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21/12/27 統計検定1級とかいうゲームに勝利した

統計検定1級の勝ち語り

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統計検定1級に合格し、数理と応用の両方で優秀賞を取得したので勝ち語りをします。
4級・3級・2級・準1級・1級という区分を完全に無視して初手から最上位資格にいく賭けに出たが、大きく張った分だけリターンもデカい。

受験を思い立ったのは6月に遡る。
部屋にトレーニング用ベンチでも置こうかと思って本の整理をしていたところ、昔大学で買わされた統計の教科書を発見した。一応読んでから捨てようとしたが、しかしこれも何かの縁だしついでに資格でも取っとくかと統計学の勉強をスタートした。

そこから試験のある11月まで4ヶ月近くもタラタラ勉強していたことになる。俺の周りでは誰も統計に興味が無く、むしろ俺が統計などという説明のし甲斐もないクソつまらない勉強をしている間はサイゼミの開催が滞っていたため(元々コロナ禍で一旦停止していたが)、「まだ統計やってんの?」「いつまでやってんの?」などと心無い声をかけられながら一人で戦っていた。

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試験は余裕だったと言いたいのは山々だが、実際のところ、かなり難しかったと言わざるを得ない。
統計検定1級取得には統計数理と統計応用という合格率20%程度のフル論述試験を二つパスする必要があるのだが、どちらの試験もいわゆる資格試験というよりは大学院入試に近い。理系学部教養レベルの解析学線形代数は自在に扱えなければスタート地点にも立てず、(試験範囲をまとめた公認教科書をわざわざ出版している癖に!)明らかに出題範囲表を逸脱した数学知識が要求されることもざらにある。「ここからここまで試験範囲なので勉強してください」などというお行儀のよいものではなく、「こんくらい常識でわかれよ」という設問者の顔が浮かんでくる。

さて、とりあえず合格した今、この数ヶ月が何だったのかを思い返してみると、俺にとって統計検定というゲームは長い人生の中で余暇を費やす遊びの選択肢としてどうだったかというような話になってくる。
別にこの資格は何か明確な夢とか目標があって取得したものではないし、取ったからどうなるわけでもない(一応仕事でも役に立つので評価や給与も若干上がるだろうが、評価や給与をどうしても上げたかったわけでもない)。サブスクやら無料ゲームやらで娯楽の選択肢も無限にあるこの時代、プライベートの貴重な時間を投資して参加するゲームは自分の適性を考慮して慎重に判断した方がいい。他の選択肢、例えば格ゲーとか映画鑑賞とかスポーツとかそういうものと並べたとき、資格取得というゲームはどうなのか。他のゲームと比べて楽に勝てるのか、ストレスはかからないか、快感に対する時間のコスパはどうなのか、得られる知見の汎用性はどのくらいか。

そこのところ、楽に勝ててそこそこ自尊心が満たされるゲームとして、やはり資格試験はかなり手頃な娯楽だという認識を新たにした。
「楽に勝てる」というのは「全然勉強せずに合格できる」という意味ではない。むしろ勉強時間自体は相当かけており、たぶん合計で数百時間は費やしたはずだ。平日は朝起きて2時間勉強してから出社して昼休憩で1時間勉強して帰宅して寝る前に2時間勉強し、翌休日は朝9時から夜7時まで図書館で缶詰みたいな過ごし方をしていた(もちろん数ヶ月ずっとそうだったわけではないが)。
それでも俺にとって数学書を広げて机に向かっているのは寝っ転がってシャドバをしているのと大して変わらないので、ストレスを感じたことは特になかった。「今年の目標:必ず1日1時間統計の勉強!」とかbioに書いて頑張ってる人よりはストレスなく毎日5時間遊びで勉強する人の方が勝率は高いわけで、どうせ娯楽でやるなら楽に勝てるゲームを選択した方がいいというのはそういう意味である。

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(↑勉強に使った紙は全部で157枚)

ただ本気でゲームをやるのは楽しい一方でかなり消耗するので、あまり頻繁にやるものでもない。
ゲームの定義に自己目的性を挙げたのはたしかホイジンガだったと思うが、俺の拡大解釈ではゲームとは何の外的な意味もないが故に全ての勝敗に対して自分自身で無限の責任を負い、勝ったときには全てを得る代わりに負けたときには全てを失うというルールの営みである。つまりゲームとは勝敗それ自体だけが唯一の目的でなければならず、例えば「ゲームに勝つとお金が儲かる」とか「ゲームに勝つ過程が有益だった」とかいうような評価軸は存在しない(それはノイズとか言い訳と呼ぶ)。常識的に考えれば資格試験に不合格でも得られる知識はそれなりにあるはずなのだが、ゲームの世界観の上に立つとそういうフォローが効かなくなってしまう。背水の陣をあまり長く続けると身が保たない。

補足405:このオールドゲーマーの美学は一見するとe-sportsプレイヤーのゲームへの真剣さと見分けが付かないが、その実情は真逆である。何も賭けられないが故に己自身を賭けざるを得ないオールドゲーマーとは反対に、e-sportsプレイヤーはむしろ名声や金銭や社会的地位に至るまでの他の利益全てを賭けている。オールドゲーマーは(自分自身以外に)評価軸が存在しないが故に負けられないのだとすれば、e-sportsプレイヤーは全てが評価軸であるが故に負けられない。いずれにせよ、何も賭けていないわけではないが全てを賭けているわけでもない中途半端なやつが一番弱い。

いずれにせよ統計検定の本質的な勝因は「これがゲームだったから」で、他に教訓的なものはあまりない。以下に共有する使用書籍も概ねテンプレ編成である。というのも統計検定に関しては「だいたいこの書籍が丸い」みたいなリストが既に流通しており、どの勝ち語りを見ても皆だいたい同じような編成が挙げられているものだ(特に数理で顕著)。

使用書籍まとめ

公式教科書類

統計検定を主催している統計学会が公式に出しているやつ。余程のことが無い限りはとりあえず目を通した方がいい。

日本統計学会公式認定 統計検定1級対応 統計学

役に立たないことで有名な公式教科書。これ一冊では戦えないせいでこの記事にもズラズラと他の書籍を書く羽目になっている。そういう学習のための探索を強いるという意味では教育的かもしれない。それでも基本的な確率分布と推定と検定くらいまではそれなりによくまとまっているのだが、それ以降の主に統計応用で出題される線形モデルの説明はかなり厳しい。

あとこの教科書にも出題範囲表にも一言も書いてない内容が全然出るので、試験場でこれを傍らにおいて問題を解いたとしても満点が取れるわけではないという謎の弱点もある。今はもう勝ったからそれはそれで緊張感があって良かったとか言えるが、それが敗因で負けてたらキレてた。

日本統計学会公式認定 統計検定1級公式問題集

公式問題集。研究室とかに在籍していれば多分シェアして買って印刷なりクラウドなりで共有するのだが、孤独だし図書館にも置いていないので買わざるを得なかった。2016・2017年はAmazonペーパーバック版が出ておらず高騰していたので買っていない。
出題範囲を知るにあたっては教科書よりも信頼できる。教科書に書いていなくても過去問に書いてあることは出るが、教科書に書いてあっても過去問に書いていないことは出ない。過去問を全部瞬殺できるようになれば合格は堅い。

統計数理向け

簡単な順。

統計学入門

高校生や理系以外も読めるように書かれた簡単な初学者向け入門書。これだけでは全く戦えないが、初手から手に取るのにはオススメ。

入門統計解析

昔大学の講義で買わされたやつ。元はと言えば部屋の隅からこれを発掘したのがきっかけだった。『統計学入門』よりは高度だがまだ十分ではない。より高度な数学書を読む前提の中継という位置付け。

現代数理統計学の基礎

統計数理のために最終的に使う教科書は久保川『現代数理統計学の基礎』と竹村『現代数理統計学』の二択ということになっており、こちらの方がやや簡素に感じる。俺は精読する本としては竹村本の方を選択したので、久保川本は後で流し読みして内容を確認した程度。
例題が充実しているらしいが、これを読むときは実際に手を動かして解く必要がある学習段階ではなかったのでパラパラ読んでみて解法を考えるくらいの使い方で済ませた。

新装改訂版 現代数理統計学

俺のメインウェポン。これで統計数理の全て、統計応用の半分をカバーできる。
久保川本ではなくこっちを選んだ理由はデザインが優れているから。久保川本はハードカバーの上に白くテカテカして若干サイズの合っていないカバーがかかっており、持ち歩くとすぐにカバーが破れたり汚れたりしそうなのが気に食わなかった。表紙にデカデカと書かれている「数学の魅力11」というサブタイトルもダサくて頂けない。
一方、竹村本はソフトカバーの上にぴったりフィットした厚手のカバーが使い込めばいい感じに柔らかく馴染んでいくことを予感させるもの。青一色の表紙にタイトルだけがデカデカと書いてあるのもかっこよく、金箔の装丁も華やか。

内容は全体的に久保川本よりも竹村本の方が詳しいように感じる。特に理論の目的や動機を詳しく説明しており、冗長でも背景にある気持ちをつらつらと書いておいてくれる方が俺の好み。

統計応用向け

俺は理工学を選択した。
主に線形モデルについての理論であり、個別のトピックとしては多変量解析、分散分析、直交表あたりをそれぞれカバーする必要がある(ただし多変量解析は試験には出ないっぽいのでやらなくても良い)。

図解雑学 多変量解析

多変量解析をやろうと思って図書館で適当に掴み取ったうちの一冊。
ナツメ社の図解雑学シリーズらしくあまり数学に詳しくない人でも読めることを目指しているが、その結果、固有値を変数で書き下した異常な複雑さの式が天下りに導入されたりと破滅的な内容になっているのが笑える。既に固有ベクトルとか主成分分析の大雑把な内容くらいはわかる人が流れを確認するのはいいが、そうでない人には厳しい。

多変量解析のはなし

多変量解析をやろうと思って図書館で適当に掴み取ったうちの一冊。
いきなり大した説明もなく飛躍したりしてわかりやすくはないが、コンピュータが普及し始めた頃に書かれた時代を感じられる味わいのある一節。コンピュータは自動で計算できるのが凄いんだというテンションは今見るとなかなか笑える。

他にも多変量解析の事例として選ばれるのが松田聖子みたいな当時のアイドルの人気投票だったり、ジェンダー的に終わっている文章が散見されたりと独特なポイントが多くてそこそこ面白く読める。

図解でわかる多変量解析

多変量解析をやろうと思って図書館で適当に掴み取ったうちの一冊。
参考書としては上に挙げた2冊よりは明らかにこっちの方がいい。説明もわかりやすくて標準的だが、それだけにこの本特有の笑いどころはない。

やさしい実験計画法

数学書ではなく実用書。実験計画法がいつどうやって使うものなのかがわかる本。数学的な厳密さは投げ捨てており、生産現場で実際に使う人が計算するのに必要な手順などが書かれている。実験計画法の数学から入るのが難しかった場合はこういう本から読むのも良い。

東京大学工学教程 確率・統計Ⅱ

分散分析と実験計画法の詳細な数理について。分散分析は結構色々なところで解説されているが、実験計画法と直交表については公認教科書にも久保川本にも竹村本にも十分な解説がないため、これかこれに似た本を読んでおきたいところ。

ちなみに東京大学工学教程(→)とはその名の通り東京大学が工学で必要な知識を体系的にまとめた数学書シリーズであり、ホームページにあるこの図がかなり好き。

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これはただ分野ごとの連関をまとめているのではなく、それぞれの四角が各工学教程シリーズ書籍のタイトルに対応している。例えば『確率・統計Ⅰ』を読了すると『確率・統計Ⅱ』が読めるようになり、『線形代数Ⅰ』と『微積分』を読了すると『ベクトル解析』が読めるようになり……というように必要な知識の順番がまとめられているのだ。
よって高校範囲までは学習指導要領に従って勉強し、それ以降はこの工学教程に従って順番に勉強すれば誰でも欲しい知識を入手できるようになっている。

