現実世界で恋愛に向き合うための踏み台に過ぎない。また、異世界にいる悪者は現実世界への侵略を目論んでいるのだが、彼ですら「別世界に行こうとせずに自分の世界で頑張った方がいい」という方向に落ち着いていく。
総じて異世界への進出を「逃げ」と見做す禁欲的な姿勢が一貫しており、昨今の異世界転生ないし転移が金暴力セックスを手にして完全な勝ち組になれる風潮とは反転した倫理が伺える。この作品一つだけを元手にどうこう言うのは厳しいにせよ、異世界転生ものに雑に言及したいときに若干の引用価値がありそうだ。

 

データサイエンス講義

同じオライリーの戦略的データサイエンス入門(→)は名著だったが、これはかなり読まなくて良い寄り。

アメリカのどっかの名門大学のオムニバス講義をそのまま本にした内容で、オムニバス講義の良いところも悪いところもそのまま出ている。良いところとしては、とりあえずデータサイエンス関連で働いている人をたくさん呼んで色々な話をするのでトピックは豊富で印象に寄った卑近な話が多い。悪いところとしては、あまり体系的に書かれておらず理論的な解説も適当なので印象に残る点を頑張って探さなければ得られるものが少ない。また、その手の業界人の話は劣化するのも早いため、出版から既に七年もの年月が経過していることも見過ごせない欠点である。

個人的に他であまり見たことが無くそこそこ面白かった話として、統計的な可視化を意思決定の材料ではなく視覚的なアートとして用いるというものがある。あらゆるものを定量化して数値の運動であるところの資本主義に薪をくべているような印象もあるデータサイエンスだが、成果をアーティスティックに提示して質的な面白さも作り出せるというような話はそれなりに興味深かった。
また、統計学とデータサイエンスの違いに関する話も面白いと思ったが、これについては『統計学を哲学する』(→)が完全上位互換なのでそちらを読んだ方がいい。

 

法の世界へ

遥か昔に何かで入手した第三版が手元にあったので捨てるために読もうとしたのだが、法改訂に合わせてかなりのスピードで新版が出ているらしく、わざわざ最新の第八版を図書館から借りて読んだ。

法学部以外の学生が教養科目として法律を学ぶ際のテキストとして使用を想定しているらしく、契約だの雇用だの投資だのこれから社会に出ていく大学生に必要そうな知識がかなり詰め込まれている。「大学一年生向け法律ハンドブック」という趣もあるが、それでも法律学のテキストを自称するだけあってTips集に陥らないように学問的な体系化が試みられているのは好印象。
まあかなり良い本だが、いわゆる常識の類を付ける本であって、目が開かれるような内容はあまりない。俺が世間知らずだからありがたかったというだけで、就業規則とか不法行為について何となくでも説明できる標準的な社会人は別に今更読む必要も無いだろう。

 

入門統計解析

これもたしか大学一年時に買わされたやつでそろそろ捨てるかと思って読み直した。

特筆すべき特徴もないスタンダードな統計学の入門書で、高校レベルの数学力は前提ではあるが、統計学を学びたい人が初手で触っていい難易度。ちなみにこの前紹介(?)した竹村彰通の『現代数理統計学』(→)あたりはもっと難解なので、それを読む前には最低限この本の内容くらいは全部普通にわかるくらいにしておいた方が良い。

ただ強いて言えば、このレベルの誰でも読める統計学入門テキストとしては、俺は東京大学出版会の『統計学入門』(→)の方がオススメではある。『入門統計解析』は区間推定周りの説明が怪しかったり定理の証明に天下りや省略が多くて若干納得感に欠けるところがあり、『統計学入門』の方がその辺のフォローが手厚くて多分理解しやすい。

 

生産コンテンツ

ゲーミング自殺、16連射ハルマゲドン

趣味で書いている小説の6月進捗報告です(前回分→)。6月は第九章「白い蛆ら」を進行しました。
ついでに毎月キャラ紹介とかコンテンツを置いときます(ここに書く設定等は進捗に応じて変更される可能性があります)。

字数

190042字→203661字

各章進捗

第一章 完全自殺マニュアル【99%】
第二章 拡散性トロンマーシー【99%】
第三章 サイバイガール【99%】
第四章 上を向いて叫ぼう【99%】
第五章 聖なる知己殺し【99%】
第六章 ほとんど宗教的なIF【99%】
第七章 ハッピーピープル【99%】
第八章 いまいち燃えない私【90%】
第九章 白い蛆ら【50%】
第十章 MOMOチャレンジ一年生【1%】
第十一章 鏖殺教室【1%】
第十二章 別に発狂してない宇宙【1%】
第十三章 (未定)【0%】

 

キャラ紹介④ 神威ちゃん

ヒロインの一人で、巫女のアバターを使うプロゲーマーです。
肩から先がパージされた動きやすい巫女服を着用し、清廉で凛とした雰囲気を纏った長いツインテールの美少女です。落ち着いた丁寧な敬語を使いますが、常に自分の意見をはっきり述べる、融通が利かない堅物です。
タッグチーム式のバトルロイヤルVRゲームに単身で参加するという有り得ないハンデを背負いつつ、国内ユースでは十指に入る強豪として知られています。

神威のプレイスタイルは「病的な可能性フェチ」という評価に集約されます。
神威は「実際に現実化している事態」よりも「可能性として有り得る事態」を突き詰めて考えます。その思考はゲームにおいては優れた予測能力として発現し、実況解説に予知とまで言わしめる超人的な先読みを可能にします。また、どんなに劣勢でも勝ちの可能性を探して粘り続けるため、最後には針に糸を通すような逆転を実現する彼女の戦い方に魅了されるファンも少なくありません。
しかしその一方、怪物揃いのトップ帯においては神威の可能性フェチは勝率を下げる悪癖でもあります。というのも、彼女はほとんど負けが決まっている戦場でもコンマ数パーセント未満の細い細い勝ち筋を探し続けてしまうため、撤退という判断ができないからです。複数チームが入り乱れる長期戦のバトルロイヤルにおいて、「一旦撤退して仕切り直す」という大局的判断を行えないことは極めて重いハンデと言って差し支えありません。

主人公の彼方は神威のことをそこそこ気に入っていますが(強いので)、神威は彼方のことが大嫌いです。それは神威と彼方のゲームの勝敗に対するスタンスが真っ向から対立しているからです。
彼方はゲームの勝敗を絶対的必然として捉えており、たとえ何度繰り返しても勝者は必ず勝つし、敗者は必ず負けると確信しています。敗者が勝っていたかもしれない可能性などあらゆる意味で有り得ません。それは彼方の「勝者が敗者を蹂躙することは当然の権利である」という最悪な思想を構成する前提の一つでもあります。
その一方、神威にとってゲームの勝敗とは無数にある可能性の中でたまたま実現した一つに過ぎません。むしろ「実現しなかったが確かに存在した可能性」の方が彼女の関心事であり、敗者を可能的な勝者と見做して敬意を払います。とはいえ、それは時には極めて押しつけがましい慰めでもあります。実際、神威は自分が倒した相手に数万字に及ぶ長大な検討レポートを送り付ける奇行で知られており、それを綿密な死体蹴りと解釈してショックを受けるプロゲーマーも少なくありません。

