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22/11/12 プランナー目線の生成AI妥協論

第2回創作+機械学習LT会

先日11/5(土)に開催された「第2回創作+機械学習LT会」に参加しました。
発表した内容の紹介兼イベントレポです。全体的にガチ感とカジュアル感の塩梅が良い感じで懇親会含めてかなり楽しめました。

connpass.com

僕の発表はカジュアル寄りで、プランナーの立場から「創作活動にイラスト生成AIを使うとき、AIを技術的に改善したりイラストを加筆修正したりする以外に『企画(プランニング)を妥協する』という選択肢を持ちましょう」という話をしました。
当日の参加者にはエンジニアかクリエイターが多くプランナーがいなかったので、ちょうどよくニッチなポジションから話せてそこそこウケて良かったです。

プランナー目線の生成AI妥協論

せっかく作ったスライドがあるので適宜貼りながら解説します。

プランナー目線って何?

ゲームでも小説でも漫画でも何らかの創作企画に生成AIイラストを利用するとき、一般的に「生成AIは理想出力をほぼ出せない」という問題がまずあります。
「誰でも理想のイラストを描ける」という触れ込みで紹介されていることも多い生成AIですが、実際には自分の頭の中で思い描いている画像を100%そのまま出せることは基本ありません。「表情が想定とちょっと違う」「装飾のデザインがブレてしまう」「狙った通りのポーズにならない」というような不整合が常に付きまとい、一枚絵を超えた体系性を持つ一貫した創作企画に用いるにはこの課題をクリアする必要があります。

幸いにも、この問題は色々な立場から解決することができます。
例えば生成AIをコードレベルで扱えるエンジニアならファインチューニングとかを施して生成AIモデル自体を改良できますし、イラストレーターのようなクリエイターなら生成AIが出力したイラストを加筆修正できます。この二つの対応は直感的に理解しやすく、技術やデザインの技能を持つ人たちによって今も様々な対応が試みられています。

しかしほとんど顧みられない第三の選択肢として、プランナーならば「創作企画の方を妥協する」という対応が可能です。つまり「生成AIが満点の出力を出さなくても問題が生じないように企画を設計・運用する」という考え方について説明していきます。

 

現実的な生成AIの限界と解決

具体的にイラストの枠組みを図示すると、以下のような領域に分けて捉えることができます。

まず黄色い領域が「理論上可能なイラスト」です。これは文字通り画素と色の組み合わせにおいて理論的に可能なイラストの全てで、例えばフルHDなら(256^3)^(1920×1080)≒10の100万乗通りくらいの要素があるドメインになります。

その中には「現実的にAI生成できるイラスト」を示す緑色の領域があります。これは生成AIで狙って作れるイラストのことですが、「現実的に」という言葉にけっこう力点があることに注意してください。エンジニアや研究者は理論上可能なイラストは概ね生成可能だと見做す傾向もありますが、プランナー的にはとにかく今の手札として創作に利用できるAIイラストに関心があるので「将来的な改善を考慮せずいま使えるもの」というニュアンスでわざわざ「現実的に」と付けています。

また、それとは独立に「使い物になるイラスト」を示す赤色の領域があります。使い物になるイラストとは何かには諸説ありますが、とりあえず人間クオリティのイラストとニアリーイコールということにしておきます。

具体例を充填すると以下のような感じです。

現実的にAI生成可能使い物になるイラスト」には最近話題になったチューリングテストをパスするようなイラスト、つまり生成AIで作れて普通に人間が描いたものと区別できないイラストが該当します。

現実的にAI生成可能だが使い物にならないイラスト」にはよく失敗作として出てくるようなデッサンが狂って身体が崩壊しているイラストなどがありますが、これは特に用事がないです。

問題は「使い物になるが現実的にAI生成できないイラスト」です。ここに入るイラストとして、例えば「2人以上の特定キャラが絡んでいるイラスト」があります。試したことがある人はわかると思いますが、キャラAがキャラBをお姫様抱っこしているイラストを生成しようとすると大抵キャラAとBの特徴が混ざった中途半端なキャラが出てきてしまい、なかなか綺麗なイラストが出ません。他にも紋章やボタンの数などの超細かい装飾を指定したイラストも現実的には生成が難しいです。

そして創作に生成AIを用いるにあたっては「使い物になるが現実的にAI生成できないイラストが欲しいときどうする?」という問題をクリアする必要があります。

生成AIを改善する」というエンジニアのアプローチは生成可能なイラストの範囲を拡張することで欲しいイラストを取りに行く対応として捉えられます。

AI生成イラストを加筆修正する」というクリエイターのアプローチはイラスト加筆能力によってAI生成可能な範囲を超えるイメージで捉えられます。

そして「創作企画の方を妥協する」というプランナーのアプローチは、「本来欲しいイラストを諦めて、現実的にAI生成できるイラストだけを使ってなんとかする」というものになります。

お察しの通り、他の二つに比べてこれはかなりクソみたいな解決方法ですが、悲しいことにプランナーにとってはよくある話です(生成AIが絡まなくても)。
例えば半年後にやる海水浴イベントでどうしてもデザイナー工数が確保できずキャラ二人分しか水着立ち絵を用意できないとき、「水着キャラ二人だけでも何とか楽しい海水浴イベントが作れるように頭を捻り、水着を着せるキャラを二人選んでなんとかイベント企画を設計する」という仕事はプランナーのお家芸です。

 

生成AIの妥協論に注目する意義

「何故そんなしょうもないソリューションをわざわざ考慮しなければいけないのか?(そもそもこれはソリューションなのか?)」と感じる人も多いと思いますが、生成AIに限ってはこの「プランナー目線の妥協論」に注目する意義がいくつもあります。

第一に、生成AIは素人も使うことがあります。
エンジニアでもクリエイターでもない素人にとってはファインチューニングやクリスタを利用する解決方法は相当にハードルが高く、理想のイラストが出せない時点で詰み状態になって創作を挫折してしまう可能性が高いです。その点、プランナーの思考法はコツさえ掴めば誰でも扱える数少ない手札であり、特殊技能を持たない人に生成AIでの創作支援を普及させるにあたって一つのキーになるはずです。

第二に、生成AIには原理的に不整合が付きまとうことがあります。
現代的な生成AIは理論的な基礎をルールベースではなく統計処理に置いているため、乱暴に言えば「こんなイラストがそれっぽい」という「っぽさ」ベースでの生成から逃れられず、今後も100%理想出力は当分は出ないことが予想されます。つまり生成AIがもたらす原理的な不整合は人間への発注と違ってクオリティマネジメントのレベルでどうにかなる問題ではないため、技術的に不可避な限界だと認識して妥協するスキルを身に付けておけば今後も賞味期限長く利用できるはずです。

第三に、企画の妥協は行き当たりばったりになりやすいことがあります。
「企画を妥協する」という考え方はプランナーだけが知っている秘儀というわけでもなく、むしろ逆で部分的には誰でもよく実行しているものです。例えば「本当は欲しいイラストとちょっと違うけどこれで我慢する」という無意識の妥協は素人こそよく行うものでしょう。しかし企画の妥協は「最初から妥協しやすい企画を設計しておく」などの事前の準備が明暗を分けることも多く、都度都度行き当たりばったりに行うのではなく問題点を認識して戦略的に行うことが重要になります。

第四に、生成AIは質より量の強みを活かすべきだということがあります。
これは諸説ある部分ですが、僕は生成AIイラストのクオリティはプロへの発注には及ばないと考える派閥で、プロが100点を出してくるとすれば生成AIは精々80点という優劣関係は今後も変わらないと思っています。その状況で生成AIのクオリティ上げを頑張って90点とか95点に持っていってもプロにはどうせ勝てなくて、生成AIという選択の強みを活かすにはクオリティの土俵で戦うのではなく生成スピードの速さを活かすべきだと思っています。プロが100点のイラストを10枚生産する間に生成AIは80点のイラストを15枚生産して総合点で上回るみたいなイメージで、この意識の下では80点のイラストをそのまま妥協して扱えるプランナーの思考法は強力な武器になるはずです。

 

妥協論の大前提と戦略

具体的な戦略指針について説明します。

妥協戦略は「最初から細部は整合しない前提で考える」という大前提の認識からスタートします。
整合しないのは装飾から構図から背景に至るまでの全ての描画要素です。体感的にはどうせ本当に描きたいものの80%くらいしか合わないので、20%はズレてても問題ないようにする方法を考えることになります。

この際、具体的な戦略にはフェイズが二つあります。
一つは準備段階で、「そもそもイラストが整合しなくても問題ないように準備しておく」ことがあります。不整合を頑張って排除しようとするのではなく、「不整合があったとしてもそれがユーザーの混乱を招かない設計になっていれば別に問題はない」という方向に発想を逆転させます。
もう一つは使用段階で、「整合していないイラストを誤魔化して使う」方法を考えることになります。設計で完全にはカバーできない部分に関しても、使う段階で常に不整合に起因する被害が最小限に抑えられるように考えながらAIイラストを配置していくということです。

これらを実際にどう遂行するかは創作の目的やメディアや許容ラインに応じてケースバイケースであり、一般論があるわけではありません。が、具体例として僕が自分の小説『ゲーミング自殺、16連射アルマゲドン』で挿絵に生成AIを用いる際に行っている試みを事例としていくつか紹介します(かなり面白いので気になった方は是非読んでください)。

www.alphapolis.co.jp

ちなみに表紙だけは生成AIではなくプロのイラストレーター・ロゴデザイナーに10万円で発注しています(生成AIはプロにクオリティでは勝てないため、表紙のように重要なイラストは依然としてプロに任せるべきだからです)。

 

事例① 整合してなくても問題ないキャラデザ

準備段階における事例です。

いわゆるキャラの同一性問題、つまり「生成AIが出力するイラストはキャラデザがブレて安定しない」という問題に対して、「キャラデザが整合するまで出力を頑張る」ではなく、逆転の発想で「別に整合しなくても問題ないようにキャラデザを設計しておく」という解決方法があります。キャラの同一性を保たないといけないのはユーザーが混乱すると困るからなので、裏を返せば「ユーザーが混乱しない設計になっていれば多少の不整合は許容できる」ということです。

例えば、同時に登場する可能性があるキャラは必ず髪色や目の色を分けておくことが考えられます。白髪のキャラを一人だけにしておけば、多少デザインがブレたとしても白髪である時点でキャラを特定できるため、誰かわからずにユーザーが混乱することは無いでしょう。
他にも、安定出力できる特徴的な外見を記号として付与するのも有効です。緑髪の女の子は左目に花を刺していますが、目に花を刺しているキャラは一人しかいないため多少デザインがブレていても容易に認識できます。実際、よく見るとパーカーの紐のデザインが左右で異なっていますが(右は丸いのに対して左は帯になっている)、目に突き刺さっている花のインパクトが些末な差異をかき消すため問題になりません。

まとめると、

①AIが安定出力できる
②区別が容易である

という二点を満たすように記号を配置したキャラデザを行うことによって、多少は不整合があったとしても混乱を招かないように企画を設計できます。

補足436:とはいえ、そもそもキャラクターコンテンツであれば一目見ればわかる程度には特徴的な記号を備えたキャラデザにしておくべきだという説もあります(生成AIを使わないとしても)。実際、上で例に使った「目に花をぶっ刺しているヒロイン」は別に生成AI用にわざわざ考えたものではなく、生成AIが存在しない時代に生み出された段階で既に目に花をぶっ刺していました。

 

事例② 生成AIに合わせて創作の方を変える

こちらは使用段階における事例です。

AI出力の不整合を帳消しにする方法として、やはり逆転の発想で「創作に合わせたAI出力が出るまで頑張る」ではなく、「AI出力に合わせて創作の方を変更してしまう」ことが考えられます。

例えばこの挿絵は主人公が首吊り死体を発見するシーンで、当初はソファーに座って死体を見上げる想定だったのですが、一番綺麗に出たAIイラストではパイプ椅子に座っていたので文章の方を書き換えてパイプ椅子に座っていることにしました。これで文章とAI生成イラストが完全に符号して全てが丸く収まります。

説明してしまえばかなり安直で簡単な対応に聞こえるかもしれませんが、実は作業としてはそれなりに難しいです。あらかじめ自分の中で「ここは曲げてもいい、ここは曲げられない」という許容ラインを持っておいて、常に妥協する選択肢を念頭に置きながら生成を繰り返す動的な判断力が必要になるためです。
具体的には、「ソファーに足を投げ出して死体を見つめる」という文章しか手元に無い段階で、とりあえずは「ソファーに座っているキャラ」を目指して生成を連打しつつ、途中でパイプ椅子に座っているイラストが出力されたのを見てから「これよく考えたらソファーにはこだわりないし別にパイプ椅子でもいいな→たぶん生成連打し続けてソファー出るのを待つより文章を書き換えた方が早いからそうしよう」と判断することになります。
またこの変更による影響範囲も考慮する必要もあり、今後の展開で「ソファーに座っていること」がキーになっていないかという文章サイドの整合性や、他に直す箇所が発生するならその修正工数も意識しておく必要があります。

 

事例③ 整合していない出力を誤魔化して使う

これも使用段階における事例の紹介です。

これは巫女の新キャラ登場シーンですが、AIイラストを状況説明の前に置くか後に置くかの二択があります。ソシャゲのイベントスチルとかだったら先に新キャラのイラストをバーンと出してテキストを見せるという順序の方が良いのですが、生成AIイラストの場合は「状況説明→AIイラスト」の順番に置くのが丸いと思います。

理由は「新情報は信頼できる情報であるべきだから」です。
一般的に言って、ユーザーが情報に目を通していく際、未知の新情報には注意を払う一方で、内容が重複する情報は補足的なものとして流し見することが想定されます。つまり先に置かれた情報が注意して見る情報、後に置かれた情報がその補足という順序になります。
この際、AIイラストは不整合が含まれうるのであまり信頼できない一方、状況説明の方は全て人力で書いているので100%信頼できる情報です。AIイラストを先に置いてしまうとAIイラストの方が主で状況説明が副と見做される可能性が高いですが、状況説明を先に置くことでそちらを主でAIイラストを副として提示できます。

提示順序以外の局面においても、AIイラストは説明ではなく補足として使い、新情報と見做される場所には置かないことによって不整合による混乱をある程度は軽減できるはずです。

 

質疑応答

会場の質疑応答(と懇親会)で議論した内容を二点紹介します。

 

創作の妥協ラインはどのように作っていくのか?

