LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/6/21 お題箱回

お題箱66

138.君膵の解説kwsk

前回簡単に書いたのでどうぞ。

saize-lw.hatenablog.com

みそ氏もなんか似たようなことを書いてました。

not-miso-inside.netlify.app

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ついでに「みそけど」と相互リンクになりました(1枚ドロー)。
どうでもいいですが(どうでもは良くないですが)、みそ氏と僕って多分ほぼ同年代で出身大学も同じなので間違いなくキャンパスのどこかですれ違ったことがあると思います(新海誠映画だったらすれ違い様にスローモーションになるので気付けるのですが、現実には人生の重要な局面でエフェクトが発生しないという欠陥があります)。恐らく知り合いネットワークを最短経路探索すればノード3つ分しか離れていないくらいの距離感でしょうね。今度飲みにでも行きましょう。

 

139.またラノベを書くんですね!すめうじがとても面白かったので新作も期待しています!
新作ラノベを読む前に、読んでおいた方がいい参考文献などは何かありますか?

ありがとうございます。
応援してもらえるのは本当にありがたいです。自分で創作するまでは「『感想ありがとうございます』みたいなやつ、言うて道徳的なポーズでしょ笑」って思ってたんですが、自分がそのポジションになると実際モチベーションがかなり上がります(一般に道徳的な体裁を嫌う僕が言うのだから相当なものです)。

流行りの異世界転生みたいな話をやりたくて、思想的には「反出生主義」「オートポイエーシス」「可能世界論」あたりがテーマになる予定です。それぞれについて比較的平易な書籍として、

・デイヴィッド・ベネター『生まれてこない方が良かった』

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・山下和也『オートポイエーシス論入門』

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・野上志学『デイヴィッド・ルイスの哲学』

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を挙げておきます。

いい機会なので次回予告的なこともうちょっと書いていいですか!?
次回も百合萌えラノベなので主要キャラクターは美少女と美女しかいません。男性には台詞も名前もないです。

とはいえ同じことをやっていても得るものがないので、基本的にすめうじと逆の枠組みの話をやりたいと思っています。すめうじが政治的・実存的なネチャネチャした話だったので、次はもうちょっと分析的・形而上学的なサッパリした話をやりたいです。あと前回は「ラノベってこんなもんでしょ」と思って結構意識的に地の文を減らしたり一度に続けていいのは二・三文くらいまでとか制約を設けたりしていたのですが、次回はもう少しちゃんとした小説っぽい冗長な描写を入れたいです(「冗長な」とか言ってしまうあたりに小説というものを舐めている感じがしますね)。

また、白花ちゃんはフニャフニャした成人女性でしたが、次の主人公はかっこよくて戦える男性口調の女子高生です。トレンチコートとローラーブレードを常に装備しており、シンプルに身体能力が高いフィジカルエリートで、VRオンラインゲームのプロゲーマーでもあります。概ね冷静で理知的ではありますが、スペックの高さ故に共感能力が欠如しており無自覚に独善性を撒き散らすきらいがあります。あと自殺フェチです。

 

140.使っている筆記用具やノートにこだわりはありますか?

値段やブランドのこだわりは特にないです。普段使っているノートはセブンイレブンで売ってる200円くらいのやつ、ペンも200円くらいのENERGELの0.3mm(替芯)ですが、機能的なこだわりは色々あります。

ノートは

  • リングではなく綴じ込み
    →リングはページの縁にまで書くとき指に当たって邪魔なので
  • サイズはB5
    →持ち運んだり開いたりしやすいので
  • 0.5mmくらいの格子のガイドが入ってるやつ
    →図や文章を書くのに便利なので

ペンは

  • ペン先がなるべく細いやつ
    →書き込みの密度を上げられるので
  • ノック式のやつ
    →キャップ式は書き始めるまでの手順が多い上にキャップを失くす危険があるので
  • 赤ペン
    →黒い文章に書き込むとき目立つので

みたいな感じです。
ペン先はその気になればもっと細くできるんですが、イマイチいいやつに巡り合えていません。以前買ったジェットストリームの0.28mmは全然書けなくて使い物になりませんでした。多分ペンが悪いというよりは安いノートの紙質がクソなのが悪いと思うので、ノートも込みで色々再考した方がいいかもしれません。

 

141.爆アド.com系のチャンネルって見てますか?

たまに見てるんですが、だいぶ前にはみるとんさんにブロックされたので微妙に話題に出しづらくなってしまいました。はみるとんさん、僕は第一回のブラックボンバーvsEmフレイムイーターで始まる前からカード相性的に詰んでるのが面白かったです。

 

142.LWさんには在野でブログ書くよりは、大学で研究して欲しいという気持ちが強い。
何なら現金で支援したいレベル。

143.LWさんが在野にいるのマジで勿体ないから早くアカデミアに戻って欲しい

いずれ大学に戻って人文系の修士を取りたいという気持ちはあるので、そのときにクラファンでもやることになったら宜しくお願いします。

ただ、将来的にいつか研究機関に戻るにせよ、たぶん30歳くらいまではこのまま普通に働くと思います。働き始めて初めてわかったんですが、仕事をするのは教育機関に通うより圧倒的に楽だし有益です。いま人生を振り返ると、小学校も中学校も高校も大学も仕事の何倍も苦痛でした(大学院は教育機関ではなく研究機関なので例外ですが、それはそれとして理系分野に興味が無いので苦痛でした)。

数学にも物理にも興味がないのに流れで理科一類くらいには入れてしまったせいで、僕は座って人の話を聞く講義という営みが本当に苦手なこと、理系分野には全然向いていないことの二つに気付くのに二十数年もかかってしまいました。DTFTもLSTMもPIDもマジでどうでもいいです。

 

144.アズレンのプレイヤー名にサイゼリヤ入れてるの、読者を意識しすぎでは!?(ソシャゲはもっと自由にプレイして欲しい)

これは別にブログ用にやっているわけではなく、単に「LW」というプレイヤーネームが既に使われていたので被り避けで適当な識別子をくっつけただけです。ゲームによってLWkoとかLWLWとか適当にやってます。

 

145.メモは見聞き終わってから一気に取るタイプですか?見ながら・聞きながら取るタイプですか?

基本的には見終わってから一気に取ります(鑑賞中は作品に集中したいので)。ただ、情報量が多くて後からだと忘れてしまいそうだったり、画面に集中するほど作品が面白くないときは手慰みにメモと鑑賞を並行していることもあります。2クール以上の長編作品で中弛みしてくる15話前後くらいにありがちです。
最終的な目的は考えていたことを全部記録しておくことなので、それが果たせれば何でもいいみたいな感じです。

 

146.今ジャンプ+でファイアパンチが復刻連載してます。いきなり登場する映画オタクが物語を滅茶苦茶にするのでおすすめです。

ファイアパンチは連載当時から読んでいました。

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途中までは面白かったんですが、アグニの火が一度消えたあたりからはかなり微妙でした。藤本タツキって完全にライブ感で話を作っているので、途中は非常に面白いですが話をまとめるのが絶望的に下手そうです。途中から出てきたパンツ一丁とかブロンド美女の祝福者はどう見ても持て余していましたし、チェンソーマンには収拾を付けられるんでしょうか。

いい機会なのでファイアパンチの話をしておくと、僕は「偽装と本心の緊張関係」というテーマでこの漫画を読みました。

「映画オタク」であるトガタには映画撮影という営みが本質的に偽装であることを示す役割があります。役者というのは本心では思ってもいないことを演技する存在であって、自分自身を偽らなければ成立しない、偽装の専門家です。
実際、トガタがアグニに対して「復讐者」という「映画の主役」=「偽装」を押し付けることによって、アグニは自分が復讐者であることを「偽装である」=「本心ではない」と考えるようになっていきます。復讐者というロールは苦痛に耐えて生き延びるための演技でしかなかったこと、本心は「この世の理不尽が許せない」という気持ちだったことを思い出し、ベヘムドルグでは復讐者であることを望むトガタを無視して救世主的な存在として振る舞うことになります。

しかし、その直後に事態は一変します。アグニは無意識にドマとその子供たちを虐殺して復讐を果たしてしまったからです。実は「救世主」の方が映画監督であるトガタへの反発として生まれた偽装であり、「復讐者」という演技ではない虐殺をしてしまった=本心を打ち明けてしまったことにアグニは困惑します。それを受けて、飄々として本心を見せなかった(それ故に偽装としての映画を愛していた)トガタにも動揺が生じてきます。
トガタは性同一性障害を患っており、女として見られることが本当に嫌だったという「本心」を吐露します。トガタもまた自分の男性的なロールを偽装していたことが判明するわけです。アグニが復讐者であることによって生き延びてきていたように、偽装は単なる嘘ではなく人生を守る外骨格という側面もあることが示されます。

トガタの死亡とほぼ同時に新たな映画オタクのスーリャが登場し、スターウォーズの続編が作られる世界を再創造する=世界を偽装するという究極の目的が提示されます。この後、ユダがルナを名乗ったり(固有名とアイデンティティの偽装)、サンが狂信者になったり(偽装を本心にしてしまう者の末路)と色々ありますが、アグニに関して言えばもう「アグニ(平穏な男性)」も「ファイアパンチ(復讐者)」も「サン(救世主)」もどれが偽装でどれが本心かわからないような状態に陥っていきます。

