LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/10/13 プライムデーセールでKindle端末を買うべきか?

0.プライムセールでKindle端末が安い!

現在進行形で開催されているプライムデーセール(~10/14)で各種Kindle端末が大幅に割引されているらしい。

俺が3万円で買ったKindle Oasisが今なら2万円で買えてしまうのだ。

192.Twitterkindle oasisの購入を検討されているのを見ました。もし購入されたのであれば、レビューして欲しいです。

193.Kindle端末のレビュー、セール終わるまでに書いて欲しい(ブログじゃなくてツイートで小出しでも良いので😭)

お題箱に投書も来ていたので、セールが終わる前に俺の私見によるKindle端末の使用感を取り急ぎ書いておこうと思う。

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1.長所

1-1.薄くて軽い

元々、俺がKindle端末の導入を決めた理由は旅行に持っていく本が嵩張るからだった。
基本的に俺の旅はかなり適当で帰りの日程や道程を決めずにスタートするので、1週間程度の放浪を見越すと5冊以上詰め込んだ本が旅行鞄のスペースを大きく圧迫することになる。

補足340:現地で本を調達するという手もあるが、地方の本屋の質はピンキリだ。雑誌やホリエモンの本しか流通していない地域を引いたときに詰むリスクが大きいし、そうでなくても5年以上前に出版された大して有名でもない本を入手できる確率は低い。

実際Kindle端末は薄くて軽く、ノート一冊より簡単に持ち運べる。この前の北海道旅もKindleのおかげで快適に過ごせたし、最大の目的は問題なく達成された。

1-2.片手で読める

Kindle端末は片手で持てるサイズ・重さであり、ページ捲りもスマホ操作のように親指で出来る。読書において本を中空に保持する労力と紙を捲る労力が削減される効果は予想以上に大きい。

俺はKindle端末を買うまで紙の本を不便だと思うことは特に無かったのだが、いまや紙の本を読むのは洗濯板で服を洗うのと同種の、長期的に見れば確実に淘汰されていくべき営みだと言わざるを得ない。紙の読書にかかっている労力の半分くらいは物理的な労力だ。
なるほど確かに紙の本でも新書サイズなら片手で保持できるが、結局ページを捲る際には両手を使う必要があるのだ。この捲る指の有無という違いは大きい。

読書が完全に片手で完結することにより、読書の自由度は大きく上がる。
まず、もう片方の手で家事や雑事をしながらでも本を読めるのでマルチタスクが非常に楽になる。俺は基本的に食事や掃除や料理をしている間も時間が勿体なく同時進行で本を読んでいるのでこれは嬉しいところ。
また、姿勢の縛りからも解放される。紙の本を読んでいる間はIT企業の社長がインタビューを受けているときのように両手を手前で抱えるような体勢しか取れないが、Kindleは机に片肘を付いて昼寝する姿勢でも読める。

なお、Kindle Oasisモデルではページ捲り用の物理ボタンが付いており、片手で読書するのが更に楽になる。指を乗せたボタンをぽちっと押し込むだけでページを捲れるのは、いちいち親指を上げてタップするのよりもかなり楽だ。

1-3.暗所でも読める

Kindle端末のスクリーンにはバックライトが付いており、光量を自動調節してくれるので暗所でも問題なく読める。俺は夜の新宿中央公園や駅員がいないド田舎のホームでも本を読むので、その際にいちいち灯りを探さなくてもよいのが思ったよりも便利だった。
更に言えば、俺は家の中でも二宮金次郎のように紙から目を離さずに移動していることが多く、夜でもいちいちライトを付けなくても済むのがありがたい。

1-4.紙っぽいスクリーン

これは紙の本に対する優位性ではなく他のタブレット端末に対する優位性だ。

Amazonが売っている電子書籍用の端末はKindle端末かFire端末の二択となる。FireはKindleよりも汎用性が高く他のアプリも色々入れられるのだが、スクリーンが液晶なので数時間読書していると目が疲れる欠点がある。正直に言うと俺は液晶で数時間読書したことがないので知らないが、皆疲れるって言ってるし多分疲れるんだろう。

Kindleは紙っぽい質感を再現した独特のスクリーンになっており(電子ペーパーってやつ? 違ったらすまん)、紙を見るのと全く同じ感覚で読めるので目が疲れることは全くなかった。このスクリーンの感じは現物を見ないとわからないので電気屋で実際に見た方がいい。

1-5.電池の保ちがいい

これも紙ではなくFireなどの競合端末に対する優位点(逆に紙と比較すると電池の制約があるのは欠点となる)。
Fire端末はせいぜい普通のスマホくらいしか保たないが、Kindle端末は読書用に機能をセーブしているおかげで数週間は保つ。俺の旅行中は本の有無が活動の生命線なので、充電が切れて詰むことがほぼほぼ無いのは大きい評価点だった。

ただし、公式で「数週間保つ」と豪語しているのは恐らく一ページも読まずに放っておいたときの話であり、普通に使っていると1日で25%くらいは削れる。充電切れまで使ったことはまだ無いが、恐らく連続使用は4日程度が限界だと思われる。いまどき旅行先でも5日も充電ができない環境に置かれることは考えにくいが、ヤバい僻地に行くときは紙の書籍と比べて充電切れのリスクが大きなデメリットになり得る。

1-6.そのままメモが取れる

Kindle端末は申し訳程度にハイライト機能やメモ機能が付いており、いちいち他のノートを開かなくても内容をまとめたり疑問点を書き留めたりしておける。Kindle端末上で取ったメモはブラウザ上でも閲覧でき、後で内容を確認するときに便利。

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これは俺が旅行中に取った『ミシェル・フーコー』のメモだが、ハイライトとメモが並んでいるのを見て「だいたいこんな話だったな」と思い出せるのはまあまあ便利ではある。

ただ、詳しくは後述するがKindle端末のタッチパネルはレスポンスが最悪なので、長々としたメモを入力するのには向かない。特に機能上の制約があるわけではないが、入力がしんどすぎて書けて一・二行くらいだと思う。Kindle端末上で内容まとめを完結させるのはまず無理だろう。
俺は紙の本を読むときも大量に付箋紙を用意しておいてメモ代わりにベタベタ貼っておいて後でそれを見て内容をまとめ直すので、正直なところメモ機能はあってもなくてもそれほど変わらないような気もしている。

1-7.長所まとめ

紙の本に対して優位が取れるのは、軽い点、片手で読める点、暗所で読める点。Fire端末に対して優位が取れるのは、スクリーンが紙っぽい点、電池の保ちが良い点。

紙の本に対する優位性は電子媒体全般に言えることであり、わざわざKindle端末を買う際に重要なのはFire端末(他のタブレット系端末全般)に対する優位点だろう。
スマホKindleアプリ入れればええやん的な意見に対しては、スクリーンの特殊さと電池の保ちが良いという2ポイントで反論できるというわけだ(ということは、液晶でも目が疲れず電気をいつでも確保できる人にとっては、この時点でKindle端末を導入するモチベーションがゼロになる)。

2.短所

2-1.高い

まず本体価格がべらぼうに高い。
Kindle端末は本当に読書以外の機能を持たないので、本来は無料のはずの読書にゲームが数本買えるくらいの金を払うのは率直に意味不明だ。「唯一無二の品だから仕方ない」と納得できるタイプの商品というわけでもなく、Fire端末なら5千円とかで買えるので相対的に見ても普通に高い。

初期投資がある程度高いことを許容しても、ランニングコストも高い。Kindleで本を読むにはいちいち本を購入する必要があるからだ。
俺は普段は基本的に図書館で無料読書、図書館に無い場合でもAmazonマーケットプレイスで一番安い中古本を買うような暮らしをしているので、本を読むたびに金が減るというのはかなり強めの行動時デバフがかかっているような感覚になる。

所詮は本の値段なのでどんな本でも買って買えないことはないのだが、むしろ買おうと思えば買えてしまう値段がワンタッチで決済できるというのが性質が悪い。タップした次の瞬間には読めるので面白そうな本をサブスク読み放題みたいな感覚でついタップしてしまうのだが、そのたびに1500円とかが飛んでいるのが恐怖だ。俺の金銭感覚では気付けば数千円が飛んでいるという金の使い方は許容できない。

2-2.レスポンスが悪い

はっきり言って、Kindle端末スクリーンのレスポンス性能は世の中に数多あるタッチスクリーンの中でも最低レベルだ。居酒屋の注文端末がこのレスポンス性能だったら即潰れる。
遷移は全画面書き換えのみでスクロールはできず、書き換えにも僅かにディレイが生じる。スマホTwitterを見るようにシュッシュッシュとスクロールしていく感じとは全く違う。とはいえ、紙の本でもページは常に全画面更新であり、かつ物理的に捲る時間というディレイがかかっているので、少なくとも紙の本と比べれば特別に不便な感じはしない。

