LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

9/18 最近のポケモンデデンネしか知らん

ポケモン キミにきめた

OgImage[1]
久しぶりに会った姉から「ポケモン『キミにきめた』と伊藤計劃『ハーモニー』を見ろ!」という指令が下った。
ハーモニーの方はゲオで借りて見たが、ポケモンはまだDVDが出ていないのでそうもいかない。もう夏休みが終わってしまった今、上映している映画館もないわけではないが、上映時間の選択肢が異様に少ない。年中暇な俺は仕方なく平日に早起きして新宿ピカデリーで朝8時35分の回を見てきた。

キービジュアルでホウオウが飛んでいるように「キミにきめた」は無印一話のリメイクというコンセプトらしく、俺はまさに無印一話をブラウン管テレビでVHSに録画して視聴した世代である。

補足61:最近遊戯王とかDMとかポケモンとか2000年少し前に発生した子供向けコンテンツが20周年くらいを期にこぞって原点回帰を掲げているのは「子供と一緒に楽しんでね」的なことだろうけど、皆さんは自分の子供と一緒に楽しんでいますか?

ポケモン歴についてしばらく自分語りをすると、アニメは無印の一話からオレンジ諸島編の途中くらいまで見て、映画はミュウツー・ルギア・エンテイまで、ゲームは緑版・ピカチュウ版・金版をクリア。クリスタル版の途中で何度も同じ旅を繰り返している虚しさに気付き、引退。
こうしてみると時期的には1997~2001年の僅か4年くらいしかポケモンに触れていないのに、子供時代には常に隣にピカチュウがいたような気がする。でも、同年代の人とは何故か時期が微妙にズレていて話がかみ合わずに悲しい思いをすることが多い(ルビーサファイア世代の人が多いけど、俺はそのときには既に引退していたのでわからない)(逆張りオタク)。

映画の内容はまあ面白くなかったけど、マーシャドーが可愛い顔してかなりサイコパスな挙動をするのはウケた。
ずっとサトシを見守ってサポートしてたし最後に失敗したのはたまたま外野が暴走して事故っただけっていうのもちゃんと見てたのに、なんかダメになったから適当に洗脳して関係者全員粛清するよ~っていう切り替えの早さが凄い。世界のシステムとして無慈悲に振る舞うポケモンはときどき現れるけど、生物としてのポケモンと神話的存在としてのポケモンみたいな話は、あとでするか。

No Mercyなマーシャドーが示すシステム的な挙動なんてことは20年前なら絶対に考えなかったわけで、これに限らず当時と同じようなものを見ているのに頭の中は全然違うことを考えていて「俺は変わってしまった……」(俺は子供のままでいたいのでどちらかといえば悲しみの方が大きい)的なことはたくさんあった。

しょうもないことだけど、序盤のエリカって負けても悔しそうな顔とか一切しないで「今いくつバッチあるんですか?」「次も頑張ってくださいね~」的なこと言ってサトシを送り出したじゃん。絶対に本気でやってないよね、彼女は。普通に考えればジムは10歳の少年少女が旅に出て成長する社会的儀礼の中のチェックポイントなんだから、ガチバトルしてボコボコにするわけなくて、誰が来ても適当なところで適当に負けてやって適当に褒めて適当に送り出すんだろう。これも社会を構成する大人の義務か。

まあでも、ポケモンバトルの扱いなんかは俺の問題じゃなくて明らかにアニメ側で変化してると思う。
無印の頃はロケット団がなんか騒ぎを起こしてそれをポケモンバトルで収拾するというのが話の流れだったんだけど、最近は特に理由がなくてもトレーナーが二人集まればポケモンバトルがスタートするようになった。
ポケモンバトルは騒動を解決する手段に過ぎなかったのが、今ではポケモンバトル自体が目的になっている(騒動中心→バトル中心)。

