LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

5/12 実は最終話も悪くはなかった

・お題箱6

10.どんなゲームが好きなの?

ざっくりした質問ですね。
適当に思い付くことを列挙して答えていこうと思うんですけど、全体的なことを一つだけ言うと、今ちょうどゲームの嗜好の過渡期に来ているような気がします。「肉ばっかり食ってきたけど最近は魚が好きになってきた」みたいなふわふわした状態なので、しっかりした芯はあんまりないです。

1.前はゲームジャンルはほとんど気にしなかったんですが、最近はアクションゲームを好むようになった気がします。常にガチャガチャ動かせるものでないと、集中が切れやすくなりました。

2.可愛い女の子が出てくるゲームは最悪でもキャラの基礎点が保証されているから裏目が少ない(他が終わっていてもキャラ補正で50点くらいは確保できる)っていう理屈でキャラゲーを比較的好んでいたんですけど、本当に最低点しかないゲームを引きすぎて疲れてきました。
なんか、コンシューマーで女の子が可愛いゲームのハズレ率って結構やばくないですか?
この文章だけヤバいくらいの上から目線と勝手な邪推で喋るんですけど、コンシューマーゲームのプランナーって小説家とか脚本家ではないから、「キャラもの」のキャラのことを多分ソシャゲのキャラみたいな次元で考えていて、プロットの中のキャラとかシステムの中のキャラを理解していないか考慮していないんじゃないかとすら感じます。
女の子ゲームについてはPCゲーム畑あたりに任せて、コンシューマーは諦めた方がいいのかもしれません。

3.ゲームってシステム的な面とナラティブ的な面があると思うんですけど(システムが語るストーリーもあるので綺麗に切り分けられるものではないですが)、どちらかというと後者を重視しています。後者が良ければ前者は崩壊していても許容できます。
システム的な部分もゲームの大きな魅力だとは思いますし、システムだけで構成されているゲーム(パズルゲームなど)に触れることもありますが、人生に爪痕を残すのはナラティブ的な面だけだったような気がします。

4.最近、終わるゲームと終わらないゲームでは終わるゲームが好きなことに気付きました。
終わるゲームは普通にストーリーが終わったらやることがなくなるRPGとかノベルゲームで、終わらないゲームというのはオープンワールド系とかやり込み要素が膨大なRPGとかのことです。
言い換えると、ゲームに対しては適当なところで適当に終わってほしい欲求が結構強いです。
しかしこの「終わってほしさ」は僕のスタンスとはやや矛盾するところがあります。というのは、僕はゲームというかフィクション全般を現実のカウンターではなく虚構のオリジンとして扱いたいというスタンスを取っているからです。
ゲームクリエイター桝田省治なんかは「ゲームは現実の息抜きでしかないんだから過剰にハマらせずに適当なところで目を覚めさせて現実に戻してやらないといけない、それがクリエイターの義務」みたいなことを言っているんですけど、僕はこれには反対で、好きなだけハマればええやんと思います。
ということは別にゲームは終わらなくてもいい気がするんですけど、よくわかりませんね。
この辺の話は自動生成システムへの向き合い方とかにも繋がってくるので、頭が整理できたらいつかまた書きます。

11.日常アニメのキャラクターと第三の壁についての見解が聞きたいです。

多分「第四の壁」のタイプミスだと思うので、それについて答えます(第三にも何かあるのかなと思って調べてみたんですけど、ヒットしませんでした)。

まず個人的な感想から言うと、日常系には第四の壁は破らないでほしいです。彼女たちはあちら側で自律しているからこそイデア的に振る舞えるわけで、こちら側に侵入することは神性の放棄でしかありません。

ただ、明確に第四の壁を破ることはなくても、いわゆるメタネタは日常系でもたまに見ます。

この話するのもう何回目かわからないんですけど(でもここはサイゼリヤなので語ってしまうんですけど)、ギャラクシーエンジェる~んの第五話で「俯瞰ですし」っていう爆発オチを使ったギャグがあって、僕はこれがめちゃめちゃ好きです。
apricot[1]
飲食店で仲の悪い二人が喧嘩していて、アプリコット桜葉がそれを止めに入るシーンです。

「二人ともやめてください!まずいですよ、いま画面俯瞰ですし!このままだと……ほらやっぱり~!」

アプリコット桜葉がこの発言を始めた段階で既にキャラが画面に映ってなくて、代わりに俯瞰視点で店の全体像が映っています。カメラが店外からの俯瞰になってるということは、次に爆発が起きることが既に示唆されているわけで、実際に「ほらやっぱり~!」のところで店が爆発してオチになります。