この図が良いのは、これが完全にゲームのスキルツリーであることだ。

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(↑適当にググって出てきたPSO2のスキルツリー)

実際にはスキルツリーが用意されている方が稀なのでスキルを点灯させる作業とスキルツリーを作る作業はたいてい同時進行することになるが、「学問のスキルツリー化」というのはゲーム感覚で勉強をやるのにかなり強力な世界認識である。

21/12/20 【第11回サイゼミ】東浩紀『観光客の哲学』は数学的に妥当か

第11回サイゼミ

2021年12月20日に新宿で第11回サイゼミを催した。コロナ禍の合間で半年ぶりの開催となる。

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題材は東浩紀の『観光客の哲学』。これに決まった経緯はよく覚えていないが、動ポモシリーズ以降の東の動向を追う回そろそろやっとくかみたいなノリだったはず。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

Amazon

いつも通り読んだ前提で俺の関心が高かった点について書くので、内容が知りたければ各自で読んでほしい(これは解説記事ではない)。
特に今回は東が第四章『郵便的マルチチュードへ』でネットワーク理論をガッツリ援用して主張の正当化を試みていたため、俺は理系担当としてネットワーク理論を一通り勉強してその議論の妥当性を検討することにした。前回の複雑ネットワーク書籍群についての記事は『観光客の哲学』を読むためのものである。

saize-lw.hatenablog.com

第三章『二層構造』まで

第三章まではネットワーク理論は登場せず、主に人文系のゆあさが解説したので簡単にだけ触れる。

東の現状分析と図式化はいつも通り明晰で説得力のあるものだが、その上で東が何をしたいのかが少し議論になった。
第二章を読む限り、東はヘーゲルとそのフォロワーたち(シュミット、コジェーヴアーレント)には否定的であるように見える。二層構造は彼らの乗り越えとして導出されており、ヘーゲルクラスタが立脚しているナショナリズムが既に無効であることを指摘したり、彼らが否定的に切り捨てる観光客的な概念を擁立したりすることを通じて、ナショナリズムグローバリズムの並置が現れてくる。
だが、実は東の目的意識そのものはむしろヘーゲルと同一であることに注意が必要だ。あくまでも弁証法的上昇というヘーゲル的な手段を否定しているに過ぎない。このことは第四章の冒頭で明確に述べられている。

帝国の体制と国民国家の体制、グローバリズムの層とナショナリズムの層が共存する世界とは、つまりは普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界ということだ。ぼくはそのような世界に生きたくない。だからこの本を記している。言い換えれば、ぼくはこの本で、もういちど世界市民への道を開きたいと考えている。(p154)

つまり、これは是非というよりは可否の問題だ。別にヘーゲルのやり方が有効であるならばそれでも構わないのだが、その前提になっているナショナリズムの世界観が事実として既に終わっているためにそれができないところに問題がある。「二層構造という新しいゲームボードにおいてヘーゲルオルタナティブは如何にして可能か」という文脈で東のモチベーションを捉える必要がある。

これはやや唐突にも思えるが、よく読めば東は別に観光客や誤配が満ちている(相対主義的な?)世界を理想としているわけではなく、ヘーゲルの夢を叶えるための置き石として有効であると述べているに過ぎない。
それは第四章で改めて提示されている。最終的に東は誤配を言い換えたソリューションである「つなぎかえ」をグローバリズムに抵抗するものとして位置付けている。それは二層構造を変革する目的意識を意味するが、観光客は二層構造の間を繋ぐ存在だったはずで、もし本当につなぎかえによってグローバリズムに抵抗することが可能であるならば、最終的にはグローバリズムと観光客は共に消滅していくのだろう。

 

第四章『郵便的マルチチュードへ』

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ここから数学的に見て東のネットワーク理論の運用が妥当かどうかを検証する。東はネットワーク理論の利用についてはまだ粗っぽいアイデア段階に過ぎないことを繰り返し留保しているが、読者側としては特に評価を差っ引かずに普通に読むしかない。

①小さい平均距離はナショナリズムを示すか?

数学的な性質と哲学的な解釈の対応付けについて、東はスケールフリー性がグローバリズムに、スモールワールド性がナショナリズムに対応するとしている。スケールフリー性はパレートの法則と概ね等価な資本主義の申し子であるから、それが経済的なグローバリズムに対応することは議論の余地なく正しいとして良いように思われる。よって検討すべきはスモールワールド性がナショナリズムに対応するかどうかだ。

スモールワールド性の二つの性質はナショナリズムと以下のように対応するとされている。

  1. 小さい平均距離について
    「一本の枝で結ばれたふたつの対等な頂点」「一対一で向かい合う対等な人間」「一対一のコミュニケーション」
  2. 大きいクラスター係数について
    国民国家の規律訓練は、クラスターの三角形を伝って頂点ひとつひとつに、つまり人間ひとりひとりに働きかける」

正直なところ、この辺はどうとでも解釈できるので賛成も反対もしにくい。例えば小さい平均距離を元にして訓練を捉えるならば(厳しい規律訓練ではなく)知り合いの知り合い同士の仲良しごっこかもしれないし、大きいクラスター係数を元にして対人コミュニケーションを捉えるならば(対等な人間同士ではなく)内輪で似通ったもの同士の同質でツーカーなコミュニケーションかもしれない。
とはいえ、現実のネットワークでスケールフリー性とスモールワールド性が成立していることは既に事実であるから、解釈が恣意的であることがモデル自体の妥当性を損なうことはない。実在するネットワークによる解釈を行おうというモチベーションからスタートしている以上、一意ではない解釈を挟むのもそこまで大きな問題はない。

ただ、直感的に言えば、「小さい距離」はナショナリズムよりはグローバリズムに対応させた方が妥当な気はする。地理的に遠く一見すると繋がりの無さそうな人でも実はネット等の人脈を通じてすぐに繋がれるというのは、まさしくグローバリズムの表現の一つではないだろうか。そしてそれにも関わらず依然として人々には近場で徒党を組む傾向がある、つまりナショナリズムが共存している様子が「大きいクラスター係数」に現れているというのが、最も安直なスモールワールド性の解釈のように思われる。実際、その後の対応においても規律権力との対応が語られるのは「大きいクラスター係数」だけで、「小さい平均距離」の方は近代的主体っぽいイメージを一度作ってからは放置気味だ。

総じてスモールワールド性とスケールフリー性という対置にこだわらず、グローバリズムが「スケールフリー性&小さい平均距離」、ナショナリズムが「大きいクラスター係数」に対応しているとした方が説得力があるような気もする。
ネットワーク理論での便宜的な呼称に引き摺られているのかもしれないが、数学的な生起状況を考えても、スモールワールド性自体に「小さい距離であるにも関わらず大きいクラスター係数」という逆接、二層構造的なニュアンスが元から含まれている。その二つは両立が稀で特殊な領域でのみ成立するからこそ注目されて呼称を持つのであり(例えばWSモデルで言えばパラメタpが大きすぎたり小さすぎたりしない特定の中間領域でのみ成り立つ)、個々の性質を切り分けて解釈するならば対置させても特に問題ない。

②ネットワークの性質は必然的ではない

数学的な必然性を語る以下の記述は概ね意味不明である。

もしそうだとすれば、国民国家と帝国の二層化は、数学的な必然で支えられた構造であることになる。人類社会がひとつのネットワークであるかぎり、そこには必ず、スモールワールドの秩序を基礎とした体制とスケールフリーの体制を基礎とした体勢が並びたつ。(p184)

「もしそうだとすれば」には「国民国家の秩序がスモールワールド性を活用し、帝国の秩序がスケールフリー性を活用するならば」というようなことが受けられているが、現実にスケールフリー性とスモールワールド性が存在することと、それが必然的であることは全く別のことだ。ネットワーク科学は必然性までは特に保証していない。

ネットワーク科学が主張しているのは「現在の人類社会をネットワークとして分析するとスモールワールド性とスケールフリー性という性質が出てきます」ということだけだ。スモールワールド性とスケールフリー性が両立していないネットワークはいくらでもあるし、現在両立しているからといって絶対に両立しなければいけない理由は特にない。「昨日収穫した林檎が赤かった」という報告は「未来永劫に林檎が赤いことは必然的だ」という主張を含意しない。そのレベルの話だ。

補足403:これは邪推だが、東自身が紹介しておりそのあたりに大風呂敷を広げるマーク・ブキャナンの一般書『歴史は「べき乗則」で動く』に感化されたのかもしれない。

補足404:指示詞の解釈を最大限好意的に取って「もしそうだとすれば」が「もしスモールワールド性を生成するWSモデルやスケールフリー性を生成するBAモデルのような機構が存在するならば」というような内容と考えるならばこの引用は概ね正しい。が、それはそれで「スモールワールド性を生成する機構が存在するならばスモールワールド性が存在する」というトートロジーを述べているに過ぎず、「数学的な必然」という言い回しにはやはり問題がある。それは数学的な必然ではなく文法的な必然である。

③つなぎかえは万能の特効薬ではない

東がソリューションとして提示する「つなぎかえ」について。
結論から言えば、第四章の終盤で東がソリューションとして提案する「再誤配の戦略」は少なくとも数学的に言えばあまり意味のある操作ではない。このアイデアはネットワークの生成モデルを援用した「神話」から生まれてきているのだが、その推論は概ね誤っている。
東自身も捏造した神話から現実の処方箋を取り出す論理展開が強引であることは自覚しており、「ネットワーク理論の論理的展開を、なかば強引に歴史的展開に置き換えて作った物語である」と気にしながら述べているが、要点はそこではない。仮に神話が実際の歴史的事実だったとしてもなお、神話から現実へのアナロジーは無効なのである。

実際のところ、俺は提示される神話自体には同意してもよいと思う。
散発的に作られていたクラスターが技術の発展に伴ってショートカットを得てスモールワールドネットワークとなり、資本の原理によってスケールフリーネットワークに行き着いたという描像にはそれなりに説得力がある(もし可能ならばそれを検証するのは恐らく数学ではなく社会学の仕事だろうが)。
そして、この神話モデルにおいて優先的選択が発生しないように押しとどめておけばスケールフリー性は生成しないというのも正しい。スケールフリー性を生成する操作を行わなければスケールフリー性が生まれないというのはほとんどトートロジーである。ただし一応注意すれば、これはつなぎかえの意義を積極的に主張するものではない。つなぎかえから優先的選択に移行するモデルにおいては、優先的選択を行わないということがつなぎかえを行うことと等価になってしまうというだけだ。

この留保を踏まえた上であれば、以下の神話に関する記述は概ね正しい。

僕が本書で提案する観光客、あるいは郵便的マルチチュードは、スモールワールドをスモールワールドたらしめた「つなぎかえ」あるいは誤配の操作を、スケールフリーの秩序に回収される手前で保持し続ける、抵抗の記憶の実践者になる。(p186)

問題はここから拡大解釈された以下の記述である。

だとすれば、ここでぼくたちは、グローバリズムへの抵抗の新たな場所を、(略)スモールワールドとスケールフリーを同時に生成する誤配の空間そのもののなかに位置づけることができるのではないだろうか。(p192)

二十一世紀の新たな抵抗は(略)誤配を演じ直すことを企てる。(p192)

つまり「再誤配の戦略」とは、神話において誤配(つなぎかえ)を行い続ければスケールフリー性が生じなかったという経験から、もう一度誤配をやり直せばスケールフリー性への抵抗になるのではないかという拡大解釈だが、これは二重の意味で誤っている。

まず第一に、先ほども注意した通り、神話においてつなぎかえを維持することでスケールフリー性が生まれなくなるのは「つなぎかえを行ったから」ではなく「優先的選択を行わなかったから」だからだ。たまたまこのモデルでは優先的選択を行わないこととつなぎかえを行うことがイコールになっているだけで、そもそも原因と結果が違う。

