LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

10/8 今敏についてと売った漫画について

今敏のアニメ

を全部見た。
別に一気見したわけじゃなくて、この前『東京ゴッドファーザーズ』を借りたときに「そういえばこの監督のアニメはだいぶ見たな」と思ってwikipediaで確認したらコンプリートしてた。
有名監督の割には早逝したせいで意外と数が少ない。妄想代理人だけ1クールあるからちょっと重いけど、頑張れば一日で見られそう。

全部見といて言うのもなんなんだけど、別に俺は監督のファンではないし、むしろ世界観のレベルで何かがズレているという微妙な違和感がどの作品にもあった(ここでいう世界観とは作品単位の世界観ではなくて個人単位の世界観のこと、つまり、今敏氏の世界観と俺の世界観が合致していないということ)。

具体的には、『東京ゴッドファーザーズ』を除く全ての作品で壮大な妄想がテーマになっている割には、それをやたら現実的な原因に帰着させたがる傾向があって、俺はその姿勢があまり好きではなかった。
例えば、『パーフェクトブルー』では「後悔と願望」、『千年女優』では「過去と執着」、『パプリカ』では「夢」、『妄想代理人』では「焦燥と解放」を核にして華やかな妄想世界が展開されるわけだけど、それぞれ終盤で「狂人のマネージャー」「『彼』の死亡」「内輪揉めと恋愛」「月子のトラウマ」という現実系のエピソードに回収されていく。どの作品でも妄想は現実系に所属する根本原因の尾ひれに過ぎないことを確認する作業が入り、その根っこが退治されると妄想は拠り所を無くして消滅してしまう。

つまり、妄想を扱っているから幻想小説のようにファンタジックな作品群なのかというとむしろ逆で、妄想を独立して機能する世界ではなく心因性神経症かヒステリーに押し下げているという点で、かなりリアル寄りに作られているように俺は感じた。

ただ、正確に言えば、『千年女優』だけは例外的なところがある。ラストシーンで主人公は死にながら「彼を追いかけている私が好き」と宣言して宇宙に飛び立っていき、「『彼』の死亡」にも関わらず妄想が収束しないことが明示されている。
さっきは話の辻褄を合わせるために映画の途中までの話を誤魔化して書いたけど、『千年女優』ではラスト1分で実は妄想は(「過去と執着」ではなく)「自己愛」によって形成されていたことが明かされ、(「過去と執着」に対応している現実の結末であるところの)「『彼』の死亡」には特に影響されずに独立して続いていくという真逆のオチになる。
正直、終盤で元憲兵が「『彼』はもう死んでいる」って明かしたところで俺は「いつものアレか……」って萎えたけど、ラストシーンで裏をかかれてちょっと感動した。

だからお話の構造としては『千年女優』が一番良かったという結論になるんだけど、実際のところ、中だるみが激しくて面白くはなかった(『パーフェクトブルー』も中盤がかなりきつかった)。
一番面白いのは流石に『パプリカ』だと思う。てか、皆そうでしょ?
パプリカ-1[1]

あと、DVDに入ってる監督インタビューで今敏が「アニメには無限の可能性がある」みたいな話をするときに必ず「アニメは美少女とSFだけじゃなくて~」っていうフレーズを吐くのが記憶に残っている。
パーフェクトブルー』は1997年だから時代的にそうだったのかな~とも思うけど、2005年くらいになってもまだ言ってた。流石にその認識はちょっとアウトオブデートな気もするが、俺は萌えオタクだから美少女ものばかり見てるし言えた口ではないか……

・売却漫画を語る

「もう手放していいかな」的な漫画をまんだらけに売ってきた。
x7A5fWrz[1]
「もう手放していいかな」判定が出る漫画は、未完結の場合は新刊を買う気が起きなくなったもの、完結している場合は一生手元に置く気があまりしないもののうちで作品として優れた点を述べられないもの。
女性主人公ものはそれ自体が優れているという判断で甘めの採点をしてきたけど、もう市民権を得て久しいので特別扱いをやめて積極的に処分することにした。