最終的に、数千年後にユダとアグニが再会して偽名を名乗って二人の世界を再創造するエンディングからは、僕は「偽装と本心という二項対立は堅牢なものではなく、むしろ究極的には一致する」という結論を読みました(スカした用語で言うところの脱構築というやつです)。
世界や自分を好き勝手に解釈して作り替えていく偽装という行為は、その営み自体はその本人の好みとか願いが無ければ不可能なものであって、その意味で偽装の背後には常に本心があるわけですよね。映画役者だって、演技そのものは偽装でも「この役を演じるぞ」という気合いは本心のはずです。サンとしてのアグニもルナとしてのユダも、名前と自分を偽装していると言えばそうなんですが、偽装したいという彼らの思いは本心です。きっと彼らがゼロから再構築していく世界もある意味では願いによって捻じ曲げられた偽装である反面、願いを追おうとする真正さは本心である……みたいななんかそんな感じですよね。藤本タツキがどう考えていたかは知りませんけど。

20/6/13 2020年5月消費コンテンツ

2020年5月消費コンテンツ

 月ごとの消費コンテンツをまとめるやつの5月版。飽きるまでやります。

前回はコチラ↓

saize-lw.hatenablog.com

メディア別リスト

映画(19本)

アキハバラ電脳組 2010年の夏休み
ペンギン・ハイウェイ
・劇場版 機動戦艦ナデシコ
聲の形
未来のミライ
・バケモノの子
・君の膵臓を食べたい
・若おかみは小学生
ドニー・ダーコ2
・アラーニェの虫籠
X-MEN
・名探偵ピカチュウ
X-MEN2
X-MENファイナルディシジョン
・トラジディ・ガールズ
イヴの時間
・デッド・ガール(Some Kind of Hate)
GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊
イノセンス

アニメ(102話)

今期放送中のものは除く。

アキハバラ電脳組(全26話)
とある魔術の禁書目録1期(全24話)
・ID INVADED(全13話)
Angel Beats(全13話)
機動戦艦ナデシコ(全26話)

書籍(4冊)

・遅いインターネット
・死生学のすすめ
・プレップ倫理学
・メタ倫理学入門

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

【映画】GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊
【映画】イノセンス

消費して良かったコンテンツ

【映画】アキハバラ電脳組 2010年の夏休み
【アニメ】機動戦艦ナデシコ
【書籍】メタ倫理学入門
【書籍】遅いインターネット
【映画】ドニー・ダーコ2
【映画】X-MEN
【映画】X-MEN2
【映画】X-MENファイナルディシジョン

消費して損はなかったコンテンツ

【アニメ】アキハバラ電脳組
【書籍】プレップ倫理学
【映画】聲の形
【映画】未来のミライ
【映画】トラジディ・ガールズ

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

【映画】劇場版 機動戦艦ナデシコ
【アニメ】ID INVADED
【アニメ】とある魔術の禁書目録1期
【映画】君の膵臓を食べたい
【アニメ】Angel Beats
【書籍】死生学のすすめ
【映画】イヴの時間
【映画】デッド・ガール(Some Kind of Hate)
【映画】バケモノの子
【映画】名探偵ピカチュウ
【映画】アラーニェの虫籠

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

【映画】若おかみは小学生
【映画】ペンギン・ハイウェイ

ピックアップ

【映画】GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊/【映画】イノセンス

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再視聴したが、さすがに傑作。

人間と人工物の狭間にある生命概念について扱っており、押井守が気持ちいいのは「情報生命体が生物と言える根拠はない」「生命の定義自体が曖昧だから」とはっきり述べてしまえること。こと哲学的な話題となると、大したことのない話を神秘化してさも大層なことであるかのように語ってしまう人が多い。不可知論や定義問題の前で解決する気もなく足踏みしたところでリターンは無い。

GHOST IN THE SHELL』では草薙素子が人間から人工物へ、人形遣いが人工物から人間へと向かう。中間地点で二人は融合して境界例としての情報生命体が誕生するという、純粋なシンメトリーの構図が描かれる。
続く『イノセンス』では人形が意志を持つかのように動くことで事件がスタートする。これは一見すると『GIS』で人形遣いが人工物から人間へ向かったことの焼き直しに過ぎない。しかし、最後には「実は人形に人間のゴーストを移植していただけだった」ということが明かされる。『GIS』では人間と人工物の融合が果たされた一方、『イノセンス』では最初からそんなことは起きていなかったのだ。「捕らえられた少女たちが逃げるために人形を暴れさせていた」という真相を受けてのバトーの台詞が素晴らしい。

バトー「犠牲者が出ることは考えなかったのか? 人間のことじゃねえ、魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか」
少女「だって、私は人形になりたくなかったんだもの!」

GIS』とは異なり、『イノセンス』では人間と人形は決定的にわかりあえない。草薙素子を知るバトーは人形に肩入れしてしまう一方、少女は人形になることをはっきりと拒む。人間の腕に抱かれ物言わぬ人形をバトーが見つめる不穏なカットで『イノセンス』は終わる。

総じて、『GIS』と『イノセンス』では全く真逆の事態が起きている。『GIS』では草薙素子という存在が人形遣いと融合したのに、『イノセンス』ではバトーという認識が人間と人形の間で引き裂かれる。『GIS』では草薙素子を中心に存在論的な相生が描かれたのに対して、『イノセンス』ではバトーを中心に認識論的な相克が描かれたと言えよう。
二作まとめて完璧すぎる映画。

【映画】アキハバラ電脳組 2010年の夏休み/【アニメ】アキハバラ電脳組

saize-lw.hatenablog.com

最初はかなり面白くて途中でつまらなくなったけど終盤と劇場で盛り返したみたいな感じ。見るなら映画だけじゃなくてアニメ版から全部見た方がいい。

【書籍】遅いインターネット

saize-lw.hatenablog.com

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結局2回も関連記事を書いてしまった。かなりナウい内容なので、読んで損をしないのは間違いない。

【アニメ】機動戦艦ナデシコ/【映画】劇場版 機動戦艦ナデシコ

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かなり面白い。
戦争をどこまでも泥臭く地に足の付いたものとして描こうとする試みが本当に良かった。主人公がコックとの二足草鞋でパイロットをしている点、所属する組織が軍事組織ではなく民間企業である点、アバンでルリルリが前回の内容を「ちょっとありきたりかな」などと俯瞰して見せる点など、設定や構成もよく練られている。
とりわけ「美化された戦争」を象徴するのはゲキガンガーであり、その挫折を象徴するのがダイゴウジガイのあっけない死。主要登場人物の死を軽く早く描くことで死から感動を剥ぎ取るという手口には感動した。

作中最大のキーだった木星蜥蜴の正体判明以降の盛り上がりが凄まじく、第16話でアキトが露悪的な戦争という現実を引き受ける「『僕たちの戦争』が始まる」、第17話で戦争に耐え切れず発狂して現実を書き換えるムネタケの「それは『遅すぎた再会』」、第18話でそれでも現実を見ようとするルリルリの「水の音は『私』の音」と、キャラと論点を完璧にコントロールした神回ラッシュが続く。

しかし、「これは人生に残る神アニメ確定や……」という俺の期待は最終回と劇場版で裏切られた。内容の良し悪し云々ではなく、ただ単に物語が欠落している。時系列的には最終回から劇場版の間の部分が一番描くべき部分だったはずだ。マクロに見て結局戦争はどう収拾されたのか、ミクロに見てアキトはゲキガンガーにどう決着を付けたのかが一切描かれていない。最も期待していた部分が完全な空白、小説で言えばほとんど絶筆状態に近い。
何故こんなことになってしまったのか。本当に惜しい。最高のポテンシャルが意味不明な破綻をして訳のわからないコンテンツになってしまった。

あとルリルリが劇場版で成長してて悲しかった……

【映画】ドニー・ダーコ2

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ドニー・ダーコは1も2もぼちぼち面白いのだが、説明不足すぎて内容が絶望的にわかりにくい。

eiga-kaisetu-hyouron.seesaa.net

このブログが良くて、ここに全部書いてあるので俺が書くことが何もない。ちなみに俺はこのブログを読んで初めて「ドニー・ダーコっていい映画だったんだな」と思った。

【映画】X-MEN/【映画】X-MEN2/【映画】X-MENファイナルディシジョン

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X-MENシリーズのスピンオフであるところの『デッドプール』を見るためにX-MENシリーズを一から見始めたがかなり面白い。

ヒーロー映画としてのX-MENシリーズが優れるのは、特殊能力を持つミュータントが決して一人二人の特異点ではなく社会全体に偏在していることだ。それによってヒーローたちは特殊能力をアイデンティティにすることができなくなり、ミュータントvs人間という差別を含む社会の中で上手く立ち位置を確保することが求められる。MCUが『エイジ・オブ・ウルトロン』以降に扱ったテーマを別の角度から深化させている。

特に『X-MEN2』でマグニートーが虐殺対象を反転させるシーンは本当に鮮やかだった。『X-MEN2』ではミュータントの殲滅を目論むストライカーが当面のヴィランであり、彼はプロフェッサーXの能力を利用して地球上のミュータントを皆殺しにすることを目論む。X-MENへのマグニートーの協力によってそれは阻止されるのだが、マグニートーはストライカーが使った能力をそのままそっくり反転させて今度は人間の皆殺しを試みるのだ。
つまり、人間の肩を持ってもミュータントの肩を持っても行き着くのは虐殺である。それを防ぐためには「人間とミュータントのどちらに味方するか」や「悪の人間(or悪のミュータント)を倒せるか」という単純な二項対立ではなく、どちらにも配慮した上で適切なバランスを取ることが求められる。全てはバランスの問題なのだ。それ故、X-MENシリーズでは味方が敵に寝返ったり、敵が味方になることも非常に多い。最大のヴィランであるマグニートーですらX-MENと協力していることがよくある。

また、作中で最も「正義の味方」寄りのヒーローであるプロフェッサーXですらも正義を調整する難しさからは逃れられていない。プロフェッサーXは徹底して人間とミュータントの平和的共生を目指す「良い人」なのだが、その目的を果たすためには危険な力を持つミュータントの記憶を操作することも厭わず、それが軋轢を生むことが多々ある。プロフェッサーXが精神操作能力を持つことは、正義の行いですら少し間違えれば独善的な押し付けに反転しかねないことを示している。

【映画】聲の形

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面白かった。
「聴覚障碍者のヒロインをいじめた主人公が罪を償う話」くらいのことは前から知っていて、正直かなりしょうもない話ではないかと思っていたが、全然しょうもなくない話で楽しめた。

この映画のポイントは主人公とヒロイン(西宮)がもう既に大人であることだ。
高校生編が始まった時点で西宮は小学校時代にいじめられたことを根に持ってはいないし、結絃がネットで復讐すればきちんと怒りもする。主人公も強すぎる罪の意識を感じていて、手話を覚えたり誠実に謝罪したりする。
許すことも謝ることも、少なくとも表面的にもう既に終わってしまっている程度には二人は大人だ。そしてそれ故に主人公は自己嫌悪から逃れる契機を逸する。「雨降って地固まる」とはよく言ったもので、いっそいがみ合っていれば和解して仲直りができたものを、そうでなければ一体どのタイミングで贖罪は終わるのだろう?

