LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/5/16 4月消費コンテンツ

4月度消費コンテンツ

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今年度はコンテンツ消費の気運が高まっているので、飽きるまで月間まとめみたいなことをやろうと思う。

メディア別リスト

映画(16本)

ゴッドファーザー
・マン・オブ・スティー
グッドフェローズ
バットマンvsスーパーマン
スーサイド・スクワッド
ワンダーウーマン
ジャスティス・リーグ
・サイコ
・スーパー!
・アクアマン
・劇場版パトレイバー1
・劇場版パトレイバー2
・劇場版パトレイバー3
パラノーマル・アクティビティ
トータル・リコール
スカイ・クロラ

アニメ(96話)

現行で放送中のアニメは除く(途中で話数を切って記録するのは気持ち悪いので)。

・マギアレコード(全13話)
・へやキャン△(実質全1話)
ソードアートオンライン1期(全25話)
終末のイゼッタ(全12話)
サイコパス1期(全22話)
新世界より(全25話)

本(4冊)

・資本主義リアリズム
・自殺の歴史社会学
・自殺全書
・古典入門 自殺論

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

・【映画】劇場版パトレイバー2

消費して良かったコンテンツ

・【映画】グッドフェローズ
・【映画】スーサイド・スクワッド
・【映画】スカイ・クロラ
・【本】自殺の歴史社会学
・【映画】スーパー!
・【アニメ】サイコパス
・【アニメ】ソードアートオンライン

消費して損はなかったコンテンツ

・【映画】トータル・リコール
・【アニメ】マギアレコード
・【アニメ】終末のイゼッタ
・【本】古典入門 自殺論
・【映画】バットマンvsスーパーマン
・【映画】ジャスティス・リーグ

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

・【アニメ】新世界より
・【映画】劇場版パトレイバー1
・【映画】劇場版パトレイバー3
・【映画】サイコ
・【映画】ワンダーウーマン
・【映画】パラノーマル・アクティビティ
・【本】資本主義リアリズム
・【映画】ゴッドファーザー

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

・【映画】マン・オブ・スティー
・【映画】アクアマン
・【アニメ】へやキャン△
・【本】自殺全書

ピックアップ

単発記事を書いたコンテンツとかなんか一言あるコンテンツについて。
一行目からネタバレ書くのでネタバレ見たくない人は読まないでください。

【アニメ】マギアレコード

saize-lw.hatenablog.com

魔女システムと願いの変質について。

【映画】バットマンvsスーパーマン

saize-lw.hatenablog.com

MCUの正義とDCEUの正義の違いについて。

【アニメ】ソードアートオンライン

saize-lw.hatenablog.com

【映画】劇場版パトレイバー2

機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]

機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]

  • 発売日: 2008/07/25
  • メディア: Blu-ray
 

押井守って面白いときと面白くないときが両極端なんだけど、『パトレイバー2』は突き抜けて面白かった。他に突き抜けて面白かったのは『御先祖様万々歳』『トーキング・ヘッド』あたり。
「形骸化した戦争」というモチーフ自体には非常に共感するんだけど、押井守にとってそれが常に平和の欺瞞性とセットになっているという告発の文脈にはそこまで共感できない。この世代的な感性の差はちょうどジローズの『戦争を知らない子供たち』からアーバンギャルドの『戦争を知りたい子供たち』への変質に対応しているようにも思う。
戦争を知らない子供たち』の1970年では「戦争を知らない子供たち」の隣には「戦争を知る大人たち」がいたので、大人は子供を守りましょうみたいなスタンスの反戦歌が成立した。押井守に言わせればそういう平和維持スタイルこそが戦争を隠蔽する欺瞞であるという批判の対象になるけど、「戦争世代」と「平和世代」が共存しているという前提は共有している。
が、『戦争を知りたい子供たち』の2014年には子供も大人も戦争を知らない。「戦争世代」は全滅してもう「平和世代」しか残っていない。誰も本物を知らないものは形骸化もできないので、「形骸化した戦争」という単語は語義矛盾である。いまや、完全にうわべだけの記号的な戦争か、完全に本物の血肉を抉るグロテスクな戦争(という妄想)への二極化しか有り得ない。

【映画】スカイ・クロラ

スカイ・クロラ The Sky Crawlers

スカイ・クロラ The Sky Crawlers

  • 発売日: 2014/08/13
  • メディア: Prime Video
 

……というような時代の変遷に従って『パトレイバー2』をアップデートしたのが『スカイ・クロラ』なんだろう。単体では二度と見たくない映画だが、事実上の『パトレイバー2』の続編であることを踏まえるならば『パトレイバー2』よりも評価できる。というか、『パトレイバー2』を見てない人が『スカイ・クロラ』を見ても意味不明なのでは。
戦争が形骸化しているとはいえ、『パトレイバー2』の段階では特車二課が派手に華々しく戦って勝利するという「本物の戦争」らしきドラマがまだギリギリあった。しかし、『スカイ・クロラ』の段階では戦争は日常化にまで到達してそういう対立自体が消え失せている。『パトレイバー2』のように外から見て「形骸化」などと指摘できる段階では実はまだ形骸化しきっていなくて(「形骸化」という表現は「本物」の知識があって初めて可能だから)、本当にそれが起きたときは指摘することすら誰にもできない。
だから『スカイ・クロラ』では恒常的でグダグダな戦時状態は解決できない大前提になってしまい、そこで生きる人たちの実存的な問いに論点が縮退せざるを得ない。システムの要らしきティーチャーに挑むことくらいは辛うじて可能だが、ティーチャー=柘植を殺せる時代は『パトレイバー2』でもう終わった。

【映画】グッドフェローズ

グッドフェローズ (字幕版)

グッドフェローズ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

これかなり好き。
何も起こらない平和な日常って全然幸福じゃないし、むしろ積極的にリスクをテイクしないとそこから逃れられないみたいな問題意識があって、それは映画を含めた娯楽作品自体への自己言及でもある。
大抵の娯楽作品は問題を解決して平和に戻ることを目指しているけど、それを達成したら作品は終わる。視聴者が求めているのは本当は四苦八苦する戦争状態であって、ハッピーエンドに到達してしまったら見ていても何も面白くない。だからこの映画では安寧で不自由のない暮らしがバットエンド。

【本】自殺の歴史社会学

saize-lw.hatenablog.com

この回に書いたけど、自殺の意志と資源化という問題を扱っていてかなり面白かった。

【映画】スーパー!

邪道ヒーロー映画として完成度が高い。キチガイ男が自己満足のためにカスみたいな動機でヒーローを始めるんだけど、途中で真の正義に目覚めることも特になく、徹頭徹尾カスのままで満足して話が終わる。ダークヒーローとかピカレスクではなく、本当にカスなタイプのアンチヒーローは貴重。
クライマックスでラスボスに説教するシーンがかなり良く、このヒーローには思想も何もないので「姦淫するな」とか「薬はやめろ」とか取って付けたような道徳を唾を撒き散らしながら語り、その割には私怨で人を殺すダブスタぶりを見せつける。
これの監督があの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と同じというのはなかなかウケる。

【アニメ】終末のイゼッタ

超越的な力をどう扱うのかという手垢の付いたテーマについて、「最強の魔女(物理的な超越者)」と「小国の姫(政治的な超越者)」の親友関係をベースに議論するような話。
途中はかなり面白くなかったけど、最終的には姫が魔女に対して「力が残っていると色々危ないので力を使い果たしてもらって、ついでに敵と一緒に死んでもらえるとベスト」みたいな切り捨て判断をして、魔女もそれを受け入れていたのがすごく倫理的で良かった。その結論を出せる作品はそう多くない(しかも百合なのでなおさら)。Cパートでなんか魔女は存命であることが示唆されてたけど、そのくらいはまあいいでしょう。

【アニメ】新世界より

どっかの感想で読んだ「ディストピア小説で被支配階級・奴隷サイドが普通に惨敗するパターンの話」というのがその通り過ぎてこれを超える感想が出てこない。
いわゆる「世界の謎」を4話くらいで開示する割には、主人公たちがそこまで興味を持たないままダラダラ話が進んでいく。というのも、「隠蔽されていた階級社会」というディストピア設定において、主人公たちは支配階級サイドであるために現状を変革する理由もモチベーションも特にないからだ。クライマックスで革命が起きる割には、主人公陣営が普通に鎮圧して奴隷たちの立場が変わることもなくそのまま終わってしまう。
他の話題として、本能レベルで闘争回避を組み込んだ平和なコミュニティが「個々の命を無視した物量戦」とか「闘争を志向する異常者」みたいな想定外の悪意に非常に弱いというようなシステムの脆弱性に関わる話も結構面白かったけど、それはいつかまた適切な機会に引用したい。

20/5/10 『アキハバラ電脳組』の感想 憧れの王子様を見限って

アキハバラ電脳組

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コロナ禍で新宿TSUTAYAが一時休業してしまい(新宿TSUTAYAは未だにVHSを取り扱っている数少ないレンタルビデオショップである)、仕方なく契約した「dアニメストア for PrimeVideo」にあったので見たが、かなり面白かった。