かぐや様は告らせたい


2巻までは明確に面白かったんだけど、恋愛要素に傾倒しすぎて5巻で限界が来た。
基本的にはレベルの高いコメディでLW評価は低くない。キャラや世界を立てることへの意識の高さがおまけページからも伺え、それがコメディ的な面白さにちゃんと貢献している。特に2巻?で白銀が定期試験のプレッシャーと戦う回は傑作だったけど、かぐや様が露骨にデレ始めたあたりからダレてしまった(一般的に言う典型要素が目に付くわけじゃないけど、この漫画内では見飽きた展開が増えた)。
リソースを使い果たしたわけでもなさそうだし、ポテンシャルはまだまだ高いのでオススメはできる。俺は売ったが。

・はねバド


作画と主人公の性格が変わり始めたあたり(ネットでよく話題になるあたり)で主人公が独自の哲学を持つような方向に行ったら面白いなと思ったんだけど、実際にはかなり正統派のスポーツ漫画の文脈に回収されてしまった。

・NEWGAME


俺は同作者の「こもれびの国」が好きだった。
「こもれびの国」がワニブックスでやってた2010年頃ってワニマガジンから季刊GERATINなんかが刊行され始めて、俺はその創刊号を買って「画集の力ってすげー!」みたいなことを感じてた時期なんだよね。イラストレーターってキャラデザだけじゃなくて世界を描かせてもこんなに物を表現することができたのか!っていう驚きがあった。「こもれびの国」も当時そういう流れで買ったフルカラーコミックで、絵もうまいし女の子は可愛いしよく空気感が伝わってくるねとか感心した記憶がある(その割には2巻までしか買ってないけど、フルカラー故に情報量のボリュームがあるのでそれで満足してしまったのかもしれない)。
ネット上で「がんばるぞい」が話題になったときに「こもれびの国」の作者か……と思って買ってみたけど、うーんまあ面白くなくはないけど特筆するほどのこともないなという感じで一応見たアニメも同じ。

得能氏について言えば、(「がんばるぞい」に翻弄されたからかどうかは知らないけど)作品系に現実が流入しないように意識して配慮しているのは好感が持てる。「ぞい」は二度と使わないことを明言しているし、なんかのフレーズが流行ったときに「作品内で使いたい気持ちもあるけど今だとネットブームっていうコンテクストが乗っちゃうから使えない」みたいなことを言ってて、イラストレーター出だから世界の一貫性への感覚が鋭敏なのかなという気もする。
世界のルールに鋭敏、現実のテンプレートに対抗する意思を持つ作者という色眼鏡で見ると、青葉の「この職場に女性しかいないのは何故ですか?」という発言も""本気""の文脈が乗っているのではないかと邪推してしまう。萌え4コマのお約束として処理するんじゃなくて、それなりに整合する背景事情が必要だと考えているのかもしれないという。
もっと言えば、りんさんのコウちゃんへの執着とかも本気でやってそう。ネタで動いてないから、彼女は。

桜Trick


2巻くらいで終わってれば売らずに済んだ漫画の一つ(「途中までは良かった漫画をどこから売るか」っていうのはいつも考えるんだけど、一部だけ手元に残るのは気持ち悪いので、暗殺教室14巻レベルの特異点でない限りは結局全巻売ってしまう)。
キスを毎話義務化するっていう発想は普通に良くて、それが中心になってる頃は全然面白かった。別にラジカルに良いわけじゃないけど、話の筋がそこを目指して動いて綺麗に締まるから読んでてコメディとして気持ちいい。それをしばらく続けてダレる前に畳んで次の漫画に入るというのがLW的にはベストルートなんだけど、人気が出ると続けざるをえないのか(知らんけど)、メイン二人以外に話の筋を求め始めたあたりから当初の面白さが消えてしまった。
今更だけど、「売った漫画の話をする」って、全てが良い漫画なら売らないんだからネガティブな話になりやすいな。別にいいか。