最終的に主人公が自己嫌悪を抜け出せたのは自分の命を賭けたからに他ならない。偽善を超えた真意の証明は(疑似的な)死による償いでしか有り得ないのだ。それは決して気持ちの強さについて言っているのではなく、ちゃんと論理的な理由がある。人は死んだ瞬間に利害主体であることができなくなるので、自殺することは「利害を求めて行為しているわけではない」という証明になる。主人公が冒頭から自殺を試みていたのは慧眼だ。

更にこの映画には「可愛い女の子を救済装置として扱ってきたこと」への問題意識も読み込める。
新海誠を挙げるまでもなく「可愛い女の子を救い、彼女に許されることで全ての問題が解決する」という作品は枚挙に暇がない。可愛い女の子を救うことを目的にしているように見えて、その実主人公のトラウマを解決するための手段として用いているという、カント主義的な意味で不道徳なオタク作品はいくらでもある。
聲の形』でも、西宮は「可愛すぎる」という致命的な問題を抱えている。恐らく意図的に、西宮は主人公の自己嫌悪を解消する救済装置として都合の良いキャラクターを付与されている。だからこそ主人公は却って「果たして許されていいのだろうか」と煩悶することになるのだ。
そんな西宮の問題点を剔抉するのは植野さんだ。植野さんは主人公のみならず西宮を攻撃し続ける唯一のキャラクターであり、西宮が都合の良い人間であることを決して許さない。「西宮が人間として振る舞おうとしないことに全ての原因がある」と執拗に責め立てる植野さんこそ、この映画で最も重要なキャラクターである。

とはいえ、その試みは実ったとは言い難い。もちろん形式的には、西宮が自殺未遂を行うことで主人公と鏡写しのように「自己嫌悪と偽善」という問題を抱えていたことが明らかになり、喧嘩両成敗のような形で二人の関係も収束を見る。しかし、主人公の加害行為と西宮の自殺行為はどう好意的に見てもシンメトリーではない(主人公には西宮を助けないという選択肢もあった)。結局のところ、西宮に不当な重荷が背負わされたままであるという違和感は拭えなかった。

【映画】未来のミライ

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面白くはないが、家族主義者である細田守の保守的な世界観が最もダイレクトに出ていて見る価値が高い。これが間違いなく彼の代表作だ(俺は細田守が好きではないが、好きではないことを確かめるために長編作品をちゃんと全て見ている)。

家族の血脈を過去・現在・未来に渡って保持する木が家の中央に聳え立っており、主人公の「くんちゃん」はそれにアクセスすることで初めて人間として成長できるという、個人のアイデンティティよりも家族のアイデンティティの方が先行していることを示す象徴的な構図が染みる。大木=家族の家系図は不確定なはずの未来までも永遠に保証し続ける、守り神の如き超越的な存在だ。
特に、駅での迷子案内シーンはよく思い付くものだなと思った。突然訳の分からない世界に放り込まれた迷子のくんちゃんが自分の立ち位置を知るためには、家族の情報を知っていることが必要になる。確かに「迷子案内」とは自分のアイデンティティを捜索者としての父母に仮託する営みであり、「家族の存在が個人の存在を担保する」という家系図崇拝の縮小版であろう。

【アニメ】ID INVADED

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ぼちぼち面白かった。
「犯罪絡みの精神世界にダイブする」という発想は『ザ・セル』『インセプション』『マイノリティ・リポート』などアメリカ映画によくあるものだが、その変奏として「探偵と謎解き」というガジェットを導入したところに『ID』の面白さがある。
ラスボスのジョン・ウォーカーの造形はやや陳腐で無意識という題材にもあまりそぐわないような印象もあるが、ビジュアルや複雑な設定の独特さも込みでエンタメとして面白い。

【アニメ】とある魔術の禁書目録1期

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何もかもが懐かしく、ゼロ年代ライトノベルの総決算的なアニメだったんだなと思った。

なんかこういう設定モリモリのライトノベルが最後に輝いた作品って多分このあたりなんだろう。確かに「この手のライトノベル」で超常的な能力の根拠になっていたモチーフってざっくりSF・超能力・技術系の「科学サイド」か、伝承・呪文・言霊系の「魔術サイド」しかないような気もするし、その二つをまとめてしまったところに総決算感がある。

話がめちゃめちゃキモくて「当時のラノベ、こんなにキモかったっけ?」ってビックリしてしまった。どのエピソードも「可愛い女の子がいじめられる→いじめてるやつをぶっ倒す」みたいな話だ。父親との関係を扱うエンジェル・フォールの一件は例外として、登場人物だけを入れ替えた同じ話が無限に続く。クローンとか共同幻想とか一見すると「何か深そうなモチーフ」を扱っているように見えて、その実「自信の持てない女の子」を無限供給するためのネタを仕込んでいるに過ぎない。
特に上条当麻が本当にキモく、普段は敬語を使ったり腰が低かったりと弱者のフリをしている癖に、ヒロインを助ける肝心なシーンでは浅薄なヒューマニティを振りかざして説教を行う父権的な存在に変貌する。この作品がセカイ系と言われているところはあまり見ないが、この手の気持ち悪さは明らかにセカイ系から引き継いで煮詰めたものだろう。当時こういうものがカッコイイとされていた風潮は今の異世界転生から見ると明らかに時代遅れで、「たった一人の女の子を守るヒーロー」的なラノベ主人公像って本当に一過性のブームだったんだなと思った。

【アニメ】Angel Beats

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「オタクが考えるDQNの青春」という感じだが、退屈せずに見られる程度には面白かった。
明確に称揚される、「悲惨な人生を美化することも風化させることもなくただただ受容する」というそれなりにラディカルな思想がどういう文脈で出てきたのかは興味深い。俺はKeyコンテンツにあまり触れてこなかったので特に言えることは無いが、KeyオタクがAngelBeatsで提示されたソリューションについて何か通史的な分析をどっかでしていそうだ。

【映画】君の膵臓を食べたい

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この『君の膵臓を食べたい』という映画、話がめちゃめちゃ気持ち悪くてビックリしてしまった。
「冷笑的なラノベ主人公を明るいヒロインが全肯定する」というオタクの憧れを周到なロジックを何重にも用意して完遂している。気持ち悪さのレベルが頭二つ三つ抜けていて、一つの特異点ですらある。そんじょそこらのライトノベルのキモさでは全く歯が立たない。タイトルを『オタクの妄想の完成形』に変えてほしい。

他人への関心がないと嘯くやれやれ系のネクラ主人公に対して何故かネアカ女がグイグイ押してくるというのは村上春樹っぽいが、この映画では主人公のそんな冷笑的な態度こそが「他の人とは違って本当の私を見てくれる」という理由でヒロインから肯定されるのが一味違う。「やれやれ系主人公」が持つ無責任さは全く問題とならず、むしろヒロインが好意を向ける理由になるところに一つコミュニケーションの転回がある。それに加えて主人公以外が行うコミュニケーション、すなわち他人に関心を持ってきちんと接する態度をうわべだけの気遣いとして否定することも忘れない。

この転回はヒロインの死によって果てしなく強化される。この映画の真骨頂は、死んだヒロインが遺書の中から発する「私たちの関係は恋とか友情とかそんなありふれたものじゃないよね」というあまりにも完成度の高すぎるセリフに集約されている。
ヒロインを死なせることでもう誰にも触れられない不可侵領域に安置し、精神的ダッチワイフとして所有する手口自体は珍しいものではない。しかし、『君膵』ではあらかじめヒロインが主人公の「社会から距離を置いた態度」を肯定することで、コミュニティからの離脱までも肯定しているため、世俗から離れた地点で主人公とヒロインが特別な関係を結ぶことが可能になる。恋とか友情じゃなかったら何なんだ?と聞きたくなるが、「世俗から離れた特別な場所で行われる」=「一般的なコミュニティで行われる営みではない」=「一般に流通しているワードでは表せない」という否定にこそ関係の本質があるため、恐らく答えが返ってくることはない。

村上春樹的な無責任な態度を肯定し、それによってセカイ系的な特権性を確保するという、「捻くれたオタク男の憧れ」を極めたキメラがここにある。そんな回路を周到に構築し、表面的にはヒロインと死別して成長するありふれた恋物語としてパッケージングする手腕は凄まじい。

【映画】イヴの時間

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申し訳ないが、俺が一番嫌いなタイプのロボット・アンドロイド映画だった。

アンドロイドの内面が存在することを自明に想定してしまってよいのであれば、それはもう「アンドロイドとどう接するか」という話ではない。せいぜい「社会制度としての奴隷とどう接するか」「精神障碍者とどう接するか」という話であり、そうした社会的・精神的な人間の欠陥をアンドロイドという技術的な問題に偽装しているようにしか思えない。

