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3/22 ガヴリールドロップアウトとメイドラゴンの感想

・タイトル

日付だけだとTwitter投稿したときに投稿できたのかできてないのかわかりにくいし、管理上も普通に不便なことがわかったので一応最大トピックの名前を付けようと思います。

 

ガヴリールドロップアウトとメイドラゴンの感想

オタクコンテンツには「お約束」「テンプレ」が溢れている。

例えば、マクロには前に弱肉二式で取り上げた「成長もの」のような物語類型、ミクロにはお風呂回での女の子同士の胸のもみ合いなど、「まあだいたいこうなるだろうなあ」という作り手と消費者の間の了解の元で発生する表現・演出・展開。物語の外部から要請されているという点ではある意味でメタなベタ、ジャンルやメディアが潜在的保有するコンテクストに過剰に沿っているという意味ではハイコンテクストな形態……など、言い換え表現はいくらでも思い浮かぶが、今回は類型的と言うことにしよう(ちなみに類型的という微妙な単語を選択したのは日本語の問題で、何かしらの概念についての文章を書くときはその概念を「○○性」「○○的」という形で記述すると色々と書きやすいのだが、「お約束」については適当な類語が他に思い付かなかった)。

 

さて、あるコンテンツについて類型度の評価を行う場合、それは作品に紐づけするべきなのか、消費者ごとに紐づけするべきなのか、はたまた時代に紐づけするべきなのかという問題がある。つまり、「ラノベアニメはテンプレ連打するし明らかに作品として類型的でしょ」というスタンスを取るのか、「俺は普段ラブコメを読まないからネギまを斬新に感じた」というスタンスを取るのか、「らきすたは『オタクもの』が少ない時代では斬新だった」というスタンスを取るのか。
話が混線しない限り別に何でもいいのだが、今回これから書く類型度の評価が消費者依存的になる、つまり俺の主観に依存することはどうしても避けられない。要するに、これから類型度の評価をするにあたって「俺はそうは思わない」と言われたときに「受け取り方は人それぞれだからね」以外の返しができないけどゴメンネ……ということを今伝えたかった。
ちなみにこの辺の命題の根拠をどう確保するかというスタンスは文理の違いに由来していると思っているのだが~という話を始めると今日の更新がそれで終わってしまうので、それはいつか気が向いたら書く。
 
ところで、魔法少女なんてもういいですからの話をするときにユズカの類型度が低いが故にリアリティが高いみたいなことを言ったか聞いたかしたような記憶があるのだが、それは「類型度が低い」=「フィクションのテンプレートに染まっていない」=「アンチフィクション的という意味でリアル」という連想ゲームによって口が滑ってしまったもので、せいぜい対義語が似たような領域を指しているというだけで、類型度とリアリティは本質的には別の概念のような気がする。
この辺の関係はまだよく考えていないので次の機会に。
 
類型度について一通り喋ったので、今回やろうと思っている評価の対象を分類する。
 
・関係性について
キャラクター同士の関係性における類型度について、キャラクター間でどのくらい自由な交流が許容されているかというのが一つポイントになる。あらゆるキャラクターの組み合わせについて会話が成立するか、人間関係を構築できるのか。算数で言うと、n人の登場人物に対して主人公を中心にしたn-1通りの人間関係しかないケースが最も人間関係が貧弱なパターン、対してあらゆる組み合わせn(n-1)/2通りの人間関係が存在する場合が最も人間関係が強力なパターンである。
「人間関係の自由度と類型度の関係を説明して見せろ!」と言われると、「人間関係が豊富なコンテンツではそれぞれの関係性がテンプレートに甘んじずにちゃんと考えられていることが多い……ような気がする」「逆に、やり取りをテンプレートに頼り切っているコンテンツでは自由に人間関係を張ることは難しい……ような気がする」というだけのかなりガバガバな理論なのだが、少なくとも日常系コメディにおいてはそれなりに適用できる……ような気がする。
 
疲れてきたので今回はここで終わる。


えー謝罪

昨日次回予告したから今日こそはガヴリールドロップアウトとメイドラゴンの感想を書くぞ!と思ったのに固有名詞までたどり着けませんでした……