ただ、紙の本ならば重要なページや定義が書いてあるページに指を挟んでおいて疑似的に複数のページを展開しておくような使い方ができる。つまり物理媒体の強みとしてページ移動が身体感覚の次元でできるという強みがあるのだが、それがKindleでは難しい。もちろん目次やブックマークやシークバーを使ってページを大きくジャンプする機能はあるものの、数ページを跨ぐ移動はどうしても紙よりは遅くなる。アクセスの悪さはハイライト機能などを駆使して重要な部分を保存することでフォローしていく感じになる。

こうした取り回しの悪さがどれだけ響くかは読む本による。
恐らく最も快適なのは小説で、よほど叙述トリックの効いた小説でもない限りは単線的に捲っていくだけなので全く問題なく読めるだろう(俺は小説を読まないが)。小説以外でも基本的に進めば戻らない本は困ることはあまりない。
逆に、ページを行ったり戻ったりする本をKindleで読むのは難しい。何度も同じ記述を再読しなければ理解できない難読書、高度に演繹的な論理展開を行うため定義や命題の確認が必要な数学書、異なるページを見比べる必要がある技術書などはKindleで読むのには向かない。Kindle端末で『論理哲学論考』は読めない。
というか、重厚な本に腰を据えて取り組むときに「端末が軽い」とか「暗所でも読める」とかいうKindle端末のメリットが活きるとも思えないので、そういうときは普通に紙で読めばよろしい。

いずれにせよ、Kindleスクリーンのレスポンスは驚くほど悪い、というか普段注文端末とかタブレットで使うタッチパネルと根本的に別種のそれなので、購入前に電気屋で実物を触って確認しておくことを強く推奨する。
ちなみに、Oasisは上位モデルだけあって他のモデルよりレスポンスが早い。公式サイトなどではあまり強調されないが、俺がわざわざ他のモデルより3倍近い価格のOasisを買った決定打はレスポンススピードだった。

2-3.品揃えが貧弱

Kindle端末は本当にKindle専用端末なので他の電子書籍販売サイトから書籍を買うことはできないが、Kindleストアの品揃えは決して良くない。
こればかりは読書傾向にもよると思うので一概には言えないが、俺が買う前に読もうと思っていた本は20%くらいしか置いていなかった。『有限性の後で』も『物語の構造分析』もない。ボードリヤールで言えば、昔流行って最近新装版も出た『消費社会の神話と構造』はあるが、それよりはマイナーな『象徴交換と死』『シミュラークルとシミュレーション』は無いくらいの感じだ。
ちなみにプライム会員なら無料で読めるPrime Readingや月額サブスクで読み放題のKindle Unlimitedもあるが、そちらは輪をかけて品揃えが悪く自費出版も多いため、あってないようなサービスと言ってもそこまで怒られないと思う。

読みたい本を検索しても基本的に無いので、興味のあるカテゴリーから面白そうな本を掬って読むようなスタイルになる。それはそれで読みたい本がそれなりに見つかり、「どこを探しても読みたい本がない」というほど終わっているわけではないのは救いだ。まあ、Kindle端末で読む本が全く尽きてしまうような事態はこの先もまず起こらないだろう。

2-4.短所まとめ

高い・UIが悪い・品揃えが貧弱という、読書に臨むにあたってかなりヤバい短所が三拍子で揃っている。なお、高い点は紙に対する劣位点、レスポンスが悪い点はFire端末に対する劣位点、品揃えが良くない点は両方に対する劣位点となる。

3.総括

冷静に考えると短所が割と厳しいため、基本的に現状で紙や他の電子媒体で満足しているなら別にKindle端末を買う必要はないはずだ。単純計算で長所の合計が短所の合計を上回ることはあまりないような気がする。
俺の場合は「楽に携帯できて電池が保ちいつでもどこでも読める旅行用アイテム」という一点突破の利便性が噛み合ったので非常に満足しているが、Kindle端末でないとダメというシーンはそのくらい限定されるということでもある。日常的な読書としては相変わらず図書館で本を借りる生活をしているし、旅行以外でKindleを使うのはたまたまセールで面白そうな本が売っていたり図書館に置いていない本を求めるときくらいだ。
基本的にKindle端末を買ったからといって読書を全てKindleに移行させることはできず、読みたい本やシチュエーションに応じて併用していくのがベターなように思う。

また、短所の中でも特に「品揃えが貧弱」というポイントは致命的だ。他の短所と違って慣れによってクリアされず、Kindle端末での読書スタンスそのものを規定してしまう。具体的に言えば、読む本の決定権が自分ではなくKindleストアにあるという設定を受け入れられるかどうかだ。
恐らく、普段からあまり読書をせず、たまにこれと決めた本を読むだけの人にはKindle端末はあまり向かない。日常的に読書をしており、何でもいいからとりあえず常に何かを読み続けるようなスタンスの人には向いていると思う。
割とネガキャン寄りになったが、俺個人としては良い買い物をしたと満足している(サンクコストバイアスではない!)。

いずれにせよ、Kindle端末はかなり特殊な端末なので、よくあるタブレットの亜種と思って買うと恐らく期待と違う商品を手にすることになる。プライムデーセールで購入ボタンを押す前に電気屋で実物を触っておくことを、何度でも強く勧める。

20/10/10 お題箱回:ブロックス、論理包含、BIなど

お題箱72

今までお題箱は全て来た順で答えていたのですが、最近投稿の増加に伴って回答にコソ勉が必要なものや早く答えた方が良さそうなものも増えてきたので、少し順番を前後させたりもしようと思います。

182.ブロックスしたことありますかー?

あります。年に二、三回くらいですが、日本人の平均よりはかなりやる方だと思われます。
ブロックスが最も優れていると思うのは、誰がどうやってもゲームが終わる頃には四色が混ざり合ってビジュアル的に綺麗な盤面になっていることです。

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よほど実力差がヤバすぎない限り、だいたいなんかこんな模様になりますよね。
どれか一色が支配的なことはほとんどなく、四色が入り乱れて花火のように綺麗な模様を描きます。そのためにインテリアとしても適しており、ボードゲームカフェをカードショップの亜種ではなく喫茶店の延長として捉えているようないけすかない連中がオシャレを兼ねて部屋の隅に置いておくテーブルゲームの典型です。

こうした模様はルールに従ってプレイしていれば自然と作られるようになっています。具体的に言えば、「自分の辺に隣接する場所にはコマを置けない」というルールによって同色のコマは固まらずになるべく遠方にバラされるようになり、「角が隣接する場所にのみコマを置ける」というルールによって2色が市松模様を成すように組み合わされることになります。
とはいえ、ルール上で有利が不利に転じたり不利が有利に転じたりするメカニクスがあるわけではないので、ビジュアル的な乱戦ぶりがゲーム上の拮抗を反映しているとは限りません。実際には初心者が何手も前から死にパーツを抱えさせられたりクリティカルな進路を塞がれたりして詰んでいることはよくあります。しかしだからこそ逆に、ルールや対戦内容の単純さに反して盤面を彩るゲームデザインが美しいと感じます。

あえて言えばブロックスと対照的なのはモノポリーとかシヴィライゼーションで、勝ち馬に乗っているプレイヤーが雪ダルマ式に勝っていく様子が外部からも可視化されるため、最終盤面は一色が支配的なビジュアルになります(インテリアに転用できる美しさはない)。

183.嘘喰いについて語って欲しい

saize-lw.hatenablog.com

前に上の記事で少しだけ語りましたが、そんなに文字数使ってちゃんと語ることはあまり思いつかないですね。嘘喰いは珍しく完結後も単行本を売らずにおいてある漫画ですし、なんか思い付いたら書きます。
てか、そろそろ『バトゥーキ』買います。

184.弱肉二式とかサイゼ初期のちょっと突き放す感じの文体とか語りが好きなので、またああいう感じでオタク感想書いて欲しい

ありがとうございます。
僕はあまり感性的なレトリックを弄する方ではないので、たぶん説明順序とか具体例の有無みたいな論理レベルの話なんでしょうね。最近はこなれてきて説明が丁寧になりすぎているということなんだと思います。
僕はかなり手癖寄りというか流れで適当に書く方なので、あまり意識的に変わることは無いとは思います。が、それ故に自分で変化に気付くこともほとんどないので、一応気に留めておきます。

185.ブログ書いて❤️

186.サイゼ記事もっと供給して欲しい、供給不足で死んでしまいそう

ありがとうございます。
書こうと思えば書くことはあるんですけど(まだ8月コンテンツ消費記事も書いてないし)、ブログにあまり時間を取られすぎるのも良くないので、最近は基本は週1、多くても週2更新という縛りを設けています。

僕は毎日8時間くらいテレワークできちんと働いているわけですが、1日は24時間なので仕事をしても16時間余ります。ここから8時間を睡眠に、3時間を食事や風呂や掃除に充てても平日でも1日5時間は趣味の時間が確保できます(休日は予備日兼休息日みたいな感じで計算に入れていません)。
よって、趣味をこなす義務がある時間が週に5×5=25時間あって、そこから映画なり書籍なりアニメなりブログなりラノベなりに割り当てます。例えば全部映画に振ると朝と夜に1本ずつ見て月~金で10本は見られます。