21/8/9 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトの感想 どうでもよくライト

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

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さすがに神映画でした。大場ななさん、好きです。

初週に見に行って号泣した割には感想を今更書いているのには若干の理由が無いこともない。基本的に俺はこのコンテンツのことをかなり素朴な意味で美少女コンテンツとしてしか見ていないため(女の子が可愛いから)、相互参照のために迅速さが求められそうな解読作業的なムーブメントにはあまり関心が無かったのだ。
迫力ある演出の妙に言いたいことがないとまでは言わないが、それは俺にとっては黙って自分の胸にしまっておけばよい類のインプレッションに過ぎない。豊潤なメタファーの読み解きもどうでもいいとまでは言わないが、俺より得意な人がやってくれるのがfixした頃に読みに行けばよいという程度の情熱しかない。
美少女アニメオタクであるところの俺にとって最も関心が高かったのは、この映画が教育アニメ化が著しい美少女アニメの潮流に正面からNOを突き付けたことにある。

 

テレビ放送版:ウェルメイドな美少女アニメ

もともと、俺は3年前にテレビ放送版を視聴した時点ではこのアニメに対して「期待ほどのものではなかった」という感想しか持てなかった。というのも、本編全体を通して第一話で設定したハードルを超えられたようには見えなかったからだ。
確かに第一話冒頭では凡庸な美少女動物園アニメのように偽装しておきながら、突然異次元から出現するレビューで「舞台少女はそんな生温いものじゃあないんだぜ」と叩き付けてくるショッキングな構成は見事だった。しかし、そんな反骨精神煮え滾るスタートを切った割には、続く内容はせいぜい「極めてよく出来た美少女アニメ」の域を出ていなかったように思う。

特にレビューパートでの敗者が死亡するでも退学するでもなく、日常パートでは何となく関係を維持して劇を演じてしまう消化不良感はその最たるものだ。あれだけ勝ちにこだわっていた純那も、あれだけサイコな執着を見せたまひるも、誰も彼もが最終的にはお行儀よく観客席で華恋の添え物に収まる末路。舞台少女のきらめきはオーディションに負ければ消えてしまうという解釈も無しではないが、それならそれで退学すればいいものを、何を雁首揃えて仲良しこよししているのだろう。

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とはいえ変にデスゲームみたいな設定があったところでそれは却って作品をチープにするだけだろうし、美少女アニメとしては仲良しオチが正着であることは間違いない。「絶対に負けられない戦いに負けたけど、なんか爽やかに終わったのでヨシ!」というなあなあ敗戦処理が美少女アイドルものや美少女スポ根もので多用されることは周知の通りだ。とりあえずキャラ同士を仲良くする教育アニメを見せておけば、子供向けコンテンツと百合カルチャーを好む傾向にある美少女オタクは良かった良かったと手を叩いて喜んでくれるだろう。

よって美少女キャラ同士の変則バトルアニメとしては最上級の出来なのだが、それならそれでキリンとか第一話で過剰に期待を上げないでほしかったかもしれんという程度の感想で俺はテレビ放送版の視聴を終えた。

 

劇場版:美少女の文法を超えていく美少女アニメ

だが、まさにその美少女らしい収まりの良い末路こそが最大の問題であったことが明らかになるのが劇場版だ。
劇場版は戦いを終えたエピローグの日常としての進路決定シーンから始まり、それなりの場所でそれなりの進路に収まったキャラたちはオーディションで負けたときから当初のきらめきを忘れてしまったままだ。香子だけはその現状を自覚して不満を漏らすものの、彼女もかつての貪欲さを失い、オーディションの機会が降ってくるのを口を開けて待っているに過ぎない。

しかし「喋りすぎ」とぼやく大場ななだけは、そういう日常的な語り口が本来の欲望を取り繕った偽装であると看破している。喋りすぎる、すなわち取り繕いすぎる美少女キャラクターたちに大場ななが遂にキレた皆殺しのレビューを皮切りに、本当のエピローグが始まる。
つまりワイルドスクリーンバロックとはテレビ放送版で美少女的教育アニメのテンプレートに抑圧されて積み残された欲望の大暴露と後処理なのだ。美少女キャラクターたちが美少女アニメ的文法に反旗を翻し、ウェルメイドなテンプレートを破壊して彼女たちが本当にやらないといけなかった殺し合いを繰り広げる。香子は双葉を鬱陶しく思っていたし、まひるはひかりが嫌いだったし、ななは純那を見下していたし、クロディーヌから見た真矢は気取っているだけ。それぞれの戦いが独立してオムニバス形式になっているのも、彼女らが一皮剥けば全く一枚岩ではなく、それぞれに異なる固有の鬱憤と激情を持っているからに他ならない。
比較的わかりやすい歪みを含んでいた他のカップルに比べ、テレビ放送版ではほとんど葛藤なく処理されたひかりと華恋のペアについても例外ではない。テレビ放送版では華恋のカリスマによって迷える子羊であるところのひかりの救済が割と都合よく完了したのだが、その問題の無さにこそ問題が潜んでいることが指摘される。ひかりは所詮は自分がファンガールに過ぎないという不安を吐露するし、完璧に思われた華恋にもわかりやすい目的を失うと脆いという弱点が明らかになる。

各キャラが抑圧していた内容が吐露されるにあたって、演技の両義性が現れてくることは興味深い。
というのも、「素vs演技」「真実vs嘘」という二つの対立において、常識的に考えれば「素が真実」で「演技が嘘」という方が自然な結合であるように思われる。しかし、彼女らが本心を告げるのはどこまでも舞台の上だ。すなわち、「演技」の中に「真実」があるという捻れがある。日常における素の「喋りすぎ」な空間の中では本心はむしろ抑圧されて嘘が跋扈するが、舞台の上では清算すべき真実が白日の光を浴びる。

この脱構築的な構造にどう言及するかはかなり人の関心によりけりなように思われるが、俺はこの映画を美少女アニメとして見ているので、マイナーな切り口であることを承知の上でいわゆる日常系の問題をここに読み込みたくて堪らない。
彼女らとてその気になれば出来合いのコメディをこなせてしまう美少女キャラクターであるから、刀を持ったり弓を構えたりしないで普通に喋ってしまえば、それはテンプレートをなぞって上滑りする会話になってしまうのだ。翻って、舞台の上では何を言っても許される。これは演技であるという共通了解があるが故に、美少女が普段はとても言えないような批難を投げかけることも容易なのだ(これは演技だからセーフ!)。むろん攻撃を受けた相手にも批難を正面から受け取る演技を行う義務が生じ、結果的に本心で会話することを余儀なくされる(この「本心を演じなければならない」という矛盾した要請から逃げ回ったひかりはまひるからガッツリ怒られた)。
こうして俺は美少女キャラクターが繰り広げる日常という惰性の営みに対置するものとして、演技としての本心というソリューションを記憶しておきたい。

 

どうでもよくライト

テレビ放送版であえてお行儀のよい美少女アニメを見せておいて、3年越しに劇場版でそれを徹底的に否定し尽くしたという入念なちゃぶ台返しを俺はこの映画に見る。そしてより一般には、世に溢れる美少女アニメが日常の中で取って付けたような道徳的処理によって本当に戦うべき葛藤をなあなあに済ませてきたことへの糾弾としてのポジションを占めることも出来よう。
総じてかなり価値が高い映画で、俺はこれから「これってもう劇場版スタァライトが終わらせた論点ですよね」みたいなことを何度も言ってしまうような気がしてならない。

 

補足388:たまたま公開時期が被ったシンエヴァとの対比は面白い。既に記事を書いたように、シンエヴァではシンジやアスカはウダウダした思春期的な葛藤に「もうどうでもいい」と素朴に興味を失うことでそれらに決着を付けた(→)。レビュースタァライトでも、ほとんどのキャラクターは美少女アニメのテンプレートという後ろ盾を借りて、青い熱情にはもう興味を失ったフリをして済ませようとした。しかし一人だけ子供で異常者の大場ななが「どうでもよくないだろ」と大人の同級生たちを皆殺しにしたことでワイルドスクリーンバロックが開幕する。どうでもよくないのがレビュースタァライト、どうでもよくライトなのである。

21/8/1 お題箱回:はいふり公式アプリ、エロファボ、図書館他区取り寄せ、子育て支援etc

・お題箱86

308.たまに写真にコラしてるかわいい女の子ってオリジナル?