とりわけアニメでそれをやることに対して俺が拒否反応を強く持つのは、「無機物に内面を読み込む」という営みは(決してアンドロイドではなく)アニメが行うものだからだ。我々は単なる絵のパラパラ動画に過ぎないはずのアニメキャラクターに内面を読み込むことが当たり前にできる。それこそが"animate"=<生命を与えること>であり、アンドロイドキャラクターに内面を設えられるのは全てアニメーションの功績だ。
皮肉にも、『イヴの時間』作中でも人間として描かれている主人公に対して我々が自明に内面を読み込めてしまうことがそれを証明する。ただの絵に過ぎないはずの主人公に内面を汲み取れてしまうならば、ただの絵に過ぎないはずのアンドロイドに内面を汲み取れて当たり前だし、むしろそれが出来ない方がおかしいのだ。アンドロイドの内面というテーマは最初から成立していないどころかアニメの力能を窃盗しているに過ぎない。

【映画】名探偵ピカチュウ

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地上波放送されたらしいのでBDをレンタルして見た。俺は映画の地上波放送を信用しておらず、「ノーカットと銘打ってあっても実は1Fくらいカットしているのでは?」と疑っているので映画をテレビ放送で見ることはまずない。見たければ自分で借りてくる。

話自体は面白くなかったが、トピックとしてはそこそこ面白かった。

舞台になるライムシティが「バトルもボールもトレーナーもない街」とされているのがポケモンコンテンツとしてはそれなりに斬新だ。ポケモンはどうしても元々のゲームジャンルの都合で人間とポケモンの主従関係を捨てきれないが、そろそろ人間との関係ではなくポケモン自身の在り方にも注目して良いのではないか。野生に生息する獣としてポケモンを描いた『ポケモンスナップ』は今でも根強い人気があるし、『ポケモンGO』でも捕獲よりは生息の方に力点があるだろう。
ただし、ライムシティでも結局のところ「パートナー」という形で事実上の主従関係は存在しているし、ポケモンバトルも行われており、この方針転換がそこまで活かされていたとは思えない。

話のプロットについても、もう少し深く掘り下げてほしかったという消化不良感がある。「進化によって人類とポケモンが同一化する」というのは普通に面白い話だと思うし、『ミュウツーの逆襲』においてもミュウツーがクローンを通じて人間やポケモンアイデンティティとは何かと問うた視点にも繋がるものがある。
しかし、この映画ではただ「悪役が悪っぽく暴れてるから止めなくちゃ」という程度の話にしかならなかった。恐らく何か継承してきた問題意識があったわけではなく、「ピカチュウがおっさんだったら面白いよね」→「ピカチュウの中におっさんの魂を入れられる能力があることにしましょ~」みたいな感じでトップダウンで適当に決められた設定なのだろう。

20/6/5 Vtuberオワコン論はオワコンか? 『リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん』を受けて

Vtuberオワコン論はオワコンか?

リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん』(以下『リアV』)が面白かったので、適当な一節を引用してシェアしたらそれがやたら伸びた。このブログを読むような人はもう既に目を通しているだろうと言ってしまってもいいくらい伸びた。

俺はこの記事を書いた本人ではないが、そんなことは気にしないリプライや引用RTが怒涛のように押し寄せてくる(引用主=俺を名指しで攻撃するものも稀にある)。Twitterはそういうものなのでそれ自体は全く構わないが、本来は記事のauthorである「みそ氏」に浴びせられるべきだった称賛や批難を横から奪い取っていることに対しては罪悪感を感じないこともない。

補足301:『リアV』のauthorは「いけすかないオタク」としか書かれておらず、名前がよくわからないので暫定的に「みそ氏」と呼ぶことにする。

補足302:みそ氏はSNSのシェア文化に抵抗する姿勢を見せており、俺が感じている罪悪感には勝手にシェアを伸ばしてしまったことに対するものも含まれる。とはいえ、ネットに公開された文書とはそういうものなので、その申し訳なさは心の底から感じているものではない。真に申し訳ないのはみそ氏がネットから賛否を直接受け取る機会を奪ったことであり、この記事はそれに対する贖罪でもある。

そもそも俺は『リアV』に共感して同意した上で引用文を付帯したシェアを行ったので、『リアV』への批判は俺自身の身に刺さるところも多い。微妙なポジションを清算する意味も込めて、俺自身もVtuber文化に対するポジションをきちんと取り直そうと思う。
なお、以上のような経緯で考えたことを書くのでどうしても(俺が掠め取った)批判に応えるレスポンス形式のようになってしまうが、俺は決して『リアV』筆者の「みそ氏」ではなく、これは「作者からの再反論」ではないことは改めて明記しておく。

1.「ネットってそんなもんでしょ?」

受け取った反応のうち、最も多いのは「ネットってそんなもんでしょ」「何を今更」「最初からそうだった」系だ。
曰く、そもそもネットコンテンツや大衆娯楽は「馬鹿を笑いものにするコンテンツ」に収束するものであって、Vtuberもそれを逃れられなかったということに過ぎない。むしろ相互交流をベースに置いている以上は全く自然な経緯であるし、「電脳そぼろ丼」にだってその予兆はあった。「何か大変な失望をしているようだが、いったい何を期待していたんだね?」と肩をすくめてみせるのだ。

確かに、リアリティーショー化したVtuberの現状を見る限り、テレビやSNSやまとめブログと比べて何ら特別に悪辣なところはないというのは事実だ。しかし『リアV』は静態論ではなく動態論であり、問題は状態ではなく変化にある。つまり、いったいどうしてVtuberに限ってリアリティーショー化が失望されるのかは、「2018年頃までにVtuberにアニメキャラとしての期待を抱いていた人々」という文脈がわからなければ理解するのは難しいだろう。終わったコンテンツを語るオワコン論は、「始まっていた」時代の理想と不可分だ。
『リアV』にも詳細に書かれているので改めてまとめる必要はないと思うが、大雑把にVtuberの「アニメキャラ」的な側面と「生主」的な側面のうちで、「アニメキャラ」の側面を認識のスタートに据えていたのがリアリティーショー化に幻滅する層である。リアリティーショー的なものに収束するのは「生主」にとっては当たり前かもしれないが、「アニメキャラ」にとっては決してそうではないということは誰もが認めるだろう(「馬鹿を笑いものにするアニメ」はあまり思い浮かばない……いや、本当はそこそこ思い浮かぶ)。

なお、『リアV』は

「スカして身体性がどうのと言いそうに見えてしまうだろうから」
「これらの特徴が哲学的にどう、みたいなのはどうでもいい」

と述べ、いわゆるサブカル批評からは距離を取っている。

補足303:サブカル批評とは、哲学や思想のボキャブラリーを用いてアニメなどを語る謎のオタクカルチャーくらいの意。「身体性」はそこで好まれるワードの一つ。

補足304:とはいえ、ナンバユウキやユリイカを適切に引用してくる人間が本当にサブカル批評をどうでもいいと思っているわけはなく、そういう身振りを取っているに過ぎないのは明らかだが。

というのは、Vtuberは当初サブカルオタクに補足され、やたら小難しいボキャブラリーで色々なことが語られた側面がある。それが「2018年頃までにVtuberにアニメキャラとしての期待を抱いていた人々」とも深く関連する節はあるのだが、みそ氏はそのことは問題にせず、あくまでもVtuberをエンタメとして評価したい旨を注記する。
とはいえ、俺は「スカして身体性がどうの」とか言うタイプの人間だったので、個人的にはそれを黒歴史として埋却するのはあまり気が進まない。このブログを漁ればそんなスカした記事が山のように出てくるし、何より、エンタメ的評価とサブカル的評価は断絶しているわけではない。実際、『リアV』も評価の核心では哲学的ボキャブラリーを密輸入せざるを得ない。

これらの特徴が哲学的にどう、みたいなのはどうでもいい。重要なことは、この特徴は演者に綿密さを要求することだ。彼らはどうにかして整合的なキャラクターを演じなければならず、(中略)それらを適切に守らなければ、キャラクターの完全性(インテグリティ)が担保されない。

「哲学的にどう、みたいなのはどうでもいい」と言ったまさにその段落で使用される「完全性」というワードこそ、分析哲学がフィクションについて論じる際のボキャブラリーだ。よって「完全性の担保」という論点で「哲学的にどう」というスタンスを取るのはむしろ自然の成り行きで、実際にそれをやるとこういう記事になる(別に真面目に読まなくていい、なんかこういう雰囲気のカルチャーがあったんだなとだけ思ってもらえればいい)。

saize-lw.hatenablog.com

何にせよ、『リアV』が距離を取ろうとするところの衒学的言説が、リアリティーショー化への失望の背景にあることも俺は当事者として付記しておきたい。

少し脱線した。勘違いしないでほしいが、俺が言いたいのは「昔Vtuberにかけられていた期待を知らない癖にオワコン論を否定するな」ということではない。
むしろ全く逆で、「オワコン論は昔Vtuberに対して持った期待を更新できない老害がそれに執着して嘆いているだけの内輪の懐古に過ぎない」ということだ。「当初の期待」を共有していない層がオワコン論者の失望を理解できないのは自然なことだし、それを理解しようとする必要は全くない。
大抵のオワコン論は限られた興味しか持てない層の限定的な失望に過ぎないということは認識しておくべきだし、無駄に主語をデカくしてもお互いに良いことがない。「Vtuber終わったな」ではなく、「(2018年頃にアニメキャラとして俺が期待していたタイプの)Vtuber終わったな」と正確に書いた方がベターではある。