最初はコメディとしてギャラクシーエンジェル的な感じで面白いアニメだったが(特に第9話)、中盤から話の本筋に入ってシリアスになってくる。『少女革命ウテナ』と問題意識を共有しており、憧れの王子様を打ち捨てていく過程がシンクロしていて興味深い。
『電脳組』と『ウテナ』は放送時期的にもほぼ同期であり、まとめてDVD-BOXになっていたり(→)、Google検索すると劇場版を同時上映していた記録が出てきたりする(→)。しかし、内容の同異点ベースで語った記事は見つからなかったので自分で書くことにした。

異様な変身と王子様への憧れ

『電脳組』の基本線は女子中学生ヒバリが主人公のキャピキャピした変身ものだ。
概ね魔法少女ジャンルのテンプレートに沿い、特別な力を得た女子中学生5人が「ディーヴァ」に変身する力で敵組織と戦うストーリーが展開する。ディーヴァとは5人が大人になった姿であり、変身シーンには毎回成長バンクが挿入される。
しかし明らかに異質なのは、少女たちの大人姿に変身するのが少女たち自身ではないところだ。変身するのはマスコット的な存在であるところの「パタP」である(CCさくら的に言うと、さくらちゃんではなくケロちゃんが変身する)。よって、少女たちは元の姿のままで自分の大人形態を応援するというスタンドバトルのような妙な構図になる。

ディーヴァはスタイルの良い美人でありながら独立した自我を持たないところも特徴的だ。少女の指示に従って黙々と戦うだけで、傷付いても表情一つ変わることがない。人間ではなく精神を欠いた機械人形として描かれる。
つまりディーヴァは大人の肉体を持ってはいるが、大人の精神が欠如しているのだ。少女の肉体だけが成長して精神はそれに追いついていない。「少女が成長を先取りする」という魔法少女的なフォーマットにおいて、仮に身体が成長したところで精神の成長がそれに追い付くとは限らないという歪みが「無機物としての大人の肉体」というディーヴァのグロテスクさに表されている。

そして、この歪さは「王子様への憧れ」に象徴される主人公の幼児性に由来する。
主人公のヒバリは幼い頃から王子様に強い憧れを持ち、実は彼女が持っているパタPも王子様から与えられたものだ。王子様は宇宙に浮く城「プリムム・モビーレ」に住んでおり、ヒバリが使う力はプリムム・モビーレからレーザーのように降り注いでくる。

少女革命ウテナ』との比較、憧れの王子様を見限って

こうした王子様絡みの設定は『少女革命ウテナ』を想起させるものだ。
ウテナ』の主人公である天上ウテナもまた、王子様に憧れ、王子様から得た力で戦う。王子様は天空に浮かぶ城に住み、ウテナは決闘の際にはその城から力を得る。
実際、『電脳組』の「プリムム・モビーレ」と『ウテナ』の「城」は絵的にもよく似ている。

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(『アキハバラ電脳組』における「プリムム・モビーレ」)

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(『少女革命ウテナ』における「城」)

二作品において、「王子様」のポジションや顛末もほとんど一致する。
いずれでも王子様は人間社会を遥かに超えた超越的な力を持ち、そのために自らの目的のために手段を選ばない暴力性をも併せ持つ。当初は主人公は王子様に憧れ、王子様もまた姫君としての主人公に強く執着するが、最終的には主人公が王子様に見切りを付けてオルタナティブを求めることになる。

補足294:いわゆるポストモダン論ではこうした王子様の性質は社会体制におけるそれと同一視される。『電脳組』ではWW1でモダニズムに限界を感じた王子様が強大な力と共に社会からの完全な離脱を計るところは倫理的だが、それに主人公たちを巻き込もうとする独善性が拭いきれなかった。

例えば、『ウテナ』においては王子様であるディオス(アキオ)は学園の理事長として君臨している。そしてウテナが持つディオスの剣という理想を求め、あらゆる手段を尽くして彼女に執着する。ウテナは一旦はアキオとの恋愛関係に陥るが、最終的には王子様への理想を捨てて学園を去ることになる。

『電脳組』においても、王子様であるクレインはSF的な科学力を背景に人間社会を遥かに超えた力を手にしている。クレインはWW1を経て人間に絶望し、俗世から離れたナイーブな理想を体現する存在としてヒバリたちに執着してプリムム・モビーレに誘う。ヒバリも当初は誘いに乗り気だったが、別れを悲しむ両親の涙を見て地球に留まることを決める。
「特別であること」と「日常を送ること」は二者択一なのだ。特別でありたいクレインと日常を守りたいヒバリたちとの間で戦争が始まり、最終的にはヒバリは「あたしは特別なんかじゃない」と絶叫して変身を解き、クレインを見限る。クレインはとりあえずしばらくは人間を見守る方向で和解してプリムム・モビーレへと帰っていき、ヒバリは仲間たちとの日常へと戻っていく。

いずれの作品でも、当初は憧れの対象であった「王子様」がその超越性の裏に孕む暴力が剔抉される。「王子が姫を抑圧する」というフェミニズムの背景の下で見れば、王子様が持つ問題の力点は『ウテナ』においては「姫(薔薇の花嫁、アンシー)にコストを押し付ける」ことにあり、主人公は王子様を見限ると同時にアンシーを解放する。『電脳組』においては「姫(主人公と仲間たち)から日常を剥奪する」ことにあり、主人公は王子様を見限ると同時に仲間たちとの日常を防衛する。

また、既に述べたように、『電脳組』においては王子様への憧れの歪さはディーヴァへの変身が示す「肉体と精神の分離」に象徴されていた。この分離はヒバリの成長に伴って解消されていき、途中で「霊機融合」という奥義を獲得する。「霊機融合」ではディーヴァの肉体と少女の精神が正しく一致し、ヒバリは自分の身体のようにディーヴァを操るようになる。
しかし、テレビ版のクライマックスではヒバリは霊機融合すらも解き、そういう特別なガジェットを用いた特別な存在であること自体を否定したのだった。更なる顛末は劇場版で描かれることになる。

劇場版と王子様の顛末

劇場版『アキハバラ電脳組 2011年の夏休み』は王子様を追放したことで訪れた日常のシーンからスタートする。そこでまず目につくのは、テレビ版ではちょい役だった同級生「ウズラ」の大躍進だ。
ウズラは同性愛者でストーカー気質で幼児体型フェチでメカニックに強い強烈なコメディリリーフだ。盛りまくった属性を活かして序盤から主人公たちを追い回して爆発物を乱射し、とりあえず復旧した日常の中にコメディらしい非日常の旋風を引き込む役割を担う。元々ウズラは変身能力を持たない部外者だったため、日常への埋没を選択した主人公たちとは独立して非日常的なコメディを推進する役割を一手に引き受けられるのだ。

後半ではヒバリたちは地球の危機を救うために再びディーヴァに変身して宇宙に向かう。
しかし、それはかつて王子様に憧れていた頃の歪な変身ではなく、やはり「霊機融合」だ。霊機融合はテレビ版では一部のキャラしか使えない奥義であったにも関わらず、劇場版では「気持ちの問題」として誰もが簡単に使えるようになる。更にディーヴァの姿のままでギャグシーンやコメディパートをこなせるようになり、ディーヴァの姿は非日常的な戦場ではなく日常の延長線上に置かれる。遂に肉体の成長に精神の成長が追い付き、霊機融合は地に足の付いた正しく成長する変身として完成した。これが王子様を見限ったことでもたらされているのは言うまでもない。

また、後半部に来て主人公たちとウズラのポジションも逆転する。ウズラは地球に待機して宇宙に飛び立つ5人を見送る。このときの台詞がかなり良い。

ウズラ「夏休みの栞によると夜の外出は9時まで、お祭りの日に限り10時までになっています。これ、守らないと補導されちゃいますよ」

ヒバリ「わかった。それまでに帰るようにする」

このウズラの念押しによって、地球の危機を救うための宇宙への出発ですらも夏休みの枠内に押し込められる。後半のウズラは非日常に向かう女子中学生たちを日常に繋ぎとめる役割を担っているわけだ。
すなわち、ウズラの立ち位置は劇場版の前後で綺麗に切り替わる。前半部で主人公たちが日常を担うならウズラを非日常を担い、後半部で主人公たちが非日常を担うならウズラは日常を担う。ウズラの存在によって日常と非日常の断絶が緩和され、日常をベースとしたコメディの中に全てを配置することが可能になる。この裏面としての挙動はウズラが部外者であるために可能になっているわけで、彼女こそが劇場版最大の立役者だ。

補足295:その代わりに割を食わされたのがカモメだ。「いつもの5人」からカモメが抜けてウズラが入るというかなり残酷な人員整理が行われているが、カモメはあまり人気がなかったんだろうか?

