LWのサイゼリヤ

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4/17 美少女の倒錯性とか七不思議

・阿波連さん

ジャンププラスに「阿波連さんははかれない」という漫画がある。
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主人公の無口な男子高校生とヒロインの「阿波連さん」を軸にしたスクールコメディであり、タイトルにもある通り、阿波連さんが持つ「人との距離感を測れない」という属性を軸にしている。
彼女は対人関係における親しさに応じてどこまで親密な対応を取ってよいかが全くわからないため、主人公にやたらベタベタしてきたり離れていったりしてしまうという話なのだが、無料公開中なので読んでもらった方が早い。→

彼女は明らかに人格障碍者であるが、それは作品内/外であまり問題にならず、むしろ「阿波連さん可愛いね」ということでキャラとギャグに重点を置いたコメディになっている。
あえて野暮なことを言うが、阿波連さんが美少女ではない場合、間違っても笑い話にはならず、苦痛と悩みの漫画になることは間違いない。それが美少女である限り、人格障碍者でもコメディで中心に配置されるほど魅力的なキャラになるという現象が、今日の話題の中心である。

阿波連さんばかりを槍玉にあげているが(念のために言うと、俺はこの漫画はそこそこ好き。単行本は買わないが更新は楽しみくらいのライン)、似たようなことはいくらでもある。
あるキャラクターが異常な性質を持っているにも関わらず、それが美少女である場合は何故か評価が反転して作品のウリ、消費者にとっての魅力になるということ、異常性を持つ美少女がただの美少女よりも魅力的に映るということ。
例えば、フレームアームズガールで人が書いたポエムを見てゲラゲラ笑い転げている轟雷たちを見て俺は「いいじゃん」と思うし、ひなこのーとでも紙をパクパクしているデカこなたがウケる。

補足1:
ここで言う「美少女性」は作品内/外、両方の意味ではあるが、「消費者の感じ方」がメインなので、どちらかというと作品外の方に重点がある。
自由意志の話で持ち出した作品内/外の定義は元々は美少女性について語るために考えたモデルなので、順番が前後した。

補足2:
ここで言う「異常な性質」は、ネガティブなものでなければならない。
ポジティブなものである場合は、美少女にプラスの性質が付加されてプラス+プラスで大プラスになることはおかしくないからだ。そういう、「+1」と「+1」で「+2」になる的な話ではなく、「-1」と「+1」であるにも関わらず合わせると「+2」になるのは何故だろうかという話である。
となると、本当は「異常性」に対してそれがポジティブかネガティブかという議論を逐一行わなければならない。しかし、これはかなり主観的な判断だし、阿波連さんの人格障碍は修正されるべきネガティブ要素なのかという話を始めると、社会的にデリケートな領域に足を踏み入れてしまう。
なので、今回は「普通に考えて正統派美少女らしいか」くらいの表現でお茶を濁したい(曖昧な定義のために却って対象の自由度は上がり、「正統派美少女らしくない」という意味では「戦闘美少女」「女装萌え」あたりも対象に入れてよい気がするので、後で取り上げようと思う)。


補足3:
実際のところ、キャラクターが変な性格になりがちなのは、フィクションでは色々なことをオーバーに描かなければならないという表現上の制約に由来しているところが大きいだろう(そして俺は便宜上そうなっただけのことを真面目に受け取ってゴチャゴチャ考えているアスペ野郎ということになる)。
そのため、今回は話題を「美少女キャラクターのキャラクター性」に絞り、メディアとしての「表現の程度問題」は対象から除外する。


次に、この現象が倒錯か相乗かという話をする(倒錯vs相乗)。

まず、倒錯について。
倒錯とは反対の含みを持つものたちが組み合わさったときに生まれるギャップ的なものが魅力を生じるという効果で、いわゆる「ギャップ萌え」のことだ。
とはいえ、「倒錯はギャップ萌えだから魅力的になる」と言ったのでは定義が一巡しただけで何も言っていないのと同じなので、ギャップ萌えは何故起こるのかということを言わないといけない。


この本の「戦闘美少女は何故魅力的か」という話の一環で出てきた論では、

1.漫画アニメは極めてハイコンテクストなメディアである
2.ハイコンテクストメディアではリアリティが生じにくい
3.コンテクストの乗り換え(=倒錯)とセクシャリティにのみリアリティが生じ、倒錯美少女が誕生する

という流れが展開される(本が手元にないので俺の記憶を頼りに書いている。この本は含みのありそうな単語を説明なく使うので正直わかりにくく、俺が解釈を誤っている可能性もある。しかし誤読を恐れていては進めないので、とりあえず本の内容をベースにした俺の解釈ということでいく)。

このままだとよくわからないので、解きほぐしていこう。

1.漫画アニメは極めてハイコンテクストなメディアである
ハイコンテクストとは文脈性が高いということで、「明確に描写しなくても消費者になんとなく伝わってしまう部分が大きい」くらいの理解でいいだろう。
オタクカルチャーには共通了解が多く、エリートオタクが特定の展開を見れば(現実と違って)次の展開がだいたい予想できてしまうものだ。ロケット団は出てきた時点で「やなかんじ~」と叫んで吹っ飛んでいくのが確定しているし、従姉妹系ヒロインは登場した時点で同棲したり数日間家に泊まるような気がする。
もっと広くには掲載誌や作者から得られる情報もコンテクストのうちに入り、「これがジャンプなら勝つけどチャンピオンだから負けそう」「脚本が虚淵だからどうせ敵は元人間」というようなものも含めていいだろう。
原書では記号論や時間性も巻き込んだ議論が行われていたような覚えがあるが、そこまで突っ込まなくてもニュアンスはもう伝わったと思う。