デストロ246


前作とジャンルが被るから「ヨルムンガンドと比べてどうだったのか」っていう話になると、主要登場人物が全員女の子になった影響は劇的で、だいたい日常系になった。
たまに思い出したように殺し合ったりもするけど、基本的に皆仲が良い。よく一緒にファミレスで飯食うし、エレベーターの中で蓮華が藍・翠に「賭けをしよう」とか言ってダンスするところとかめちゃめちゃ仲良しやんけ!
組織に対する執着で動いてるキャラがいなくて皆フリーランス的で、あまりシリアスに利害が対立しない(女の子たちの仲が良いからそうなったというよりは、女の子たちを仲良くするためにそうしたんだろう)。
まあまあ面白かったし戦闘美少女は嫌いじゃないはずだけど、戦闘に戦闘感が無いのが売却に至った原因かもしれない。基本的にアクションシーンで何してるのかよくわからなくて、特に移動しながら銃を撃つようなシーンが謎。

・あとで姉妹ます


妹の名前がるーちゃんなのが良かった。

・サクラナデシコ


百合コンテンツが増殖する昨今でも稀有なふたなりものの萌え漫画。
基本的には絵柄ぷに系の百合コメディだけど、ふたなりを扱うだけあって性意識に関するこだわりはかなり強い。主人公が男性器由来の性欲に負けて親友キャラを襲いそうになったり、その結果親友キャラが理解を示しつつも男性器に対してだけは強めの拒否反応を示すのは悪くない(絵柄が緩いのでなおさら)。
それに伴って、百合萌え漫画にしては比較的珍しいことに「性嗜好性としての同性愛者」というステータスの概念(特定の相手ではなく同性一般の性的アピールに欲情するかということ)が存在し、「わたしはノンケだから」という発言も出てくる。
性嗜好設定の存在意義とか前になんか考えてた記憶があるけど、忘れたので思い出したら書く。

・クロスプレイ


俺以外誰も単行本を買ってないらしくて一瞬で打ち切られてしまった漫画。
「アイドルグループが突然ループ世界の野球場に閉じ込められてプロ野球選手と試合させられつつ負けるたびにループして勝つ方法を探す」っていう意味不明なあらすじなんだけど、ファンタジー閾値設定が巧みだった。
関係あるようなないような要素(アイドル-野球-スポコン-ループ-パラレルワールドっていう、「アイドルグループも野球チームも10人くらい」というレベルの関係)を継ぎ接ぎしてコメディじゃなくてシリアスをやろうっていうのは恐らくかなり厳しい勝負で、少し踏み外せば荒唐無稽になる橋をうまく渡っている技量を感じた。

プロ漫画家は皆普通にやっていることが稚拙さ故に際立って見えただけのような気もするけど、俺は単行本を買ってしまったから向こうの勝ちと言える。

・ムルシエラゴ


同作者の前作「あわーちゅーぶ」が好きで、「ムルシエラゴ」も女性主人公だから一応買っていたものの、なかなか面白くならなかったので切った(世間的には「ムルシエラゴ」の成功ぶりに比べて「あわーちゅーぶ」なんて誰も知らないだろうから古参気取りの逆張りオタクになってしまう)。


「ムルシエラゴ」がスプラッタ寄りバトル漫画なのに対して「あわーちゅーぶ」はきらら系列4コマとジャンルはかなり異なるものの、いずれも同性愛者の主人公(を中心にした同性愛的な空気)と一部キャラが驚異的な身体能力を持つ点が共通し、作者がやっていることは大して変わっていないという印象がある。
どっちに関しても「あわーちゅーぶ」の方が勝っていると思うんだけど、前者に関して身も蓋もないことを言えば、「あわーちゅーぶ」の方が絵が好きだったというのはかなりある。というか、他の漫画と比べてもかなり良い方に入るレベルで「あわーちゅーぶ」の作画は良くて(「ムルシエラゴ」はそうでもない)、身体能力設定に関しても同じことが言える。

「あわーちゅーぶ」の身体能力設定が魅力的だった原因は、主人公が日常的に電柱や屋根を足場にして移動するほどの身体能力を持っていながら、世界観は現実をなぞったものであり(そのため他のキャラは我々と同じ程度の運動能力しかない)、かつ、主人公の特異的な能力に整合性を与えるような設定を構成しなかったことにある。
わかりにくいのでもう一度言うと、基本的に我々の世界と同じルールの世界でありながら無根拠に超人的な身体能力を持つキャラがいて、その能力の源泉については一切説明をしないということ。

