LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

5/20 デモンズソウルの難しさとロックマンの難しさの違い?

・お題箱11

20.主人公女の子(しかも脇)なのに東方興味ないんですか?

Th075reimu01[1]
ないですね~。
霊夢ちゃんが可愛いっていう感覚も全くなくて、それは多分東方全体に対する敬遠意識がキャラの魅力を上回っているからです。

東方自体に対する語りをちょっとやると、僕は現在日本を席巻している「ソシャゲ型コンテンツ消費」は東方が開祖だと思っています。
ソシャゲ型コンテンツ消費というのは、「キャラしかいない消費」のことです。TTRPGに着想した創作理論として物語の構成要素には「キャラ」「世界」「プロット」の三つがあるというようなことを大塚英志が言っていましたが、このうちで「世界」「プロット」が存在せず、徹底的に「キャラ」だけしか消費者に触れられません。触れるとしても、精々「キャラ同士の関係性」までです。
例えば、グラブルは毎日キャラに関するツイートが流れてくる人気コンテンツですが、ツイートの内容はどれかのキャラのイラストに集約されています。世界観やプロットに言及したツイートはほとんどありません。
このスタイルが普及した原因には、キャラという要素にガチャで強くフィーチャーしたソシャゲ、及びタイムラインという拡散要素を持つTwitterの躍進があると考えられます。

補足23:これがコンテンツ消費の本質的な性質なのか、Twitterというメディアの特徴なのか(各要素のうち、Twitterというメディアを介した場合はイラストが流通しやすいだけではないのか?)という議論はあります。そもそも、アニメ系コンテンツが消費される段階で表に出てくるのはイラストだけであり(特に萌えコンテンツで顕著)、エヴァのように相当陰険なコンテンツでなければそもそも他の語りは誘発しないという指摘も正しいでしょう。
現代でオタクが交流するTwitterのウェイトの重さを考えるに「消費の中でTwitterが一つの地位を占めるというよりはTwitterが消費全体を定義しているんじゃないか」という反論も考えたんですけど、なんだか暴論っぽいですし、とりあえず「僕はそう思う」という雑な意思表示でこの話は終わらせます。


僕はこの「ソシャゲ型コンテンツ消費」があんまり好きじゃなくて~っていう話をしようと思ってたんですけど、これは完全に嘘ですね。グラブルやってないのにクラリスちゃんが大好きですし、FGOやってないのに沖田第二形態も好きです(でも一番好きなのはカリオストロとアストルフォです)。反例が挙がってしまったことで、さっきの段落は完全に意味がなくなってしまいました。

多分、東方がニコニコの馴れ合いの象徴として機能していた頃のそれに対する嫌悪感を引き摺っているだけというのが一番真実に近いような気がします。2007年頃は2chサイドの人間(笑)だったので、ニコニコとは敵対する立場(笑)だったんですよ。当時は僕も若かったし、そういうのあるじゃないですか。
まあ、今では淫夢動画をよく見ているので、馴れ合いについても全く一貫性が無いよね~という話をして畳みます。

21.どうやったら毎日5km走るモチベ見に付きますか?

僕にとってジョギングはモチベがないと出来ない行動ではなく、食事や睡眠と同じように(というのは流石に少し盛ってますが)生活に必要な種類の行動です。
これは個人固有の癖みたいなものなので話しても参考にならない気もしますが、「向き不向きです」と言って終わるのもアレなので一応書いておきます。

ジョギングは思考をまとめるのに必須の儀式です。
うまく言語化できるかどうかわからないんですが、単一情報を整理して文脈を抽出したり、文脈から単一情報を生産するためには、周囲の情報から離れて「情報的な孤独」に身を置く時間というのが欲しいんですよね。いまどきはスマホやテレビですぐに情報洪水に巻き込まれてしまうので、意識的に物理的な距離を作らないといけません。通学中のウォーキングとかサイクリングでも代用できるんですけど、今は半ニート状態で基本的に家から出る用事がないので、自然とジョギングを選択することが多くなります。
ちなみに、これは「走ると気持ちがすっきりして考えをまとめやすい」というレベルの話ではなくて、「食わないと飢えて死ぬ」に近い切実な要求です。ジョギングをしなければブログは書けないし、学術書を読むのも難しいと思います。