アニメ『ハイスクール・フリート』の公式アプリであるところの『「はいふり」公式アプリ』内はいふりカメラ機能を使用しています。たまに「はいふりカメラ」というアプリがあると勘違いしている人がいますが、あくまでも情報アプリのサブ機能です。

「はいふり」公式アプリ

「はいふり」公式アプリ

  • Aniplex Inc.
  • エンターテインメント
  • 無料

apps.apple.com

これは本来はいふりコンテンツ関連情報をまとめて教えてくれるありがたいアプリだったのですが、もう5年前のアニメでコンテンツ自体そこまで盛り上がっているわけでもないため今はほとんど廃墟になっています。新着情報の最新は去年の10月、劇場版公開映画館リストに至っては「終了」が並んでいるだけの無のページです。

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朽ち果てたアプリ内で唯一使用されているのが右下あたりにあるはいふりカメラです。カメラにキャラを重ねるAR機能は最近はソシャゲでもよくあるものの、2016年の段階でフレーム付きカメラを実装しているキャラクターアプリはそれなりに珍しかったため、キャラさえつけば割と何でもいい一部のオタクが未だに使い続けているという感じです。

ちなみにはいふりカメラはフレーム無しの写真に後からフレームを重ねるのではなく、最初からフレーム付きの撮影しかできません。よって、キャラフレーム付き写真と付いていない写真が欲しい場合、はいふりカメラでの撮影後に別途で標準のカメラアプリを起動して撮影するという二度手間が必要になり、かなり不便です。

 

309.いつもLWのサイゼリヤを楽しく拝見しております。LWさんは現実での恋愛には関心が無さげですけども、エロファボを始めとする性欲、ひいては自慰行為に関連した事柄への熱意は強く感じます。そこで疑問なのですが、自慰行為を愛好する事と性交渉を実践しようと思わない事は苦を感じずに両立できるのでしょうか。

ありがとうございます。

たしかにエロファボにはかなり熱意がありますが、別に必ずしも自慰行為に行き着くわけではなく、ネット上でリアルタイムかつ広範に進行する娯楽の一つとして楽しんでいる節もあります。
イメージ的には個人Vtuberファンとか地下アイドルオタクの絵師版みたいな感じです。比較的古参のVtuberファンには、評価が安定した大手Vtuberだけではなくマイナーな個人Vtuberのデビュー動画などを漁り、玉石混淆の多様性それ自体を楽しんだり、無名の中から有望な人を発掘したりすることを楽しむタイプのやつがいます。僕もそれに近くて、色々な絵師が色々なイラストを描いているリアルタイムな事態そのものを楽しんでいる節はあります。

Vtuberと同じようにイラストにもかなり時期的な変動があって、全体のドライブというか力場を追うとグッと面白くなると思います。

例えば一番わかりやすいのは大手ソシャゲが新キャラをリリースしたり新アニメが流行ったりVtuberが新衣装をお披露目したりとキャラのネタが増えたときで、そうなると当然そのキャラのイラストが増えます。他にも季節とか行事によってイラストのモチーフがどんどん変わっていって、現在に即応したイラストが生産されるリアルタイム性があります(今は夏なので海・水着・汗・熱気などをテーマにしたイラストが多いです)。

細かい描き方にも明確に流行り廃りがあります。例えば最近かなり流行っているのが水着の上におへそを描き込む謎の文化で(透けヘソ)、現実だと物理的に有り得ないのですが、肉体のラインを楽しみつつ身体を覆うタイプの水着を着せたいという矛盾した要望を満たすために多用されているようです。特にその急先鋒であるトップ絵師がmignon先生で、異常なこだわりで水着の上からヘソを含む腹部を描き込むことで知られています。実際、去年mignon先生はイラスト解説本を出したのですが、何故か商品紹介ページではヘソの描き方が売りの一つに挙げられています→

ちなみに透けヘソについてpixivで調べてみると、ある時期から透けヘソのイラストがポケモンのサイトウで埋め尽くされます。そこでポケモンソードシールドの公式HP→をチェックすると、確かにサイトウはヘソが浮き出る有り得ない構造のインナーを着用していることが確認できます。

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サイトウは最近のポケモン界でもかなりの人気キャラですから、公式絵を見ながらサイトウを描いたりする過程で絵師が透けヘソという概念に関心を持ったという可能性はかなり有り得そうなものに思えてきます。
この推論が妥当かどうかはともかく、夏に増える水着イラストを見るだけでも色々調べることがあって面白いという例でした。

他にも面白いのがイラストレーター同士の参照関係を邪推することで、特徴的なイラストを描く人気絵師は色々なところで影響力が散見されます。
例えば、最近急増しているのはrurudoフォロワーです。rurudo先生は数年前から高い人気を誇る古豪ですが、最近Vtuberとコラボ配信してトークもできることが判明し、明後日には画集が発売される押しも押されもせぬトップ人気絵師の一人です。
独特の貧乳ツリ目美少女と透明感のある塗りの影響力を受けたrurudoフォロワーは急増している最中であり、その中でも最も魅力的な絵師の一人としてyohagi先生が挙げられます。ここ数ヶ月でフォロワー数が急激に増加していますが、まだまだ実力に評価が追い付いていないフェイズなので多分一万人を超えるのも一瞬だと思います。

エロファボの話がかなり脱線しました。エロファボは自慰行為に直結するわけではなくリアルタイムに進行する娯楽としてかなり面白いという話をしましたが、それはそれとして、「自慰行為を愛好する事と性交渉を実践しようと思わない事は苦を感じずに両立できるのか」という質問に対する答えは完全にイエスです。
そしてそれは疑問に付されるほどのことでもないと思います。大雑把に言って性欲って一般に思われているほどアプリオリな繁殖本能によって駆動しているわけでもなく、むしろかなりの程度が文化的に形成されるアポステリオリな側面を持つということはいまや常識に属します。この世にフェチという不合理な執着が存在することはその傍証の一つで、性器に直結していない胸フェチや脚フェチや制服フェチは明らかに繁殖に寄与しません。よって性行為そのものから離れた性欲は明らかに有効であり、いわば絵フェチとしてイラストによる自慰行為があることは何ら不思議なことではありません。

ちなみにこれはエビデンスのない推測ですが、僕に限らず現実の性交渉に特に関心のないオタクは決して珍しくない気はします。性交渉を切望して止まない一部のオタクは声がデカいのでnoteに風俗レポや出会い系レポを書いたり恨み節をツイートしたりして悪目立ちするだけで、僕がこうして聞かれなければわざわざ言わないのと同じで、素朴に現実の性行為に関心がなくて萌え絵を楽しんでいるオタクはたくさんいるのではと思いますが、真相は如何に。

