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18/3/9 新海誠映画の感想/解像度とリアリティについて

新海誠映画の感想

秒速五センチメートルと言の葉の庭を見た。
新海誠作品では前に「君の名は」を見たときに感想を書いたが→、難癖だと思っていた俺の被害報告が想像よりは遥かに的を射ていることに驚いた。というのは、過去作二つを踏まえればやはり君の名はラストシーンでタキクンとミツハが出会う流れは無い。

いずれの作品でも恋愛的なものが発動するのは隔離環境下に限られており、通常のルーチンからは状況が連続しないように仕組まれている。日常と非日常、ケとハレにおいて男女の遭遇は後者でしか行われない。
具体的には、秒速一話では雪国、秒速二話では転校先、言の葉では雨、君名では催眠時(?)にしか男女は接触しないしできない。それぞれの作品で生成する異界=男女の接触可能環境のタイムスパンはまちまちではあるが(秒速二話は例外的に長い)、いずれにせよ一定の条件を満たさない限りはアクセスできないこと、時間経過で消滅することが保証されている。特に秒速一話で、帰りの電車が無くなったときにその辺の小屋に泊まるという方法で両親とかがいるであろう自宅への来訪を回避したのには頷いた。少なくとも女にとって自宅は日常の空間なので、異界の出自である男を連れて帰ってはいけないからだ。

細かいことはさっき貼った感想に書いたので省くが、ヒロイン及びヒロインとの交流の性質(たまに男女が逆転することもあるが、面倒なので「現在視点を持つキャラクターが出会う相手方」くらいの意味でヒロインと書いた)が異界との接触である以上、出現が限定的だからこそハレはケを吹き飛ばす力を持つわけで、ハレはあまり頻繁に出現してはいけないし、二つの相は厳格に分けなければならない。

補足115:逆にケに所属するタイプのヒロインは親しい女クラスメイトとか。

……というようなことが、少なくとも過去二作では正しく理解され執着されていると感じたが、君名は最後に二人が出会ってハレとケが混濁して全てがぶち壊しになるわけだから、やはり俺の気のせいだったということになる。なんか良いこと言ってるかな~と思ってDVDに付いてる監督インタビューを一応見たが、なんだか試写会から出てきたおっさんでも言えそうなことしか言わないのでよくわからなかった(いちいち出てくる声優を飛ばすのが面倒であんまりちゃんと見てない)。

・解像度とリアリティについて

映画の感想の続きだが、焼き直しの話題はもう終わって解像度とリアリティについての話をする。
新海誠の映画は水彩画のような独特の作画をするが、これが日常の泥臭さと非日常の幻想を(二つの相で特に作画を変化させることなく)同時に担保するという難題をクリアするのに一役買っていることは間違いない。これを説明するには、マクルーハンのメディア理論を表現技法に拡張するのが最もわかりやすい。
しばらくはメディア理論の話をする。メディアにおけるホット/クールについて適当なウェブサイト→から標準的な定義を取ってくると、     

ホットメディアとは,単一の感覚を「高精細度」 (high definition)で拡張するメディアのことを表わす.「高精細度」とは,即ちデータを十分に満たされた状態のことである.
      一方クール・メディアは,「低精細度」(low definition)のメディアであり,それは与えられる情報量が乏しく,受容者が情報を補う必要がでてくるものである.

注目すべきは、情報の解像度がただちに受容者の参加度合いに影響するという点である。
ホットなメディアには新聞、クールなメディアにはテレビが挙げられる。新聞は書き文字の情報量がギッシリ詰まっているので受け手が参加する余地が小さいが、テレビは提供される情報が複数の感覚(視覚・聴覚)に分散しているし情報量も少ないので受容者が隙間を補う余地が大きい。これは例えば、受け手にあまり物を考えてほしくない戦時下のプロパガンダにおいてはテレビではなく新聞やラジオが適することの説明になる。

補足116:この説明には違和感を持つ人も多いかもしれない。どちらかと言えば、何も考えていない人間がワイドショーを見て、色々物を考えたい人が新聞を読むという真逆の構図の方が感覚に沿うような気もする(それが正しいかどうかはさておき)。これに対する反論としては、ホット/クールはメディアの性質を論じた理論であって人間の性質の方が二次的であることや、当時に名指されていたメディアの性質が現代では大きく変化していることなどが挙げられる。まあ、新聞とかテレビとかいう具体例は今はあまり重要ではないので、「情報が詰まってるよりスカスカな方が色々考える余地がある」くらいの理解でいい。

メディアの精細度が受け手の参加度合いに影響するという流れはイラストにも言える。
単純な絵の性質として、新海誠映画の作画は領域ごとの色のエッジがはっきりしておらず区分けがぼんやりしており、全体的にぼかされている。
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検索してたら説明にピッタリなキャプを見つけた。ぼかすぜ!ってこと。

ぼかしによって画像の精細度が下がることで情報の担い手としてはクールになり、これはただちに受け手の参加度合いが高まることを意味する。「参加」の意味を広く取れば新海誠の映画が妙に感情移入や自分語りを誘発することへの説明とすることもできるが、今のところは画像が表象する事態へのリアリティを高めることだけを説明したい。