妥協ラインの設定自体はもう完全にケースバイケースで作者の決定に依存します(が、途中でブレないように最初にはっきり決めておいた方がいいです)。

僕の場合は既に小説を最後まで30万字書き上げており、そこに一から生成AIで挿絵を付けていくという順序でした。よって今から中身を大規模に書き換えることはできないので、書き換えは大勢に影響のない小規模なものだけとして、難しい場合は不整合を許容する方針です。
一方、文章を書くのと並行して挿絵を生成する場合、完全に挿絵と合致するように展開を変えるのも全然アリだと思います。文章生成AIとは異なる形でAIのガイドを受けながら話を進めていくことになります。

また、事前の準備なども創作のコンセプトに応じて容易な場合と困難な場合があります。例えば上で紹介した「キャラデザに安定生成可能な強い記号を付加する」という戦略についても、やりやすい創作とそうでない創作が明確にあります。
僕は「異常者の萌えキャラを作る」という強いこだわりがあって、「可愛い女の子だけど蛆が沸いたものしか食べない」「可愛い女の子だけど意味もなく子猫を殺しがち」「可愛い女の子だけど目に花を活ける趣味で失明している」みたいな強い設定を絶対に付けるので、キャラデザについてもパンチの強いファンタジックな外見を付与しやすいです。
その一方、例えばファンタジー要素がなくリアリティラインが高い学園もので髪を黒髪や茶髪程度に抑えたい場合は髪色で区別することは難しくなるでしょう。もちろんアイデア次第ではあって、キーホルダーや髪留めをimage to imageや透過合成で付与するなり、必ず動物とかとセットで描写するなりでどうにかすることはできますが、企画段階での設計の難易度が高くなります(行き当たりばったりではどうにもならない)。

 

チームでの創作においてはどのように対応すべきか?

一人で作っている趣味の創作なら自分で全てを把握できており責任も全て自分なので妥協判断が容易ですが、チームで創作する作品の場合は一転して膨大な困難が伴うことが予想されます。

例えば小説の挿絵生成がライターとAIデザイナーの分業体制である場合、「ソファーをパイプ椅子に書き換える」というだけの妥協判断でもかなりしんどいものになります。主人公がソファーに座っている文章をライターがAIデザイナーに渡したあと、それにイラストを付けているAIデザイナーが「ソファーよりパイプ椅子の方が綺麗に出たからパイプ椅子でよくね?」と思ったとして、「パイプ椅子でよくね?」とライターに伝えるのがまずコストですし、ライター側も今後の展開を考慮してOKかNGかを判断しつつ実際に出たイラストをチェックして修正し、AIデザイナーに送り返して再確認するというだけでそこそこの工数を消費します(1人なら5秒で判断して30秒で書き換えられますが、2人になった瞬間に30分くらいはかかる作業になるはずです)。

また作業が手間であるだけではなく、プライドや権限の問題もあります。
本来であればライターは自分の書いた文章に完全な責任と権限を持っているはずですが、生成AIが絡んでくるといちいち「これうどんじゃなくてラーメンでいい?」「これ綾鷹じゃなくてウォッカでいい?」「これスマホじゃなくてウンチでいい?」とか言われて他人の都合で自分の文章が書き換えられ続ける状態は精神的にもあまり良くなく、最悪の場合は「いやそこはスマホ描けよお前の仕事だろ!」「何度やっても出ないから聞いてるんだろうが!」という喧嘩に発展しかねません。
また、AIデザイナー側からも「目的のイラストが出るまで生成を繰り返すのとライターが文章を修正するのはどちらが早いか」を客観的に判断して説明するのはほぼ不可能です。生成AIは「何が出るのか正確には誰にもわからない」という厄介な性質を持つためです。

総じて文章やイラストのFIX権限がお互いに食い合うような状態になるため、チームで行う場合は誰がどう調停して最終的な責任を持つのかという作業フロー設計はマストでしょう。空気がギスギスすることを避けて工数を膨らませずにチームで生成AIを活用するには「妥協方針を緩く定めたマニュアルを作っておく」「ライターにも生成AIを使ってもらって温度感を把握してもらう」「ある程度はライター自身がAI生成も行う創作体制にする」「ライター側がテキストに許容ラインを添えておく」など色々な配慮を行う必要があります。

補足437:工数や予算に余裕があれば加筆修正能力を持つイラストレーターを雇って生成AI出力の修正対応を任せる選択肢も検討すべきです。

 

懇親会

LT会の後には会場近くのHUBで懇親会を行いました。僕は知り合いは基本いなくて全員初対面だと思っていたのですが、人生のどこかで関係していた人がかなり多くて世界の狭さを感じました。

数年前からLWのサイゼリヤを読んで頂いている古参読者に遭遇したり、mimicの開発者と遠い昔に研究室で一緒に徹夜してGetting Over Itを遊んでいたことが判明したり、AI BunChoの開発者と遠い昔に代々木のアニメ会社の近くで一緒に飯食ってたことが判明したり、人生の伏線回収が捗る良い夜でした。

LWのサイゼリヤは大人気サービスのmimicとAI BunChoを応援しています。

illustmimic.com

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22/10/23 何故AIにはイラストを発注できないのか?

何故AIにはイラストを発注できないのか?

最近イラストAI(主にNovelAI)で美少女イラストを生成しまくっている。かなり楽しい。

技術の進歩スピードとは本当に恐ろしいもので、左手で描いたようなイラストから人間と遜色ないレベルのイラストに進化するまで僅か2ヶ月しかかからなかった。

ただ自分で呪文を投げながらTwitterでイラストAIを巡る議論を見ていて思うのは、イラスト発注者という立場から語られる意見はかなり少ないということだ。代わりにイラストAIの有用性を語るのはイラストレーターや消費者が多い。例えば「イラストレーターがポーズを検討するために使える」「消費者が見分けられないくらい綺麗なイラストを出せる」など。

一方、発注者が考えざるを得ないことは「人間の代わりにイラストAIに仕事を発注できるかどうか」だ。イラストレーターがいわば同業者としてイラストAIをジャッジしているのと同じように、発注者も発注取引先としてイラストAIをジャッジしている。そのジャッジングはイラストレーターや消費者と完全に異なるとまでは言わないにせよ、異なる立場から異なる評価基準を持っていることは間違いない。とりわけ発注者から見て気になることとして、よく言われる定量的なクオリティの問題だけではなく、定性的な工程の問題も大きい。

最初に言ってしまえば、AIが人間と区別の付かないクオリティのイラストを描けたところで、それはAIにイラストを発注できることを全く意味しない。来月には退職するが、ゲームプランナーの肩書が生きているうちにそういう発注者から見たボトルネックについて書いておこうと思う。

デザインと作画を切り分けよう

イラストAIについて語る前に、まずはイラスト発注制作フローについてしばらく説明する必要がある。このフロー上でAIがどのような立ち位置を占めるかというのが我々の関心事だ。

発注者から見たフローには

  1. 企画:イラストの意図やコンセプトを固める
  2. 仕様:企画に基づいてイラストの構成要素をデザインする
  3. 作画:仕様に基づいて実際にイラストを作画する

の三つがある。恐らく発注経験が無い人が最も見過ごしがちなのは、発注には「企画」という段階が最初に存在することだ。

企画では「意図、コンセプト、用途、達成目標、与えたい印象」など、そもそもの目的を確定する。例えば今からソシャゲの新キャライラストを発注するとして、それは今のユーザー状況やリリーススケジュールを踏まえてどの層向けに売るキャラなのか、どういう感情を喚起させるタイプのキャラなのか、女性キャラなら男性ユーザーの狭い層を狙ったものか、それとも同性である女性ユーザーにもリーチさせたいのか。企画の段階では合目的的な理由付けがメインであり、ビジュアル要素はまだあまり詰めないことに注意してほしい。

クライアントが企画を詰めてイラストレーターに渡したあと、イラストレーターが企画を読み込んでそれを表現できる仕様を詰めるデザイン作業を行う。ここで言う仕様とは、具体的な描画要素の全てだ。色使い、構図、ポーズ、人数、小道具、背景、昼夜などなど。実際の制作工程としてはいわゆるラフの段階で、発注者は「仕様が本当に企画を実現できそうか」を確認して相談しながらすり合わせることになる。

ここでも仕様は企画に沿って合目的的に生成するものなので、仕様についての議論は理由付きであるべきだ。つまり、イラストレーターとの仕様の相談は企画を参照しながら理由ベースで進めるべきだ(これはトラブルを避ける上でも本当に重要なのだが、ネットによくある「素人でもできるイラスト依頼」みたいな記事にはほとんど記載されていない)。例えば「なんかボタンが少なく感じるので六個から十個にしてください」と言うのは良くなく、代わりに「このキャラは潔癖っぽい印象を与えたいタイプのかっこいいキャラなので、きっちり留めていることを示せるようにボタンを六個から十個に増やしてください」と説明した方がいい。

補足429:発注者から見たデザイン工程を象徴する定型句として、イラストレーターに対する「お任せします」というフレーズがある。例えば「髪型はお任せします」とは「髪型を決定する裁量を全て渡すので、あなたのデザイン技能を発揮して企画に適合するベストな仕様を考えてください」という意味だ。「髪型は何でもいいので適当に埋めてください」という意味ではない。

最後に、仕様が問題なさそうだったらそれを元に作画をして頂いて最終的な納品物としてのイラストが生まれる。この段階で企画との矛盾が生じる場合には指摘することもあるが(思ったよりピンク色が強くてかっこよさが薄れているなど)、デザイン段階に比べればここはイラストレーターのテクニカルな専門領域だと思う。

まとめると、まず企画で意図やコンセプトを決め、企画に基づいて具体的な描画要素の仕様をデザインし、仕様に基づいて実際にイラストを作画するという流れがある。全ては企画からのトップダウンであり、意図のある発注において企画に適合しないイラストはクオリティが高くても使い物にはならない。発注において「何を目指しているのかわからないけどとりあえず超可愛い女の子のイラスト」はお呼びではないのだ。

そして今一番重要なのは「デザインと作画は明確に別の工程である」ということだ。復習すると、デザインとは「企画から仕様を詰めること」。つまりイラストの使用目的や意図を元にして、実際にイラストに組み込む要素を検討すること。作画とは「仕様からイラストをおこすこと」。つまり必要なビジュアル要素を実際に描いてイラストにすること。「どう上手く描くか」を考えるのが作画であるのに対して、「そもそも何を描くべきか」を決めるのがデザインとも言える。

デザインと作画は別のスキルなので、それぞれのスキルレベルが異なるということも普通に有り得る。例えば「デザイン能力は高いが作画能力は低い人」は「実際に絵を描くのは上手くないが、企画を表現するために何を使うべきかの想定精度が高い人」だろう。逆に「デザイン能力は低いが作画能力は高い人」は「既に仕様が決まっている版権キャラのポージングを描くのは上手いが、自分でオリジナルキャラや独創性の高いポーズを考えて描くのは得意ではない人」などが該当する。

 

キャラクターイラストにおける実例

キャラクターイラストにおける企画ドリブンの考え方が語られている良記事として、『GOD EATER』のキャラ表現について語られている以下のものがある。10年前のかなり古い記事だが、俺はこれを初めて読んだとき「キャラって適当にかっこよければいいんじゃなくてちゃんと理由を詰めて作られてるんだ!」と感動した。

www.famitsu.com

Twitterでも作画が上手いイラストは無限に流れてくるが、その中でも特にデザインも上手いイラストがいくつかある。デザインの上手さとは何かを説明するため、最近「デザインが上手すぎる」と思ったイラストツイートを二つ紹介する。

まずこちらは「百鬼あやめの妖しい美しさ」を表現するために構図が練り上げられた素晴らしいイラスト。

超ロングヘアーで身体を持ち上げて空中で座っているような物理法則を無視した超常的なポーズを取ることによって、色鮮やかな髪の美しさと妖怪娘としての妖しさを共存させている。手で口元を隠しているのもミステリアスさを強調するための仕掛けだろう。恐らくこのイラストは発注を受けて(=企画を受け取って)描かれたものではないが、「このイラストを描けるなら他の企画にも対応できる高いデザイン能力を持っているのだろう」と感じさせるものだ。

こちらはイラストレータVtuberであるカンザリンが描かれたイラスト。

たぶん映画とかでたまにある、アダルトな女性キャラが口紅を顔に塗るシチュエーションを踏まえているのだと思う(違ったらすみません)。表情も大人っぽく、一見すると大人の女性のような振る舞いのように見えて、実は描いているのは可愛い猫などの子供っぽい落書きというギャップが肝だ。特に「ハートマーク」という、子供でも大人でもそれぞれの文脈で扱えるアンビバレントな記号をフィーチャーしているアイデアがとても良い(大人が描くとシリアスなラブサイン、子供が描くと可愛いマーク)。

もともとカンザリンはロリ系のビジュアルを持つイラストレーター兼Vtuberだが、本人がロリキャラを演じることにそれほど熱心ではなくエロ絵作画を配信したり酒を飲んだりするため、「子供っぽさ」と「大人っぽさ」を兼ね揃えることには筋が通っている。両義的な印象を挑戦的な構図で一つのイラストに矛盾なく落とし込む、極めて高いデザイン能力が一目で伺える。

 

AIにデザインは難しい

そろそろイラストAIの話題に戻ろう。ここまでの話を踏まえて、イラストAIに対する評価軸もデザイン作画をはっきり分けて考えるべきだ。

例えば現在進行形で「AIと人間のイラストの見分けが付くか」というテストが公開されて話題を呼んでいるが、ここまでの話を理解しているなら、仮にAIと人間のイラストが区別できなかったとしても、それはAIにイラストを発注できることを意味しないことは容易にわかるはずだ。

docs.google.com

何故なら、作画とデザインは別のスキルであり、作画ができるからといってデザインができるとは限らないから。「なんか可愛いだけの百鬼あやめ」をとても上手く作画できたとしても「自分の髪の上に座る百鬼あやめ」をデザインできるわけではない。

補足430:このテストは一種のチューリングテストであることを踏まえて、「もし仮にAIと人間の会話が区別できなかったとして、それはAIに小説を書かせられることを意味しない」と言えばわかりやすいだろうか。何故なら、言葉を自然に操ること(=作文)と物語を編むこと(=物語デザイン)は別のスキルだからだ。もしその二つが等価なら、普通に日本語を喋れる人は誰でも村上春樹になれることになってしまう。もっとも、最近はAIも物語を書けるようになりつつあるが、今重要なのは、それはアラン・チューリングが想定したものとは別のスキルだということだ。

