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20/4/21 2020春アニメの感想(2/2) プリンセスコネクト!Re:Dive/かぐや様は告らせたい?/乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…/ギャルと恐竜/放課後ていぼう日誌

2020春アニメ感想(続)

saize-lw.hatenablog.com

前回の続き。

プリンセスコネクト!Re:Dive

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面白かった。多分全話見ると思う。

男主人公の処理がものすごく上手くて感心した。
美少女ソーシャルゲームが完全にオタク界の市民権を得た昨今、メディアミックス展開時のアニメ化において男主人公をどう処理するかという問題は重要だ。美少女ソシャゲなんて基本的に美少女をガチャで引いて収集するフィギュアケースに申し訳程度の説明書きを添えた程度のもので(もちろんタイトルにもよるが!!)、男主人公は彼女らを鑑賞するプレイヤーの視点として便宜的に付け加えられるに過ぎない。コンテンツの中核は美少女なのだから、男主人公には彼女らと必要以上に干渉しない存在感の薄さが要求される。
よって、アニメ化の際に男主人公を第三者視点から描いてしまうことは大きなリスクだ。ゲーム上では存在感が薄くプレイヤーと同化していた男性キャラが、突如意志を持って美少女動物園を侵略してくることがどれほど不愉快かは語るまでもない。実際、美少女ソシャゲをアニメ化する際には男主人公をオミットするのが最適解の一つであり、その方策を採用した前例は『ガールフレンド(仮)』『艦これ』『アズールレーン』などいくらでもある。

しかし、『プリコネ』ではアニメ版でも男主人公をきちんと立てる方針を採用した。
元々Twitter上では赤ちゃんネタがそこそこ面白がられていた「騎士くん」ではあるが、アニメを見てすごいな~と思ったのはニコニコのコメントやまとめブログの反応がかなり好意的なもので占められていることだ。上に貼った画像のように、主人公が頑張るシーンでは「えらいぞ」「かしこい」「かわいい」などの応援弾幕が流れてくる始末だ。これは本当に奇跡的なコンテンツコントロールであり、背後には相当高度なキャラクリエイト思想があると俺は踏んでいる。

騎士くんを美少女動物園に馴染ませるにあたり用いられている技法は基本的には「男主人公を萌えキャラする」というようなものだと思う。
「騎士くん」は美少女たちと干渉しないようにマッチョな男性性がとにかく排除されている。「記憶が混乱している」という設定を盾にして、一見すると知的障碍者に見えるレベルにまで発話能力を下げる。徹底的な無害さの演出、幼児レベルのナイーブな倫理観、バッファーとしての才能=アタッカーとしての非力さ。

特に最後の一つは原作から受け継がれたもので、ゲームにおけるジェンダーロールという観点から見てもかなり面白い。
『プリコネ』ゲーム版はユニット編成型のコマンドバトルなのだが、男性の主人公は後方支援魔法のプロであり、美少女キャラクターたちが武器を持つ前衛アタッカーという役割が固定的に割り振られている。古典的なRPGのイメージでは女性キャラクターはメディックや魔導士などのヒーラー・支援職を割り振られがちなことを踏まえると、いわゆるジェンダーロールが転倒している様子が伺える。

補足282:とはいえ、オタク界にはビキニアーマーのような「戦闘美少女」のフェチズムが古来から脈々と受け継がれていることも事実だ。よって無数にあるはずの例外を前にして迂闊なことはあまり言えないのだが、少なくとも偏狭な家父長制の価値観においては会社で「戦う」のが父親、家で「支援する」のが母親であるくらいのことは言ってもいいだろう。

もっとも、それは恐らく「(男の活躍なんて見たくないから)美少女に前線で活躍してほしい」という商業的な要請が先行して生まれたゲームシステムであって、男女のジェンダーロールを逆転させようなどというフェミニズム的意図があったわけではないだろう。しかし、アニメ版ではそれを更に強化して男性のジェンダーロールを完全に破壊することにより、第三者視点からヘイトを逸らすという副次効果が得られていると見ることはできる。

かぐや様は告らせたい

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面白いかどうかよくわからないが、たぶん漫然と全話見ると思う。

『かぐ告』に関しては、俺は原作漫画も読んでいる結構なファンだ。以前、「赤坂アカの前作『ib-インスタントバレット-』を踏まえると『かぐ告』ってセカイ系を葬送する作品だよね」という話を書いたこともある。

saize-lw.hatenablog.com

前作の内容も含めた入り組んだ話なので、詳しくは上の記事を読んでほしい。
簡単に要約すれば、『ib』の主人公たちが謳歌していた「世界を巻き込む特別な恋愛」のゼロ年代はもう終わってしまったということだ。『かぐ告』の主人公たちも「特別な恋愛」に憧れているからこそ「普通の恋愛」を拒絶するのだが、彼らが思い描く特別は歪んでいていつも上手くいかない。彼らはその挫折に困惑しながらも、結局は普通に告白して普通に付き合っていくことになる。この意味で、『かぐ告』はセカイ系の残党が平凡な人生を受け入れていく過程を描いたポスト・ゼロ年代作品でもある。

また、アニメ二期のタイトルである最後の「?」は原作カバー裏に頻出する自虐ネタを踏まえたものだ。連載が進むにつれてかぐやと白銀が割と普通にベタベタするようになったことを受けて、「言うほどかぐや様って告らせたいか?」「これってもう天才たちの恋愛頭脳戦じゃなくないか?」とタイトル詐欺を自問自答する思いが「?」に込められている。

そしてその反省は単なる自虐ネタに留まるものではなく、赤坂アカの実存的な動揺が確実に滲み出ていると俺は踏んでいる。
赤坂アカ自身が『ib』=コテコテのセカイ系作品に熱烈に執着していることはファンの間では有名だ。『ib』は人生を賭けた作品であり、打ち切られても諦めずに続編を描こうとしていることは『ib』最終巻のあとがきにはっきりと記されている。それは最近でも一向に変わっておらず、今でも折に触れて『ib』のツイートをしているくらいだ。

しかし既に書いたように、『ib』が特別な恋愛を描く作品である一方、『かぐ告』は特別な恋愛を諦めて普通の恋愛に向かう作品なのだ。口先では『ib』を描きたい描きたいと言っておきながら、『かぐ告』は『ib』を裏切る方向にどんどん展開していくことに対して作者自身が一番困惑していて、それがカバー裏の自虐ネタに表れているのだと言えば邪推の行き過ぎだろうか?
赤坂アカが『ib』を復活させたとき、それはかつてのセカイ系の輝きを取り戻せるのか、それとも『かぐ告』と同じように挫折して変質していくのかは一度見てみたいところだ。

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…

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かなり面白い。全話見ると思う。

「女主人公で異世界無双転生系の需要が高い」みたいなことは以前に『防振り』の記事でも書いたが、この需要に応えているジャンルの一つが「悪役令嬢もの」であることは間違いない。

俺は少女漫画にはあまり詳しくないのだが、「悪役令嬢もの」は基本的には少女漫画の文法を踏まえた女性向けジャンルであるらしい。乙女ゲームとか夢小説の女性主人公には2パターンあって、皆に愛されるモテカワなタイプと、芯が強くてはっきり言うタイプがある(跡部景吾に「俺に意見する女は初めてだ」とか「おもしれーやつだな」とか言われてるやつ)。後者のタイプが「強い女性」として異世界転生無双ブームと融合して悪役令嬢転生というジャンルが誕生したという経緯であるらしい(知らんけど)。

その真偽はともかく、強い女性が無双しているだけで大満足なので、これからも楽しみに見ていきたい。

ギャルと恐竜

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かなり面白い。多分全話見る。

アニメパートはそんなでもないけど、蒼井翔太とか見栄晴がワチャワチャやってる実写パートが本当に面白い。内容自体はコテコテのループもの・パラレルワールドものなのだが、明らかにギャグとして扱っているのが見ていて気持ちいい。元々ループものが一種のメタフィクションであることを踏まえると、それを更に俯瞰する『ギャルと恐竜』はメタ・メタフィクションと言えようか。

なんというか、ループものアニメって何となく「深い」作品になりがちなのだが、『ポプテピピック』から『ギャルと恐竜』への流れで試みられているのは明らかにそういう「深い」ループではない。むしろ徹底的に「浅い」、それっぽい描写を組み合わせたキッチュな粗悪品、上滑りするギャグだ。視聴者も制作者も、『ギャルと恐竜』は『シュタゲ』のように本気でループをやっている作品ではないことは了解している。

ループものに実質的な内容を充填せず、形式的な演出だけをジャンブルにしたイメージの総体が『ギャルと恐竜』だ。ループものを良い意味では解体し、悪い意味ではバカにしている。押井守の『天使のたまご』と言うと流石にちょっと言い過ぎだが、ソリッドな物語もある種の拘束であって、そこから上手く抜け出すことは新鮮な解放感をもたらすのかもしれない。

こういう実験的なアニメの枠、毎期一本くらいあってほしいなあ~。

放課後ていぼう日誌

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面白くはなかった。多分二話以降は見ない。
萌えオタクなので女の子が可愛ければ内容問わず見ていた可能性が高いが、キャラデザもそんなに好みではない。上の画像の、主人公が(これだから田舎の野生児は……)って心中で毒づくシーンだけは結構好き。

一話切りする癖にゴチャゴチャ言うのは気が引けるが、主人公が「ぬいぐるみ趣味」を保留して「釣り趣味」に向かうのって、デフォルメされた虚構と生きて臭いを発する現実を対比する意図があるのだろうか。もしそうだとすれば、主人公がぬいぐるみから釣りに軸足を移すことには「現実に帰れ」という自然主義的なイデオロギー(?)を感じてしまうのだが、これは俺の被害妄想か?

20/4/19 2020春アニメ感想(1/2) かくしごと/遊戯王セブンス/シャドウバース/球詠

2020春アニメ感想

今期は精神的に余裕があり視聴アニメが多い。1話を見たアニメは

  1. かくしごと
  2. 遊戯王セブンス』
  3. 『シャドウバース』
  4. 『球詠』
  5. 『プリンセスコネクト!Re:Dive』
  6. かぐや様は告らせたい?』
  7. 『ギャルと恐竜』
  8. 乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』
  9. 『放課後ていぼう日誌』

の9本あり、簡単にファーストインプレッションを前後に分けて書こうと思う。ちなみにどれもまだ1話か2話までしか見てない(基本的にニコニコ視聴なので少し遅い)。

かくしごと

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かなり面白い。多分全話見ると思う。

単体の作品としてどうかというよりは、久米田康治が今更こういうベタな親子愛を描くことに関心がある。『絶望先生』までと比較して、全体的に『かくしごと』ではメタ意識が退潮してベタな感情模様が強調されている。

元々、久米田は『行け!!南国アイスホッケー部』後半から始まり『かってに改蔵』を経て『絶望先生』まで、自分の掲載誌やオタクジャンル、果ては自分の作品そのものまでも自己反省するメタポジションを描き続けてきた。
しかし、『せっかち伯爵と時間どろぼう』では「一年しか生きられないので時間を大切にする」という割とシリアスな基本設定が登場する。それは『かくしごと』における「娘を溺愛する父親」と同じだ。ここで言う「割とシリアス」というのは「茶化されない」という意味で、絶望先生は自分の自殺願望を茶化せたが、カクシ先生は自分の娘への愛を茶化せない(俺が見てないところでしてたらごめん)。キャラクターの設定がベタに真剣なもの、メタな嘲笑を許さないものに変わりつつある。
また、精神的に未熟な女子小学生キャラクターが集団で登場してくることにも同じ流れを見る。今までの久米田作品なら女子小学生は却って現実味の無いニヒルな態度を取る方が自然なように思うのだが、『かくしごと』では純粋に幼いキャラクターとして短絡的な行動を取っている。見た目通りの直截なキャラクターを描くことに対する「気恥ずかしさ」が無くなっているという印象を受ける(「気恥ずかしさ」とは、自分の行動のベタさを相対化して一歩メタな立場から見たときに生じる感情である)。

こうしたポジションの変化は、『スタジオパルプ』でメタ視点がその極致にまで達してしまったことを踏まえているのかもしれない。
『スタジオパルプ』はマイナー誌掲載で知名度もあまり高くないが、「今までの久米田作品のキャラクターは全て役者だった」という衝撃的なメタフィクションコメディだ。絶望先生も生徒たちも改造も羽美ちゃんもそういうキャラクターを演じていた別名の役者に過ぎず、本当はそんなキャラクターはいなかったのだ。もともと『改蔵』や『絶望先生』の最終話では夢オチ的なちゃぶ台返しを好んでいたが、それを徹底的に推し進めたものがキャラクター自体の否定である。

『スタジオパルプ』がメタ設定を限界まで加速させて一度全てを御破算にしたあと、今度は更地に改めてベタなものを再建してきているのが『かくしごと』なのかもしれない。

遊戯王セブンス

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かなり面白い。多分全話見ると思う。

カードゲーム史に残る新たな挑戦としてラッシュデュエルの立ち位置を定位しようとする強い意志が伝わってくる。
周知のように、ラッシュデュエルは決して新興カードゲームではなく遊戯王コンテンツが時代に即したルールを改めて創造したものだ。購買が分散するリスクを負ってまで「互換性のない類似カードゲームを作る」という商業的にもチャレンジングな試みの下、ルールを再創造する遊我とKONAMIカードゲーム事業がパラレルであることは言うまでもない。
また、ラッシュデュエルは直接的には旧遊戯王の乗り越えだが、実際の射程はもっと広い。実際、ラッシュデュエルが提示するラディカルなゲームルールにはMtGからシャドウバースに至るまで古今の人気カードゲームに対する問題意識を読み込める。デジタルカードゲームの普及・それに伴うプレイ感覚の変化・競技シーンのe-sports興行化など、カードゲーム界に激動が起きている中で覇権ポジションにいる遊戯王がアニメとカードの両面から革新を試みる極めて同時代的な作品として理解すべきだ。

遊我やKONAMIが強調するラッシュデュエルの特長は以下の二点に集約される。

・大量召喚:早い段階から一気に盛り上がれる
・大量ドロー:どこからでも逆転できる

いずれもカードゲームの基本理念に含まれる特徴ではあるが(盛り上がらないし逆転できないカードゲームなんて存在しない)、これらはプレイヤー目線というよりは興行化目線で強化されたコンセプトという印象を受ける。
つまり、早い段階から一気に盛り上がったり逆転があったりすると嬉しいのは、「カードゲームをプレイしているプレイヤーにとって」というよりは「興行として観戦している観客にとって」だろうということだ。例えば、「どこからでも逆転できる」というのはプレイヤーにとっては必ずしも嬉しいわけではない(いつでも逆転されてしまうことはプレイヤーが優勢を取るモチベーションの低下に繋がりかねない)。しかし、どちらのプレイヤーでもない観客にとっては、盤面は目まぐるしく動いた方がエキサイティングに決まっている。
このように見れば、ArcVが盛大に失敗した「興行化」というモチーフについてルールのバックアップを備えてリベンジしている作品と取ることもできる。

とりわけこのアニメが優れているのは、ゲーム展開の中で実際にラッシュデュエルが掲げる特長の必要性を描いていることだ。具体的に言えば、例えば「5枚ドロー」とは「逆転要素に欠ける」という既存カードゲームが持つ問題点の改善なのだった。それに対応して、アニメ内では「1枚ドローではとても足りず5枚引かなければ逆転できない」という描写をきちんとやっているのだ。
例えば、第1話では遊我が2回目のドローフェイズで解決策を求めて初めて5枚ドローを披露する。しかし、このドローではキーカードであるセブンスロード・マジシャンを引けない。引いたモンスターのうちからモンスター効果を用いて、手札コストを支払ってから追加ドローすることで初めてセブンスロード・マジシャンを引くことに成功する。
「通常ドローではキーカードを引かず、手札コストを要求するカード効果でようやく引く」という描写により、通常ドローのウェイトを下げて大量の手札を上手く扱う必要を描いている(質より量、5枚ドローの合理性)。
ただ、第1話で唯一不満だったのは、結局セブンスロード・マジシャンによる墓地送り効果で勝負が決したことだ。「デッキトップを墓地に送る」という効果でランダムに落ちたカードによって勝利が確定する展開は、デッキトップに全てを賭けるトップドローと大差がない。

しかし、この難点も第2話で明確に解決された。
第2話のデュエルでは、遊我はまたしてもセブンスロード・マジシャンの墓地送りに勝敗を賭けるも、それに失敗し、返しのターンできっちり咎められて捲られる。これがデッキトップに頼ったものの末路であり、やはりデッキトップは機能しないことがきちんと描かれているのだ。
更に凄いのは、デュエル展開をよく見ると、セブンスロード・マジシャンの効果に頼らずに確実に勝利する手段があったことだ。つまり、遊我はトップ墓地落としに頼らなければ勝っていたにも関わらず、カードゲームアニメの主人公として劇的な勝利を演出しようとしたが故に失敗して負けたのだ。この展開が従来のカードゲームアニメのトップ信仰に対するアンチテーゼでなくて何だろうか。

以上のように、遊戯王セブンスではラッシュデュエルの思想が明確化される共に、ゲーム展開を通じてカードゲームのシステムやカードゲームアニメにまでラディカルな問題提起を突き付けてきている。続きが楽しみだ。

シャドウバース

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面白くはなかった。二話以降も見るが、最終話まで見るかはわからない。

全体的に既存カードゲームアニメへのリスペクトが非常に強く、どこかで見たようなキャラクター・言動・バトルシステムで構成されている。低年齢ホビーアニメ路線そのものを含め、最大公約数的なアニメを作ろうという判断があったのかもしれない。

しかし、俺はシャドウバースには「デジタルカードゲームの王者」としてのアニメを期待していた。物理カードが存在しないカードゲームの日本サブカルチャーでの先駆者のアニメとして、既存カードゲームアニメと差別化したカードバトルをどのように描くのかが楽しみだった。
が、このアニメでは全体的に物理カードが存在するかのような描写が押し出されており、モンスターのソリッドビジョンや手札の配置を含めて何も新しいところがない。特に、物理的には何も引いていないのにドローの動作をするのはやりすぎだ。他のカードゲームアニメも近未来感を押し出すにあたり描写上は既に物理カードから離れつつあるのも逆風である。

また、ちょうど遊戯王セブンスと同じ時期に開始したというポジションが非常にまずい。
シャドウバースは既存カードゲームアニメの最大公約数的文法にこだわったため、(上で述べたように)既存カードゲームへの問題提起を行う立ち位置にある遊戯王セブンスが問題点として指摘した部分が全て直撃してしまっている。対立煽りをする気はないのだが、どうしてもシャドウバースと比較すると遊戯王セブンスの優位点がわかりやすくなってしまう(遊戯王セブンスが「王道へのアンチテーゼ」であり、シャドウバースが「王道」であるため)。

例えば、シャドウバースはマナコスト制でゲームの初速が遅い。遊戯王セブンスが特徴として掲げる「最初から盛り上がれる」に該当せず、もっとはっきり言えば「最初からは盛り上がれない」という反省が直撃する。
シャドウバースはカードゲーム全体の中では比較的ゲーム展開が早い方だが、それでもラッシュデュエルと比べるとかなり遅いのだ。実際、遊戯王セブンスでは僅か3ターン程度で決着するために省略無しで全てを描き切れた一方、シャドウバースでは放送時間枠に収まらない中盤戦はダイジェストで省略することになってしまった。

更に言えば、1ドローしかないシャドウバースのバトル展開がトップドロー頼りになっていることも遊戯王セブンスと比べるとどうしても見劣りしてしまう。
既に述べたように遊戯王セブンスではトップドローを否定する周到な描写を施しているのだが、逆にシャドウバースでは主人公のヒイロがフィニッシャーのなんとかドラゴンを引いてくるシーンは常にトップドローだ。そういうトップドローのご都合展開感とリアリティの無さをまさに指摘したのが遊戯王セブンスなわけで、シャドウバースの立つ瀬がない。

球詠

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面白くなかった。二話以降は見ない。
萌えオタクなので女の子が可愛ければ内容問わず見ていた可能性が高いが、キャラデザもそんなに好みではない。

競技系作品の冒頭にありがちな「ガチ勢とエンジョイ勢がどうやって折り合いを付けるのか」というモチーフには個人的に興味があり、何か新しい提案がないかどうか注目していることが多い。
しかし、球詠のように葛藤なく素朴なガチ勢側の論理が勝利しがちだ(「真剣であることは素晴らしい!」)。それは多様な利害を無視した閉鎖的で一面的な称揚に他ならず、そういう自明視される自己目的性にこそ問題意識を持ちたいと思っている。

20/4/12『マギアレコード』の感想 魔女システムのハッキングと願いの不成立

・マギレコの感想

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ようやく『マギレコ』を全話見ました。面白かった、みたまさんが良いね。

まどかマギカ』シリーズ、アニメ媒体の正統なナンバリングは全て追っているつもりだが、外伝が多すぎてよくわからないことになっている。具体的に言うと、本編と映画は全部見たが、スマホのマギレコ含めてゲームと漫画には一切触っていない。

