LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

4/22 デッドライジングなど

・ブログ自体の話

  • 最近ちゃんと書きすぎモードに入りかけているので、改めて適当に更新する意識をもっていきたい。具体的には、「話の体系度」と「思考の流れ」というのは概ねトレードオフなのだが、後者を重視する感じでいきたい。この辺のトレードオフ性も一つのトピックだから、いつか書く。
  • 補足をするときはTwitterとかだと文中に()で入れるんだけど、文脈が多重化してわかりにくいので、補足:で独立させるやつを使っていくことにした。
  • いつでもできる話と時事的な話があって、今までは書きたいときに書きたいことを書いてたんだけど、そうすると時事的な話がタイミングを逃してしまうことが結構起きる。二か月前くらいに人狼をプレイした話をジャンケンのジレンマと結び付けて書こうと思ったのにまだ書いてないし、四女神オンラインの感想もまだ終わってない。
  • サイゼリヤだし時間がずれることくらいは構わないのだが、遅れによって記憶が薄くなって、書こうと思っていたことが書けなくなってしまうとちょっと問題があるので(サイゼリヤには俺が後から見返す記録機能も期待しているため)、時事的なところにももう少し意識的にいきたい。
  • 逆に言えば、古い話題がスタックに潰されて見えなくなる程度には書くことが尽きないわけなので、それはいい傾向である。

デッドライジング

imager2[1]
overtimeモードまでクリア。
四女神オンラインが終わったらブルーリフレクションをやる予定だったんだけど、日常系アニメみたいなものを二連続でやるのもバランスが悪いと思って、R18アクションゲームを挟んだ。
感想として

・ゲームキャラクターの交流不定
カプコン製ゲームのワンセッション性
・死生観のアナログ/デジタルと銃社会

みたいなことを書こうと思うんだけど、こういうケースではどこまでがネタバレか少し悩む。
別にゲームに限ったことではなく、何かのコンテンツの話をするとき、内容それ自体ではなくてもう少し抽象的な、その気になれば内容の話を一切しなくても出来るような構造の話をすることがあって、そのときにネタバレをどのように配慮すればいいのかという。ゲームのネタバレは徹底配慮すると言った手前、広義のネタバレから封印しないといけないのだが、そうすると俺が自由に発言できる内容は限りなくゼロに近付いていくため、どこかに線は引かなければならない。
まあ、俺の独断で判断していくので、なんか思い至るところがあればコメントかお題箱に書いといてください。

・ゲームキャラクターの交流不定

ゲームでは、一度しか出てこない敵キャラがプレイヤーに強烈なインパクトを残すことがある。

(「デッドライジング」アダム戦 7:53~)


(「ノーモアヒーローズ」バッドガール戦 0:18~)

「一瞬しか出てこなかったキャラが語り草になる」という現象ならアニメや漫画でも起きるが(進撃の巨人のやたら目がキラキラしてる巨人、ネギま黎明期の佐々木まき絵)、それは一瞬しか出てこない「のに」というギャップが根元にあることが多い。キャラクター性を登場時間で割ったときの最大瞬間風速はメインキャラを超えうるというだけで、消費者に伝わる元々のキャラクター性自体がメインキャラに勝っているわけではない。

補足1:「キャラクター」という単語が「登場人物」と「属性、性格、信条など」の多義語になっていて紛らわしいので、後者は「キャラクター性」と書いて区別することにした。


ゲームの場合はそうではなくて、瞬間風速ではなくキャラクター性自体が短時間でプレイヤーに強く印象付けられている。アダムやバッドガールの登場時間は前後ムービーと戦闘を含めて10分程度しかなく総ゲームプレイ時間に比べれば非常に短いが、頭に作られた彼らのキャラクターイメージは過不足なくはっきりしており、ネギま黎明期の佐々木まき絵(この喩えわかりにくくない?)のような情報不足感がない。

原因の一つには二式から何度か書いているようなゲームメディアの相互作用性があることは明らかなのだが(関係が一方向の場合と双方向の場合では後者の方が強いのは当たり前である)、それ以外にも交流の時間不定性によるところがあるような気がする。
ゲームでは敵キャラを倒すのにかかる時間はまちまちで、うまいプレイヤーや強装備なら瞬殺できる相手でも、下手だったり装備が弱いと中々倒せない。プレイヤーや状況によって敵キャラとの交流時間はまちまちであるということは、敵キャラとの交流形態には無限の可能性が内包されていることになる(無限というのは、任意のものが可能であるという意味ではなく、列挙不可能であるという意味で。ある敵キャラを倒すのに何年かけたとしても、プログラムされている以上の動作はしてくれない)。

この不定性というのは、プレイヤーが実際に様々な形態の交流を体験するという意味ではない。熱心に周回プレイをしない限り、同じ敵キャラと戦うのは一回だけだからだ。
その場合でもこの効果は起きる。交流時間の恣意性は当たり前のこととして全てのプレイヤーに含意されている、つまり、ゲームを遊んでいるプレイヤーは自分の操作によって敵キャラとの交流が変わってくることを暗黙のうちに了解しているし、今回のゲームプレイではたまたまそうなっただけで、他の倒し方はいくらでも有り得たということを理解している。

交流の不定性からのアナロジーとして、アダムやバッドガールの背後に彼らが持つ無限の可能性を見て、人間としてのリアリティを認識することに一役買う……ような気がする。

補足2:ノベルゲームについてよく言われるルート分岐の話と似ているが、分岐数に大きな違いがある。ノベルゲームの分岐数はせいぜい一桁個だが、アクションゲームは自動生成であるために無限であり、そのために予見性を強く持つという点で差別化できる。
テキストゲームのプレイ中に他のルートを想像することはあるかもしれないが、アクションゲームがフレームごとに持つそれのように自明な分岐ではなく、現実と同じレベルの想像に留まる。実際、各シーンごとには一本道なことも結構ある(特に共通ルート)。


補足3:別に誤解されないような気もするが、「プレイヤーごとに異なるオリジナルの経験が敵キャラへの愛着を深くする」という思い出補正的な効果について喋っているわけでは全くない。