そして第二に、時間的な段階の違いがある。神話においてつなぎかえが劇的な効果を持ったのは、WSモデルが初期段階だったからである。つなぎかえはネットワークの平均距離が大きい状態においては極めて劇的に平均距離を減少させるが、その距離短縮効果は急速に漸減することが知られている。つまり効果的なのは最初だけで、既にスモールワールドであるネットワークで繰り返してもスモールワールド性への大局的な影響はほぼない。

このように操作の有効性がネットワークの状態に依存することは多く、操作そのものというよりは「その操作をいつどうやって行うのか」の方がネットワークの生成モデルにおいて本質的である。であるにも関わらず、つなぎかえという操作自体を数学的に意義深いものだと捉えてしまっているという点こそが、誤配をソリューションとすることの根本的な問題点であるように思われる。
つなぎかえ自体はシンプルな汎用操作に過ぎない。そもそもネットワークの操作など最初からリンクとノードの追加と削除で計2×2=4種類くらいしかなく、つなぎかえはそのうちリンクの削除と追加を行うだけだ。WSモデルが画期的だったのはつなぎかえを行ったことではなく、つなぎかえが劇的な効果をもたらす状況を提示したことだ。
実際、「つなぎかえでネットワークの性質を変える」と述べるだけでは何も言っていないに等しい。というのも、つなぎかえは任意の対象に対して任意の回数行うことで自由にネットワークを作り替えられるからだ(リンク数は保存されるが)。この意味では、理想的なつなぎかえがスケールフリー性を減じることがあるというのは事実ではある。ただし、それはチンパンジーシェイクスピアを書き上げるのを待っているのと大差がない。理論上は可能というのは当たり前で、厳密にどのような規則の下でつなぎかえを行えばスケールフリー性を減じられるのかを考えるところがスタート地点だ。
ちなみにBAモデルの発展として、ノードを除去したり老化の概念を組み込むことでスケールフリー性を失うことも含めた変化が起きるモデルは既に提案されており、つなぎかえについても適当な条件下でそうした性質の変化を起こすモデルを考案することは十分に考えられそうに思われる。

結局、つなぎかえを万能の特効薬だと妄信することは一度は追放したロマン主義の再雇用に他ならない。その残党と改めて決別し、数学の作法に従った具体的な手続きの中で泥臭くモデルを検証しない限り、つなぎかえが望む薬効を発揮することは永久にないだろう。

④ネットワーク(のクラス)と生成方法は一対一対応しない

これはわかった上で書かれていそうだし相対的に些細なポイントではあるが、一応神話の問題点をもう一つ指摘しておく。

一般的に言って、ある性質を持つネットワークを生成する方法は無数にある。ノードやリンクを足したり引いたりする操作を組み合わせて最終的に求めるネットワークが作れるならどう作ってもよいわけで、ネットワーク(のクラス)とその生成方法は一対一対応しない。
東はスモールワールドネットワークの生成方法はWSモデル、スケールフリーモデルの生成方法はBAモデルしか紹介しておらず、また、それらのみを用いてやや強引に哲学的な議論との接続を行っているが、実際には他のモデルも想定できる。スモールワールド性とスケールフリー性を併せ持つネットワークを生成するモデルもいくつかある(例えばHolme-Kimモデル、確率的な優先的選択)。
現時点での第一次近似としては誤りというほどではないが、生成にどのモデルを想定するかは「神話」の説得力にもダイレクトに関わるため論旨への影響がそこそこ大きい。ネットワーク理論に準拠した議論を進めるならば早晩きちんと詰めなければいけないポイントではある。

⑤東がやるべきことは?

やや批判的なことばかり書いてしまったが、東が二層構造を整合的にイメージできるようなモデルを求めるにあたって、一つのネットワークが一見すると相矛盾するような性質を併せ持てることに注目したのは素晴らしい着眼点だと思う。可能な限り明確な描像を求めて抽象的なイメージに終始してきたポストモダンを葬送しようとしている点も好ましく、彼が自負する通り、少なくともリゾームのような雑なイメージでの議論とは一線を画している。

ただし慧眼だったのはそこまででもある。彼自身も自覚しているように、やはり数学の議論には精彩を欠く。
まだ発展途上のアイデアに過ぎないことを差っ引くとしても、読んでいて不安になるのは、数学的主張を拡大解釈をする際に留保するポイントが少しズレているように思われることだ。東は読者への哲学的な説得力が失われるかどうかということばかりを気にしているが、数学的なアイデアを膨らませる際に気にすべきことはそこではない。批評が半ば露悪的に元の文脈を無視した読みを加えることはよくあるし、実際、他の章でもカントの思想やドストエフスキーの著作や家族概念は過剰に展開されて持論の糧になっているが、数学だけはそのノリで扱うべきではないのだ。

どんな提案を行うにせよ、数学において絶対に正しいのは解釈ではなく数式の方だ。よって、少しでも解釈を拡大したい場合は、必ず数式に戻らなければならない。例えば、ある数式的な分析Aから解釈Aが得られたとする。解釈Aを拡大解釈して、解釈Bが妥当であるように思われたとする。このとき次にやるのは解釈Bを分析Bとして数式に差し戻し、数式の世界でその妥当性を検証することだ。解釈Aと比べて解釈Bがどう思われるか気にすることではない。数学の表現を借用した文学をやるのではなく、真剣に数学的な裏付けが欲しいならば、拡大解釈を行った瞬間にまず心配すべきことは再モデリングと再検証が可能かどうかだ。

とはいえ、その作業は東の手にはとても負えないだろう(すぐ下で述べるように、東が数学に秀でているわけではないことは伝わってくる)。よって、数学的な誠実さを保ったままで二層構造をネットワークで説明するという慧眼を活かしきるためには、アイデアを数学の言葉でモデル化して分析する部分は数学者にアウトソーシングするしか道は残っていないように思われる。
言うまでもなくネットワーク理論を専門とする理系の人間は無数におり、彼らならば東がソリューションとして提示しようとした「どのようなつなぎかえがスケールフリー性を減じるか」という論点を定量的に解決できるだろうし、もうされているかもしれない。そうして得られた回答を哲学的イメージないし(非)政治的実践へと結び付けるのは数学者には出来ない仕事のはずだ。

きちんとした数学者の後ろ盾を得て、今度こそ真に数学を味方に付けた観光客の哲学の完成版を読むことを楽しみにしている。

数学的に怪しい記述について

致命的に本論に差し支えるほどではないが、少し引っかかった怪しい記述についてまとめておく。誤りというほどではない微妙な表現レベルのものも含む。

「それ(クラスター係数)は、あるネットワークにおいて、理論的に成立可能なクラスターのうち、実際にどれほどのクラスターが成立しているかを表す指標である」(p164)

微妙な表現。

素直に読むとまるでクラスター係数が「ネットワーク上で成立しているクラスターの数」を「ネットワーク上で成立するクラスターの最大数」で割って定義されるような気もしてしまうが、一般にはクラスター数とクラスター係数は対応しない。
確かにクラスター数が増えるとクラスター係数が大きくなる傾向はあるが、定義からただちに従うわけではないので、「実際にどれほどのクラスターが成立しているかを表す指標になる」くらいの表現に留めておいた方が適切ではある。
ただ、この直後の「数学的には、その任意の頂点について、それと接続するふたつの頂点がたがいに接続している確率の平均として定義される」という記述は厳密に正しい。

「三角形が高い密度で重なることで構成されている」(p164)

微妙な表現。
クラスター係数が大きいことは概ね三角形の個数が多いことに対応するが、「重なる」ことまでは要請しない。例えば全く重なっていない三角形が敷き詰められているようなネットワークでもクラスター係数は高くなる。「三角形が高い密度で集まる」くらいの方が適切ではある。

「それでは、なぜ人間社会は狭いのか。じつはこの特徴は、数学では長いあいだモデル化することができなかった」(p165)

前後の文脈込みでやや微妙な表現。
「小さい平均距離」自体はネットワーク科学で一番最初に検討されたERモデルですら勝手に現れる性質であり、モデル化自体は全く難しくない。あくまでも「大きなクラスター係数」との両立をモデル化するのが大変なだけである。

「乱数を生成してそれがある特定の数よりも大きかったならば~」(p169,★5脚注)

内容自体は正しいが、「確率pで」とだけ言えば済むところを乱数アルゴリズムで説明してしまうところに数学に対する不慣れさを感じる。これは「牛乳250ml」とだけ書けば済むところを「牛乳を計量カップの250mlの線に達するまで注ぎ……」と説明するようなもので、あまり本質的ではない冗長な説明。

「ここで『確率』『つなぎかえ』『近道』といった言葉には、じつはそれぞれ数学的に厳密な定義がある。」(p169)

これ自体は正しいし親切な注釈だが、実は数学的に厳密な定義があることを注意する対象に「確率」まで含んでいるのはどういうニュアンスなのか少し気になる。確率が数学的に厳密な定義を持たないと思っている読者もいると想定しているのだろうか?

「スモールワールドグラフやランダムグラフでは次数分布は必ず偏る」(p170~171)

この段落の記述はほとんど誤っている。恐らく東は以下の3種類の異なる「偏り」を混同している。

  1. それぞれのノードが持つ次数が同一ではないこと
    図3aのグラフは偏っておらず図3bや図3cのグラフが偏っていると述べられるときの偏りの意味。
    この意味で、つまり各ノードが持つ枝数が均等ではないことを指して「次数が一様に分布していない」と表現されているが、数学的な言い回しとしては完全な誤り。
    文脈にもよるが、少なくとも統計的な話題における「分布」は確実に確率分布を指す。「一様な分布」とはむしろあらゆる状態が完全にランダムに生成されるような分布を指してしまう(ちなみにランダムネットワークの次数分布は一様分布ではなくポアソン分布に従うことに注意)。どうしても分布という言葉で表現したければ「それぞれのノードが持つ次数が同一であるような点が特異点になっているクロネッカーデルタ関数型の分布」あたりが妥当。
  2. 確率変数の実現値が変動を含むこと
    「スモールワールドグラフやランダムグラフでは次数分布は必ず偏る」という記述は1の意味では解釈できない。というのも、1の意味においてランダムグラフは「必ず偏る」とまでは言い切れないからだ。ランダムグラフは理論上は一応あらゆるグラフを生成できるので、運が良ければ各ノードが持つ次数が同一であるようなネットワークを生成することも有り得る。
    この記述を真とできるように最大限好意的に解釈するならば、確率変数の実現値に振れ幅があることを指していると考えられる。この意味では、偏っていないグラフとはクロネッカーデルタ関数のように一通りの実現値しかない確率分布によって生成されるようなグラフを指すだろう。それと比べるとスモールワールドグラフやランダムグラフの次数分布は様々な実現値が裾のように広がっているため、その変動を含むという意味で実現値が偏るというのは一応は正しい。
    とはいえ、この意味で分布が偏ると表現することは通常ない。何故ならばこれは(相当に特異な関数を除けば)確率変数全般に対して言えることであり、統計的な話題である時点でほとんど自明だからだ。
  3. 確率分布の形状が偏っていること
    一般的に「スケールフリー・ネットワークが偏っている」と述べる場合はこの意味である。実現値ではなくその背後にある確率分布の形状が他の分布とは著しく異なるというニュアンスにおいて、確かにべき乗分布は偏っている。
    ただ、この意味でスモールワールドグラフやランダムグラフは次数分布が偏っているとは通常は表現されない。むしろスモールワールドグラフやランダムグラフは次数分布が典型的な値を持つという意味で「偏っていない」ために平等なネットワークである一方、スケールフリー・ネットワークの次数分布は典型的な値を持たないために「偏っている」ところにその真価がある(そのことは東が紹介している『新ネットワーク思考』でもバラバシが散々強調していたはずだが)。

恐らく東は3の意味でスケールフリー・ネットワークが偏っていると表現する文章を読んだのだが、確率分布の扱いに習熟していなかったために日常的な用法を混入させてしまい、1や2の意味での記述をしてしまったように思われる。