ブログは一週間に集中して書くよりも毎週コンスタントにやった方がいいので毎週20%≒5時間くらいを割くのが良くて、その時間で書けるのはまあ1・2本かなという計算ですね。もちろん気分によって変動しますし来月には全然違うことを言っている可能性もかなりありますが、今の時間管理意識はそんな感じです。

187.第七回サイゼミ記事のクリプキの部分について意見です。

"命題4:現実に夜桜たまが楠栞桜でないならば、必然的に夜桜たまは楠栞桜でない

命題4が真である状況は「現実に夜桜たまが楠栞桜でなく、全ての可能世界において夜桜たまが楠栞桜でない」だが、"

とありますが、命題4が真である状況は正確には、上述の他に「現実に夜桜たまが楠栞桜である」場合も含まれるのではないでしょうか。
つまり、「AならばB」型の条件命題が真であるのは「Aが偽である」場合と「AもBも真である」場合のどちらでも構わないということです。

しかしこの指摘によって記事の他の主張に影響が出ることはないと思いますが。

以下の記事に対する指摘ですが、完全に正しいと思います。ありがとうございます。

saize-lw.hatenablog.com

様相命題の量化命題への言い換え(「必然的にAである」→「全ての可能世界でAである」)に力点があったため、論理値の記述の方がアバウトになってますね。変に言い換えずに「現実に夜桜たまが楠栞桜でないならば、全ての可能世界において夜桜たまが楠栞桜でない」と書いた方が一貫していて良かったかもしれません。

あまり関係ないですが、「AならばB」って本質的に否定寄りの表現であるような印象を持っているのって僕だけでしょうか。
というのは、「AならばB」の厳密な真偽値は真よりむしろ偽に注目した方が書きやすいからです。具体的には、「Aが真かつBが偽であるときそしてそのときに限り偽」と表現するのが最もスマートです。無理に真だけで記述しようとすると「『Aが真かつBが真でない』でないとき真」という二重否定のような味わいが出てきて、結局「ならば」が表現したいのって肯定じゃなくて否定だよねみたいな感触がします。

188.機械学習の記事書く予定ある?

微妙ですね~。
少なくともいわゆる機械学習の解説みたいな記事はあまり期待しないでください。

論文や書籍を読めば済むことはそのリンクだけ貼って済ませたいというのもありますし、僕が理系的な内容を書くことにそれほど興味が無いというのもあります。機械学習は昔やったのでやろうと思えばk-meansだのSVMだのCNNだのについてザーッと書くことはいつでもできますが、それが楽しそうな感じはあまりしません。

次回のサイゼミで機械学習をやりますが、僕の興味は具体的な技術の詳細ではなく、「理系でない人がニューラルネットを数学的にどう理解するのか、どの程度まで理解できるのか」というかなり個人的なところにあります。技術的な到達度としてはかなり常識レベル、せいぜい単純な全結合三層ネットワークをフルスクラッチできるくらいのレベルだと思うので、サイゼミまとめ記事を書くかどうかも微妙なところです。

189.ガチ教養0マンでもサイゼミ行って良いですか?(というかサイゼミの参加層がどんな感じか気になる)

別にいいですよ。むしろ勉強会は何も知らない人がいた方が捗りますし、参加層もカードオタクくらいしかいません。
誰かわかりませんが、DMとかくれればとりあえずLINEにでも誘います。

190.実際ベーシックインカムが実施されたらどうなると思いますか?

僕はわりと賛成寄りなのでハッピーになってほしいと思います。(最近竹下平蔵の発言が話題になった)ネオリベ的な全集約型ではなくて、ついでに福祉政策を増強するくらいの左派的なやつがいいですね。
長期的に見て崩壊するとしても何かの間違いで僕の代で実装されて僕が死ぬまで持ち堪えてほしいです。持続可能性は僕はどうでもいいです。僕は100年後の人類が皆苦しみ抜いて死ぬ代わりに今コカ・コーラが無料で1本出てくるボタンがあったら迷わずに押します。

とはいえ、ベーシックインカムの成否や説得力を左右するのは思想そのものの是非というよりは、制度をどうやって運用するかどうかという現実的で泥臭い議論にあることは認めざるを得ません(逆にベーシックインカムが「理想的に運用される」という前提があるなら日本国民の過半数が賛成すると思うんですが、これはバイアスドな見解でしょうか?)。
これはプラトン『国家』を読んだときに思ったんですが、民主制でも君主制でもあらゆる社会体制は理想的に運営できれば皆が幸福になる最強の制度なわけで、それはその制度が完全に挫折したときですら変わりません。つまり、ある制度が上手くいかなかった理由って「当該の社会にそれを理想的に回しきるだけのリソースや予測が足りなかった」という比較的瑣末なミスなのか、それとも「制度が内包している欠陥により自壊した」という原理的な宿命なのか、この区別に境界線を引くことは出来るんでしょうか。

要するに僕が言いたいのは、本当に実現可能性があるものとして真剣に考えるなら、大義として掲げられている思想を吟味するより、それを制度上どうやって頑健な形で実現するかみたいな割と小さくて具体的な設計をちゃんとやった方が良さそうだということです(と言いつつ僕はそれにはあまり興味がないですし、中身のないアジテーションが重要なことも強く認めるのですが……)。

191.LWさんは自分の書いた文章が世界一面白いと言っていましたが、俺は世界一面白く書いたはずの文章が数日後読み返すとゴミで毎日泣いています。LWさんにもそういう時期はありましたか?

僕が言ったのはこのツイートですね。これは100%事実です。
さすがに三年前とか五年前の文章を読むと「もっとマシに書けたな」「こんなしょうもないこと書くなよ」って思うこともありますが、数日スパンでそうなることはまずないですね。そういう時期があった記憶もないです。

たぶん数日スパンでもう面白く感じなくなる文章って基本的に勢い重視の文章、「深夜テンションだと面白いけど昼テンションだとつまらない」みたいなやつだと思うんですけど合ってますかね。そういう感性によって評価される文章は気分によって感じ方がコロコロ変わりますが、ロジックが明記されている文章の面白さは割と長持ちするような気がします。物の基本的な考え方はそんなに激しく変わらないので。

 

20/10/2 『Vだけど、Vじゃない!』:Vtuberはどこにいるのか?

『Vだけど、Vじゃない!』

kakuyomu.jp

カクヨムで『Vだけど、Vじゃない!』という20000字くらいの短編を書きました。

私は演者じゃなくてアバターなのかもしれない!
Vtuberルーシア・アージュこと足流慈亜はそれに気付いてしまった!
でもどうすれば証明できる? 親友の礼衣と一緒に考えまーす!

女子高生Vtuberが「自分は演者じゃなくてアバターかもしれない」と気付き、親友と一緒にその検証を試みる話です。かなり面白いので読んでください。

Vtuberはどこにいるのか?

上の短編では「エルフのVtuberは『剣と魔法の異世界』に住んでいる設定である」ということを自明の前提としたが、一般的に言って「Vtuberはどこに住んでいるのか?」という問いに対する回答は全く自明ではない。
Vtuberの所属する世界に対するイメージは、Vtuberがオタク界で市民権を得てからの4年近くで目まぐるしく変遷してきた。「ファンタジー異世界に住むファンタジー設定Vtuber」というイメージが広範に受け入れられたのは恐らく2019年初頭頃であり、少なくとも2017年以前には上の短編は成立しなかっただろうということを、俺はかなりの確信を持って言える。

以下、「Vtuberが所属する世界」のイメージが変遷する過程について追っていくが、あえて有名どころだけを扱い、個人Vtuberは積極的に捨象する。
具体的に言えば、今ならにじさんじとかホロライブとか、誰でも知っているようなコンテンツだけを取り上げる。新規性のある試みを行える個人Vtuberが新しいムーブメントを先導してきたことは周知の事実だが、今は厳密な系譜を追うことが目的ではないからだ。何となく共有されているイメージの変容を掴むことを目指しており、それはメインストリームの中にこそ最もわかりやすく結実し、かつ後々のコンセンサスを形成するという前提に立つ。

補足335:この記事での「Vtuber」とはシンプルに独立したキャラクターのことを指す。「孫悟空」や「ハリー・ポッター」の水準の話であり、「野沢雅子」や「ダニエル・ラドクリフ」、つまり演者がどうこうという話は関与しない。

補足336:俺が昔よくVtuberの記事を書いていた頃はVtuberとはほぼ全て美少女キャラクターだったので「彼女ら」という代名詞が使えたのだが、今ではそうもいかなくなった(と言いつつ使う)。

電脳世界に遍在するVtuber(2017年末頃)