あともう一つ別の話題として、僕は最終的に倫理というのは暴力(広義の暴力、物理的干渉全般)が担保すると思っているので、自らの倫理が殺されないために最低限の体力は持っておきたいという気持ちがあって、それもジョギングを後押しします。
この話をすると必ず「土壇場で暴力を行使するってこと?」って聞かれるんですけど、それは誤解です。
例えば、木を擦って作った火種に息を吹き込みながらたき火を起こす方法を知っていれば無人島に流されたときも安心ですよね。この安心感っていうのは必ずしも「もし無人島に流されたら……」っていう仮定があって初めて機能するものではなくて、漠然とした生存可能性というステータスを上げる行為であり、使用イベントが訪れるかどうかはまた別の話です。

まあ、ただ単に走るのが好きというのもあります(「犬猫が好き」という主張と同じ次元で)。ジョギングは5年以上前に始めたんですが、誰に強制されるわけでもなくずっと続いていますし、これから辞めるつもりもありません。

「思索時間」「倫理基盤」「好み」という話をしましたが、見事にどれも参考にならなさそうですね。

・2Dアクションと3Dアクションの難易度の違い

ざっくり大別して、アクションの難易度には

・空間難易度
・時間難易度

の二種類がある。

空間難易度とは、(主に操作キャラクターの)座標を制御することの難易度。例えばマリオの一面で谷をジャンプして跨ぐとき、プレイヤーは適切な位置にマリオが着地するようにジャンプボタンを押す。
時間難易度とは、(主にボタンを押すタイミングの)時刻・時間を制御することの難易度。例えばマリオのラスト面でクッパと対峙したとき、クッパの攻撃に合わせてジャンプを押したときのみマリオは火焔を飛び越えて反撃できる。

時空間が複合することもよくある。例えば首領蜂のような弾幕シューティングの場合、空間的に発生したドット単位の安全地帯が時間的に刻々と変化し、一秒前まで安地だった場所が安地でなくなったり、10ドット右は安地でも10ドット左は死域だったりする。この時空間の両方で安地に入るように自機を操作することがプレイヤーに求められる制御である。

この二つの難易度のうち、ゲームが2Dから3Dになったとき、空間難易度は消滅したか、かなりの簡略化を迫られたような気がする。
3Dダンジョンは見た目上は2Dと同じアトラクション状だったとしても、その上を移動しているだけではそうそう死なない。敵が絡まない移動では死なないのだ。足を踏み外したり、ジャンプが足場に届かないという原因で滑落死することは3Dでは2Dに比べて明らかに少ない。そりゃそういう死に方をすることは3Dでもあるが、それをしたときの感想は「うっかりミス」で、2Dのときのようにゲーム自体の難易度として移動の難しさが繰り込まれているとはあまり思わない。

例えば、谷を渡るためにプレイヤーがジャンプするとき。

   〇
■■■■■■     ■■■■■■■

〇:プレイヤー、■:床

ロックマンのような2Dゲームでは、プレイヤーが落ちるギリギリのドットでジャンプしなければ次の足場に届かないというゲームデザインが許容されるし、それはアクションゲームの難易度の一つとして理解される。
一方、3Dゲームで足場ギリギリでジャンプしなければ次の足場に届かないゲームデザイン、何度も場所を計ってジャンプしてようやく届くような足場は、ストレスの源にはなっても、アクションのデザインという感想をプレイヤーに与えることはないような気がする。ドット単位の調整を要求される足場など、論外である。

ニュアンスが伝わるかどうかが微妙な気がしてきた。定量的な証拠があまり提示できない。
似たようなケースは他にもあって、例えば2Dゲームのボス戦ではシビアな攻撃の隙間をドット単位秒単位で縫うことはよくあるが、それに比べれば3Dゲームのボスが吐く火焔はヌルい。3Dゲームで極めてシビアな回避が要求されるということはない。いや、あるかもしれないけど、それがドットサイズであることはない。どんなにシビアな3Dシューティングでも、ケイブ並みにシビアな安地が設定されることはない。と思う。

補足24:難易度低下の理由は他にもたくさん考えられるが、今回は次元の変化にそれを求めた。
他の理由としては、技術的な進歩によりゲームのシステム面を追求せずともグラフィックに依存したナラティブ的側面を追求するのが簡単になったり、ゲームが普及するに伴ってライトユーザーが増している(らしい)という時代の変化だったり、アーケードゲームからコンシューマーゲームへの移行に伴ってキャラの死亡率と収益に関係がなくなったり……など。