2.「リアリティーショーではないVtuberもいますが?」

このツイートに代表される、「視野が狭いだけだろ」「森を見て木を見ず」系の批判も多く受け取る。これらは『リアV』の生産性の無さを批判する声にも繋がり、「リアリティーショーを否定したいのはわかったが、じゃあどうなるべきだったと思うのか?」「お前が対案を出せ」という反応も多い(俺!?)。

まず、リアリティーショーで売るVtuberもいるが、そうではないVtuberもいるというのは端的に事実だ(上の「にせもの」氏はVtuberすらも「V界隈」の部分集合としているが、そこまで話を広げると収拾が付かなくなるのでVtuberに絞るのを許してほしい)。むしろリアリティーショーは比較的新しい世代のVtuberが途中から創始したもので、古参のVtuberがリアリティーショーに転向したことはほぼない。「リアリティーショーを批判しているオタクもVtuber見てんじゃん」というタイトルは確かに目的語がややでかく、「リアリティーショーを批判しているオタクもホロライブ見てんじゃん」くらいにしておいた方が妥当ではある(リアホロ!)。

とはいえ、食い下がりはしておきたい。

まずただちに可能なのは、さっきと同じ主語のスケーリング修正対応だ。「Vtuber」というでかすぎる主語で語ってしまったのが誤りで、「~~なVtuber」という限定を付ければリアリティーショー化の批判は妥当しうる。とはいえ、その手の境界画定作業を今やる必要はないだろう。

もっと重要なのは、Vtuberが双方向性を持つコンテンツである以上、その評価は制作側だけではなく消費側にも依存することだ。
例えば、俺は昔Vtuberの発話についてハイコンテクストなニ重解釈を常に押し付けるパフォーマティビティに興味があった。具体的に言うと、あるVtuberが「洗濯機の上で配信している」という発言をしたとする。これは実際に演者が洗濯機の上で配信をしているという意味と、そのキャラクターが洗濯機の上で配信しているという設定であるという意味の二重に理解できる。この異様なハイコンテクスト化を被るのは演者の全ての発言だけではなく、視聴者のレスポンスも同様だ。異様な発話環境が成立し、それが非常に「面白い」。
ただ、この楽しみ方は適度なリテラシーを持つ観客がそれなりの数いなければ成立しない。様々な解釈をする多様な視聴者がいて初めて面白みが出てくる。Vtuberの発言を誰も聞いていなかったり、「あ、そういう設定なのね」とただちに理解してしまうエリートしかいなかったりするシーンではもう成り立たない。

更にもう一つ挙げるなら、「2018年頃までにVtuberにアニメキャラとしての期待を抱いていた人々」からの要求もある。当時、Vtuberには(自分で書いていてバカみたいな表現だが)「『オタク界』を改革する」という期待がかかっていた節がある。
彼らが当初持っていた「アニメキャラクターが交流に参加する」というビジョンのうちには、それを享受するアニメファンコミュニティの存在が暗に含意されている。Vtuberがアニメキャラ概念そのものを変質させるということは、Vtuberはオタク皆の共通認識をハックする転覆者だという期待。だからこそ、『serial experiments lain』のように特定のオタクしか見られない作品ではなく、「誰でも楽しめる」というキズナアイの大衆エンタメぶりは重要だったのだ。
ところが、実際には現在のVtuberコンテンツの享受には明確なリテラシー格差が生じている。Vtuberの高いポテンシャルを授かれるのは自らTwitchやSHOWROOMを探索できるエリートだけで、いわゆるアニメオタクが所属する通俗的な領域ではリアリティーショーしか展開されていない。優れたコンテンツベースで発掘作業を行える「エリートのコンテンツ視点」と、タイムラインに流れてきたものをボンヤリ消費する「凡人のコミュニティ視点」の違いは大きい。

とはいえ、それもまたやはり「限られた興味しか持てない層の限定的な失望」の域を出ないことは明らかだ。全面的な反論としては全く機能しておらず、「俺はそうは思わないけどね」と嘯くのが精々である。
それに、スケールが問題だと思うなら、むしろだからこそ優れたコンテンツの啓蒙に努めることが直接的に問題の解決に繋がる。全てのテクストが生産性を持つべきだとは全く思わないが、「もっと生産性のあることをしろ」という批判は明確に検討する価値があるものだ。

3.「テラスハウスで何が悪い?」

実は、俺が最も応答が難しいと思っているのはこの批判だ。

「リアリティーショーであることはわかった、それが少し下品なことも認める、しかしだからといってそこまで批難される筋合いはない」「確かにVtuberテラスハウスだ、それがどうした? テラスハウスは人気番組だ」「リアリティーショーが好きだからVtuberを見ています……何か問題が?」、これである。

一見、こうした「開き直り」に反撃することは非常に簡単なようにも思える。何せ、テラスハウスの出演者が自殺したことは現在進行形でTwitter上で盛り上がっている真っ最中だ(一月も経つ頃には誰もが忘れているだろうが)。一般論として、リアリティーショーにおける演者の精神的健康状態の悪化を問題視することはあまりにも妥当な展開である。『リアV』でも演者の負担についてはそれなりに分量を割いて言及されている。

だが、配信している彼/彼女らにかなりの重荷を背負わせていることは理解しなければいけない。自分の身の周りで起きたことを、絶え間なく話さないといけないのは、私見では相当に厳しい。もっとはっきり言えば、我々は彼/彼女らのエゴを食い物にしている。そして、そのうち我々は彼女たちに飽きて――ヒメヒナに飽きたように、我々はすぐに飽きるものだ――彼女たちをポイ捨てする。

この点について、みそ氏はこれが個人的な感覚に過ぎないことを強調し、ソーシャル・ジャスティス的な言説に陥ることを慎重に回避している。よって、『リアV』の落ち度ではないことは前提として、しかし、Vtuberが日常の切り売りすると演者に負担がかかるというのは事実なのだろうか?

少なくとも、「テラスハウス」や「逃走中」で炎上した芸能人へのレスポンスと、Vtuberの日常の切り売りへのレスポンスは全く異なっているように思われる。Vtuber視聴者の民度は概ね高く、自浄作用もあり、「叩き」の様相を呈することは滅多にない。『リアV』では商業戦略として数量的な「囲い」が行われていることが言及されているが、精神的な意味でも視聴者は「囲い」に近い。Vtuberを守り、祭り上げるオタク騎士。それが外部からどう見えるかはともかくとして、「演者の負担」という論点には慎重になる必要がある。

それについても『リアV』はやはり慎重な手つきで再反論を試みてはいるが、これも私見の域を出ないものだ。

もし、ここには善意があるから大丈夫だ、というなら、それは間違えている。視聴者は暗に陽にキャラクターを勝手にインポーズして、再解釈して、生身の人間に押しつける。「デビューから一年たってついに同期のことを呼び捨てになるのが尊いんだよな」。「XXに告白され限界オタクになってしまうYYYの絵です」。1000人以上の人から、週三回、「エッチだ……」とリアルタイムで言われて、精神的に健全でいられるというなら、あなたはおそらくすでに狂っている。

俺の感性でも平常ではないとは思う。しかしフーコーを引くまでもなく、狂気の定義は相対的なものに過ぎない。数千人に「エッチだ……」と言われて喜ぶことが狂気だった時代があったとして、SNS時代においてはむしろ正気ではないか? この手の「狂った」承認欲求がむしろありふれていることはTwitterの普及によって既に明らかになっているはずだ。
上の引用において、いみじくも「精神的に狂気に陥る」ではなく「精神的に健全でいられるなら狂っている」という二階の狂気を描写していることもそれを裏付ける。狂気は直接には目視できず、正常性の裏返しという遠回しなステップでしか診断できない。部外者が判定する「健全さ」と、演者自身が保有する「精神的な健全性」を区別するならば、やはりVtuberを木村花と同一視することは難しいように思われてならない。

それでもそこにこだわりたいのであれば、「演者は望んでいない切り売りを強制されている」という論法を使うことはできる。企業Vなら契約によって、個人Vなら貧困によって無理矢理日常を切り売りさせられているのであって、いずれにせよ不健全な状態なのだと。あるいは、「彼女たち自身は問題に思っていないが本当は問題だ」という論法も可能かもしれない。
どちらも通俗化したポップなフェミニズムにありがちな論法ではある。ことジェンダーロールが絡む状況において「共犯関係だからOK」という主張に慎重にならなければならないことは周知の事実だが、しかしそうだとしても問題意識はそこではない。規模に鑑みて、Vtuberを社会問題化するリターンは薄い。
よって、この手の論法に対しては、Vtuberは相対的に低リスクであることを挙げておけば当面は十分だろう。少なくともAV女優や風俗嬢と比べて、Vtuberの演者が引退後にVtuberという「黒歴史」を引きずる可能性は低い。それは単純に顔を出さないからで、離脱は比較的容易だ。Twitter上での告発もかなりしやすく、実際にそうする例は枚挙に暇がない(しかし告発が多いということは「演者の精神的な苦痛」を支持する傍証になるのでは?)。

俺がとりわけVtuberのリアリティーショーに関して「演者の負担」を外野が推測することを警戒するのは、それが自己実現である可能性がそれなりにあるからだ。ニコ生主で承認欲求を満たす人が精神的に異常だという主張には流石に無理があるし、良くも悪くも生主化したVtuberもその延長線上にいるというだけのことではないのか。『リアV』でも、冒頭で当初にVtuberに感じていた魅力として、確かに以下のように述べている。

うまく社会に適応できない人を救済しているように見えた

Vtuberの演者は異常な環境で狂人になってしまったのか? それとも元から狂人だから異常な環境に適応できたのか? わからない。きっとどちらもいるというのが真相だろうし、判別しようというのもナンセンスなんだろう。

補足305:(少なくとも俺の目から見て)楽しくポケモンを遊んでいるように見えたVtuberが強烈な告発の末に去った一件は、オタクの素朴な対人能力で精神的な健康状態を放送から推し量ることは危険だという教訓を与えた。Vtuberもプロの演者なのだ。