クライマックスでは、荒廃したプリムム・モビーレで王子様のクレインが地球を見守ることに耐え切れずに苦しんでいる様子が描かれる。地球の危機はクレインの機能不全によってもたらされていた。やはり彼はどうしても安寧な地球を見ていることに耐えられなかった。

主人公たちがテレビ版で王子様を見限ったことと呼応して、クレイン自身もかつての暴君ではなくなっている。最初から最後まで、クレインは意識が朦朧とした状態でベッドに横たわってうなされているだけだ。ヒバリたちとクレインの間の会話は一切ない。かつてのディーヴァが自我を持たなかったように、今度はクレインの方が自我を持たない無機物となってしまった。歪みの所在はヒバリたちから王子様に移った。
主人公たちはクレインを残り5分であっさり救う。クレインが地球を見守るためのテレビを全て破壊し、日常から完全に追放したのだ。去り際にはスズメがプリムム・モビーレに発信機を残していき、ステルス技術により不可視で君臨していた王子様の城は監視されるものにまでグレードダウンしてしまった。

ヒバリたちがプリムム・モビーレを去っていくときの最後のやり取りもかなり良い。

スズメ「王子様はお姫様がいるから王子様なのかもですね」

ツグミ「クレインが王子様だったら誰がお姫様なんや? ヒバリか?」

ツバメ「ヒバリは……ヒバリだよね」

ヒバリがお姫様であることは遠回しに否定される。王子様に憧れていたテレビ版当初のヒバリはもういない。そして姫がいなくなった王子様はもう王子様ではいられない。見捨てられたのは王子様の方なのだ。
姫でなくなったヒバリたちは王子様が耐えられなかった日常の泥臭さの中へと帰還していく。彼女らが帰りながら雑談するのは「今日泊まる場所」だ。地球の危機を救った直後でありながら限りなく俗で日常的な会話をしながら帰っていく。

ちなみに劇場版『ウテナ』でも王子様のアキオは登場しないどころか物語開始時点で既に自殺している。『電脳組』でも『ウテナ』でも王子様はテレビ版で打ち捨てられ、劇場版で完全に力能を失う。

「王子様はお姫様がいるから王子様」、お姫様に見限られた王子様は哀れなほどに弱い。

20/5/6 第六回サイゼミ 宇野常寛『遅いインターネット』について

第六回サイゼミ

2020年5月4日に第六回サイゼミを催した。コロナ禍の影響でレンタルスペースが使えないため場所はZOOM。宇野常寛が出した新刊『遅いインターネット』を皆で読んだ。

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本の内容まとめ紹介記事ではなく、本を読んだ前提でディスカスした内容を中心に俺が考えたことを書く。

序章:オリンピック破壊計画

ポピュリズムの限界」「ポピュリズムの失敗」と言うと、まるで「ポピュリズムの成功」が有り得るかのように読める(もしポピュリズムを選択した時点で失敗しかないのであれば、「ポピュリズムという限界」「ポピュリズムという失敗」なる表現の方がしっくる来る)。小泉や橋本がテレビ・ポピュリズムによって、単に彼らが政局上で有利になる以上に、宇野が言うように一強体制を打開するという意味で成功を収めることは有り得たのだろうか。
恐らく、その意味でのテレビ・ポピュリズムの成功パターンは最終的にはポピュリズムから脱却していくルートしか有り得ないのだろう。最初は大衆の焚き付けとしてスタートしたとしても、大衆層が意識を程よく高めてちょうどよい感じに政治参加した結果、正しく機能する二大政党制が戻ってくる構図は可能性としては考えられなくはない。

1章:民主主義を半分諦めることで、守る

本文中では世界認識の広さと経済的な階級は概ね対応し、Somewhereな人々が下流階級、Anywhereな人々が上流階級と想定されている。
しかし、その対応に留まらない掛け合わせを想定することはできる。例えば、「Somewhereだが上流な人々」としては「排外主義的な上流階級層」「リバタリアン」、「Anywhereだが下流な人々」としては「ヤッピーではないヒッピー」「貧乏なバックパッカー」が挙げられるかもしれない。そう考えると、<Anywhere↔Somewhere>の対立軸と<上流↔下流>の対立軸を独立させ、人物像のイメージを平面的に拡張できる。

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本文中で主に対比されているのは、第二象限と第四象限だ。
第三象限の人々は世捨て人やアナキストのイメージであり、政治的な参加回路から距離を置いた結果のAnywhereなのでひとまず議論から除外しても良いかもしれない。
第一象限的な存在として、本文中でもピーター・ティールを代表とするリバタリアンのトランプ支持層について言及されている。彼らはアメリカ国内に引きこもるというよりはサイバースペースやSF的空想に引きこもるという意味ではSomewhereだ(少なくとも、地球単位での視点を持つという意味でのAnywhereではない)。
一見すると対極の立場にある「ラストベルトの自動車工(第四象限)」と「ピーター・ティール(第一象限)」が共にトランプを支持するという構図は注目に値する。リバタリアンまで射程に入れた上で世界認識の広さを示す直線上に乗せた場合、トランプに反対しているのは中庸なリベラルだけで、両極端な勢力は共にトランプ支持だ。

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2章:拡張現実の時代

仮想現実がリベラル多文化主義の夢を掲げる

「仮想現実がリベラル多文化主義の夢を掲げる」には非常に同意できる。
本文中ではMCUに代表されるディズニーのリベラル路線がその例として挙げられている。MCUでは様々な人種・バックグラウンドを持つキャラクターたちの協働戦線が華々しく描かれるのであるが、それは派手な音楽や映像によって演出される「建前」に過ぎない。その本質はアジテーション的なやり口にあり、形式だけ見ればトランプのフェイク・ニュースと何ら変わらない。映画館を一歩出た瞬間、排外主義が「本音」として復活してくることだって十分にあり得る。

VRChatやVtuberを中心としたアバター文化にも全く同じ構図がある。
アバター文化では「(現実の肉体とは関係なく)なりたい自分になれる」ことが魅力として掲げられ、一見するとリベラルな理想郷としてVR空間が称揚される。しかしこれは「建前」に過ぎない。実際のところ、わざわざ黒人や身体障碍者のような多様性を選択する人はほとんどいないからだ。結局は皆が美少女(美少年)のアバターを選ぶのが「本音」であり、女性蔑視的なオタク文化ルッキズムは根絶されるどころか、女性らしいアバターを運用するテクニックという形で強化されさえする。
仮想現実においては、なまじ何でも実現できるだけに潜在的な可能性という次元では「建前」としての多様性が推奨される一方で、それは実際に選択される現実性の次元である「本音」に影響を及ぼすとは限らない。

「実用系アニメ」に見るアニメの拡張現実化

「仮想現実から拡張現実へ」という流れは最近のアニメにも起こっている。
具体的には、『ゆるキャン△』や『ダンベル何キロ持てる?』のように視聴者を実際に現実へのアクティビティへと足を運ばせる効果を持つアニメがその例として挙げられる。『ポケモンGO』においてピカチュウがプレイヤーを裏道へ誘って現実を掘り下げさせるのと同じように、『ゆるキャン△』は視聴者をキャンプに誘って生活を掘り下げさせる効果を持っている。アニメの内容が単に別世界での空想に留まらず、視聴者がいる現実世界の解像度を上げていくのだ。以前、「実用系アニメ」と題してこの手のアニメについての記事を書いたことがある。

saize-lw.hatenablog.com

ただし、こちらにも『ポケモンGO』と全く同様の問題がある。すなわち、「『ダン持て』を見たところで一部のエリートしか拡張現実を利用するところまで至れない」という問題だ。
宇野の二軸分類によれば、拡張現実には「日常」「自分の物語」という二点が必要になる。よって、『ダン持て』を見て筋トレを始めたとして、「アニメを見た日だけではなく習慣的に筋トレをする(=日常性)」+「アニメが終わってからも数ヶ月筋トレを持続する(=自分の物語)」という二点が満たされて初めて自分の世界を拡張したことになる。この二つが出来るのは流行に流されない一部のエリートだけだ。終わった途端にダンベルを売ってしまうオタクは結局拡張現実にアクセスできないという、エリーティズムの限界が同様にある。

日本の村社会的雰囲気とアメリカの自活精神

<注10>がかなり面白かった。
要するに、日本の村社会的雰囲気とアメリカの自活精神は一見すると対極ではあるが、いずれも「私的なものが公的なものを基礎づける」という点においては類似しており、この二つを分けるのは自立の有無でしかないということだ。
これを踏まえると、自立可能↔自立しない、公ベース↔私ベースという二軸で平面を描くこともできそうだ。

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公ベースでの自立の有無については、とりあえずカトリックプロテスタントが補充案として提出された。いずれも公的な教義が私的な生活を基礎付ける点は共通しているが、カトリックは教会組織が綿密な連帯を提供する一方で、プロテスタントは比較的個人主義の色が強い(例えばデュルケム『自殺論』ではこの対比が重要な役割を演じていた)。

3章:21世紀の共同幻想論

トップダウンイデオロギーからの脱却方法として割とよく目にするのは「大きな物語」から「小さな物語」への移行だが、「他人の物語」「自分の物語」という対立軸で語っているのは面白い。
Twitterがインターネットを分断する昨今、もはやコミュニティのサイズは大した問題ではないというのは非常に納得がいく。「小さな物語」とはいえ所与のものに盲従しているのではボトムアップ共同幻想に対処することができず(むしろローカルなコミュニティだからこそ脅威なのだ……ISISやオンラインサロン信者のように)、そもそも他人の物語ではなく自分の物語という枠組みで考えるべきだというのはその通りだと思う。