補足25:次元の増加を語るにあたっては、次元の非対称性には触れておかなければならない。
というのは、物理的にはともかく、我々が通常世界で認識する座標軸において、「縦・横」と「高さ」は明らかに平等ではない。世界には重力というものが存在するため、我々が平面を移動するときの方法で上下方向に移動することはできず、上下方向は平面方向よりも明らかに自由度が低い。この制約は3Dアクションゲームにも受け継がれており、3Dアクションは3次元というよりは2.5次元くらいという方が操作の実情に近い。
2Dアクションでも全く同じ事情があるが、どの座標の組み合わせを選択するかはゲームによってまちまちだ。横視点のゲーム(ロックマン)では平面移動+上下移動だが、俯瞰視点のゲーム(ゼル伝)では平面移動しか存在しない。このとき前者は1.5次元くらい、後者は完全な2次元となる。今回の話は主に横視点のゲームを想定して書いている。


3Dアクションがシビアな空間難易度を志向しない理由は、自由度が高すぎて厳密な制御を求めることが製作においてもプレイヤー操作においても難しくなったからではないか……と思った。

3D的なオブジェクト配置は、2Dに比べてプレイへの影響が予想しにくい。3Dオブジェクトの位置を少し弄ったとき、飛距離が伸びるのはどこからどこへの経路なのか、元の足場のどの位置からジャンプしたときにx座標とy座標のどちらにどのくらいずれるのかを厳密に予測するのは不可能に近い。
このあたりの細かい調整がしんどいのはプレイヤーも同じだ。次元が増加すると、プレイヤーが制御すべき座標の組み合わせは増える。
2Dアクションでの足場が10ドット分で構成されていた場合、各位置で10回検証すれば済むが、これが3Dアクションで平面の板になったとき、位置の数は10×10=100に増える(3Dアクションは固定ドット数では描写されないので、動きの最小単位とでも言った方が正しい)。

補足26:ゲームコントローラは本質的に二次元的存在である。
PS4でも64でもその辺のゲームコントローラを見ればわかるが、あらゆるスティックやボタンには最大でも二値の表現しかない。3Dスティックは名前こそ3Dだが、実際に取得するのはx座標とy座標方向にどのくらい倒れたかというアナログな二値情報だけである。
その最も顕著な影響として、大抵のゲームでは平面移動は3Dスティックを使っても、ジャンプには×ボタンか何かを使うことになっているはずだ。3Dの三次元を表現するためには一つのボタンやスティックでは足りず、それらの組み合わせを使うことになる。
ということを考えたが、今回の内容と関係ありそうで特になかったので補足にした。


さて、3Dアクションは空間難易度を下げる一方で、時間難易度は変わらずに維持されていることが多い。相手の攻撃を特定のタイミングで弾くとか、回避ボタンを押すとか、シビアなタイミング入力は今でも健在だろう。この類の時間難易度はプレイヤーにアクションゲームの本旨であるところのスリルを味合わせやすいため、時間難易度さえ健在であればプレイの満足度は保たれやすいような気がする。

ゲームプレイのスリルはリスクとリターンが同時に高まるときに成立する。リスクしかない行動をするプレイヤーは存在しないし、リターンしかない行動は常に擦られるのでスリルと関係しない。
例えば、デモンズソウルの「パリィ」は、相手の攻撃にジャストで当てたときは反撃による大ダメージが可能となるが、タイミングがズレると普通のガードすら失敗してダメージを受ける。プレイヤーが通常ガードを解いてパリィをするとき、そこに初めてリスクとリターンが発生するのだ。

時間的にリスクとリターンを高めることは難しくないが(ジャストガード系、ジャスト攻撃系……)、空間的にそれを行うことは難しい……と思ったが、その例も結構思い付いてしまう。グラディウスでビッグバイパーがパワーカプセルを取りにいく行動は、被弾リスクとパワーアップリターンを同時に上げるスリリングな空間移動である。



たまには素直に難しいゲームでもやるかってデモンズソウルをプレイして、これの難しさってロックマン8の難しさと本質的に違う気がするな~的なことを思ったけど、あんまうまくまとまらなかった。