LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

10/1 開店から約半年

・反省会

サイゼリヤ開設当初の志は既に失われて久しく、消費したものの感想を残しておくくらいの場所に成り下がりつつある(スタンスを取らないことはスタイルを取らないことを意味しない)。
が、当初心配していたように別に完璧主義が作用したという感じはあまりしない。完璧主義が生きているならこの項目は書かれない。見られていることへの意識から生まれる恥(しばらく前に書いた「語ることと恥の関係」みたいなやつ)に勝てなかったのかもしれないし、慢性期に入ったのかもしれない。

大抵のことは始めた当初が一番面白いとは言わないまでも、何か内/外に変革をもたらすのではないかという期待がある。まあ、99%は何も起こらないことが判明して当初の希望は挫かれるわけだが、重要なのはそれは挫折ではないということだ。

何も起こらないのである。
試みの評価は「成功or失敗」ではなく、「何か履歴が残るor何も残らない」という対立に落ち着くという方が現実の感覚に近い。漫画やアニメでは挑戦の結果として「劇的な挫折」が出現することがよくあるが、いかにもフィクション的表現と感じざるをえない。挫折したという形であれ、何かしらの痕跡が生成されるのは、それなりに上々な成果だ。下々な成果となると、何かがあったような気がすることを辛うじて自分だけが覚えているかもしれないくらいで、世界がそれを認識したことは一度もなく、物質的な残骸どころか、語るべき言葉さえも残っていない。

そういえば、最近読んだアオイホノオで、駆け出し漫画家の主人公が出版社に持ち込みをする回がそんな感じだった。
主人公は大成功の期待と大失敗の恐怖を抱えて出版社に飛び込んでいくわけだが、いざ着いてみると、編集者は原稿をパラパラと流すだけでちゃんと読んだのか読んでないのか、コメントも曖昧で評価されたのかされていないのかもよくわからない。そもそも挑戦は受理されていたのだろうか、勝ちでも負けでもないノーゲームで……

ここまで書いといてなんだけど、別にそういう話ではないな。

イリヤの空

20141030231347[1]
よしえ氏のツイートに触発されて、10年以上前に半分くらい読んで棚の奥に積んでいたやつを掘り出して読み始めた……

ら、文章がちゃんとしていることに気付いて俺はすごく驚いた。まるで一般小説のようだ。機能を持つ地の文があり、語彙があり、人間がちゃんと喋って、まともに思考している(イリヤの空が特別に優れているというよりは現代のラノベが読めなさすぎるだけなので、長所を具体的に述べようとすると、「長所:人を殴らない」みたいな内容になってしまう)。

確かにラノベの文章の質が徐々に簡単になっている(本当は直球に「質が落ちている」と言いたいところだが、公正な言い方をすれば「内容を簡略化することが商業的に正しくなってきた」くらいだろうし、妥協案としての表現)ことは感じていたけど、たった十年前はこんなにまともだったとは覚えていなかったので、落差を認識して驚愕。
ここ数年、俺のラノベ事情といえば、女性主人公ものを適当に買いはするが読めたものではなく、「やっぱり二十歳を超えてラノベを読むのは何らかの才能が要るな」とか言いながら挿絵だけ見て放り出すというのがパターンだった。
時代の断絶を意識してみれば、「そういえば昔のラノベはこんなんだった」という記憶が次々に蘇ってくる。あまりにも簡単なものに触れすぎて過去の記憶まで改変されていた。古いラノベはほとんど手放してしまったので確認はできないが、イリヤの空くらいのレベルがあったはずだ。

この話は前にもどこかでしたかもしれないが、十年弱前に富士見ファンタジア文庫生徒会の一存」が成功したことは当時俺にとっては衝撃だった。あまりにも文章が簡単だったからだ。
富士見ファンタジア文庫は他の文庫に比べて文章が簡単な傾向はあったが、生徒会の一存はその中でも簡単さを極めた簡単さだった。主に会話、たまにト書きと後は空白で構成された簡単すぎる文章はまともに読めたものではない。しかしその異常性には誰も言及することなく、順調に流行り、アニメは二期まで作られた。

補足66:生徒会の一存アニメは1期の開幕5秒だけ見て、あとは見なくていいです。

当時最も簡単なものの一つが生存で、そのレベルのものは他にあまり数がなかったことはそこそこ自信をもって言える。
更に言えば、当時の主力レーベルではちゃんとしている順に電撃=スニーカー>>MF>ファミ通>HJ>>>富士見ファンタジアくらいの序列だったような記憶がある。「現代のラノベが」などと括った割には、ここ数年電撃やスニーカーをまともに読んだ記憶がないので、ちょっと読んでみたい気もする(特殊な才能がいるかどうかは脇に置いておくとしても、二十歳を超えてラノベを読んでいるのは他のメディアと比べて「ヤバい」という気持ちは少しある)。
俺はあまりにもラノベ(とノベルゲーム)を放り出すので「漫画やゲームに比べて文章との親和性が低いのではないか」と思う節もあったが、イリヤの空のおかげで悪いのは俺ではなく質の悪いコンテンツだという自信が湧いてきた。様様である。

・コメディのレベル

ところで、上で「簡単」というところのものには文章の形式だけでなく、キャラの振る舞いも含まれる。
ラノベが簡単になることと関係があるのかどうかはわからないが、既成のコミュニケーションを取るキャラは色々なメディアに蔓延している。小声でなんかボソボソ言って聞き返したら何でもない!とか言ってそっぽを向くやつ、見るだけで萎えすぎて終わる。
特に終わっているのが百合界隈で、帯や表紙に「百合」と書かれて適用されるような狭義の百合が、取って付けたラブコールでベタベタする関係という定義で落ち着いてしまったので、最初から百合を冠しているものは避けて通るくらいの逆張りの極致に来ている(この辺の話、いつかちゃんと書きますと言って先送りにし続けている)。

予定調和の会話、使い古されたテンプレートなやりとりのみを行うキャラがいる一方で、もちろん状況に即して自分の性格に応じてまともに喋っているキャラもいて、その違いは特にコメディで顕著である。
今パッと思い付く中では、それ町けものフレンズ漫画版(アンソロジーじゃなくてフライが描いてるやつ)がかなりまともに喋っているキャラのコメディ漫画に該当する。キャラ同士が了解しあった上であえて既成の会話をしているような雰囲気がある(たまに共通了解から外れた発言が顔を出して場を荒らす)漫画もあるが、俺が勝手にそう思っているだけかどうかの区別が付かない(みなみけとか)。


これもそういう理由で優れたコメディ漫画の一つだが、界隈では百合漫画として扱われがちな割には、単行本には帯も含めてどこにも百合とは書いておらず、俺は「やはりそういうことか」と膝を叩いた。

もう少し具体的に、「まとも度の違いは何で決まるのか」という話になってくると、そんなに大した話でもなくて、単に「今までにどれだけ見たか(既視感はどの程度あるか、使い古されていると感じるか)」「世界観に適合しているか(会話が作品外のテンプレートではなく作品内の性格や世界観をなぞっているか)」くらいが最も真相に近いと思われる。「形而上の物事をきちんと扱っているか否か」も俺の評価には影響しているが、これは好みに寄りすぎているか、必要条件でしかないような気がする。