ワッツたちのモデルでは枝に方向性がなかったが、バラバシたちのモデルでは枝に方向性が生まれることになった。(p173)

ほとんど完全な誤り。
BAモデルにおける「優先的選択」はノードが方向を持つことまでは含意していない。有向ネットワークでも無向ネットワークでも使えるし、どちらかといえば無向ネットワークの方が基礎的である。そもそも成長における優先的選択とは新規参入ノードが結合するノードを選ぶ際の確率の指定でしかなく、そこに方向性を読み取る解釈はドデカい飛躍を含んでいる。
一応、インターネットは有向ネットワークでもあるため(無向ネットワークとして分析されることも多い)、インターネットに限って言えば優先的選択に伴ってノードが方向性を持つという解釈は必ずしも誤りではない。とはいえ、一般的なBAモデルにおいて優先的選択という概念にそのまま方向性の概念を紐づける議論には大きな問題がある。
なお、文学的な表現ないしは哲学的な含意という可能性もあるが、いずれにせよネットワークの議論で「方向性」と言えば確実に有向性を指すため、非常に混乱を招く表現であることには変わりがない。

「ネットワーク理論は、全体の次数分布にのみ関わり、頂点の固有性には関知しない」(p178)

やや微妙な表現。
各頂点に固有の適応度(強さみたいなもの)を割り振ったモデル自体は普通に存在するし研究もされている(ビアンコーニ・バラバシ・モデル)。
とはいえそれは応用における話であって、ネットワーク科学の基本理念としては色々な特徴を持つ対象の固有性を一旦取り去ってノードとして匿名化するのは確かである。また、適応度の議論にしてもそれぞれの固有性というよりは全体の適応度分布で考えるのが標準なので、誤りというほどではない。

「富の偏りは、一部の富めるものがつくるのではなく、ネットワークの参加者ひとりひとりの選択が自然に、しかも偶然に基づいてつくりだしていくのだ。それが、バラバシたちの発見の教えである。」(p178)

微妙な表現。
最後の一文さえなければ許容できるが、「バラバシたちの発見の教え」というのは明らかに言い過ぎ(東の拡大解釈に過ぎない記述で数学者の名前を出して権威付けを図っているような箇所は他にもいくつか散見される)。
というのも、BAモデルにおいて偶然性が作用するのは、完全にフラットな初期配置から始めた場合に最初にたまたま誰が抜け出すのが分からないという局面に限られるからだ。それは初期配置依存であり、厳密に言えばBAモデルは初期配置までは指定していない。
最初からある程度偏りのある状況からスタートすればむしろほとんど偶然の余地なく先行者利益で古参が膨らんでいく過程になるし、偶然性がBAモデルの本質であるかのような解釈には疑問が残る。

「二一世紀のネットワーク理論では、むしろ木と格子が対置されている。」(p180)

微妙な表現。
確かに増田直紀の書籍では一般向けにわかりやすくそのような対置がなされている節はあるが、「二一世紀のネットワーク理論では」という前置きは言い過ぎ。
どちらも極端な事例としてたまに引っ張り出されてくるメルクマールではあるが、現実のネットワークからは程遠いため、そもそもそこまで重要な理論対象ではない(理念的なモデルの一つくらい)。また、必ずしも性質的に対極にあるというわけでもなく、例えば次数分布に関してはむしろこの二つは似通ったモデルである。

21/12/14 複雑ネットワーク科学入門書籍の感想

複雑ネットワーク科学

ここ2週間でネットワーク科学をザッと勉強したのでまとめておく。勉強する羽目になった経緯と結果は後日サイゼミの記事に書く。

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概ね難易度順。ネットワーク科学はかなり新しい分野でここ20年くらいの発展が著しいので出版年も書いておいた(訳書の場合は原著も)。理論を解説する記事ではないので気になった人は適当なやつを自分で読んでください。

①増田直紀、今野紀雄『「複雑ネットワーク」とは何か』

2006年出版、誰でも簡単に読めるレベルの入門書。

ブルーバックスらしい実に平易な書き口で初手から読むのには圧倒的にオススメできる。学術的な経緯よりも身の周りの事例ベースで紹介されているが、理論的に重要なネットワークの性質がそれぞれ事例とどのように対応しているかという核心がきっちり体系的にまとめられているのが嬉しいところ。
もともとネットワーク科学はいまやインターネットのみならず経営学神経科学に至るまで極めて広範な分野にまたがる学際的な理論だが、そうは言っても学術的な文脈で提出される限りは結局敷居が高く感じるものだ。その点、この本がネットワーク科学の入口として選ぶ宴会ゲームやネズミ講は実に馴染み深く真に裾の広さを教えてくれる。

補足400:ただこの本に限ったことでもないが、数式が出てこないレベルのネットワーク科学の啓蒙書では数学的な厳密さが犠牲にされがちな点には注意。正確な定義については勝手に推測せずに数学書を読んだ方が安全だ。これは著者が悪いわけではない。ネットワークという理論的な対象自体がそこそこ複雑なために、厳密な定義は期待値などを含むそこそこ面倒な数式になる傾向があり、そのニュアンスを文章で漏らさず記述するのは難しいのだ。例えばこの本でもクラスター係数の説明は特にかなり微妙である。「ネットワーク全体の三角形を数えて、最も多いときを1、最も少ないときを0とするように調整して、クラスター係数を定義する」という記述を素直に読むと、まるでネットワークにおける三角形の数によってクラスター係数が定義されるように読めるが、一般には三角形の数とクラスター係数は対応しない(三角形の数が一致していてもクラスター係数が一致しないことは有り得る)。

 

②増田直紀『私たちはどうつながっているのか』

2007年出版、こちらも誰でも簡単に読めるレベル。

前年に出た①と同じ著者が出版社を変えて焼き直した本であり、内容のほとんどが重複していると言っても過言ではない。実質的な内容の差異としてこちらにしか書いてない話は中心性に関する議論くらいしかないはずだ。強いて言えばこちらの方が若干理論寄りなのと、タイトル通りネットワークの対象を主に人間関係に限定していることが挙げられる。
どちらかと言えば①の方がお勧めではあるが、誤差なので両方読めばよい。①を読んだあとなら20分もあれば読める。

 

③マーク・ブキャナン『歴史は「べき乗則」で動く』

日本語訳は2009年、原著は2000年。概ね誰でも読める難易度のキャッチーな一般書だが、物理学について多少の教養があった方が理解はしやすい。

補足401:とはいえ厳密に物理の議論をしているわけでは全くなく、物理系とそれ以外のアナロジーを展開するだけなので、物理学の知識があったところで結局類推以上には何を言っているのかはよくわからないという説もある。

一見すると挑戦的なタイトルですらまだ自重したものであり、歴史や絶滅や戦争のみならず自然災害や金融危機に至るまで全てネットワーク科学におけるべき乗則という普遍法則で説明できるとする大風呂敷を広げる本。一応著者は物理学の博士号を取得しているが、職業学者ではなくサイエンスライターとしての本であることは頭の片隅に置いておいた方がいい。つまりこれはアカデミックな主張ではなく大衆向けの思考実験である。

歴史と絶滅と戦争と自然災害と金融危機が同根であることを主張する理路をざっくりまとめると以下のような感じになっている。

①歴史と絶滅と戦争と自然災害と金融危機はいずれも予測不可能な現象である
②この予測不可能性は現象の規模がべき乗則に従うことから示せる(べき乗則に従う事象は典型的な値を持たないため予測不能
べき乗則は物理的にはあらゆるスケールで同等の物理法則が成立する臨界状態において観測される
④臨界状態は特定の性質を持つ相互作用を含む系でさえあれば具体的な対象によらず普遍的なクラスとして発生することが知られている
⑤歴史と絶滅と戦争と自然災害と金融危機も特定の性質を持つ相互作用を含む系で発生する現象であるから、臨界状態においてべき乗則に従って生起した結果、予測不可能であるものと考えられる

あまりにもスケールの違う分野を横断しすぎているために何を示せばこの論理が正当であると立証できるのかはよくわからないが、話としてはかなり面白い。脳内で実証主義者が喚く声に対しては一旦耳を塞ぐことにして、彼と反目しているところの文学的な感性にとってはそれなりに有益なアイデアである。

というのも、この本の主張するところによれば、いわゆる予測不可能な事象に対しては「ほとんど無限に近い値を動く一様分布だから=全くランダムに生起しているから」という見方だけではなく、「べき乗則に従う裾の長い分布だから=典型的な値を持たないようなやり方で生起しているから」という見方が可能であるし、実際それは真実であるように思われるからだ。べき乗則においては規模の小さい事象の方が起こりやすいという明確な傾向性があるにも関わらず、それは依然として予測不可能なのである(これ以上の詳説は本の引き写しになってしまうので気になったら自分で読んで頂きたい)。
恐らく、ランダムに生起する事象群やべき乗則に従う事象群は、予測不可能な事象群の部分集合である。言い換えれば、予想不可能な事象クラスなるものがまず存在し、その中にいくつか性質の異なる下位クラスが含まれているように思われる(その中には決定論的な世界観において「外乱に対して出力があまりにも敏感に反応するから」という俗な意味でのいわゆるカオスも含まれるだろう)。この知見はいつか何かについて本当に決定的な気付きを俺にもたらすような予感があるが、今はまだそのときではないようだ。

 

④ダンカン・ワッツ『スモールワールド・ネットワーク』

2016年出版だがこれは増補改訂新版。旧版は2004年、原著は2003年。一応は一般向けで数式こそ出てこないものの、質・量共に重めでやや難解なので初手から入るのはお勧めしない。

スモールワールド・ネットワークを発明した研究者本人が著者ながら、文章が抜群に上手いのでかなり面白い本。当事者の視点で理論的な発展を概観しつつ、半分はエッセーの入った自著伝としても楽しめる。例えば次数分布が正規分布に従うかどうかを確認しなかったことを後悔するこの一文はかなり熱い。

われわれは重大な間違いを一つおかしていた。確認をしなかったのだ! (略)ものの半時間もあれば確認できたのに、われわれは確認しなかったのである。

一般的な史実としては「スモールワールド・ネットワークの発見者はワッツ、スケールフリー・ネットワークの発見者はバラバシ」ということになっているが、ワッツ自身が語るところによれば、半時間の確認を怠っていなければスケールフリー・ネットワークの発見者もワッツだったのである。
他にも、現在はWSモデルとして知られているスモールワールド・ネットワークの最も典型的なモデルは本人的には「ベータモデル」であって、前身として「アルファモデル」があった話なども面白い。ただ教科書を読むよりも臨場感のあるエピソード込みで理論の発展を追うことができる。

さて、スモールワールド・ネットワークにせよスケールフリー・ネットワークにせよ、ワッツは一般に巨大な系における探索問題に対して社会的な文脈を導入しての解決を試みたことで数学から社会学へと転向したようだ。ただ、前半の数理モデル形成では彼自身の活き活きとした足跡が語られるのに対して、後半で社会的な話題になった途端に筆の勢いが落ちて散発的な一般論に終始しているようにも思われる。

補足402:ちなみに後のバラバシの説明(⑦)を読む限りでは、スケールフリー・ネットワークに関しては局所的な情報からでも生成可能であり、必ずしもネットワーク全体を探索する必要はないという結論が出ているように思われる。

この違和感については訳者あとがきで手厳しく指摘されていた。訳者曰く「社会学者としての彼は、数学者・物理学者としての彼よりも凡庸に思える」「各分野の教科書レベルの理解と時事問題の列挙というスタイルは、やや辟易してしまう」とのことである。
訳者の辻氏はワッツに対してやたら厳しく、謎の戦闘体勢はこの本のもう一つの見どころになっている。あとがきだけではなく訳注でも明らかに注意を超えた警告が入っており、ワッツが提出したソリューションに対して「次節で述べられる所属関係ネットワークという概念は至極当たり前」「訳者にとっては、(略)非常に大仰で、それ自体が滑稽に思える」とまでこき下ろしているのがかなり笑える。
極めつけに、あとがきによると「二度三度と彼(ワッツ)に日本語版への序文を書いてもらうように依頼したが(略)結局書いてもらえなかった」らしい。険悪で草。