その対処法を明確化した点で宇野の切り口は優れているが、しかし、かなり気になったのは「自分の物語と他人の物語はどのように区別すればいいのか」ということだ。
構築主義ではないが、個人の思想が周囲の思想から完全に独立していることは有り得ない。他人の意見を鵜呑みにして劣化コピーを再生産することと、他人の意見を咀嚼して自分でよく考えることの違いは程度問題でしかない(と俺は思う)。よって、この二つを見分けるのは現実的にはかなり難しい。それは外から見てわからないだけではなく、本人にとっても区別は困難であるように思われる(「愚民」だって、きっとよく考えて発信しているつもりなのだ)。
例えば、ほぼ日から商品を購入する層は、果たして本当にモノを使って自分の距離感を調整できているのだろうか。それが出来ているのは糸井重里だけで、ほぼ日の読者は糸井が作るローカルな共同幻想に飲み込まれているだけではないのか。その幻想は社会全体にかかっているものよりも相対的に小さいので「共同幻想からの自立」に見えているだけという単なるスケールの話に回帰してきてしまうのではないか。「社会のマジョリティが支持しているが共同幻想ではない」と断言できるシチュエーションは存在し得るのだろうか。

関連して、宇野が糸井を擁護するやり方にも問題があると思う。
糸井の批判者にとって本当に重要なのは、糸井自身の歴史的な整合性ではなく、糸井が望むと望まないとに関わらず実際に大衆がアジテーションされてしまっている現実ではないのか。「本当は政治的な戦略なんです」という擁護は糸井にアジテーターと化している現状の甘受を正当化させかねず、それこそまさに大衆の扇動に他ならない。

4章:遅いインターネット

正直に言って、この章だけは非常に不満が残る内容だった。
理由は大きく分けて二つあり、エリーティズムの問題が回避できないことと、当初のイデオロギー的な問題を解決しないことの二点だ。
どちらも「現状では部分的に正しいが今後の展望を考えると重大な疑問が残る」というタイプの不満であり、「走り続けながら考える」という本のスタイルからするとこれから補完していくべきポイントということでいいのかもしれないが。

エリーティズムの問題

まず大前提として、「遅いインターネット」という試み自体は非常に建設的な試みだと思う。それなりに自発的な意識のある層を丁寧に啓蒙していくやり方でしか、アジテーションを回避して日常&自分の物語という次元での政治性は構築できないという思想そのものは筋が通っているし正しい。
ただ、現状での暫定的な成功はコミュニティ規模が小さいことに支えられているところが大きいはずだ。当初からアメリカや日本の政治という規模で問題を立てている以上、「遅いインターネット」の動きはどんな形を取るにせよ最終的には国家・地球規模に拡散しなければならない。その過程で大衆層にまで手を広げる際、「結局は限られた層しかリターンを享受できない」というエリーティズムの問題をどう回避するのかが全く語られていないのが最大の不満である。ナイアンティック批判で提示したエリーティズムの限界を全く解決していないどころか、もっと悪くなっている(真面目なオンラインサロンよりはゲーミフィケーションの方がまだ大衆にリーチするのではないか)。遅いインターネットはまだエリーティズムの問題に直面する規模に至っていないというだけの話であって、論理的には『ポケモンGO』と全く同じ轍を踏もうとしているように思えてならない。
「遅いインターネット」が共同幻想に陥らない可能性を担保する手段として「訓練する」「考え続ける」という回答は挙げられているが(「最終回答を求めようとするとイデオロギーにトラップされるので常に暫定回答の意識を持つ」という姿勢は非常に重要だと思う)、「大衆にどう対処するのか」が今まで散々議論してきたクリティカルなポイントである以上、もう少し具体性のある案を提示してほしかった。

幻想問題が全てではない

もう一つ根本的に疑問なのは、「遅いインターネット」で果たしてトランプの当選を防げたのかということだ。
宇野が「民主主義が機能不全に陥っている」と指摘する理由は、単にイデオロギー的なものに過ぎない。民主主義vsグローバル資本主義という対立において、宇野は明確に後者の肩を持っている。世界は明らかに後者に向けて変化しているという前提の下、それを前者が食い止めてしまうことを問題視していたはずだ。
この機能不全の原因として、宇野は「ラストベルトの自動車工」と「リベラルな起業家」の対立を「世界に素手で触れているという幻想」に帰着し、それを生むボトムアップ共同幻想から脱却する方法を模索してきていた。これを逆向きに遡れば、「遅いインターネット」で共同幻想から脱却すればトランプを生まれないことになるはずだ。

しかし現実的に考えて、ラストベルトの自動車工が「遅いインターネット」に参加したとして、彼らはトランプを支持しなくなるのだろうか?
俺にはそうは思えない。「日常」と「自分の物語」の次元で大統領選挙を考えたとき、労働者階級から抜け出せないという自分の立場に鑑みて、むしろ改めてトランプを支持するのではないだろうか。率直に言って、当初挙げたイデオロギー的な問題意識に対して、幻想から脱却するというソリューションが噛み合っていないという印象を受ける。

この捻れの根本には、宇野が自動車工のアクチュアリティを過小評価していることがある。宇野は対立の原因を幻想レベルに帰着したが、自動車工にも「何度考えてもトランプを支持するべきだ」という、まさに生活に立脚したアクチュアリティのあるプライドが残るように思えてならない。よく考えて幻想を打破したところで、それはそれとしてAnywhereな人々のおこぼれにあずかるという経済的な現実に甘んじる理由は特にない(そのチャチなプライドが幻想だと言うのかもしれないが、そうだとしてもその気持ちの真正さは必ずしもボトムアップ共同幻想から生じるものでもないように思う)。

勘違いしないでほしいが、宇野の議論が片手落ちと言っているわけではない。
幻想という切り口から問題を捉え直すのは非常に有益な議論だったし、その過程で得られた知見も価値あるものだ。しかし「幻想問題」を解決したところでアクチュアリティの次元での問題は依然として残るように思えてならない。この本で提示されたのは部分的な回答に過ぎず、当初の問題に対処するためにはまだまだ問いと答えを洗練する余地が残っている。

20/5/2 お題箱回

・お題箱64

128.めだかボックスについて語って欲しい

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めだかボックスはかなり好きで、全巻揃えて売っていない数少ない漫画の一つです。安心院さんと球磨川が好きですが、逆に安心院さんと球磨川が好きじゃないオタクって存在するんですか?

西尾維新は作中のモチーフを哲学や思想からかなり取ってきているよねとは友人ともよく話すところであり、球磨川ってニーチェっぽいよね、スキルからスタイル使いへの移行ってソシュールっぽいよね、後半の梟ってボードリヤールっぽいよねとか居酒屋で喋ります。

投票箱という民主制の象徴がタイトルを冠している意味もやはり大きく(アイテム自体は割とすぐに描写されなくなりましたが)、能力バトルの裏では統治形態や個人と社会に関する議論が行われています。特に個性をどう扱うのか、どう考えるのかという問いはリベラルのそれと接続し、安心院さんが言う「悪平等」にはどことなくリバタリアンがリベラルをバカにするようなニュアンスを感じたりもします。めだかちゃんが人吉を殴って見限るあたりもネット上では謎展開と揶揄されていますが、「個性とは相対的なものに過ぎない」という問題意識は安心院さんの無限スキルによっても提示されているはずです。

などと色々言いつつ、僕がめだかボックスの記事を書いていない理由は、僕以外にめだかボックスについて書きそうな知り合いが既にいるからというだけです。そいつが記事を上げたら僕もリツイートしてなんか言うと思います。

129.頭のいい人たちって横文字を使いたがる傾向にあると思うんですけど、その理由ってなぜなのでしょうか?

自分の頭が良いとは言いませんが、僕も横文字(カタカナ語)をかなり好む方です。
それは酔ってブン回っているときに顕著で、「それはただの数字の話で~」と言えばいいところを「それはアリスマティックでしかなくて~」と言ったりします。

横文字がどうというよりは、単に馴染みのない新しい言葉を使うのが楽しいからだと思います。Twitterでも「魔剤」「優勝」「ポカホンタス」とか独特の言い回しが流行るのと全く同じです。大抵の場合、新しい言葉を吸収するのは新しい概念を吸収することでもあって、頭が良いというか好奇心が強い人が本を読んだりしてそれを好むんでしょうね。

また、そもそも横文字にぴったり対応する日本語が存在しないために横文字を使わざるを得ないというシチュエーションもかなり多いです。
例えば「イデオロギー」って日本語では「観念、思想、考え方」くらいの訳が対応しますが、それでは「社会的な背景の下で権力と結び付いたもの」というニュアンスまでは表しきれません。だから「主体というイデオロギー」っていうフレーズと「主体という思想」っていうフレーズのニュアンスって全然違いますし、話の精度を上げようとすると横文字に頼らざるを得ないところがあります。

130.ツイッターに画像を貼っていた自殺論のお話がとても興味深いです。
記事になる予定はありますか?