あとで膨大な留保を加えることになるが、とりあえず大雑把に言えば、一旦現状では「イラストAIは作画は得意だが、デザインは不得手」というのが基本線だと思う。

というのも、現在主流である生成手法において、イラストAIへの指示は企画ではなく仕様の粒度で与えられるからだ。例えばtext  to imageで用いる「呪文」はイラストを作画してもらうために用いる「long hair」「medium breasts」「skin fang」といった属性の組み合わせで、元々仕様まではFIXしていることを前提にしてそれをイラストAIに伝えるものだ。image to imageも元からどんなグラフィックを求めているかを伝えて上手く整えてもらうもので、いずれにせよ「来月発売の新ユニットで売れるやつ」という企画を伝えることでベストな仕様を返してもらうデザイン工程とは全く異なっている。恐らく、AIに発注をかけたとしても「綺麗に作画されてはいるが、コンセプトが曖昧で企画意図を実現できるかどうか疑わしいもの」が納品されるのが精々だろう。

とはいえ、「イラストAIは未来永劫に全く無用の長物である」と言うつもりは全くないし、使い方次第でクリアできる可能性があるということを今から書く。しかしいずれにせよ、ここで強調したいのは「イラストAIの有用性を評価するにあたっては、デザイン技能と作画技能は切り分けて考えなければならない」ということだ。ここが混同されていると現実的な発注可否に関する議論は片手落ちになってしまう。イラストAIの利用可能性や利用時のテクニックや新技術の導入を考えるにしても、どの技能をどう補うものかをきちんと整理するべきだ。

 

デザイン部分をカバーする工夫

とりあえず「AIは作画に比べてデザインは得意ではない」ことをさっき確認したが、この不足をカバーする最も穏当な方法として「デザイン部分は人間が担当する」というものがある。実際、もともと高いデザイン能力を持っているイラストレーターのAI活用においては、自分でデザイン部分をクリアした上で作画部分のみイラストAIに助力を求めている様子が伺える。

「ざっくり色ラフを描き」の段階で既に仕様までを確定しており、残りの作画作業はイラストAIと共同することでイラストのクオリティを上げることには筋が通っている。

とはいえ、これは元々プロのイラストレーターだから出来る技であり、デザイン能力を持たずにAIだけ手に入れている素人に出来るものではない。華やかでわかりやすい作画能力と比べると見過ごされがちだが、「(作画能力を抜きにしても)デザイン能力は高度な専門技能である」ということは強調してもしすぎることはない。pixivに大量に並んでいる、素人がイラストAIで適当に生成したキャラの99%が可愛いっちゃ可愛いけどなんかパッとせず垢抜けない原因は「デザイン技能が欠如しているから」である。

とはいえ、デザインを学んでいない素人にはイラストAIは全く扱えないのかと言えばそういうわけでもない。少なくとも学習や探索が効率的になることは十分に考えられ、実際、ロゴや広告の領域では既にAIは取り入れられている。

designs.ai

こうした局面では、「AIがデザインを大量に生成した中から良いものを見付ける」というやり方が使われている。自分で仕様を0から考える技能よりは様々な仕様の中から良さげなものを選ぶ技能の方が学習コストが低いため、数の暴力でデザイン問題をクリアできる可能性はある。

とはいえ、広告や名刺に比べてかなり自由度が高いキャラクターイラストを物量作戦で突破できるかには疑問が残る。それよりは、結局のところ大なり小なりデザイン能力自体は絶対的に必要なのだから、AIを利用して地道にデザイン能力を伸ばす訓練をすることが最も建設的であるように思われる。

補足431:なお中国で登場して話題になっている「元素法典」のようなものは基本的にAIの作画能力の方を高めるアプローチであり、デザイン能力の向上にはそれほどは寄与しないと考えている。

今のところ、イラストAI利用は「何をすべきか」を考えるデザイン能力を伸ばす前に、「何ができるか」を探求する段階であるように思う(現実的には「すべきこと」は「できること」の部分集合になる)。イラストAIの可能性を探求するアプローチの最右翼には以下のようなものがある。

補足432:この記事を書いている間にも同種のデザイン性=企画意図を明確に追えそうな仕様を追求する投稿は増え続けているし、もう既にデザイン能力を獲得している個人がプロンプトを制御するフェイズに入っていると感じる作品もいくつかある。

こうした試みを繰り返していくことで、イラストAIの技術的な表現可能性を発掘するだけではなく、AIを使う人間のデザイン能力が伸びていくことが重要だ。イラストAIを用いて挑戦的なイラストを生成する経験を積んで仕様の引き出しを増やしていけば、いずれは所与の企画に対しても高度な仕様が返せるようになるだろう。それは今までのデザイナーの学習と何ら変わらない。結局、少しやり方が変わるだけで依然として人間も学ばなければならないし、学んだ者が高いバリューを出していくという構図は今後も変わらないと思う。

補足433:今後そもそも「良いとされるデザイン」自体がAI寄りに変質することでAIのデザイン能力が相対的に向上する可能性はあるが、それは具体的な予測があまりにも困難なので触れるに留めておく。

補足434:AIがそのままデザイン能力を身に付けること、つまり「来月発売の新ユニットで売れるやつ」という企画を要望すると「来月発売の新ユニットで売れる仕様」を返してくれる方向にAIが進化する可能性も有り得なくはない。最近の日進月歩の進化を見ていると断言はできないにせよ、個人的にはそれは大局的に見て不可能か、まだかなり先になると思っている。統計処理に基礎を置く現代の生成AIが「理由を投げうって過去のデータに従うものを生成する」技術である以上、「理由に基づいて過去のデータを超えるものを生成する」デザイン精神とは真っ向から対立するからだ。

 

現状のイラストAIにも発注できること

ここまでは「原則として高度なデザインを含むイラストはAIには難しい」という立場を取ってきたが、それは裏を返せば「高度なデザインが要求されないイラストはAIでも可能」ということでもある。

というのは、ここまでは単独で売れるレベルの強靭なデザインを要求するプロダクトを念頭に置いていた。例えばソシャゲキャラやVtuberはデザイン難易度が非常に高いため、イラストAIを用いるよりも高いデザイン能力を持つプロのイラストレーターに発注した方が無難だろう。しかしイラストが必要なのは何も単独で販売するプロダクトばかりではない。工数と資金に余裕があるなら依然としてプロのデザイナーに発注すべきだが、目的から逆算して問題が無いならばAIで妥協できる発注もある。

補足435:個人的に、最もデザイン難易度が高いキャラクタージャンルはソシャゲキャラとVtuberの二つだと考えている。何故なら、漫画やアニメでは世界観や物語も込みで評価されるのでキャラクター単独が占めるウェイトが相対的に軽いのに対して、ソシャゲキャラやVtuberはキャラクターそれ自体が売り物だからだ。世界観や物語を抜きにして、そのキャラクター単独に対してお金を払ってもらう必要がある。ソシャゲキャラとVtuberだけが「着替え」を一大イベントにしているのもそのためだ(ソシャゲでは別スキン販売として、Vtuberでは新衣装お披露目会として、どちらも大きな集金機会になる)。これらのキャラクターは単独で売れるほどの強烈なデザイン強度を得るためにキャラと服装を一塊にすることが前提になっているから、漫画やアニメキャラのように簡単に着替えることはしないし、そこらに売っていそうな量産品ではなくデザインを詰めたオリジナルコスチュームを纏うのだ。

例えば「小説の挿絵」は良い例だ。挿絵の主目的は「シーンの状況を視覚的に伝えること」であり、単独で強いコンセプトを持つわけでもなければ、それ自体を販売するわけでもない。よって単に空間的な配置が概ね合っていれば機能するし、一枚一枚に高いデザイン能力を総動員していく必要はないのでAIにもこなせるだろう。その一方で「小説の表紙」は単独で強いコンセプトを持ち、それ自体が販路で大きなウェイトを占めるので、AIに任せるには荷が重い。

 

【PR】小説『ゲーミング自殺、16連射アルマゲドン

という話を踏まえて、自分で書いた小説『ゲーミング自殺、16連射アルマゲドン』にイラストAIを使って全89話全てに挿絵を付けました。アルファポリスで毎日19時に更新します。

高度なデザインを必要とする表紙イラストレーターのえすけー様(@sk_kun)とロゴデザイナーのコタツラボ様(@musical_0327)に発注し、高度なデザインを必要としない挿絵はNovelAIで作っています。

www.alphapolis.co.jp

自殺癖持ちの最強ゲーマー女子高生がゲーム感覚で世界を次々に滅ぼす終末系百合ライトノベル」で、創作という営みもテーマの一つになっています。めちゃめちゃ面白いのでよろしくお願いします。

あとイラストAIで挿絵を作るための思想・知見・手法をまとめた実践編の記事もおいおい更新予定です。小説共々よろしくね~

22/10/3 リコリス・リコイル大反省会 申し訳ないけどちさたきは浅い

リコリコ大反省会

リコリコを全話見た。久しぶりにちゃんとリアルタイムで1クールアニメを見て、お題箱にもぼちぼちリコリコ絡みの投稿が来ている。

全体的にはライトな美少女アニメとして概ね飽きずに楽しく見られて面白かった。この手のアニメは「5話くらいまではキャラ紹介回とかコメディ回をやってるからかなり面白いが、7話あたりから最終話に向かう準備作業でつまらない地味パートが増えて失速する」という経過を辿ることが多く、そのあたり概ね耐えていたのが偉い。

 

千束を生み出した功績はでかい(あとクルミたそ萌え)

特に美少女主人公・千束の造形はかなりよく出来ていたと思う。

飄々としてるけど実はかなりリアリスト」みたいな美形キャラは時代問わずいつでも人気だが、その描き方が上手かった。

千束も一見パッパラパーに見えてシリアスなシーンでは自分の意見をはっきり述べたり相手によっては強い当たりも見せたりするキャラだが、発言内容に関わらず軽薄な言動のトーンが一貫しているのが良かった。言い換えると、「シリアスなシーンでは喋り方も真面目なトーンになってキリっとする」という安直な描き方に逃げていないのがとても良かった。

千束が持つ独特な空気感は、台詞の単語選びに加えて喋り方の音声に因るところがかなり大きい。音の伸ばし方や間の取り方によって彼女のおちゃらけたイメージが構成されていて、シリアスorネガティブ寄りの発言をするシーンでも概ねその調子が維持されている。千束が砕けた空気を保ち続けることのポジション上での整合性は、最終的には真島との比較の中で「大きな世界を無視して意識的にマイペースな日常を送ろうとしているから」と明示され、キャラとしても筋が通る。

総じて口調の強度が千束をワンランク上の戦闘美少女主人公にしており、最初は「安直な百合キャラだな~」と思っていたが、回を重ねるごとに表面的な軽薄さが却って根本的な行動原理のブレなさを担保していることがわかってきて腑に落ちる思いだった。こういう描かれ方のキャラは昼行灯のおっさんキャラにはたまにいるが、美少女キャラではなかなか新鮮な気がする(頑張って思い出せば他にもいたかもしれないけど)。

あとこっちは特に理由のない100%趣味だが、アバウトに情報関係のことを全部やってくれる便利キャラであるところのクルミはめっちゃ萌えだった。

一線を超えて賢いロリキャラがかなり性癖なので、クルミが画面に映ったら概ね満足できるのが萌えアニメの強み(他に何があろうと好みの萌えキャラが出ることで一定の満足度が保証される萌えキャラ最低保証)。最後まで年齢不詳だったが、俺は別にクルミが10代でも30代でもいい。

 

私はちさたきアンチです

そういう千束の魅力が最も引き出されるのは真島と絡んだときだ。

千束のマイペース思想とはっきり対立するポジションに配置されているキャラは明らかにバランス思想の真島なので、千束が持ち前の軽いトーンと振る舞いを携えて他人と衝突することでワンランク上の美少女主人公としての片鱗を見せるシーンは、だいたい全部真島との会話シーンになってしまうのである。

それがはっきり示されたのが八話のセーフハウス襲撃シーンで、そこで後半戦に向けて一旦ポジショニングがリセットされた。八話まではいかにも真島がラスボスっぽい悪者オーラを出していたが、少なくとも千束にとっては真島を倒せば一件落着というような単純な話ではないし別に不倶戴天の仇でもないことが初めて提示され、最終的に千束が取るべきポジションに向かって微妙な対立関係がドライブし始める。

翻って、俺はたきなというキャラとちさたきというカップリングの運用には大きな不満がある。

リコリコファンの99%を敵に回すことを承知で言えば、俺は「ちさたき」アンチであり、代わりに「ちさまじ」のヘテロカップリングを推さざるを得ない。俺は基本的にはクソ浅い百合萌え豚なので、これは百作品に一度あるかないかの珍しい裏切りである。

とはいえお題箱にも「たきな微妙じゃね?」みたいな投稿は複数来ており、俺もそう思う。

470.リコリスリコイル、たきなが中盤でリコリコ(というか千束)に居場所を見つけるシーンをやったせいで関係性的な盛り上がりも消化しきっちゃった感があったんですけどどうですか

471.リコリスリコイルについてです。個人的には概ね満足といって差し支えない出来でしたが、ただ一点たきなが千束のバディとして役者不足ではなかったかという点が自分としては気になりました。
たきなから千束へは太い矢印が向いているのに対して千束からたきなへはそうではないですし、本編でのたきなの物語が占める割合も千束のそれと比べると明らかに小さいです。
ツイートでも少々触れていましたがその辺りについてより詳しくお聞きしたいです。(それとよくリコリコはガバガバという感想を見かけるのでそれについても何かあればお聞きしたいです。)

完全に同意するので改めて付け加えることもあまりないが、たきなが当初に持っていた「DAに復帰する」という目的意識は4話くらいで喫茶リコリコに居場所を見つけたことで概ね消滅してしまい、それ以降は漠然と千束の味方をすることに終始する。SNSやpixivを盛り上げる以上にプロット上で果たす役割が薄かった。

補足426:第十一話のタワー戦で千束と真島が戦ってるところに割り込んでくるたきなは完全に横から割って入ってくる厄介オタクだったので、最終回できちんと二人の戦いを仕切り直してたきなが救出以上に介入することを避けつつ千束のテーマを処理したのは感心した。わざわざそこまでやるならやっぱりたきな要らなくない?