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四天王とか言って盛り上がっていた頃、Vtuberは技術的・電子的な出自や設定を持つことがやたら多かった。キズナアイがシンギュラリティに到達したAIという設定からスタートしたことが代表的だが、別に設定上はAIではないはずのVtuberも何故か似たような設定を引き継いでいたものだ。
特に「電脳」というワードは明らかに「バーチャルユーチューバー」というワードに隣接していた(当時はVtuberという略称はまだ成立していなかった)。今でもさくらみこが「電脳世界生まれの巫女」という設定を持っていたり、シロには「電脳少女」という訳の分からない二つ名が付いていたりする。昭和生まれの人間の肩によく判子注射の痕が付いているように、「電脳」絡みの肩書きは古参Vtuberのみが持つ瘢痕ですらある。
また、設定モリモリな後世のVtuberと比べると、2018年前後のVtuberは相対的に設定に乏しい。現在では初配信では一通りのキャラクター設定を捲し立てるように紹介したあと特技の一つでも見せるのが一つのテンプレートだが、当時はミライアカリが記憶喪失であるようにむしろバックグラウンドに乏しい人格からスタートすることが多かった。この「電子空間に突如ポップした白紙人格」が黎明期の典型キャラクターであり、それはワールドワイドウェブ上での存在を前提とする。

初期のVtuberサイバーパンクSFという限定された世界観の中で営まれがちだった理由を三つ挙げておこう。一つは技術的な背景、二つはキズナアイの影響、三つは既存コンテンツからもたらされたイメージ。

まず、Vtuberというカルチャー自体が最初期は技術系ギークに独占されたものだったことは端的に事実だ。その中で形成されるキャラクターが技術的なバックグラウンドを持つことは必然ですらある。「キャリブレーション」のキャの字も知らない萌え豚にまでVtuber文化が降りてきて「技術発展の産物」というイメージを取り払うまでには多少の時間が必要だったのだ。
なお、当時に比べて技術が云々という話題が発動する頻度が相対的に低くなっていることは間違いないが、もちろんそれは技術水準の低下を意味するのではなく、技術が一定速度で発展すること自体が驚きに値しなくなったという方が実情に近いように思われる。発展速度が正であることは自明の前提であり、瞠目するには更に加速度が正という条件を必要とする。

次に、「バーチャルユーチューバー」という単語を創造してVtuber文化を牽引したキズナアイが強烈なシンギュラリティ思想を持っていた影響がある。そのラディカルさはだいぶ時代を下って分裂騒動あたりでようやく明らかになったが、今にして思えばそこまで強い目的意識を持つVtuberがスタート地点にいたことは決して自然の成り行きではない。
強い思想を持たない他の誰かがVtuber文化を創始することは恐らく有り得たし、この現実世界はキズナアイという様相的な特異点がたまたま絶大な影響力を持った比較的特殊な歴史を歩んでいる。つまり俺が言いたいのは、VtuberサイバーパンクSFというイメージからスタートしないことも全く有り得ただろうし、その意味でキズナアイの影響は記述から絶対に外せないということだ。

最後に、初期Vtuberの「バーチャル人格」のイメージは明らかにサイバーパンクなアニメ作品群のキャラクターイメージと結合していたことがある。具体的に言えば、『攻殻機動隊』の草薙素子人形遣いとか、『serial experiments lain』の岩倉玲音だ。彼女らが肉体を捨ててワールドワイドウェブ上に揺蕩う精神だけの存在と化した経緯が、そのままVtuberに投影されていた。

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初期Vtuberの所属する電脳世界も、こうしたアニメに由来するワールドワイドウェブと同一視できる。彼女らは現実と全く異なる仮想の異世界ではなく、むしろ現実世界を拡張した電脳世界に存在していた。このブログ記事やツイートが流通する0と1で出来た電子的な世界、この世と重なる裏面のような場所。

仮想世界に局在するVtuber(2018年中頃)

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にじさんじ」のスタートは、サイバーパンクSF的世界観からVtuberのイメージを解き放つ転機の一つになった。にじさんじのキャラクターはもはや「電脳」に限定されない豊富な独自設定を持っており、特に月ノ美兎、樋口楓、静凛の三人が 「JK組」という徒党を組んだことは注目に値する。
彼女らが同級生という設定は「同じ高校に通っている」という背景が下支えしているわけだが、高校という一つの閉鎖空間に局在する地に足の着いたイメージは、電脳空間に遍在するSFチックな前世代のイメージと対照的だ。岩倉玲音が辿った足跡を逆に辿るかのように、Vtuberは電脳世界から高等学校へ、身の丈にあった世界への退却を開始した。

補足337:個人的には「(比較的)何の変哲もない女子高生」という安直なキャラクターが現れた瞬間こそ、キャラクター集合としてのVtuberがポジションゼロを取った瞬間であるような印象を受ける。というのは、ある種の萌えオタクにとって、「女子高生」とは可能な限り固有の成分を削ったときに現れるいわば「原点(0,0)」のキャラクター原型だからだ。俺は一切何の理由もなければキャラクターはとりあえず女子高生にするし、冒頭に挙げたラノベでもそうした。

それと前後していよいよVtuberカンブリア紀が到来し、数えきれないほどのVtuberが出現する。あまりにも多すぎて何を挙げても恣意的に抽出した感が出てしまうが、ナースだったり吸血鬼だったり魔界出身だったり狐だったり、ビジュアル的にも設定上でも多種多様な属性を持ったVtuberが跋扈するようになる。
それと共に、キャラクター設定を担保する世界設定も強化の一途を辿っていく。「性格」以外のビジュアル的にわかりやすい属性は、大抵は世界や背景との結びつきに由来するからだ。ナースなら「病院」、魔人なら「魔界」という特定の異世界を要請する。Vtuberたちがそれぞれの異世界に住み付くことで、「電脳世界に遍在する」というイメージはいよいよ「異世界に局在する」というイメージに変質し始める。

補足338:吸血鬼なら「文京区」という特定の異世界を要請する。

こうした動きが生まれた理由として、一つはただ単に差別化狙いということがあろう。今思えばキズナアイもミライアカリも改造制服の女子高生と言ってもギリギリ通るような外見をしていたのだが、無数のVtuberが生まれる環境ではもっと華やかな設定を付け加えなければ埋没してしまうというだけのことだ。

また、「仮想世界への局在」と結び付く変化として、動画投稿からライブ配信が主流になり始めたことも挙げられる。2018年の正月にはミライアカリの生放送は絶大な衝撃をもって迎えられたが、この頃には動画投稿と生放送の比重は完全に逆転しつつあった。
既に撮影した動画を投稿するだけならば、撮影時点=キャラクターの存在点と我々の観測点には乖離があり、遍在という特殊な存在様式も許容されうる。しかし、ライブ配信は「いま」「そこで」活動しているという強い局在を予感させる。今目の前のモニターで配信されているのであれば、今まさにそこにいるのは間違いないのだ。きちんと寝て起きて決まった時間に配信をするという時間感覚から滲み出る人間臭さは、草薙素子のような眠らない電脳人格のイメージを追放する。

異世界から現れるVtuber(2019年前期頃)

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それからVtuberの有名どころが「設定を盛りまくったキャラが毎日ライブ配信とかゲーム実況するやつ」に変質するまでそう時間はかからなかった。「Vtuberが所属する世界」については基本的には「異世界化」が進むわけだが、その一つのメルクマールとしては2019年6月のホロライブ三期生登場、すなわち「ホロライブファンタジー」が挙げられる。

www.moguravr.com

登場時の予告記事を読むと

ファンタジーの世界からやって来たVTuberであるホロライブ3期生

などと銘打たれているが、今見ると「わざわざ売りにするほどか?」と思わざるを得ない。というのも、これ以降は天使だのドラゴンだのホワイトライオンだの雪女だの、どう考えても異世界から来たとしか思えない連中がむしろ標準となり、海賊や騎士団長程度は珍しくも何ともなくなったからだ。
しかし逆に言えば、当時はまだネクロマンサーやエルフを指して「ファンタジー世界から来た」という設定をわざわざ書き立てる程度にはまだ「異世界から来た」というイメージが主流ではなかった。最初に明記したように「メインストリームにこそ最大公約数的なイメージが結実する」という立場を貫くならば、このあたりを境にしてVtuber異世界出身とするイメージが決定的になったと言ってしまって問題はない。実際、設定の過剰添加とライブ配信の主流化は現在に至るまで加速し続けている。

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次のステップへの予感としては、最近にわかに流行の兆しを見せているVeiなりENなりの海外勢はまさしく異世界=別大陸からの配信がある。「異世界からの配信」が「異文化世界からの配信」に変質し、より現実世界に立脚したイメージが完成しつつあると強弁することも出来なくもない。
しかしまあ、それは論が先立ち過ぎているような気もするので、今は一応触れるだけに留めておこう。

MineCraft世界の発見

大まかに拡張世界に遍在していたVtuberが仮想世界に局在するようになった経緯をさらってきたが、かといって「異世界設定」は各Vtuberがそこまできちんと掘り下げるものでもない。Vtuberのロールプレイにおいて肝要なのは「設定に絡めてちょっと面白いことを言う」という当意即妙のトークスキルであり、オールドタイプなオタクが評価しがちな「緻密な設定を矛盾なく構築する」というクリエイタースキルではない。
よって、それぞれが持つ具体的な異世界の様相が話題になることはほとんどないが、しかしVtuber異世界が明確に一つの形を成した事例として、MineCraft世界が挙げられよう。

wikiwiki.jp

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これはにじさんじ運営が保有するMineCraft世界の地図である(右上の全体図が示すようにこれはほんの一部に過ぎず、引用元の地図を見ることを強く勧める)。
この地図を見たとき、俺はかなり感動してしまった。連続した平面の上で各キャラクターの所在が座標で示され、物理的な位置関係を取って関係している。これこそまさしく一つの世界と言ってしまって差し支えない。流石に最近は少し下火になってきたが、upd8もにじさんじもホロライブも774.incも揃いも揃ってMineCraftに飛びついたのにはやはり大きな意味があるのだ。