結局はバランスの問題で、『リアV』のような謙虚な退却を避け、大枠での倫理を求めるならば、「演者の精神的な健全性が破綻しないよう配慮できる制度があるのが望ましい」程度のことしか言えない。

あるいは、演者に注目するのが間違っていて、問題意識はコミュニティと視聴者の方に向けるべきなのかもしれない。
リアリティーショー化したVtuber界隈において性的な・下品な言説があまりにも容易に出回りすぎているのは本当に「良くない」。俺は最近の百合文化を「周到な性欲の粉飾文化」だとかなり思っているし、「てぇてぇ」の下にはかなりの量の性欲が隠れている。しかしそんな偏見を認めてもなお、「それに何の問題が?」という開き直りに対抗することは難しい。
上野千鶴子がいみじくも言うように「オタクは隔離部屋でマスかいてる分には無害だ」という見解に俺は同意する。Vtuber生放送とそのコミュニティは現状で明らかに隔離されている。良くも悪くもYoutubeというメディアが優れているのは、住み分けに長けることだ。さだまさしでも聞こうと思った一般ユーザーがブラウザでYoutubeを開いた瞬間、Vtuber生放送が自動再生されて「えっちだ……」というコメントが目に入ることはない。
つまり、演者からコミュニティに視線を移すと、今度はオタク界隈くらいでしか影響力を持たないことがその下品さへの批判を難しくする。鍵をかけた部屋でマスかいてるときに引っ張り出されて攻撃されたら俺だって困る。どこまでが「鍵をかけた部屋」なのかは難しいラインだが、「#えっちだ……に抗議します」的なタグがTwitterでトレンド入りするまでは安泰としていいだろう。
精々言えるのは、「下品な文化は衆目に晒されない程度の規模に留めておいた方がよい」というやはりありふれたことくらいだ。

 

最後に、『リアV』の以下の記述は(誤ってはいないものの)恐らく表記ミスだろう。

正確に言えば、すべての固有値が1より大きい行列を持つような力学系は収束せず、どこかとんでもないところに我々を連れて行く。おそらく、それはひどい結末をもたらすはずだ。

力学系が収束しない条件は「行列の全ての固有値が1より大きい」ではなく「行列の少なくとも一つの固有値が1より大きい」である。確かに全ての固有値が1より大きい行列を持つ力学系も収束しないが、そこまでの条件は必要ない。
全てが狂っている必要はないのだ。ただ一つでも狂っていれば、系全体はポジティブフィードバックで暴走できる。

20/6/1 ハッシュタグの氾濫、メタ政治性を巡る闘争

メタ政治性を巡る闘争

最近、「#抗議します」系タグを筆頭にしたハッシュタグ運動が活発になるのを見るにつけ、Twitter上での闘争の在り方が大きく様変わりしたのを感じるようになった。宇野常寛が『遅いインターネット』で指摘したような「大衆」と「市民」の形式的な闘争がいよいよ前景化してきている。

現在進行形でタグ付けを中心にTwitter上で行われている闘争の特徴は、決して意見そのものが対立しているわけではないところだ。検察庁法改正案にしても、「賛成派」と「反対派」が争っているわけではない。信条や思想をぶつけ合うベタレベルの戦場は放棄地となり、意思決定そのものの正統性について論じるメタレベルの空中戦が行われている。そこで対立しているのは「強く意見を持つ層=議論参与派」と、「安易に意見を持つことに反感を示す層=議論静観派」だ。

補足298:良く言えば「積極派」と「慎重派」、悪く言えば「愚民派」と「冷笑派」。

この指原評とこれに続くリプライが対立の様相をはっきりと示している。指原は芸能人にしては珍しく「静観派」にポジションを取ったことが注目されているわけだが、これに続くリプライはどちらかと言うと指原を攻撃する「参与派」が多い。いずれにせよ、どちらの見解もこのリプライツリーから拾い出せる。

まず静観派が参与派を攻撃して言うには、参与派は自分の意見を持たずにアジテーターに動員されているにすぎず、安易に乗せられない静観派の方がよほどよく物を考えていると言う。一方、参与派が静観派を攻撃して言うには、参与派はきちんと考えた結果として自分の意見を主張しているのであり、主張を放棄する静観派に比べればよほどまともな政治的な態度を持っていると言う。どちらにも一理ある。

まず静観派に関して言えば、彼らが優れるのは「完全に正しい回答に辿り着くことは現実的ではない」と知っていることだ。素人がちょっと考えただけで本当に正しい見解にアクセスできるのであれば、この世に専門家など要らないはずだ。「正解」に辿り着けない=誤った意見を発信するくらいならば、黙っていた方がマイナスではなくプラマイゼロだからまだマシなのかもしれない。

一方、参与派に関して言えば、彼らが優れるのは「それでもできる範囲で回答を深化するしかない」と知っていることだ。正解に辿り着くのが事実上不可能であることは、正解に辿り着こうとする試み自体が無意味になることを意味しない。決して専門家として振る舞うことが要求されているわけではなく、それでもわかる範囲で意見を持つことが重要なのだ。自分で判断することが難しいのであれば、適宜他人に判断を委ねるべきことだってある。

総じて、静観派からは「最も正しい判断には辿り着けない」ということ、参与派からは「判断を途中で停止してもよい」ということが学べる。この二つは矛盾しないどころかむしろ補完し合う関係にある。最深部には辿り着けないからこそ、どこかで止まることが正当化されるのだから。

そしてそんなスタンスの素人にとって、議論の結論など「たまたまどこで止まったか」という偶然の問題に過ぎない。どうせそこは最深部ではないからだ。色々な見解が入り混じり、複雑な模様になっている地層をどこまで掘ったのかという程度問題でしかない。
ではその探索は全く無意味だったかというと、そういうわけでもない。ベストには至れなくても、ベターを求めてきた過程は間違いなく意義あるものだ。すなわち、本当に有意味なのは、今いる地層の情報ではなく、そこまで掘ってきた穿孔の過程である。
そもそも、「どこかで止まってもよい」ということは「どこで止まってもよい」ことを意味しない。最も賢い芸能人よりは最も愚かな学者の方がまだ信頼できるだろうし、学者の間でも業績によって可視化される優劣はある。そうやって可能な範囲で適宜改善してきた過程だけは、常にベターな方向に進んできた歴史を表示する(そして、それを表示するのは決して結論ではない)。

よって、Twitter上でのメタ政治性を巡る不毛な闘争を止揚し、素人の議論を辛うじて有益にでき得るとすれば、結論ではなくそこに至る過程を競うことでしか有り得ない。どうせベストには辿り着けないのだから、結論ではなく過程を求めて走り続けること。

だから宇野が『遅いインターネット』で提出した発案のうちで最も有益なのは「結論に飛びつかずに走り続ける」という部分だったと思う。はっきり言えば、彼がソリューションとする新しいメディアたるオンラインサロンはあまり重要には思えない(その問題は以前にも書いた→)。それよりも有益なのは「はじめに」から一貫している「走り続ける」というスタンスにある。最終回答を持たず暫定回答を更新し続ける、そういう使い方ができるのであればオンラインサロンもきっと有効なのだろう。

補足299:それとは全く別の話題として、「芸能人が政治的な主張をすべきか否か」という話には少し思うところがある。俺の見る限り、どちらかと言えば「芸能人も一人の政治主体であり、政治的な意思表明を止められるべき理由は何もない」という見解の方が「まともで良識的」だと見做されている節はある。しかし、タイムラインに流れてきた「楽しくアニメを見てたのにいきなりニュースが始まったら文句の一つも言いたくなる」という見解にも納得できる。娯楽とは広義の政治性(=利害の衝突)をオミットした地点で成立するというのは正しいと思うし、取り去ったはずのものが再介入する自己撞着にはもっと注意を払ってもいい。日常に密着したブログやインタビューやラジオを通じて明らかに芸能人や声優の私生活までも娯楽コンテンツとして扱ってきたマネジメント手法に問題の根があることは明らかで、彼らが政治主体であることを認めるのであれば、そういう売り出し方にも反対しなければ筋が通らない。ちなみに、以前俺が「アニメや漫画だって政治的な文脈からは逃れられない」と言ったことと自己矛盾を起こしているのではないかと突っ込まれそうだが、それは「アニメや漫画は全く政治的なものではない」と積極的に主張する意見に対する反論であって、普段から政治性を意識しない層に対して啓蒙する意図は全く無い。

補足300:珍しく狭義の政治について俺が書いたのは、これはハッシュタグに限ったことではなく、意見を発信すること全般に対しても言えるからだ。例えば、俺はそれなりに誠実な感想を持ちたいと思っているし、新海誠の話をしたければとりあえず新海誠の映画を全部見るようにはしている。しかし、それでもエロゲーマーの友人からは新海誠が映像を担当したエロゲーをプレイせずに新海誠を語ることを責められる。だがそこで俺は開き直り、「知識を更新し続ける意志はある」ということで手打ちにしてほしいと言う。いつか気が向いたらminori作品をプレイする気持ちはあるし、そこで致命的な誤りが分かったら謝罪する用意がある。しかし、それはそのときに改めて謝れば良いのであって、いま誤解している可能性を含む感想を述べるのを止めるつもりはない。無限の精度を担保できない素人の主張ラインは、謝罪の可能性とトレードオフで手打ちにするのが現実的な落としどころだと思う。

20/5/31 お題箱回

・お題箱65

133.小説はあまり読まないんですか?