最終話を踏まえて強いて言えば、「千束が愛する日常の象徴がたきな」という読みが最も穏当ではある。が、それも喫茶リコリコの客とかと並置される程度のものでしかないし最悪たきながいなくても成立する。少なくとも真島との関係よりはストーリー上の重要度が低い。

これはバディ百合を推しておきながらストーリー上で明確な役割を与えることができなかったというキャラ運用の問題だ。この内容で百合アニメをやるなら真島を美少女にして本命を敵対百合カップリングにすべきだったし、逆に何故かそうしなかったのは千束-たきなのラインにフルコミットしようという判断だろうが、それならそれでもっと上手くやってほしかった。

先にも触れたように千束のキャラクターとしてのテーマと最終話での選択は明らかに真島との関係の中で浮かび上がるように構築されているし、更に言えば、ガバガバ脚本をポジティブに解釈する上でキーになるのもやはり千束-たきなではなく千束-真島のラインだということを今から書く。

どう考えても素直にちさまじ派になっておいた方が、つまりリコリコは千束とたきなの物語ではなく千束と真島の物語だと理解した方が得られるものが多かったので、断腸の思いで今回は百合好きの皆さんを裏切ることになった。申し訳ないけど、ちさたきは浅い。

 

さすがに脚本ガバガバすぎでしょ~

無限に言われている「リコリコはお話としてあまりにも適当すぎる」という件については、誰の目から見てもあまりにも明らかすぎて異論がある人もいないと思うので、今更「ガバガバだったか否か」を検証する語りにはあまり意味がない(結論:ガバガバだった)。ガバガバということはもう前提として、「特に注目するガバガバさを挙げるならどこか」「脚本がガバガバという事実をどう解釈するか」というような話をした方がまだましだ。

百歩譲って街中では女子高生の制服が迷彩になったとして、そのまま廃墟とかビルでも活動してたら逆に浮くだろ」とか「物資の補給とか設備の維持でDAと関わっている人はいくらでもいるはずで、存在を完全に隠蔽できるわけないだろ」とか設定レベルのことを突っ込み始めるとキリがないが、個人的に一番気になったのはミクロな行動のロジックがあまりにも稚拙なことだった。なんか台詞なり設定なりガジェットなりをひと手間加えれば違和感のない進行にできそうなところを、何故かその手間を惜しんで無茶で不自然な流れにしてしまう。

一番ヤバかったのは6話と12話だが、「1話冒頭の感じから想定されるハードさに対して実際のストーリーは随分とゆるゆるだな」ということは2話あたりからもう既に感じていた。

「護衛対象をスーツケースに詰めた上に護衛チームにはそれを伝えない」という作戦があまりにも意味不明すぎて何らかの伏線かと思っていたのだが、結局設定レベルでは回収されないまま終わってしまった。ウォールナットの機密が詰まったスーツケースならそれ自体が狙われるだろうし、千束はいかにも「人命最優先、最悪スーツケースは失ってもいいから着ぐるみを死守する」という判断をしそうなものだ。そもそもクルミをスーツケースに入れておく必要は別になくない?

 

ガバガバ脚本を救いたい

ただいくらお話が雑だったからと言って、全てが破綻していたとは全然思わない。

色々と適当なところはありつつも肝要なところは概ねきっちり作られており、5ミリくらいだけ瞼を開けて薄目で見ればかなりの良アニメだと思う。マクロな世界設定もミクロな行動判断もおかしいが、その中間くらいの粒度で見れば概ね筋が通っている。具体的に言えば、「細かい不整合を無視した個々の単発のお話」や「細かい判断ミスを無視したキャラそれぞれの行動原理」は満足のいくレベルで描写されていたと思う。

例えば「真島のバランス思想」は「マクロには、そもそも現状で隠蔽が成立している理由が謎なので真島が何を頑張れば目的が達成されるのかよくわからない」「ミクロには、銃を街にバラ撒けば混乱した市民が撃ち始めるという作戦の前提が意味不明」という大小の難点は諸々あるものの、「権力のバランスを取るためには隠蔽されているものを開示する必要がある」という彼の考え方は理解可能な形で提示されており、そこを起点にして色々と頑張っている彼のキャラストーリー自体は問題なく成立している。

むしろこの「大小の整合が取れていないが、話そのものが意味不明なわけではないし、好意的に見ればやりたいことは問題なく理解できる」という絶妙な粗さが良い効果を生んでいたと強弁することはそこまで難しくない。

補足427:恐らくガバガバ脚本を認めた上でリコリコを評価する最大勢力は「リコリコは脚本がガバガバなのが玉に瑕だけど百合要素とか他の部分は面白かったから総合的には良アニメだった」という相殺説だが、それは最後の手段に取っておきたい。というのも、その立場は脚本がガバガバだったこと自体は完全なマイナスだと認めてしまっている点が生産的ではないからだ。せっかく少なくない時間を費やして13週も見たので、もうちょっとポジティブにガバガバ脚本を擁護する道を探しておいてもいい。

まず消極的にガバガバ脚本を容認する動機として、「脚本がガバガバな方が最も素朴な意味で見ていて面白い」というのが一つある。

例えば6話では「ボスの名前を本名で呼んで囃して楽しんでる無能モブの声から敵ボスの名前が判明する」という、チンピラたちのコンプラ不備によって真島に捜査の手が伸びる謎の流れが披露されたが、もうちょっとまともなアニメならたぶん真島の名前に繋がる情報的なアクセス経路とそれを開くパスワード的なガジェットを用意しておいて、千束がボコられつつもそれを奪取していたみたいな流れになるかもしれない。

ただ、そこだけカッチリしたところで「なんか子供向けの攻殻機動隊みたいな回だったな」とか言われるのが精々だろうし、「ガバガバで草」の「草」は生まれない。どうせどっちでも大局的に見て「千束と真島が接触しつつ真島の情報を得る」というログラインは達成できる。小説とかでそれをやられると真面目に読むのがバカらしくなってそのまま捨てる可能性が高いが、どうせ萌えアニメだしリアリティを犠牲にすることで「度を越したバカが敵陣営のモブにいたことをクルミがドヤ顔で報告してくる」というシークエンスを制作できるのであれば、そのリターンは十分に見合っている(ドヤ顔のクルミは萌えなので)。

 

ガバガバ脚本を救う

そして、ちさまじ派の我々にはこのアニメのテーマに照らしてガバガバ脚本を正統かつ積極的に擁護する道も残されている。というのも、最終話で千束が真島に「世界がどうとか知らんわ~」とはっきり言っているからだ。知らんものがガバガバになることは当然である。

別に冗談で言っているわけではなく、先にもちょっと書いた通りこの台詞は千束のキャラのコアだ。延々描いてきた真島との対比の中で最終的に提示されるこのアニメの結論は「世界がどうとか知らんわ~」だと言ってしまって問題ない。

真島が要求する、権力的な整合性を保ってバランスの取れた世界を千束は明確に拒絶した。そしてそれも反体制でも親体制でもなく、「そもそもその主語の大きい議論に私はコミットしません」という形でいわばドロップしたところに千束の白眉がある。千束がDAを離れて喫茶リコリコで勝手に不殺を貫いていた精神もここに収束する。つまり世界がどうとかいうレベルの話に巻き込まれないために、殺人は避けて揉め事を身近な水準で収拾したいということだ。

よって千束が意識的に留まろうとする活動領域は半径数キロメートルの卑近な日常であり、世界全体の解像度は非常に低い。この千束のスタンスは「マクロにもミクロにもガバガバだが中くらいの粒度ではギリギリ筋が通る」というガバガバ脚本の温度感とパラレルであり得る。つまり、マクロな世界状況の整合性など千束が知ったことではないし、逆にミクロな日常も誰も管理していない適当な暮らしなので、「きちんとした脚本による完全に整合した納得のいく物語」はどちらにも馴染まない。せいぜい中程度の、好意的に見て話がわかる程度の整合性さえあればそれで十分に千束の世界は回る。

それを踏まえれば、マクロに見て世界設定があまりにも適当だったことへの一つの具体的な解釈として、例えば体制の描写自体を避ける効果があったという評価を与えることができる。体制絡みで一番笑えるシーンは第12話の「リコリスを殲滅するために旧劇みたいにリリベルとかいう特殊部隊を投入したかと思いきやクルミ渾身のバカみたいな工作によって何故か納得して帰っていくシーン」だが、これによって悪の権力体制の描写が積極的に退けられているということだ。無能ムーブをしたリリベルトップみたいなおっさんがもしきっちり物を考えて判断をする明晰な軍人だったなら、そいつが指先一つでリコリスを皆殺しにする体制的な黒幕に見えるだろうし、そうなれば千束のドロップという選択は「明確に存在するはずの悪の権力主体を倒さない、消極的に親体制的な態度」に見えてしまうだろう。その困難を避けて千束の拒絶が本当に単なるドロップであることを示すためには、ガバガバ脚本によってリリベルのおっさんをまともに取り合う必要もなさそうなレベルの無能として描くことが有効であり得る。そもそも悪の体制が本当にあったのかどうかの水準をぼやかしてしまえば、世界がどう回っているのかよくわからなくなる代わりに大きな主語というノイズも入らなくなるということだ。

そしてミクロに見て、命のやり取りをしている割にはいちいち作戦がクソ適当だったことにも一定の正当化が可能になってくる。そもそも千束のスタンスは大義ある真面目な殺し合いに臨むものではなく、活動したところで体制に与したことにならないレベルで事態を収拾する試みだった。あまり真面目に隙のない作戦を立てているとそれはそれで日常を逸脱した一つの体制的な振る舞いになってしまうわけで、おふざけレベルの作戦を扱うことで権力的なスケールの見え方を縮小する効果が見込めるだろう。

ただ、この筋でガバガバ脚本が正当化を見るのは、やはり千束-真島のラインで千束を主人公として解釈したときだ。千束-たきなのラインで百合アニメとしてリコリコを見るときではない。

結論として、俺は「脚本ガバガバだけど百合アニメとしては良かった」というちさたきを軸にして主張される相殺説を積極的に棄却し、「脚本がガバガバなこともギリギリ理解できる良い美少女主人公アニメだった」というちさまじによって擁立される擁護説を採用する。

補足428:俺は「リアリティラインがガバガバであること」と「リコリスシステムに子供を搾取する欺瞞的構造があること」を結び付ける論にはあまり意義を感じない。具体的に言えば、以下のような筋に乗るつもりはない。

anond.hatelabo.jp

つまり、年配のオタクが子供向けサブカルチャーであるところのアニメへのカウンター言論としてやたら好む、「搾取される子供」というテーマでリコリコを読むことには概ね反対の立場を取る。その見方に問題があるのは、千束を含むリコリスたちが明確に「被害者」として定位される点だ。俺は千束のドロップは左派的な反体制の立場ですらないことに加えて、ガバガバ脚本はそういう加害-被害関係自体をぼやかして失効させることによって正当化されるという立場を取ったので、その被害者の存在からスタートする旨味が俺にはない。「ぼやかされているものを剔抉するのが批評の本懐である」というお叱りの声が聞こえてきそうだが、それはやりたい人がやればよく、俺はやらない。

22/9/19 ブコメから小二で全国模試一位を取った半生を反省する

ブコメから俺の半生を反省する

saize-lw.hatenablog.com

一昨日書いた記事が謎に伸びてブコメでたくさんコメントを寄せて頂いたのでそれについて書きます。普段はブコメが伸びても色々な意見があるな~くらいですが、今回は僕自身が腹を出して転がって見世物になっている記事なのでなるほどこう見えるんだとか色々勉強させてもらうところがありました。

b.hatena.ne.jp

Twitterでは「刃牙の家」って書きましたし、「ブコメ荒れすぎでしょ」みたいな心配をしてくれる人もいますが、別にこれは大丈夫です。最近は誹謗中傷抑止の名の下にネット言論の過剰なクリーン化が進んでいますが、ネットは対面じゃないし言いたいことを言った方がいいというのが僕の基本スタンスであることは、先の記事が一切謙遜を含んでいなかったことからもわかってもらえると思います。

もちろんラインを超えた人格攻撃とかだったら流石にちょっと考えますが、少なくとも今来ているコメントは全てラインに掠りもしていません。色々感想寄せて頂いてありがとうございます。

実家の太さについて

本人の資質+惜しみない親の財力。ストレートに羨ましい

一応ご本人も教育に金かける方の家庭という認識はあるけど、サクッと浪人させてくれたり留年の学費払ってくれたり奨学金蹴れるのは金を持ってるって事だよ…(それができなくて道を変える人も普通に多いので)

“小五のときに合格する前提で学区内の都内に引っ越し” ←コレできる家なのがすでに恵まれてるよね。九州の田舎で養豚業をやってる家がいざ同じ事をできるか?を考えたら…

実家が太いというのはどこまで行っても自覚はできんのだろうな。サンプル1なのが普通なのだから当然か

一番多かったのが実家太いですね系の感想で、それは事実だし謙遜しても仕方ないので親にマジ感謝という感じです。

ただ「あまり過剰に謙遜したり罪悪感を抱いたりしないようにしよう」というある種の露悪的な態度は意識的にやっていることです。先の記事だって良識的なエリートなら「僕はたまたま環境が恵まれていて~」とかいう留保を挟んでこの手の反応への緩衝材にするんですが、僕はそれをやりたくないということです。

それってポーズとはいえ自分を下げる行為なのでやっぱり精神にあんまり良くはないんですね。世間の自尊心を補填する代わりに自分の人生から自尊心を少し削るゼロサムな言動で、形だけ寄り添う振りをするのはお互いにあまり良いことが無いです。生まれを謙遜しない代わりに生まれによって他人の批難もしないのが妥協点です。

また「自覚が無い」というコメントもぼちぼちありますが、普通に自覚していますしそれはむしろ隠さず露骨に書いたつもりでした。実家が太いことを自覚したらただちにそれに対して感謝や謝罪をしなければならないと考えている人もいますが、僕はそうではないというだけです。

 

人間性について

人間、頭の良さより人格が大事なんだなって感じた

文章だけだと、なんかこの人嫌い。

筑駒生は一定レベルの学力は保証されていますが、当然ながら人格は保証されておらず、また灘高生と比較するとよろしくない人格を隠す技術が発達していないようにも見受けられます(筑駒生にも真の人格者はいますが)

一切謙遜しなかったので全体的に好感度が低いです。「頭が良い代わりに性格が悪い人」みたいな人格テンプレを当てはめる方も多いですが、それは本当に人格者かどうかというよりは人格者の振りをするかどうかという話です。

僕は人格者の振りをしないので更に被害を広げることにすると、基本的に知的能力と道徳性ってある程度は反比例するので、筑駒生とか東大生が「真の人格者」である可能性は低いと思います(仮に対外的には人格者に見えたとして、「彼が本当に人格者かどうか」というよりは「人格者の振りをするのが上手いかどうか」が本当の争点であるケースの方が圧倒的に多いはずです)。知的能力が高いといわゆる道徳的な言説もイデオロギーの一つでしかないことに気付きますし、その裏に素朴な利害が隠されていることや、実際には抑圧されて取りこぼされているものがあることもわかるからです。

逆に「自分の能力なんて大したものではありません」とか言ってる東大生がいたらとりあえず警戒しておいた方がよくないですか? 謙遜とか社交辞令ならまだ良くて、心の底から本気で言ってるようにしか見えなかったらヤバい馬鹿かヤバい嘘吐きの可能性があります。客観的に見てどう考えても突出した能力を持つという統計データがあるのに、それをまともに認識せず著しく捻じ曲がった解釈を表明しているからです。僕は「さすが東大卒は賢いね」と言われたら「いえいえそんなことは……」じゃなくて「ありがとうございます」と言うようにしています。