まどマギ』が「王道と見せかけて邪道」という逆張りスタイルだったので『マギレコ』はどっちから始まるのかとワクワクしていたが、冒頭はとりあえず魔女との華やかな戦いからスタートした。
このまましばらくはいわゆる魔法少女っぽいことをやるのかと思いきや、第1話で早くもクロエちゃんが魔女との戦いに対する疲れを表明する。彼女は「願いなんて叶わなければよかった、魔法少女になったって死んじゃったら何の意味もない」と語り、魔法少女は救済されたいという基本線が強く提示される。ソウルジェムや魔女化といった核心についての説明は第12話まで待つことになるが、少なくとも魔法少女が願いの代わりに押し付けられたコストを部分的に認識している、本編で言うところの第3話以降の段階からスタートする。
その後、しばらくは章立てのゲームシナリオらしく2話の前後編構成で「街の怪異に潜む原因を倒す」という無限に既視感のある筋書きで話が進行する。怪異の原因は魔女ではなくウワサであり、更にその黒幕には「魔法少女の救済」を掲げるマギウスなる組織がいることがわかってくる。

最も衝撃的だったのは、魔女システムがハックされていることだ。
魔女は本来は魔法少女の末路であり制御不能な敵だったが、神浜市では魔女の力を「ドッペル」としてコントロール可能なことが判明する。他にもマギウスの面々は魔女を使役して戦っており、もはや魔女の力は武力として使用できる道具と化している。

元はと言えば、魔女システムとは「願いのリターン」を受け取る代わりに「魔女化のコスト」を支払うキュゥべえとの契約である。
魔法少女が願いを何でも一つだけ叶える代わりに、魂のソウルジェム化・魔女との戦い・潜在的な魔女化の脅威などの諸々のリスクを引き受けることになるわけだ。この取引は売主であるキュゥべえと買主である少女の間で取り交わされ、(多少の説明不足があるとはいえ)概ね強制の伴わない契約自由の原則に基づいている。

このように魔女システムを等価交換的な契約と見たとき、「ドッペル」を筆頭とするマギウス勢力によるシステムのハッキング行為は契約の一方的な破棄に相当する。魔女化を拒絶することによって、コストの支払いを踏み倒しているのだから。
よって、このときただちに問題になるのは、「リターンのみ受け取っておきながらコストだけ破棄するのはアンフェアではないか」ということだ。魔法少女キュゥべえに願いを叶えてもらっているはずなのに、いざコストを支払う段階になったら踏み倒すというのは筋が通らない。「魔法少女を魔女化から解放する」というマギウスの理念は単なる契約破りであって、社会的に考えると真に邪悪なのはマギウスではないかという気もしてくる。

しかし、ここで重要なのは、契約においてコストの踏み倒しが不当であるのは、事前にリターンを受け取っている場合に限られるということだ。逆に言えば、正しくリターンを受け取っていない場合はコストを踏み倒しても問題ない。商品が届かないのにお金を払う必要はないのだ。
契約としての魔女システムにも同じ論理が適用できる。もし願いの対価を受け取っていない魔法少女がいるとすれば、彼女が魔女化の支払いを踏み倒すのはむしろ全く妥当ではないか。そう思って見ると、「実は願いのリターンを受け取っていない魔法少女」というモチーフが見えてくる。

それが最もわかりやすいのは主人公のイロハだ。
イロハは物語開始時点から魔法少女であり、以前に何らかの願いを叶えてもらっていることは確かなのだが、「彼女自身すら願いの内容を知らない」という異様な状態にある。第2話でそれは「妹のウイの病気を治す」であることが判明するものの、肝心のウイが誰なのかがよくわからない。ウイについては断片的な夢と記憶があるだけで、皆で探しても見つからず、手がかりが見つかりそうになるたびに失われ、最後までウイまで辿り着けない。イロハは「ウイの病気を治す」という願いが正しく履行されているのか確かめられないし、元気なウイの姿を見ることもできない。それは果たして「願いが叶った」と言えるだろうか?

裏主人公らしきヤチヨも同様である。
ヤチヨの願いは「リーダーとして生き残りたい」だが、それは「リーダー以外を犠牲にする」と裏表であり、本来望んだような効果が得られないことに強く苦悩している姿が描かれる。恐らくヤチヨの場合は願い方に問題があり、本当に実現したかった状態が実現されていない。
ヤチヨもまた願いの正当な対価を受け取ったとは言い難いキャラクターであり、契約のリターンを享受していない買主として理解できる。

イロハとヤチヨは最終戦ではドッペルをかなり自由に扱える状態に至る。ドッペルを使用することは魔女化のコストを支払わないこととイコールであり、この二人は契約を踏み倒す買主だ。
しかし既に述べたようにこの二人は願いからのリターンをきちんと受け取っていないので、コストを支払わないことにも納得できる。不当な契約は一方的に破棄する権利があるし、踏み倒しは対価の不在によって正当化される。機能しない願いに値段は付かない。

本編でひたすら繰り返された噂のモチーフにも「願いそのものに最初から自壊と挫折の契機が潜在している」という点が共通している。
最もわかりやすいのは「フクロウの幸運水」だろう。幸運水を飲むとしばらくはラッキーのバフがかかるが、24回分の効果が切れた瞬間に不幸が降りかかってくる。幸運という最初のリターンのうちに既にそれを消費して自壊する結末が含まれているのだ。これが願いを叶えることに周囲の犠牲という不幸を含むヤチヨの願いと同型であることは言うまでもない。
「口寄せ神社」でも、「死んだ恋人に会いたい」という願いは暗黙に偽物との出会いを含意している(死者に出会うことはできないのだから)。最初の願いそのものが矛盾を孕んでおり、本来の願いとは異なる形でしか実現されない。「ひとりぼっちの最果て」でもアイの「塔から飛び降りた人物を幽閉する」という機能は成立に際して「飛び降り」を前提とする。つまり自殺を決行した人に対してしか発動しないはずで、自殺という強い意志的な行為=願いを妨害する性質を持っている。

こうした、「願いそのものが自己矛盾している」という『マギレコ』内で随所に見られるモチーフの萌芽は『まどマギ』本編にも見られる。
例えばサヤカの願いは「恭介の腕を治す」だが、腕が治った恭介がヒトミと付き合ったことがサヤカの魔女化の大きな要因となった。ヒトミに恭介を取られるのが魔女化するくらいショックなら最初から「恭介と付き合う」ことを含む内容を願っていればいいはずで、本当に望んでいることと実際に叶えた願いの間には乖離がある。
とはいえ、それはサヤカが願う内容を間違えてしまったということに過ぎない。サヤカに比べ、ヤチヨの願いの挫折はもっと根本的だ。改めて比較すると、ヤチヨの願い「リーダーとして生き残る」は、その内容のうちに「周囲を犠牲にする」を暗黙に含んでいたためにうまく作動しなかった(と、少なくともヤチヨ自身は感じている)。一方で、サヤカの願い「恭介の腕を治す」自体は完全に履行されている。そこから派生して恭介との恋愛が成就しなかったのは契約とはまた別の問題だ。サヤカは契約のリターン自体はきちんと受け取っている。
その差異にこそ『まどマギ』から『マギレコ』への願いの変質、およびそれに伴うマギウスの発生を見ることができる。

補足279:「心の中で本当に叶えたかったことと願いの文面上で要求したことが一致しない」という言語的な情報伝達に困難を見るならば、これはコミュニケーションの問題でもあるだろう。キュゥべえが昔から誤解を招く言い回しを多用するのは、単なるレトリック上の些末な問題ではなく、願いの成立に関わる本質的な困難なのかもしれない。また、チャットボットを用いてコミュニケーション障害を扱う題材としてアイとフタバのエピソードがあったことも覚えておきたい。

総じて、「魔女システムのハッキング」と「願いの不成立」は裏表の関係にある。願いが成立しなかった者にだけ魔女システムをハッキングする権利がある(=リターンを受け取っていない者にだけコストを踏み倒す権利がある)。逆に言うと、ドッペルが成立した背景には願いそのものの変質があったとも言える。

こうした、「契約自体を承認するか否か」というポイントは魔女システムへの対抗戦略の違いにも表れている。
本編において、まどかは「魔女化する前に魔法少女を救済する」という願いを叶えることで魔女システムを破壊した。魔女システムを壊して魔法少女を救うことを目指すという意味ではマギレコにおけるマギウスのドッペルと同じ目的の行為と言える。
しかし、その戦略には大きな違いがある。システムへの信頼という点において、まどかとマギウスの態度はむしろ真逆である。

補足280:まどかもマギウスも、魔法少女に世界の存続や人々の希望といった過剰な責任を押し付け続けてきたことへの反省、魔法少女ジャンルに対するアンチテーゼが背景にあることは共通している。それはまどか自身が魔法少女化に際してはっきり語っているほか、マギレコでも最後の集会シーンで明確に演説されている。

まどかの場合、契約は正しく履行されることを前提としており、システムそのものは信頼しているのだ。まどかが用いた具体的な手続きは「願う」ことであり、その力の源泉はあくまでも魔女システムにある。キュゥべえの意図を超えてもなお願いが完全に履行されるという、むしろシステムの頑健性こそがまどかによるシステムの破壊を可能にしたのだ。魔女システムを徹底的に利用し、特異点まで加速させることで自壊を狙うのがまどかの戦略だった。

その一方、マギウスの場合は契約自体が最初から正しく結ばれていないことに注目する。「契約は正しく履行されない」という前提及び、システムに対する不信がある。マギウスはそもそも魔女システムの有効性を信じていないので、リターンを受け取らない代わりにコスト支払いを拒否できる。実際、マギウスが魔女システムに対抗する手続きはまどかと異なり「願う」ものではない。「願い」というシステムの外部から自分に有利なように契約を書き換え、キュゥべえの与り知らぬ範疇で悪用するのがドッペルだ。だからこそ、これは動作不良を起こしたシステムへのハッキングなのだ。

この構図に照らして考えれば、イロハが最後までウイと出会えなかったことにも納得がいく。
ウイはリターンの不在の象徴であり、最初から無効な契約を構成する空白なのだ。イロハの「ウイの病気を治したい」という願いの文は指示対象を欠いたナンセンス命題であり、そもそも論理的な文章として成立していないので契約を締結しない。これによって、イロハは契約に縛られずにドッペルを行使する権利を得る。なにせ願いが壊れているのだから、コストを支払う必要があるはずもない。

補足281:にわかサブカル精神分析も寒々しいが、「追い求める割に実体がないウイって『対象a』ってこと!?」……と思った人も少なくないのでは。

……と思っていたのだが、どうやらゲーム本編や二期のPVではウイは普通に実体があるキャラクターらしい。別に俺はこのアニメしか見ていないので、偶然の産物でも一向に構わないのだが。

20/4/11『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』感想 楽しく暴力を振るいたい!

防振りの感想

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話は面白くないけど女の子が可愛くて良かった。主人公とサリーちゃんがかなり良い。

一見物腰の柔らかい主人公が本質的には融通の利かない自己完結型の性格をしており、それがタイトルにもある「極振り」ゲームプレイとも整合しているところに好感が持てる。異様なゲームプレイをするプレイヤーはそれなりに異様な性格をしていなければならない。
第2話までサリーちゃんの参加を遅らせ、まず主人公の性格をソロプレイできちんと表現したのが良かった。単独行動でも楽しそう、異様なこだわりを持ち柔軟性を欠くアスペ気質、自分の選択を疑わずに虫やヒドラを食べるなど、いかにも極振りしそうな振る舞いが目立つ。

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一方、サリーちゃんはそんなに尖ってなくて最大公約数的だけど、女性主人公の親友の完成形って感じがする。こういうちょっとボーイッシュで運動神経の良いポニーテールで面倒見のいい女の子がいると女性主人公は捗る。

人間関係が広がるようで全然広がってないのもグッド。
他のキャラクターの振る舞いがコピーペーストしたようにNPC的で、「定期的に主人公を持ち上げる強くて良い人」くらいのステータスしかない。双子とか少年とか色々出てくる割にはビジュアル以外に特に差別化点が無く、最初から最後まで人間同士の関係らしきものは主人公とサリーちゃんの間くらいにしかない。

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中盤までの「二人だけの世界」感が最後まで維持されていたのは本当に嬉しい。

1.異世界転生としての『防振り』

『防振り』は設定的にはHMDを用いてプレイするVRMMOだが、とてもそうとは思えない描写が全編を通して目に付く。

とりあえず誰でもツッコミを入れるのは、インターフェイス周りの適当さだろう。
「頭に装着するだけのHMDなのに明らかにフルダイブしている」を筆頭に、「味覚や触覚はどこから来ているのか」「そもそもどうやって操作しているのか」など、ただちに生じてくる疑問点は数えきれない。

また、あくまでもVRなので外部には操作している人間がいるはずだ。ゲーム内のキャラクターが本当に活動しているわけではないのに、一貫して現実世界への関心が極めて低い。
現実世界に戻るシーンはほとんどなく、あってもギャグシーンが挿入される程度だ。他のキャラクターでそれは特に顕著であり、主人公とサリー以外が現実でどういう人物であるかは描写されないどころか僅かな興味が向くことすらない。炎帝さんはなりきりプレイが熱すぎるし、モブ兵士のゲームプレイモチベーションも不可解だ(せっかくのMMORPGで何故モブ兵士として下働きするロールを?)。

総じて、ゲーム世界というよりは異世界という方がしっくり来る。
上に挙げたような違和感の数々は実質的な異世界転生としてVRMMOを扱う目的が先行した描写であることは明らかで、細かい不整合を突っ込むのも不毛だろう。

よって、『防振り』のジャンル的な立ち位置を今風の無双系異世界転生と捉えたとき、それを女主人公でやることの需要は以前から高かった(俺調べ)。
少年主人公はどうしても鼻に付くが、美少女主人公が強いことは水が流れる如く自然の摂理である。特に前期にその枠だったはずの『のうきん』があまりにもあんまりな内容で空振りしたため、相対的に『防振り』にかかる期待は大きかった。全話が終わった今、『防振り』はその責任を十分に果たしてくれたと思う。

以下、流行りの(?)「異世界転生無双」が美少女verになるにあたり、どんな仕掛けが用いられたのかについて詳しく書いていきたい。

2.VRMMOとしての『防振り』

早速手のひらを返すようだが、『防振り』における美少女無双を考える上で本当に重要なのは、実はついさっき棄却したばかりのVRMMOとしての特徴である。つまり、表面的な無双というモチーフは明らかに異世界転生の文法であるにも関わらず、それに本質的に貢献しているのはVRMMOの文法であるという捻れた構造が背後にある。
よって、まずは『防振り』内で現れていたVRMMO設定由来の描写について確認しておきたい。それは一言で言えば「ゲームはゲームでしかない(リアルではない)」という心構えであり、作中のキャラクターにおいては「背景の欠落」という形で現れてくる。

最もわかりやすいのは主人公とサリーの目的の単純さだ。
彼女らの行動にはゲーム上の目的以上の意味が全く与えられておらず、主人公が発する「勝ちたい」は「ゲームで勝ちたい」という意味でしかない。「ゲーム部の部活で勝ちたい」とか「約束を果たすために勝ちたい」というような他の目的と紐づいていない、自己目的化した目的である。ゲームはゲームでしかなく、それに伴う無駄な背景は欠落しているのだ。
俺なんかはどうしても「主人公とサリーが遠い昔に一緒にオンゲーで遊ぶことを誓った」とか「主人公は実は半身不随でゲーム空間でだけは自由に動ける」みたいな「ゲームに対する深い意味付け」が欲しくなってきてしまうのだが、そういう余計なバックグラウンドが一切ない。それはバトルが佳境に入ってくる後半でも全く変わらず、対NPCでも対PCでも「勝たなければならない理由」「達成しなければならない理由」は特に設定されない。

それは他のキャラクターも同様だ。仲間になるキャラクターでもゲーム外の事情は描写されない。つまり「どうしてゲームをやっているのか」「ゲームに勝つと何が起こるのか」というレベルの目的性は設定されていない。リアルでの事情や固有に抱えている問題も特になく、表面的な性格や口調くらいしかわからない。

そして、最も重要なのは名もなきモブプレイヤーたちだ。主人公や強者たちを持ち上げたり殺されたりするだけのモブにこそ、「ゲームはゲームでしかない」というある種の冷笑的な態度が最も強く現れている。
モブプレイヤーにとってVRMMOはかなり気軽な娯楽であるようだ。モブたちは死んでもヘラヘラとモニターで観戦するばかりだ。勝たなければいけない理由が特にないので、主人公に殺されても笑っていられる。彼らはゲーム内の人生を真面目に生きているわけではなく、殺される立場を謳歌できる。
これは異世界転生ならば起こらないことだ。異世界転生ならば、(そこが現実世界ではないにせよ)モブにとっても現行の人生が唯一の人生であり、自分の人生にはある程度執着するのが自然である。よって、「キルされても別に切実には困らない」というモブの在り方はVRMMO的な特徴を密輸入していると言える。
そして、これが主人公の魔王化に際して決定的に重要な役割を担うことになる。

補足276:なお、今回の本題にはあまり関係ないので補足に回すが、美少女主人公ということに注目したときに異世界転生ではなくMMORPGの形態を取ったことに合理性がある理由としてもう一つ挙げられるのは、「最初に現実世界を不可逆的に離脱する必要がない」という点だ。スバルやカズマのような引きこもりダメンズたちはともかく、親友の美少女がいるような現実世界を謳歌している美少女が死ぬのは忍びない。

3.魔王化という究極の享楽

まず、魔王化に象徴される主人公のハイスペックさは「現実世界のステータスがゲーム内に反映されている」設定に根を持っているらしいことには注目しておきたい。

リアルで泳ぎが得意とか木登りが上手いとか反射神経がいいとかいうのはプレイにも反映されるの。プレイヤースキルっていうやつ

(第2話より、サリー曰く)

この設定はかなり衝撃的でクリティカルだ。VRゲームでは現実的にリアルのスキルが反映されてしまうのはわからなくもないが、別世界で別人格を作るMMORPGのプレイ感覚とは明らかに符号していない。
しかし、「リアルのステータスを引き継ぐ」という設定を拡大解釈すれば了解できることは多い。例えば、主人公がまだあまり強くなかった初期から妙に人気があったことにも、美少女的容姿や振る舞いがゲーム内にかなり反映されていると考えれば納得がいく。
それが設定的に正しいかどうかはともかく、異世界がリアルでは実現できない夢を叶える断絶された逃避先ではなく、むしろ美少女である主人公が潜在的に持っている高いポテンシャルを発揮するステージとして描かれているくらいのことは言えそうだ。いずれにせよ、「現実世界でのスキルが反映される」という設定からは主人公のポテンシャルが元々高いという美少女らしい前提が伺える。

そんな土台を踏まえた上で、美少女が無双するという強さに強さを掛け合わせた終局として主人公は「魔王化」に向かう。元々極めて高いポテンシャルを持つ美少女主人公がそれを最大まで高めた最終形態として、露悪的な暴力の化身が出現するという基本線がある。

魔王の強さを表現するために異世界で行われた行動は「モブの虐殺」と「強者の連合」の二つだ。
どちらも中盤以降はわりと露骨に描かれていたが、最も強力だったのは最終話のイベント消化シーンだろう。利害の一致した強者たちが徒党を組んでモブを虐殺していくというあんまりすぎるゲームプレイに加え、最後には主人公が他ギルドのリーダーをアジトに招待して友好関係を結ぶに至った。
主人公は個人として最強クラスの戦力を持つことにも加え、コミュニティとしても最強クラスの人脈を備え、まさに世界を牛耳る完全な暴力を手にしている。

さて、良心的な理想的美少女が完璧な暴力から享楽を得るにあたり考えるべきは、暴力から生じる悲劇と罪悪感をどう処理するのかという問題だ。
言葉の定義上、「殴る」という行為には「殴られる」相手が必要である。一般的に言って暴力とは常に他者との関係の中にあり、その行使は他者と無縁でいられない。暴力を振るえば誰かは傷付くし、自分にも傷付けた罪悪感が生じてくる。いみじくも「大いなる力には大いなる責任が伴う」と言うように、個人が力を持つことは常に周囲との軋轢を生む。
魔王化して暴力を振るうことは美少女に望まれる享楽であったとしても、暴力を振るった結果は享楽からは遠くなる。このジレンマはどう解決すればいいのだろうか? 暴力を振るった結果に生じる被虐者の悲しみや苦痛、加虐者の罪悪感を取り除くにはどうすればいいのだろうか?
念のために注意しておくが、今は人道的な意味で「暴力が他者を傷付けるのはよくない」などと言っているのでは全くない。暴力を振るうのは気持ちいいが、悲劇や罪悪感を生じたくはないと言っているのだ。そういうネガティブな要素は暴力の享楽を減ずるからである。よって、悲劇や罪悪感は取り除くべき障害であり、その排除に成功したときにこそ、暴力を究極の享楽として享受できるようになる。

補足277:他者を害することから生じるあらゆる結果を含めて暴力の享楽であるとする立場もあるだろうが、今回はサディズムと破壊の享楽は必ずしも一致しないということにしておこう。

補足278:今回の論旨からすると、極まった暴力の享楽からはその享受の障害となるものがオミットされ、逆に人道的な配慮が生じてくる。逆に人道的な配慮が極まれば、他人を害することですらも正当化されて暴力の享楽が生じる。すなわち「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」、これは陰陽魚の論理である。

ここに来て、VRMMO的な特徴として捉えてきた「背景の欠落」が重要な役割を果たしていることがわかってくる。それは被害者であるモブと加害者である主人公の両方に適用される。

まず、殺されるモブたちにとってゲームはゲームでしかないので、殺されてもいちいち悲しむ必要がない。彼らはゲーム内で強い目的があるような物語を生きておらず、「どうしても勝ちたかった」と泣くことすらない。
よって、このゲーム内では本当の意味で害される他者が存在しない。どのモブも娯楽として殺されるというマゾヒスティックな感性を備えているので、被害状況に気を配る必要がないのだ。合目的的に考えれば因果が逆で、主人公が虐殺する罪悪感を減ずるためにモブから悲劇がオミットされていると言ってもいい。