理由についてはよくわかっていないのだが、たぶん、説明をしない美学、逆説の美学、シンプルの美学というものがあるんだと思う。バックグラウンドもなく単純に高い能力を持つことがその特別さを際立たせて魅力的に映るという説明も考えたが、これではバキの花山や天上天下の文七がこの類の魅力を持たないことを説明できない。「無根拠に強いキャラが一部に存在する」という個人の問題ではなく、「強いキャラが無根拠である」という(多重化した)世界観の問題なのだろう。

ちなみにバトル漫画でこの現象が起きることは極めて稀で、強いキャラには強いなりの理由やバックグラウンドが付くものと決まっている(なんかの流派を継いでるとか、すごい頑張って修行したとか……)。それがバトル漫画の流儀なのでそもそもが真っ向から対立する要請なのだが、「嘘喰い」という例外を一つだけ知っている。

嘘喰いのバトルは間違いなく俺が読んだ全ての漫画の中で最も優れている(それも頭一つ二つ抜けている)のだが、他のバトル漫画とは異なる点があまりにも多いために、嘘喰いを読むたびに「バトルの魅力とは何なのか」という基本的な問いを再考せざるをえない。

嘘喰いは通常のバトル漫画に逆行する特徴をいくつも持ち、適当に挙げると、

・流派や体系がない
・技も技名もない
・基本的に戦う理由が組織単位であり、個人の信条や正義ではない
・強さに根拠がない(「暴力要員か否か」というメタ的・設定的な要請が直接「戦えるかどうか」を規定し、立会人は立会人というだけで出てきた瞬間から強い)
・強さが連続的でなく離散的である(戦闘要員or非戦闘要員という区別が設定レベルで固定されており、非戦闘要員が鍛えれば強くなるという概念はない)
・作品内の一般的な世界観レベルでは強さは存在しない(嘘喰い世界でも一般人には立会人レベルの暴力という概念はたぶん存在しない)
・強さにエピソードがない(個人の回想エピソードで語られるのは主に人格形成についてで「これこれこういう理由で物理的に強くなりました」というだけの話は無い、副次的についてくることはあるが)

など。
最近、嘘喰いのバトルも「あわーちゅーぶ」と同じ、「説明をしない美学」というタイプのものなんだろうということはわかってきた。
しかし、説明をしない美学とはなんぞやということがよくわからないので、グルーピングくらいはできそうというレベルから進んでいない。もっと一般化すれば平常に紛れ込んだ異常(基本的には暴力で回っていない世界に発生する暴力)というような話になるかもしれないし、ならないかもしれない。

はいふりアンソロジー


アンソロジーって低空飛行ながらもどれか一つくらいは光る漫画があるものなのに、一つもないのはちょっと珍しい。
はいふりの二次創作なんて適当に日常系させればよさそうなもんだし実際に阿部かなりの漫画版はその路線で成功してるけど、4コマ漫画家としての技量が成す技だったのかもしれない。

・ふたりべや


3巻で明らかに桜子の性格変わったよね?
3巻で突然取って付けたようなテンプレートなレズキャラになってしまった。多分不可逆な変化なので悲しい。

ルサンチマン


前に一度アイアムアヒーローと絡めて感想を書いたのでそのときに書いてない話をすると、主人公と越後がVR空間に没入して二人で涙を流して盛り上がってたのに、HMDを外して現実に戻ってきたときに気まずい空気になるシーンがかなり好き。

突然はしごを外されてコミュニケーションの公理系が変わったときの何とも言えない空気感ってコメディ的な文脈で稀に出現するんだけど、だいたい例外なく面白い。
みなみけだと、マキが「ランドセル背負ったら小学生料金でいけそう」みたいな話でしばらく盛り上がってるあとに、ハルカが「……まさか本当に背負っていかないよね?」って確認してヤバい空気になる回。

高度なコミュニケーションの根幹には今どういう合意と仮定のもとで会話が成立しているかっていうハイコンテクストな空気感がある(それは意外と脆い)というだけの話で、前に書こうとした悪意の話も多分ここに一部回収されるはず。ルサンチマンでのケースはそれが空気感だけではなくて仮想現実として五感に渡って可視化されたパターンと言える。
それが崩れる瞬間っていうのはテンプレートが存在しない世界に放り出されるのと同じだから面白く感じるんだろう。