これですね。

これはZoomで飲み会をしてる最中、酩酊した僕がホワイトボード機能を使って最近読んだ本の内容を解説し始めたときのツイートです。僕のオリジナルアイデアではなく本の内容をそのまま説明しているだけなので、原典を読まれるとよいと思います。

一つ目のツイートで解説している本は宮島喬の『デュルケム自殺論』です。

デュルケム自殺論 (有斐閣新書 D 34)

デュルケム自殺論 (有斐閣新書 D 34)

  • 作者:宮島 喬
  • 発売日: 1979/06/25
  • メディア: 新書
 

元々デュルケムっていう社会学者が書いた『自殺論』という有名な論文があって(wikipedia参照→)、宮島喬『デュルケム自殺論』はその解説書籍です。タイトルだけ見るとちょっと紛らわしいですが、完訳ではありません。
内容としては、「自殺を個人的なものではなく社会的なものとして捉えよう」という立場から、自殺を社会の病理と紐づけて類型を分類したものです。そこまで面白くはないですが、自殺という現象に対する解像度はかなり上がるので読んで損はないです。平易に書いてあるのでサラッと読めると思います。

二つ目のツイートで長々と解説しているのが『自殺の歴史社会学』です。

この本はかなり面白くて、どちらかというとこっちの方がオススメです。

タイトルに「意志のゆくえ」とあるように、「自殺が意志によるものか否か」という議論について主に扱っています。自殺が意志によるものか否かというのは、具体的に言うと、例えば過労自殺者に対して「結局のところ彼は自分の意志で決めて死んだのだ」と言うか、「彼は決して自分の意志で死んだのではなく会社に殺されたのだ」と言うかの違いです。
この本が非常に面白いのは、「自殺が意志によるものか否か」という問題を「自殺する意志を尊重するか否か」というようなヒューマニズムの枠組みではなく、「既に起こった自殺を意志的な行為として処理すると誰が得をして誰が損をするのか」という利害の枠組みで扱っていることです。「自殺が意志によるものか否か」は道徳的な次元に留まる問題ではなく、家・警察・保険会社・遺族・会社・学校などの無数のステークホルダーを巻き込んで規定されていく社会資源の問題なのです。
例えば、「厭世自殺」というものは一般的には「世を儚んだ幸薄い青年が自殺した」というように個人的な行為だと考えられがちです。しかし実際には、当時の旧家や警察にとっては「自殺は厭世自殺ということにしておくと色々都合が良い」という背景があり、彼ら事後処理人たちの利害が一致したために意図的に作り上げられた制度ではないかとこの本では指摘されます。それってかなり面白くないですか?

あとツイートでは紹介していないですが、ついでに一緒に読んだ自殺関連の書籍をもう一冊貼っておきます。

図説 自殺全書

図説 自殺全書

 

貼っておいてなんですが、特にオススメではないです。
装丁はやたら立派で分厚いものの、中身は色々な自殺事例を三面記事的に集めるだけ集めたコンビニ本みたいな感じです。全く頭を使わずに読めるのと、とにかく色々なパターンが記載されているので、オモシロ自殺集として暇潰しくらいにはなるかも。

20/4/29 お題箱回

・お題箱63

124.UTDvsKSUをやるとしたらLWさんはどっちに入るんですか?

言うほどUTDにコミットしてないのでKSUだと思います。

125.この人のようになりたい!というような、憧れている人物はいますか?
実在する(実在した)人でも、フィクションのキャラクターでも構いません

特にいません。全然思い付かないです。

126.就職されたってマジですか?
どのような職業に就かれたのでしょうか

就職はしましたが、職業を書くとその業界の人みたいな文脈が生まれそうなので秘密です。DMで聞いてくれれば答えます。

127.いつも素晴らしいイラストのリツイートありがとうございます。
ところでお気に入りの絵師ってどうやって探してますか?

いえいえ……
なんか昔から「俺の画像フォルダが火を吹くぜ」みたいなこと言うオタクいますけど、本当に偉いのは最初にイラストを描く絵師だけなので、それを集めたり貼ったりするだけのオタクは何者でもないですよ。

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とはいえ、今って本当に星の数ほどの絵師がリアルタイムに活動していて、絵師の探索はゲームや映画の探索にも匹敵する娯楽です。僕もよくそれをプレイしていますが、アクティビティとしては良質な絵師のTwitterアカウントを捕捉するのが目標になります。つまり、絵師は基本的にTwitterと対応するものとして考えています。
理由としては、いまどきTwitterをやっていない絵師は非常に少ないこと、一度Twitterアカウントを特定すれば過去・将来の絵が捕捉しやすいこと、ツイートの日時や背景文脈までもイラストの情報に含みたいことなどが挙げられます。

Twitter内で探すのが一番楽なのは、FF比が100以上で4桁以上のRT力(リツイートぢから)を持つトップ絵師です。

(FF比235、RT力1000~10000)

こういった絵師は作品名・キャラ名・性癖などで軽くキーワード検索をすればすぐに「話題のツイート」に出てきますし、イラストに強くないアカウントでも適当に他人のファボ欄を覗くだけで簡単に発見できます。

問題は、そういった手段では発見できない絵師です。

 (FF比3.45、RT力100~500)

このイラストは高いクオリティの割にはまだまだRT数が少なく、ちょうど今絵師の実力に評価が追い付くフェイズに来ているようです。4/27に1000フォロー報告をしていますが、4/29時点のフォロワー数は1500あり、1ヶ月後にはFF比10くらいになっていてもおかしくありません。

こういった隠れた良絵師を発見するには自ら意識して情報を取りに行く必要があります。
興味のある検索ワードから画像付きのものを全てチェックするのも方法の一つですが、やはり確実なのは情報収集力のある他人から情報を得ることです。性癖やイラスト評価が合致するアカウントを見つけ、そいつのファボを漁ることで新しいイラストと絵師にアクセスできます。知り合いでも知り合いでなくても、フォロワーのファボ欄は一度くらい覗いて情報収集力を確認しておくことをお勧めします。ファボが上手いやつのリストを作ってもいいでしょう。
特にオススメは絵師のファボ欄を漁ることです。絵師は付き合いの都合で知り合いや仲良くなりたい絵師のイラストに過剰反応する傾向があり、RTやファボ欄から簡単に距離の近い絵師の情報を拾えます。その絵師自身が自分のイラストで性癖を開示していることもあり、ファボ欄から芋づる式に類似絵師が連鎖していくのは非常によくあるパターンです。
つまり絵師は探索対象であると同時に情報源でもあります。お気に入り絵師のアカウントはどこかに控えておいて、定期的に新規イラストを確認すると同時にファボ欄や直近のツイートにも目を通して新しい絵師がいないかどうかチェックすると良いです。僕はそのためだけのアカウントを持っています。

さて、最後の問題はTwitterネットワークでは発見が難しいほどTwitter上での存在感が小さい絵師です。

 (FF比1.6、RT力0~50)

このイラストは現状で50RTですが、題材とクオリティ的にはもう10倍は拡散されてもおかしくありません。実力に評価が見合っていない典型的な事例です。しかし、そもそも露出が少ないアカウントのイラストは他のアカウントからリンクされることも少なく、発見は困難です。
こうした状態にある絵師としては、単純に実力をどんどん伸ばしてきている段階だったり、他で活動していた絵師がTwitterアカウントを作ってから日が浅かったり、外国籍の絵師で日本Twitterオタク界隈と上手くコンタクトできていなかったりといったパターンがあります。
こうしたケースを拾うにはTwitter内部の情報収集ではどうにもならず、Twitter外で情報収集する必要があります。

ところで、昔はネットに公開された個人作品は公共物扱いでしたが、今では著作権意識も高まり、いくら個人製作で無料公開されているとはいえ、ツイートではなく画像そのものを転載するのは限りなく黒に近いグレーです。よって、現実ではそうした手続きを参照することは推奨できません。
ここから先は現実とは全く関係のない僕が書いた小説についての話となりますが、海外サーバーのアレとか大型掲示板のソレは非常に強力な情報ソースです(一応言っておきますが、漫画村のように商業作品を勝手にアップロードするやつではなく、あくまでも個人が無料公開したアマチュア作品だけです)。ネットに上げられたイラストがブルドーザー収拾されて性癖別に細かく分類され、極めて検索性能が高いです。

補足292:Buhitterは作品名やキャラ名を指定できる場合は有効ですが、性癖での検索には非常に弱いです。

補足293:角煮の腋画像スレは抗争の末に「毛・臭いNGの綺麗な腋イラスト専門スレ」と「剃り残し等の汚い腋イラスト専門スレ」に分派しています。

リスペクト精神(?)のあるサイトはイラストをツイート状態で収集していたり(ちなみに正しい手順を踏んだ埋め込み形式のツイート引用はTwitter利用規約でも認められており明確に白です)、作者のTwitterやpixivへのリンクを貼っていたりすることもあるのですが、大抵のサイトは画像がポン置きされているだけです。
よって、作者のTwitterアカウントを発見するという目標を達成するためには、その画像だけを手掛かりに作者を特定する作業を行うことになります。今では画像検索技術が確立されているのでそれほどの手間ではありませんが、使い物になる検索エンジンGoogle画像検索とSauceNeoくらいです(goo画像などはほとんど役に立ちません)。特にブラウザがChromeの場合、拡張機能であるFast Image Researchが便利です。画像上で右クリックするだけでGoogle画像検索が可能になり、Google窓を開いて画像URL入力画面にコピーペーストする手間を大きく削減できます。

後半はオリジナル小説の設定の話なので現実で役に立つかどうかは全然わかりませんが、運良くお気に入りの絵師を見つけられたらイラストを積極的にRTするなりfanbox等の投げ銭サービスを使うなりして応援できると良いですね。