また、それらしい目的が存在しないのは主人公も同じだ。
主人公の成功を描く際にストーリー的な文脈に頼ることができないので、それらしい記号を寄せ集めて純粋な力の大きさを描くしかなく、魔王化は唐突なものとなる。実際、それらしいパーツ、BGM、シーン、行動に分解された魔王の記号があるだけで、それらを統合する文脈が決定的に欠落している。
主人公が振るうのは純粋な記号的加害であり、コストやリスクとは常に無縁なのだ。

つまり、主人公の魔王化は暴力の最も都合の良いところだけを選択的に抽出しているのだ。
絵面的には加害だが、行為としては加害ではない。暴力を振るう絵面だけを好きなだけ享受でき、そこから派生する罪悪感や悲劇や責任からは無縁である。こうしてVRMMO的なある種の冷笑的な態度を密輸入することで無双における加害のジレンマが解決され、ここに来て異世界にしてVRMMOである『NewWorld Online』は美少女主人公が他者を圧殺して究極の享楽を貪る空間として顕現する。

4.まとめ:美少女の楽しい暴力

意外と話が複雑だったので総括しておこう。

まず、適当なインターフェイス設定による異世界転生的な描写によって、主人公の美少女が無双するというジャンル上の基本線が構築された。
その無双状態は魔王化に象徴され、強さが極まったことの表現としてモブの虐殺や強者の結託のような露悪的な行動が描かれた。
その際に蹂躙されるモブについては「所詮は娯楽である」というVRMMO設定を密輸入して悲劇をシャットアウトすると共に、主人公についても文脈を欠落させた記号的な暴力を前面に出して罪悪感を払拭した。
これにより、暴力の行使に伴う障害を完全に取り除き、美少女主人公が振るう究極の享楽としての暴力が完成した。

総じて、VRMMOの文法と異世界転生の文法を巧みに使い分けながら主人公を魔王化させ、暴力を究極の享楽として正当化し最強の美少女を描くことに成功していたという点でかなり完成度の高いアニメだったと思う。続編も楽しみにしている。
ちなみに、こうしたロジックはタイトルの「痛いのは嫌なので」というところにもよく現れている。痛いのが嫌なのは何も殴られるときだけではない。他人を殴るときにも、自分の手が痛くなるのは嫌なのだ。

20/4/4 アズールレーン(アニメ)の感想 アニメ版ベルファストに見る「主人なきメイド」と実存主義

アズールレーン(アニメ)の感想

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2020年最大の話題作、アズールレーンアニメが終わった。

面白いときと面白くないときが両極端なアニメだったが、三ヶ月待たせた末の最終二話が後者寄りだったので微妙な後味になってしまった。シリアスな題材は延々と同じシーンを繰り返したり、海戦で緊張状態を描きたがる割には何も進展しなかったり、第三勢力の介入によるなし崩し的な終戦が陳腐だったり、不満が残るところは多い。
しかしその一方、可愛いキャラクターたちが動いてくれて嬉しかったり(特にシェフィールドの出番が多くて良かった!)、アクションとコメディはかなり良かったり、エンタープライズベルファストを固定カップリングにしたのが神がかっていたりなどの嬉しいポイントも多くあり、エンタメ的には総合収支でプラスでいいだろう。

話の本筋が尻すぼみだった一方、細部のモチーフは光るものが多く、第六話時点でお風呂回をダシにして中間経過を書いた。

saize-lw.hatenablog.com

ここで高く評価した題材は後半ではほとんど進行しなかったため、今でも結果的に評価を温存した状態になっている。この記事を以てアズールレーンを高く評価すると言えば7割程度は事足りる。

ただ、残りの3割として未だ欠けているのはベルファストに関する議論の整理だ。
上の感想で触れたキャラクターはエンタープライズ、赤城、ユニコーンが中心で、ベルファストについてはほとんど触っていない。よって、全話放送後の感想として、ベルファストについて書いておこうと思う(ただ、ベルファスト周りの話も後半で進行したわけではなく、第六話時点からアップデートされた点はあまりない)。

1.サブカルにおける実存主義的なモチーフ

記事タイトルにもあるように実存主義の話をするにあたり、近年のサブカルチャーにおける実存主義的なモチーフに関して良い解説動画があるのでこれを紹介することで導入としたい。わかりやすいしコンパクトな動画なので是非見ておいてほしい。

www.youtube.com

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補足268:ニーアとデトロイトに対して実存主義を読み込む外在的理由(「サルトル」というキャラクターの存在、制作者インタビュー)を最初にきちんと提示しているところが良い。というのは、実存主義的なモチーフは読み込もうと思えば何にでも読み込めてしまう見境の無いところがあるからだ。極端な話、「キャラクターが何かを主体的に選択する」という描写さえあればサルトルにこじつけることは常に可能だが、そういう描写が全く無い作品の方が例外的と言ってもいい。よって、作品論として結び付けるのであれば、それに足る動機・帰結・正当性などの相応の合理性が求められる。

上の動画は見た前提で要約を省略するが、今回最も重要な図式は以下のものだ。

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「神 - 人間」「人間 - ペーパーナイフ」「人間 - アンドロイド」のような、前者が後者を意味づけたり作ったりする関係のことをさしあたり「創造主 - 被造物」関係と呼ぶことにする。

サルトルがメインに主張したかったのはもちろん「神 - 人間」関係であり、その比喩として「人間 - ペーパーナイフ」関係を提示したわけだが、サブカルを読み解く上では「人間 - アンドロイド」関係に類似した構造を見つけ出せるというわけだ。今回の記事の結末を先取りすれば、ここに「御主人様 - メイド」関係を付け加える予定である。

補足269:「人間」の立ち位置が「神 - 人間」関係と「人間 - アンドロイド」関係では真逆になることに注意。人間は「神 - 人間」関係では寄る辺なき被造物だが、「人間 - アンドロイド」関係では絶対なる創造主となる。用法は文脈に依存するので混乱しないように。

2.被造物のモチーフを実存主義で読むかリベラリズムで読むか

しかし、本筋に入る前に少し脱線しておきたい。

被造物に対する実存主義的な読みに関しては、俺も『トイ・ストーリー4』の感想で全く同じことを書いた(この記事でも上の動画でも同じペーパーナイフの喩えを用いているのは参考文献が同じだからだ)。

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デトロイト』や『ニーアオートマタ』における「アンドロイド」と、『トイ・ストーリー』シリーズにおける「オモチャ」は全く同じように解釈できる。いずれも人間が作った道具だったものが意志を持ち、人間の定めた目的を脱して主体的な選択を迫られると言う構図がある。

ただ、トイストーリーの記事では、近年のディズニーがリベラルの伝道師であることに鑑みて、実存主義的な読みとリベラリズムの読みを意図的に混同して書いた。
それは冒頭に貼ったアズールレーン第六話時点での感想でも同様だ。「女性の身体」というフェミニズムの観点から入ってリベラルな切り口から話を始め、途中でエンタープライズの話題を扱う際には実存に触れている。

このように「被造物」というモチーフは実存主義リベラリズムのどちらでも見ることができるし、重なり合う部分が多くある。そのどちらが正しいのか決めるのではなく、それぞれの見方がどう違うのかについて、いい機会なのでここではっきりさせておきたい。

最大の違いは「被造物は作られた存在である」という事実をネガティブに見るかポジティブに見るかにある。
「作られた」という事実をネガティブで不本意な抑圧と見ればそれから解放されることが素晴らしいというリベラルな構図に接続するし、逆に「作られた」という事実をポジティブな人生の指針であると見ればそれを失うことで生じる困惑に対処するという実存主義的な構図に接続する。

例えば、「作られた」という事実がポジティブな意味を持つ作品としては『オーバーロード』が挙げられる。
オーバーロード』では「クリエイター - キャラクター」関係が「創造主 - 被造物」関係に相当する。つまりオンラインゲーム上でのキャラクリエイション行為について、アンドロイドを製造する行為と全く同じように、(近代以前にはアクチュアリティを持っていた)神の創造行為と同一視しているのだ。

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詳しくは上の記事に書いたが、『オーバーロード』が優れるのは被造物であるキャラクターたちが「作られた」という事実に対して困惑するどころか、それを喜んで受け入れてアイデンティティとすることだ。彼らはクリエイターを「至高の御方」と呼び、絶対の忠誠を誓っている。
このため、「神を捨てる」という実存主義の前提となるイベントは発生しない。『オーバーロード』はいわば『ニーアオートマタ』や『トイ・ストーリー』の前段階なのである。何かにつけて主体性が尊ばれがちな昨今において、あえて神に従属する存在を描く『オーバーロード』は被造物に関する前提を整理する上での引用価値が高い。

3.キャラクター論への拡大解釈と擬人化について

前節では『トイ・ストーリー』や『オーバーロード』の過去記事を通じて「創造主 - 被造物」関係が様々な局面で現れる様子を見てきた。
これを最大まで拡大解釈したとき、一般に「キャラクター」全般を「被造物」とみなせる。何故なら、メタ的に見てキャラクターとは総じて作者である人間の産物であり、「人間 - キャラクター」関係は常に「創造主 - 被造物」関係だからだ。よって、実存主義をキャラクター論として考えることもできる。

アズールレーンでは、特に「擬人化」という形でこうした被造物としてのキャラクターに関する議論が現れてくる。
ここで言う擬人化とは城や果物や艦船などの無機物を人間と見なす萌えカルチャーだが、「人ならざるものを人とみなす」という操作こそがまさに神の所業なのだ。一定の記号や設定に人間性(?)を付与する瞬間にこそ、無機物は正しく被造物となり、神との関係が完成する。

一般的に言って、擬人化コンテンツは「そもそも人になるとはどういうことなのか(内面や主体性の発生因)」をほとんど設定しない傾向にあり、それが擬人化という操作を神聖な創造行為と捉えることに貢献している。というのは、艦船擬人化コンテンツの本家である『艦これ』においての扱いが特にわかりやすい。

補足270:アズールレーンでは何かゴチャゴチャ設定されている気配はあるのだが、現在進行形で設定が語られている最中なので詳しいことはよくわからない。設定が完成したときアズールレーンにおいては擬人化の操作がソリッドなものとなる可能性はあり、それは楽しみにしている。

艦これでは「世界の艦船が女の子になった」くらいの設定はされているものの、それがどのような意味の変異なのかはほとんど説明されない。
例えば、「艦娘の元になった艦とは、パラレルワールドにある同名艦なのか、それともまさにこの世界で実在した個体なのか(世界との関係)」「艦娘が発生した瞬間における記憶や内面はどのように形成されたのか(個体としての歴史性)」「彼女が本質的に人間ではなく艦船であると主張しうる根拠はあるのか(艦娘という種の定義)」などは不明なままである。

総じて、艦娘にはその存在の根拠が欠落しており、その曖昧さが擬人化キャラクターを創造するという行為を神の人間創造と同じくらい神秘的なものとする。擬人化にまつわる設定の適当さが創造主と被造物の関係を読み込むのにかなり都合の良い土壌を提供したと言ってもよい。
例えば、もし艦娘が物理的に艦船が変形した存在だとすれば(トランスフォーマー説)、艦娘は女の子になる以前から記憶を保持できるような何らかの内面を持ち得る存在者だったはずであり、擬人化された時点で初めて人間的な内面が創造されたわけではない。一方、艦娘が艦船の記憶だけを抽出して移植された存在であれば(人体改造説)、彼女の艦船としての性質は付随的な属性に過ぎず、あくまでも人間として創造されたことの方が重要になるだろう。

いずれの場合も擬人化の時点を創造と捉えるには都合が悪い。そもそも、人間の内面が如何にして生じるかは現代の科学でも解明されていない未解決問題であり、それをスッキリ正当化する設定など土台不可能である。設定をきちんと詰めない方が良いこともあるのだ。

4.「主人なきメイド」と実存主義

アズールレーンアニメでも「創造主 - 被造物」関係は「人間 - 船」関係をベースとするが、アズールレーンがキャラクターコンテンツである以上、その関係は「人間 - キャラクター」関係ともパラレルであることは言うまでもない。

特にエンタープライズは「戦うために作られた」という人間が付与した設定に偏執的にこだわっていることが問題として提示される。彼女が解決すべき課題は「戦う以外の道はあるのか」や「戦う以外に何をするか」であり、やはり自由の刑を受けた者としての振る舞いを選択していく話として読める。
これに対してソリューションの役割を明示的に引き受けているのがベルファストだ。「皆戦う以外にも商売とか色々やってる(そんなこと気にしてるのはお前だけ)」「戦わない選択もある(綾波を救ってもいい)」というようなアドバイスエンタープライズやジャベリンに振りまいていく。これは創造主の意図を超えた主体的な選択のサジェストであり、ベルファスト実存主義の伝道師と見るのが最も素直な見方だろう。

しかし、最も注目すべきポイントはベルファストがアニメ版に限って「主人なきメイド」であるという点にある。というのは、アニメ版アズールレーンでは(恐らくは「男を出すと売れない」という商業的な判断で)指揮官がオミットされたため、メイドキャラクターが仕える御主人様がいないという奇妙な事態が生じているのだ。
一応、作中ではロイヤルメイド隊はクイーン・エリザベスに仕えていることになってはいる。ただ、それは設定上の正当化に過ぎず、クイーン・エリザベスは決して萌え属性としてのメイドが仕える主ではない。ベルファストがクイーン・エリザベスを「女王陛下」と呼び、(アプリ版で指揮官を呼ぶように)「御主人様」とは決して呼ばないことからもそれは明らかだ。

補足271:アプリ版ではロイヤルメイド隊はクイーン・エリザベスを「陛下」と呼び、指揮官を「御主人様」と呼ぶ方針で統一されていた。つまり、もともと設定上の雇用主と萌え属性としての雇用主が合致しないという指揮系統の混線があり、アニメ版では後者が壊れたという経緯がある。

アニメ版でのみ発生した「主人なきメイド」という異常事態に対し、本編全体を貫くテーマに照らして合理的な理由付けを与えたのがアズールレーンアニメが決定的に優れていた点である。
具体的には、「メイドをやっているのは人間の真似事だから」という説明が第5話で与えられる。このときのベルファストエンタープライズのやり取りは以下。

「艦なのにメイドとか女王とか、まるで人間の……」
「まるで人間の真似事だ、そのように仰りたいのでしょうか? 変わりませんよ。人も船も違いはありません。等しく心を持つ命でございます」
「いや我々は戦うために生まれてきた。人間とは違う」

(略)

「どんな過酷な世界であっても人は気高く生きることができるのだと。迷える人々の模範となるため、私たちは優雅でなければならないのです」

ここで言う人間とは、もちろん艦船たちから見た人間である。つまり、「人間 - キャラクター」関係において君臨する創造主だ。
人間との違いを強調するエンタープライズに対し、ベルファストは「違いはありません」と断言し、それを示すために「あえて自覚的にメイドの真似事をする」というアイロニカルな態度を引き受ける。この屈折こそがアニメ版でのみ生じたベルファストの真髄であるということについて説明していこう。

実存主義的に見れば、「御主人様 - メイド」関係もまた「創造主 - 被造物」関係の一つとして考えられる。
「メイドはただの雇用契約だから別に被造物ではないのでは?」と思うかもしれないが、萌えカルチャーの文脈ではそうではないと言わざるを得ない。何故なら、「メイド」とは明らかに単なる契約上の職業ではなく、キャラクターの存在を定義する根本的な性質の一つだからだ。
メイドキャラはいわばメイドという職業の擬人化であり、メイドキャラがメイドでない状態は基本的に存在しない。業務時間中には「~で御座います」などと慇懃な口調を使うメイドが業務時間外には「そだねー」とか言っていても別におかしくはないはずだが、萌え属性としてのメイドキャラはそれを許さない。メイドキャラにとって「メイドであること」とは存在と不可分の本質であり、この意味で、その発生因である御主人様はメイドの創造主であると言えるのだ。

補足272:でもお正月のローディングイラストではベルファストも餅食ってゴロゴロしてたから、もしかしたらベルファストには「業務時間外の性格」が存在するのかもしれない。

補足273:古今東西恋愛シミュレーションで頻出する「メイドキャラとの恋愛」というイベントが異様な様相を呈するのも同じ理由による。常識的に考えて、恋愛とは個人的に行われるが、メイドとの雇用契約は社会的に行われるというギャップがある。もし「メイドキャラとの恋愛」が個人的な領域のイベントであればメイドがメイドであり続けることは不可能だし、社会的な領域のイベントであればこの恋愛は「レンタル彼女」のような商業サービスに過ぎないことになる。

同じように、相手の存在によって初めて創造される萌え属性は他にもいくつかある。例えば「メスガキ」がそうだ。

mekasue.hatenablog.com

この記事は非常に興味深い。VRChat上でメスガキキャラクターを演じようとしても煽る相手が存在しないためにそもそもキャラが成立せず、VRChatでメスガキになることは不可能であると指摘している。メイドが御主人様を必要とするのと同じように、メスガキは煽る大人を必要としているのだ。

また、『ボンバーガール』の公式Twitter漫画でのグリムアロエの振る舞いにも同じ「メスガキパラドックス」が見て取れる。
グリムアロエはゲーム内ではお兄ちゃん(プレイヤー)を煽るメスガキなのだが、プレイヤーとの接触経路がないTwitter漫画では煽る相手が存在しないのでメスガキキャラが維持できない。このときのグリムアロエは意外と常識人であり、良心の呵責に苛まれたりツッコミ役に回ったりすることも多い。

つまり、「煽り相手 - メスガキ」関係と「御主人様 - メイド」関係はいずれも「創造主 - 被造物」関係のパターンであり、「煽り相手のいないメスガキ」もまた「主人なきメイド」と同型である。

もっと一般化すれば、この世の萌え属性は二種類に分類できることになる。

  • A 相手が必要:メスガキ、メイド、ツンデレヤンデレ
  • B 相手が不要:クール、熱血、根暗、努力家

相手が必要なAグループに関しては、そのキャラクターの創造に際して必ず相手を必要とするという意味で「創造主 - 被造物」関係が常に読み込める。

アズールレーンアニメでは、この回路を利用してエンタープライズが抱える「人間 - 艦船」関係と、ベルファストが抱える「御主人様 - メイド」関係がパラレルに重ねられた。
自由の刑に処されたエンタープライズに対し、ベルファストは御主人様が不在の状態で「あえて」メイドをやるという「創造主の真似事」により、人生を意味づける主体的な選択が可能であることを示したというわけだ。この逆説はやや入り組んでいるが、逆パターンを考えれば容易に理解できる。もしベルファストが創造主=御主人様との関係に囚われているのであれば、可能な態度は「主人がいないにも関わらず盲目的に主人の偶像を探す」「主人がいないことに困惑し、メイドであることに思い悩む」のいずれかしかない。「あえてメイドの真似事をする」という一歩引いた態度は、ベルファストが創造主との関係を既に括弧に入れて相対化していなければ成立しない。
繰り返すが、この構図が可能になった背景には、アニメ版では御主人様=指揮官がオミットされたことによって「主人なきメイド」が寄る辺なき存在として宙に浮いていたという前提があり、メディアの特性を利用した議論が非常に優れていた。

補足274:最終話でエンタープライズが到達した「あえて戦うことを引き受ける」という態度もベルファストの自覚的な主従関係への復帰と同様に理解できる。いずれも神との関係に無自覚に従属するのではなく、一歩引いた地点から「あえて」自覚的に引き受けるというアイロニカルな態度が共通する。ただ、エンタープライズの「あえて」はベルファストのそれに比べると一段劣ると言わざるを得ない。軍人が戦争を嘆くのは、気の持ちようの問題ではなく、実際に戦争が止まらないという悲惨な事実にウェイトがあるはずだ。それをあえて引き受けたところで問題は解決されていないどころか安全に痛い範囲でのみ反省するという正当化を招く。それに比べると、ベルファストが扱ったメイドキャラとしての整合性という内面的な問題の方がうまく実存主義的なモチーフを利用していると言えるだろう。

補足275:なお、アニメ版ベルファストが演じた「主人なきメイド」のモチーフと、それが指摘する神との屈折した関係は自分のラノベで登場させたメイドキャラクターにそのまま流用した。『皇白花には蛆が憑いている』解説3-3-6節を参照。

20/3/29 百合萌えラノベ『皇白花には蛆が憑いている』解説

『皇白花には蛆が憑いている』解説

自分で書いた百合萌えラノベ『皇白花には蛆が憑いている(すめうじ)』を自分で解説します。
キャラクターや世界の設定ではなく主に思想的な背景について書くので、ネタバレを気にしない人はこの解説だけ読んでも構いません。本編は気になったら読んでください。

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(主人公の皇白花さん)

kakuyomu.jp

『すめうじ』はエンタメ的には「百合ハーレムもの」で、容姿の良い女性主人公が容姿の良い美女や美少女にモテまくる『わたてん』みたいな話です。
主人公のことが大好きなヒロインは「天才妹」「毒舌後輩」「完璧メイド」「活発ロリ」「寡黙ロリ」など豊富です。台詞や名前のある男性キャラクターは一人もおらず、喧嘩したり疑心暗鬼になったりするギスギス展開は一切無いので安心して読めます。

思想的には「自己概念の転倒と拡張」が大テーマです。
それは社会的な領域では「リベラル多元主義への反発」として、実存的な領域では「個体ならざる主体としての群体」として現れてきます。
これら二つの小テーマに対応する主要文献は、それぞれ木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』とドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』の二冊です。『すめうじ』はそれらを百合的に再解釈して萌えラノベに仕立て上げる試みでもあります。

