LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

4/25 三葉が美形なのは間違いない

作品名に『』付けるやつってなんかうまぶってる感あって自分ではあまりやりたくなかったんだけど、付けないとわかりにくくなるケースも多い(タイトルが一般名詞とか平仮名のとき、文中で飲み込まれてしまう)ことがわかってきたので適宜使っていこうと思います。

サクラクエスト二話

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大量注文してしまったご当地饅頭を売るにあたって「美人国王」という売り文句を付けたらどうだろうという話が持ち上がり、美人国王に仕立て上げられた由乃(ピンクのやつ)が難色を示すシーン。

由乃「ええ~わたし!?」
しおり「由乃ちゃんならできる!」
由乃「いや~そうじゃなくて、美人国王というのはちょっと……」
早苗「大丈夫、国王の画像には修正かけておくわ」
由乃「そういう問題じゃなくて……」
真希「まあ~自分で自分を美人って言うのはどうなの的な?」
早苗「じゃあ、はてなマーク付けて『美人?国王』で」
しおり「まあまあ美人は?」
由乃「しおりちゃん……」
真希「いっそ微妙の微を付けて、微美人とか」
早苗「それじゃお客さんこないでしょ」

この早苗の発言で俺は「ウッ!!!」ってなった。
何故わざわざ修正をかけるのか?→由乃は美形ではないのでは?(1話で元モデルという設定を敷いていたのに?)という疑念が持ち上がると同時に、俺は自分がそんなにナイーブだとは思っていなかったのでダメージが入ったこと自体が意外で、数秒間スタン状態になってしまった。
でも、現実のトップモデルでも写真を雑誌に載せるときには多少は修正をするのが普通なのであって、むしろそこを無修正でもいけることにすると、あまりにもリアリティが無くなりすぎてしまう(修正をしたところで美少女性に疑いが生じるわけではない)という理屈で無事立ち直った。

多分、俺がここまで引っかかったのは『ばくおん』の影響が大きい。
実は、ばくおんは登場人物が作中では美少女ではないことを明示している本当に稀な萌えコンテンツである。メイン五人組が取材を受けて雑誌に載る回で、漫画では出版社の編集作業員が「これじゃ載せられないからそばかす消して~前歯も削って~鼻の穴も小さくして~」などと具体的すぎる修正指示を出しているシーンがある(手元に漫画が無いので正確ではないかもしれない。アニメではカットされたし)。
深読みかもしれないが、彼女たちが美形であるのは漫画的誇張表現であって実態としては田舎の女子高生的な容姿をしているということだとすれば、多分けいおんをバカにするためにそうしたのだろう(ばくおんのキャラに思い入れは全く無いし、わりと高級なパロディとして成立しているので、この試みは嫌いではない)。

そしてこんなことをわざわざ書いたのは、前前前回くらいの記事で完全に嘘を吐いたことがわかってしまったからだ。
美少女キャラクターには作中でも美形であってほしいという強い願い、普通にある。古いエロゲーの例で耐えてたのは平安時代基準ではブサイクでも現代基準では美形という美醜基準が一様ではないかなりの特殊ケースだったからだ。
そういえば、『君の名は。』でもタキクンと三葉が作中でも美形であることはさりげないながらも明示されており、オタクに優しいと思った記憶もある(タキクンはバイト中、三葉は口噛み酒の祭りのあたりで親切なモブどもが二人の顔立ちが整っていることを指摘している)。

・続き/ナルシシズムとフィクションの人格分裂と同一性担保

俺も話がどこに着地するのかよくわかっていないのでトピックタイトルが長い。

~前回の復習~
ナルシシズムの完成には主客の分裂が必須なのだが、現実では一つの精神(人間)につき外から観測される肉体は一つしかないため、その有様を外部から知るのは不可能である。
しかし、フィクションでは精神の同一性を保ったまま肉体を分裂する(分裂するように見せかける)技術が存在するため、他者愛的にナルシシズムを描写可能なのであった。