2.ハイコンテクストメディアではリアリティが生じにくい
例えば、「昨日会ったヒロインと今日同棲する」というのはリアルで考えるとかなりヤバい状況だが、この突然起きた同棲のドキドキ感、有り得なさ、迫真性をリアルと同じレベルでドキドキして感じてくれるオタクはまずいないだろう。
「アニメでは普通にあることだから」というのがその理由だが、これをコンテクストという言葉を使って言い換えると、「消費者はアニメというメディアを覆っているコンテクストの上で状況を受け取っており、状況それ自体を見ていないのでリアルに感じない」。
共通了解であるところのコンテクストに沿って話が進んだりキャラが作られたりすると、消費者は差し迫ったものを感じられないという意味で、ハイコンテクスト性はリアリティを下げると言える。

3.コンテクストの乗り換え(=倒錯)とセクシャリティにのみリアリティが生じ、倒錯美少女が誕生する
アニメがハイコンテクストであることは今更変えられない、じゃあリアリティはどこにどうやって見出せばいいのか?という話になったときに二つ提案が出てくる。

A.セクシャリティ
B.コンテクストの乗り換え(=倒錯)

A.セクシャリティは「エロ」くらいの理解でいい。エロは人間の本能に根差しているためにコンテクスト性を乗り越えるパワーがあり、エロだけはリアリティを保ったまま伝わることが出来るのだ。オタクが二次元の絵でオナニーをするのがその証拠である。「ヒロインと同棲すること」のリアリティは通じなくても、美少女のエロさはリアルに伝わるからオナニーが出来るのだ。
B.コンテクストの乗り換えについては、(今したい話では)重要な部分なのに、原書では一文でサラリと済ませられていて、よくわからなかった記憶がある。コンテクスト性に沿うとダメだからコンテクストの乗り換え(=ギャップ)に可能性を見出すという話なのだが、それで言えるのは「可能性がある」というところまでで、ただちに「OK」ということにはならない。
まあ、別に論理的に厳密な議論をしているわけではないので、「感覚として理解できるかい」という提案に対して、俺が感覚的によくわからんと答えているだけなのだろう。

さて、「倒錯説」について説明してきたが、今言った通り、俺は「倒錯説」はあまり支持しておらず(「俺の感覚に合わない」というだけで、論が破綻していると言っているわけではない)「相乗説」の方を推している。
次回に続く。

世界の七不思議

世界の七不思議というボードゲームを一昨日プレイした(詳細なルール説明は省くが、検索してトップに出てきたプレイ記録へのリンクを貼っておく→)。
ドミニオン系ゲームと聞いていたが、それよりはマジックや遊戯王のドラフトに近い。ただし、七不思議には試合部分がない。ドラフトするうちに色々なカード効果で点数が溜まっていき、最終的にその点数で優劣を決める(マジックで言うところの「点数表の点数」そのものを集めると言ってもいいし、手作りという意味では麻雀に近いところもある)。

ピックしたカードは原則公開されるためにカットに走ることが容易で、むしろカットを見越してどう動くかの読みが重要なゲームのような気がした。ざっくり言って「カットされなければ大きく伸びる戦略」と「カットされにくい代わりに伸びもそこそこな戦略」があるが、戦略を取る人間に対してカットを行うのは上家の人間なので、実際には下家の挙動が立ち回りを制約するところがある。
また、最初に使うカードプールが決まっている上に後半になるほど強力なカードが来るため、「いつかキーカードが来ることを願ってある戦略をやる」という失敗したキューブドラフトのような展開になりがちで、運要素が大きい感じもした。

あと、カードの視認性が異常なまでに悪い。
カードの上半分に「点数」「コスト」、カードの下半分に「カード名」「他のカードとのコンボ」が書いてあり、基本的には「点数」が見えるように上半分を公開するようにしてカードを重ねていく。つまり「点数」「コスト」が視認可能、「カード名」「コンボ」が視認不能という状態になる。

場に重ねた段階での情報の必要性は、

・点数:勝敗に関わる、必要。
・コスト:ピックしたときに支払う以外には使用しない、不要。
・カード名:ピックするカードとの相互作用に関わる、必要。
・コンボ:同上、必要。

という具合。
どう考えても、隠れても困らない「コスト」は下半分に置き、いつでも確認したい「カード名」「コンボ」は上半分に置くべきだろう。特に「カード名」「コンボ」は戦略のかなりの部分を占め、他のプレイヤーへのカット指針にも関わるので、他の人から見ても一目でわからなければゲームに支障をきたす。

なんだか批判的なことばかり言ってしまったが、他人と相互作用しながらカードを選択していくドラフト特有の面白さは十分に含まれていて、ドラフトしたい気分のときに気軽にできて良さそうだった。