0.はじめに

僕は「作者は作品に対して何ら特権的な存在ではない」というロラン・バルト風の立場を支持します。つまり、作品は公開された時点で作者とは何の繋がりもない独立したものになります。

よって、僕の解釈は唯一の正解では全くなく、比較的読んだ回数が多い読者の読みの一つくらいです。作者が妥当性の低い読みをすることは全く有り得るし、読者の方が精度の高い読みをすることも有り得ます。実際、僕が知らなかった優れた解釈を読者から聞いて感心することは何度もありました。

また、『すめうじ』の思想的な背景は僕自身が持つ思想やポジションとは特に関係ありません。差別主義者のキャラクターが肯定的に扱われることは僕が差別主義者であることを全く意味しません。

1.概要

まずは以下の二つのテーゼから出発したい。

  1. 自由と平等は両立しない
  2. このジレンマの根本には近代における主体概念の成立がある

それぞれについて概観したあと、『すめうじ』内での扱いについて解説する。

1-1.テーゼ1:自由と平等は両立しない

フランス人権宣言において、「人は生まれながらにして自由かつ平等である」旨が宣言されたことはあまりにも有名だ。今でもこの二点は人権を確保するにあたっての重要事項であると考えられることが多く、誰もが持つべき当然の権利として要求される。

しかし、全人類に対して一応の人権が確保された現代において(少なくとも「確保されるべき」と大抵の人が考えている現代において)、実際には自由と平等は両立しない場合があることがわかってきた。すなわち、「自由」と「平等」は二者択一であり、「自由だが平等ではない」か「平等だが自由ではない」のどちらかしか可能ではないことが明らかになりつつある。
以下、「自由だが平等ではない」と「平等だが自由ではない」のそれぞれについて、当初は自由と平等を両立できると思われた社会体制が最終的にその理想を放棄する「末路」に辿り着く過程として見ていく。

まず、「自由だが平等ではない」はメリトクラシーの末路である。
本来、メリトクラシーとは「人類は皆平等なので生まれによって差別されるべきではない」という平等の旗印の下、出自ではなく能力によって社会的地位が定まる能力主義社会を指している。理想的には、平等な設定の下で自由な競争をさせることで、誰もが納得できる結果をもたらす望ましい社会と言える。
ところが、メリトクラシーの理念に従って受験戦争や学歴社会などが生じてくるにあたり、自由競争は結果においては全く納得し難い不平等状態を招くことがわかってきた。自由に競争した結果、却って各人の能力や家庭環境の違いが浮き彫りになり、「上流階級の子供は上流階級、下流階級の子供は下流階級」という格差の再生産すら生み出した。
ある意味では、このように生育の格差が固定化された状態は貴族制のような出自に由来する階級制度と大差ない。しかし貴族制よりも悪いのは、表面的には自由競争が担保されているために下層階級は自らの立ち位置について弁明する機会も根拠も与えられず、全てが自己責任として正当化されてしまうことである。これにより当初の理念とは全く真逆に、メリトクラシーは階級を固定するイデオロギーとしてすら作用する。
以上のように、自由に競争する権利が与えられてはいることは現実的には平等をもたらさない。つまり、「自由だが平等ではない」のだ。

補足246:最近では東京大学がよくこうしたメリトクラシーの問題点を取り上げている。去年度の入学式では上野千鶴子フェミニズムに絡めて「強者」である東大生に警鐘を鳴らす祝辞を述べたほか、今年度の国語現代文でもまさにこのメリトクラシーについて出題された。

次に、「平等だが自由ではない」はリベラル社会の末路である。
本来、「リベラル」とは「自由」の意であり、誰もが自由に自己決定権を持って社会に参加できる社会を理想とする。黒人や女性や性的マイノリティなど、周縁者として抑圧されていた層を解放して平等なスタートラインを提供し、彼らが自由に活躍できる社会を目指していた。
ところが、リベラルの理念に従って機会平等を提供するにあたり、現実的には様々な衝突も生じることがわかってきた。その典型例がポリコレ運動である。黒人俳優を映画に起用することで人種に左右されない活躍の機会を与えるという理念は公正なものと思われる反面、それで仕事を奪われる白人俳優からは反発が生まれる。メリトクラシーとは真逆に、機会平等の理念には実力を無視した登用という側面が付きまとう。移民政策や市場介入にも同じことが言え、誰かに配慮した結果として他の誰かが割を食うケースは枚挙に暇がない。その場合、他人の平等を担保するために自分の自由が抑圧されていると感じる人が生じる。つまり、「平等だが自由ではない」のだ。

1-2.テーゼ2:このジレンマの根本には近代における主体概念の成立がある

では、そもそも「自由」と「平等」は二者択一であるというジレンマはどこから生まれたのか。それは近代における主体概念の成立である。

近代における「主体概念の成立」とは、差し当たって「神の放棄」と同時発生したものと考えて差し支えない。それまでの世界観では人類とは神の被造物であり、神の意志に従って行為する存在だった。神の意志によって導かれるだけの存在は自由を持たないし平等でもない。全ての行為は神に定められた不自由なものであるし、神がそう作ったのだから不平等な身分制にも疑問を抱かない。よって、そもそも自由か平等かという二者択一さえ生まれようがない。

しかし神が放棄されると人間は自由意志を持つ主体として成立する。カントは理性が人間にアプリオリに備わっているとして、人間は本来的に理性的な存在であるという見方を唱えた。人間の認識システムを神ではなく自分自身に根拠づけることが可能になったことで神は捨てられ、主体というイデオロギーが誕生する。もはや主体と化した人間たちは自由意志を得たことによって自由を求めざるを得ず、身分を規定する超越的な存在が消えたことにより平等を求めざるを得ない。

以上のように、「自由と平等は両立しない」というジレンマが生まれた背景には主体の成立があった。逆に、主体の成立によってこのジレンマが招来されたとも言ってもよい。

1-3.『すめうじ』内での対応

後で詳細に解説するための準備として、ここでは形式的な対応だけ述べる。
『すめうじ』は前半部(第1章~第5章)と後半部(第6章~第10章)でテーマが分かれており、前半部が「1.自由と平等は両立しない」、後半部が「2.このジレンマの根本には近代における主体概念の成立がある」に対応する。
こうした各部でのテーマは、作中で一貫する大テーマである「自己概念の転倒と拡張」としてまとめられる。

・前半部
前半部では外面的・社会的な領域における「自己」、すなわち「唯一無二のアイデンティティ、尊重される個性」を扱った。「自己PR」や「自己紹介」と言うときの「自己」。
この題材は「リベラル多元主義への反発」というテーマに接続し、上に述べたテーゼのうち「1.自由と平等は両立しない」に対応する。
具体的には、「平等だが不自由な世界」が管理局、「自由だが不平等な世界」がアンダーグラウンドを指す。これら二つの世界は闘争関係にあるのではなく、メンバーに応じて適切に住み分ける形で決着を見た。
なお、百合萌えラノベとしては美少女文化におけるルッキズムと結合した。

・後半部
後半部では内面的・個人的な領域における「自己」、すなわち「自分を私として名指すもの=主体」を扱った。「自己愛」とか「自己意識」と言うときの「自己」。
この題材は「個体ならざる主体としての群体」というテーマに接続し、上に述べたテーゼのうち「2.このジレンマの根本には近代における主体概念の成立がある」に対応する。
具体的には、「群体」というイメージを近代的な主体概念に対するオルタナティブとして提案している。つまり近代的な主体が「個体としての主体」であるのに対して、カウンターとして「個体ならざる主体」を描いた。
なお、百合萌えラノベとしては日常系から派生する同質的なコミュニケーションと結合した。

2.前半部(第1章~第5章):リベラル多元主義への反発

まず「リベラル多元主義への反発」についての一般論を述べたのち、作中全体での扱いとキャラクターごとの役割を説明する。

2-1.一般論

地球全体を繋ぐ文化や経済が発展するグローバリゼーションにより、背景の異なる人間同士が接触することは全く珍しくなくなった。異質な人同士の衝突を回避するため、性別・人種・性的嗜好などの様々な多様性に対する寛容さが求められると共に、それらへの偏見を持つことなく人それぞれの素養や志向を活かすことを望ましいとするリベラルな価値観が広まっている。

しかし一方で、そうした風潮によって自分の自由が抑圧されていると感じる人も増えつつある。特に過激な一部の層は「もはや自由と平等は両立できない」として自由を求めて平等を放棄することを選択する。具体的には、白人至上主義などの反動的な思想に傾倒しダークウェブにコミュニティを成す。

こうしたリベラル多元主義への反動はもはや無視できない状況にあり、メイクアメリカグレートアゲインを掲げるトランプ大統領が誕生したほか、移民や市場の問題に嫌気が差したイギリスがEUから離脱したことも記憶に新しい。

2-2.『すめうじ』内での扱い

無差別同時変異現象「インタポレーション」により人間の身体や性質が多様化した「ブラウ」が多く発生したことにより、管理局が差別を防ぐための管理政策を推進しているというリベラルな構図がある。
これによって表面的には多様性に寛容な社会が実現されているが、実はそれはブラウの過度な活躍を隠蔽したり特異な才能を持つ者を迫害したりすることで成立している。そうした表社会の歪みに嫌気が差した人たちが、反動として政治的に不公正な住処であるアンダーグラウンドを組織している。主要登場人物もほとんどがアンダーグラウンドに生息しており、彼女らは多かれ少なかれリベラル多元主義社会に対する窮屈さを感じている。

補足247:新反動主義ではリベラル民主主義のオルタナティブとしては君主制都市国家群が置かれるが、『すめうじ』内ではもっと単純なリバタリアンアナキズムが対応している。当初は様々な思想を持つ都市国家群を描く予定もあったのだが、結局のところ各都市の代表キャラクターを一人ずつ出すくらいが関の山なので、それならキャラクターだけ描けば十分だと考えた。実質的に各キャラクターが各都市国家を擬人化したものと見てもよい。

インタポレーションで人の在り方がこんなに変わったのに、皆が皆ポリコレワールドでお行儀よく生きてるわけないじゃない。肉体と一緒に精神を変えたやつがアンダーグラウンドにダイブして、着水の衝撃でできた渦巻きは何もかも飲み込んでいくんだ。私のことを特異な外れ値だとか思ってると足元掬われるよ。これは個人の問題じゃない、世界がもう既に二極化してるんだ。管理局が守ろうとしてる平等と配慮に満ちたリベラルな世界と、私たちが飛び回る自由と混沌に満ちたダークな世界にね

(第6話より、黒華曰く)

黒華が言うように世界が二分されている構図があり、落としどころとしては「革命」ではなく「適切な住み分け」を目指した。
世界が二分されているのは単なる住み分けの結果に過ぎず、どちらが正しいわけでもない。もしアンダーグラウンドが表社会を飲み込んでしまったら、それはそれでその反動として表社会が復活するだけだ。リベラル社会の仕掛け人であるヴァルタルが早めに退場することで闘争の構図は排除され、むしろ部分的な協力関係が描かれることが多かった(椿と遊希のサイゼリヤでの交渉、自衛隊とサークロの提携)。
各キャラクターの振る舞いとしても、革命の御旗を掲げて表社会を攻撃するのではなく、自らの素養に応じて適切にアンダーグラウンドを選択する者がほとんど。主人公の白花も第15話で会食を機に居心地の良い住処としてアンダーグラウンドを選択することで、この論点はひと段落する。

2-3.各キャラクターの役割

前半部で特に重要な役割を担うのは主にジュリエット・白花・黒華の三人。

2-3-1.ジュリエット

インタポレーション以降、人間の価値を必要以上に複雑に考える風潮が蔓延りすぎております。……わたくしに言わせれば、人間の価値なんて文字通り見ればわかるものでしかありません。容姿こそ、先天的かつ無根拠であるが故に究極の価値を担保するので御座います。容姿など偶然決まるサイコロの目に過ぎないと仰る方もおられますが、逆にいったいどうして誰でも努力すれば得られるような能力に至上の価値を与えることなどできましょうか?

(第13話より、ジュリエット曰く)

強力な容姿至上主義、差別主義者。
美形の者に対しては非常に優しいが、美形でない者は人間扱いしない。自らが差別主義者であることを自覚しているために矯正の契機がないあたりどうしようもない。『すめうじ』は美少女と美人しか登場しない萌えラノベなので一貫してわりと常識的な協力者だったが、上の演説を代表に言葉の節々から差別意識が滲み出る。

思想的にはオルタナ右翼に対応しており、上の演説の「容姿」を「人種」に置き換えればかなり偏狭な白人至上主義者の演説として読める。既に述べたように、差別を徹底的に排除しようとするリベラル社会への反動として、あえて選択された差別主義が生じてくるという構図。

補足248:オルタナ右翼とはアメリカ版ネトウヨのようなもの。排外主義、白人至上主義、インセルなどのいわゆる偏狭な価値観を備えた白人男性が典型的で、インターネットカルチャーとの親和性が高い。ジュリエットがオタクなのもそれを踏まえている。

萌えラノベで人種差別を扱うのは社会派すぎて面白くないので、オタク文化内のルッキズムに論点をすり替えた。オタク文化には二次元でも三次元でも「容姿が正義」という強いルッキズムの風土があり、『すめうじ』内でも美少女には寛容だがモブ男はすぐに死ぬ。
しかし、オタク文化内のルッキズムが白人至上主義と明確に異なるのは、一般にオタク自身の容姿が優れているわけではないことだ。オタクが容姿差別に傾倒したところで彼自身には特にリターンが無いために一定の倫理性(?)を備えていると言えなくもない。
逆に言うと、容姿が美しいものが容姿差別主義を備えたオタクである場合、オタク文化ルッキズムのギャップが解消されてアンダーグラウンド内での反動思想の保持者という立ち位置を与えられる。実際、ジュリエットは猛烈な美人であると同時にアニメオタクでもあり、この要件を満たす。

補足249:ジュリエットは別に英国本場のメイドではなく、日本大好きコスプレイヤーに過ぎない。実際、メイドサブカルチャーに異様に詳しかったり(第10話)、萌え系の電波ソングを着信音に設定したりしている(第16話)。

2-3-2.白花

インタポレーションから今まで、白花の食事は自炊するにせよ出来合いのものを買うにせよ、基本的に家で一人で食べるしかなかった。誰かと一緒に食べたりお店で食べたりすると、白花の食事に蛆が湧いているのを見た他人を不愉快にさせてしまうからだ。インタポレーション以降は牙がある人なども増え、多少汚い食べ方をするくらいは許されるようになったとはいえ、いちいち大量の蛆を湧かせる白花の体質は社会的な許容ラインを大幅に踏み越えている。

(第15話より)

社会的弱者。リベラルな価値観ではカバーできない「弱すぎる」外れ値。
白花は「食事に蛆を湧かせまくる」というかなり社会許容度の低い性質を持っており、「人前で食事をしない」という生理的なレベルでの重い配慮を引き受けさせられている。

補足250:例えば第8話のサイゼリヤでの食事シーンをよく見ると白花一人だけ何も食べておらず、第10話の監禁シーンでは空腹だったのでクッキーやマカロンを食べまくっている。

白花は「各人の個性を最大限尊重する」という建前のある社会にあっても間接的な迫害を受けて窮屈な思いをしている弱者であり、ジュリエットや遊希との接触を通じてアンダーグラウンドに傾倒していくことになる。

思想的には肯定されないダイバーシティの持ち主に対応する。
リベラル多元主義社会でも現実的に許容できるダイバーシティには上限と下限があり、常識的に考えて問題の無いレベルの異常性しか許容されない。例えば「ペドフィリア」がその典型で、LGBTに対する寛容さと比べ、幼児性愛という嗜好性に理解を示す人はほとんど存在しない。リベラルはそういう抑圧を嫌っていたはずなのに、現実的な適用の局面では結局また常識によるスクリーニングが戻ってきてしまう。

白花が最終的にアンダーグラウンドへの所属を決定した理由は「皆と一緒に食事が出来るから」であり、自分と同じ異常者が集うコミュニティへの信頼が大きい(ペドフィリアがダークウェブ上で幼児性愛コミュニティを見つけるのと同じようなもの)。ちなみに「食事」は作中で一貫するモチーフの一つで、前半部ではコミュニティの社会的連帯を描く役割を担っている。

2-3-3.黒華

もともと私にはアンダーグラウンドの方が向いてたし、遅かれ早かれこーいう道を選んでたと思うよ。最低限、自衛できるくらいの能力があれば身一つで勝負できる世界だからね。アンダーグラウンドがそーいう風に作られたというよりは、インタポレーションで万人に無差別にスキルが降り注ぐと、自然にそーいう世界ができるんだ。

(第26話より、黒華曰く)

ギフテッド。リベラルな価値観ではカバーできない「強すぎる」外れ値。
十代のうちに独学でAtCoder黄ランクの技術力を持つ一点突破タイプの天才。自分の才能を活かすため、高校には進まずに中卒でアンダーグラウンドに潜った。主人公の白花が人文系なので技術方面で活躍する黒華を描く機会はあまりなかったが、よく見ると第7話で管理局の監視カメラを短時間でハックしたり、第24話で教会に違法な通信ネットワークを設計したりしている。

下限を突破しているために迫害される外れ値が白花であるのに対して、上限を突破しているために適切な扱いを受けられない外れ値が黒華。リベラルの理念から要請される機会平等の理想において、弱者を救済することに比べれば強者を適切に優遇することにはほとんど関心が払われない。プラスの人間を更に伸ばすよりマイナスの人間をゼロに戻す方が重要であるとしても、それはそれとしてプラスの人間だって自分の恵まれた生まれを活かしたいのだ。

思想的には、ピーター・ティールのようなリバタリアンのエンジニアに対応する。黒華が理系エンジニアなのはそのため。

補足251:乱暴に言えばリバタリアンとリベラルの違いは「自由を担保するためのお膳立て」を許容するか否か。リベラルは「お膳立て」を認めるので福祉政策や市場介入を受け入れるが、リバタリアンは「お膳立て」を必要とせず、「余計なことはするな」と言わんばかりに最小国家市場原理主義を理想とする傾向にある。

有能なエンジニアのイメージはリベラル国家への反動思想との親和性が高い。
その理由を二つ挙げると、まず一つにはエンジニアが行うバリュー創出は国家への依存度が低く、優れたサービスはインターネットに乗って国境を跨いでいけるから。もう一つには、エンジニアが専門的に扱える電子空間は、土地や建造物を含む物理空間に比べて国家による制約が緩く、リベラル国家のオルタナティブの設立さえ可能だから。

なお、黒華が教会をリノベーションしていたのは「カテドラル(大聖堂)」という俗語を受けている。カテドラルとは反動主義者の間で使用されるジャーゴンで、近代的な進歩主義を皮肉っている。黒華がカテドラルであるところの教会を勝手に解体して反動主義者の拠点を作ろうとしていたのは、象徴的にはリベラル社会の解体とアンダーグラウンドの設立を意味している。

2-3-4.椿

あーやだやだ、そういう堅苦しい雰囲気……不適切な発言も行為もやらせておいて放っとけばいいじゃないですか。

(第3話より、椿曰く)

異常者になりきれない社会適合者。
作中で最も頭が良いキャラクター。本音と建前の区別が手に取るようにわかるため、誰もが建前しか言わなくなるリベラル社会に閉塞感を感じている。建前しか言わないヴァルタルに舐めた態度を取っているのもそのため。
ただし、椿は黒華と違って官僚タイプのオールラウンダーであり、むしろどこでも重宝される社会的に有能な人材。何の問題もなく生きていける社会的強者であるために、却って社会からドロップアウトすることや社会的弱者である白花に対して屈折した憧れを抱いている。

思想的には黒人解放運動に困惑する良識派白人のような立ち位置。社会的弱者の立場を被害者として見直すことは社会的強者の立場が加害者として見直されることと裏表である。強者サイドに所属している良心的な人間が、ある日突然自虐的な内省を強要されることはよくある(日本でも痴漢や性暴力の問題で同じようなことが起こっている)。

2-3-5.ヴァルタル

ブラウ全体を危険視する偏見が社会に広がるのを防ぐためには仕方ないさ。社会の混乱を防ぐため、安定した世論を維持するのも管理局の大事な役割だ

(第4話より、ヴァルタル曰く)

リベラル社会の官僚、仕掛け人。
正義漢っぽい言動をしていたが、後から考えると登場シーンでは建前ばかり言っていたことがわかる。管理局が提供する政策には限界があり、白花や黒華のような外れ値を迫害して成立していることをヴァルタルは普通に知っていた(偉いから)。見た目と違って脳筋では全然ないし、むしろ本音と建前を使い分ける大人。
白花にも個性を活かした自己実現の機会を与えようとしているあたり、リベラルな理想に燃えているのは事実だが、そのために多少の歪みが生じることを許容できてしまうタイプ。ヴァルタル自身も活躍を隠蔽されるという形で自由を抑圧されているのは黒華と同じだが、それを必要経費として割り切っており、表社会の歪みと共犯関係にある。

思想的にはラスボスになっても良いポジションだが、別に社会の転覆を描きたいわけではないので早めに退場した。

2-3-6.遊希

イマイチ上手く書けなかったのだが、もともと遊希に担ってもらうつもりだったテーマは「オリジナル」と「カウンター」の違い。
ジュリエットや白花といった歪んだ大人たちが表社会への反動としてアンダーグラウンドに参入してくるのに対して(=カウンターとしてのアンダーグラウンド)、遊希は最初からアングラ生まれアングラ育ちだ(=オリジナルとしてのアンダーグラウンド)。「確かに平等は重要かもしれないが私は差別を肯定する(=カウンターとしての差別主義)」と、「そもそも平等は何ら重要ではないので私は差別を肯定する(=オリジナルとしての差別主義)」は決定的に違う。そういう感性の違いを描きたかったのだが、あまりそれをやるスペースがなかった。可愛いからいいか。