 

模試の分母について

小2の頃って、まだ全国の猛者たちが全国模試とか受けてないから、そこでの一位なんて外形的にも大した意味ないのでは。

この指摘はかなり正しいです。小二以降も何度か取ってましたが、いずれにせよ全国模試の一位は割とローカルな一位であるということは忘れないようにしないといけません。

全国模試なんて色々な塾が高頻度で開催している上に何度でも受けられるので、同年代の間ですら100人くらいは一度は何かの模試で全国一位を取った人が存在しているはずです。漫画みたいに絶対不動の一位という人もまずいなくて、実際には開催回によって一位の座を譲り合うトップ100人くらいの集団に入っているかどうかという方が正しい世界観でしょう。先の記事でもその集団内での状況を脱線して記載したのは、中学受験界の上位を「頂点の誰か」というよりは「最上位帯集団」みたいなイメージで捉えているからです。

 

浪人生の立ち位置について

浪人生をナチュラルに見下してるのがどうも引っかかるんだけど、みんな気にしてなさそうね。

浪人した割に自己評価高いのおもろい。

「浪人生って普通の人がもう受かってるところを受からなかったバカだけを選んで抽出してきた終わりの集まり」って書いたのは僕もその中の一人なので自虐のつもりでした。わかりにくくてすみません。

もちろん浪人事情は人によるとは思うのですが、僕は基本的に浪人生が「一年間歯を食い縛って勉強を頑張っている人」みたいなポジティブなイメージで語られることには違和感があって、「普通の人がゲームオーバーになっているところを何故かコンティニューしているチーター」みたいなセコいイメージです。「映画版ジャイアン」とか「更生した不良」に近いですね。

 

教育投資について

小児の全国模試の内容は分からんけどもいくら天才といえど一切の教育的投資無しで一位を取れるものではないだろ。本人の資質以上に6〜7歳までの環境もまた相当整っていたと解釈するべき。

能力も高いけど、中1から鉄緑会というあたりやはり親の文化資本的な面は大きいんだよなぁ。腐っても鉄緑会。環境によって少なからず影響は受けてるはず。

この指摘もそれなりに正しくて、ある程度はイメージを差っ引いて読んだ方が真実に近くなると思います。そんなに詳細に書いている解像度の高い記事ではないので、細部の正確さが全体の文脈に引っ張られているところがあります。

例えば慶應義塾幼稚舎ではないとはいえ埼玉では名の知れた(しかし東京では誰も知らない)小学校に通っていましたし、いくら鉄緑会の成績が振るわなかったとはいえそれでも概ねサボりはせずに毎週9時間くらいは座って講義を受けていました。空白部分を設けている僕の書き方も悪かったですが、過剰にネガティブな中身を充填しない方が良くはあります。

 

研究能力について

勉強は正解があるしひたすら人から言われたことをやってればできるが研究は自分からやりたいことを見つけそこからの正解も自分で導き出さなきゃいけないので全く別のものだからな。でも今が幸せなら問題ないのでは

僕を「答えのあるお勉強は出来るけど答えのない研究は出来ない人」という人物テンプレに当てはめるコメントも多いですが、それが正しいかどうかは僕にとってもよくわからないところです。

というのも「そもそも興味がなくて研究する気がなかった」という経験はあっても、「研究を頑張ったが歯が立たなかった」という経験はないからです。研究の素養もなくはないがたまたま関心が向く対象がなかったのか、研究の素養自体がないのかのどちらが正しいかはわかりません。

ただこればっかりは実績がないので「やろうと思えば研究も出来るんだぞ」とか言っても虚しいだけで真相は藪の中です。以前は就職して興味のあることが出来たら大学院に戻ってもよいと思っていたのですが、今は社会人がけっこう楽しいので少なくとも当分は戻りません。

 

進路選択について

浪人になってからの模試で全国二位とかで、進振りで工学部に行っているのは理3でなく理1なんだろうか。書かれてあることではなく、書いてないことに、本人の心の何かがあるのかもしれないとか思う

理三ではなく理一です。理一に進んだことに深い理由はなくて、別に医者になりたくはないし試験当日の成績がたまたま下ブレして理三に出願したばかりに落ちたら嫌だな~というだけです。

ただ何も考えずに東大に入ろうとする割には何も考えずに理三に入ろうとはしなかったというのはご指摘の通りで、確かに妥協点みたいなものがそこにあったと言えばあったのかもしれません。

 

目的と幸福について

ものすごく優秀なエンジンを持っているのに、それを操作する制御系ができていないので、自分で自分を制御できないで持て余す、というタイプ。 逆に、天才タイプの人は、自分をうまく操作して集中できる。その差。

生得的な資質が頭が良く勉強嫌いだとどうなるかという話。残念ながら頭の悪い勉強好きより高等教育を与える価値がある。この人の場合はゲームプランナーになってハッピーエンド。

上手く言えないんだけど、何かものすごく興味が持てるもの、死ぬほど好きで執着して齧り付いてでもやり遂げたい!と思えるものに出会えるといいなと感じた。

すごく面白かった。一般人からしたらぶっ飛んでるレベルの知的能力を持っている人が、楽しんでゲームプランナーやってるというのがいいな。この先も興味の湧いたことにチャレンジして、またブログに残して欲しい。

「やりたいことが見つかるといいね」「今とりあえず楽しそうでよかったね」系の温かいコメントもけっこう多くてありがたい限りです。

僕としてもやりたいことが特にない大学~大学院時代は非常にきつくて精神薬を飲んだりしながら何とか凌いでいたので、今はとりあえず楽しくできることがあってすごく良かったと思います。「絶対にやり遂げたい」というハングリー精神はを持つことは無くてせいぜい「これオモロ笑」くらいの温度感で生きていくと思いますが、まあ一生そんなんで良いと思っています。

 

酔生夢死な人生について

実家が太いとここまでなんも考えずに生きていけるのだな

ペーパーテストのセンスがあるととこういう酔生夢死な人生が送れるってのはあるけど、そういう人生で「何者か」的な問いに惑わされないためには、ある種の道楽のセンスとかは問われそう

これ一番いいコメントでした。僕が三百年後くらいにFGOに出るときの概念礼装は「酔生夢死」でお願いします。

仰る通り適当にソシャゲ会社入るくらいなので「社会的な何事かを成して何者かにならねばならぬ」みたいな意識は薄くて、無駄な問いに惑わされない道楽のセンスが重要な気がします。充実した有意義な人生に関する言説なんて既に無限にあるので、逆に張った感性の方が貴重です。

 

人文系の進路について

完全な偏見だけど、人格がちょっとアレで頭脳明晰な人は文系の研究者目指したほうがいい。実際そっちで成果出したんだし。

これは100%正しく、完全に同意します。もし人生の針を巻き戻せるなら人文系に進みます。

こういうことを言うとまた好感度がガクッと下がりそうですが、素養としては理系なんて全然向いてなかったのに、向いてない分野でも東大くらいなら入れてしまう程度にはスペックがありすぎたせいで自分が理系人間だと勘違いしてしまったことが、何がしたいのかわからない酔生夢死な半生を歩んでしまった最大の敗因だと思っています。

理系の中でも特に工学って極めて素朴な意味で「世の中を良くしたい」というマインドで動くので、人格が終わっている人はあまり乗り切れないところがあります(とはいえ工学研究者が皆そういうマインドを持っているというわけでもなく、単にテクニカルに面白く感じることがたまたま世間の需要と一致している人の方が多数派な気もしますが)。僕は「そもそも世の中を良くするって何? 良いって何?」「理系的な合理性以外にも世の中を動かしているものっていくらでもあるよね」とか思う方で、そういう疑問を回収してくれる文系学問に適性があったというのは完全に真実です。

 

関心の育成について

日本ってこういうペーパーテストお利口さんの人材プールはあるけどティール財団に拾われるような小さい頃から社会課題を解決したり革新起こすアイデア繰り出す天才は出てこないイメージ

まあそうだろうなあ。基本能力を伸ばしてもどこかで頭打ちになるし、社会的には探究心や好奇心を持続させる方がはるかに重要。

これは本当にそうですね。

基礎能力だけで成功者っぽい雰囲気を出せるのってせいぜい二十歳前半くらいまでで、それ以降は学業成績がイマイチでも強いモチベーションを持って起業したりガンガン動く人の方がいわゆる社会的成功者になります。社会の評価基準って何ができるかより何をしたかですから、それはほとんどトートロジカルな事実です。

僕はもう手遅れですが、もし社会を良くする人材になってほしいなら有能な子供にはもっと社会課題教育みたいの気合入れてやった方がいいと思います。いわゆる道徳教育は頭が良い子供にはすぐに嘘だと見抜かれるので、もっと実際に社会が歪んでいる現場に連れて行って困窮している人と実際に喋ってもらったりとかした方がいい気はします。

 

ペーパーテストの才能について

ペーパーのテストは、ペーパーの才能が凄いしか担保しない。はてなーは東大を買いかぶりすぎで、社会に出てスゴイかどうかは全然違う能力が必要だからな

ペーパーテストがこの先の人生で重要な意味を持つ日は、何かを間違えてない限り、まず来ないよ。あれは仕方なくやってただけだよ。

「ペーパーテストが出来ても仕方ない」系のコメントも多いですが、漢字ドリルとか計算ドリルみたいな低レベルなものは別として、まともなペーパーテストを自分で解けるスキルは社会に出てもかなり役に立ちますよ。

ペーパーテストって少なくとも問題作成者は完全に把握している既存の知見についての理解度を測るものなので、極めると「既存の知見を最大効率で吸収できる」という能力が身に付きます。誰かがペーパーにまとめてさえいれば知りたいことは何でも超速で吸収できるのは普通にかなり便利ですし、仕事でも助けられています。

例えば職場で「来週から新しい何かを導入します」とか言われたとして、僕は本屋行って適当にパラパラ本捲れば「どの本をどのくらい読めば今必要な知識が完全に身に付くか」が完璧にわかるので、必要だと判断した本を経費で買って全部読めば必要なことが全部できるようになります(知識をアプデしたくなったらまた本屋行けばいいだけです)。新しいことをするにも既存の知識は知っておいた方がいいので「勉強の仕方」がわかっていて最短距離を音速で走れるのは絶大なアドバンテージで、それは東大である程度真面目に勉強して身に付けておいて良かったと思います。

 

過去の栄光について

昔こんなにすごかったんだ私は、を言い出した瞬間に歳関係なく老害の仲間入り

小2の成績だとか高校がどこだったとか大学がどうだったとかは大人になればなるほどウルトラクソどうでもいい話にしかならないんだけどそんな事を未だに擦ってるケツの穴の小ささがほんとの末路って感じ。

「未だに過去の栄光を擦ってんのかい」系コメも気持ちはわかります。中学受験大好き東大生の間ですら何年経っても永遠に擦ってるやつは流石にバカにされますからね。

まあ先の記事だけ読んだ人にとっては僕の情報ってそれで一分の一なのでそれしか言ってない人に見えるのは当然ですが、実際には全然擦ってなくてむしろこの話をするのはかなり稀です。少なくともこのブログが300記事くらいあって初めて書いてますし、別に友達にもわざわざ言わないので10年来の友達も知らんことがたくさん書いてあったはずです。

あと実は社会に出てからも学歴そのものもけっこう便利です。確かに東大卒であることがその現場で必要な能力を確実に担保するとは僕も思わないですが、「少なくとも馬鹿ではない」という最低保証にはなるので、まともな相手ならとりあえずは諸々の疑念を一旦脇に置いて一分くらいはちゃんと話を聞く構えを作ってくれます。それはかなり有利なユニークスキルなので東大を出ておく意味があるところです。

 

ソシャゲプランナー業について

頭いい人には日本が良くなるにはどうしたらいいか考えてほしい。ソシャゲなんて日本壊す事やってないでもっと広い視野を持って欲しい

ソシャゲガチャ設計か……一つ道標が違えば日本の経済の何かを帰るキー石にもなり得たかもしれないと思うと日本の損失に感じる

あんまり成功例って印象は受けないけども.......「ガチャでオタクから金を巻き上げる底辺ジョブ」に満足して誇りを持てる仕組みはよく分からんが、次も特に倫理のなさそうな仕事ってことかな

ソシャゲプランナーなんかやってんじゃねーぞボケ!というコメントも多く頂きましたが、これに関しては「ソシャゲプランナーは皆が思っているよりは『善い』仕事です」という反論をしておきたいです。

今問題にしたいのは「職業に貴賎なし」みたいなしょうもない建前じゃなくて、ソシャゲのガチャ設計は多くの人生を健全かつ劇的に豊かにする「貴」寄りのジョブだと僕は思っているという話です。まあその熱量で国家公務員とかやった方がもっと社会を良くできるのは事実ですが、かといってガチャ設計はFX投資家みたいにマジで何も生まない虚無のジョブではなく、きちんと娯楽価値をゲーマーに提供するジョブですよという弁明を今からします。

昨日したこのツイートの続きですね。

まずガチャを持たない売り切りのゲームが持っている根本的なジレンマは「売り切った以上はユーザーがゲーム内容の全てを潜在的には体験可能でなければならないため、シミュレーション体験の要である分岐の選択に重みが無い」ということです。

別にシミュレーション的な側面があるゲームなら何でもよいのですが、一旦ギャルゲーの選択肢でも思い浮かべてもらって、例えば「ヒロインと一緒に勉強する」「ヒロインと別れて買い物に行く」という二つの選択肢があったとしましょう。プレイヤーはこの選択肢のどれかを選ぶことによって物語が分岐します。シミュレーションは分岐があることによって初めてシミュレーションになるので、この選択肢の存在がゲームのシミュレーション体験を担保する要です(映画のように分岐しない一本道のストーリーを「シミュレーション」とは表現しません)。

補足423:ゲーム研究界隈では「シミュレーション体験」「インタラクティブ性」「バーチャル」みたいな言葉を雑に使うとネチネチ怒られるんですが、今は日常語として意味が通じる程度の理解で構いません。

しかし売り切りのゲームではこの選択肢による分岐はその気になればいつでもやり直せるものでなければならず、一回性の人生において生じるものと同じような選択の重みを持ちません。というのも、とりあえず「ヒロインと一緒に勉強する」を選んで適当にストーリーが進んでエンディングまで行ったあと、セーブデータをリロードすれば先の選択肢まで戻って「ヒロインと別れて買い物に行く」を再選択できてしまうからです。ギャルゲー以外でも同じことが言えて、アクションゲームならもう一回ステージをやり直せば道中のギミックに対して別のアクションを試して分岐できますし、仮に途中セーブ地点が限られるRPGだったとしても別のデータスロットで周回プレイをして他の分岐を辿り直すことができます。