20/4/26 ソードアートオンラインの感想 チーターの偽装、拡張現実の倫理性

ソードアートオンライン

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昔から見よう見ようと思っていたソードアートオンラインを今更見た。
このアニメは単にオタクの間で有名である以上に、XR周りの技術・情報・デバイス界隈で取り上げられているのを耳にする機会が多い(そいつらも要するにオタクだが)。大学にいた頃、メディア論だの仮想現実論だのの第一回の導入では必ずと言っていいほどソードアートオンライン攻殻機動隊が引用されていたものだ。

SAO編はめちゃめちゃ面白くて評価が高かったのだが、ALO編が酷い内容でがっかりしてしまった。ただつまらないだけならまだしも、SAO編の優れていた部分を帳消しにするようなやり方でどんどん悪くなっていくので非常に残念だった。
有識者によると、ALO編以降はほとんど同じ内容のFDが延々と続くらしいので続きは見ない気はする。しかし、SAO編が確実に良かったことはきちんと書き残しておきたい。

1.チートの偽装と転倒した結婚

チートの偽装

SAO編で一番良かった話は間違いなく第二話だ。
この回で初めて、ソードアートオンラインを見たことが無くても「キリト」と聞いてただちに連想する「チート」というキーワードが出てくる。しかし、その表明の過程はかなり入り組んでいる。単に強さを意味するのでは全くなく、その強さが偽装されていることが最大の鍵になっている。

最初にキリトが自らがビーター(チーター並の強さを持つプレイヤー)であることを宣言するのは、弱者のヘイトを一身に集めて混乱を収拾するためだ。
元々、SAOでは事前プレイ経験のあるβテスターと初心者の間で

βテスター>初心者

という情報格差があり、その利益の分配をめぐる政治的な軋轢が生じていた。この対立状態を解消するため、キリトはβテスターを超えたビーターという最強のランクを仮設することで

ビーター>>>>>>>βテスター>初心者

という序列を作り出す。ビーターという最大の寡占者が現れることで、相対的にβテスターと初心者の間の違いは小さくなり、ビーター以外を攻撃する必要もなくなる。このスケーリングの論理によって、キリトはコミュニティの混乱を収拾した。

補足285:集まるヘイトを象徴するのが例の黒衣だ。単なる厨二病アイテムかと思っていたが、まさに露悪的であることが意味を持っていることを知って結構感動した。

よって、ビーターとは外向きの序列に組み込まれることで初めて意味を持つ称号だ。
「圧倒的に強い」というのはコミュニティを射程に入れた相対的な位置付けであり、絶対的な強さを示さない。キリト自身の高いステータスを表すというよりは、むしろそれよりも常に大きな幻想である必要がある。「誰も敵わない」という理想だけが先行し、現実は常に追いつかない。
逆に言えば、キリト自身は本当はチーターというほど高い能力を持たない。実際、三話では判断ミスによって仲間を何人も死なせるという手痛い失敗をする。それがトラウマとして付いて回り、孤高のソロプレイ志向に向かうことになる。

転倒した結婚

「キリトのチートは見せかけにすぎない」、つまり「キリトが本当はそんなに強くない」という前提がはっきり活かされるのは9・10話あたりから前景化してくるアスナとの関係においてだろう。
アスナとの関係を縮める中でキリトは仲間を失う恐怖から逃れられず、アスナに弱音を吐くようになる。キリトの弱みを知ったアスナは、「(キリトがアスナを守るのではなく)アスナがキリトを守る」と宣言するに至る。これが非常にクリティカルだ。「ヒロインが主人公を守る」という反マチズモの構図は、プロポーズシーンでは「キリトはアスナのもので、アスナがキリトを守る」というような台詞で明言される。
その夜のセックス未遂シーンも重要だ。初めからセックスする気で下着になるのはアスナであり、キリトの方が貞淑な乙女の如くセックスに引いて拒絶することになる。

補足286:アスカは男らしくなれないシンジくんに厳しく当たるが、アスナは男らしくなれないキリトくんに優しい。

補足287:第6話でグリセルダを殺したグリムロックを諫める際、アスナが「グリムロックは妻を自分の手元に置いておくことで所有欲を満たしているだけだ」と喝破しているシーンもそれを裏付ける。ヒロインは男性主人公の所有欲を満たす存在ではないというヒロイン人権宣言と、第十話の転倒したプロポーズは明らかに接続している(しかし、男性が女性の所有物になるというのは単に構図を裏返しただけではないのか?)。

こうした「男が女を守る」という古典的なジェンダーロールの転倒は「キリトの弱さ」に端を発し、その元を辿れば「チーターを偽装する歪み」に辿り着くことは言うまでもない。ヒロインとの転倒した関係はチート能力が偽物であることによって担保されているのだ。
キリトが持つ男性的な力強さとは決して本当のステータスではなく、外向きのポーズでしかない。それ故に、ヒロインとの個人的な関係においてはそれを維持しきれない。これが芯が強いハルヒ系のヒロインであるアスナの魅力を描写すると共に、後世で乱発されるいわゆる「チート無双もの」に対してはむしろアンチテーゼのポジションを取ってすらいる(例えば、強さも女も手に入れる『オーバーロード』のようなものに対して)。
総じて、SAO編は「チート」に関して最初から挫折を織り込んだ葛藤を提示し、ヒロインとの関係の中でそれを描き出したことが魅力的だった。

ALO編の失敗

しかし、ALO編ではキリトはただ単にSAOからの能力を引き継いで、ゲーム外の能力により他プレイヤーを圧倒するチーターと化す。「これじゃビーダーじゃなくて本当にチーターだな」みたいな台詞があったが、本当にそうなのだ。チーターを偽装するという立場は完全に崩壊し、本当に単なるチーターとして力を振るうだけの存在に変わり果てる。
それに付随して、チートの偽装に裏付けられていたアスナとの関係も変化してしまう。アスナはALO編では一貫して囚われの姫であり、スゴウとキリトの間にあるパワーバランスを示すためにやり取りされる通貨に過ぎない。SAO編で見られた転倒は消滅し、アスナはキリトに守られるだけの所有物になってしまう。

2.仮想世界への適応について

キリトが永続する社会を安定させるためにチーターとして振る舞わなければならないことは、キリトがゲーム世界に適応しなければならないことを意味する。誰よりもゲーム世界を理解し、まるで現実世界のように振る舞うことによって、チーターとしての強さを手に入れられるのだ。

適応する人、適応できない人

そんなキリトを筆頭にして「仮想世界への適応」はSAO編を通して徐々に進行していく。
はじめはデスゲームが繰り広げられる暗黒世界としてスタートした世界だが、数千人もの人々が長期的に滞在するとなると、じきに社会らしきものが構築されてくるのだ。ギルドという階級制度、精神的な安寧を担保する家、ステータスを示す資産、人間関係の極致としての結婚、教育を行う先生と生徒、義務を付与する納税システム。大抵の社会制度が出そろい、仮想世界はロールプレイというより異世界という色を帯びてくる。

この社会は基本的には実力主義メリトクラシーであり、アスナのように能力さえあれば子供でも大人を従えて結婚して家を持てる。子供にとってはむしろユートピアとすら言えるかもしれない。アスナが「現実世界を1日無くすのではなく、仮想世界で1日積み上げる」と語るように、仮想世界に適応した者にとっては現実世界と何ら変わらない人生での意味を持つ世界になる。

補足288:「強制参加への事後的な意味付け」という現象は非常にカルト的・セクト的だ。一般に強い教義が流通するコミュニティにおいて、「参加した瞬間」をどのように意味づけるかは重要な問題である。何故なら、カルトに参加した以後の事柄については全てカルト教義によって一面的に意味づけられる一方で、「参加した瞬間」だけは明らかに教義に従わない外部の事情が各人にあったはずだからだ。よって、人生全てを教義で染め上げるためには「参加の時点でも教義に従って行動していた」という事後的な記憶の書き換えを行う必要がある。

ただし、仮想世界に適応できる人とできない人がいることはグリセルダとグリムロックのエピソードでも示されている。グリセルダはノリノリだった一方、グリムロックはそれにドン引いており、夫婦の気持ちが離れたとして事件を起こすきっかけにもなった。後半ではかなり楽しく暮らしている人(釣り人の爺さん周りとか)が多く描写されるようになるが、適応できなかったものはもう既にゲームオーバーなり自殺なりで退場しているのかもしれない(適応できなかった者が悲惨な末路を迎えたことはユイが言及している)。

ゲームプレイとしての変質

また、仮想世界へ適応した人々をあくまでもゲームのプレイヤーと捉えると、「限りなく誠実で好ましいプレイヤー」と見ることもできる。TRPGにおいて100%ゲーム内のキャラクターになりきって全身全霊でプレイしているようなものだ。「所詮はゲームだから」というような一歩引いた視点を取ることがない。
常に命がけの全力プレイを強いられるのは本人にとってはデスゲームかもしれないが、ゲームクリエイターのカヤバとしては真剣に遊んでくれてこれほど嬉しいこともないのだろう。

補足289:ちなみに、一般的な社会のルールから離れてゲームのルールが適用される空間をゲーム研究用語ではマジックサークルと呼ぶらしい(例えばテニスコート)。

ゲームプレイヤーとしての性質に注目すると、ゲーム内での報酬が性質を変化させていることに気が付く。
一般的に言って、ゲーム内で得られる報酬は高々そのゲーム内でしか有効でないものだ。ゲームをプレイして手に入るスコア、レアアイテム、スキル、称号などはゲーム内でしか使えず、一歩現実世界に出れば何の役にも立たない。