 

アルバート・ラズロ・バラバシ『新ネットワーク思考』

2002年出版、原著も2002年。難易度は④と同じか若干簡単なくらい。

こちらもスケールフリー・ネットワークの発明者で知られるバラバシ本人の著。ワッツの④に比べると研究者が書いたにしてはところどころ他人事めいていて良くも悪くもこなれている印象を受け、バラバシが学生時代にサイエンスライターをやっていた経歴があるというのにも納得がいく。内容も一般的な解釈から逸脱しないスタンダードなものであり、パイオニアらしい古典の類に入ってくる。

ワッツが④で日本企業組織論などに脱線して中途半端な社会学を訳者に突っ込まれていたのに比べると、こちらは具体的な題材としては当時の変革著しいインターネットに深く言及している。
2002年の本であるから、WWWに関する記述は20年前の認識を伝える時事的なものとしても面白く読める。例えば、当時はウェブリンクを辿る検索エンジンクローラーがウェブページの1/3程度しかカバーできていないことが失望と共に語られているが、今の感覚からすると1/3カバーしているというのは驚異的な数値であるように思われる。それが事実かどうかはともかくとして、通常の検索手段で到達できる表層ウェブはネット全体の1%にも満たないということは一度は聞いたことがあるだろう。バラバシがWWWの全体をカバーすることは不可能だと嘆きを込めて語るとき、それが非自明であるということ自体が一つの主張ですらある。
また、20年前の時点で既にネットが分断を招くことが懸念されており、そのまま「断片化するウェブ」という章が設けられているのも興味深い。もっとも、彼が言うネットの不平等性とはいわゆるパレートの法則とほぼ等価であり、必ずしも現代的なインターネット特有のポピュリズムを原因としているわけではない。とはいえ、バラバシが当時どのような理由で「ウェブには民主主義など微塵もない」とまで断言したのかは一読の価値があり、また、ネットにおける民主主義に対して悲観的な論客としてキャス・サステインを引用するあたり、ネットワーク科学はその黎明期からインターネットの連帯に対しては冷ややかな目線を浴びせていたことが伺える。

そして911直後にテロ組織の恐ろしさについてネットワーク科学者の見地から論じる記述には光るものがある。ちなみに911については④でワッツは復興で活躍した人々の組織的繋がりをネットワークと捉えていたのに対し、バラバシはテロリストの繋がりをネットワークと捉えて論じるという対比が面白い。
テロ組織を「クモのいないクモの巣」と表現するバラバシの指摘は、東浩紀が15年後に『観光客の哲学』で「ふまじめ」な敵として位置付ける現代テロリズムの脅威を完全に先取りしていると言っても過言ではない。バラバシはイデオロギーを欠いて自然発生するテロリズムについてネットワークの特性に照らしてその頑健性を危惧しており、リーダーを討伐するだけでは全く有効ではないこと、社会的経済的政治的アプローチで自己組織化を止めなければテロリストとの戦争は終わらないことを数理的立場から正しく予見しているのである(ビンラディンの殺害は2011年である)。

 

⑥増田直紀、今野紀雄『複雑ネットワーク:基礎から応用まで』

2010年出版。①②を著したペアが書いた本だが、こちらは数学書数学書としては平易な方だが、最低でも理系大学前期レベルの教養がなければ歯が立たないので注意。

内容はかなり基礎的であり、啓蒙書でざっくり述べられているようなネットワーク科学における諸定義や性質やモデルを数式できちんと説明している以上のものではない。記述はそれなりに親切であり、やや技巧的な証明については飛ばしてもいいマークがついているのが嬉しいところ。

数学的な厳密さにはそれほど関心がなかったとしても、二章くらいまでは目を通しておいた方が良いかもしれない。補足400でも言及したように、ネットワークにおける諸特徴量の定義や扱いはそれなりに厄介であることが理解できるからだ。というのも、理論対象であるところのネットワークは静的で決定論的なものではなく動的で統計的なものであるため、油断するとすぐに微分や期待値が登場してきてしまうのだ。また、次数相関など、直観的なイメージは何となく浮かぶ割には厳密な定義がしんどい特徴量もあり、数式的な定義にも一度は目を通しておいて損はしない。

 

⑦バラバシ・アルバート・ラズロ『ネットワーク科学』

デカくてバカ高い(30センチ、そして10000円)。個人で所有するというよりは研究室の棚に一冊置いてあるタイプの本。⑥と同様、数学書の中では平易な方だが、数学の基礎が無ければ通読は難しい。

大学専門課程におけるスタンダード教科書として使う想定で大勢の人々が頑張って作った教育的な書籍であり、装丁にも気合が入っていてフルカラーで図やグラフがふんだんに使われている。
この手の教科書にしてはかなり実例志向であり、ネットワークにおける定理や性質を紹介するたびにそれが現実においてどのような現象に対応していてこれがわかると何が嬉しいのかみたいなことをきちんと図や写真も付けて説明してくれるのがありがたいところ。ネットワーク科学自体が様々な分野にまたがる学際的な性質を持っていることもあって、飽きずに読み進めることができる。
取り上げているトピックも⑥よりも若干広く、次数相関や頑健性についてはこちらでのみ深く取り上げられている。一応⑥でのみ論じられている話題としては同期現象や進化ゲームがあるが、ネットワークの性質に関する議論としてこちらの方がより基礎的であるように思われる。

高いだけあって非の打ちどころがないというか、入手できるならば数理レベルでの入門書としては概ね⑥の上位互換であり、ベストな選択肢と言える。

21/12/4 2021年買ってよかったもの

my new gears...

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★★★★★:これ無しではいられない
★★★★☆:常にあるとよい
★★★☆☆:あると便利
★★☆☆☆:なくてもいいがあってもいい
★☆☆☆☆:不要品

書見台:★★★★★

本をこの上に置いてページを開いた状態で固定できる台。両手が塞がったまま読むのに使う。
一番よく使うのは食事中。これでページを抑えておけばナイフとフォークでステーキを食いながらでも本が読める。今までは食事中に本を読みたいときは片手で食えるサンドイッチしか食べられなかったり、片手で開きやすいサイズか綴じ方の本しか読めなかったりという煩わしい制約があったが、これ一台でその全てから解放された。他にも本の内容を見ながらレジュメを作るときなどにも重宝する。技術書を読みながらコーディングしたいエンジニアの人とかにもお勧めできる。

欠点はわりと強く紙を抑えるので、しばらく置いておくだけで本に開き目が付いてしまうこと。俺は基本図書館で借りた本しか読まないので構わないが、高額で大事にしたい本を読むのには向かない。
また、紙書籍にこだわるなら書見台は必須というだけで、いまどき電子書籍をモニターに映す方が手っ取り早いという説もある。両手が塞がっていても足元に踏みEnterキーを置くとかやりようはいくらでもありそう。

 

肩掛け用スマホケース:★★★★☆

今使っているスマホケース。女性向けに「肩掛け用スマホケース」という商品ジャンルが存在し、これが定期券等のカード類を安全に持ち歩くのに重宝する(別に肩にはかけないので肩掛け紐は取り外している)。

大抵のスマホケースについているカードポケットは単にカードを縦に差し込むだけだ。使っているうちにポケットが緩くなってきて、スマホを振ったり逆さにしたりしたときにカードがすっぽ抜ける事故が発生する。俺はそれで一度Suicaを紛失した。

補足399:ただし実はSuicaはたった2000円でチャージ金額込みで再発行できる。もしスマホケースに入れるカードがSuicaだけであれば、2000円を払う覚悟だけ固めておけば別に失くしても構わないという考え方もある。

しかし肩掛け用ケースは肩にかけて持ち歩くことを想定しているが故に、ケースに入れたカード類が絶対に飛び出さないように工夫されている。カードが折り畳まれたポケットの中に入り、かつ、磁石ではなくかなり硬いボタンで止まっており、かつ、カードポケットが内側を向いているためにどれだけ振り回しても物理的にカードが落ちることはない。
反面、あまりにも収納が厳重なので頻繁に出し入れするカードを持ち歩くのには向かない。取り出さずに非接触で使うカードや、いざというしか使わないカードを入れるのが望ましい。

 

ゲオ 完全ワイヤレスANCイヤホン:★★★★☆

ゲオで見かけて安かったので購入。
ワイヤレスイヤホンを使うのは初めてだったが、コードの紐から解放されるのは予想以上に良かった。有線イヤホンを使っているときはそんなに不便に感じた記憶はないが、一度ワイヤレスイヤホンを使うと有線イヤホンを使っていたのがバカみたいに思えてくるタイプのアイテム。特に今はマスク社会なのでマスクの紐と絡まったりしないのも嬉しい。
初体験のANC機能とかいうやつも確かに周囲の雑音を劇的に軽減してくれていた。しばらくANCを使ってからイヤホンを外すと周りがうるさすぎて驚く。

しかしAmazon評価ではゴミ扱いであり、ワイヤレスANCイヤホン界では最底辺品質らしい。俺はワイヤレスイヤホンにもANCイヤホンにもこれで初めて触れたので、比較対象がないために満足しているだけというのが真相のようだ。
確かに、三時間くらいで充電が切れるので結局保険として有線イヤホンも持ち歩かないといけなかったり、ANC機能を使っている間は周囲の雑音が聞こえなくなる代わりに「サーッ」という小さい砂嵐のような音が鳴り続けていたりと妙に不便な気配はあった。とはいえ俺がそれらの欠点を「そういうものなのだろう」で済ませていたことからもわかるように、目が肥えることと満足度が下がることは裏表である。よってしばらくはあえて上位製品を買わずにこの低品質イヤホンで粘ろうと思う。

 

モバイルバッテリーAC充電器一体型:★★★★☆

よくあるモバイルバッテリーかと思いきや、本体にコンセントが生えていて直接壁にぶっさして充電器としても使えるというのが非常に重要。

もともと俺は持ち歩く用のモバイルバッテリーを持ってはいたのだが、「使うたびに家出充電して充電が溜まったら鞄に戻す」という運用は難しかった。いざ必要になったとき充電し直すのを忘れていたり、充電したあとに鞄に戻すのを忘れていたりして結局使い物にならないのである。

だが、「モバイルバッテリーが難しすぎて使えない」という悩みはこの充電器一体型タイプのモバイルバッテリーを二台買うことで完全に解決する(二台をそれぞれAとBとする)。
まずAは充電しておいてモバイルバッテリーとして持ち歩き、Bは家のコンセントに差して普通に自宅用充電器として使う。出先でスマホの充電が切れてAのバッテリーを使って家に帰ってきたとき、コンセントからBを抜いて鞄に放り込み、代わりにAをコンセントに差して充電器として入れ替える。これで鞄にはフルチャージされたモバイルバッテリーとしてのBが入り、Aは充電器として使いつつチャージされる。次の日にBを使い終わったらまたAとBを入れ替えればよい。充電器とモバイルバッテリーを切り替えて使うことで充電の管理から解放されるわけだ。

また、「本体を直接コンセントにブッ差せる」というのも大きい。巷のシャバいモバイルバッテリーは再充電時にもケーブルやらコンセントUSB変換素子やらの併用が前提になっており、いざ再充電しようとしたら周辺機器を繋ぐのが面倒だったり持っていなかったりして結局使えない事態が頻発する。このバッテリーならば直でいけるのでそういう煩わしさがない。

あと顔が描いてあるのも可愛くて高得点。俺は勝手にペンで描き足してジバニャンモデルにしているが、ピカチュウにしてもケロちゃんにしてもよい。

 