ちなみに、実は遊希はジュリエットが10代の頃に生んだ実娘(裏設定)。カウンターとオリジナルの違いは世代の問題でもあって、カウンターだったはずのものも一つ世代が経過するとオリジナルになるというようなことを書きたかった。

補足252:ジュリエットと遊希はお互いに親子関係であることを認識している。第13話で仲居に対して遊希のことを「わたくしの可愛い妹」と紹介するジュリエットに対し、遊希が「だーれが妹ですか!」と反応しているのは本当は妹ではなく娘だから。また、第16話でジュリエットが遊希に向かって「レズビアンではなくバイセクシャル」と訂正しているのも目の前にヘテロセックスの結果としての子供がいることを踏まえている。俺はこの親子関係を陽に描写したつもりだったが、すめうじ批評会(後述)では誰にも伝わっていなかったので反省した。

2-3-7.紫

紫はインタポレーションで蛞蝓が人間の姿に変わった存在(裏設定)。最初から人間ではないので、人間社会がテーマの前半部には関わってこないでずっと寝てる。

3.後半部(第6章~第10章):個体ならざる主体としての群体

まず「個体ならざる主体としての群体」についての一般論を述べたのち、作中全体での扱いとキャラクターごとの役割を説明する。

3-1.一般論

3-1-1.近代における主体の成立

「私」が全ての出発点に置かれ、世界のあらゆる物事が私との相関によって捉えられるようになって久しい。
誰もが「私」の存在を当たり前に前提し、私の思考を支配するのは「私にとっての人生」「私にとっての幸福」「私にとっての貯金」だ。以下、こうした考え方をしている当の者、「自分を私と名指すもの」を「主体」と呼ぶことにする。

補足253:「主体」という言葉の定義は難しい。他にも「行為・作用を他に及ぼすもの」や「自覚や意志に基づいて行動するもの」という定義もあるが、今は「自分を私と名指すもの」という定義を採用した。この定義では「自分」と「私」の定義が問題になるし、それらが似通っているので循環定義の気配もあるのだが、哲学をやりたいわけではないので日常語として意味が通ればよい。例えば「人間」は自分を私と呼ぶので主体だが、「石」や「水」は自分を私と呼ばないので主体ではない。

補足254:こうした主体概念の成立は近代資本主義の大前提でもある。マルクス風に言えば自分の時間を自由に切り売りできるという主体認識によって労働者が成立し(『資本論』)、ドゥルーズ+ガタリ風に言えば拡散する欲望を整流するために精神分析による主体の仮構が要求され(『アンチ・オイディプス』)、ボードリヤール風に言えば大量生産品の売買を通じて確立される主体が消費社会を支えている(『消費社会の神話と構造』)。よって、主体性の再検討は資本主義批判と結合しやすい。

しかし実際のところ、皆が当たり前のように前提している主体とは特定の時代が要求する一つのイデオロギーに過ぎない。その存在は自明では無いし、もっと自由な性質を持つことも出来るはずだ。

3-1-2.「群体としての主体」の定義

例えば、我々が日常的に主体として自分の身体を「私」と認識するとき、そこには「分割できない」という性質が暗黙に含まれている。我々は身体が二つや三つあるとはまず考えないし、それをイメージすることも難しい。以下、我々が認識している身体のように「それ以上分割できないもの」を「個体」と呼ぶことにする。

補足255:物理的に足を切断することは可能だが、その場合は切り離された足はもう「私」とはみなされず、単に切り離されたゴミのようなものになる。主体は足以外の残った部分にしか存在せず、主体そのものが分割されたわけではない。身体の切断という方法で問題になり得るのは、身体を正確に真っ二つに切ったときに主体がどちらに入るのかということだ(この実験は第29話で行われている)。

改めて上の定義を確認すると、「主体」とは「自分を私と名指すもの」、「個体」とは「それ以上分割できないもの」。定義に従うと我々人間は「主体かつ個体」ということになる。
考えられる組合せとしては「個体性」の有無と「主体性」の有無で2×2=4通りの存在者が考えられる。具体的には以下の通り。

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特に左下の「主体〇、個体×」=「群体としての主体」に注目したい(以下、「個体でないもの」を群体と呼ぶ)。虫の群れや軍隊が典型例だが、他にも様々なパターンが考えられる。理解を深めるため、群体としての主体の例を6つ挙げてみよう。

1.虫の群れ
虫の群れにとって「私」と名指すべき利害主体は個々の虫ではなく群れ全体である。何故なら、この群れの目的は個々の虫の生存ではなく群れ全体の存続だからだ。よって、主体の定義「自分を私と名指すもの」に従うと、虫の群れ全体を一つの主体と見なせる。
一方で、この群れは何匹かごとに分離できる。よって、個体の定義「それ以上分割できないもの」に従うと、虫の群れは個体ではない。
以上、虫の群れは主体だが個体ではない。

2.軍隊
軍隊にとって「私」と名指すべき利害主体は個々の兵士ではなく軍隊全体である。何故なら、この軍隊の目的は個々の兵士の勝利ではなく軍全体の勝利だからだ。よって、主体の定義「自分を私と名指すもの」に従うと、軍隊全体を一つの主体と見なせる。
一方で、軍隊は何人かの兵士ごとに分離できる。よって、個体の定義「それ以上分割できないもの」に従うと、軍隊は個体ではない。
以上、軍隊は主体だが個体ではない。

3.バーチャルアバター
バーチャルアバターを持つ人間は、バーチャルアバターの身体とリアルの身体のいずれも「私」と名指せる。よって、「私」と名指す対象にはリアルとアバター両方が含まれており、これらをまとめて一つの主体と見なせる。
一方で、リアル肉体とバーチャルアバターは分離できるのでこの主体は個体ではない。

補足256:サブカル的には「群体的な主体」というモチーフが一番よく使われるのは恐らくこのイメージ。例えば、キズナアイの人格分裂や『serial experiments lain』で扱われるキャラクターの偏在。

4.人工知能
擬人化された人工知能は自分の全データを「私」と名指せる一つの主体である。しかし、そのデータは複製して分割できるので、一つの個体ではない。

5.統計情報
何らかのアンケートを取った結果、「男性、二十六歳、大卒、日本人」などのステータスが自分と完全に一致するサンプルが複数見つかったとする。それらのサンプルはステータスが一致している限り全てまとめて「私」と名指せるが、該当するサンプルは複数存在して分離可能なので一つの個体ではない。

6.幼児
幼児は他の幼児が泣いたときにつられて泣いてしまうことがある。これはまだ「私」の境界が確定できておらず(特に「母」との境界は曖昧)、自分が泣いているのか他人が泣いているのか判断がうまくできないからだ。よって、他者を含めて「私」と名指せる一つの主体とみなせるが、当然、幼児と他者は別の人間なので一つの個体ではない。

補足257:以上のイメージは『すめうじ』内にも散りばめられている。「虫の群れ」は全編を通じて、「軍隊の兵士」は第18話の桜紋組、「バーチャルアバター」は第6話の黒華がアバター的人格を示唆、「統計情報」は第4話でヴァルタルが言及、「幼児」は第26話の回想に登場。

このように、「複製」「群体」「集積」などのイメージを組み合わせることにより、主体概念を一つの身体から解放して拡張していくことができる。

3-1-3.「群体としての主体」の性質

群体としての主体が持つべき性質について説明する。

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濃いオレンジの丸が群体の要素を表し(例えば一人一人の兵士)、薄いオレンジの囲いが群体全体を表している(例えば軍全体)。 この描像の下、以下の3つの性質が考えられる。

補足258:以下、「群体である主体」を指して単に「群体」と言うこともある。厳密に言えば「群体」には「群体である主体(虫の群れや軍隊)」と「群体である非主体(水や砂や空気)」の2パターンがあるのだが、後者をあまり扱わないので。

1.自律分散型
主体が分割可能である場合、分割され得る各部位はそれぞれ自律した動作が可能でなければならない。それぞれの部位が自律している限り、同じ動作をする部位に入れ替え可能なので、可換で頑健な構造と言える。
例えば、軍全体が持つ目的に応じて、個々の兵士が細かいことはそれぞれ自分で考えて行動するのと同じ。ただし、個々の兵士は主体ではないため、彼らが「私」と名指す対象は依然として彼ら自身ではなく軍全体であることに注意。
逆に、「個体である主体」は中央集権型と言える。ただ一つのトップに従属する形で全ての部位が位置付けされ、容易には切り離すことができないからだ。

2.運命共同体
主体が分割可能である場合、各部位の存続は全体の存続によってのみ決定されるという意味で、各部位は運命を共有している。
例えば、一つの軍隊が「死んだ」というとき、それは個々の兵士の生死を指すのではなく、所属する兵士が一人残らず死亡することを意味する。よって、個々の兵士同士は生死を共有していると言える。
逆に、「個体である主体」にはそもそも何かを共有するような分離がない(言葉の定義上、共有するためには前提として分割が必要)。

3.存在の混合
主体が分割可能である場合、各部位を交換することで新しい組成の主体を作ることができる。このとき、新たに取り込む部位を別の群体から取ってくれば、存在を混合できる。
例えば、ある軍隊を別の軍隊と混ぜ合わせて新しい軍隊を作れるし、所属先を間違えた兵士が勝手に別の部隊に混ざってしまうかもしれない。
逆に、「個体である主体」は混ぜ合わせることができない。せいぜい隣り合うのが精々で、内実を分解して組み合わせることはできない。

3-2.『すめうじ』内での扱い

黒華、白花、紫、椿の四人が「群体としての主体」であり、身体を生物の群れに変換できる。逆に、「個体である主体」としてはよく「人間の個体」が対比される。

そもそも個体を表すindividualとはdivideの否定形、つまり、分割できないのが個体の定義だ。しかし、白花はどこまでも分割できて、いくつに割っても生き続けて再生を目指す。よって、白花は個体ではない。群体なのだ。こいつは人間個体である前に蛆の群れだ。

(第29話より)

 群体が持つ3つの性質は以下のように描かれた。

1,自律分散型
存在を切り離して物理的に離れた場所に偏在できる。例えば、白花は井戸の中や自宅や広場に偏在することによる疑似的なワープ能力を持っている。
また、自律分散型の身体は物理的な損傷にも強く、爪で刺されても銃で撃たれてもダメージが入らない。これは各器官が自律した虫であるために可換であり、機能が集約された臓器を持たないから。

補足259:こうした身体の在り方はドゥルーズ+ガタリの「器官なき身体」から着想を得ているが、原典が難解すぎるので彼らがそういうことを言っていたのかはわからない(俺は各器官が機能分化する前の身体を指すと理解している)。第38話で自律駆動する機械である遊園地のイメージが群体の例として挿入されたのもドゥルーズ+ガタリの「機械」を受けている。

2.運命共同体
主に白花と黒華が持つ思想。「二人をまとめて一つの主体であること」を理想とし、声も生死も傷も何もかも共有し、意識と自我すら分かれていない状態を目指す。
第17話では白花がジュリエットとの会話中で「黒華が死んだら自分も黙って死ぬ」(生死の共有)と語り、第26話で黒華が白花に同じ怪我を負わせ(傷の共有)、第39話で白花が椿に声が届かないことを不満とし(声の共有)、椿との無理心中を試みる(生死の共有)。

3.存在の混合
異種のものが混ざり合うというモチーフは形を変えて何度も登場している。第1話の食事シーン(蛆と食事の混合)、第32話の幻聴(聴覚システムの混合)、第37話の蛞蝓の雨(主客の混合)、第38話の捕食(血肉の混合)など。最終的に、第41話で皇灰火なる融合体が誕生した(存在の混合)。

ちなみにラストシーンで灰火が産声を上げて終わるのは、産声は人間の言葉ではなく鳴き声だから。言葉は個体が発するものだが鳴き声は群体が発するものという対比があり、産声が世界中に響き渡ることは人間も虫と同じように群体であることを示唆している。

補足260:これはゆあさから指摘されて感心したのだが、言葉と鳴き声の違いはデリダ的な差延を用いて理解できる。言葉は二者間で伝達される際に記号体系を中継するため、必ずしも話者が意図した内容がそのまま確実に聞き手に伝わるとは限らない。よって、完全にはわかりあえない二人の主体の間で成り立つ行為である。一方で、鳴き声は言葉ではないために話者の起源をそのまま発露する。よって、完全に理解し合う一者の内部での行為である。以上、個体においてはズレのある言葉を用いて二者間コミュニケーションが行われる一方で、群体においてはズレのない鳴き声を用いて一者内のコミュニケーションが行われる。最終的に白花と黒華は境界なく一致する一者(灰火)になり、彼女(ら)のコミュニケーションは鳴き声の次元になる。

また、主体としての主観的な視点を表現するために「環世界」を用いた。

見えてるものが違うってことは、世界に何があって何がないかっていう根本設定から違うってこと。人間も蛇も蚯蚓も螻蛄も水黽も、それぞれの種にそれぞれの主観的な世界があって、どれが唯一の正しい世界ってわけでもないんだよねー。人間を含めたそれぞれの種に固有の世界、ユクスキュルが言うところの環世界ってやつだよ。

(第34話より、黒華曰く)

環世界に関しては、強い思想的な意図があって用いたというよりは、主体の性質が変化したときの主観性の変化という困難な描写を行うのに便利そうだったから道具として使った。一つの主体に一つの環世界が対応するという形で、各人の主体の切り分けを明確化する役割があった。

3-3.各キャラクターの役割

後半部で特に重要な役割を担うのは白花、黒華、紫の三人。

3-3-1.白花

主人公らしく、群体的な要素を寄せ集めたキャラクター。身体的に群体であるだけではなく、精神的にも群体の特徴を踏まえた性格をしている。

まずベースにある性格として、「私」という自己認識が非常に希薄。「私にとっての人生」「私にとっての幸福」「私にとっての貯金」という考え方が苦手で、適当にしか生きられない。自分から主体的に何かをすることができず、常に巻き込まれる形でしか行動しない。

その他細かい性格についても上に挙げた三つの性質に照らし合わせて理解できる。

1.自律分散型の性格
一つのものに集中せず脈絡のない行動を取ることが多いが、活動エネルギーそのものは低い。分裂病質。
それは人間関係に対して顕著。誰とでも適当に仲良くなれるが、関心の上限が低く、相手を本心から心配したり気遣ったり嫌ったりしない。

補足261:ハーレム系主人公体質とも言う。

2.苛烈な運命共同体思想
他人に深い興味がない癖に異常なコミットを試みる二面性を持つ。
傷や声や生命を共有することにこだわり、黒華と同じ傷を作り、呼びかけが一方向であることを嫌い、椿と無理心中しようとした。ただし、決して椿に強く執着しているから心中するわけではないことに注意(運命を共にする相手は別に誰でも構わない)。
コミュニケーションを群れとしての一体化に依存しているためにサークロのような自己完結タイプが苦手。

3.存在の混合への抵抗のなさ
何事にも流され体質で拒否反応がない。
拷問された直後でも一緒に食事ができたり、相手を銃殺しようとした直後でも一緒にジェットコースターに乗れたりする。紫の蛞蝓に喉をジャックされたり、椿に食われたりしてもあまり気にしていない。最終的に黒華と完全に混ぜ合わされることに対しても、白花は何とも思っていない。

補足262:白花は椿戦で「死」を手段として用いるようになるが、「死」を資本主義システムに対する対抗馬とする議論は資本主義批判ではよくあるパターン(ボードリヤール大澤真幸)。白花が独特の死生観を持ち、割とすぐ死にたがるのはそれを引き継いでいる。

3-3-2.黒華

メインヒロイン。対白花限定で群体的な心性を持つキャラクター。白花がノード的な意味で群体だったとすれば、黒華はエッジ的な意味で群体。

基本的には白花と似通った性格をしている。分裂病質、運命共同体思想持ち、存在の混濁に抵抗がない。
ただし、後ろの二つは対白花に限られる。白花以外と群れが交わることは嫌っているし、年上の椿やジュリエットに対しては他人行儀で必ず敬称を付けている(初対面の相手にすらタメ口を利くコミュ障の白花とは対照的)。白花よりはまだまともな対人能力を持っており、自分の人生を自己実現する意志もある。

白花と黒華においては、萌えラノベとして「群体と百合」という派生テーマがある。
少し前の日常系アニメでは「あまりにも美少女同士が仲良くなりすぎてしまいコミュニケーションが破壊される」という事態が散見された。あまりにも人間関係が自明なものになってしまうと却ってその関係が希薄になるのだ。わかりあいすぎていちいち言葉を交わす必要もなくなってしまい、予定調和のやり取りがあるだけで、他者との差異を感じる価値観の交換が何もなく、形式だけになった会話が上滑りする。「人間は分かり合えない」という前提があったエヴァとは違い、今や「美少女同士が分かり合いすぎる」という真逆の構図になっている。
こうした無限の分かり合いを突き詰めると、二つのキャラクターをまとめて一つのキャラクターとするような状態に到達するだろう。すなわち二つの個体が一つの群体になること、群体としての主体が現れることである。白花と黒華が灰火という群体を成したのは、こうした日常系アニメでのコミュニケーションの変質を踏まえている。

3-3-3.紫

元々人間ではなく蛞蝓であり、誰よりも群体に近い。白花以上に無気力、自分の意志を示すシーンが一つもなく、だいたいいつも寝ている(でも属性が似ている白花には少し懐いている)。

群体が持つ性質のうちで特に「存在の混濁」と、群体の生成論について掘り下げる役割を担う。そのためのモチーフとして「粘体」がキーワードになっている。つまり、「蛞蝓の群れ」とは、群体であり、かつ、粘体でもあるもののイメージ。

蛞蝓の能力はサルトルの粘体論をわりと露骨に引用している。

ねばねばしたものは、まず、われわれが所有することのできる一つの存在という印象を与える。……私は手でそれをつかむことができる。……ねばねばしたものは、従順である。ただし、私がそれを所有していると思っているまさにその瞬間に、奇妙な転換が生じて、ねばねばしたものの方が、逆に私を所有する。……突如として、危険にまきこまれる。

(『存在と無』、第4部第2章第3節「存在を開示するものとしての性質について」より)

粘体を握れば、同じ強さで握り返してくる……あなたが握っているのと、粘体が握っているのは、区別できない……動かないのに動き出す、意志の所在がわからないのが粘体。いつでもあなたの動きと形に追随する……粘体は、わたしとあなた、能動と受動、主体と客体、図と地の区別をしない

(第19話、紫曰く)

サルトルと紫が語るように、主客が転倒して行為主と行為対象が判別不可能になる事態とは、まさに存在(主体性)の混合に他ならない。よって、粘体を掴んだときに起きることは、私とあなたという区別が無化されて一つの群れに組み込まれることと同じである。つまり、粘体には「個体でない主体」を作り出すもの、群体の生成者という立ち位置を与えられる。ラストシーンで黒華が白花を刺すナイフに蛞蝓が必要だったのはこのため。

補足263:こうした群体の生成過程には分裂病のイメージが組み込まれる。精神病の説明仮説である「異常セイリエンス仮説」によれば、精神病は世界の事物に適切な注意を振り分ける能力が破綻することで発生する。紫の「蛞蝓の雨」が引き起こす「何もかも判別できなくなる」という事態も異常セイリエンスと同じ。なお、「分裂病」を資本主義システムに対する対抗馬とする議論は資本主義批判ではよくあるパターン(ドゥルーズ+ガタリ浅田彰)。白花が「死」という対案を担当したのに対して、紫は「分裂病」という対案を担当している。

3-3-4.椿

椿さんは根本的に群体向きの性格じゃなかったってこと。自分の生存とか生き方に執着するタイプの人、あんま群体に向いてないんじゃないかなー。そーいうのって個体としての価値であって、群体になってバラバラになったら消えちゃう部分なんだからさ

(第40話より、黒華曰く)

群体の成り損ない。黒華が指摘する通り、椿は群体向きの性格ではない。土壇場でまともさが振り切れず、群体の世界についてこられなかった。
椿はどこまでもまともな人間であり、性格は自律分散ではないし、運命共同体思想を持たないし、存在の混濁に向かうわけではない。それぞれ具体的に言えば、椿は自分の人生への執着を持ち、「私と相手」という二者を前提するまともな人間関係として白花が好きであり、白花を食うにしても存在を混ぜるのではなく白花を支配したいだけ。

しかし観察眼は非常に優れているため、白花を殺そうとする過程で「食事」が群体同士が存在を混合する手段になり得ることを発見した。

食べるっていうのは単なる傷害とは違うんでしょうね。もっと根本的な、被食者と捕食者の境界を新たに引き直す行為なんですよ。食べられた先輩の耳は私の血肉に取り込まれますから、不在の耳はもう先輩のものじゃなくて私のものです。

(第38話より、椿曰く)

椿が述べるように、相手を取り込む行為である「食事」もまた「粘体」と同様に存在を混合するものであり、群体の生成論を構成する。

3-3-5.サミー&レイス

個体の代表格その一。この二人は単一の存在感が非常に強い個体として群体と対比される。
天使と悪魔は神々しく完璧な身体を持つ一者であり、肉体が分割されることは有り得ない。サミーとレイスがいかにもバトル向けの過剰な武力を備えているのも個人としての完成度が極めて高いため。