MineCraft世界が無数のVtuberを許容できる無限の広がりを持つことに加えて、ブロックを組み合わせて自由に世界を作れるサンドボックスゲームであることも重要だ。実際にVtuberが自分のキャラ通りの建造物を作ることは比較的稀だが、潜在的にどんな世界でもあり得るという性質が、Vtuberそれぞれが別々の異世界を背景に持つ乱立状態を調停することになった。更に言えば、MineCraft世界そのものは物理的なイメージが支配する比較的ソリッドな異世界だが、一方でシステムとしてはワールドワイドウェブ上に存在する電子的なイメージを引き継いでもいる。

補足339:Vtuberの所属世界としてのMineCraft世界が利用された事例として、ホロライブがアズールレーンとコラボしたときの有様はかなり面白かった。(恐らくMojangに無断で)勝手にMineCraft的デザインやメカニクスがいくつも流用され、実質的にアズールレーン×ホロライブ×MineCraftのトリプルコラボという無法地帯と化した。

まとめ

当初VtuberサイバーパンクSFの世界観を引き継いでおり、ワールドワイドウェブという拡張世界に電脳人格として遍在するイメージが優勢だった。
しかし独自の設定を押し出すにあたっては逆に外部の仮想世界に局在するようなイメージが提出されるようになり、更にVtuberの絶対数が増えたことに伴う際限のない設定の豊潤化によって、明確に異世界の存在を前提とした来訪者というポジションを取ることが肯定される。
乱立する割には深く掘り下げられない異世界を調停する世界のイメージとして、サンドボックスかつオンラインゲームであるMineCraft世界が果たした役割は大きい。

最近ではリアリティーショーの延長としてリアルでの同居が押し出されたり、海外勢の台頭でリアルな地理的文化的外部の存在が示唆されるなど、現実世界に立脚した方向への出戻りが行われているように思われる。拡張世界→仮想世界→現実世界という流れは実るのかどうか、いずれにせよVtuberが所属する世界のイメージについてはこれからも注視していきたい。

20/9/30 お題箱回:ペンギンハイウェイの<海>についてetc

・お題箱71

タイトルが「お題箱回」だと既に読んだかまだ読んでないかわからないと言われたので、なんか書いとくことにしました。

あと「<特定のコンテンツ>を消費してください」「<特定のコンテンツ>の感想が聞きたいです」系のお題については、いずれそれを消費したときに答える予定です。ただ、僕は人に勧められた作品の消費優先度をそれほど上げないので消化がいつになるかはわかりません。
ちなみに今ストックされている作品は以下の通りです(20作品も!?)。

堕落ロイヤル聖処女、DTB僕だけがいない街サウスパーク×2、F91戯言シリーズ、ぬきたし、相州戦神館學園シリーズ、プラチナエンドデュラララ!!、ワンピース和の国編、はねバド全国大会編(10巻〜)、アクタージュ、あんさんぶるガールズ、マギ、タイムパラドクスゴーストライターヴァイオレット・エヴァーガーデンはたらく細胞BLACK、リーガルハイ

175.森見登美彦原作でアニメ映画化したペンギン・ハイウェイ見ましたか?感想聞きたいです

そういえば5月に見てました。

saize-lw.hatenablog.com

ただこの記事でも特に触れていない通り、内容に関してはあまり思うところがなかったですね……

本筋とあまり関係ないですが、「これいいな」と思ったのは、主人公の父親が<海>=世界の外部について語るときに用いた巾着袋の比喩です。
まず、我々のいる世界が球体状の膜に囲まれた内側にあるとしましょう。この膜がいわゆる「世界の果て」です。あるとき、世界の果てのどこかに穴が空いて外側に繋がったとします。穴の空いた風船のような形になるわけですが、もし世界の果てがゴムのように伸縮可能ならば、巾着袋の内側と外側をひっくり返すように内と外を入れ替えることができるはずです。
すると、世界の外側だったはずの部分が今度は内側に畳み込まれます。世界の外部はむしろ我々の世界の内側に浮かぶ球体のようになり、これが『ペンギン・ハイウェイ』で描かれた<海>です。陸を世界だとすれば海はまさしく外部であり、水がこの上なく滑らかに変形する物質であることを含め、この球体の海という描写には結構感動しました。

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この話の要点は「外部と内部は実は絶対的に分かれているわけではなく、むしろ接続する契機がある」というところにあります。
このモチーフはMCUの『アントマン』でも見られたものです。『アントマン』では「世界の内部への穿孔を極めたときに到達する超極微細領域は理解の埒外にある外部である」というロジックでしたが、『ペンギン・ハイウェイ』では「外側と内側は位相的に連続なものとして相互に変換できる」というロジックでした(トポロジカルに同じ)。『アントマン』が「外部を極めれば内部に転ず」という極限と循環の論理だったとすれば、『ペンギン・ハイウェイ』は「切れ目のない変化でも外部は内部に反転しうる」という連続と線形の論理であると言えます。
この内/外という対の脱構築的なモチーフに非常に引っかかるのは僕のフェチズムに過ぎず、これが直接に作品の評価をどうこうという話ではないですが、後々何かに引用できそうな予感がします。

176.型月作品ってどれぐらいプレイしてますか?

基本的にノベルゲームをあまりやらないので、プレイするメディアの作品は全く触っていないです。
型月作品にちゃんと触れた記憶があるのは、『空の境界』劇場版を公開当初から映画館で全七部全て見たことと、『DDD』の3巻を待っていることくらいですね(どっちももう15年前くらいですね……)。

そろそろFateくらい触っておくかーと思って割と最近Fate/stay nightのアニメ(最初期の2006年ver)を見たんですが、本当につまらなくてビックリしてしまいました。一つの巨大な文化を作ったコンテンツがこんなにつまらないわけがないので、アニメ版の出来が悪いだけでゲーム版は面白いだろうと推測しているのですが、ゲームは面倒なのでそこで止まってます。
そんなに自信無いんですけど、最近リッチなリメイクで盛り上がってるのって遠坂ルートと桜ルートですよね? セイバールートは2006年verアニメか原作ゲームの二択のはずで、僕はそこをクリアしないと前に進めません。

177.ドラマ(いわゆるテレビドラマ)は見ますか?

拘束時間が長くて重いのでほぼ見ないですが、この前『ウォッチメン』の海外ドラマ版を見ました(かなりつまらなかったです)。それは8月消化コンテンツ記事で感想を書くと思います。
てか半沢直樹見てないのヤバいですかね? そろそろ見ますか……

178.生命が危機に晒される営み(戦争・狩猟)が主流となる世界では女性を危険な前線から遠ざける戦略の方が生存に有利なため女性は挑戦の機会を得ることができず男性ばかりが活躍し権力を獲得していくため女性の地位は一生向上しないという考えについてはどう思われますか?

真偽で言えば普通に正しいと思います。
原始的な体制の社会で体力のある人間が権力を支配しないと想定するのには、かなり不自然な人間像の措定が必要なように思います。女性を守るみたいな事情を考慮しなくても、シンプルに力が重要な社会では力が強いやつが強いくらいの感じでも同じ結論にいくと思います。
ただ問題があるとすれば、そこから「これが本質的な権力構造だ」とか「原始的な体制で自然な状態は未来永劫に自然な状態だ」とか言ってしまうことには飛躍があるというだけです。「男性の権力が強い」という事実から「男性の権力は強いべきだ」という規範が帰結する理由は特にありません。

179.創作上のJKはちゃんとJKって感じがするのに現実の女子高生を指してJKと言われても頭の中のJKのイメージと一致しないみたいなことありません?自分の中でJKのイデアが創作側に寄り過ぎてるんですかね?

僕の頭には最初から創作上のJKしかおらず比較が成立しないので不一致に悩むという感覚はわからないですね……
現実の女子高生は僕の中ではマサイ族とかと同じカテゴリーに分類されています(現実で対応する存在を想定できない人種)。

180.ブログ記事を書いてる目的って何?もっと言うならコンテンツを消費することに対するモチベーションについて聞きたい

RPGでスキルツリーを育てる感じです。ブログを書いたりコンテンツを消費したりするごとにコンテンツに対する知見なり知識なりが蓄積されていきます。

スキルツリーを育てるにあたっては、(今までの人生で消費したコンテンツを全て漏れなく列挙できる記憶力の持ち主で無い限り)コンテンツの記録は必須です。過去に消費したコンテンツから得たものを他のコンテンツと差別化できる解像度で言語化した記録が残っていなければ、それは最初からコンテンツを消費せずに寝ていたのと全く変わりません(スキルツリーが点灯しないので)。仮に僕が消費したコンテンツの名前と感想を記録することを禁じられたら、消費モチベーションは1%くらいまで落ちると思います。

181.みそ兄貴の東大生うんぬんかんぬんの記事が7月中に出るということで楽しみにしてました。別のブログの話題で申し訳ないものの、一応エンカできる程度には親交があるようなので聞いてしまうのですが、みそ兄貴は元気にしてますか?