長財布:★★★★☆

大容量の財布が欲しかったので購入。

今まではずっと二つ折りの財布を使ってきていたのだが、経年劣化でポケットがガバガバになってしまいカードが飛び出しまくる事故が多発していた。また、俺はレシートを全て保存しているため、受け取った大量のレシートが財布に入りきらずにパンパンになるのも悩みの種だった。

だがファスナー付きの長財布なら絶対にカードが飛び出さないしレシートを入れてもゆったり使えて全ての問題が解決した。でかくてポケットに入らないという不便さはあるものの、でかいのは織り込み済みで購入しているので不満はない。

機能的にはこれと同じなのでどっちにするか結構悩んだが、さすがにキツくて日和ってしまった。心が強くなったらSimon Creativeバージョンを使いたい。

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HitBOX:★★★★☆

GGSTを始めるときに購入。今から格ゲー始めるならhitBOX以外有り得ないという有識者の意見を信じた。格ゲーをする可能性がある限りは必要なので要るとか要らないとかいう感じでもない、インフラ枠。

もともとレバーのアケコン(HORIのRAP2)を持っていたが、そちらはPS2でしか使えない時代の遺物なので入れ替えで売却。もともとレバーで大してやり込んでいたわけでもないためhitBOXでも特に不便なく操作できている。

 

Fire HD 10:★★★★☆

電子漫画読む用に購入。
例のDMM70%オフセールのときに漫画を100冊購入したのだが、スマホで読むには画面が小さく、PCで読むには体勢が悪く、Kindleで読むにはAmazon以外の購入元に対応しておらず、どれも一長一短という感じだった。FireHD10であれば大画面で寝ころびながらDMMアプリから読める。15000円程度とタブレットにしてはかなり安価であり、スペックは値段相応らしいが、漫画を読むだけなら表示や操作性に不便は感じない。

個人的には8インチで漫画を読むのはかなりキツイので10インチを強くお勧めする。スマホでの閲覧を想定してコマ割りを行うWeb漫画とは異なり、紙媒体で出ている漫画は見開き前提でのコマ割りも多い。Web漫画以外も読みたいなら横向きの見開きで使用できることはマストだと思う。

これを機に漫画の新刊購入は電子とレンタルにシフトして家から物理漫画を一掃したいところだ。

 

バイブレーションタイマー:★★★★☆

音ではなく振動タイプのタイマー、無音で時間を測れる。会社とか図書館で普通のタイマーを鳴らすのはうるさいので購入。俺は日常的にタイマーを使用する方なのでどこでも使えるのは重宝する。

タイマーが一台あると脳にメモリを外付けで一つ増やせる。「少し後に思い出したいが、それまでは覚えておく必要はない」という用事は割とよくある。例えば20分後にMTGがあるとか、5分後にコンパイルが終わるとか、40分後に何かがWeb上で更新されるとか、15分後には出かけないといけないとか。そういうときはすぐに時間をタイマーに入力してスタートを押し、その用事のことは完全に忘れる。タイマーが作動したときに「いま何らかの用事がある」というメッセージが過去の自分から伝わってくるので、そのとき改めて何を思い出せばいいのかを思い出せばよい。
つまりタイマーに想起を託すことによって一時的に脳からタスクを一つ追放できるため、その分だけ頭が軽くなって他の考え事にパワーを回しやすくなる。マルチタスクの必需品である。

 

アイマスク:★★★☆☆

なんか寝れなかったとき買った。無いよりはある方がいいが、一瞬で寝落ちできるみたいな劇的な改善があるわけではないので気持ち程度のグッズではある。

これがあると目を開けていても目を開けていない扱いになるのが気持ち的に楽。マジで眠くないときは瞼を閉じるのにも労力を感じるのだが、アイマスクをしていれば閉じていても開いていても闇なのでそこが気にならなくなる。

 

ジェットストリーム 4&1 0.38:★★★☆☆

水性1色ボールペンを長らく愛用してきたが、大雨に降られたときに「水性ペンは滲む」という欠点に気付いたのと、青黒赤を3本それぞれ持ち歩くのが普通に面倒なことに気付いたので買い替えた。

昔は4色ボールペンと言うとデブデブしてダサいデザインのやつしかなかったが、そこそこ細くてスマートな製品も出るようになっているのは時代を感じる。とはいえ水性ペンと比べて油性ペンの書き味が悪くて掠れやすいのは相変わらず。改善への期待を込めて星3つとさせて頂きます。

 

N95マスク:★★★☆☆

コロナ禍が全盛を迎えていた今年8月に購入。感染予防アイテムというよりは精神防衛アイテムという方が近い。

当時は頭がバグって世界認識が壊れてリスク見積もり能力が破綻し、家から一歩でも出ると感染するという妄想に囚われていた。パニック発作で酸欠になるくらい精神的に追い詰められており、ひと月間は玄関を決して跨がなかったのだが、唯一の例外がワクチン接種である。病院までは誰とも会わないように車で行くとして、問題は街中から人々が集まってくる病院内だ。無防備で行くと感染しなかろうが精神の方が壊れる(いよいよ何らかの病名が付く精神疾患を発症する)ことが目に見えていたので最強のマスクを装備することで防衛した。
俺は幸いにも今までにも何度か精神を壊しているおかげで異常思考の展開パターンと精神の守り方を把握できたが、そうでない場合は普通に陰謀論者になっていた可能性が高い。

医療関係者の友人から「それ感染病棟の人の装備だね」というお墨付きを頂いたこともあり、無事精神が壊れることなく8月を乗り切ることができた(感染もしなかった)。ちなみに当然ながら感染対策効果は目に見えるものではないので、精神を守る以上の効果があったかどうかは体感としては特にわからない。

使用感としては感染病棟で使われている(らしい)だけあって防御の硬さは通常のマスクとは比較にならない。隙間を密閉するので呼吸しにくいし鼻も痛く、一度これを装備して自転車を漕いで街に出たら呼吸できなさすぎて死にかけた。普段使いできるものではないが、マジでリスクの高い場所に行くときやマジで頭がイカれてきたときの切り札として数枚持っておいても損はしない。

 

BASE BREAD:★★★☆☆

本来はダイエットとか時短に使うやつらしいが、これもコロナから精神を守る用途で購入。
8月の終盤には(頭の)症状が更に悪化し家だけではなく部屋から出るとコロナに感染するという妄想が出現したため、なるべく部屋から出ずに食事を済ませるために完全食を一週間分買い込んだ(水も一ケース購入した)。部屋から出られないセルフ軟禁状態だったので一週間本当にこれと水しか口にできなかった。

味はプレーンだけが有り得ないくらい不味く、酸っぱい上に変なアルコール臭がするが、他はなかなかうまい。やたらずっしりしていて噛み応えがあることも含め食事としての満足度はそれなりに高い。
完全食は保存食ではないため賞味期限は短めで常食しない限りは常備することはできないが、一度くらいは一週間これだけ食う暮らしをしてBASE BREAD生活という選択肢を把握しておくことはお勧めできる。食事準備が面倒すぎるときやダイエットしたいときや部屋から出られない妄想に囚われたときなど、いざというときにとりあえずBASE BREADを1週間分頼めばなんとかなるということを身体で知っておく価値は高い。

 

感染予防アイグラス:★★☆☆☆

N95マスクと同時にコロナから精神を守るために購入。

マスクと比べて感染防止効果があるのかどうかよくわからず、精神防衛効果も微妙なところ。普通に隙間だらけでウィルスを素通ししてそうな気がするし、短期的に目を守りたいだけなら物理的に密閉できる水泳ゴーグルを付けた方が確実な気がする。

 

養命酒:★★☆☆☆

Twitterで寝れるとか疲れが取れるとかやたら推されていたので買ったが、全然効かなかったのでたぶん全部ステマ。そもそもが色々ボロボロになってる人に効くやつであって毎日筋トレしてる人が使っても大した意味はないらしい。
味は薬品味がすごいが、もともとアルコール自体がかなり薬品味なので巷で言われているほど不味くはない。美味くはないが飲めないほど不味くもなく、なんか気が向いたとき適当に飲むだけの酒になっている。

 

Echo Show 5:★★☆☆☆

いつかのセールで安かったので目的もなく買ってみたが使い方がわからない。電子機器を使いたい用事があれば、アレクサに話しかけるよりPCかスマホを触る方が確実で早い。
画面が光って時刻を表示してくれるのは便利なので、今のところ高級デジタル時計として部屋の隅で職務を果たしている。

 

ジェットストリームエッジ 0.28:★☆☆☆☆

極細ボールペン。俺のノートの紙との相性が悪いのかまともに書けず使い物にならなかった。ガチの不要品として机で死蔵されている。そういうこともある。

 

リストラップ:★☆☆☆☆

一度デッドリフトで手首を痛めて一ヶ月静養する羽目になったので手首を固定するサポーターを購入したが、正直別に要らなかった。二回くらいしか使ってない。
手首をがっちり固定するほど強く巻くと血管が圧迫されてトレーニングに差し支えるのが本末転倒だし、これで手首を守るよりはそもそも手首を極端に曲げるような重量を避けて無理のない範囲で動作するように心がけるべきである。

21/11/24 お題箱回91:機械学習というワードのニュアンス、少子化とサステナビリティ、コンテンツの性感帯etc

お題箱回91

354.機械学習の記事を見て、面白そうなので手を出してみたいのですが、そういう順序で進んでいったらいいでしょうか?
インターネットがどういう仕組みで動いているか理解していないレベルなので、ここら辺からだとは思うんですが、、、https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%83%9F%E5%BC%8F%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88IT%E5%A1%BE-%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%8A%80%E8%A1%93%E8%80%85-%E4%BB%A4%E5%92%8C03%E5%B9%B4-%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%98/dp/4297117819/ref=zg_bs_502776_1?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=TSDYGCP9GATEDGYJQ9DV

機械学習の記事はこのあたりでしょうか。ありがとうございます。

saize-lw.hatenablog.com

saize-lw.hatenablog.com

機械学習はかなり面白い上に有益なのでオススメです。最近Twitterでよく見る魔法みたいな謎技術の背後には大抵は機械学習があると言っても過言ではありません。特に最近ではイラスト自動描画、イラスト3D化、文章自動筆記といったオタクの創作に関わるシーンでも存在感を増し続けており、サイゼミでも詳しくない人への普及を試みる意図で機械学習回が開催されたのでした。

リンクを貼って頂いたのは基本情報技術者の資格教本ですね。僕はその資格を持っていますが、機械学習の理解には不要だと思います。「手を出す」というのが「実装する」という意味ならばいずれ必要にはなりますが、「とりあえず知りたい」くらいの意味であればパソコンやインターネットがどう動いているかは知らなくても構いません。

たぶん「機械学習」という名前が致命的に良くなくて、そこで混乱を招いている気がします。「機械学習とはおそらく機械の学習のことだからまずは機械について勉強しよう」というのは全く自然な流れですが、「機械学習」という単語で力点があるのは「学習」の方で、「機械」は修飾子に過ぎません。そしてそれもコンピュータのような具体的な機械を指しているというよりは、「機械的」という形容として解釈した方が正しいニュアンスに近いです。それはどういうことかという話をします。

まず、「もともと学習は人間にしかできないと考えられてきた」という大前提があります(ここで言う「学習」とは「外から情報を取り込んで自らをアップデートすること」くらいの意味です)。
人間は本を読んだり人から話を聞いたりすることで、前は解けなかった問題が解けるようになったり秋田犬とハスキー犬を見分けられるようになったりする能力があります。その一方、機械は基本的には渡されたタスクを言われた通りにこなすことしかできません。例えば、昨日は足し算しかできなかった機械が今日は掛け算をできるようになっていたとしても、「機械が自ら掛け算の式を見て掛け算という概念を学んだのだろう」とは普通は考えません。「持ち主が計算ソフトをアップデートしたのだろう」と考えるのが自然です。機械には自己アップデートなんて出来ないので人間様が手取り足取りアップデートしてあげるものであるというのが常識的な感性であり、今でも大抵の人はそう思っています。