補足264:ちなみにこの二人は人間の性を超越する天使と悪魔であるため、男性器と女性器を共に保有しているふたなり(裏設定)。それはファルスを持つ完璧な個体であることを意味する。

あたしの鎌は何でも切れるけど、ただそれだけ。どこをどう切っても死なないやつなんて殺せるわけないじゃない (第30話、サミー曰く)

サミーとレイスは個人としては最強だが、切るとか射るとかいう分割をベースとした個体のルールで戦おうとすると群体には勝てない。それに比べ、椿だけは「蚊取り線香の煙」という群体の一種を用いれば、群体である黒華に対抗できることを直観的に理解していた(煙は「主体でも個体でもない存在者」、水や砂と同じ)。

3-3-6.ジュリエット

個体の代表格その二。誰よりも我が強いナルシスト。

わたくし自身が群体になることは全くぞっとしない話です。わたくしにとっては個体としての外見を失うことが何よりも避けるべき事態であり、小さな虫の群れに変わることなど到底受け入れられませんので (第40話より、ジュリエット曰く)

サミーとレイスが肉体的な意味で個体的だったとすれば、ジュリエットは精神的にも個体を極めている。明確に群体を拒絶する人間。

補足265:ちなみに設定上はサミーとレイスよりもジュリエットの方が強い。サミーとレイスが肉体やスキルにおいては個体最強ではあるとはいえ、ジュリエットのセンスと経験はそれを上回るため。

主人公が群体であるために群体を持ち上げ過ぎたきらいがあったので、負の側面も示す役割を担っている。群体は誰にとっても便利な身体というわけではない。アイデンティティを失うリスクと裏表になっており、自己への関心が薄い人間にしか適合しない。

また、登場シーンでは主体性の欠落が完璧な行為者を招来するという逆説に言及している。

日本のサブカルチャーにおけるメイドは矛盾した存在で御座います。まずメイドは主人に仕える従者であるため、目的を自ら意志決定する主体性を持ちません。しかしそうであるが故に、迷ったりぼろを出したりすることもありません。選択しない者に失敗は有り得ないのです。すなわち、主体性の欠落こそが完璧な行為者を招来するという逆説がメイドの本質で御座います。ならば、主人を持たないメイドがいるとすれば、それは主体性を回復した完璧な行為者になりましょう。それこそがわたくしの理想とするキャラクターで御座います

(第10話より、ジュリエット曰く)

これは近代以前の神の被造物としての人間が主体性を持たないが故に実存的な課題に直面しなかったことを示している。ジュリエットによる主体性の回復宣言は神の被造物としてのステータスだけを継承しながら神の支配を自覚的に逃れて行動するという屈折した無神論に相当する。
サブカル的には、近年の作品で被造物としてのキャラクターが実存主義的なモチーフを伴う風潮を踏まえている(デトロイトやニーアオートマタ)。とりわけメイドキャラにおいてはアズールレーンのアニメでベルファストを中心にこの論点が展開しており、ジュリエットの基本的な性格や口調がベルファストを下敷きにしているのはその影響。

3-3-7.遊希

後半部でもイマイチはっきりしない立ち位置になってしまった。
11歳という年齢的にまだはっきりした主体性を確立する前の成長過程のキャラクターだし、ジュリエットの娘なのでかなり個体寄りの気質をしている。

補足266:一応、遊希だけが生物ではなく無機物である蜘蛛の巣を使役しているのには理由がある。「蜘蛛の巣」というモチーフはポスト構造主義的な精神分析のイメージを表しており、「蜘蛛の巣」が「構造」に、「蜘蛛」が「ファルス」に対応している。つまり、「蜘蛛の巣」を張るのに中心にいるはずの「蜘蛛」が一向に現れないのは、無意識的な「構造」のネットワークの中で「ファルス」が欠落しているため。

設定的にも思想的にも群体にする理由がなく、適当に考えた能力も拡張性が低いのでちょっと持て余した。富士急ハイランド戦では離脱したのはそのため。可愛いからいいか。

4.前半部と後半部の接続

前半部と後半部の基本的な関係は冒頭で見た通り。自由と平等が両立しないという前提の下で管理局とアンダーグラウンドが並置され、結局その原因の根本には近代的な主体概念があるために後半部では対案としての群体が提示された。

それを最もはっきり述べているのは第34話の黒華の演説。作中で一番の長台詞なのは、群体という主体のオルタナティブがリベラル社会のオルタナティブでもあることを明示する非常に重要な議論であるため。

私たち群体はトランプの裏面なんだよ、お姉ちゃん。インタポレーションで皆がトランプの表面になったのとは真逆なんだ。トランプの表面ってアイデンティティそのものなんだよね。そこに書いてあるスートと数字を見れば他のあらゆるカードと区別できる、っていうか、区別するためだけに記号が書き込まれてるんだからね。管理局が推進するリベラルな多元主義者と来たら、『あなたは誰ですか?』『はい、私はハートの9です!』ってな具合に、いつでもどこでも自分と他人を区別する記号を持ってるつもりでいるんだ。もちろんスートも数字も無限にあって、『私はスターの476です』とか『私はスクエアの28342です』みたいな自己紹介がいつでも街中にこだましてる。でも、私たち群体はそーいうのとは違う、何も記号が書かれてないトランプの裏面なんだ。他のカードとは区別できないし、むしろ区別できないことこそ裏面の定義だよ。あらゆるアイデンティティを消去されてて誰にも名指されないけど、だからこそ、いつでもどこにでもいて可換で無敵なんだ。例えば、トランプの束からスペードの4だけを無くしたとしようか。個性大好きクラブの連中なら、欠損したスペードの4を探し回って補充しないと気が済まないだろーね。スートと数字は唯一無二のアイデンティティであって、他のどのカードでも代替できないんだから。だけど、私たちはそんなこと気にしなくていいんだ。トランプを束ごとひっくり返して裏面にしてしまえば、無くしたカードのスートも数字もわからないからさ。そんなの何でも替えが効くから、補充するのはキングの13でもジョーカーでもブランクカードでもいいんだ。そもそも最初からカードを無くしたことにさえ気付かないかもね。私に言わせればワイルドカードのジョーカーなんてまだまだ甘いよ。ジョーカーは『誰にでもなれる』っていう立派なアイデンティティにしがみついてるんだから。ホントにワイルドカードになりたいなら、黙ってひっくり返ってしまえば、君がジョーカーかどうかなんてもう誰にもわからないのに!

(第34話より、黒華曰く)

 また、前半部での「表社会」と「アンダーグラウンド」の対比、後半部での「個体」と「群体」の対比は性質をパラレルに共有するものとして解釈することもできる。
つまり、「表社会」は「個体」と類似し、「アンダーグラウンド」と「群体」は類似している。例えば、表社会が管理局を頂点とした中央集権型の組織であるのに対して、アンダーグラウンドは超越者がいない自律分散型の組織である。表社会では縦階級や上下関係があるのに対して、アンダーグラウンドでは基本的に誰もが横並びで対等な関係。
このため、アンダーグラウンドでは協調or対立関係もコロコロ移り変わり、初登場時は敵対していたジュリエットと遊希が仲間になったり、黒華が椿を守ることを宣言したりする。パーティーとしての存在の混合と言うこともできるか。

更に、前半部と後半部を通じ、一貫して存在していた小テーマとして「食」と「美少女」の二つがある。

「食」というモチーフは前半では「コミュニティの連帯」、後半では「存在の混合」という役割担っていたことは既に書いた通り。
そして途中で白花が「食べ物を他人に食べさせてもらう」という行動を取り始めたことはこれらの中間的な意味を持っている。前半部の文脈では「食」はコミュニティの連帯を担っていたが、一対一の親密な関係でそれを行うことによって社会的な領域を縮小して個人的な領域に近付けている。また、後半部の文脈では「食」は存在の境界を崩す行為だったが、食べ物の所有権をやり取りすることで疑似的に身体を受け渡している。

「美少女」というモチーフは前半ではジュリエットを筆頭に「容姿差別」として、後半では白花と黒華を筆頭に「運命共同体関係」として提起されてきた。
これは一見すると真逆の内容だが同じことの裏表を表している。オタク文化においては容姿の美醜こそが全てを分断する唯一の基準である。美と醜という異なる領域の間にある溝は海よりも深い一方で、美という同じ領域の内部は水面よりも滑らかでどんな障害も存在していない。

5.反省

以上の思想的な流れを踏まえた反省点をいくつか書く。

・中盤のサークロ周りの話はもっと削ってよかった。
サークロが提示した「代替命について」と「インタポレーションの科学的解釈について」というトピックは主要テーマへの貢献が薄い。
一応、人たらしの白花にも受け付けない相手が存在することを描きたかったのだが、そのためにサークロというキャラクターが魅力的ではなくなったのはあまり良くない。また、メタ場の話は物理学的なイメージで捉えた環世界論の導入でもあるが、難解な割にリターンが薄い。

・代替命の話を引っ張りすぎ。
結論から言えば、代替命とはデカルトが提唱した「松果体」のこと。心身二元論の要、身体と心を結び付けるもの、心が命じるように身体を動かす器官。
「生命を軽視する心の持ち主(黒華、白花)の松果体は身体を軽視するように作用する」ということなのだが、作中では「生命の境を乗り越えるアイテム」と誤解されている。そこまで大したアイテムではなく、テーマそのものとは関連しないのに話を割きすぎた。

スイミーとジュリエットを絡ませるべきだった。
この三人はオタク文化の担い手という点が共通しているので話が合うはず。
サミーもアイドルとして容姿には一家言あるキャラクターだし、ジュリエットと議論させて掘り下げればよかった。そうすればジュリエットの差別主義とオタク趣味を明示する機会を与えられたし、登場の遅いスイミーのキャラクターを描写するシーンも作れたはず。何故それをやらなかったのか自分でもわからない。

・紫の能力をもうちょっと自然に描写すべき。
サルトルを踏まえた能力そのものが難解であるため、どうしても理解の難易度が高く、もう少し工夫して提示できればよかった。
例えば、喉を借りて喋るシーンはもう少し前の宿泊シーンとかでやっておいて、銃弾を止めるシーンとは分けるべきだった。「このキャラは人の喉を借りて話します」ということだけ最初に示しておいて後から原理を解説するという流れの方が理解しやすいはず。

・群体の話を詰め込み過ぎている。
ペース配分が悪い。白花がコンクリ詰めにされて以降、色々な事態が同時発生し、処理すべき情報量が多い。
前半部のテーマが第17話で決着している割に、白花が本格的に群体の話に参入するのが第31話。この間に14話も割かれており、群体の話をしっかり扱うべき後半部はたった11話分しかない。やはりサークロの話を削ってそこでもっと群体をフィーチャーすべきだった(無意識にワープしてしまう回を作るとか)。

・インタポレーション設定を持て余していた。
正直、インタポレーションが何だったのかは俺もわからない。ファンタジー設定を詰めることには興味がなく、どうとでも取れるような緩い設定にしたかったからだ。
第3話の時点で街には獣人が多いという描写をした割には、結局登場するのは普通の美人と美少女ばかりという不整合がある。俺はケモナーじゃないから、獣人とか変な見た目の美少女キャラクターを出すモチベーションがなかった。もうちょっと都合の良い基礎設定に書き換えた方が良いが、リベラルな人権意識の高まりが生じるためには外見が変化していることは必須条件なので、それもなかなか難しい。

・遊希は削除すべきではない。
主要登場人物の中ではイマイチ思想的に定位できないと書いてきたが、それは逆に貴重なエンタメ要員ということだと思う。多分いた方が全体としては良い効果をもたらすと思うのでこれに関しては修正する気はない。可愛いし。
俺が知らないだけで遊希の思想的な立ち位置についてもっと妥当な解釈があるのかもしれない。

6.設定資料集

思想的にはそれほど意味のないオマケ、キャラクターの細かい設定について。

・白花(ハクカ)
現23歳(インタポレーション発生時13歳)。その辺の公立小中高を経て東京外国語大学で宗教社会学を専攻した後、中小商社に事務職で入社。二週間で退職し、現在は引きこもり生活二年目。
人文社会学分野に関しては優秀だが、理系分野にはかなり疎く、数学は因数分解が限界。抽象的な事象の理解に強く演繹的な論理展開が得意な一方、現実を見る能力が低く帰納的な論理展開が苦手。部屋に籠って考え続ける作業ができる代わりにフィールドワークをしても大した成果が得られない。
ずっと引きこもってネトフリやアマプラを見ているため映画には強い。何でも見るが、映画館には行きたくないので流行からは一歩遅れる。基本的には実写作品を好み、アニメはあまり見ない。

・黒華(コクカ)
現17歳(インタポレーション発生時7歳)。白花と同じ公立小中を経て中卒でアンダーグラウンドへ。中学からあまり真面目に通っていなかった。競技プログラミングで研鑽を積んだのちアンダーグラウンドで実践経験を積み、エンジニアとしては極めて優秀。
何事も知りたいことはすぐに調べ、表面的な知識の吸収が早い。即物的な対応が得意で機転も効く。ただし、正規の教育を受けていないために物事を体系的に考えたり前提を積み上げる吟味が苦手(専門分野だけは例外)、複雑で長大な事件には弱い。
ギークでネット文化には強いが、それほど熱心に映像作品を鑑賞する習慣はない。作業中や息抜きで流し見して流行を抑える程度。DarkTubeに自分のチャンネルを持ち、バーチャルユーチューバーもやっている(ダークウェブで人気)。

・椿(ツバキ)
現22歳(インタポレーション発生時12歳)。名門女子中高一貫を出て東京外国語大学で宗教社会学を専攻した後、国家公務員試験に合格して管理局に勤める。新卒一年目なので今は現場の外回りをしているが、キャリアコースで幹部候補(だった)。
地頭が最も良く、他の誰よりも知能指数が高い(ジュリエットより上)。頭の回転が速い上にクリエイティビティもあり、実践的な現場では他の追随を許さないリーダーシップを発揮できる。その一方で、他人が考えた理論にあまり興味が無く知識量も少ないという弱点がある。アカデミズム向きではない頭の良さであり、学校の成績はそこまで良くない。
人並みに俗な映画を見る方で、流行りの作品を仕事帰りによく映画館で見る。ジョーカーとかパラサイト見てそう。

・ジュリエット
現28歳(インタポレーション発生時18歳)。ドイツに生まれて日本アニメ文化に目覚め、日本語を学んで留学してきたのち慶應大学医学部で学ぶ。研修医がタルかったので中退してアンダーグラウンドに潜る。殺し屋稼業はインタポレーションが起きる前からやっている。インタポレーション以前のアンダーグラウンドを知る、作中では数少ない人間。
普通にガチのアニメオタクで、本場英国メイドではなく萌えアニメ大好きコスプレイヤー。自分のメイドキャラを作っているしジュリエットも本名ではない。発言の節々から滲み出る差別主義とエリーティズムから明らかなように、素の性格はもっと破綻している。「容姿が醜い人間に負けること」が地雷で、それが起きると普段の落ち着きを全て失って恥も外聞もなく取り乱す。
典型的なインテリでもあり、物事の理解が早い上に広い教養を持ち読書量もズバ抜けている。豊富な知識や経験を動員して大抵の事態には上手く対処できる一方、知識が頭でっかちで学習と実践が融合するシチュエーションが苦手という弱点もある。全く未知の事態に対しては意外とテンパる。
実写作品はあまり見ないが、萌えアニメは毎期全部見てブログやDwitterに感想を書いている(ダークウェブで人気)。AKIRAとか攻殻みたいな硬派なやつも多分だいたい見てる。

・遊希(ユキ)
現11歳(インタポレーション発生時1歳)。アンダーグラウンド生まれで戸籍を持たず、小学校にも通っていない。ジュリエットが17歳の時に生んだ娘。ただしアンダーグラウンドの共同体的なところで育ったため、親子の情は皆無。一応ジュリエットのことを母親だと認識しているが、その関係に特に何の意味も見ていない(ジュリエットも遊希のことを娘だと認識しているが、その関係に特に何の意味も見ていない)。お互いに顔見知り程度にしか思っていないので、顔を合わせたところで反応がない。
学校に通っていないながらも、幸いにも知的好奇心が強く読書好きでそこらの小学生よりは圧倒的に賢い。身体能力も高いあたりはジュリエットの娘だけある。
子供なのでハリーポッターとかターミネーターみたいなわかりやすい名作が好き。

・紫(ムラサキ)
年齢は無い。見た目的に現12歳ということになっている。インタポレーションで蛞蝓の群れが人間になった存在。戸籍が無いままアンダーグラウンドの共同体的なところで育った。人間的な内面はきちんと備えており、白花や遊希を仲間と認識しているし協力的な行動を取ることもできる。
書籍やデバイスに触れるだけで主客を転倒して中身の情報を吸収できるという便利能力を持つ。それ故に知識量は豊富だが活かされる機会はあまりない。

・サミー&レイス
現20歳(インタポレーション発生時10歳)。幼馴染み。その辺の小中高出身、中学時代に軽音楽部に所属し、高校でバンド活動にのめり込む。大学には行かず高卒で本格的にアーティスト活動を始める。椿と意気投合して少し前は一緒にバンドをやっていた。椿はボーカル。
経歴と実力的には結構ちゃんとしたアーティストだが、容姿も込みで評価してほしいという思いがあるのであえてアイドルを自称している。共にふたなりでたまにセックスしている(椿を誘ったが断られたことがある)。恋人関係ではなく友人関係の延長なので、付き合っているわけではない。
Youtubeが主戦場でポピュラー音楽ファンなら誰でも知っているくらい有名。ただ、地上波テレビを嫌っているために一般的な知名度はそれほど高くない。アーティストとしてはかなり真面目で勤勉、音楽関係の知識には歴史・文化・技術等を含めて非常に詳しい。流行の最先端をキャッチするためにリサーチも欠かさない。
現在は足を洗っているが、かつて治安の悪いライブハウスを守るために血生臭い用心棒をやっていたことがある。その経験でアンダーグラウンドにも多少の知識やコネクションがあり、戦闘慣れしていたのもそのため。

7.参考文献リスト

思想的に関連するもののみを挙げる。カフカ『変身』のような、単なるモチーフの引用元や元ネタは省いた。

7-1.非常に重要なもの

1.『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』

前半部の議論はほとんど全てこの書籍に由来している。
特にリベラル民主主義への反発と反動的な思想の形成、世界が表社会とアンダーグラウンドに二分されているという構図そのものがここからの引用。キャラクターに関してもジュリエットの差別主義や黒華のリバタリアン気質など、着想を得た要素は数えきれない。
一般的な評価もめちゃめちゃ高いので読んだ方がいい。ハードな学術書じゃなくて新書だから安いしコンパクト。

2.『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』

後半部の議論のうち、「群体としての主体」の定義を第二部「主体性と隷従」から得た。
ただ、この書籍においては、群体的な主体の在り方は資本主義へのカウンターというよりはむしろ資本主義の前段階として与えられている(脱領土化)。ここに改めて主体を統合していくイデオロギー(再領土化)が作用することで近代資本主義的な主体が完成する。脱領土化だけを推し進める思想はいわゆる加速主義と呼ばれるものだ。
よって、『すめうじ』も加速主義的な内容として解釈してもよいのだが、リベラル社会へのカウンターという立ち位置を明確にしたかったので、脱領土化・再領土化の過程は一旦脇に置いて、近代資本主義的な主体に対抗するものとして描いた。
『アンチ・オイディプス』よりこちらを上に置いているのは、『アンチ・オイディプス』は難解すぎてよくわからず、適度に噛み砕いたこちらの方が利用しやすかったから。

7-2.まあまあ重要なもの

3.『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』
ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち
 

『ニック・ランドと新反動主義』と同じ作者の書籍であり、思想的な立ち位置はほとんど同じ。向こうが理論的だとすればこちらの方がルポルタージュ的で、ダークウェブ上での反動思想の活動について具体的に描写している。
『すめうじ』ではそもそも「アンダーグラウンド」というワード自体がこの書籍からの引用。ダークウェブ上にインコレクトなコミュニティが形成され、アンダーグラウンドに生息するキャラクターたちがDarkTubeだのDwitterだのにアクセスしている構図もここから得ている。

4.『存在と無 (第三分冊)』

粘体論はここからの引用。
この書籍を読んでいて着想を得たわけではなく、人文書院の『実存主義とは何か』と読んでいるときに訳者注からサルトルの粘体論を知り、『存在と無』に遡って確認した。

5.『統合失調症
統合失調症  (岩波新書)

統合失調症 (岩波新書)

 

精神病の説明仮説である「異常セイリエンス仮説」について。紫の分裂病的な能力、「蛞蝓の雨」はここに由来する。

6.『オートポイエーシス論入門』
オートポイエーシス論入門

オートポイエーシス論入門

  • 作者:山下 和也
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本
 

個体と群体の差異に関する生命システム的な議論はここに由来している。
古典的な見方では生命は階層構成を含むホメオスタシスである一方、オートポイエーシス的な見方では生命はもっと自由度の高い流転する性質を持つ。群体はオートポイエーシスそのものであるわけではないが、個体的な人体のイメージに対抗して群体的な人体のイメージを掴むのに非常に役立った。
なお、「ホメオスタシス」は学術用語だが、『すめうじ』内で黒華が発する「トランジスタシス」はエヴァ第15話の造語。ホメオスタシスと対になる学術用語だと思っていると恥をかくので注意。