 

310.都内の私立大学を卒業して地元に戻ったところ、予想してた以上に市の図書館の蔵書がしょぼくて困っています。LWさんはあまり本を買わないとブログに書かれていた記憶がありますが、普段読まれているような本(ある程度専門性を有する書籍等)は都内の図書館なら普通に置かれているものなのでしょうか。

仰る通り、予約が取れない新作や繰り返し参照する書籍を除けば、基本的には全部図書館で済ませています。
都の図書館も少なくとも大学図書館に比べればかなり貧弱で、専門性の高い書籍は検索機や区の図書館HPで調べただけではヒットしないものが多いです。しかし東京23区内の図書館では「検索機でヒットしない本を職員に頼んで他区から取り寄せる」という裏技が使用可能であり、これを使えば大抵の本は入手可能です。検索機に表示されない本でも、紙の予約カードに書籍情報を記入してカウンターに持っていき職員に渡して「この区には無さそうなので他区からの取り寄せをお願いできますか?」とか言うことで他区からの取り寄せを申し込むことができます。延長不可で二週間しか借りられませんが、大抵は一週間後くらいに取り置き完了したメールが届いて入手可能になります。
この他区取り寄せシステムは検索機からは使えないのでカウンターで職員に自分から言う必要があり、しかも図書館側もきちんと告知していない(大抵FAQとかにこっそり書いてあるだけ)ので、有用さの割にほとんどの人は知らないマジな裏技だと思います。このブログでも指折りの有益情報なので活用してください。

あとは都内なら普通に「千代田区国会図書館に行く」っていう選択肢もありますね。御存知だとは思いますが国会図書館は現存する書籍をほぼ全て所蔵しているため理論上無敵です。ただ、千代田区まで行くのがダルい、初回利用にそこそこ厳格な手続きが必要、入館時はいちいち荷物をロッカーにしまわないといけない、本の利用申請がめんどい、本が出てくるまで時間がかかる、貸出不可なので現地で読まないといけない、最近はコロナ対策で入館に申し込みが必要などとハードルも高く、最終手段ではあります。

ちなみに僕は最近『トンデモ超変態系』を読むために国会図書館に行きました。

 

311.葬送のフリーレンもヴァイオレットエヴァーガーデンみたいになる可能性ない?俺はヴァイオレットエヴァーガーデン好きなので問題ないが…

そうですかね? フリーレンちゃんは最初からアスペじゃないし今でも普通に強くて戦えるので大丈夫だと思います。

 

312.奢るから風俗いってレポ書いて

今このライフステージで風俗行くのマジで怖すぎません?
一番怖いのがコロッと沼にハマって使い道のない貯金をオールインし始めるみたいなパターンで、所詮は童貞異常独身男性なのでそのルートに入る可能性はかなり高いと思います。逆に何か絶望的な事態が起きて自慰行為に悪影響が来るのもかなり怖いです。
上にも書いた通りそもそも現実の性行為を大して求めていないので今は行くという選択肢は無いです。

 

313.頭が良すぎるとそれはそれで辛いという説がありますが、lwさんは頭が良すぎて辛いと感じた事はありますか?

あまり思い出せないです。
なんかこの年齢になると「こいつバカすぎて話通じねえ~」とか思うことがあったとしても、そいつにはあまり難しい話題を振らないようにするなり適切な距離を置くようにするなりの対処をほとんど無意識にやるような気もします。

 

314.同人音声について語ってほしいです。

僕は特定のシチュエーションについての作品やサークルをたまに買うタイプで、あまり本数を消費していないのでそんなに語れることはないです。
ただ、「同人音声ってエロゲーの代替物か?」みたいなことを最近結構思うようになりました。というのも、この前「エロゲーはもはやオタクのイコンではなく中年独身男性の性欲のイコンであり、中高生向けのライトノベルやアニメではオタクキャラが登場してもエロゲーに触れることはもう無い」みたいな主旨のツイートを見たんですが、確かに僕の知り合いでも(「批評的に評価の高い古典」ではなく)定期的に新作のエロゲーを買ってきちんとプレイしている殊勝なオタク老子みたいな人は本当に一握りで、ちょうど僕が成人したあたりからエロゲーの存在感は薄くなる一方のような気がしています。
仮にその枠に同人音声が入ってきたのだとすれば、シチュエーションはせいぜい文章での説明かプロローグトラックの三分くらいで済ませ、あとはひたすら耳舐めをジュポジュポやっているというのはエロのファストフード化みたいな気もしてきます。別に市場統計とか見ないで適当に言っているので実情はわかりませんが。

 

315.最近同性婚云々の話がありましたが、子供をつくらない夫婦もいる以上もう国家としては結婚自体に法的に優遇するメリットって無くないですか?
異性婚も同性婚も全て有名無実の事実婚相当の扱いにして既存の優遇措置を調整したものを子育て支援制度と改名してしまえば色々と片付くと思うのですけど。

婚姻ではなく子育てを支援すべきだということには僕も全面的に同意します。
それでも異性婚は子供を作る蓋然性が高いので国家が優遇することは理解できますが、わざわざ同性婚を認めるということであれば「その優遇は何に対するものですか、子供が必要条件でなければ独身者も優遇すべきではないですか」という批判は独身者から当然に出てきます。強いて言えば、人間が二人いる状態は孤独な状態に比べて相互扶助可能であり経済的にも心理的にも安定する傾向にありますから、刑罰や福祉を含めて国家の手を煩わせる可能性が低く、その分だけ優遇していると言えないこともありませんが、少し間接的過ぎるきらいはあります。まあ、現実的には国家の制度と保守の岩盤が当初は想定していなかった新しいリベラルの風潮に対応できていないというよくある過渡時間の問題でしかないような気もします。
この手の話題になると、一生独身である可能性が最も高い僕としては当事者として独身者の肩を持ってしまって多角的な視点をあまり必要としないため、概ね同意するだけで話が終わってしまいますね。

21/7/23 竹村彰通『新装改訂版 現代数理統計学』の感想

竹村彰通『新装改訂版 現代数理統計学

7月はずっと竹村彰通『新装改訂版 現代数理統計学』を読んでいた。30年前くらいに初版が出された名著だが、ちょうど半年前に元の出版社が潰れたついでか何かで新装改訂版が登場したらしい。

別に試験があるわけではないし仕事で使うわけでもないし資格を取るわけでもないのだが、映画やアニメを見たい気分と同じでたまたま数学がやりたい気分だったので、手頃なコンテンツとして統計学を消費していた。

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全部で14章まであるのだが、体系的な説明は9章でひと段落してそれ以降は補足的な各論が続くようなので、とりあえず9章まで終えた。
何事もインプットしたらアウトプットしておくのが一番定着が早いため、各章ごとの感想を書いたやつを載せておく。あくまでも俺の現時点での理解と関心に基づいた感想の整理であり、この書籍の要約ではないし正しさも保証しないので統計学を学びたい人は参考にしないように注意せよ。