あと似たようなものとして、アプリコット桜葉には「男性に触られると反射的に殴ってしまう」という設定があって、1話でキャラ紹介がてら提示されるんですけど、初出の時点で「使えなさそうな設定だな」と言われて実際にほとんど使われないまま終わるというギャグもかなり好きです。
他のキャラのあらゆる設定にほとんど使い道が無かったことをこの一言でギャグに昇華していると言えなくもないのですが、多分言い過ぎでしょう。

ギャラクシーエンジェる~ん(アニメ)はこの二つとOPで10割なので、OPを貼ればコンプリートです。




話がズレました。
メタネタも広義には第四の壁を破っているという話でした。「俯瞰ですし」ギャグはアプリコット桜葉が虚構内の存在を脱してアニメを映すカメラを見ているという前提が無ければ成り立たないですし、「使えなさそうな設定だな」もこれがアニメであることを理解しているキャラの発言です。

かといってメタネタ自体に不快感があるわけではなく、何度も言っているように、ギャラクシーエンジェる~んのようなクオリティの高いメタネタは普通に好きです。

考えられる理由として、まず第四の壁を破る行為が一時的なものか永続的なものかという違いがあります。
アプリコット桜葉は「俯瞰ですし」をやるときだけは画面外に言及しますが、他のシーンではそういう様子は全くなく、メタ的な設定も特にありません。ネタをやるためだけに少し設定を曲げますよという了解が製作と視聴者の間にできていて、設定上の一貫性を持たないことが許容されているのかもしれません。

もう一つは、メタのレベルの違いです。
「俯瞰ですし」「使えなさそうな設定だな」が言及するのは「これがアニメである」というシステム的な部分だけで、アニメの視聴者の存在する世界にまでは干渉してきません。これに対して、例えばデッドプールは観客に話しかけるようなことをやります。アプリコット桜葉とデッドプールは「現実との接点をどのくらい強く持つか」という部分で区別できるかもしれません。

補足16:メタネタ全般を好んでいるわけではなく、むしろクオリティが低くて見ていられないメタネタの方が多い。
「虚構の壁を破る」という発想のウェイトが重いせいで適当に出すだけで満足してしまうのかもしれない。凄い偏見だけど、その辺を歩いているオタク100人を捕まえて何かしらのスクリプトを書かせたら90人くらいはメタ要素を入れる気がする。
着想は革命的だけどもう手垢が付きすぎてしまって一ひねりくらいはしてくれないと面白くないっていう感じは、ループものと似てる。


・続/世界認識を持たないひとたち

前回について少し補足すると、世界観は併せ持つことも許される。
普段は科学的世界観で生きている人間でも、正月になれば初詣に行き、神々的世界観(よくわからんけど神道?)に従って新年の祈りを捧げるだろう。
手を合わせた瞬間、その人間の心中には「祈りは報われるはずだ」という、普段とは異なる、非科学的な世界観が形成されているはずだ。意味がないことを知りつつ形式的に行う儀式もこの世にはたくさんあるが、新年の祈りくらいは形式以上の迫真さをもって行う人間の方が多いのではなかろうか。

で、世界観を持たない人間が結構な頻度でいるのではないかと思ったのはこのツイートが発端だった。

のだが、今見直すとそんなに面白くなかった。

よく読むと、犬の発話可能性について誤解していたのは親ではなく子供だけだ。子供が「喋りそう」という理由で親に犬をねだったため親は「そうですか」と言って買ったものの、買った犬が喋らなかったので子供は要らないと言って、親は「そうですか」と言って捨てに来たというストーリーだろう。
親の方は(多分)犬が喋ると思っていたわけではないだろうし、「馬鹿」というのも犬の発話可能性の誤解に対してではなく、犬の購入に対する倫理観の欠如に向けられている(ような気がする)。

補足17:個人的にはこの親は悪くないと思う。俺は人間以外の動物に対してはかなりドライで、命の価値とか生存権を認めていない(自分ではフラットなつもりだけど、世間が動物好きすぎるので相対的にドライなことになってしまう)。人間の邪魔になったら殺処分するくらいがちょうどいいと思っているのだが、この話は掘り下げてもあまりいいことがない。

一定の体系を持つのではなく一回性の体験に認識を集約しているのではないか、そういう世界観なき世界認識ではもし犬が喋ってもそれは水が高きから低きに流れるような現象であって驚くに値しないのではないかという、現象学的な?ことを話そうと思っていたのだが、よく読むと別にそういう話ではないなと気付いたので、とりあえず畳む(いつか改めてするかもしれない)。