元気です。
しばらく「みそけど」の更新が無かったので皆で心配していたら、MtG新弾のドラフト会にヌッと出現して普通にゼンディカーの夜明けをプレイしていたのでちょっと笑いました(「みそけど」は最近久しぶりに更新されました→)。その会のときは僕は北海道を旅していたので残念ながら参加できませんでしたが、また顔を合わせて戦いたいですね。
ちなみにみそけど読者は誰も信じないと思いますが、邂逅時の記事(→)に書かれていた「私は実世界だと明るく気さくな青年で」という自己申告は真実です。

20/9/25 サムライ8は何故失敗したのか

サムライ8の感想

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あまりにも世間でボロクソに言われているので読んでみたが、思っていたより全然面白かった。漫画としてのクオリティは間違いなく高い。緻密に練られた設定とそれを表現するだけの画力がある。特に身体の描き方の自由さは『ワールドトリガー』以上であり、頭が前後にパックリ割れてホルダーが露出する表現を露悪的でなく爽やかに描いているのは見事。
確かに説明が回りくどくてわかりづらいものの、それは「どんなことも自分で決められる」というテーマの裏返しに過ぎない(このテーマを徹底すると「どんなことも決まりきってはいない」という前提が必要になる)。登場人物自身が何を言っているのかわからないことをネタにすることからも明らかなように、説明のわかりづらさは計算ずくで用意された自覚的なものだ。この難点は少なくとも単なる作者側の配慮不足ではなく、せめてチャレンジングな試みの失敗と捉えるべきだ。

「父」「姫」に見る父親としての男

『サムライ8』が面白くない致命的な原因は設定の不親切さではない。作中で描かれる価値観がとにかく古く、古典的な少年漫画から感性をアップデートできていないことだ。
一見すると難解な説明に反し、『サムライ8』が提示する価値観は少年漫画では長く大切にされてきたお馴染みのものでしかない。「義」や「勇」や「三位一体」といった専門用語の役割は少年漫画の美学を洗練してシステムとして完成させることにある。むしろコテコテでテンプレートなポリシーを世界観と上手く組み合わせて独特な設定を作り上げたことは感嘆に値する。
しかし、完成度が高いが故に却って岸本の絶望的なまでの感性の古さが浮き彫りになってしまう。複雑な設定が提示する、「父親として自立する」「女性を守る」「男の意地」「絶対に曲げない信条」がカッコイイ時代は少年漫画ですらもう既に終わっている。

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例えば、「父から認められることで守られる存在から守る存在になる」という古い親子像はその最たるものだ。父親は息子を男として承認する絶対者であり、それは父親の死亡によって主人公に継承されて息子は初めて一人前の男になる。

補足332:「父親の背中を追う」という主人公の目的意識は無数の少年漫画に見られるテンプレートの一つだが、そのモチーフからスタートしながらも途中で父親の扱いを転換した漫画として『ハンターハンター』が挙げられる。ハンターハンター』でも連載当初は主人公であるゴンの目的は父親のジンを探すことであり、『コロッケ!』さながらに父親との再会が物語の最終目標として想定されていた。ところが、ゴンとジンの再会は会長選挙編で唐突に果たされることになる。
驚くべきは、この二人の再会が連載当初には最大の目標であったことに反し、実際にはあまりにも軽いエピソードで片付けられたことだ。ゴンとジンは世界樹の上でぽつぽつと会話しただけで、これを機にゴンに何か決定的な変化が起きたわけでもない。実際、「『ハンターハンター』で最も印象に残った回を一つ選べ」と言われて「ジンとの再会」を挙げる読者は極めて極めてレアなはずだ。
ジンの登場によってゴンが物語からフェードアウトすると共に、「父親」という記号に象徴されるような絶対者を素朴に措定できる世界観が本格的に終了する。続く暗黒大陸編で描かれるのは、何重にも絡み合った利害を持つ無数の登場人物たちが織り成す政治的な闘争だ。ジンも顔の見えない神秘的存在であることをやめ、それなりには強いがそれ以上の超越者ではない一人のプレイヤーとして闘争の中に参入していくことになる。

こうした親子像と対極にある最近のジャンプ漫画としては『彼方のアストラ』や『約束のネバーランド』が挙げられる。これらの作品では主人公たちにとって育ての親たちは尊敬の対象どころか生存を賭けて殺し合う闘争対象でしかない。彼らは自分の親を何の躊躇いもなく葬り、自分の足で立とうとする。

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そして、「主人公が父親になることで姫(妻)も守る」という構図もやはり同じくらい古い。
確かに「戦闘要員ではなくバフ・回復要員」という女性の描き方は少年漫画に古典的なものだから、それをもう「三位一体」というシステムとして設定レベルで組み込んでしまうというのは上手い発想だ。システム化されているが故にバッファーであることが周知されている姫は戦闘時に狙われやすく、武士が姫を守る必要が生まれるという流れもよく出来ている。
ただ、「守られるヒロイン」はもう埃の積もった歴史的遺物だ。「戦えるヒロイン」の隆盛はもはやオタク内でのローカルなフェチズムに留まっていない。王道の少年漫画でもヒロインが主人公より強いことはいくらでもある。ミカサはエレンより強いし、禰豆子は炭治郎より強い。

補足333:女性の扱いという意味では、大作完結後の次作として『サムライ8』と似たポジションにいる久保帯人の『Burn The Witch』は本当に興味深い。『Burn The Witch』で戦う女性たちはなんかめちゃくちゃオタク臭いというか、深夜アニメ的な感性を強く感じる。

「義」「勇」に見る男の信条

この作品を象徴する専門用語である「義」と「勇」もやはりコテコテの古い価値観を示すものだ。
ネットでは謎用語として扱われていることも多いが、実際に『サムライ8』を読めばすぐわかる。ざっくり言って「義」は「自分で決めた信条を守ること」、「勇」は「誰かを守るために強がること」である。いずれも少年漫画に脈々と受け継がれてきた男の美学であり、他の少年漫画でも幾度となく描かれている。
例えば、『ワンピース』で描かれる「義」の例として、サンジが「腹を減ったやつには食わせてやる」というルールにこだわることが挙げられる。内容の意義云々ではなく、とにかく自分が決めたことは絶対に守るという形式性が美しいとされているのだ。「義を失えば散体する」という設定は、「自分が決めた約束を破った男は、男として死ぬ」という共通認識をバトルシステムとして表現したに過ぎない。

補足334:ネットでは「負けを認めなければ絶対死なないってことじゃん」と叩かれているのを見るが、それはその通りだ。「義を失えば散体する」という設定があろうが無かろうがそういう文法で描かれるのが少年漫画である。繰り返すが、『サムライ8』の設定は少年漫画的な価値観をシステム化したものに過ぎない。システムに注目して重箱の隅を突いてもあまり大したことは得られない。根本的に少年漫画的な価値観がどう運用されているかに注目すべきだ。

また、「勇」において、「強くあること」というよりは「強がること」「強くあろうとすること」の方が価値が高いものとして明示されていることにはかなり感心した。確かに、最強の力で無双するより、震えながらでも剣を手に取って立ち向かうその心意気こそが「男」なのだという感じはよくわかる。それは主人公が完成した「男」ではなくあくまでも発展途上の「少年」である少年漫画に独特の事情でもあるだろう。その微妙な違いを看破してきちんと描く技量は流石だ。

炭治郎は散体しない

『サムライ8』の様々な設定が古き良き少年漫画の美学をシステム化した手腕は実に見事だ。しかし、そもそも素材となっている価値観自体が絶望的に古いという難点は、直近で最も成功した少年漫画であるところの『鬼滅の刃』の美学と比べるとはっきりする。

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これは俺が『鬼滅の刃』で一番好きなコマだ。『サムライ8』の古い美学に引導を渡す、『鬼滅の刃』の新しい美学がこの一コマに詰まっている。炭治郎には「義」も「勇」も無いのである。

まず、優しい主人公が珍しく不快感を露わにするシーンであるにも関わらず、「こう…何かこう…すごく嫌!! 何だろう」から入る歯切れの悪さが凄い。
古典的な少年漫画なら、男がキレるシーンとは大見得を切るシーンであると相場が決まっている。「俺は女を殴らねえ!!!(ドン!!!」のように、「俺は」で始まる格言めいたセリフを見開きでバーンと言い切るのがカッコイイのだ。それによって『サムライ8』では「義」とされたような、「自分で決めた信条を守ること」の美しさが描かれる。
しかしそれとは対照的に、炭治郎は「こう…」「何だろう」と言い淀み、「信条を守る」以前に信条の言語化すら上手くできていない。注意点として、炭治郎の歯切れが悪いのは決して場当たり的に適当なことを言っているからではない。炭治郎が人間らしい思いやりを大切にする優しい少年であることは全体を通して描かれているし、「配慮が欠けていることに怒る」という反応も一貫している。
単に炭治郎は自分の信条を頑なに保持したり、外向けに規範として提示すること自体が得意ではないのだ。悪く言えば感情的に、良く言えば柔軟なスタンスで世界と向き合っており、一度決めたことを貫く「義」の精神と真っ向から対立する。