1.記述統計の復習

確率変数ではなく実際のデータ群に対する平均や分散等の定義はこの一章だけで適当に済ませて終わる。さすがに全部知っているので略。
しかしこの、記述統計とかいうなまじわかりやすくて小学生でも扱えるものがあるから却って数理統計学がわかりにくくなっているような気もする。例えば「平均」概念を一つ取ってみても、記述統計におけるそれと数理統計におけるそれは結構違う。というのも、平均を求める演算の入出力に注目したとき、どちらも出力は単一のスカラー値だというのに、前者は通常複数の変数を入力とするのに対して、後者は通常一つの確率変数を入力とするという違いがある。このギャップは「確率変数が複数のデータ値を確率も込みでまとめたような概念だから」という理解で大雑把に埋められないことも無いが、変数と確率変数というクラスの違いの重大さはのちのち思い知ることになる。

 

2.一次元の確率関数

新クラスとしての確率変数

まず確率変数があった。そういうことにしておきたい。

というのも、統計学における基礎概念としての確率変数をどう捉えるかについては、測度論という禁断の果実を食すかどうかで二つの道に分かれるように思われる。一つは正しく測度論を咀嚼することによって確率変数を「特殊な集合を用いて定義される写像」と捉える道、もう一つは測度論を見なかったことにして確率変数を「確率を伴う特殊なクラスの変数」と捉える道である。
さしあたって俺は後者の道を進むことにする。つまり、俺は確率変数のことを「変数概念の全く新しい派生クラス」と見做す。そうする理由は単にこの本ではそうしているからというだけだ。何も確率変数という新概念を語るのはその厳密な定義だけではない。それに対する演算を把握するなり、他のよく知られた概念との関係を調べるなり、やれることはいくらでもある。

このスタンスで行く場合、通常の変数を「定義域の上を動く値」とするならば、確率変数は「確率を伴って定義域の上を動く値」という理解になる。蛞蝓に殻がくっ付いて蝸牛になるのと同じように、変数に余計なオプションが加わった亜種だ。
この殻によって生じる顕著な扱いの違いとして、割と頻繁に定数と同一視される変数とは異なり、確率変数においては可能な値を定数として取り出したものは実現値として厳密に区別しなければならないことがある。確率変数のアイデンティティは各値に確率という余計な肩書が乗っていることにあるため、その重みを取り去って無造作に各値を取り出すと失うものが大きいのだ。これにより、分布関数や密度関数の引数が確率変数ではなく実現値であることが了解できる。

補足385:ただし、順序統計量や尤度関数や標本空間の議論では確率変数が実現値と同一視されていることもあり、そのあたりは柔軟に対応しなければならない。

補足386:ところでX~Fなどと書くときのFは密度関数ではなく分布関数の意であることは初めて知った。密度関数と違って分布関数は離散の場合も連続の場合も統一的に扱えるため、より基礎的な表記方法であるらしい。

クラス変換としての期待値演算

確率関数を全き異物の新クラスと見做してみると、E[X]という期待値概念の重要性が見えてくる。というのも、Eは確率変数を受け取って通常の変数を返すからだ。つまり期待値演算とは実現値をピックする以外の方法でクラスを変換する機構であり、これを介して初めて確率変数と通常の変数が式の中で接触できるようになる(文脈によっては直接接触していることもあるが)。よって確率変数がスカラー値を返す指標は、平均も分散もモーメントも期待値という加工装置を介しての定義となる。期待値演算は確率変数という珍妙な新クラスを扱いやすい見慣れた形に変更する包括的な操作であって、その利用例に平均や分散があると考えた方がわかりやすい。

そして、母関数は期待値演算の中でも特に可逆性という特殊な性質を持つ変異種である。一般に期待値演算に逆演算は定義されておらず、平均や分散から確率変数を復元することはできない。しかし母関数に限っては、逆転公式を用いることで確率変数を復元でき、これにより確率変数と母関数は一対一対応を持つのだという。母関数もまた期待値演算によって定義されるものであるから確率変数という新規で奇妙なものを含まないにも関わらず、任意の確率変数と完全に対応している。数学は苦手なので深入りはできないが、微積分を多項方程式に変換するラプラス変換と似たような形をしているのも、恐らく母関数がクラス変換と解釈できることと何らかの関係があるのだろう。

 

3.多次元の確率変数

確率変数が全く新奇なエーリアンであるという立場を取るならば、今度はそれらが複数登場した場合にどう考えればよいのかが問題になってくる。
この発展は物理学の教育過程に似ている。慣性の法則に従ってボールが一つ転がる系を考えたあとは、ボールが二つ登場して作用反作用の法則に従って衝突する系を考えるのが自然な流れだ。

確率変数同士の抽出・縁・生成・関係

しかし実際には世界にボールは無限にあって、むしろ無限個の相互作用こそが標準状態であり、一つだけ取り出した系の方こそが極端に簡略化された異常事態なのだ。よって、確率変数についても最初にやるべき仕事は、無限の成分が連なる確率ベクトルからいくつかの確率変数を抽出する削減方法だろう。この方法には2パターンあり、条件付き分布では関心外の世界全てをある値に固定して切り出し、周辺分布では関心外の全てを全平行世界を同時に観測して圧縮する。

世界から確率変数をいくつか抽出したあとは、そもそも彼らに何かしらの縁があるかどうかをジャッジする必要がある。リオデジャネイロで30km/hで転がるボールと東京で50km/hで転がるボールを実験対象に選んだとして、まずそれらの間に相互作用を想定すべきかどうかを確認するのは自然なことのように思われる。世界から取り出した確率変数同士に縁があるかどうかを判定するのが独立性の検証であることは言うまでもない。

有限少数の確率変数を入手した上で縁の有無を確認したあとは、複数の確率変数を足したり引いたりして別の確率変数を生成してみよう。それが変数変換とヤコビアンについての話である。
我々のスタンスからするとここで驚くべきは、変数変換は入出力共に確率変数である操作だということだ。一般の関数が普通の変数を入力して普通の変数を出力していたのに対して、期待値演算は確率変数を入力して普通の変数を出力していた。ここに来て遂に確率変数を入れて確率変数が出てくる演算が出現したのである。謎の新クラスが遂にそれ自体の中で閉じた演算を可能とした。
そして実際、通常の足し算のような表記は彼らのアイデンティティであるところの確率分布に対しては及んでおらず(Z=X+Yだからといってf(z)=f(x)+f(y)とはならない)、ヤコビアンを用いた特殊な計算を行うあたりに新クラスについて定義された特殊な新演算という趣があるわけだ。なお、再生性を持つ一部の分布についてはヤコビアン逆行列の計算をすっ飛ばして加算時の分布を導出できる。

そして最後にようやく関係の話が出てくる。つまり共分散であり、共分散はここでも確率変数を通常の変数に変える期待値演算によって定義されている。一次元のときは分散はせいぜい平均の次に注目される二次的な指標程度のものだったが、多次元になった途端に共分散が二つの確率変数の仲の良さを表す指標としていきなり濃厚に関係を記述する興味深い概念になる。この多次元になると優先度が逆転する感じはかなり詐欺臭く、共分散は何か定義でセコいことをしているような気がするのだが、残念ながら犯罪の証拠を掴むことはできなかった。

 