補足290:もっとも、最近ではe-sportsの潮流でゲーム内での実績が現実世界での実績と見なされることも増えて一概には言えなくなってきた。ゲームの強さがSNSでのステータスを担保する場合なども同様。

SAO内でも高々SAO内でしか有効でない報酬は少なくない。例えば、家、資産、ギルド階級などはSAOの崩壊に伴って無価値なものになっただろう。一方で、キリトとアスナの愛、キリトの剣道スキルのように現実に持ち越されたものもある。こうした「持ち越し」が現実世界と仮想世界を一貫させるArgumented Realityの思想を補強するのだが、それはまた後で触れるとして、もっと興味深いのは曖昧な境界例だ。

例えば、キリトがアスナと初めてタッグを組む回で、キリトが使用した「クリーム」はどちらともつかない報酬である。クエストをクリアすると「クリーム」が手に入り、それを使うと食事が美味しくなるという効果がある。この「クリーム」は間違いなくSAO内のプログラムだから、その意味では家やギルド階級と同様にゲーム内でしか価値を持たない報酬と言える。しかしその一方で、報酬を享受する味覚システムは仮想世界特有のものではない。究極、SAOというゲームに全く参加する気がない人間であっても、「クリーム」報酬を受け取るインセンティブはある。その意味では、これはゲーム内で自己目的化した報酬ではなく、実際に動物的なレベルでの利益をもたらすわけだ。
他にも、暗殺者ギルドが使用していた「聞き耳」というスキルも同じ例に入るだろう。その発動はゲーム内のプログラミングで担保されている一方、それを行使する感覚は知覚レベルであるに違いない。「実際に物がよく聞こえるようになる」という感覚の強化体験を享受するというインセンティブは、必ずしもゲーム内でのみ有効なものとは言えまい。
以上のように、「真剣なプレイヤー」の登場に伴い、報酬系におけるゲーム内外の関係が揺らいでいる様子が見て取れる。

適応者キリトvs失恋する妹

仮想世界に適応できるか否かという対立において、キリトは明確にゲーム側に適応した人間として描かれる。
特にそれが明らかになるのは現実に戻ってきた回だ。キリトはSAO内に建てた家が崩壊する悪夢を見ており、SAOからの離脱がネガティブなイベントとして認識されている様子が伺える。
その後、ナーブギアの再装着時に「もう一度俺に力を貸してくれ」と語りかけるのがかなりキている。キリトにとってナーブギアは何年もの間自分の命を支配していた悪魔の拷問装置ではなく、自分自身をエンパワーするデバイスとして認識されているのだ。スゴウでさえも「キリトにもう一度ナーブギアを付ける勇気はない」と的外れな見解を述べており、仮想世界に適応しきってしまったキリトの異常性が陽に描写される。

こうしたキリトの振る舞いに対し、対抗する主張は妹から提出された。
妹はゲームと現実の距離が近付きすぎたことによりキリトが実兄であることを知り、失恋して深く悲しんでしまう。妹にとっては仮想と現実は完全に切り分けたままの方が幸せだったはずで、それはゲームと現実を一致させることの弊害だ。妹との関係からは、「必ずしも100%適応する必要はなく、仮想は仮想のままの方がよいこともある」という問題提起が読み込める。
俺はこれがALO編で最も重要な議論だったと思うのだが、しかし、この論点は大して掘り下げられることもなく終わってしまった。この話は「全部終わったらちゃんと話そう」的な感じで棚上げになり、オタクくんの告白とかラスボス戦とかがあって有耶無耶になってしまった。

Augment(拡張)の思想

最終話においては、カヤバが提供したTHE SEEDにより無数の仮想空間が繋がり、連続性のある世界を体現した。これは「現実と仮想で世界が変わってもそれをプレイする主体は一貫している」という思想に基づくものだ。この思想は珍しくSAO編でもALO編でもブレていない。それが最もわかりやすいのは「容姿が現実世界と同じ」というSAO編での破滅的なアバター設定だが、キリト自身がゲーム内での倫理性を現実世界と連続的に理解していることはSAO編でNPCの扱いやアスナとの恋愛を巡って論じられるほか、ALO編でもPKの否定に際して語られた。
特に、第6話の圏内殺人事件の顛末はかなりよく描かれていた。このエピソードでは「物と破壊エフェクトと人間の死亡エフェクトは非常によく似てはいるが、事態としては全くの別物である」ということが事件の鍵になった。仮想空間内でも人間に対するリスペクトを維持しなければならないことが、デスゲームとしての生死の連動以外からも伺える秀逸なエピソードだと思う。

しかし、こうした貫世界的な主体としてゲームプレイヤーを捉える発想は、オンラインゲームやVRではあまり一般的ではない(と断言するのに抵抗はあるが……)。キリトも慎重に譲歩構文を用いているものの、どちらかと言えば仮想空間では現実の枷を捨ててやりたい放題に全くの別人格でロールプレイを楽しみたいプレイヤーの方が多いのではないだろうか?
主体には本質的な一貫性を保ったまま世界だけを広げるという考え方は、Virtual(仮想)というよりはAugment(拡張)に近い思想だろう。最初のSAO編が命を賭けているから安易なロールプレイを許さない世界だったのを引きずっているのかもしれないし、そもそも連続性のある世界だからSAO編の設定を作ったのかもしれない。

こうした認識の裏面としては、ALO編での記憶操作への拒絶反応が挙げられる。
ALO編ではデバイスを通じて操作可能な対象が生死や感覚だけではなく感情や記憶にまで及んだ。しかし、そうした操作は倫理を無視した悪役の非道としてのみ描かれ、ポジティブな側面は全く掘り下げられなかった。
これはSFアニメとして見るとやはりかなり異質であるように感じる。攻殻機動隊でもトータル・リコールでも何でもいいが、同じように脳を弄って仮想世界を扱うタイプのSF作品では、記憶の書き換えも技術発展の産物として普通に許容されるか、肯定的な面を探求される傾向にあるように思う。
しかしソードアートオンラインでは、記憶操作技術は悪役のスゴウが用いる脅しでしかなく、アスナが強い拒絶反応を示すばかりだ。それはやはり人間には一貫性が必要だというある種のヒューマニズムが背景にあり、「変わるのは世界だけ、人間は変わるというよりはせいぜい拡張される程度だ」という拡張現実の倫理性を一貫させているからなのだろう。

3.プラットフォーマーの打倒

ソードアートオンラインでは仮想世界は技術的な産物であり、それを創造したプラットフォーマーが神として君臨している。『サイコパス』のシビュラシステムあたりと比べると人格的な神が存在する世界とも言え、人間でしかないプラットフォーマーに生殺与奪を握られている状態でそれにどう対抗するかは興味深い。

補足291:「仮想世界ではプロトコルの創造者が神に等しい」と『serial experiments lain』で政美が主張したことを思い出す。

プラットフォーマーを打倒する手段は、SAO編とALO編で全く異なっている。

カヤバ戦では、キリトは死亡判定というシステムを超えることによってプラットフォーマーの打倒に成功した。この描写に設定的な正当化は行われていないようだが、恐らくそもそも仮想空間が絶対的なプログラム空間ではなく、現実世界のようにある程度のゆらぎを許容する空間として想定されているのだろう。
これは既に述べた、THE SEEDに象徴される世界の連続性を仮定する世界観とも一貫している。世界を貫いて人間のパラメータは拡張されて引き継がれるので、プラットフォーマーが定義していない挙動も人間力で可能なのだ。キリトは「カヤバに勝つにはゲームシステムではなく自分の力で勝たなければ」というような台詞も発しており、システムに制約されない力を発揮する余地という想定が伺える。

一方で、ALO編ではシステムを超えるのではなく、逆にシステムの論理に依拠することになる。追い詰められたキリトはシステムの管理権限をカヤバから受け継ぐことによってスゴウを打倒する。「権限が上なので勝てる」という、システムのルールでプラットフォーマーに対抗しているわけだ。
この変化には理由があったのかどうかはわからない。SAO編のロジックの方が思想と一貫性があって良かったようには思うが、同じことを焼き直すのも面白くないし、続編でもっと掘り下げられるのかもしれない。

4.まとめ

かなり示唆的で色々考えるアニメだったので感想のトピックが取っ散らかってしまった。しかもその中にはALO編でオジャンになったものやきちんと議論されずに放棄されたものもある。
自分のために最後にまとめれば、ソードアートオンラインを評価するポイントは

  • 無双系作品として、チーターというステータスを相対化し、ヒロインとの関係の中でそれを描いたこと
  • 仮想現実作品として、一貫して拡張現実的な思想を持ち、倫理や戦いにおいてもそれを描いたこと

の二点に集約されるように思う。

20/4/25 『バットマンvsスーパーマン』感想 バットマンはアベンジャーズじゃない

バットマンvsスーパーマン

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バットマンvsスーパーマン』を見た。
MCUにだいぶ遅れてスタートしたDC版マルチユニバース作品群(DCエクステンデッド・ユニバース : DCEU)の一つであり、その先陣を切った『マン・オブ・スティール』に続く二作目にあたる。最初はアベンジャーズの劣化だと思ったが、『スーサイド・スクワッド』まで見てから考えると普通に名作だった。