あまり読まないですね。小説以外の本(主に人文書)の十分の一未満しか読んでいないです。

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フィクションなら映像作品の方が楽だし、どうせ書籍を読むなら小説以外の方が得るものが多いと考えてしまうので。最近、村上春樹の批評を読むのに村上春樹を全く読んでないのは流石にヤバいと思って『ノルウェイの森』を読んだりもしました(面白くはなかったです)。

小説を読まない癖にカクヨムで小説を書いたりしますが、それは創作活動は小説が一番楽だからです。僕も含めた「小説を読まないのに小説を書きたがる人」が大量にいるのは自然なことで、本当は映画とか漫画をインプットして何かを作りたくなった素人がアウトプットとしては簡単な小説に流れ込んでくるんでしょうね。 
この前、ちゃんとしたノベル系の何かを作っている友達に会ったとき、僕が書いた小説は「時間感覚が映画」「視覚描写に頼りすぎ」「会話劇」「文章が合目的的すぎる」とか色々言われました。ぐうの音も出ない正論で、僕が普段インプットしてるものは視覚優位の映画とか、プラトンの対話篇とか、合目的的な解説文とかなので、小説の文法はよくわからないです。

134.Yubit映研について語って欲しい

そこまで語れるほど団体全体と密に親しいわけではなく、一部のメンバーとはリアルでもぼちぼち仲が良くて、その延長で把握しているくらいの距離感です。一度も会っていないか一度しか会っていないメンバーも多いです。

(ぼちぼち仲が良い方のメンバーであるところの)ひふみさんには会うたびに言っている気がするのでここで書いてもう最後にしようと思うんですが、一時期Yubit映研内でアウトプットの気運が盛り上がったのに今やすっかり鎮火してしまったことはやや残念に思っています。
僕個人として知り合いのアウトプットを見るのを好んでいるのと、アウトプットがないとソシャゲ以外に何をやっているのかよくわからないというのもあります。まあ、趣味は個人の自由なので別に何でもいいのですが。

135.本誌派ですか?単行本派ですか?

単行本派です。
昔は立ち読みが主だったんですが、最近は立ち読みできるコンビニがほとんど無くなってしまいました。立ち読みって割と絶滅しつつありますよね、少なくとも23区内くらいだと。

代わりに半年前くらいにジャンププラスで電子版WJをサブスク購入しましたが、サブスクしてから一ヶ月の間で一度も読まなかったのですぐに解約してしまいました。昔はあんなに楽しみにしていたのに、今はそもそも毎週読むほどは興味がないっぽいです。
とはいえ流行りは追っておきたいので、流行っている漫画は適当なところで単行本に目を通すようにはしています。単行本派とは言ってもいちいち買うわけではなく、満喫かレンタルが主です。鬼滅もチェーンソーマンも呪術もあらすじがわかるくらいまでは読んだので、あとは最終巻が出たら一気に読むと思います。

136.LWさんがトロッコ問題の現場に居合わせたとしたら、5人を見殺しにしますか?それとも1人を犠牲にしますか?

その質問なら、状況にコミットしたくないので5人を見殺しにします。

ただ、倫理学的な問題設定としてはあくまでも功利主義と義務論を戦わせるためのものなので、個人の利害を度外視した上で完全に道徳的な意味でどちらが望ましいと思うかという話ではあります。また、その望ましさというのは、社会的な倫理=社会のルールとしての次元と、個人的な倫理=個人の生き方としての次元があります。

社会のルールとして考えた場合、個人的には「どちらの選択が正しいか」という定性的な問い方をするより、「何人死ぬまでは許容できるか」という定量的な問い方をする方が現実的じゃないかと思います。これは僕の推測でしかないですけど、現実的な判断って「見殺しにされるのが2人くらいならそのままでいいけど、100人いたら流石にスイッチ切り替えなきゃヤバイ」みたいな感じじゃないですか? 倫理学的に言うと特定の閾値によって義務論か功利主義かが切り替わるような状態で、それを探る方向に議論を進めたい気持ちになります(こういう数量的な考え方自体が功利主義に傾いていると言われればそれはそうなんですが)。

個人の生き方として考えた場合、問題設定自体がどうでもよくないですか? こうしている今でも地球上では知らない他人が理不尽な境遇で何人もボロボロ死んでいるわけで、それを放置していることを何とも思わないのに、トロッコ問題だけは真剣に個人的に考えられるっていうのは無理があります。これに限らず、「そもそもどうでもいい」という第三の答えが最も誠実であることは少なくありません。

137.同時並行でアニメ見たり本読んだりしてる印象がありますが,ノート(メモ?)はどうなってるんですか?
同じページでも話題があっちこっちしてるのでしょうか
それとも複数のノートを使い分けているのでしょうか 

ノートは一冊だけで、その都度空いている部分に書き込んでいくので話題は常に混線しています。

ただし「自由にメモを取るページ」と「きっちり感想を書くページ」に分けて使っています。この見開きは4月下旬~5月上旬くらいのメモですが、左側がメモページ、右側が感想ページになっています。

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メモページは何でも考えたことを書いておいたり、本の内容を整理したりするのに使います。感想ページは消費したコンテンツ全てのタイトルと感想を記入するのに使います。このページの具体的な内容はこんな感じです。

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メモページは空いている場所に適当にメモるのでグチャグチャですが、感想ページは作品ごとに一気に書くのでスッキリしています。

20/5/30 遊戯王5D'sに見るデュエルのマルチタスク化

遊戯王5D'sに見るカードゲームのマルチタスク

132.遊戯王5D'sについて語って欲しい

ストーリーについて言いたいことはあまりないですが、ライディングデュエルは画期的な発明だったと思います。

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ライディングデュエルが優れるのは「デュエルに全く別のアクティビティを組み合わせてマルチタスク化する」という発想を導入したところです。
というのは、カードゲームのルールの中から「ホイールへのライド」という行為を見た場合、それが実現するのは「プレイヤーやゲームボードの物理的な移動」であって、実はゲーム内容そのものとは特に関係がないんですよね。ホイールに乗っていようがいまいがデュエルはできるし、スピードワールド絡みのルールだってスタンディングでも再現できます。そういう、カードゲームと全く関係ないはずのレースをデュエルと同時進行させるという異なるタスクのマルチ化を行ったところに5D’sとライディングデュエルの凄みがあります。

補足298:実際、ライディングデュエルの発想は遊戯王とは関係のない読み切り作品が元になっているらしいですね(ソースはwikipedia)。

「レースとデュエルのマルチタスク」であるところのライディングデュエルによって5D'sが指摘するのは、今までカードゲームのプレイにおいては「移動」という領域が使われずに余っていた事実と、その気になれば「移動」を同時進行できるという可能性です。
それはカードゲームだけではなく卓上ゲーム一般に対して同じことが言えます(ライディングモノポリーやライディングドミニオンも容易に想像できるはずです)。その一方で、サッカーや野球ではホイールの同時使用は不可能です。一応ホイールに乗った状態でサッカーのルールに従うことくらいはできそうですが、それはサッカーとは全く別の競技でしょう。カードゲームが元々のプレイ感覚をかなり保ったままでホイールにライドできるのとは異なります。スポ―ツと卓上ゲームを比較すると、前者は元々身体を使用するゲームである一方、後者は元々頭だけを使用するゲームなので身体が余っているという違いが伺えます。一般化して言えば、頭脳戦をするゲームは軒並みホイールにライド可能です。
ゲームの拡張として見ると、ライディングデュエルのように異種のタスクを組み合わせる方向での拡張は、一つのタスクを深堀りする方向での拡張と対比できます。例えば、5D'sではシンクロシステムが「ゲームシステムを垂直に深堀りする」という役割を果たした一方、ライディングデュエルは「アクティビティを水平に拡張する」という役割を担っています。

こういう水平なやり方でゲームを拡張する方法が優れるのは、ゲームの複雑化や敷居の上昇を避けつつエンタメとしては確実に発展させられる点です。
一般的に言ってカードゲームの面白さと複雑さはトレードオフで、それは頭脳戦という性質上仕方のないことではあります。しかし、ゲームメカニクス内での改善にこだわるのではなく、逆にゲーム外の本質的でない部分に注目してそちらを作り替えるというアプローチも可能なはずです。つまり、「ゲーム中に身体が暇」という特徴に注目してゲーム外でレースを行うということです。これはゲーム内容の複雑化を避けて総合的なゲームプレイを楽しくできるという点で優れたアプローチです。
「ゲーム内容を複雑にしなくても総合的にゲームを楽しくできる」という意味では、ゲームのマルチタスク化は卓上ゲームの興行化とも親和性が高いです。実際、デュエルが持つ「興行」という側面が遊戯王シリーズで初めてクローズアップされた5D'sにおいて、(シンクロ導入でゲームメカニクスを複雑化させつつも)同時進行可能なアクティビティをマルチタスク化するという指針が示されたのは画期的なことです。

そんなライディングデュエルの集大成は最終回のジャックvs遊星です。
あのデュエルってカードゲームとしてはもちろん、工業地帯のレースとしても完成度が高いんですよね。様々な場所を移動して移り変わる背景の中、洞窟を回転したり、亀裂をジャンプしたり、レールが分かれたりして、極論カードゲームをしていなくてもレースアニメとしても成り立つくらいのクオリティがありました。一つのクオリティをひたすら垂直に掘り続けるより、ハイクオリティなもの二つを水平に組み合わせる方が伝わりやすいし面白いよね~というのがあのデュエルから僕が得た教訓です。

さて、後続シリーズの展開としては、ArcVもアクションデュエルによって「デュエルと同時進行する身体作業」という発想を組み込んではいます。しかし、その試みは5D'sを超えてはいないように思います。
というのは、ArcVのアクションデュエルでアクションするのは主にアクションカードを取るときだけだからです。その際、アクションカードはデュエルの攻防に高度に組み込まれてしまっているので、アクションするたびにデュエルが中断してしまいます。常時アクションしているわけではなく、デュエル中に必要になったときに適宜デュエルを中断してアクションを行うというタイムラインになっています。図にすると以下の通りです。