4.統計量と標本分布

統計量とは確率変数の関数であるが、この概念自体は前章で確率変数同士の演算を定義した時点で既に予告されている。統計量もまた確率変数なので分布を考えることができるのだが、それはヤコビアンか再生性を用いて導出できるというのも既出だ。
概念的には新しくないのに各論じみた分布ばかりが複数登場してかなり萎えてくる。証明というか導出が汚くてやる気が出ない。分散はカイ二乗分布、標本平均はt分布、分散の一致判定はF分布ということを覚えるだけで限界に近い。非心分布論に至っては、アドホックな密度関数が場当たり的に並ぶだけで何に使うのか全くわからなかった。それでも極限定理に関してはもう少しだけ興味深いものがあり、確率変数も構成要素の個数に応じて各要素が定義される点列のように扱えば無限に飛ばしたとき収束したりしなかったりするのは変数らしい表情を見せてくれる。

その一方、オマケのように統計量の一つとして紹介されている順序統計量は変則的でかなり面白い。「m個の実現値を並び替えたときn番目に大きい値」は当然何らかの分布を持つ確率変数であり、分布を考えることができるらしい。科学実験とかいう馴染みのない営みでは平均や分散とかいう地味で刺激に欠ける指標にしか関心がないのに対して、ギャンブルやゲームのような馴染み深く実戦的な現場においては複数回試行したうちでの最大値や二番目に大きい値が気になることも多いだろう。男なら順序統計量で戦え。

 

5.統計的決定理論

前章までで確率変数という概念自体について理解するフェイズが終わり、ここから実際にそれを用いて統計的な決定を行う理論の話が始まる。とはいえ、その決定を表す決定関数δは確率変数であるから、これもまた確率変数を扱う営みのバリエーションに過ぎないことには常に留意しておきたい。決定関数を用いた統計的推定の問題設定には「点推定」と「検定」の二種類があり、それぞれはかなり異なる展開を辿るせいで例示が混乱しているものの、問題の枠組みはもちろん統一的に扱うことができる。

決定関数をリスク関数で評価する

決定関数の評価基準とは、その決定によって統計家にもたらされる損失の大きさに他ならない。
まず最も素朴な損失関数Lはパラメタと決定関数を引数にとって見比べることで損失を返すが、このときパラメタは通常の変数、決定関数は確率変数というギャップには注意しなければならない(パラメタが確率変数であるのはベイズ推定に限る)。
決定関数の評価値の決定版になるのは、損失関数の期待値であるリスク関数Rだ。しかし、ここで言う期待値とはあくまでも決定関数に対して取るものであってパラメタに対しては作用しない。パラメタは確率変数に対して定義されている期待値の適用対象ではないため、リスク関数の中にそのまま残ってしまう。

リスク関数の中にパラメタがそのまま残ることにより、「パラメタによってリスクがまちまちである」という事態が生じる。もしこのパラメタならこの決定関数が優れるがあのパラメタならあの決定関数が優れるという一貫性に欠ける状況に対し、統一的な評価基準は存在しない。しかし選択肢としては最大リスクを最小にする保守的なミニマックス基準や、(θを確率変数とみなすことで)平均リスクを算出するベイズ基準があるほか、パラメタが張る空間に決定関数ごとにリスクを打点することでリスクセットを可視化する手法もある。
非常に穏当な決定関数の評価指標の一つとして、許容性の概念がある。大雑把に言えば、どのパラメタについてもそれよりも良い完全上位互換の決定関数が存在しない場合は許容的と呼ばれるのだが、非許容的な決定関数があまりにも雑魚すぎるだけで、許容的だからと言って強いわけではない。

 

6.十分統計量

4章ではいくつかの代表的な統計量が従う分布を天下り的に調べることしかやっていないが、ゴール地点として統計的決定理論を提示した今、統計量の持つ一般的性質が統計的決定理論にどのように寄与するかを考えても良い頃だ。
統計的決定理論が確率変数が従う分布のパラメタについて決定を行う営みであったことを思い出せば、分布のパラメタについての情報を持つ統計量が有益であることは予想が付く。実際、引数の確率変数から分布のパラメタに関する情報だけ濃縮還元して抽出した統計量を十分統計量と呼ぶ。

定義としては、統計量Tを与えたときのXの条件付き分布がパラメタに依存しないときTを十分統計量と呼ぶ。つまり既にTを知ってしまっているならば、それ以上Xを見たところでもはやパラメタに関して判明する情報がないのだ。分解定理はこれの直接的な表現であり、Xのうちでパラメタに関する項をTの関数項だけが所有していることを示す。
ここで改めて、十分統計量はそれ単独を見ていて何かがわかるものではないことに注意しておきたい。あくまでも元の確率変数の分布に関心があり、その限りにおいて必要なパラメタを圧縮抽出した姿が十分統計量なのである。よって、十分統計量を目撃したときには元の確率変数に思いを馳せ、一体どのようなパラメタがその十分統計量に込められているのかを思い出さなければならない。

十分統計量の決定関数への寄与

さて、十分性はそれだけでは統計量の持つ性質の一つに過ぎないから、統計的決定理論に照らして有用さを主張するには、その目的であるところの決定関数に対して何らかの貢献をすることを確認しなければならない。十分統計量がパラメタに関する情報を全て持っているならば、パラメタに関して決定を行うところの決定関数においてTを引数に取れば何か嬉しいことが起こるに違いないのだ。
実際、平均二乗誤差をリスク関数とする点推定では、十分統計量を用いて一般の決定関数をただちに改修できる。適当な決定関数δ(X)があるとき、この決定関数を十分統計量Tの条件付き分布として期待値を取ったものを新しい決定関数δ*(T)とすれば、δ*(T)のリスクはδ(X)のリスクはより小さくなる。これをラオ・ブラックウェルの定理とか言うらしい。
直観的には当たり前のことで、δ*(T)は十分統計量というパラメタに関する全ての情報を持っている確率変数をまず参照した上で生じるバリエーションについて期待値を取っているのに対して、δ(X)は整理されていないバリエーションの全てについて無秩序に期待値を取っているため、精度が落ちるのもやむを得まい。ラオ・ブラックウェルの定理が主張しているのは、「必要な情報をまとめてチェックしてから調べた方が精度が高い」ということだ。

決定関数に良い性質をもたらす完備性

最後に、統計量が持ち得る性質として完備性が紹介される。ある統計量の関数に対して期待値が0になるならばその関数は定数0に限るという性質らしいが、統計量ではなく任意の関数が噛んでいるために何を言っているのか若干わかりにくい。これは後の章でわかることだが、ここで言う統計量の関数とは決定関数を表す用途で使われることが多いようだ(決定関数は十分統計量を引数にすると良いということはさっき確認した)。
では完備性はどのように保証されるのかと言うと、地道に定義通りに調べてみるのも一つの手だが、一般には指数型分布族とかいうものに属する分布であれば、運悪く極端に悪い性質でも持っていない限りは十分統計量が完備であることが従うらしい。指数型分布族とは指数の肩に統計量の加重和が乗っているような形で表せる密度関数のことで(実際にはここに「パラメタを含まないあまりの項」と「基準化定数」がおまけでくっつく)、何故これが完備になるのかはあまりピンと来ないが、そういうものだということでとりあえずは納得しておく。

 

7.点推定論

5章で一般的な枠組みを定めた統計的推定のバリエーションとして、パラメタそのものを推定しようと試みる点推定がある。点推定における決定関数はパラメタの推定量、リスクは平均二乗誤差を用いて与えられる。