しかし、「実はこういう手順で計算させれば機械にも学習みたいなことができるっぽいぞ!」ということが発覚し、その計算の手順をまとめたものが「機械学習」です。つまり「決まったことしかできない機械でも学習ができる」、すなわち「人間が介入しなくても機械的な手順で学習ができる」という点が最も重要なニュアンスであって、メモリがどうとかレジスタがどうとかいう具体的な機械のテクノロジーは少なくとも原理的にはあまり関係がありません。
よって、気合さえあれば機械学習は人間でもできるというのは端的に事実です。何故ならば「こういう手順で機械的に作業すれば学習っぽいことができる」という知見が機械学習ですから、その手順に従って紙とペンの上で手を動かせばそれだけで機械学習と全く同じ営みが可能だからです。

ただし機械の勉強は不要な代わりに数学の勉強は必要です。
というのは、人類史において定量的な作業を表記する手段としては(自然言語ではなく)数式が選択されてきたため、機械的な学習の手順は全て数式で記述されるからです。具体的にどういう数学が必要であるかは以下の本が偏執的なまでに正確にまとめているので参考になります。ただ、これはかなりちゃんとした本なので初手からやるにはハードかもしれません。

いずれにせよ、機械の勉強よりは数学の勉強をするという意識で始めるのが無難だと思います。極端な話、理系ではない人が機械学習を本気でやるのであれば、最初に触れるべきが高校数学の検定済み教科書であることは間違いありません。

 

355.好景気になった程度で個人主義自由主義が生まれた時から身体に染み付いている現代人が本当に少子化を解消(具体的には出生率2.0超えを果たす)できるのか疑問です。

僕も同感です。子作りという選択肢を選びたくても選べないのではなく、そもそも子作りという選択肢自体を魅力的だと考えていない層をどう誘導するのかという議論があまり行われていない印象はあります。

補足397:僕は「国家は自らを維持しなければならない」とまでは言いませんが、「国家は自らの維持を目的の一つにしても構わない」と考える方です。よって、(国民がそんなに望んでいないとしても)国家が子作りを誘導して自らの維持に必要な国民の質と量を確保しようとすること自体への批判はあまりありません。

ただ、「人々が子作りという選択肢をどのくらい魅力的だと思っているのか」というような事柄を推測する僕のセンスはボロボロですから、僕や投稿者が勝手にそう思っているだけで、実際には「潜在的に子供を作りたい層」はたくさんいて、彼らはお金が手に入ればポコポコ子供を生み始めるのではないかという疑念は拭い難くあります。そもそも現在の特殊合計出生率の値1.35も僕の直観とは全く合致していません。僕の感覚だと0.85くらいです。

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これに関連して最近非常に面白いと思ったのが、少子化が世界のサステナビリティを破壊するのではないかという話です。

ta-nishi.hatenablog.com

今まで当たり前のように言われてきていた「我々の世界はなるべく良い状態で未来に温存されるべきである」という大前提、つまり「百年後の地球を守るために環境破壊をやめよう」というような道徳は、実は「子持ち」という特殊な属性を持つ人々だけが共有できるローカルなイデオロギーであって、そうではない人々は全く参入する動機がないということです。
「自分の死後の世界が悪くなっても全く構わない」と考える人が増えた場合、そういう人が寿命を迎えるたびに世界は少しずつ悪くなっていきます。ここに「悪い世界では子供を生むべきではない」という判断が加わると、子供を生まない→世界のサステナビリティが志向されない→世界が悪くなる→子供を生まない→世界のサステナビリティが志向されない……という発散型のフィードバックループが成立します。

よって少子化は貧困とかリベラルな価値観の普及みたいな他の要因から発生する結果ではなく、結果と同時に原因にもなれる再帰的な因子であるとするならば、我々がたまたま足を踏み外してしまったこの時点が終わりの始まりであると思うのはかなり夢がありますね。

 

356.少年漫画と少女漫画の非対称性

「少年漫画」と「少女漫画」で対称なのは名前と遥か昔に想定されていた読者層くらいで、内容的には特に対称でもないという印象はあります。「対称ではない」というのは「同類である」という意味でもなくて、アクション漫画と推理漫画が別ジャンルであるのと同じくらい独立してそれぞれの文法を持っているという意味です。
とはいえ僕は少女漫画にはあまり詳しくないので、誰かもっと詳しい人が史実を絡めて語っていそうな感じはします。

 

357.LWさんは作品の文脈やその内部の部品の成り立ちといった形式で作品を評価していますよね。アニメーションを見ているようで見ていないというか。それを除いた、多くのオタク達が行っているようなビジュアルやストーリーそのものを鑑賞することはないのでしょうか?

仰る通りです。
基本的にお話ベースで作品を評価するので、小説でもアニメでも映画でもコメントに大差がなく、そういう意味でアニメーションを見ているようで見ていないというのは僕もそうだなと思います。それ故にいわゆるアニメーションオタク(監督や作画、制作技術等に詳しい人)とは関心が合致していません。
また、ここで言われている「ストーリーそのもの」というのは、たぶん(僕がよく評価している整合性とか新規性という文脈ではなく)新しくなくても整合していなくてもいいからキャラクターたちが確かに存在するはずの「そういうものとしてのお話」という意味ですよね。確かにそういうやり方で「共感して泣いた」みたいな感想を書くことはほぼありません。

しかし、僕がビジュアルやストーリーを鑑賞していないというのは大きな誤解です。鑑賞しているし大いに心を動かされているが、それをブログで発信する意味を感じないのでそうしないというだけです。
実際、僕は(主に美少女キャラクターの)ビジュアルをTwitterでよくリツイートしていますし、discordやLINEのような閉じたコミュニティでは何が好きで何が嫌いで~という話やカップリング萌え語りもかなりやります。

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(↑原神の新キャラでカップリングを真剣に検討している)

ただ、それは極めて個人的な好みですから、僕の理解を深める役には立っても作品の理解を深める役には立ちません。よって親しい友人にだけ共有すれば済むことで、ブログで公に書く意味はありません。

補足398:こういう「共有する意味のない極めて個人的な好み」のことを僕は「性感帯」に喩えて若干軽蔑的な文脈で使用することがあります(例:「性感帯の話をしても仕方なくない?」)。

ただ、自分で創作をしたときの経験で若干気持ちが変わりつつはあります。僕は自分の創作ですら自分の性感帯を発信する意味はないと思っていたので、「僕はこういう感じのキャラが好きで~」みたいな話はせず、徹底して「このキャラはこういう役割で~なんとか主義者で~」という話しかしませんでした。
しかし、会ったこともない人にネット上で「こいつ好きー」とか言ってもらえるのは普通にかなり嬉しかったので、なんか性感帯語りにも実は結構ポジティブなパワーがあるなという気付きがありました。今でもわざわざ単独の記事で書くことはあまりありませんが、消費コンテンツまとめ記事とかでは一言二言「こいつが好きです」とか割と書くようにしているのはそういう心境の変化があります。

 

358.マイクラの建築ガチで上手いですね
ツイートした奴以外にも作ったものがあれば見せてほしいです

タイミング的にこれですかね? ありがとうございます。

これはたまたまマルチプレイのサーバーに紛れ込んだときにとりあえず自分の家を建てたやつですが、以前は二年くらいソロプレイで延々とプレイしていてそれなりにヘビープレイヤーでした。この辺がなかなか上手く出来ていると思います(「ツイートした奴」って上のツイートのやつ一つのことか、それとも過去にツイートしたやつ全てを含むんですかね?)。

村人の取引の仕様が変わったあたりでよくわからなくなってあまり触らなくなりましたが、勉強し直して久しぶりに触ってもいいかもしれません。

21/11/8 2021年8・9月消費コンテンツ

2021年8・9月消費コンテンツ

8月はコロナ禍で精神のバランスが破壊されてコンテンツ消費どころではなかったので9月とまとめます(感染はしてない)。十年後とかに見直したい気もするし、コロナ禍の諸々もいずれ記事にしてもいいかもしれない。

元気がなかったのでAmazonPrimeとかUnextで適当にズアーッと一覧から面白そうなものをピックするという普段はやらない見方をしていたのだが、意外と粒揃いの映画が見られて悪くなかった。

 

メディア別リスト

書籍(5冊)

統計学を哲学する
発狂した宇宙
図解雑学多変量解析
多変量解析のはなし
図解でわかる多変量解析

映画(6本)

LOOP
メンインブラック
大誘拐
残酷で異常
トランス・ワールド
ダーク・スター

アニメ(13話)

ウマ娘2期 全13話

 

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

統計学を哲学する
ウマ娘2期
LOOP
ダーク・スター
残酷で異常

消費して損はなかったコンテンツ

発狂した宇宙
メンインブラック

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

大誘拐
図解雑学多変量解析
多変量解析のはなし
図解でわかる多変量解析
トランス・ワールド

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

(特になし)

 

ピックアップ

統計学を哲学する

かなりの良著。賛否両論なのは理解できるが、俺は全面的に賛寄り。

タイトル通り統計学と哲学を架橋しようとする一冊。哲学サイドから見れば哲学的な理念が統計学においてはどのように実践として営まれているかを見ることになるし、統計サイドから見れば統計的な概念が実際のところどのような哲学的含意を持つかを見ることになる。俺は理系の人間なので主に後者として読んだが、いずれにしても高度な異分野交流はほとんど達成されているように思われる。

俺が観測した範囲での批判としては、統計学サイドからは意味論の議論について、哲学サイドからは認識論の議論について疑問の声が上がっているようだ。例えばこの本では確率の意味論としてベイズ流においては確率は主観的な確信度を意味するという古典的な主張を前提しているが、それを額面通りに受け取ってしまえば、ベイズ流の手続きを用いた科学論文は全て実験者の主観的な確信度を報告するエッセーであることになってしまう。一方、認識論の方はベイズや古典統計といった実践的な流儀の背後に内在主義や外在主義といった認識論的態度を見ることにアナロジー以上に何の意味があるのかが疑問に付されているらしい。

だが、それらの批判はむしろこの書籍の議論が第一次近似として問題なく機能しているが故に提出される第二次以降の建設的な調整項であるように思われる。俺はこういうことはとりあえず決め打ちで叩き台を敷設することが決定的に重要なのだと考える方だし、現状では解像度がそこまで高くないことは著者にも認識されている。

個人的には「確率変数及び分布とは結局何なのか」に答えを与えようとする存在論に関する議論が最も面白かった。自然の斉一性を踏まえて適切に世界を分節するための仮説的な自然種として統計モデルを理解することにより、他の自然科学と一貫する形で解釈を与えられる点が素晴らしい。純粋数学よりは現実の実体と接続しているが、実証科学よりは抽象の道具立てを用いる統計学において、虚数よりは現実的だが角運動量よりは抽象的な正規分布という概念は結局何なのかという存在論的な把握はどれだけ漸進的な改善の余地があるとしても最大の価値を持っているだろう。

一応注意として、この本が事前に要求する統計学の知識はそれなりに高い。少なくとも古典統計の検定論とベイズ推定の基礎くらいはわかっていないと中盤はまともに読めないと思われるが、徐々に難しさがランクアップしていく方式なので読めるところまで読んで諦めてもいい。

 

ウマ娘2期

saize-lw.hatenablog.com

書きました。
ライスシャワーが虐められる話だけは局所的に良かったが、全体としては虚無寄りではある。アグネスタキオンが出なくて悲しかった。

 

LOOP

良作。タイトル通りのループもの、繰り返される世界でバッドエンドを回避するために主人公が頑張るよくある話で、最後のどんでん返しも含めてシナリオ自体にはそこまで光るものはない(普通に面白いレベルではある)。