7.『アンチ・オイディプス

『ニック・ランドと新反動主義』や『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』はここに依拠しており、元ネタの元ネタのようなポジション。本来であればこれを筆頭参考文献にすべきなのだが、『アンチ・オイディプス』そのものは難解すぎて俺はほとんど理解できず、解説書や要約を経て参考にしているので、結果的にこの書籍自体はそれほど参考にしていない。
器官なき身体」や「機械」というワードから色々と着想を得たことは既に述べた通り。しかし、ドゥルーズ+ガタリがどういう意味でそれらを書いていたのかはイマイチよくわからない。

8.『生物から見た世界』
生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

 

「環世界」の定義と性質は全てここからの引用。
ただ、この書籍で示されている環世界とは蚤一匹や犬一匹のシンプルな世界のことで、生物の群れをまとめ上げる総意である「群体としての環世界」というアイデアまでにはかなり飛躍がある。

9.『コウモリであるとはどのようなことか』
コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

 

タイトル通り、人間以外の生物であるとはどのようなことであるかを論じた本。人間以外から見た世界を環世界として論じている『生物から見た世界』とも関連が深い。
ただし、『生物から見た世界』が生物学的な議論であるのに対して、『コウモリであるとはどのようなことか』は哲学的な議論。内容は全く異なり、「そもそも他人であることなど可能なのか」という他我問題と接続する。
ちなみにタイトルの「コウモリ」には人間以外の生物の一例という以上の意味はなく、犬でも火星人でも何でもいい。『すめうじ』で吸血鬼の椿がコウモリになったのは偶然の一致。

10.『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』
逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

  • 作者:浅田 彰
  • 発売日: 1986/12/01
  • メディア: 文庫
 

椿が第38話で口走った「パラノ」「スキゾ」という人格類型の引用元。
『アンチ・オイディプス』で論じられた分裂病的な生き方をもっと噛み砕いてエッセイ調にした書籍であり、白花の性格も「スキゾ」をかなり踏まえている。

7-3.そこまで重要でないもの

11.『糖尿病とウジ虫治療-マゴットセラピーとは何か』
糖尿病とウジ虫治療――マゴットセラピーとは何か (岩波科学ライブラリー)

糖尿病とウジ虫治療――マゴットセラピーとは何か (岩波科学ライブラリー)

  • 作者:岡田 匡
  • 発売日: 2013/10/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

マゴットセラピーについて。
医学書ではなく一般書であり、医師である作者がマゴットセラピーを知って活用するようになるまでの過程がエッセイ調に描かれている。原理、発展、蛆の生態などが一通り含まれており、平易でサラッと読める。写真が一枚もないので蛆のグロ画像を見なくて済むのもポイントで、マゴットセラピーをもっと知りたい人にオススメの一冊。

12.『マゴットセラピー ウジを使った創傷治療』

こちらもマゴットセラピーについて。
ただし、これは医療従事者向けのハンドブックであり、患部を這う蛆のグロテスクな写真が無限に含まれている。実際のところ蛆はそこまでグロくないのだが、マゴットセラピーを用いる傷は基本的に切断や死亡が迫った致命傷であるため、完全に崩壊した患部がグロい。
ちなみに、マゴットセラピーを専門に扱う書籍のうち、日本語で読めるものは僅かこの二冊しかない。

13.『金枝篇
図説 金枝篇

図説 金枝篇

 

第21話で白花が言及した呪術論の引用元。
宗教学の基本文献の一つであり、椿の卒論が「呪術論を用いた現代SNS分析」だったため、その面倒を見てあげた白花は呪術論について少し詳しかったという背景がある。

14.『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』
四方対象: オブジェクト指向存在論入門

四方対象: オブジェクト指向存在論入門

 

第19話で白花が言及している。

「そう。わたしもあなたも同じ、人も物も同じ」
「おおお」

この感嘆の声が「おおお=OOO=Object Oriented Ontology=オブジェクト指向存在論」というギャグになっている。
簡単に言えば、オブジェクト指向存在論とは人と物の関係は物と物の関係に等しいと主張する学説であり、相手が人なのか物なのかを気にせずに関係を結ぶ紫のスタンスとの親和性が高い。
とはいえ、思想的に深く関連するわけではなく、あくまでもギャグで使ったに過ぎない。

8.『すめうじ』批評会のまとめ

2020年3月8日に新宿で『すめうじ』の批評会を行いました。

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自分で自分の小説を批評するという意味不明な企画に10人も集まってくれ、多くの質問や批評を頂きました。批評レジュメは本当に宝物です。

アンケートを取った結果、キャラクター人気は以下の通り。

・人気1位:椿
「負けヒロインが好き」「一番人間っぽい、主人公っぽい」

・人気2位:ジュリエット
独我論者すばらしい」「差別主義者」

・人気2位(同率):白花
「引きこもり」「他者感がやや近い」

逆に一番人気が無かったのが黒華で、誰も好きなキャラに挙げなかった上にむしろ嫌いなキャラに挙げた人が多かったです。メインヒロインはだいたい不人気ってやつ?

会合で出た話のうち、参加者の批評、様々な質問とその答えについてまとめます。

8-1.参加者の批評

以下、引用形式で書かれた文章は参加者レジュメからの引用。

8-1-1.世界の二極化描写への違和感と背景に感じるエリーティズム

「すめうじ」最大の欠点は、主に第 2 章で示された世界設定、つまり非アンダーグラウンドの描写全般だと思う。「すめうじ」世界ではポリコレワールドとアンダーグラウンドの二元論が成立しているが、現実には連続的だ。寓話として設定するのは有効かもしれないが、それにしては描写が現実世界をベースとしており、強烈な違和感を受ける。

翼や牙が生えたら、素朴な感性として危ないと感じるだろう。拳銃すら効かないのは少数派だとしても、空を飛んだり車並みの速度で移動したりするのは日常茶飯事の世界。暴力は人間の最も根幹の部分であって、否定するのは難しい。

穿ちすぎかもしれないが、この設定の背後にはエリート意識があるように感じる。東浩紀の最近の発言にあったように、「大衆」は使う言葉が違うだけで、何も考えていない訳ではない。「大衆」を一つのイデオロギーで単一集団と見做し管理できているというような設定は、エリーティズムの発露ではないか。

これに対して反論はしないしできない。言っていることは概ね認める。
『すめうじ』はリアリズム小説ではなく萌えラノベなので、戯画化と単純化の結果として、設定のリアリティに違和感が生じるのはやむを得ない。ただ、世界観がこの手の歪み方をしようとも、基本的な世界が現実世界と同じという設定を放棄するつもりはない。

補足267:一応俺は作品と作者は関係がないという立場を取るので「(作者の)エリーティズムの発露」というよりは「(作品の)エリーティズムの前提」と言った方が妥当だが、それは大した問題ではない。

また、リベラルな価値観を世界規模で考えると整合が取れないという批判も受けた。

インタポレーションは日本だけなのか世界的なのか。
日本だけ→日本人が差別の対象になり成立しない。
世界的→リベラルの価値観なんてものは贅沢品。日本のいち管理局が情報統制できるレベルになるはずがない。

設定上はインタポレーションは世界規模で起きている。一応、日本の管理局が世界の情報統制をしているのではなく、むしろ逆で、世界規模で国際的なガイドラインが制定されたあとに日本はそれに従った政策を展開しているという設定はある(第20話でジュリエットが言及)。現実的にそれで世界が上手く回るのかと言われると、それもやはり萌えラノベの限界で、そこまでリアルなことは正直考えていない。

8-1-2.個体者と群体者のすれ違いについて

この作品で初めに提示される対比構造は「ロット―ブラウ」だ(「あえて馴染みの薄い外国語を使うことで無用なコノテーションを避けられる」(3)とされているが、この配色は日米の二大政党を連想させる)。「インタポレーション」によって多様性が増幅し、その衝撃により実現したリベラル・ユートピアを舞台に物語が展開していくことが予感される。この社会の成立を支えている論理には示唆的なものがある。

表面的には、私たちの外見の違い(すなわち、美醜(←だからジュリエットは「個体」側の差別主義者である)・人種・民族・性別・セクシャリティ等々)はたかだか包摂可能な多様性であることが明白になったということだが、その裏には「人間」であることが保たれていない者は(「ロット―ブラウ」を問わず(8))「アンダーグラウンド」へと排除されていくというシステムがあり、この社会にヒューマニズムが通底していることがうかがえる。

そこから、物語の関心は「アンダーグラウンド」へと移り、核心となる対比は「表の世界―「アンダーグラウンド」」へと移る。しかし、この対比は設定を構成するのみであり、現実社会の通念以上のものではない。この作品が描写する他者は、たんなるアウトローではない。伏線は散りばめられていた。「「現在、アンダーグラウンドで探求されているのはブラウの新たな生命の可能性なのです。例えば個体としての生命を逃れて……」」(14)、「「やはり姉妹ですね。以前、黒華様ともこうしてお話しする機会がありましたが、そのときも……」」(17)、「「そう。触った粘体も影と同じ、いつでもあなたと一緒に動く。だから粘体は、わたしとあなた、能動と受動、主体と客体、図と地の区別をしない」」(19)など、つまるところ「群体」であり、自他の不分別である。「群体」としての白花と黒華は共鳴し(26)(あと紫が群体側)、「個体」としてのジュリエット(17)やサミー(29)はその群体性に嫌悪感を顕にする。

椿による襲撃(28)以降、椿と白花の根底的なすれちがいが明らかになっていく。椿もまた蝙蝠の群体へと化した(38)のだが、それは黒華の代替命によるものだった。椿は、本質的には個体性に固執するパラノイアである。それが、少し軽やかに生きようとしているにすぎない。だから結局のところ「群体」になりきれないし、「食べる」という非対称の関係を結ぶことしかできない(39)し、白花の友達感覚が理解できない(33・39)。それに対して、白花はたやすく心中する(39)し、最終的に黒華と混合する(41)(筆者は「セックス」だと言っているが(小ネタ33)、ふつう、セックスは自他の分別を前提としているので、これはふつうのセックスではない)。

私は個体であるし、大胆に一般化すれば、私たちはみな個体である。フランス現代思想の担い手たちもそうだ。まず個体であり、個体に執着しているという事実があって、程度の違いこそあれども、そこから自由になったりならなかったりしている。それは厳密にいえば白花もそうである(完全に蛆虫であったならば私たちに読める言語へと翻訳できない)。が、それを指摘するのは不毛である。そういう他者としての「群体」の主観を描ききったところに価値があると思う。

読者は椿のように、白花に憧憬を寄せつつも逃げられてしまう。そういう残酷な作品。

これめちゃめちゃ精密な読みというか、俺と全く同じ読みをしており、全て完全に同意するので逆にコメントできるところがない。参加者が批評をしてから俺が批評するという順序だったので、俺が何か言う前にここまで見解が一致する批評が出てくるというのはちゃんと思想的な内容が伝わっていたんだなと思ってかなり感動した。

最後の一文がすごく良い。読者は当然個体だから、群体という異常者である白花ではなく、個体という凡人の椿にしか感情移入出来ない(だから一番人気ヒロインだったのか?)。白花が灰火となって読者の前から消滅してしまうのは、椿が最後まで白花を捕まえられなかったこととパラレルに理解できる。その読みには俺は気付かなかったので感心した。

8-1-3.人間関係モデルとして「未来にキスを」との比較

「すめうじ」では、二つの群体が同一化するという新たな人間関係が提示される。
これは原理上完全に対等な理想的関係でありそうだが、悲しいかな現実の人間は群体ではない。とはいえ「群体-同一化」モデルに相似な人間関係を想像することは無駄ではないだろう。

まずは(現実の)人間個体が群体に近いといえるのはどのような状態であるかについて考えよう。群体とはどのような性質を持つのだろうか。黒華による性格についての言及を参照してみよう。

これは私の考えだけど、たぶん性格の問題だと思うよ。椿さんは根本的に群体向きの性格じゃなかったってこと。自分の生存とか生き方に執着するタイプの人、あんま群体に向いてないんじゃないかなー。

これから、「群体としての生とは、自己の存在や生き方に執着しない」ことが言える。
また、作中で現れた群体者である紫、黒華、白花は、いずれも自分と他者の何かが対称であることに対するこだわりを持つか、対称にするような能力を持っていた。
よって、群体のような個体の資質とは、「自分の存在や生き方に執着せず、自分と他者が何らかの形式において対等であることにこだわりを持つ」ことであると言えそうだ。

次に、同一化とはどういうことであろうか。
同一化とは、自分と相手を同じように扱うということである。それは通常の仕方で相手を尊重するということと何が違うのだろうか。私が思うに、そこにあるのは通常に相手を尊重するという場合、相手の自分に対する感情をコントロールするために行動することがあるのに対して、同一化群体としての相手に対しては、相手から自分に向く感情をコントロールするためのパフォーマンスとして行動することはないという違いである。

相手から自分に向く感情が思い通りにならないことが人間関係の不和の主たる原因である。その点で「群体-同一化」モデルは安定した人間関係のモデルとして良いものといえよう。

「群体-同一化」は相手をコントロールしない新たな人間関係のモデルとして優れていそうだ。しかし、群体の条件である「自己の存在や生き方に執着しない」を満たす人ばかりではない。そのような人々はどうしたらよいだろうか。

「すめうじ」と同様に、新たな人間関係のあり方を示した作品に「未来にキスを」がある。「未来にキスを」は2001年に発売されたノベルゲームで、エロゲプレイヤーとしての生を肯定したものと評されている。そこで提示された人間関係とはどのようなものか。まず下記のセリフを見てほしい。

「ボクは、お兄ちゃんが好きだ。
そのお兄ちゃんは、お兄ちゃんのお兄ちゃんじゃなくて。
僕の中にある僕だけのお兄ちゃんだ。
そのお兄ちゃんがいれば、ボクは幸せだ。
お兄ちゃんの中のボクも、ボクの中のボクとは違うけれど。
お兄ちゃんはお兄ちゃんの中のボクだけ見てくれればそれでいい。
ボクとお兄ちゃんは、もうお互いを見なくてもいい。
ただ、自分の中だけを見ていればいい。」

要するに他者を認識する際、自己の中にある他者像ではなく自己の理想化した他者像を見る、ということである。このような方法で他者を認識するのが「新しい人」であり、その先には圧倒的楽園が待っている、という。それはなぜか。

今までの"人"は「相手を見よう」としていた。だからこそ絶対に相手に手が届くことは無かった。しかし、"新しい人"は自分の中の相手だけを見れば良い。だから他人を手に入れることが出来る。

相手のことを真に理解することは原理上不可能であり、そのため他者理解には不安定なものとなり、ときに不和やすれ違いが起きることがある。そこで現実に何が起ころうとも自分が理想化した相手の像だけを見続ければ、不和が起きることはない。ここに圧倒的楽園がある。
これは単にノベルゲームを楽しむプレイヤーへの肯定であると受けとられていることが多いが、実は現実にも十分適応可能である。
現実の相手が何を言おうとも自らの中に作った相手のモデル内で解釈する。厳密にいえばそもそも我々が現実を観測する際は常にそのような仕方でしか解釈できない。「新しい人」は加えて、相手の像がモデルでしかないことを自覚し、モデルの現実に対する精度を放棄して、かわりに自分の理想をベースとしたモデルの構築を重視する

「すめうじ」で提示される「群体-同一化」モデルと「未来にキスを」で提示される「新しい人-圧倒的楽園」モデル。これらは一見大きく異なっているが、現実の相手から自分への感情をコントロールすることを放棄するという点では共通している。

超越的なものの存在が信じられないいま、目の前の人間とわかりあうことは不可能である。そこで相手とどのように付き合っていけばよいのかという問題は大きい。
「すめうじ」の「群体-同一化」モデルは作中では完全に分かり合っているのだが、その関係のあり方は分かり合えない人々の関係構築のあり方を提示してくれた。

他者との関係のなかに悩んだとき、自分と相手が同一の群体であるとすればどのような意思決定がなされるか、そのような想像をしてみるのが助けになることもあるのではないだろうか。

エロゲーマーらしく、ヒロインとの人間関係について俺が運命共同体思想と表現したものを深く掘り下げている。

こちらも全面的に俺と同じ読みで、既に述べたように、群体者が関係の対等さにこだわるのは群体は存在を混合して同じ主体を構成する一つの群れになれるため。通常の人間関係が二者間コミュニケーションであるのに対して、群体者の関係は一者内コミュニケーションという形式を取る。

未来にキスを」を例として挙げられている「新しい人-圧倒的楽園」モデルはカントが解決した啓蒙のパラドックスを想起させる。
カントは経験の条件を問う超越論哲学によって、他者を他者として認識するのではなく、自らの理性の枠組みの中へと他者の鏡像を取り込むプログラムを完成させた。このロジックによって西洋列強は植民地から本来の意味での他者性を抜き取り、自らに同化させる啓蒙を行うことに成功した。
このようなカント解釈は一般的には他者性を殺して抑圧するものとして批判されるが、それは社会的な枠組みで二者関係の外部から見た場合に限られる。個人的な二者関係としてその内部にある一人からこの構図を見る場合は、むしろ他者を理想化して最大の一体感を得る理想的な人間関係であるという逆転が起こってくる。徹底的に主観的な恋愛対象との人間関係というエロゲー的な次元に来て、「他者の殺害」という批判を受けるカント的啓蒙のプログラムと、「他者との融合」である群体化が奇妙な性質の一致を見る。
更に、他者を抑圧する啓蒙のプログラムを批判するものとしてフェミニズムのようなリベラルを下支えする思想を見るならば、リベラルへの反動的な思想として出現した群体思想がまたカント的な地点に戻っていくというのは面白い。トランプを二回裏返すと元の面に戻る、再反転の構図が読み込める。

8-1-4.主体性と人称の問題について

レジュメは無いのだが、『すめうじ』はキャラクター小説である以上、結局主体性を捨てきれていないのではないか、誰かのキャラクターの主観的な視点が常に存在しているのではないかという批判が複数の参加者から上がった。
俺としては、『すめうじ』内では主体性そのものは比較的強固に保持されるものと想定している。主体性を喪失する事態とは石や砂のような無機物に近付くことだが、そういった現象は特に起きていない。個体か群体か、それが誰のものかという主体性の形式と内容が問題なのであって、キャラクターに紐づけされた主体性自体は常に存在しているつもりだ。

また、主体性と人称の結びつきに関する指摘を受けた。『すめうじ』は一人称と三人称が適当に混在する形式で書かれているのだが、個体が一人称的、群体が三人称的という対応関係が見いだせる。個体が明らかに唯一の視点を持つ一方、群れ全体に拡散した主体性を持つ群体の視点はどこにあるのか定まりにくいからだ。
実際のところ、俺は小説の書き方をよく知らないので一人称と三人称はかなり適当に使っていて全く意識していなかったが、そういう見方をすれば得られるものもあるかもしれない。

8-2.FAQ

Q1.結局ブラウとロットの比率は?
→半々くらい。正確な数値は誰もわからないが、少なくともそのくらいだと皆が思っている。

Q2.異種族レビュアーズみたいな性風俗産業はある?
→表社会には無いがアンダーグラウンドにはある。表社会に異種族風俗が無いのは、表社会ではブラウとしての個性を活かした職業は制限されているため(ヴァルタルが活躍を隠蔽していたのと同じ)。ちなみに、個性を活かした就業には管理局の認可を受ける必要があり、雇用形態はフリーランスとしての業務委託のみ可能、永続的な労働契約は不可。表向きは個性の搾取を避けるためだが、本当は扱いきれないダイバーシティを抑圧するため。

Q3.第27話でジュリエットと黒華が話してた「ともだち」「イマジンズ」「獏」とかの話って何だったの?
→本編では説明しない固有名詞を散りばめると作品世界の広がりが感じられてオシャレかなと思って書いた。一応の設定はあるが、一言も説明してない。

Q4.主人公を蛆にした理由は?
→一番グロテスクな群体だから。思想的には虻でも鼠でも群体なら何でも良かったのだが、可愛い美少女に気持ち悪いものを組み合わせるギャップ萌えをやりたかった。

Q5.群体の傷の概念がよくわからない、群体に傷が付くのは何故?
→第35話で黒華が説明しているが、個体性と群体性はデジタルにはっきり分けられるものではなく、その中間形態を取るアナログ値。よって、黒華も個体的な要素を含んでいるし、傷が付いて出血することもある。

Q6.黒華のまわりくどさ、最初から心臓交換持ちかけたらダメ?
→ダメ。白花が群体になるためには、本気で殺す気の人たちに襲われて生死の境を彷徨う必要があった。

Q7.ブラウあんまり関係なくない?
→後半はあんま関係なくなっていった感じはあるが、基本設定としてファンタジックな理由付けを一手に引き受ける設定は必要だし、前半部との接続は説明した通り。

Q8.食うときに蛆が湧く理由とかある?
→あまり深い理由はない。蛆は食べ物に湧くというだけ。

Q9.地の文の口語的な部分は狙ってやってるのか?
ラノベっぽい文章を書きたいとは思っていたが、文体とかはよくわからないしあんまり意識してない。

Q10.灰火ってどう読むの?
→「ハイカ」。これに限らず人名の読み方がわかりにくいという指摘が多く、振り仮名を付けるべきだったと反省している。白花は「ハクカ」だが「シロハナ」と読んでいる人もいた。特に紫を皆「ユカリ」と読んでいたが、正しくは「ムラサキ」。

Q11.第36話でサークロは徹夜で何してた?
→画像分析。第40話でサークロのおかげで椿の蝙蝠が心臓を持っているのがわかったということを黒華がチラッと言ってる。

Q12.黒華がジュリエットとの取引に一日置かないと応じられない用事って何だったの?
→教会の改装。黒華はジュリエットに拠点を紹介したかったので、ジュリエットと会うまでに教会で葬式を開ける状態までリノベを完了しておく必要があった。

Q13.第33話で蛆に視覚器官は無いのに蛆が見ているっていうのは矛盾してない?
→白花の環世界を切り替える能力には、蛆の身体を人体の器官として再解釈する能力が含まれている。群体としては蛆であるものを、個体としては眼球として使えるということ。第39話で腹から喋っていたのと同じ。「蛆が見ている」というのは混乱を招く書き方で良くなかったかもしれない。

Q14.蜘蛛の巣ってスカスカだし銃弾くらい抜けるんじゃないか?
→確かに。ひょっとしたら遊希の蜘蛛の巣は概念的なもので、隙間を通ろうとするものもキッチリ止めるのかもしれない。わからないけど。

Q15.黒華は何故両親を殺したのか?
→深い理由はない。白花も黒華も他人にあまり興味が無い性格なので両親のことも何とも思っておらず、何かの弾みで殺すこともある。

Q16.白花が両親に対してはドライなのに黒華に対してはウェットなのは何故?
→白花は誰に対してもドライ。それをはっきり表明しないで流されるので、相手がウェットなときは白花もウェットに見えるだけ。

Q17.白花がジュリエットや黒華に襲われているときに逃げようとしないのは何故?
→人生の解像度が低く、自分の命への関心が低いから。

Q18.最初に強すぎる虫食シーンで読者をフィルタリングしてるのは何故?
→尖ってない素人小説なんて誰も読まないので、最初に最大限尖って刺さったやつだけ捕まえる方が戦略として良いから。

Q19.群体の設定ってマトリックスのオマージュ?
→そういうわけではないが、マトリックスの兵隊とコピーのイメージは確かに群体として適切。実際、第18話でマトリックスに言及している。

Q20.能力の拡張を気付きによって拡張できるのってジョジョから?
→能力バトルってジョジョじゃなくてもだいたいそういうもんじゃない?