期待値が一致する上にバラツキが少ないUMVU

では決定関数はどんなものが望ましいのかと言うと、点推定の場合は一様最小分散普遍推定量(UMVU)という基準がある。これは任意のパラメタに対して推定量の平均が真のパラメタに一致しかつ分散が最も小さいことを示し、直感的には問題なさそうなことを納得できる。ちなみにこれは4章で論じた「平均二乗誤差で定めたリスク関数を最小にする」という第一の要求に更に加えて、「バイアスが0である」という要求を加えたものに等しい。
次の問題は推定量がUMVUであることをどう示すかだ。平均が真のパラメタに一致することは式変形で割と容易に示せるが、分散が最小であることはそうもいかない。その証明には二つの方法があり、一つはフィッシャー情報量に基づくクラメル・ラオの不等式、もう一つは完備十分統計量を用いる方法である。

フィッシャー情報量による下限設定

唐突に現れた新概念である「フィッシャー情報量」には何通りかの表現パターンが与えられているが、個人的には「対数尤度のパラメタ微分の分散」という定義が最もわかりやすいように思われる。
この定義には三つの概念が連鎖しているので一つずつ見ていくと、まず「対数尤度」は単に尤度のスケールを変えたものであるからほぼ尤度のような意味として良いだろう。次に「対数尤度のパラメタ微分」はパラメタの変化に対する尤度の変化、すなわちパラメタの影響力に等しい。

ここで「対数尤度のパラメタ微分の平均」が0であることは顕著な性質だ。確率変数の全範囲でパラメタの影響力を考えると、全体としては完全なフラットにならされてしまうことを意味する。これは元々の密度関数の全範囲積分が1であることに由来しており、パラメタがどれだけ頑張ったところで密度関数に及ぼせる影響の全体はこの1という大枠でがっしり抑えられてしまっている。
よって、フィッシャー情報量すなわち「対数尤度のパラメタ微分の分散」は「対数尤度のパラメタ微分の平均」が0であることを前提として、その中央周りの散らばり度合いに相当する。すなわちフィッシャー情報量が大きければパラメタは影響力の振れ幅が大きく、小さければ影響力の振れ幅が小さい。フィッシャー情報量が大きいときはパラメタは気分屋の荒れたドラマー、フィッシャー情報量が小さいときはパラメタは保守的な奏法のギタリストというイメージになる(ただしどちらもパフォーマンスを平均するとゼロになるカスのアーティストだ)。

以上を踏まえるならば、「推定量の分散はフィッシャー情報量の逆数で下から抑えられる」というクラメル・ラオの不等式にもイメージが持てないこともない。まずフィッシャー情報量が比較的大きいとき、不偏推定量の分散は比較的小さくできる。パラメタの影響力の振れ幅が大きいためにパラメタが発見しやすいからだ。逆にフィッシャー情報量が比較的小さいとき、不偏推定量の分散は比較的大きくなってしまう。パラメタの影響力の振れ幅が小さいためにパラメタが発見しにくいからだ。よって、クラメル・ラオの不等式が主張しているのは、「目立つやつは見つけやすいが地味なやつは見つけにくい」ということだと解釈できる。アイドル発掘みたいなことか。

完備十分統計量によるパーフェクト改修

まず、前章で出てきたラオ・ブラックウェルの定理を用いて不偏推定量を改善していく営みについて考えたい。ラオ・ブラックウェルの定理はパラメタに関する情報を全て持っている十分統計量Tを条件とした期待値を取ることで決定関数のリスクを小さくしていけることを主張していた。つまり、決定関数は十分統計量を用いて随時改善することができる。
特にこのときに用いるTが完備十分統計量である場合、ただちにUMVUが得られてワンキルになるという。これを理解するにはどんな不偏推定量も完備十分統計量の条件付き期待値を求めれば同じ決定関数になってしまうことを示せばよく、それは完備性の定義からただちにわかる。完備十分統計量で改修した二つの決定関数の差の期待値を取れば、それはTの関数かつ期待値0、よって完備性の定義から常に0、すなわち改修後の決定関数は一致する。
ちなみに完備十分統計量による方法は原理的にはクラメル・ラオの不等式による方法の完全上位互換らしい。じゃあモブの話は書くなよという気もするが、まあ、現実的にはそちらの方が楽に説明できるパターンがあってぼちぼち使うこともあるみたいな感じなのだろう。

代替案としての最尤推定

さて、ここまでUMVUを信じてやってきていたのにいきなりちゃぶ台を返され、実はUMVUはそんなに信用できる指標でもないという話が唐突に出てくる。母数の変換を受け付けないため取り回しが悪いとか、どう考えても不合理な推定を肯定するとか、実は非許容的だったりするというような失敗例が色々紹介される。

そこで、より一般的な決定関数を構成する方法として最尤推定が提案される。これは驚くほど単純なもので、密度関数をパラメタの関数である尤度関数と見做して、実現値に対して尤度関数を最大化するパラメタを選ぶ。ちなみに尤度関数においてはパラメタが変数となる代わりに確率変数の実現値が定数として固定されるという逆転現象が起こっており、そのイレギュラー感にはいかにもな裏技感が漂っている。
ちなみに最尤推定は理論的な裏付けが弱い割には推定量は悉く良い性質を持ち合わせており、パラメタの変換を受け付ける上、nが大きいとUMVUと同じ最適性を持つらしい(漸近有効性)。もう最尤推定だけでよくないか?

 

8.検定論

5章で一般的な枠組みを定めた統計的推定のバリエーションの二つ目として、パラメタをそのまま扱うのではなく、パラメタが存在する領域についての仮説を検証する検定がある。検定では母数空間を排反に分けることで帰無仮説と対立仮説を立て、決定関数は帰無仮説の受容を示す0か棄却を示す1の二択とし、リスクは0-1損失で与える。

帰無仮説と対立仮説の設定慣習

帰無仮説と対立仮説をどう定めるかは慣習に過ぎないが、対立仮説は異常や有効などの「顕著な事態」の検出として設定されることが多い。もともと検定では誤って棄却する可能性(第一種の過誤)は低く、誤って受容する可能性(第二種の過誤)は高く設定するというこれもやはり慣習があるため、「誤って帰無仮説を受容するのは構わないが、誤って帰無仮説を棄却するのはやばい」というリスクヘッジに合わせているのだ。対立仮説として設定される典型例としては新薬の有効性、工場での不良検出、数学的な仮定の誤りがある。
これら二種類の過誤の確率はトレードオフである。第一種の過誤の確率を低くするには受容に寄せて保守的に、第一種の過誤の確率を低くするには棄却に寄せて挑戦的に決定関数を作ることになるからだ。一般的な慣習としては、まず第一種の過誤の確率を重く見てαで抑えるようにコントロールした上で、次に第二種の過誤の確率を可能な限り小さくする(ただしこちらは値を決めない努力目標)ように決定関数を定めることになる。

補足387:他の書籍だと「第一種の過誤はコントロールできるが第二種の過誤はコントロールできない」などと書いてあることがあり、数学的には同じ操作のはずなのに何故その差が生じるのかが不明だった。しかしこの書籍では「数学的には対称だが慣習的にそのような手続きで検定を行っているに過ぎない」と明記されていてわかりやすかった。

もちろん過誤の確率は決定関数に依存するため、結局のところは今までと同じように決定関数の決め方や評価方法が問題となる。話の枠組みは決定関数をリスク関数で評価するという一般的な方式から特に変化していないのだが、検定問題では慣習的に帰無仮説を棄却する確率を検出力と呼んでリスク関数の代わりに用いる。
また、決定関数と同値な表現として、標本空間を決定関数の値によって受容域と棄却域に分割することもよく行われる。更に、検定は統計量に対して行うことが一般的であるため、実際にはある統計検定量Tに対して閾値として棄却限界cを定めてTがcより小さければ受容、Tがcより大きければ棄却という方式になることが多い(Tがcより大きい確率が検出力となる)。