アベンジャーズと同様の政治的な論点

バットマンvsスーパーマン』は前作『マン・オブ・スティール』のクライマックス、スーパーマンが大都市メトロポリスで戦うシーンからスタートする。
『マン・オブ・スティール』においては華々しく活躍してメトロポリスを防衛したスーパーマンであったが、実は戦闘の際に街を破壊して犠牲者も多数出していたことが明らかになる。バットマンことブルース・ウェインの会社及びその社員もスーパーマンの活躍から間接的な被害を受け、ブルースはスーパーマンヴィランと断じて排除に向かうことになる。

こうした対立の基本線からは『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』のソコヴィア協定を思い出さざるを得ない。『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』でもアベンジャーズが活躍した結果として街が破壊され、世論からバッシングされるという全く同じ構図が描かれたのだった。
更にヴィランのレックスが口にする「抑止力」という問題、及び「戦いを終わらせるための抑止力自体が戦いを生む」というジレンマも『アベンジャーズ』『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のヘリキャリアを巡る論点と一致する。

すなわち「強大な力は危険と裏表である」という、MCUではフェーズ2で前景化した政治的な論点がDCEUでは二作目から早くも提示されて問題提起が駆け足で進んでいく。

補足283:なお、アベンジャーズではこの対立に決着を付けられなかった。『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』においてキャプテン・アメリカとアイアンマンが袂を分かつことになった末、『アントマン』で導入された奇跡と実存のステージへ移行することでなし崩し的に解消された。

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また、MCUではこのテーマはクラシカルな愛国者であるキャプテン・アメリカと、現代グローバル企業の社長であるトニー・スタークの対立に代表されたが、DCEUでも同じテーマを論ずるにあたりスーパーマンバットマンのヒーロー像は上手く噛み合っている。
スーパーマンキャプテン・アメリカと同様、ナイーブな連帯を信じられるヒーローだ。彼は異星人であるために愛国者でこそないものの『マン・オブ・スティール』のラストでは「人を信じる」という結論に至っており、恋人・レインとの絆も「レインが一番最初にスーパーマンを信じた」という背景が裏付けている。彼は地球人ではなく圧倒的な力を持つ超越者であるため、自分の盲信に基づいて正義を執行することに迷いがない。
その一方、バットマンは自分自身を含めて誰も信じないダークヒーローだ。彼が戦う理由は個人的なトラウマと異常性に起因しており、超越的な大義からは最も遠い位置にいる。彼自身も含めた異常者同士の対等な信条が衝突する政治的な殺し合いの中でヒーローとヴィランの境界を歩む危ういヒーローがバットマンである。
よって、スーパーマンが表面的な正義を掲げるならば、バットマンはそれを異常者の信条にまで相対化して偽善と一喝できる立場にいる。スーパーマンvsバットマンは正義vs悪という構図に綺麗にハマっており、戦いへの期待は否が応でも高まらざるを得ない。

杜撰な展開と陳腐な結末

しかし、問題提起を終えたあとのストーリーの進みは怪しい雲行きになってくる。
スーパーマンの政治性というテーマが提示される割には、スーパーマンが周囲との軋轢とどう折り合いを付けるのかは一向に描かれないのだ。スーパーマンは自分探しをしたり恋人とイチャついたりするばかりで、あまり地球人の利害関係に興味が無いように見える(異星人だから?)。中盤ではアメリカ政府によって公聴会が開かれ、極めて政治的な場に召還されたスーパーマンがようやく立場を釈明するのかと思いきや、自爆テロが起こって一言も発さないうちに全てが有耶無耶になってしまう。

それでもタイトルが『バットマンvsスーパーマン』である以上、この二人が戦わないわけにもいかない。クライマックスではバットマンとスーパーマンが遂に対面してそれぞれの信条を戦わせる……というよりは、話を聞かないバットマンが一方的にスーパーマンをボコるだけだ。やはりスーパーマンからは思想らしい思想が見えてこない。

結局、この二人は母親の名前が「マーサ」であるという共通点を発見したことで和解する。
母親を救いたいスーパーマンの気持ちにバットマンが共感して一転して協力的になるという杜撰な展開で、真のヴィランを倒すという陳腐な結末へと突き進む。スーパーマンが相討ちで死んだ墓前でバットマンは「彼の遺志を継ぐ」などと喋っているが、最初の「強大な力は危険と裏表である」という問題はどこに行ってしまったのだろうか。スーパーマンが冒頭で街を破壊した問題は全く解決されていないはずだが、同じことが起きたらバットマンはどうするのだろうか。

以上、政治的な論点を提示する割には、「母親の名前」という極めて個人的な事情に和解の理由を帰着し、何も問題が解決していないままお茶を濁す駄作だなというのが第一印象だった。

しかし、バットマンアベンジャーズではない

しかし一晩眠ってよく考えた結果、思い直したのは「バットマンアベンジャーズではない」ということだ。アベンジャーズは政治的な問題に対処しなければならないかもしれないが、バットマンは必ずしもそうではない。

アベンジャーズは元々地球を危機から救うために組織された極めてパブリックなヒーローだ。人類全体の復讐者、地球の防衛者、人類全体の平和と存続に責任を負った管理団体。よって、彼らの活動によって却って人類に危険をもたらすことは大問題になるし、人類の永続的な安全確保のために社会的な軋轢も含めて対処する義務がある。
しかし、バットマンはそうではない。彼は人類を守りたいとか正義を体現したいとかではなく、幼少期のトラウマによって悪を憎んでいるという個人的な動機がオリジンだ。彼は極めて個人的な動機で行う「悪行」がたまたまゴッサムシティの利害と噛み合っているだけで、本質はむしろそのプライベートさにこそある。

よって、アベンジャーズが「人類を守れるか」という公的な結果を重視する一方で、バットマンは「自分の異常性に従っているか」という私的な動機を重視するという大きな違いがある。ここに真逆の価値観があり、これを踏まえるならば『バットマンvsスーパーマン』はMCU的には駄作でもDCEU的には名作と解する余地が出てくる。

実際、スーパーマンの「母親を救いたい」という意志を知ってバットマンが協力的になるのは、「バットマンは行動の動機だけを重視する」ことを示している。
バットマンがスーパーマンに対して本当に怒っていたのは「スーパーマンは人間を何とも思っていない」と誤解していたからに過ぎない。「母親を思いやる気持ちがある」という動機さえ承認できれば、いくら街を破壊していようとそれはバットマン咎めるところではないのだ。
バットマンは動機さえ正しければ、手続きの不当性や破壊的な結果には目を瞑る。実際、彼だって自分の欲望に基づき、不法な手段で不当な私刑を行っているのだから。

MCUアベンジャーズは結果と公正を重視する一方で、DCEUとバットマンは過程と欲望を重視する。その差異を踏まえれば、『バットマンvsスーパーマン』はバットマンのヒーロー像を大切にしてアベンジャーズとの差別化を図った名作として評価できる。

スーサイド・スクワッド』に見る動機と欲望の論理

そしてこの解釈は続編『スーサイド・スクワッド』で更に強化される。

スーサイド・スクワッド』でも、主人公のヴィランたちが最終的にフラッグ大佐への協力を決めた理由は「フラッグ大佐が自分の女のために戦っていることを認めたから」だった。それまではヴィランたちは政治的な利害調整(尻拭い)のために命を人質に取られて戦っていることを不服に思っていたのに、フラッグ大佐が自分の欲望を正直に語るや否や一転して敵を打倒すべく力を合わせることになる。言うまでもなく、この流れは『バットマンvsスーパーマン』における和解と全く同じ構図だ。
ここで表されているのは、バットマンと同様の動機=欲望への徹底したリスペクトに他ならない。市民のために大義を掲げるフラッグ大佐は信用できないが、世界の危機を巻き込んででも自分の女を救いたいフラッグ大佐は信用できる。根本的な欲望に素直であること、それがどれだけ破滅的な結果を招こうとも動機に正直でいることがDCEUでは重要なのである。

スーサイド・スクワッド』のラスボスであるエンチャントレスがヴィランたちの夢をバーチャルに叶える能力を持つのもそれを踏まえている。
エンチャントレスが見せる理想像の幻想は皆の欲望を外部から踏みにじるものであり、動機を抹消してしまうという点で糾弾されるべきものなのだ。エンチャントレスの能力はバットマンからヴィランたちにまでDCEUで通底する価値観に対する敵である。

補足284:クライマックスでハーレイ・クイーンが発した"You messed with my friends!"を「友達いじめんな」と訳しているのはほとんど誤訳だと思う。力点は"friends"ではなく"messed with"にあるはずだからだ。エンチャントレスが幻想を見せることで欲望を翻弄し、個々人の根源的な人生の動機を軽視して踏みにじることが問題なのだから、「私たちを舐めるな」くらいが妥当。

ラストシーンでは、牢屋に乗り込んできたジョーカーがハーレイ・クイーンを救出する。
この二人の愛はフラッグ大佐とジューン・ムーンの愛とパラレルだ。二組とも、その愛ゆえに世界を破壊していくのだが、その欲望が真正である限りはリスペクトされなければならない。バットマンが自身のトラウマに従ってヴィランを捕まえ、スーパーマンが母を愛するが故に戦うのと同じである。
個人的には、結果と公正よりも動機と欲望を尊重するDCEUの論理はMCUよりも好ましく思う。