これは売り切りのゲームではプレイヤーがゲームプログラム全てへの対価として既に支払いを終えている手前、ゲーム内容の全てを体験できなければ詐欺になってしまうからという商業的な理由です。もちろん実際にはわざわざ遊び直して全分岐を辿る人は少数派だとしても、「潜在的にはやり直しが可能である」という商業的な誠実さに裏付けられた余裕が常に分岐に対して付随してしまうというのが真の問題です。つまりシミュレーションとしてのゲームは選択によって生じる分岐を体験の基礎に置いている割には、ユーザーが分岐をやり直せることを保証しなければならないため、シミュレーション体験にやり直し不可能な重みを持たせられないという構造的なジレンマがあります。

この「選択の陳腐化によるシミュレーション体験の破綻」という現象はネットによる集合知攻略の普及によってどんどん進んでいて、いまや新作のゲームでも一瞬で攻略情報が出回ってプレイする前からでも様々な選択肢の結果を知ることが出来てしまいます。特にそれが極致に達したものが最近人気のRTAで、あれは最初から全ての分岐を網羅して完全に把握した上で最適解だけを踏む遊び方です。

補足424:それでもセーブデータを消してしまうとかメタフィクション的なギミックで分岐を殺すように工夫することはできますし、実際にそれをやるゲームがあることも認識しています。とはいえ全ての売り切りゲームがそれを搭載することは現実的ではありませんし、例外的な試みの例が存在することはジャンル的な困難の存在を無効にしません。僕は例外を許さない全称命題を主張しているのではなく、ふんわりとしたジャンル傾向の話をしています。

そこで分岐に重みを取り戻すのがガチャシステムです。ガチャは10連3000円程度にして一点狙い1%以下という異常な高額がデフォであるため、ユーザーは金銭的な限界によって入手可能なユニットの数と種類が否応なく絞られます。しかも完全な確率分岐であるため、望む分岐に確実に進む方法は存在せず、好むと好まざると関わらず分岐への賭けを余儀なくされます。売り切りのゲームとは逆に、仮に天井まで引くにしても一回一回のガチャには「毎回腹を切っていて絶対にやり直せない」という圧倒的な重みが伴います。いくら結果が塩だったからといってセーブデータをリロードすることはできず、一度引いてしまったらそれで戦うしかありません。

僕は今までのゲームが迫真さのあるシミュレーション体験を提供することに失敗し続けたきた中で、ガチャだけがゲーム史上初めてそれに成功したとすら考えています。殺してでもアイスソードを奪い取るかどうかで一晩考える人は滅多にいませんが、ガチャは引くたびに大なり小なり祈りがあります。こういうガチャの「根本的にどうにもならない不条理と相対してどう向き合っていくか」みたいなプレイの在り方ってカミュキルケゴールサルトルあたり実存主義思想と相性が良くて、これがいけすかない哲学崩れのゲーム批評ならそのあたりが引かれることは間違いありません。

補足425:ただし例外的なソシャゲもいくつかあります。例えばDCGはカードを全て揃えてスタート地点となるゲーム性なのでせいぜい十万かそこらのヌルい課金でも全カードを使えるようにしてあげなければならず、いわゆる魔素による救済措置も豊富です。DCGのガチャは分岐を網羅可能で重みと祈りがありません。

22/9/17 小二で全国模試一位を取った男の半生

・お題箱104

469.最近LWさんのことを知ったのですが、言える範囲で今までのご経歴を教えて欲しいです。

最近僕と同じ筑駒→東大のフォロワーのきらじゃんさんが半生を振り返る記事を書いていて、めちゃめちゃ経歴が似ててビックリしたので僕もリスペクトして主にペーパーテストから半生を回顧する文章を書こうと思います。
筑駒とか鉄緑会とか東大の基本的なシステムはそちらに書いてあるので、先に読んでおくことをお勧めします(あまりにも同じイベントを通過してきているので基本設定の説明が参照で済んでしまう)。

kirarajump.blogspot.com

小学生

僕の一番古いペーパーテストの記憶は小学二年生のときにSAPIXだか日能研だかの全国模試で全国1位を取ったことです。

今にして思えば、人生において「勉強を頑張ろう」みたいな言説が発生する前の段階で雑に頂点を取ってしまったことはその後のペーパーテストの認識に大きな影響を及ぼした気がします。

別に何もしてないデフォの状態で全国1位くらいは取れることを小二で確認してしまったので、「トップを目指して頑張ろう」みたいなことを言われても「それもうやったし全然大したことじゃないすよ」と思うだけで響きません。その後の人生で勉強をする際にも「上を目指して頑張ろう」みたいな純粋な上昇志向を持てないのは多分そのせいで、代わりに「他の受験生を全員殺す」みたいなゲーマー流戦闘民族マインドや「俺自身を無限に研鑽して神になる」みたいな修行僧マインドが発動します。

また、別に養成ギブスを付けて朝から夜まで机に縛り付けられて教科書を百冊読んだりしなくても、物心も付いていない頃に適当に受けた試験で適当に1位を取る人間も普通に存在するというサンプルが自分なので、今リベラルな風潮の中でよく言われる「学歴と投入教育資本は正確に比例する」「学力は教育と環境で決まる後天的なものだ」という言説にもあまり賛成できません(とはいえ公平のために言っておくと、少なくとも小二の子供に全国模試を受けさせる程度には教育意識の高い家庭だったことは事実です)。

全国模試を受けたときはまだ塾に通っていなかったのですが、「さすがにこいつフルチャンすぎるからオールインした方がいいだろ」という感じになって中学受験のためにSAPIXに通うことになりました。

どうせ余裕なのが目に見えているので両親も気楽だったと思いますし、受験方針で揉めていた記憶もありません。筑駒志望もちゃんと検討したわけではなく、「どこでも行けるし最強のとこ行けばよくね」くらいの感じだったと思います。元々住んでいた埼玉の家が筑駒の学区外だったので、小五のときに合格する前提で学区内の都内に引っ越しています。

補足422:ただ僕がEASY MODEだった裏で二歳上の姉が代わりに非常に苦労していたことが最近になってようやく判明しています。姉もたぶん小学校で一番になる程度には優秀なのですが、さすがに僕と比べてしまうと成績が悪すぎて親に無駄に怒られたり劣等感に苛まれたりと大変だったらしくてけっこう可哀想です。

筑駒の文化祭に行ったときに僕がチョコバナナ食って「これうめ~」とか言ったのを母が事あるごとに掘り返してきて「筑駒に入ってチョコバナナ食べようね」とかしきりに言ってくるので「おっそうだな(別に筑駒に進学しなくても文化祭に行けば食えるのでは?)」って感じだったのですが、今にして思えばあれはイマイチ目的意識に欠ける僕のモチベを何とかして筑駒に導こうとする努力だったんでしょうね。

SAPIXでは常に最上位クラスにいて最前列の友達と楽しくやっていました。『二月の勝者』で「最前列にいる神7は宇宙人だ」って言ってるのは事実で、犬の真似して犬語で会話してる女の子とかが普通にいました(ソシャゲのキャラ?)。どうせトップ帯で気にする必要がなかったので当時の成績はよく覚えていませんが、当時は全国1位を取るとお小遣いが2000円貰えるシステムだったことだけは覚えています。いくらなんでもそのレートはシャクりすぎでは?

ちょっと脱線しますが、当時はコンプラが緩くて全国模試や塾内試験での順位がすぐ冊子になって配られてトップランカーの名前や所属がすぐにわかったので、中学受験勢最上位帯は格ゲー全国ランキングみたいな世界観でした。「この鈴木ってやつは社会はバカだが算数は誰も勝てねえ」みたいな面識のないランカーのステータスが知れ渡っていて、そういう子供たちってだいたい同じような中学校に集結したり数学オリンピックとかでもメダルを取ったりするので、「お前があの柴田か!」ってどこかで伏線回収することも珍しくありません。もっと後にも鉄緑会とか東大でかつてのランカーの姿を見かけたりもしてインテリ世界の狭さを感じます。

中学受験本番はよく覚えていませんが確かきらじゃんさんと同じ受け方をして、聖光と筑駒に受かって開成には落ちていたはずです。僕は別に開成に行きたいわけでもなかったのでそういうこともあるよねくらいの感じでしたが、親は子供が動揺しないように努めて平静を装ってフォローしているのが見え透いていて逆に哀れでした。

 

中学・高校

筑駒では基本勉強していませんでした。

これは謙遜ではなく、1学年120人のうちで100位以下の成績がデフォでした。勉強する理由が特にないので勉強しないし当然成績も悪いというだけなので全然気にしておらず、「筑駒で100位ってことは全国で100位ってことじゃね?笑」とか言いながらマリカと遊戯王をして授業は寝ていました。たまに起きて聞くと面白いことを言っていたりするのですが、体系的に学ぶ気がないので断片を一瞬で忘れてしまって残るものがありません。

鉄緑会には中一から通っていたものの、そもそもやる気がないので特に成績が上がることもなく、謎に僕の時間と労力と親の金が吸われた以上の効果はありませんでした。
あの名高い鉄緑会と言えども底辺層は普通にカスなので、最後列に座ってるやつは授業中にヴァイスシュヴァルツのカードをスリーブに詰めてたり(僕も隣の席から協力して10枚くらい詰めたことは今でも覚えています)、ノートの裏で涼宮ハルヒの退屈を読んでたり(授業前に貸して授業後に帰ってきたときには折り目が付いていてキレたことを今でも覚えています)、授業後に帰らずに賭け遊戯王で遊んでいたりします(これは負けたーと思って打った韓シクのアムホがトップから混黒を落として早埋を回収して捲ったことは今でも覚えています)。

途中で気持ちを入れ替えることも特になく、中一から高三までペーパーテストはずっとそんな感じでした。僕も中三くらいのときにママ友経由で母が存在を知ったとある英語塾に入れさせられたのですが、何も起きずにフェードアウトして何かを学んだ記憶がありません。東大模試も特別考査もカスみたいな成績だったはずで、特別考査が意味不明すぎて開幕即寝してたら解き終わったと勘違いした教員が「はやっ!」と小声でビックリしていたことだけ覚えています。

あとこれは人生で初めて白状するんですが、高三の夏に腸炎で入院したのは勉強もせずに過酷なオナニーをしていたせいです。毎日のようにうつ伏せの同じ体勢で比較的個性的なオナニーを長時間していたので、いつも拳が当たっているお腹の同じ部分が強く圧迫され続けて炎症を起こしたというのが真相です。受験勉強のストレスということにしたせいで未だに家族にはストレスがかかるとお腹に現れる体質だと思われているのですが、別にそんなことはないです。

それでも東大の二次試験を受けたということは足切りを回避する程度にはセンターの点数を取っていたはずですし、早稲田のどこかくらいは受かっていました。とはいえ現役時はそもそも勝負していなかったので浪人するのは既定路線で、「さてそろそろやるか!」みたいなテンションで浪人を開始しました。

 

浪人時

浪人中は本気を出したので春頃からもう成績がよく、河合塾本郷校では敵なしで夏の全国模試では浪人生中では全国1位を取っていました。

とはいえ浪人生って普通の人がもう受かってるところを受からなかったバカだけを選んで抽出してきた終わりの集まりなのでハンデ戦もいいところです。実際、浪人1位になっても全体では3位で、その後もけっこう頑張ったのですが、浪人の王にはなれても現役も含めての1位は結局一度も取れませんでした。そもそも一年多く勉強しているというヤバいアドバンテージがあるのでけっこう勝ちたかったです。

浪人時のセンターと二次試験の成績は覚えていませんが、予備校のセンター後面談で英語が満点だったことを報告した瞬間にメンターの空気というか顔面がめちゃめちゃ緩んだのはよく覚えています。メンターも当落上にいる余裕のない受験生と何度も面談し続けるのは精神的に相当きつくて(泣き出す人もたくさんいます)、こいつはさすがに余裕だろみたいなやつが来てくれるとやっぱりホッとして緊張が緩むんでしょうね。

早稲田もついでに特待生合格して四年間学費免除みたいな奨学金のオファーも来たのですが、どうせ金は親が出してくれるので普通に東大に行きました。

 

大学以降

大学では浪人時のモードを引き継いでかなり真面目に勉強していました。

僕もきらじゃんさんと同じで特にやりたいことはないけどやりたいことが出来たときのために点数を高めに取っておく派でした。ただ面白い授業は学期に一個あればよい方で基本的につまらなかったです。内容がつまらないというよりは、僕は座学という形式が絶望的に苦手なので講義を受けるべきではありませんでした。今思えば教授に初手で参考書を聞いてあとは講義を聞かずに本で独学して試験に臨むのが最適解でしたが、当時は若くそれがわかりませんでした(ただ今はもう本を読みこなす自信があるのでそう言えますが、成人前の自分には難しかったのではないかとも思います)。

進振りの段階になっても特にやりたいことがなかったので、適当に一番無難そうな工学部で底点が高めで丸そうな学科に進学することにして、それが計数工学科でした。正確に覚えていないですが、当時の計数の底点は70点代後半とかだったような気がします。今は情報需要でインフレしてもっと高いらしいですね。

ただ研究能力が要求され始める学部後期ともなると、興味のない分野を無理してやっていくのにも流石に限界が来始めます。計数での成績は良くも悪くもないくらいで、単位を落とすことこそ滅多にありませんでしたが、卒論は書けずに留年したし大学院入試には落ちたしで良い思い出がありません。大学院の面接は周りは皆スーツで来ていたのに僕一人だけ私服で、口頭試問も全部わかりませんとか言ってました。どうでもよすぎて点数開示請求をした記憶すらありません。

翌年はたぶん温情で全然人気ない研究室に入れてもらったのですが、やはりそもそも興味がないので何もせずに退学しました。大学院生の僕がどのくらい無能だったかと言えば、制御理論の研究室だったにも関わらずPID制御がよくわかっていなかったくらいです(制御理論を知らない人向けに言うと、ポケモンバトルの研究室にいて草タイプの弱点がわからないくらいやばいです)。

ただ理系分野の講義を完全無視して宗教学とか芸術学とか哲学の講義やゼミを取りまくっていて、そちらでの成績は非常に良くて優上をいくつも取っていました(在学中に書いた古い記事にはその辺のレポートを載せています)。その経験はその後の人生でも活かされていますし、システムの抜け穴を使って文系講義をたくさん履修できたことは情報理工学大学院に行って唯一良かったことです。

ちなみに良い機会ですし来月には退職するので書いてしまうと、今はソシャゲ会社でゲームプランナーをやっています。ゲームクリエイターと言うと響きが良いですが、わかりやすく言えばソシャゲのガチャの中身を設計して売っているのが僕です。僕がスパ銭に行ったり家系を食ったりするお金は皆さんがこの前ガチャに課金したときのiTunesカードから来ているかもしれません。

こういうことを書くと「筑駒に入って東大を出た頭脳の末路がガチャでオタクから金を巻き上げる底辺ジョブか……」とか嘆かれそうですが、僕はソシャゲプランナー業は自分の知的能力をよく活かしていると思っているし、かなり満足していて誇りを持って楽しく働いています。その辺はいずれ機会があったら書いてもよいですが、退職が完了して自分の中でも経験の立ち位置が整理できてからになるので相当先になると思います。

 

追記:この記事への反応が多かったのでレスポンス編も書きました。

saize-lw.hatenablog.com

22/9/10 お題箱回103:ジャンプラ、依頼料、浪人時代、減量トレ、数学の素養etc

お題箱103

469.ジャンププラスで好きなマンガはなんですか?
推しの子、ハイパーインフレーションはネットでよく名前を目にするだけあっておもろくてこれ無料で読めるとかスゲーとか思ってます

連載中の漫画だとダンダダン、ゴダイゴダイゴ、ハイパーインフレーションあたりが好きで、最近連載が始まったスケルトンダブルも楽しみにしています。

昔のものだと終極エンゲージがかなり面白くて、そこで「WJの二軍じゃなくてちゃんと面白い漫画を載せる媒体だ」とジャンププラスを見る目が変わった記憶があります(中盤で失速してしまいましたが)。

 

470.遊戯王やられていたときはどんなデッキが好きでしたか?