補足117:これが適切な日本語かはわからないが、とりあえず「画像」と「事態」という単語を使って「画像そのもの」と「画像がイメージさせること」を区別する。上のキャプで言えば、新海誠によってぼかされたものが「画像」、この女の子が振り返っている現場にいたとしてそこで自分自身の眼で見るものが「事態」。

というのは、画像において受け手の参加度合いが高まる=個々人によって画像情報が補完されるということは、画像によって最終的に表象される事態を構成する権利が一部受け手に委譲され、各自が自らの整合性で事態を認識するということだ。新海誠が提示するぼかした画像は単に事態がリアルとかファンタジックであるとかを定めるのではなく、それら事態がどうやって定まるのかに言及できる一階級上のシステムとして駆動するため、同じ作画技法(視認システム)でいずれの方向にも振れることができる両義的なものになれる。


ちなみに、この話はメタルギアソリッドとかマインクラフトの話題にも波及できる(というか、元々はゲームの話題としていつか書こうと思っていた)。
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俺がメタルギアソリッドをプレイしたのはかなり最近、少なくともPS4を購入して以降なのだが、最初の潜入ダンジョンで主観モードを使ったときに「めちゃめちゃリアルだ!」と感動したのをよく覚えている(主観視点の画像は見つからなかったので、これからの話が比較的わかりやすそうな画像を上に貼った)。
しかし、メタルギアソリッドはプレステ1時代のゲームなので現代のゲームに比べればモザイクがかかったような解像度であり、グランツーリスモ最新作で言われる「現実並みの解像度だ」という意味でのリアルとは程遠い。そして俺はグランツーリスモSPORT時代のゲームをプレイした上でメタルギアソリッドに感動しているのだから、当時基準で優れていたとか思い出補正というわけでもない。

何故PS1のメタルギアソリッドPS4グランツーリスモSPORTを超えるほどリアルなのか?
これも低解像度であるが故に却って補完してリアルという話なのだが、同じ話をするのも芸がないのでメガネの喩えを使うこともできる。
まず周囲の風景を伝達情報と考えよう。視力0.3くらいの人がメガネをかける前後では、当然ながらメガネをかけた視界が高精細度、かけていない状態が低精細度に見えるはずだ。
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それぞれのケースについて、視界を可能な限り再現したゲーム画面を作る方法を考えてみよう。
まず高精細度の場合、細部まで完全に再現するのは容易ではない。単純にグラフィックの難易度の問題として、セーターのほつれ、ダンボール表面の汚れ、肌の産毛などが頭の中にあるリアルと整合しないことが考えられるし、もっと深刻には恐竜とか夢魔とか現実で見たことのないものを描写する際に、細部をどうするのが最も適切なのかは人によってまちまちで、正解は無いかもしれない。
一方、最初から低精細度でメガネをかけた視界を作ることにすれば、細部の不一致という問題は解決される。解像度が低いために服のほつれとかダンボール表面は見えないからだ。それは現実でも同じことで、俺は視力が悪いので裸眼では物体の細部を見ることができない。つまり、元々ぼやけた視界であれば、目に見えているものをそのまま再現するのは難しくない。これを拡張すれば、想像上のクリーチャーに対しても細部を勝手に補完させて不一致を取り除ける(かもしれないし、そうでもないかもしれない。そもそも、ゴブリンやドラゴンに対して再現されるべき細部を持っているかどうかはよくわからない)。

結局、眼鏡をかけている高精細度な視界の再現には細部の描写が障害になるが、最初から低精細度な裸眼の視界であれば元々細部がよく見えていないため完全再現が比較的容易なのだ。事態と画面の間の隔たりは、普段視力が悪い人が裸眼のときにそうしているように、ある程度は勝手に補ってくれる。
これが「モザイクのような粗さであるが故に却ってリアルに見える」という現象が引き起こされる原因である。「細部までよくできていること」と「現実そのままを描写している(ように感じる)こと」は似ているようで微妙に違うのだ。

ちなみに、この効果を使うためには、いくら低精細度だからといって画像が表象する以前の事態まで単純にしてはならない。
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これは無名プレステゲームの画面だが、解像度が低い上に「裸眼の視界」としてもなおリアルではない。いくら視力が悪かろうが窓の外が緑一色であることは考えにくく、粗い画像ではあっても各窓枠内に何らかの色の混じりあいくらいは見て取れるはずだ。これを頭の中で高精細度化しても、窓に対してはハリボテのような印象しか得られない。
とはいえ、プレステの頃のゲームはほとんどがこんな感じだ。窓の外の風景のテクスチャを作ってはいるが全ての窓枠で流用しているようなケースも多いし、作業量以外にもメモリの問題とかもあるのかもしれない。実際のところ、メタルギアソリッドは「裸眼の視界」の作成に余念が無かったというだけでも他のゲームと一線を画すには十分だっただろう(新海誠も同じ)。