そしてこれも昔ならまず思わなかっただろうけど、今のポケモンバトルは普通にエグい。
友達と呼んでいたはずのポケモンに指示を出して殴る蹴るなどの暴行を行わせ、気絶・病院送りにすることも珍しくない。とりあえず意味もなく「バトルしようぜ!」とか言ってポケモンに戦わせて自分は高みの見物、自分で始めたくせに「大丈夫か!?」とか言って心配する一連の動作をアニメで見るとサイコパス感がすごい。

補足62:別に暴力反対と言っているわけではない。俺は暴力(正確には広義の暴力=物理的干渉全般)の正当性を認めているし、反戦主義者でもない(戦争という手続きで利益を得る行為は倫理的に問題がないと考えている)。
問題になるのは暴力を振るうに足る理由があるかどうかで、理由(リターン)が無い暴力は俺から見ても比較的異常だ。戦争は資源的なリターンがあるという点で妥当な営みであるのと同じで、無印のポケモンバトルはロケット団を懲らしめて社会を守るというような理由を持つために妥当である。
最近のポケモンバトルは理由なく発生するという点で暴力としてはかなり異常であるから、暴力ではないと考えた方がいい。


年に一回くらいたまたまテレビをつけたときにやっているポケモンアニメを見るたびに異常な暴力について呆然としていたのだが、今回の映画を見て「ポケモンバトルは暴力ではない」ということ、ポケモンアニメが時代を経るにつれ、ポケモンバトルは問題解決手段としての暴力からスポーツのようなコミュニケーション手段に変わったということをようやく理解した。
俺が異常性を感じていたのはポケモンバトルが暴力だった時代のイメージを勝手に引き摺っていたからで、最初からスポーツと考えればまあそういうものかという感じもする。バトルをメインにしたいけど暴力が前に出てくることに折り合いを付けないといけない段階で、アニメ製作陣の間で「スポーツってことにしましょうよ!」くらいの話し合いがあったのかもしれない(無かっただろうけど)。

もう一つ違和感があったのは、サトシとエンテイたちが雨宿りをしていたときの「自然の前では人間もポケモンも同じだ」(一致してないと思うけどそんな内容)のセリフ。エンテイ(上位のポケモン)って自然側=神話的な存在じゃないの!?という驚きがあった。
そういえば、か~なり前(多分10年くらい前)にポケモンは人間が自然を従属させる様子を肯定的に描いた人間中心主義を賛美した作品であるというような文章をどっかで読んで(何言ってんだこいつ……)と思った記憶があるが、これも今考えれば賛同はしないけど言っている内容自体はまあ理解できるようになった。

ポッポやコラッタのように単なる生物である雑魚ポケモンと違って、上位のポケモンは「雨は何故降るの」「火山は何故噴火するの」という類の自然的・超自然的な領域を説明する機能を持つことがある。例えば「よごれたみずをきよめる」という設定を持つスイクンの生態(?)はもはや生物の一個体の範疇を超えており、自然のシステムを擬人化した合目的的な存在という色が濃い。
ポケモンの設定が壮大になりすぎたあまり、八百万の神々のような神話的存在が担ってきた世界のシステム部分の擬人化に足を踏み入れている節がある。

補足63:ポケモン的神話的世界観と科学的世界観が共存するかどうかというのは微妙なところで、ある意味では共存するし、ある意味では共存しない(レイヤーによる)。また、生物的存在と神話的存在の間にはっきり線が引けるかも微妙なところで、二つの世界観が共存する系では離散的に分布するし、共存しない系では連続的に分布する。
ここでそれを語ると重すぎるので今回は見送る。


まあでも、デジモンにも時空を支配するやつとかが登場しているし、シリーズが進めば設定が壮大になるのはありがちなことだ。スイクンを捕獲して仲間にできるからといって別に神話的存在を従属せよというメッセージがあるわけではないだろうし、別々の要素がたまたまかち合ってそう見えないこともないというだけのことである。

最後に、全編通して一番可愛いキャラはサトシのママだなと思った(次がエリカ)。
今までママキャラに目を付けるアニメオタク普通に意味不明だしうまぶるなやと思ってたけど、自分がそれになってしまったことを知ってショックを受けた……という話で終わる。