逆張りオタクなので変な勝ち方をするチェーンバーンやカウントダウンのようなアンフェア系特殊勝利デッキが一番好きでした。この辺のデッキにはかなり詳しい自信がありますが(→)、強くはなかったのであまり使っていません。

一番使っていたのは間違いなくHERO系統のデッキですが、愛着はあってもデッキタイプとして好きではなかったような気がしてきました。インゼクとかジャンドとか六武みたいなブン回し系のデッキにキレていた記憶しかないですし、今思うと何が楽しくて使っていたのかよくわかりません。

 

471.お下品な質問失礼します。
3次元をオカズに致すことはありますか?

頻度は低いですが2次元とは9:1くらいであります。

 

472.イチャイチャしたいなら全身が千代田桃になるべきでなくシャミ子になるべきだと思うんですけどそうしないのは、何を志向しようとまず前提条件として強者であることが必要だというLWさんのいつもの思想が影響してたりするんですかね?

それはあまり関係ないです。

僕が定期的に「全身が千代田桃になってきた」とツイートしていたのは別に合目的的な意識故ではなく単に千代田桃の気持ちが100%わかるからです。その一方、シャミ子の気持ちはよくわからないのでシャミ子にはなれません。千代田桃がWifiを切断する気持ちはわかりますが、シャミ子がぽがーとか言ってる意味はよくわかりません。

 

473.ラブコメって読む?

百合ラブコメなら読みますが、ヘテロブコメは基本読みません。ただし「アラサーの女性×若くて実直な男性」という極めて限定されたシチュエーションのラブコメに限ってけっこう好きであることが判明しています。

manga-park.com

comic-meteor.jp

ちゃんと女性側に感情移入して「こんな若い男の子が真剣に迫ってきたら嬉しくなっちゃうわねえ~」という感じで読んでいるので普通にゲイ要素という説もあります。

 

474.LWさんのコンテンツをインプットするモチベーションって何なんでしょうか?「スキルツリーを伸ばす」みたいなことを以前言っていたような気がしますが、「スキルツリーを伸ばす」ことに意味があるのか?みたいな悩みとかは持たないんでしょうか。

聞かれてみると謎かもですね。そこで悩んだことも無くて、スキルツリーを伸ばさないよりは伸ばした方がいいという確信が揺るぐことはないです。

「スキルツリーを伸ばす」というのは言い換えると「後に何かが残ることをやる」ということでもあって、具体的な行動指針としては「やっている最中の評価よりもやったあとの評価を基準にして行動を決定する」ということでもあります。やっている最中しか発生しない楽しさとかはその時間が終われば消滅してしまいますが、やったあとに残るものはその後の人生でずっと残るので、普通にそっちの方が人生の行為として良くないですか? やりたいことよりやるべきことをやった方が良いというのはそんなに突飛な考え方ではないと思います。

 

475.お題箱回100回目おめでとうございます。
そして100回目とは何ら関係ない質問として、お題箱99のイラスト依頼にかける金銭について「払い過ぎも良くなくて〜」という助言をされたそうですが、理由等は聞きましたか?
私も依頼料は多い方がクオリティも上がるだろうと考えていたので、そうでは無い理由について是非聞きたいです。

ありがとうございます。お題箱の投稿は常時けっこう溜まっているのを順次消化しているのでもう103回になってしまいました。

イラスト依頼が高額すぎるのがあまり良くない主な理由はクオリティ面というよりは単に依頼が通るかどうかの部分で、相場を超えて高額すぎると怪しいから(言うだけ言って納品後に逃走しそうだから)というだけです。
イラスト個人依頼って素人でもメール一本で出来てしまう上にそれをやる理由があるので、相手が高額取引できる信用に値する人間かどうかの判定はかなり賭けです。未払いで逃走した人間を頑張ればとっちめることが出来るとしても、そもそも頑張ってとっちめるのがコストなので、最初から怪しい人間を引かないに越したことはありません。逆に言えば、けっこう実績のあるYoutubeチャンネルを持っているとかで身元が確かな場合は高くてもあまり問題はないと思います。

あとこれはイラストレーターの考え方にもよると思いますが、高額な依頼は要求クオリティが高くなるというのも良し悪しではあって、報酬のプラスと労力のマイナスが打ち消しあって結局マイナスに転ぶという可能性もなくはないです。
自分のクオリティをコントロールする技能がない素人ならいくらで依頼されても二千円くらいのイラストを描いて渡すだけなので多ければ報酬は多いほど良いですが、プロの場合は十万円で依頼を受けたら十万円の仕事をしないといけないということがちゃんとわかるので、金額=仕事のクオリティに比例して手間もかかるでしょう。タスクのスケジュールとか実績の温度感に照らして、報酬が高くても労力が嵩みそうな依頼は断るという判断は十分に有り得ると思います。

 

476.以前「200年後の人類が凄惨な死に方を遂げる代わりに缶コーヒー1本出るボタンがあれば迷わず押します」みたいなこと仰っていたと思いますが、今でもその答えは同じですか?

今考えると缶コーヒー程度では押さない気がしてきました。十万円くらい貰えるなら押しますが、百円くらいならあってもなくても誤差なので別に押さない気がします。態度が軟化して大人になっている?

 

477.私は死ぬ迄にサイゼミ参加してみたいという願望を抱いているのですが、サイゼミの終わりとか考えているんですか?

終わりは特に考えていないです。

明確な目的がある活動ではなくそれ自体が面白いという動機で開催されているので、今後も面白そうな限りは開催されるしわざわざ終わりを考えることは特に無いでしょう。もしサイゼミが無くなるとしたら「今回で終わりです!!」みたいな感じで華々しく幕を引くのではなく、何となく開催間隔が開いていって誰も言い出さないうちに自然消滅する形だと思われます。

 

478.私は受験生であり、一浪してでも行きたい大学が有るのですが、浪人時の心境ってどんな感じなのでしょうか。
浪人時では無い、つまり、高三の時と比較して受験に対する姿勢は変わるのかどうか、興味があるので、ご教示頂けると幸いです。

浪人時の心境は修行僧みたいな感じでした。

僕は浪人時の受験勉強を「ひたすら無限に自己を研鑽して高める」というマインドで取り組んでいて、それは明らかに今と地続きのものです。周りで誰もやってない苦行を延々と続けられる性質、一人で映画興行収入上位を100本見たり、一人で延々と筋トレに打ち込んだりできるストイックさは確実に浪人時代に河合塾の自習室に閉じこもることで培ったものです。浪人によって苦行を快感に変えるマゾヒズムが開花したのは僕の人生を大きく左右した出来事の一つです。

ただしそれは僕は「絶対に東大に行きたいから歯を食い縛って頑張る」みたいなタイプではなかったということでもあって、そのあたりで投稿者の方とは根本的なモチベーションが異なっている気はします。僕は「大学どっか行かないといけないならまあ東大が一番いいか」くらいのモチベしかなく、東大の入学式が近づいてくるにつれて自分が学校嫌いだったことを思い出して「よく考えたら普通に行きたくなくね?」と思ってけっこう鬱になっていたくらいです。

高三のときは修行するモチベも頑張るモチベも無かったので完全な無でした。「ワンチャン受かったらラッキーだけど落ちても別にどうでもいいな~」としか思っておらず、当時何をどう勉強していたのかの記憶がありません(ただし公平のために言っておくと、それでも日本の高校生の平均の中では上位1%くらいには勉強していたはずで、東大受験生の中では下位1%だったということです)。受験結果を高校に報告に行く日、僕の表情があまりにも平然としていて悲壮感が一切なかったため合格と勘違いされたほどです。

まとまると、大学に受かりたいというモチベーション自体は現役時も浪人時もかなり薄かったですが、たまたま受験を自己研鑽ゲームとして遊ぶモードにスイッチが入ったのでバリバリに打ち込むようになったし姿勢はめっちゃ変わったという感じですね。

個人的には、少しでも浪人したいという気持ちがあって一年勉強する自信があって衣食住の懸念がないなら(親が金を出してくれるなら)迷わずに浪人すればよいのではと思います。「○○高校の一年生」とか「○○社の社員」とかいう社会的なステータスを何も持たない「特に何者でもない18歳無職男性」になってそれなりに負荷のかかる作業にひたすらに打ち込む一年間はやはり人間を変えます。僕自身は浪人して良かったと断言できますし、もし漫然とストレートで進学していたらこんなブログを書くような人間にはなっていなかったと思います。生存バイアスではありますし、責任は取れませんが。

 

479.Twitterに上げられていたlwさんの上半身を見て滅茶苦茶良いなと思いました。なので今現在のlwさんのトレーニングメニューを教えて頂きたいです。

ありがとうございます! 「今現在」というのがお題箱への投稿当時だとすると、時期的にこの辺のような気がします。

これをアップした時期は縄跳びとカロリー制限しかしていません。2022年の頭頃から減量期ということで半年くらいほぼ毎日2000回縄跳びして、1日の摂取カロリーを2000kcalに抑えていました。筋トレは全くしておらず、筋肉は2021年以前に付けたものが残っているだけです。

74kgから68kgまで落としたあたりで体重が減らなくなってきたので、減量は一旦やめて今は筋肉を増やすフェイズに移行しました。9月の今現在はこんな感じです。

 

480.花譜さんのほうが穏やかに吐き捨てる感じありません?

花譜さんとヰ世界情緒さんはかなり声が似ていますが、僕はヰ世界情緒さんの方が癖が強いと思います。花譜さんの方が静かな曲を歌いがちで、ヰ世界情緒さんの方は激しい曲も歌うという曲の違いもあるかもしれません。

個人的には花譜さんはジェラシスあたりが一番特徴的な声の出し方をしている気がします。

www.youtube.com

ヰ世界情緒さんだとギャラリアですね。

www.youtube.com

 

481.データサイエンス(統計?)に興味が出てきたので、頑張って勉強して転職してみようと考えているのですが、数学というと大学受験は解法の暗記で無理やり乗り切ったタイプで、自身に素養があるとは思えません。

自分で解法を思いつけなくても、書かれていることが理解できるレベルで職にすることは可能でしょうか?

素朴に考えると素養が無いスキルを職にするのはやめた方がいいと思いますが、この「素養があるとは思えない」という自己申告を信用していいのかどうかを今考えています。

というのは聞き方の時点でもう基本的に優秀な方であることが伺えるので、この自己申告を文字通りに受け取ることに抵抗を感じるということです。自分に特定分野の素養がないことを自覚できており、かつその根拠とレベル感を言語化するメタ認知能力がある時点で本当に全く素養がないとは思えません。本当に数学の素養が一切ない人には「いま正解したけどこれは自分で解法を思い付いたのではなく解法を暗記していただけだ」という自己認識はできません。

結局のところ質問の温度感次第ではあって、「解法の論理構造が理解できないため問題文と回答文のパターンマッチングしかできないが数学を職にできるか?」という質問なら絶対にやめた方がいいですが、「既存の定理は理解できる一方で自分で新しい定理を思い付けないため統計学の論文を書く自信はないが在野のアナリストになれるか?」という質問なら全然大丈夫でしょう。

ある解像度で見れば研究以外の数学なんて全部暗記みたいなものですし、統計学数学書に書いてある内容が初見で一つも解けなくても回答を読んで普通に理解して暗記して使えるのであればそれはかなりの素養がある気がします。今は幸いにもデータサイエンス関連資格はCBTでもたくさんありますし、簡単そうなところから挑戦してみて取れるかどうか確かめてみればよいのではないでしょうか。

22/8/24 お題箱回102:Vtuberの演者に関心を持つのはいいけど女性絵師にはやめた方がいい 常識的に考えて

お題箱回102

saize-lw.hatenablog.com

この歌ってみたにハマった記事の反響が若干あり、関連する質問が複数来ています。

 

460.歌い手の記事とても面白かったです。自分も現在20代後半、高校生くらいの頃に周囲でニコニコや歌い手文化が隆盛する頃に正に思春期を迎えており、自分はハマらなかったものの周囲には様々な歌い手ファンがいました。
その中でもLWさんの「キャラソンとして楽しむ」という楽しみ方は余り見たことのない楽しみ方だったので興味深いです。
自分の周囲では「地下アイドル的/インディーズバンド的な、世間は知らないけど私は知っていて応援しているミュージシャン」的な楽しみ方をしている方や、「前提として特定の好きな曲がありそのバリエーションを楽しむ手段として歌ってみたをdigる」方が多かったです。

LWさんがそこまでキャラクターという概念が好きで、実在人物を避ける理由は何ですか?
Vtuberでも、世間の人々はすぐキャラクターよりも前世だの中身だの彼氏だのに興味があるようですが何か思うこと等もあればお聞きしたいです。

ありがとうございます!
Twitterでも独特な見方みたいなことを少し言われましたが、オタクは皆キャラソンが好きだと思っていたのでやや意外でした。でも冷静に考えたら皆キャラソン好きだったら皆キャラソンみたいな曲を歌うはずなのでそんなわけはないですね。

とはいえ同じことはキャラクター自体にも言えます。僕は萌えオタクの類は皆キャラクターが好きだと思っているので、むしろキャラクターが第一関心ではない萌えオタクが存在していることが意外な気持ちです。
だから自分が実在人物を避けているとも思っていません。オタクだからキャラは明確に好きな一方、実在人物を好きになる理由は特に持っていないから完全にフラットで、相対的にキャラクターがめっちゃ好きな人に見えるのではないかと思っています。そしてキャラが好きであることに関して深い理由やエピソードは特にありません。美少女キャラクターが好きというのが岩盤で、その先はないということです。