Q21.紫の「蛞蝓の雨」ってスタンド「ヘビー・ウェザー」?
→全然意識してなかったけど、確かに似てる。

Q22.環世界の表現って『2001年宇宙の旅』?
→全然意識してなかったけど、確かにスターゲートにちょっと似てる。

Q23.ジュスティーヌって何だったの?
→思想的にはあまり深い絡みのない、世界観を広げるためのキャラ。姉がジュリエットを名乗っていると知ってジュスティーヌを名乗る妹は結構可愛いと思う(マルキ・ド・サド悪徳の栄え』を参照)。

その他、聞きたいことがあればTwitterでもコメントでもお題箱でも何でも聞いてくれれば答えます。

20/3/23 100日後に死ぬワニはなぜ失敗したのか

・100日後に死ぬワニはなぜ失敗したのか

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令和で最も成功した怪物コンテンツ『100日後に死ぬワニ』(『100ワニ』)。
一昨々日、遂に待望の100日目を迎え、ワニくんはタイトル通りに無事死亡した。数ヶ月に渡ってワニくんを見守っていた人々による様々な感想がTwitterを駆け巡り、全体としてコンテンツの完結そのものに対しては好意的な声がタイムラインを満たした。一人でこの漫画を描き上げた作者への称賛、無事に100日連続更新を終えたことへの祝福、無料でこれだけのコンテンツを体験させてもらった感謝。

しかしその一方、明らかにネガティブな反応を多く招いているのがワニくんの死亡を受けての商品展開だ。
ワニくんが死んだ瞬間(一部は死ぬ前から)、映画化、音楽化、グッズ化、書籍化といった様々な媒体でのメディアミックス的な展開が同時発生した。要するに『100ワニ』をキャラクターIPとしてこれからビジネスをバンバンやっていきますよということが宣言されたのだ。
これに対して様々な違和感を持つ人も多く、電通叩きやステマ扱いのような明確な攻撃を伴う批難も発生した。結果として、現時点で『100ワニ』は後味の悪い賛否両論の状態を作り出している。

それを受け、この記事では「商業展開はなぜ失敗だったのか」について書いていきたい。
もう少し具体的に言えば、「死と日常と資本主義」という三つ組の観点から、「メディアミックス的な商業展開は『100ワニ』というコンテンツの本質を否定するものだった」ということを明らかにする。

話を始める前に、まずは様々な誤解をここで全て潰しておきたい。
いま俺は「金儲けだったことを後出しにするのが許せない」とか、「純粋なクリエイティビティは無償であるべき」とか、「一個人の創作かと思ったら大企業がバックにいて幻滅した」とか、その手の話をするつもりはない。そういう考え方の人もいるかもしれないがそれは問題にしない。
実際、「『100ワニ』というコンテンツが好きであること」と「『100ワニ』の突然の商業展開に違和感を持つこと」は矛盾なく成り立つし、俺自身もそうだ。大きくなったコンテンツに必ず現れるアンチがなりふり構わず攻撃しているという状況でもない。

俺は商業展開に対して感じる違和感は『100ワニ』というコンテンツの本質に関わる問題だと思っており、誰が見ても明らかな「死」というテーマからそれを語りたい。
この記事で扱いたい「『100ワニ』の商業展開に違和感を持っている層」をなるべく正確に記述すれば、それは「『100ワニ』が好きだし、それを作った作者には正当な対価を受け取ってほしいと思っているのに、商業展開は『100ワニ』というコンテンツの大切な何かを破壊しているような気がして受け入れられない」という人たちである。

・「死」が豊潤な日常を回復するという謎

まずは『100ワニ』の最もポピュラーな感想から出発しよう。
「自分も100日後には死ぬかもしれないから一生懸命生きたいです」「死を意識して何でもない日常の大切さを再確認しました」というタイプの感想は『100ワニ』のどの回にも必ず付いている。
彼らが言っていることはただちに理解できるし、実際、「日常の大切さを再確認できる」という効果が『100ワニ』がこれだけ流行った理由の一つと言ってしまっても大きく反論されることはないだろう。以後、この感想を土台にして、『100ワニ』に共感する消費者ベースで「死」の意義について考えていきたい。

しかし一旦立ち止まってよくよく考えてみれば、「どうして死を意識すると日常が輝くのか」はただちに自明な答えが出る問いではない。
それどころか、死は一般的にはその本人にとって避けるべき事態のはずで、それがポジティブな効果を持つのは不可解とさえ言える。常識的に考えれば「好きなアーティストのコンサートに行く」とか「好きな漫画が発売する」とかいう予定の方が日常を輝かせる気がするのだが、なぜ恐怖の対象であるはずの「死」がそれらと同じような効果をもたらすのか。そもそも、別に何もなくても毎日を大切にすればいいと思うのだが、何故わざわざ死を意識しなければそれができないのか。言い換えると、どうして死を意識するまで漫然とした退屈な日常を過ごしているのか。

実際、似たようなシチュエーションをいくつか考えてみても、「死に至る人生」以外では同じ現象はなかなか起こらない。
例えば、「腐る鶏肉」はどうだろう。いつもは鶏肉が腐ることを意識せずに漫然と食べていた人が、ある日たまたま腐った鶏肉を見て、「鶏肉は腐るんだな」と意識したとする。それを知った瞬間、「鶏肉は腐る前に食べるからこそ美味しく感じる」などということが起こるだろうか。起こらない。むしろ腐った鶏肉のイメージのせいで少しマズくなるような気がする。
もう少し人生に近いものを考えると、「終わるオンラインゲーム」はどうだろう。普段プレイしているオンラインゲームで100日後のサービス終了が告知されたとしよう。その瞬間、サービス終了までの日数が突如輝いて見え始め、普段よりも力を入れて取り組むようになるということが起こるだろうか。確かにそういう人も一定数いそうだ。「終わったらもう遊べないから今のうちに堪能し尽くそう」という考え方は理解できる。とはいえ、逆に「じゃあもうやらなくていいや」とログインしなくなる人も少なくないだろう。「どうせ終わるゲームはもう遊ばない」という行動は全く不自然ではない。しかし、これを『100ワニ』に当てはめて考えてみると、「どうせ死ぬワニだからもうどうでもいい」という感想を抱く人は一部の捻くれ者だけだ(もしそういう人が大多数なら、『100ワニ』はコンテンツとして成立しなかった)。
やはり、「腐る鶏肉」や「終わるオンラインゲーム」とは異なり、「死に至る人生」でだけ「終わりを意識することで残りの時間が輝く」というよくわからない現象がそこそこ一般に発生するのである。

この議論を踏まえ、まずは「『100ワニ』がなぜ成功したのか」を考えるために以下の二つの疑問を解明しておきたい。

1.何故死のない日常は退屈なのか?
2.何故死のある日常は豊潤なのか?

・資本主義と死の対立構造

結論から言えば、「1.何故死のない日常は退屈なのか?」という疑問の答えは、「それが資本主義システムの効果だから」である。
いきなり出てきた「資本主義」と「日常の退屈さ」に何の関係があるのかと思う人が多いだろうから、二つの具体例ベースで説明していこう。二つを読み終わる頃には、「資本主義システムが日常を退屈にする効果を持つ一方、死が日常の豊潤さを回復する処方箋である」というロジックについて実感を伴って理解してもらえるはずだ。そして遠回りではあるが、それが最終的に商業展開が破綻した理由を考える上でクリティカルになる。

1.資本主義によって人生の目標が擦り切れることについて

あなたの人生の目標、夢はなんだろうか。「マイカーを手に入れる」かもしれないし、「会社を辞めて田舎で暮らす」かもしれないし、「大学で学び直す」かもしれない。どれもが生きていく上で大切な原動力であり、それを初めて得たときには掛けがえのないものとして人生を豊潤にしてくれたはずだ。
目標を立てたら、次に考えるのはそれを叶える手段だ。トヨタカーが欲しいならすべきことは何だろうか。新車を購入するための一千万円を稼ぐことだ。会社を辞めて田舎で暮らしたいならすべきことは何だろうか。田舎に家を買って悠々自適に生活するための一億円を稼ぐことだ。大学で学び直したいならすべきことは何だろうか。大学の学費と当面生活するための五百万円を稼ぐことだ。
もう明らかなように、資本主義社会においては、ほとんど全ての人生の目標が「〇〇円を稼ぐ」という目標に置き換え可能である。あらゆる価値が貨幣の多寡に還元される世界では夢さえもそれを免れない。

それが明らかになってくるのは、一つの目標を達成するまでというよりは、むしろ複数の目標を達成したあとだ。一般的に言って人生には常に目標が必要であり、一つの目標を達成したあとは次の目標を立てることになる。トヨタを買ったら次はフェラーリフェラーリを買ったら次はランボルギーニ。そのためには稼いで稼いで……あれ、次の目標って何だっけ?
車を五台も買う頃にはもう気付いているはずだ。最初は人生を豊かにしていた夢の内容が、いつの間にか「〇〇円を稼ぐ」という無味乾燥な数値ノルマにすり替わっていることに。金さえあれば何でもできることは何をするにも金がいることと裏表なのだ。
どんな夢も「金を稼ぐ」と同義であり、それを延々と繰り返しているだけだけなのだから、夢の内容はもはや重要ではない。有意義な夢を持った瞬間にそれは資本主義における貨幣システムに巻き込まれて数値に変わり、次々に更新される中で実体が摩耗していく。人生の目標が摩耗することで、そこに至る過程、すなわち日常も退屈なものに変わっていく。

しかし、資本主義社会でも数字に変わらずにいられる夢も無いわけではない。数字にならないとはつまり換金できないということだ。誰も値段を付けないもの、徹底して無価値なもの、純粋な害悪でしかないもの。
その究極形が「死」であることは言うまでもない。死には値段が付かないし、仮に付いたとしても絶対に売れない(売り主が死んでるから!)。
つまり、資本主義による数値化の呪いを受けない究極の聖域が死なのだ。死だけは価格に変換されない。あらゆる有意義さが換金されて消耗する世界において、一貫して完全に無意味であるが故に換金できず一切消耗しないという異常な性質を持つ所有物が死だ。

これにより、死を意識した瞬間に人生が数字に還元されない価値を持った意義深いものになる理由が分かる。死は摩耗しないので、他のあらゆる人生の目標を超えて人生の価値を保証する絶対的な最終目標になれるのだ。こうして資本主義がもたらす人生の消耗に対抗し、本来の豊潤さを回復することが可能になる。

2.大量生産製品によって失われるアイデンティティについて

一般的に言って、アイデンティティとは唯一無二であることがその条件である。誰もが同じように持っているものを持っていたところでアイデンティティにはならないが、あるものを持っているのが自分だけであればそれは立派なアイデンティティになり得るだろう。

ところが、資本の原理に従う工場生産が実現した消費社会において、唯一無二の何かを確保することはかなり難しい。朝起きるベッド、止める目覚まし、脱ぐパジャマ、食べるパン、飲む牛乳、注ぐコップ。何もかもが世の中に無数に流通している大量生産品だ。先ほど考えたアイデンティティの条件に従うと、これらはアイデンティティにはならない。
いや、正確に言うならば、「大量生産品によって唯一無二のアイデンティティを確保しようとする」というややこしい事態が起きていると言った方が正しいのかもしれない。何故なら、スターバックスの新商品を買ってTwitterにアップするという行為が私らしくてイケていると考える人はたくさんいるからだ。ちょっとSNSを開けば、同じ商品を同じように買って同じように自撮りをしている人たちがごまんといるというのに。
ひょっとしたら、アイデンティティは世界全体に対して唯一無二のものでなくてもよく、精々所属するコミュニティの中で唯一無二のものを持っていればそれで良いのかもしれない。とりあえず友達に自慢できればオッケー、同じことをしている人がいてもそれが友達じゃなければセーフ、という具合に。あるいは、個人的なアイデンティティなんてもう求められておらず、むしろ一つのコミュニティに同化して帰属するための集団的なアイデンティティの方こそが求められているのかもしれない。
いずれにせよ、「自分の人生がありふれている」という問題は解決されていない。少し視野を広くした瞬間、私の日常は誰かの日常でコピーできる程度のものでしかないということは否が応でも認識せざるを得なくなる。消費社会とSNSの合わせ技により、人生がありふれていて退屈であることは避けがたい宿命だ。

しかし、誰でも生まれたときから持っていて、人生が唯一無二であることを明証するものが一つある。大量生産されないもの、一度しか訪れないもの、完全に個人的なもの。やはり、それは「死」だ。
「人間は誰だって死ぬんだからむしろ死は大量生産品と同じくらいありふれたものじゃないか」という反論が有り得るかもしれない。しかし、冷静に考えてみてほしい。自分がスタバで買ったフラペチーノが他人がスタバで買ったフラペチーノと「同じ」だという意味で、自分の死が他人の死と「同じ」と言うことは有り得るだろうか。「統計的な消費調査を見る限り、自分の購買傾向はありふれているなあ」とがっかりするのと同じように、「統計的な死因調査を見る限り、自分の死はありふれているなあ」とがっかりすることが有り得るだろうか。いずれも有り得ない。自分の死はいつだって特異点だ。

つまり、消費社会による陳腐化の呪いを受けない究極の聖域が死なのだ。誰だって人生の死を考えるときだけは自分の人生がオリジナルの一つであって、私にとって私の人生はこの死を引き受ける私でしかないということを理解せざるをえない。恐らく、これは数の多寡が云々というよりはむしろ死の原理的な性質なのだろう。

これにより、死を意識した瞬間に人生が唯一無二の価値を持つ意義深いものになる理由が分かる。死は完全なオリジナルなので、他の大量生産品を超えて人生の価値を保証するアイデンティティになれるのだ。こうして消費社会がもたらすアイデンティティの喪失に対抗し、本来の豊潤さを回復することが可能になる。

以上の2点の説明により、「資本主義システムが日常を退屈にする効果を持つ一方、死が日常の豊潤さを回復する処方箋である」というロジックがはっきりする。
最初の疑問に答える形で改めてまとめれば、死が日常を輝かせるのは、死は「無意味」「唯一無二」という二点において、摩耗する夢とアイデンティティの喪失から人生を救ってくれるからだ。「資本主義」と「死」が対になるのが鍵だ。『100ワニ』においてワニくんの不可避の死が放っていた魅力は資本主義と対になる形で理解されなければならない。

・100日後に死ぬワニはなぜ失敗したのか

ここまでは「何故『100ワニ』は成功したのか」という話をしてきた。いよいよ「何故『100ワニ』は失敗したのか」に入ろう。

とはいえ、話は驚くほど単純である。
ここまで述べてきたように、「死が日常を輝かせる」という『100ワニ』の本質を分析すると、資本主義の呪いによって退屈になった日常を死の意識によって豊潤化させて取り戻すというロジックが見えてくる。
しかし、『100ワニ』でワニくんが死んだ瞬間に始動した怒涛のビジネス展開は資本主義の論理そのものである。本編でワニくんの死が排除したはずの資本主義が復活したことにより、ワニくんが死んだ意義の方が完全に無効化されてしまったのだ。
これを先ほど考えた二つの例に即して見ていこう。

まず、第一の例では「死は無意味であるが故に摩耗しない」という逆説のロジックによって死が日常を輝かせる効果を持っていたのであった。
しかし、いまや「ワニくんの死」は全く無意味ではないどころか、完全に商業的な意味を持ってしまった。ワニくんが死ぬことによってお金が生まれるのだから、その死は換金可能な死である。究極的な無意味さ故に超越的な価値を持って日常を豊潤にしていたはずのワニくんの死は、いまや一回いくらで買えて摩耗していく商品でしかない。

次に、第二の例では「死は唯一無二であるが故にアイデンティティを担保する」というロジックによって死が日常を輝かせる効果を持っていたのであった。
しかし、いまや「ワニくんの死」は全く唯一無二ではないどころか、完全な大量生産品だ。
もう少し具体的に書けば、Twitterに投稿されていた段階では、ワニくんが死ぬイベント=作者のツイートそのものは唯一無二だった。リツイートは複製ではなく拡散だからだ。ただ一つのツイートが多くの人に見られるようになるだけで、死そのものが複数化されるわけではない。
ところが、グッズや本ではそうもいかない。各自の手元にワニくんの人生が配布され、それぞれがワニくんの死を演じる。これにより、皆が所有するワニくんの死は唯一無二の重みを持たない。キャラクター商品という大量生産に巻き込まれたワニくんの死はどこにでもある、ありふれた死である。その命は軽く、彼の日常もありふれた退屈なものでしかない。

・100日後に死ぬワニはどうすべきだったのか

「じゃあ『100ワニ』は絶対に金儲けをしてはいけないとでもいうのか?」というもっともな疑問にも答えておこう。
というのは、現実的に考えて、『100ワニ』というコンテンツでお金を稼ぐ行為はどんなものであれ資本主義のロジックに従ってしまうからだ。よって、『100ワニ』の本質が資本主義へのカウンターにあるというなら、『100ワニ』は一切のお金を稼ぐべきではないということになってしまう。これだけのコンテンツを作った作者に一円も入らないのはあんまりじゃないかという反論ももっともだ。

まず勘違いしないでほしいのだが、俺は金儲けをするなという気は全くない。むしろ作者は正当な対価を受け取るべきだし、商売をする権利も当然にあると思っている。商業展開そのものを否定するつもりは全く無い。
しかし、『100ワニ』というコンテンツの特性を踏まえた上で、それを破壊しないもっとマシなやり方がいくらでもあっただろとは思う。「死が日常を輝かせる」という『100ワニ』の本質を大切にするのであれば、ここまでに二つ挙げた死の性質を踏まえた商業展開をすればいいだけだ。ワニくんの死が冒涜され続けている今の惨状に比べればベターな方法はいくらでもある。

例えば、『100ワニ』が終わるときに発表する展開は「映画化」一本に絞るべきだった。
そもそも、色々な商品展開を一気に同時発表するというやり方が極めて「大量生産的」なのだ。あっちにもこっちにもワニが湧いてきて、メディアを跨いでコピーされている印象が強すぎる。その中でも書籍やグッズは誰がどう見ても全く同じものが何万個と作り出される大量生産品の典型である。
それらに比べれば映画はまだ「大量生産感」がそれほど強くない。売る商品は体験であって物ではなく、消費者の手元に物質的なワニくんが届くことがないからだ。また、映画館では複数の観客が同時に一つのスクリーン映像を見るため、それぞれに大量生産品を配布されるというよりはリツイートと同じように唯一無二のものを共有する体験に近い。まずは映画だけ発表して、書籍やグッズは1日くらいおいてから付属のように発表しても良かった。

また、どうせ商業展開をやるならどこかでクラウドファンディングをやるべきだった。
金儲けのためではない。ワニくんの死をビジネスにする際、一回いくらで消耗する純粋な売買対象にするのではなく、容易には換金されないイベントとしての体験価値を付与するためである。
クラウドファンディングが優れているのは、数値の持つ意味がかなりファジーで、ひょっとしたら等価交換ですらないのかもしれないというところだ。好きなアーティストに5000円を投資する支援者は「この5000円はリタ―ンと価値が見合うのか」とはあまり考えていないだろう。この場合、支援者は貨幣を数値的な意味の少ない定性的なものとして利用している。これにより、「何でも数字に変えて摩耗させてしまう」という貨幣の呪いを緩和し、ワニくんの死を一回いくらで売るものから遠ざけることができる。

 

思ったより長くなったので、最後に内容を改めてまとめておく。
『100ワニ』は「死」が「日常」を輝かせるという逆説的な効果を最大限に発揮した非常に優れたコンテンツだったが、その根底には「資本主義」へのアンチテーゼがあるということを見誤った商業展開によってコンテンツの本質が完全に破壊されてしまった。他にもっとマシなやり方があっただろうに、単なる無理解により怪物コンテンツの可能性が潰れたことは本当に惜しい。