更には、「配慮かなぁ!? 配慮が欠けていて残酷です!!」という怒り方も凄い。相手に配慮を要求することは、自分が強がらないことの裏返しだからだ。
『サムライ8』で描かれる「勇」とは、我慢して意地を張る美学だ。逆境に直面したとき、自分一人で強がって何とかするという強情こそが美しいとされている。例えば、上のシーンは嫌がる他人に暴力をチラつかせて無理矢理従わせようとする霞柱に対して炭治郎が怒るシーンだが、「勇」のある男なら手をもぎもぎさせていないので黙って切りかかればいいのだ。勝てないとわかっていても、不正と思うことには断固として反対する強がりこそが「勇」なのだから。
しかし炭治郎は相手に配慮が欠けていることを口頭で糾弾する。「勇」がない炭治郎は自分だけで強がらずに相手にも対応を要求するという形で逆境に立ち向かうことができる。更に言えば、配慮というのは形式的で単純なものではなく、状況如何で変化する極めて複雑なものだ。何をどう配慮すべきかはその人自身が考えなければならないし、「女を殴らない」のように形式的に実行できることでもない。根本的に「男の信条」にはそぐわないものであり、『ワンピース』に「他人に配慮しろ!!!(ドン!!!」と言うキャラが登場することはとても想像できない。

男性的な自己完結vs女性的な他者目線

総じて、『サムライ8』が描いてきた美学に共通するのは徹底した自己完結性だ。自分が決めたことを絶対に守り、逆境にあっても自分一人で強がること。それこそが自立した男であり、その精神は父親から受け継がれて女性を所有することで完成する。これがサムライ8の男性的な美学だ。
一方、真っ向から対立するのが炭治郎の女性的な美学である。その場の感情を重視して柔軟な意見を述べ、逆境にあっても相手に配慮を求めることを忘れない。炭治郎は自分一人で価値観を完結させることがなく、他人にも相応の期待をするという他者への目線を持っている。

この対照的な美学のどちらが素晴らしいとかどちらが時代に合っているというつもりは無いし、イデオロギーに優劣をつけることは目的ではない。しかし、『鬼滅の刃』は漫画史を塗り替える大ブームを作り出した一方、『サムライ8』は超大作としてプッシュされた末に5巻で終了したという現実は動かせない。『サムライ8』自体は非常に完成度の高い「少年漫画」であっただけに、「古き良き少年漫画」の時代に弔鐘の鐘が鳴っていることもまた事実であるように思う。

20/9/20 お題箱回

・お題箱70

170.小説・漫画・アニメ(映像)の三つの媒体の中で一番優れた媒体は何だと思いますか?厳密な議論とかでなくオタク仲間との雑談くらいのノリで構いません。

僕はメディア固有の表現とかにはそこまで関心が無いので、割と何でもいい派です。個人的な好みで言えば最近はエアロバイクを漕ぎながらでも見られる映像作品が一番楽ですね。あと消費側ではなく創作側であれば、小説が頭一つ抜けてる感じはします。他の媒体より圧倒的に少ない労力でとりあえずは作品を作れるので。

また、限りなく俗な意味で、メディアミックスで複数の媒体に展開している作品なら一番流行ってる媒体が一番優先度の高い媒体だとは思います。例えば『聲の形』には小説も漫画もアニメ映画もありますが、流石にアニメ映画版をとりあえず見た方が良くない?的な感じですね。

あとここには挙げられていませんが、ゲームは消費したあとの印象が他とは一線を画して別格な感じがします。僕はあまり詳しくないですが、ゲーム研究の分野ではインタラクティビティとかシミュレーションとか色々な概念を検討してゲーム固有の特徴について論じているらしいですね。

171.現在放映しているリゼロのアニメ二期ですが、レムが健在の状況を仮定して視聴するとまた違う見方ができておすすめです。

実は今期まだ見ていませんがそろそろ見ようと思います。てかレムって死んだんでしたっけ?

172.優生思想についてどう思われますか

この質問が来たのはちょうど野田洋次郎が素朴な優生思想をツイートしてボロクソに叩かれていた頃なのでそれについて思うことから書き始めると、やはり基本的には野田洋次郎が知的な浅薄さを晒してしまった事件であるとは思います。
彼が言ってしまったあまりにもナイーブな優生思想称揚は科学的にも政治的にも正しくない、遺伝に対しても歴史に対しても教養が欠落しているということで理系からも人文系からも袋叩きに遭い、しかも「冗談ですよ」というフォローがどちらに対しても火に油を注ぐという流れるような炎上が美しかったです。

補足329:僕は今『グランドエスケープ』を聞きながらこの文章を書いています。

政治的な方面に関しては今更詳述するまでもないと思いますが、歴史に対して致命的に無知であるために発言に含まれるアクチュアルな加害性を認識出来ておらず、どういう文脈で批判されているかがわかっていないので「少し悪ぶってみただけ」というフォローで収拾できると思い込んでいる様子は端から見ていてもちょっと哀れなほど気の毒でした。

とはいえ、僕はナチズムや優生保護法の犠牲者に思い入れがあるわけではないのでそちらはどうでもよく、もっと厄介だなと思うのは科学的な方面についてです。

まず明らかに言えることは、現代科学において人間の優生思想についての科学的エビデンスはまだ無いはずだということだけです(これは僕の認識が誤っている可能性もあるので、エビデンスに相当する論文を知っている人がいたら教えてください)。

補足330:僕よりその辺に詳しいみそ氏にLINEで聞いてみたんですが、どうせ政治的なマニフェストに潰されるからあんま真面目に研究してる人はいないみたいな感じらしいです。

となると、「優生思想は科学的に正しいとも正しくないとも言えない」と述べるのが最も穏当な立場ではありますが、「正しい」「正しくない」と言い切ってしまっても真である可能性は残ることになります。そしてそれが決定的に厄介なのは、それら三つのどの態度でも野田洋次郎を叩けるということです。実際、当時のリプライツリーを見ると野田洋次郎を叩く「良識派」の人々の反応は以下の三つに割れています。

①「科学的には正しいけど、だからこそ政治的には正しくない」
②「科学的には正しいとも正しくないとも言えないけど、少なくとも政治的には正しくない」
③「科学的には正しくないので、当然政治的にも正しくない」

①の人は「優生政策には利益があるからこそ進まないという崇高な理性を強く保たねばならない」として、②の人は「科学的な見解とは無関係に政治的マニフェストとして完結している」として、③の人は「当然あらゆる意味で正しくない」として、皆それなりに語気を荒げる理由があります。
だからよく見ると結構皆ガチャガチャに違うことを言ってたりするんですが、「少なくとも人類史上で優性思想政策には碌なことがなかった」ということにはコンセンサスを形成できるので、科学的な見解の相違が却って政治的な結束を招いているような印象も受けました。

ちなみに野田洋次郎が「冗談ですよ」というフォローによって取ろうとしたポジションは①です。「軽い冗談を言った」と認識していられるのは「前提から何もかも間違っている」という可能性には思い至っていない場合に限られるからです。ここでも皮肉なことに、「冗談ですよ」というフォローで彼の「科学的には正しい」という前提が揺らいでいないことが証明され、理系に対しても怒りを煽る結果になったわけです。

173.以前Vtuberに関する面白い考察を読みましたが、では逆に、ヒカキンやはじめしゃちょーといった「ポピュラー系(?)Youtuber」が人気を博すことに成功した理由はどのようなところにあるとお考えになりますか。両者が社会に需要される要因には根源的な違いはあると思いますか?