とりあえず、ナルシシズムを表現するためには二人の登場人物が確かに同一性を持っていることを示すことが不可欠である(そうでなければ、ただの他者愛的な描写になっていしまうので)。その極端なケースとして、精神は一つであるにも関わらず肉体を固定していないために「遍在する登場人物」というのはそこそこ思い付くところがある。

補足6:現実では不可能である。人間の人格を規定するのは「生まれ」と「育ち」であるということにすると、同じ遺伝子で生まれるところまではギリギリ可能だとしても、全く同じように育つことはできないからだ(倫理的に人間の人生を束縛できないというのが一つ、物理的に同一座標に二人の人間が同時に存在できないというのがもう一つ)。

多分、皆が最初に思い付くのはジョジョ7部の大統領だが、スタンド能力のような特殊設定を持ち込まなくても漫画では遍在する人間は描写可能である。
例えば、多重人格探偵サイコの梅見屋。
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彼はエンターテイナーを自称する犯罪者なのだが、たくさんの弟子を自身と同じ顔に整形手術させており、影武者も梅見屋の喋り方や信条を受け継いでいるのでどの人間がオリジナルかはわからない。作中でもある梅見屋が殺害された直後に別の梅見屋が登場し、その区別はされない。

補足7:みたいな設定だと思っていたのだが、今wikipediaで見たら普通に影武者2人+オリジナル1人で打ち止めだったらしい。

あと、シマウマ(漫画)のキイヌでもそういうことを書く予定だったのだが、こっちも調べてみたら俺が読んだ時点ではそう読めなくもなかったというだけで、普通に別個体らしい。片割れの死を個体の死と認めない(個体は独立しておらず、全体で初めて一個体になるため)という意味では、ブラックラグーンの双子の思想もそれに近いというところがあるか。

なんかグダグダだしケースの列挙はこのくらいにしておくとして、俺の最大の興味は「肉体は分裂しているが精神の同一性を保持している」という現実では不可能な状態を実現するに際して、描写上どのような手法が可能かというところにあるのだが、ここはフィクションの生成力の強さというか、「作者がそう言ってるから」で済んでしまうところがかなりある。

この挫折は俺にとっては馴染みが深い。
というのは、今回に限らず「フィクション特有の現象が何故起こせるか」という部分に俺の興味が向くことはかなり多い(もっと正確に言えば、「何をもってフィクショナルな現象を消費者にリアリティのあるものとして(というのは言い過ぎにしても、荒唐無稽ではないものとして、一定の体系を持つものとして)許容せしめるのか」)。これは厳密に手法を言語化できればそれを足掛かりにして現実にフィクションの現象を起こせると考えられるためで、VR技術が発展する今、言葉遊びではなく本当にそれができる可能性は低くない。
しかし、悲しいことに「そう描写してあるから」というだけで話が済んでしまうと思われることがとても多い。本当は何か手法があって俺がそれをただ発見できていないだけかもしれないが、よくわからない。

そういうわけなので、今回はホムンクルス(漫画)のあらすじについて書いて終わる(若干うろ覚えなので間違っていたらすいません)。


主人公の男は苛烈な承認欲求を抱えて自分探しをしている最中、かつての初恋の相手に出会う。逃避行とか色々あった末、お互いにお互いを承認して恋愛関係になりかけるが、最後の最後でその女性は別に初恋の相手でも何でもない別人の誰かということが示唆される(主人公は頭がおかしいので相貌失認していて女性の顔を見分けられないため、勝手な確信とか話の流れだけで相手を認識していた)。
最終巻、濡れ場の最中で主人公は完全に発狂し(だいぶ前から発狂してたけど)、女性の顔が自分の顔に見える状態になる。
主人公が自分の顔をした人間とセックスするという謎のセックスシーンが展開されるわけだが(読者から見ればゲイの濡れ場、しかも結構長い)、これぞナルシシズムという感がある。安直な恋愛関係による救済を行わず、どこまでも自分でしか自分を承認しないという究極の自閉の境地に俺はかなり感動した(「あ~結局恋愛オチか」と思って萎えながら読んでいたので、その落差で)。
実質、真・『君の名は。』。