Vtuberの中身に関して思うことはかなりあります。ここ一年くらいで「Vtuberの中の人」に対する僕の考え方は大きく変わりました。
結論から言えば、「別にVtuberの前世とか中身が気になるからといって、それはキャラより演者の人間の方が好きなことにはならないだろう」ということです(彼氏は流石にどうでもいいですが)。

結局人間じゃん勢が1番キャラの存在を認められていない(至言)

例えばファーストガンダムを見てシャアのかっこよさに感動した人が「これすげえアニメだから監督が何を思ってこれを作ったのか知りてえ」と思って冨野監督のことを調べ始めたとして、「それ結局シャアじゃなくて冨野が好きなだけじゃん」「本当にシャア好きなら冨野関係ないだろ」とはならないですよね。
それと同じで、ラプラスダークネスのキャラとしての振る舞いに感心した人が「どういう経歴があったらこのラプラスを演れるようになるんだろう」と思って演者に関心を持って調べるのも不自然なことではありません。Vtuberの演者はVtuberの創作者として最も重要な位置を占めているわけで、生身の人間というよりは一人のクリエイターとしてリスペクトされる権利があるし、クリエイターとしての能力に関連する範囲で関心を持たれるのはむしろ自然です。
Vtuberの場合はたまたまクリエイターの人が(声が)可愛い(多分)若い女性であることによって変な邪推がはびこっているのは相当に不健全だと思います。本当にキャラを信じていれば、演者を生身の人間ではなくキャラに奉仕するクリエイターとして見ることができるはずです。

僕が考え方を変えた背景には、Vtuber文化が商業化の末に極めてスキルフルな戦場になっていることがあります。
正直なところ、Vtuber黎明期においては「Vtuber演者がキャラクターを演じる才能」については少なくとも今と比べればかなり軽視していました。当初はキャラクター文化というよりは技術的な文脈も強かったこと、個人勢が強くてマネタイズするビジネスというよりは好きベースの趣味として見られていたこと、単に人数が少ないためにクオリティがそれほど高くなくても問題なかったことなどが理由としてあります。
しかし次第にブランディングビジネスとしてVtuberをやる大手事務所が参入し、無数の視聴者に対してキャラクターを演じる能力は誰でも持つものではない、むしろ類稀な宝石のようなスキルであることが明らかになっていきます。どんどん加熱する視聴者の奪い合いの中でファンを惹き付け続けられるキャラクターは極一握りですし、裏ではネタ集めに苦しんだり精神を壊したり声帯結節を患ったりで多くの脱落者を出しながら、最前線で生き残っているのは希少で高度なスキルを持つキャラクリエイト人材です。キャラを信じてクリエイターをリスペクトしましょう。

補足421:この文脈で僕がいま一番「持ってる」クリエイターだと思っているのは、るしあを演じていた人です。Vtuberで精神を壊したクリエイターの末路って大抵はお気持ち砲を一発撃ってフェードアウトするくらいが精々ですが、るしあを演じていた人は蓄積したスキルと信者を十全に活かし、なりふり構わないムーブで配信システムをハックしてあくまでも配信者としての数字で戦争を続けています。正直なところ、僕はるしあも飴宮もキャラ自体は別に好きではないですが、るしあを演じていた人のキャラクター配信における怪物的な才覚は敬意に値します。

 

461.LWさんが女性絵師や女性Vtuberを各段地位を上げたり特別視するのは女性が性的対象だからでしょうか?
私は男性で性嗜好も女性ですが、配信に関しても創作に関しても同性の方が感性が近い感覚があり好ましく思っています(時流的に大声では言えませんが)。女性だからと特別視する理由が余りわからず、気になります。

かなり大きな誤解があるようです。僕は女性Vtuberを特別視したことはあっても、女性絵師を特別視したことは一度もありません。
その二つはそもそもカテゴリーが異なるので同様に扱うことができないというのは僕にとっては自明だったのですが、適当に作った画像が思ったより真剣に解釈されたりして少なくない人に本意ではない誤解を招いてしまったようなのでここで釈明します。

とはいってもこれは当たり前の社会常識の話で、レースクイーンとかグラビアアイドルのような陽に性別が関与する職業ならともかく、そうではない場合に女性だからという理由で態度を変えるのはかなりやばい人で、僕はその手の異常者ではないというだけの話です。
イラストレーターはイラストを供給するのがパブリックな仕事で、それ以外は全てプライベートであるはずです。よって本人が関心を持たれることを望んで公開しているのでもない限りは、イラストと関連しない要素によって評価を変えるべきではありません。僕はその可能性が生まれることすら徹底して避けており、絵師の性別が女性である場合は支援をしないことに決めているほどです。

男性が女性を支援する営みは外から見たときに下心があるかどうか区別できませんし、最初からパブリックの領分を超えた個人的な接触の可能性は全て潰しておくに越したことは無いということです(これはこれでネガティブな特別扱いをしているという説はありますが、少なくともあらぬ誤解を受けるような文脈ではありません)。

これに関しては「女性絵師Vtuberの歌ってみたが熱い」と書いたときにも我ながら上手い表現をしています。

俺は絵師に対しては常にかなり強いリスペクトを持っており、その敬意は絵師がVtuberになったときに具体的な対象を得てより強固に適用される。具体的に言うと、他のVtuberが0点スタートで評価を積み上げていくとすれば、絵師Vtuberは80点くらいからのスタートになる。

絵師が「具体的な対象を得」るのは「Vtuberになったとき」で、それ以前はそもそも対象ではありません。他のVtuberと同じように消費コンテンツになって点数が付き始めるのはVtuberになった瞬間で、それ以前はカテゴリーエラーにつき点数が付かないということです。女性絵師VtuberVtuberなのでコンテンツですが、女性絵師は生身の人間なのでコンテンツではありません。
もっとも「雑な一枚絵でマリンの配信に顔出してた時代のrurudo先生」「クリエイターと芸能人の間くらいの振る舞いをする女性声優」というような微妙な事例はいくらでもありますが、境界付近に事例が存在することは明らかな区分を無効化することにはなりません。

 

462.LWさんのブログやTwitterを見る限り、アニメを見ている割にはあまり特定の声優の名前を出す事が無いなーと思っていたのですが、何故だか佐倉綾音さんだけ異常に(といっても数件だけですが)名前を明記していますが、何故でしょうか?
それと、声優やVTuberの演者について哲学的な視点からしか語っていないのは三次元の人間を性欲の捌け口にする事に抵抗が有るからでしょうか?
(仮にそうであった場合、私はこの考えに共感を覚えます)
その様な記事を見た記憶があるのですが、見つけられなかった故の質問です。

一つ目の佐倉綾音の名前を出すことが多いことについてはそんなに深い理由はありません。
分析哲学者が任意の人間一人を指すときに適当にソクラテスを使いがちなのと同じで、最初は適当に挙げていたのが癖になった程度のことです。一応かなり特徴的な声をしているので好きな方の声優ではありますが、早見沙織の方が好きです。

二つ目については完全に正しいです。
正確に言えば三次元の人間を性欲の捌け口にすること自体は構わないと思っていますが、AV女優のような最初からそれを誰もが意図しているケースでもない限りは、それを公に発信することには抵抗があります。キャラクターにはどんなに性欲を向けていることを表明してもよいが、現実の人間に対しては徹底的に避けるべきであるという線引きが明確にあります。
Vtuberのキャライラストとか百合イラストをリツイートに関して萌え~とか言ってるときも僕は徹底してキャラクターの話しかしていないのですが、演者の話と思われていることがあるらしいのはかなり不本意な誤解です。

フィクションと実在の異性に対する倫理に関しては以下の記事が僕と同じ見解なのでこちらを読んでください。特に冒頭の表には完全に同意します。

keylla.hatenablog.com

ただ相違点があるとすれば、僕はキャラのことを100%キャラとして見ている自信があるので、「半ナマモノかもしれない」という悩みは抱かないところです。
というのも、わざわざ丁寧に「言及してもよい」と付記してあるため言及しますが、冒頭に書いてある「○○さんのエロ絵がほしいな」みたいなツイートをしたのは僕で、そのツイートは以下です。

これはキャラに関するツイートで演者とは無関係です。一応検索避けをしているのは単にクリエイターに対する配慮です(つまり対象のナマモノへの配慮ではなくキャラ周辺の関係者への配慮です)。
例えば「ワンピのウタが四肢切断されてるイラストが見たいンゴねえ」と思ったとして、そのままツイートすると普通のウタ好きのフォロワーを嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないから一応鍵垢でのツイートにしとくのと同じです。クリエイターなどの関係者が検索をしてツイートが目に入ってしまった場合に不愉快な思いが生じることは本意ではないので検索には出ないようにしただけです。ナマモノがどうという話とは関係ありません。

 

463.V.W.P(ヰ世界情緒さんがいる箱)の方々の歌ってみたの評価が気になります。

基本的に歌以外の情報をあまり調べないので、この投稿で箱所属であることを初めて知ったのですが、やはりヰ世界情緒さんが一番良かったです。
良い意味で一番変な声をしているというか、特徴的で弁別しやすい声をしています。他の方も歌が上手いですが、星街すいせいさんタイプと同じで普通に上手い以上のキャラクターソング的な強さはあまり感じられませんでした。これって僕が特徴的な歌声ベースで評価しているからそうなるのか、それとも人によって特徴的だと感じる歌声そのものが異なるのかどっちなんでしょうか。

 

464.いつもブログを拝見させていただいてます。Twitterウマ娘とBOSSの広告について厳しく発言されていたのが印象的でした。私はウマ娘に明るくないので静観するのみですが、LWさんが本気でお気持ちの文章を書いたら滅茶苦茶バズりそうだなと思ったりしてました…。というただの感想です。これからも応援しております。

ありがとうございます。これは5月頃にBOSSが怪文書マーケティングをやった頃の話ですね。

今見るとキレすぎだろという気もしますが、こういうマーケティングに流行ってほしくないという気持ちは変わっていません。
サントリーという企業の粒度で見たとき、このマーケティングはオタクの推し文化に便乗してコーヒーを売ろうとしている文化のフリーライド以外の何物でもないからです。ウマ娘コラボ担当者がウマ娘大好きなオタクなのは本当だとしても、このマーケティングを仕掛けている主体はどう考えてもその担当者個人ではなく巨大資本です。

別にオタク文化を金に換えるなと言っているわけではなく、「最低限の誠意ってあるよね」という話です。
他の数多のコラボ商品だって萌えキャラのイラストをあんま関係ない商品にくっつけて売り上げを伸ばしていますし、パセラとかスペイシーはもっと露骨に推し活の場所を提供するという形でオタク文化にライドしています。
とはいえ、その二つはどちらもオタク文化を支援するという体裁が存在しています。仮に資本サイドが金儲け目的だとしても(仮にというか事実ですが)、オタクサイドは新規イラストが得られるなり活動場所が得られるなりでウィンウィンであるという関係があります。その実質的な貢献部分が抜けてしまって仲間意識の強調しかない怪文書マーケティングには、資本側からの一方的な利用関係しか残っていません。

一応、今回もウマ娘がジャケットを着ているけっこういい感じの新規イラストは別途に供給されていたので、ボスコラボの全てがダメだったというわけではありません。ウマ娘の新規イラストさえ隣に描いてくれるのであれば、それで資本サイドから一定の供給をしているという体裁は成立するので良いと言えば良いです。
ただし駅や媒体によっては怪文書広告だけが並んでいてウマ娘のイラストが見当たらない場所も多くありました。少なくともその現場においては怪文書だけでもコーヒーを売る効果があると見込まれて出稿されているのは明らかで、その部分的に舐めている搾取的な態度が僕は著しく気に入らなかったということです。

 

465.サブスク系のサービス(Amazon primeとかSpotifyとか)使ってますか?

使っています。以前からよく使っているのはAmazon PrimeYoutube Premiumで、最近Spotifyも登録しました。実体のないサービスにお金を払うことに抵抗がある時期もありましたが、今は適応してサブスクというものを完全に理解しました。

サブスクは単体購入よりもコスパが良いことに加えて、潜在的な可能性に対する課金というかなりハイコンテクストな購入形態でもあります。具体的に言えば、実際に映画を見て利を得る以外に「俺はアマプラに登録しているから見ようと思えばいつでも見られるんだぞ」という安心感を得るために加入している節があります。つまり「実際に消費していないし消費しようと思ってもできない状態」と「実際には消費していないが消費しようと思えばできる状態」が明確に区別されていて、実体ではなく権利を得ることに対してお金を払う価値があります。

こういう「構え」って非常に大切で、貯金の本質ってそういうものだった気もします。人生計画が単純なため何事もなければこの先の人生で大きく散財する予定がない人でも(具体的に言えば結婚や出産の計画が無い人でも)、「いきなり結婚したくなったときのため」「いきなり病気になったときのため」「いきなり欲しいものが生まれたときのため」というモチベーションで貯金を貯めていることはよくあります。
この構えとして蓄積した現金はどこかで清算されない限りは構えとして無限に繰り越されることになりますが、サブスクに換えた場合は構えの形式が変わります。「構えの現金」を物品に実体化するのではなく「構えの視聴権」に変換するという、構えの変形に僕はサブスクの本質を見ます。

 

466.ブログ見て自分も書見台買おうかなって思ってるですけど本を立てかける部分の奥行きってどのくらいのものを使ってますか?

今測ってみてちょうど3センチでした。
実際に見るとやや狭いですが、800ページくらいある辞書みたいな本を読むときもあまり困ったことはありません。さすがに本来の形できちんと収めることはできないものの、背表紙あたりが乗りますし厚い本は自重で抑えられるのでどうにかなります。

 

467.コンテンツに対してどの程度消費するかの基準を決めてからコンテンツに触れるようになったきっかけってあったりしますか?

あまり思いつかないですが、強いて言えば受験戦士だったこととかが関係あるのかもしれません。受験勉強はまさしく規定されたスキルセット(私大以外は原則として標準的な中高教科書カリキュラム)の中で精度をどれだけ高められるかという戦いなので思想としてはよく似ています。

 

468.かしでっくって何者なんですか?

この質問は昔から無限に来るのですが「実はあのアルファツイッタラーのサブアカウントです」「実はあの有名ブログを書いている人です」「実は昔一度話題になった人になったあの人です」みたいな答えが望まれていることが最近わかってきました。
そういう意味では特に何者でもないただの男です。親しい友人の一人ですが、インターネット上で対外的に紹介するプロフィールは特にありませんというのが僕が言うべき答えだった気がします。