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5D'sは概ねデュエルとライディングが並走して同時進行し続ける一方、ArcVはデュエルとアクションがいちいち切り替わっており、同時に進むわけではありません。「他のことが同時進行できる」というカードゲームの特徴をよりよく活かしているのは5D'sのマルチタスクの方で、切り替えシングルタスクであればバスケや野球でも出来てしまいます(5分ごとにプレイするゲームをバスケと野球で切り替えるというように)。

引き合いに出して申し訳ないですが、昔MtGがやっていた謎企画「マジック×バスケ」もArcV型の切り替えシングルタスク方式でした。一定時間でプレイするゲームがバスケとMtGで切り替わるというルールの特別企画です。

www.youtube.com

チャレンジとしての価値はあると思いますが、見ていて面白くはないですね。最初の一回だけはアイドル的なプロプレイヤーがバスケをしているのがかなり面白いものの、二回目以降はもう何故わざわざゲームを中断しなくてはいけないのかという意味不明さが前面に出てきます。
かといって現実的にはライディングMtGを実現するのはちょっと大変ですが、5D'sは現実ではなくアニメなのでカードゲームの目的地としてマルチタスク化という方向性が有り得ると示した功績は大きいです。

なお、更に後続のシリーズとしては、VRAINSではサーフボードに乗って行うスピードデュエルが実装されています。スピードデュエルは5D'sより悪い点は特にないものの、より良い点も特に見つからず、提案を前に進めてはいません。

20/5/23 PSYCHO-PASSの感想 理念と実践の思想地図

PSYCHO-PASSの感想

131.アニメ PSYCHO-PASSは見られたことありますか?
あったら感想が聞きたいです。

先月に1期を全話見ましたが、面白かったです。
設定がよく作り込まれていてエンタメとして楽しかったし、背景に一貫している思想をいちいち全部説明してくれる感じも僕は好きです。

補足296:ただ、槙島がオーウェルからフーコーまで言及する割にはハイデガーサルトルを引用しなかったのってなんかズルくないですか? 槙島っていわゆる「自由の刑」を称揚するような割とベタな実存主義者なんですが、それを明示するとキャラクターが浅薄に見えてしまうから、あえて一番クリティカルな思想家の引用を避けたのではないかと邪推してしまいます(一応キルケゴールニーチェは他の人が引用しますが)。

特に好感度が高いのは、主要登場人物たちの思想について一致する点と異なる点がそれぞれきちんと描かれているところです。思想の解像度が高いおかげで、槙島と狡噛が反目する割には似ていると評されるところや、朱がシビュラシステムを憎む割には手を組まざるを得ないところなど、複雑な協調・敵対関係を描くことに成功しています。

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これは視聴直後に僕がノートに走り書きした思想地図ですが、だいたいこんな構図になっていたと思います。上下の軸が理念的な信条の違い、左右の軸が実践的な方針の違いです。さっき言った「一致する点と異なる点がある」というのを上の図で言うと、例えば朱と槙島は理念的には一致しているが実践的には一致していないという感じです。

朱と槙島

元々、朱と槙島のシビュラシステムによる管理社会に対する考え方ってそれほど大きく違わないんですよね。二人とも大雑把にはシビュラシステムアンチ勢力です。
いずれも規範への隷従よりも主体的な選択を尊重しており、人間の生き方はシステムに決められるよりも自分で決める方が望ましいと考えています。例えば、朱はシステムや権威に安易に迎合せず、自分で考えて行動する人間であることが示されます(一話からシビュラシステムを無視して狡噛を撃っていたように)。それは槙島も同じで、彼も人間のポテンシャルはシビュラシステムなんかでトップダウンに評価できるものではないと考えています。そのため、システムから外れた存在である犯罪者に注目して人間本来の自由な生き方を追求します。

だからこの二人は理念的には一致しているんですが、終盤でようやく朱が槙島にキレて、相違点が実践的なレイヤーにあることが示されます。二人の違いを決定づけるのは以下のゆき(の亡霊)と朱のやり取りです。PSYCHO-PASSで一番重要な台詞ってこれだと思います。

ゆき「面白くって楽ちんで辛いことなんて何もなかった。全部誰かに任せっぱなしで何が大切なことなのかなんて考えもしなかった。ねえ茜、それでも私は幸せだったと思う?」

朱「幸せになれたよ。それを探すことはいつだって出来た。生きてさえいれば誰だって!」

補足297:「ゆき」は槙島に喉をかっ切られて殺された人です。ググって初めて名前を知りました。

ゆきの問いかけってなかなか露悪的です。「シビュラシステムに飼い慣らされて自分では考えずに流されるだけの人生だったけどこれで良かったのかな?」という。我々の常識的な価値観から考えても「そういう主体性のない人生ってどうなの?」とちょっと思ってしまうし、槙島にとってはこういう人間こそ最も嘆かわしいカス中のカスです。だから槙島はゆきを殺すことに全く躊躇いがありません。
そして槙島同様、朱もゆきのような人生を幸福ではないと考えています。実際、朱の台詞をよく読むと、「ゆきが幸せだった」とは全く言っていないどころか、むしろ明確に否定しています。というのは、「幸せに『なれた』」「いつだって『出来た』」は「今までは幸せではなかった」「今までやっていなかった」の裏返しだからです。朱はゆきの人生は幸福では無かったと暗に判定しており、その理念はやはり槙島と一致しています。

ただ、朱が槙島と違うのは「現状では幸せではない」というだけの理由でゆきを見限らない点です。朱は続けて「生きてさえいれば誰だって(幸福になれる)」と述べ、現状でカスな人生を切り捨てるより、将来的には幸福な人間(槙島と朱にとっては主体的に決断する人間)になり得ることを評価します。
ここに「イデアリストの槙島」と「リアリストの朱」の間で、実践的な方針に対する見解の相違があります。槙島は本ばかり読んでいる頭でっかちのインテリなので、現実よりも理想を重視し、他人に求めるハードルが高いです。だから現状で見込みのないゆきを一方的に断罪して殺害します。一方、朱は曲がりなりにも現場を知る現役の刑事であり、理想に溺れる槙島よりも現実を重視します。現実問題として、人の考え方が変わるのには過渡時間が必要であることを知っているため、ゆきの潜在的なポテンシャルを柔軟に評価して現状に妥協します。
総じて、槙島が妥協を許さない理想主義者であるのに対して、朱は問いを保留できる現実主義者です。

朱とシビュラシステム

シビュラシステムはそういう朱の実践志向を看破していたからこそ、朱が社会を破壊するような行動を取らないと信頼して協調を試みます。
シビュラシステムと朱の共通点は理想よりも現実を重く見るところです。二人とも「理想を固持するよりも現実を回すことの方が大事だ」と考えているため、理念が合わないという多少の不満には目を瞑ることができます。

最終的に、朱がシビュラシステムを破壊しないのってすごく倫理的でいいですよね。平凡なアニメならたぶん朱がシビュラシステムを盛大に破壊して華々しく終わるんですが、朱はどこまでもリアリストなのでそういう理想が先行した無謀な行動は取りません。

槙島と狡噛

朱とシビュラシステムという現実主義勢力が「重要なのは現状、それを維持する手段は二の次」と考える一方、逆に「重要なのは最終目標を達成する過程、現状は二の次」と考えるのが槙島と狡噛の理想主義勢力です。
実際、槙島は「落としどころ」としてシビュラシステムに取り込まれることを明確に拒絶し、ゲームプレイヤーとして活動し続けることを選びます。狡噛も槙島を拘束するというだけでは納得が行かず、「自分の手で槙島を殺す」という過程に固執します。自分の信条を絶対に曲げずに現実を見ない、妥協を許さないところは狡噛と槙島は同じ実践方針を持っています。

その一方、狡噛をはじめとする執行官たちは朱や槙島と違って主体性をそれほど重視していません。別にシビュラシステムに盲従しているわけではありませんが(不満を述べるシーンは多々ありますが)、槙島や朱と比べると規範性に隷従することに抵抗がありません。特に元刑事である征陸や狡噛は「刑事としての規範」を尊ぶ傾向があり、「刑事の意地」に非常に強くこだわります。形は違えど、治安を維持したい刑事と、社会を管理したいシビュラシステムの間に強固な共犯関係が存在しています。

理想と現実

以上を踏まえて、PSYCHO-PASSは「実践的な方針の違い」という横軸をきちんと設け、(一見すると槙島vs狡噛という理念の対立と見せかけておいて)朱vs槙島では方針の対立をメインに据えたところを僕は評価します。
一般論として、理念なんてとりあえず現実から離れるのが語義的な定義みたいなところがあって、どうしても荒唐無稽な思考実験じみたことを考えがちです。それはそれで新しい指針を示す上で有効な振る舞いではあるんですが、その一方で、相対的に地に足の付いた、既に成立してしまっている強固な現実との折り合いを考える必要があるのもまた事実です。
例えば槙島の理想には沿わずにチャランポランしてるゆきみたいな人間が不自由なく暮らしてたり、刑事たちが熱く理想を掲げるよりディストピアっぽいシビュラシステムの方が上手く治安を維持できてしまっていたり、そもそも人の考え方ってずっと同じじゃなくて割と変わるものだったり、そういう実践との噛み合わなさってどうしても付きまといます。
その手の泥臭い実践性を描くのって理念を掲げる思想書にはどうしても難しい部分で、思想そのものとは関係のない描写や設定も盛り込めるフィクションならではの部分じゃないかとも思います(あまり主語を大きくしたくはないですが……)。そういう部分こそがラスボスと主人公が戦う論点になって、最終的にも朱が実践重視の決断を下す(シビュラシステムを維持する)のは議論が一貫して評価できます。