決定関数の評価①:帰無仮説の下での検出力を抑える

まず、第一種の過誤の確率をαで抑えることについて。
ある決定関数について、帰無仮説のもとでの検出力の上限をサイズと呼ぶ。すなわちサイズとは第一種の過誤が起きる確率の最大値であり、これが有意水準α以下であればこの決定関数はとりあえず第一の条件を満たす。
ただ、Tがcより大きいときに決定としては一様に棄却するとしても、Tの値によって棄却の強さは変わってくるため、棄却時にはその強さを数値化しておいた方が便利だ。その指標として、帰無仮説が棄却されたとき帰無仮説のもとで検定統計量Tの実現値について片側確率の上限をp値とする。通常の検定では棄却限界を決めてから統計量が棄却されるかどうか見るのとは逆に、p値では逆に棄却された統計量からそれが棄却されるような棄却限界がどんなサイズの検定に対応しているかを判断するわけだ。p値は帰無仮説の信憑性と解釈でき、p値が小さいほど棄却は強力なものになる。

決定関数の評価②:対立仮説の下での検出力を上げる

次に、対立仮説のもとでの検出力を最大にすることについて。対立仮説のもとで全てのパラメタに対して検出力が最大になる検定を一様最強力検定(UMP検定)と呼び、これが理想的な検定であることは明らかだ。
帰無仮説と対立仮説がいずれも単純仮説の場合、最強力検定(MP検定)は尤度比を統計検定量とすることで得られる。棄却限界をc、尤度比がcに一致したときの棄却確率をrとする。この検定のサイズをαとすれば、有意水準αの検定では最強力検定となる。この構成方法においてはcとrを定めてからαが定まるという順序だが、実際にはcとrの関数としてαを求めた上で適切にcとrを選ぶ。このMP検定の構成法をネイマン・ピアソンの補題と呼ぶ。証明は容易であり、尤度比の条件式を用いれば「対立仮説のもとでの検出力の差」を「帰無仮説のもとでの検出力の差」に変換できる。

この方法は片側検定の場合には容易に拡張できる。密度関数がある統計量Tに対して単調尤度比を持つ場合、Tを代わりに検定統計量として同様に検定関数を構成する。ネイマン・ピアソンの補題による判定では検定統計量が棄却限界に対して大か小かだけが争点となるのであるから、検定統計量が単調に変化する限りは不等号を変化させないため、片側検定に拡張してよいというだけだ。

両側検定での不偏性による妥協

単調性を満たす片側検定においてはUMP検定が構成できる一方、両側検定の場合はこの方法は用いることが出来ないため、不偏性という性質を満たす決定関数のクラスに対してUMP検定を構成することで妥協する(UMPU検定)。不偏性とは任意の対立仮説のもとでの検出力が有意水準以上となることであり、常に有意水準の確率で帰無仮説を棄却するような検定よりも良い結果を出すということを示す。
正直この項目はよくわかっておらず、両側検定ではUMP検定が構成できないことは良いとしても、不偏性を付け加えてクラスを絞ることが何故有効なのかがイマイチ判然としない。

代替案としての尤度比検定

点推定においてUMVUが存在するとは限らなかったことと同様、検定においてもUMPUが存在するとは限らない。この場合も尤度比を用いた尤度比検定によって一般的な検定方式を得ることができる。ただし検定における尤度比検定は点推定における最尤推定と異なりnが大でもUMPUになるとは限らないようだ(しかし、その代わりに分布収束という非常に良い性質を持っている)。
尤度比を「帰無仮説のもとでの最大尤度」に対する「対立仮説のもとでの最大尤度」の比率と定義する。つまり対立仮説のもとでの最大確からしさが、帰無仮説のもとでの最大確からしさに比してどのくらい大きいかという指標である。尤度比が閾値以上なら、つまり対立仮説の相対的な確からしさが一定以上なら帰無仮説を棄却する。
ちなみに対立仮説でのみ自由に動けるパラメタの個数をpとすれば、帰無仮説のもとでnを∞に飛ばしたとき対数尤度比は自由度pのカイ二乗分布に分布収束するらしい。これによって漸近的ではあるが有意水準αの検定を容易に得られることが尤度比検定を汎用的なものにしている。もう尤度比検定だけでよくないか?

 

9.区間推定

点推定の発展として、パラメタの推定量だけではなくその誤差がどのくらいあるのかを知りたいという需要がある。区間推定はこのニーズに応え、推定したい量のばらつき度合いを示す区間を返す。このように挙動としては点推定の発展形だが、実際に区間推定を構成する手続きは点推定ではなく検定から派生する。

信頼域の構成

真の母数θがある区間に含まれる信頼係数が一定値以上のとき、その区間を信頼区間と言う。確率ではなく信頼係数と呼ぶのが面倒なところで、真の母数は事前に決まっており固定された値なので確率とは解釈できないことによっている。変わるのは区間であって真の母数ではないし、かつ、区間が決まったら事後的には真の母数はそこに確率0で含まれるか確率1で含まれないかのいずれかであって、確率0≤p≤1で含まれるわけではない。

信頼区間における信頼係数を確認するには、確率変数に関する分布関数の形に変形して分布に基づいた確率を求めることになるが、実際に信頼区間を構成する際には概ねその逆を辿ると考えて良い。帰無仮説が単純仮説であるような検定において、受容域A(θ)は帰無仮説で仮定したパラメタθの関数として表せる。つまり受容域はパラメタの値を標本空間の部分集合に移す写像と見做せる。これを逆に解いて、ある標本を母数区間の部分集合に移すような写像が信頼区間S(X)となる。つまり、信頼区間とはあるXに対してそれが受容されるような検定を作った場合に帰無仮説で仮定されるパラメタの値の範囲となる。

信頼区間の最適性

検定において決定関数が不偏性や一様最強力性で評価されたように、信頼区間も同様のいくつかの最適性を持つ。信頼区間における不偏性とは真でない母数を含む確率が1-信頼係数以下になること、一様最強力不偏性とは不偏性を満たす信頼区間のクラスの中であらゆる真でない母数に対してそれが含まれる確率が一様に最小になること。受容域A(θ)と信頼区間S(X)が一対一で対応していることから容易に予想されるように、不偏性と一様最強力不偏性は受容域と信頼区間の相互変換に対して常に保たれる。ちなみに、一様最強力不偏性とは信頼域の体積の期待値が最小になるという性質も備えている。
この辺、どうせ検定の最適性を満たしたあとに機械的に変換を施すという手続きで信頼区間を構成するので、問題があるならまだしも良好な性質しかないということであればわざわざ意識することも無さそうで割と何でもいい。

代替案としての最尤推定に基づく信頼区間

毎回最後に登場して全てを終わらせる尤度が区間推定にも出現してしまった。ここでは点推定における最尤推定の素朴な拡張として登場し、最尤推定量は標本数が大きいときに平均が真の母数、分散がフィッシャー情報量の逆数である正規分布に漸近することを用いる。要するに正規分布に従うことにして区間推定を行えば良いだけなので、元の分布に関わらず瞬殺できてしまう。尤度が強すぎる件。