HIKAKINとかはじめしゃちょーが人気になった理由はあまりよくわからないです。
いや、「芸能人とは違って近所のお兄さんのような人気者の延長というポジションを取った」「毎日投稿という形式によって生活を切り売りした」のような通り一遍のことは言えますが、僕は根本的に彼らにあまり興味がないので何を言っても空回りしてしまうと思います。

根源的な違いはあると思います。そもそもVtuberってヒカキンとかはじめしゃちょーみたいに大衆全体に需要されてないですからね。一部の萌えオタクに需要されているだけです。だから萌えオタクの異常性がそのままヒカキンとVtuberを決定的に分かつわけで、今思い付いたことをとりあえず二つ挙げるならロールプレイと美少女的図像です。

まず、Vtuberが生主の亜種みたいな感じになってきた今でも未だにロールプレイというスタンスが全然崩れていない、身も蓋もない言及に対する警戒心が強いのは僕は結構凄いことだと思っています(リゼ女王が「静岡」とか言うことでウケが取れるのも、そのズラしを下支えする前提が崩れていないことの傍証に過ぎません)。
いい年をして空疎なごっこ遊びに興じるのにはかなりのオタク的才能が必要です。昔からあるオタク仕草ですが、架空のキャラクターの架空のバストサイズを弄ってキャッキャと楽しむのはかなり異常です。そういう幼児性はヒカキンとかはじめしゃちょーのファン層にはなかなか真似できない部分、仮にVtuber的なものがオタクの手を離れて世に浸透していくことがあったとしたら多かれ少なかれ捨象されていく部分だと思います。

もう一つ、オタクワールド外には受け入れられないだろうなと思うのはVtuberの美少女モデルです。というかこれは因果が逆で、一般に何の抵抗もなく受け入れられてしまったらそれはもう美少女ではないです。
キズナアイとか宇崎みたいに公衆の面前に出た美少女キャラが燃えるのってその図像が性欲を暗示するのが気持ち悪いからという側面が明らかにあるわけですが、逆に誰に対しても性欲を喚起できない美少女ってそれはもう美少女じゃなくないですか? 僕は美少女の魅力には性欲と結び付くポテンシャルがあるべきで、それは大衆が受け入れない否認の身振りによって証明される節があるとすら思っています。ただし、オタクは性欲を煽られるけど一般的にはそうではないみたいな高度に体系化されたフェチズムって無数にあるわけで、そういうのがすり抜けて通っていく可能性はあるかもしれませんね。

補足331:ただ、僕がほとんど興味がないせいか、男性Vtuberのポジションは本当によくわからないです。実は上に書いたような反社会性が妥当するのは女性Vtuberだけで、男性VtuberはHIKAKINと大差がないという可能性はあります。

174.藤本タツキさんの描いた漫画、ファイアパンチをおすすめします

全巻読んでいて、以前簡単に感想を書きました。ちなみにチェンソーマンは読み始めるタイミングを逃していますが、そろそろ単行本を買うかもしれません。

saize-lw.hatenablog.com

20/9/11 遊戯王ZEXALの感想 ボス戦としてのデュエル

お題箱70

169.ZEXALについて語って欲しい

ZEXALはかなり好きです。中盤までは微妙でしたが、バリアン編に入ってからは毎週楽しみにしてました。

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ZEXALってデュエルの見立て方を一新しているのが非常に面白くて、具体的には決闘を「ボス戦」として再定義しているのが最大の特徴です。

ZEXALまでのデュエル構成は「序盤は小型モンスターで小競り合いをして、場が煮詰まってきた頃にお互いにフィニッシャーを繰り出す」というのが一つのテンプレートでした。
元々遊戯王は宗教的な儀式のイメージを背景としてスタートしたせいか、「数ターンがかりのギミックを経由してフィニッシャーを出す」というように準備の重さがモンスターの強さに繋がるところがあり、それはとりわけGXまで支配的でした。
莫大な生け贄を捧げて降臨する神を筆頭に、《ザ・ヘブンズ・ロード》から出てくる《アルカナフォースEX-THE LIGHT RULER》然り、《虚無械アイン》シリーズから出てくる《究極時械神セフィロン》然り、ボスモンスターは大抵やたらと手間をかけて出てきます。5D'sでは素材を選ばないシンクロ召喚が登場してフィニッシャーの登場はかなり簡略化されたとはいえ、先攻第一ターンでフィニッシャーをシンクロ召喚するキャラクターはほとんどいませんでした。

しかし、ZEXALでは逆にほとんどのデュエルで相手が第一ターンからフィニッシャーをエクシーズ召喚するようになります。「モンスターが2体……来るぞ遊馬!」という台詞が象徴するように、「同レベルのモンスターを複数揃える→エクシーズモンスターを出す」という開幕がZEXALのスタンダードです。相手がとりあえず最速で最強のボスモンスターを繰り出すことにより、以降の戦いは如何にしてボスを攻略するかという攻城戦の様相を呈してきます。
すなわち、一進一退の攻防を描くことをあえて放棄し、ボスを倒せるかどうかという「ボス戦」にデュエルを作り替えたのがZEXALです。この思想はナンバーズという設定にもよく現れています。他のシリーズでは各々のキャラクターが場当たり的に固有のフィニッシャーを繰り出すのに対して、ZEXALでは全てのボスモンスターに一貫したNo.が割り振られ、その場限りではなく作品全体に通底する立ち位置が刻印されています。

とりわけボスの描写に関して最も優れているのはナンバーズ召喚時の変身シークエンスです。これ考えた人、天才だと思います。
フィニッシャー登場時の迫力あるアニメーションは遊戯王アニメ全体を通じて気合を入れて制作されているポイントではありますが、ZEXALだけの特徴はナンバーズが必ず変態を経由して登場する点です。5D'sの《レッド・デーモンズ・ドラゴン》は最初からドラゴン形態で出てくる一方、ZEXALのナンバーズは必ず心臓やコアのような抽象的な形態からモンスターが出現する演出が徹底されています。

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これですね。ちなみにこれは《No.16 色の支配者ショック・ルーラー》の結晶形態です。

この特徴的な演出って、要するにボスの「出現」の表現なんですよね。
古今東西、どんなゲームでも「ボス」と「出現」はライナスと毛布のように切り離せない関係にあります。例えばRPGでは『ファイナルファンタジー』から『デス・ストランディング』に至るまで、ラスボスが出現するシーンでは専用ムービーが流れるものと相場が決まっています。ボスの格は出現シーンで決まると言っても過言ではありません。
よって、デュエルを「ボス戦」と再定義する場合、その目玉であるボスモンスターの登場シーンは単に格好良さを見せるだけでは足りません。「出現」という、無から有へと転じる発生的イメージが必須です。ZEXALに限ってボスモンスターが卵的な形態から誕生するものとして描かれるのは、デュエルの開始時点ではなくボスモンスターの出現時点こそが本当の意味での「ボス戦」のスタート地点だからです。

また、中盤で登場したRUMもボス戦という文脈の中で理解できます。RUMとは要するにボスの形態変化です。
ボスの形態変化自体は、過去シリーズでも《ラーの翼神竜》や《ユベル-Das Extremer Traurig Drachen》などラスボス格のキャラがよく使うものでした。しかし、ZEXALでは全てのデュエルがボス戦として再定義されることに伴って、ボスの形態変化ですらもRUMという一つの普遍的なシステムを成すようになります。実際、RUMによる形態変化の最大の特徴は、それまでに登場した全てのボス(=ナンバーズ)が使えるという点にあります。決して《ラーの翼神竜》のように単発のボスだけが特異点的に使うものではなく、いわば「第二形態」の民主化・システム化を行ったのがRUMです。

こうしたRUMを用いて高度にシステム化されたボスバトルが頂点に達したのが、ほぼ同時進行した遊馬vsエリファスとⅣvsナッシュで間違いありません。この二つが遊戯王ZEXALのベストバウトです。どちらもエクシーズモンスターはRUMする(=ボスは形態変化する)という前提の下、そのシステム自体を変奏したボスラッシュが行われます。
例えばエリファスが使う《RUM-アストラル・フォース》《ランクアップ・アドバンテージ》はボスの形態変化システムを限界まで加速させ、二回や三回どころではなく無限に変態し続けるボスという究極系を提示します(これに対するアンサーが《No.39 希望皇ホープ・ルーツ》による「あえてのランクダウン」です)。このエリファスの戦略が形態変化を狭く深く掘り下げる垂直的なアプローチだったとすれば、Ⅳが取った戦略は広く浅く形態変化を展開する水平的なアプローチです。三体のフィニッシャーが立て続けにランクアップすることにより、ボスの形態変化が完全に一般化していることが示されます。

更に、こうしたボス戦の描き方をカードゲームの表現として見た場合、「先攻制圧」の建設的な描き方として捉えることもできます。リアルだと先攻制圧ゲーは(一進一退の切り返しゲーに比べて)しょうもないクソゲーと思われがちですが、物語的にはこれをボスを巡る攻城戦としてポジティブに捉えうるという契機がZEXALによって提示されています。
最近の遊戯王はよく知らないのであまり迂闊なことは言えませんが、このZEXALが提示したポジティブなイメージがOCGで結実したのはかなり最近ではないかという印象があります(2018年以降くらい?)。実際のZEXAL期に猛威を振るった《No.16 色の支配者ショック・ルーラー》《ヴェルズ・オピオン》《エヴォルカイザー・ラギア》の対処方法が非常に少なかったことと比べると、最近では先攻制圧の存在を前提とした「捲りカード」がゲームシステムとして組み込まれているようです。壊獣なり《冥王結界波》なり《禁じられた一滴》なりを使って相手が擁立したモンスターを崩していくゲームはまさしく手を尽くして相手の牙城を崩すボス戦であり、ZEXALが提示したイメージがようやくカードゲームとして健全な形を成しているように思います。

補足328:全然関係ないですが、第138話で遊馬が真月を救おうとしたやつは本当に好きです。これは何度か言っているんですが、自死を前提としたTRUE LOVEって男女だと描けなくて、男同士か女同士でないとダメです。遊馬と真月、ロロとルルーシュ、カヲルとシンジでないと救えないものがあります。遊馬と小鳥、ルルーシュとC.C.、シンジとアスカでは到達できない領域。