「おっ」と思ったのは、この作品では「ループの継ぎ目」が絶対に描写されないところだ。ループものであるにも関わらず、主人公が「このループはダメだったか……!」とか言ってギュルルルとSF的なゲートを通って最初に戻る描写が無いのである。
登場人物全員が同じ世界を繰り返すタイプのループなので必ずどこかで過去に戻るポイントが全員にあるはずだが、映像はずっとシームレスに遷移していて、気付いたときには何故かヌルっとループしている。死んだキャラはいつの間にか蘇生するし、記憶を引き継いで次の周回に突入する主人公ですらどこで次の周回に入ったのかがよくわからない。映像を見る限りは円環状の時間がグルグルと回っているようにしか見えず、リスポーンポイントがどこなのかがよくわからない。

見終わってからしばらく考えてようやくわかったのだが、キャラクターによってループの継ぎ目(過去に戻ってリスポーンする点)がズレており、かつ、リスポーン地点を映さないようにカメラが移動しているのがトリックだ。ループもの特有の円環タイムラインを図にするとこんな感じになっている。

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ループものなので時間軸は環状時計回りに進むことにしよう。主人公もヒロインも時計回りに進むのだが、一周が終わって次の周回に入るタイミングが異なっているのだ。主人公は0時からスタートして12時間後にループして過去に戻るが、ヒロインは6時からスタートして12時間後にループする(ちなみにこれは説明のために一般化した図式を作っただけで、別に作中でこういう時刻であるわけではないし、主人公とヒロインの二人にしかカメラが注目しないわけでもない)。
カメラが主人公だけを追っていると12時の時点で過去に戻る描写が入ることになるが、それを回避するために12時よりも前にカメラが追うキャラクターがヒロインに変わる。このヒロインは6時にはリスポーンするが、やはりそこに入る前にカメラが主人公に変わる。よってヒロインが過去に戻るシーンも映らない。これを繰り返すことで、画面では誰もあからさまにループすることなく気付いたら何故かループしていたという映像が可能になる。この仕掛けは物語を連続的に再生し続けられる映画によく適合しており、なるほどと感心した(小説でこれをやってもあまり効果的でないだろう)。

 

ダーク・スター

ダーク・スター(字幕版)

ダーク・スター(字幕版)

  • ブライアン・ナレル
Amazon

全体としてはそこそこしんどいが、最後のオチだけ有り得ないくらい面白かった。

ただそれは構成が優れていたとかではなく、シンプルに一発ネタとしてオチが面白かっただけだ。ここに内容を書くとただのオチの説明になってしまうので書かない。君の目で確かめろ!

 

残酷で異常

良作。ヤンデレ主人公が宗教的な倫理を踏み越えて勝利するみたいな良い話だったが、ヤンデレ主人公が萌え美少女ではなくパッケージ右側のデブ男というのはネックではある。

内容とあまり関係ないのだが、ロボアニメのコックピットでたまにある「モニター越しに目を合わせて会話する」というギャグ演出が活用されていたのが良かった。

samepa.hatenablog.com

ここで紹介されている、アスカとシンジが何故かモニター越しに目を合わせて会話するやつ。エヴァでは物理的にはそうはならんけど何故かそうなっているというギャグなのだが、この映画ではモニターの先にいる会話相手が超越的な存在であることを示す表現としてシリアスに活用されている。例えばこのシーンがそうだ。

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右が主人公、左のモニターに映っているおばさんが死後の世界にいる神的な存在である。このおばさんは罪人である主人公たちに極めて高圧的に振る舞うのだが、その一環としてモニターの中から主人公を睨みつけているのだ。物理的にはモニターの中から直接外側を見ることは有り得ないのだが、それをナチュラルに行うことでこのおばさんが常識を超えた異常な存在であることを示している。更には遠くにいながらも至近距離で監視してくるという神的な存在の恐ろしさも表現されており、アニメのギャグではなく実写でこんな使い方があったのか!と感動した。

 

メン・イン・ブラック

人気映画らしく安定感ある名作。

地球を宇宙人から守る秘密組織のコメディ映画だが、キーアイテムである記憶消去マシンの扱いが抜群に上手い。記憶消去マシンは最初から一貫して治安維持のために事件を目撃した一般人の記憶を消す用途で使われており、その乱暴っぷりに主人公の陽キャ黒人が異議を申し立てたりもするのだが、最後のシーンで役割が反転する。主人公を勧誘した秘密組織の先輩が引退する際、このマシンで記憶を消すことによって情報漏洩の恐れがなくなり安全に組織を抜けられるのだ。ここに来て記憶消去マシンは救済アイテムに姿を変える。

つまりコメディの裏テーマとして描かれているのは忘却の二面性であるわけだ。途中までは忘却は強権的に隠蔽を行う暴力として描かれる一方、最終的には忘却は安寧に至る救いでもあると再定義される。反転したマトリックスというか、記憶の消去はブルーピルではあるのだが、ブルーピルなりの安寧もあるのは確かにそうなのだ。

 

生産コンテンツ

ゲーミング自殺、16連射ハルマゲドン

趣味で書いている小説の進捗報告です(前回分→)。8・9月は第九章「白い蛆ら」と第十章「MOMOチャレンジ一年生」を完了しました。
ついでに毎月キャラ紹介とかコンテンツを置いときます(ここに書く設定等は進捗に応じて変更される可能性があります)。

字数

219236字→247058字

各章進捗

第一章 完全自殺マニュアル【99%】
第二章 拡散性トロンマーシー【99%】
第三章 サイバイガール【99%】
第四章 上を向いて叫ぼう【99%】
第五章 聖なる知己殺し【99%】
第六章 ほとんど宗教的なIF【99%】
第七章 ハッピーピープル【99%】
第八章 いまいち燃えない私【90%】
第九章 白い蛆ら【99%】
第十章 MOMOチャレンジ一年生【99%】
第十一章 鏖殺教室【1%】
第十二章 別に発狂してない宇宙【1%】
第十三章 パラノイアエスケープ【0%】

 

キャラ紹介⑥ 此岸さん

主人公である彼方の実姉です。容姿は彼方とよく似ていてクールな美人です。

彼方が物心付いた頃から病気によって植物状態で、現在は彼方が住んでいる家の隅にある巨大ベッドでずっと眠り続けています。妹の彼方ですら、此岸と会話したことはおろか、目を開けている様子すら一度も見たことがありません。世界的な名医からも治療は不可能だと匙を投げられており、同居している彼方を除けば世界の誰からも忘れ去られた存在です。

しかし、彼方が家に帰ってくると此岸が作った夕食が用意されていることがよくあります。彼方が置いていったゲームを遊んだ痕跡があったり、家中の掃除が済まされていたりもします。それどころか彼女自身が寝ている布団の交換や点滴薬の補充までもが定期的に行われており、寝たきりであるにも関わらず介護は全く必要ありません。更には枕元に置かれた虹色の便箋を通じて簡単な意思疎通を行うことすらできますが、彼方が家にいるときは此岸は常に寝息を立てています。

彼方が見ていないところで此岸が明らかに目覚めて活動していることは一つの医学的な奇跡です。此岸の身体を研究すれば世界中で同じ病気で寝たきりになっている人がたくさん救われるかもしれません。しかし人間全般に関心が低い彼方は「そういうこともあるのだろう」くらいにしか思っておらず、この奇跡に大した興味を持たないまま放置し続けています。今日も彼方は此岸が作ってくれたオムライスを食べますが、彼女がそれをいつどうやって料理したのかは謎のままです。

21/10/23 お題箱回90:ワンプラ13話、東大王クイズ、GPS、腋、百合、地声etc

お題箱回90

344.13話が終わったら、ワンダーエッグ・プライオリティの感想聞きたいです。話が進むほどつまらなくなっていってません?

一応13話まで見ましたが、感想を持つ以前にストーリーが収拾されていないため何とも言いようがない宙吊り状態になっています。各設定が繋がるところまで話が進んでおらず、ただ途中でぶつ切りにして放置されているような印象です。個々のエピソードや要素は興味深いので普通にちゃんと終わらせてくれれば面白そうではあります。

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話が進むごとにつまらなくなっているということにも同意します。「すごい面白そうなアニメ始まった」→「これ本当に面白くなるのいつ?」→「せめて話を終わらせてもらえませんか?」という感じです。

 

345.ウマ娘2期もう見ました?

見たので書きました!

saize-lw.hatenablog.com

ライスシャワーが良かったのは書いた通りですが、全体としては一期と同じで面白くはなかったです。
ストーリーが単調なのは萌えアニメだからギリギリいいとしても、萌えアニメなのにビジュアル以外に好きな萌えキャラがいないのが結構きつかったです。プリコネもそうでしたが、サイゲームスが作る萌えキャラって表層的な性格のバリエーション作りに優れる一方で、根っこの価値観とか思想が逸脱しないように制御されている印象があります(「無難に良い子」のバリエーションが多いだけ)。
ちなみに僕はそれを「キングダム現象」と呼んでいます。『キングダム』は濃いキャラがたくさんいて喋り方や能力は多彩なものの目的と精神構造が皆同じ作品の典型だからです。

 

346.伊沢拓司が小学生レベルのなぞなぞを出したのはターゲット層のレベルに合わせているだけで、難しい問題を作る実力はありますよ(実際クイズノックの動画では難問を出してる)
クイズ作家の仕事は「解けない問題」を作る事ではなくて「ターゲット層がギリギリ解ける問題」を作る事ですから

このツイートの話ですかね? これは僕の例の出し方がかなり悪かったですが、僕が言及したかったのはクイズの難易度ではなくセンス、作問スタンスです。難しいクイズを作れるのはわかるし、実際、伊沢からの出題はだいたい他のクイズより難しいです。

僕はクイズノックの動画は見たことがありませんが、少なくとも東大王における伊沢からの挑戦状の特徴は、クイズのコアになるアイデアをそのまま剥き出しで提出することです。物語的な配慮をしないところに放送作家との違いを感じます。

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例えば適当に画像を拾ってきたこのクイズが典型的です。クイズの作問意図を理解することとクイズを解くことが完全にイコールになっており、「わからないけど面白い」とか「回答案の細部を調整する」という余地が全くありません。頭を捻ってそれらしい回答を吟味するような経緯には関心が無く、問題を構成する理論にのみ関心が偏重していて、それはクイズというよりは試験に近いために僕はクイズのセンスがないように感じると書きました。
もっとも、伊沢氏はもっとクイズらしいクイズも作れるが「東大生のアブノーマル感を出すために一見して意味わからんクイズを作ってください」と言われてこういうものを作っているのかもしれませんし、それは謎です。

 

347.TwitterのRTを見ていると、銀髪の美少女が加点対象となっているように見受けられますが、認識は合っているでしょうか?
合っていた場合、LWさんが感じる銀髪美少女の魅力や、中国圏で銀髪美少女が萌えコンテンツとして特別ほかの髪色の美少女よりも強いポジションになっていること(エビデンスは?となると、アークナイツやアズールレーン等で銀髪/白髪美少女が多い気がする…くらいのふんわりしたものですが)に対する考察や憶測など聞けたら幸いです。
私は黒髪陰キャ美少女が好きなので銀髪美少女の魅力が良くわかっていません。

完全に合っています。銀髪なだけで100点中80点くらい加算されます。中国圏では大人気だということもよく言われており、嗜好が中国化(チャイナイズ)されている感じもします。
銀髪属性に隣接する属性は神秘的・ミステリアス・クール・ダウナー・無口あたりなので、色彩を超えた理由付けとなるとそのあたりが人気だからということになるでしょうか(僕もそういう属性が好きです)。とはいえフェチズムとは「そういうものが好きだから」が根底であって、それ以上の理由は掘り下げというよりはむしろ副次的であるような気もします。

 

348.GPS機能をご存じでなかった件、"発達"仕草が高すぎて笑ってしまいました。
超高学歴かつアニメ等諸作品に対する考察が凄いな~とリスペクトしているのですが、電車をランダムに乗っていること等の発達エピソードを聞くと親近感とヤバ…という感情が半々くらいで沸くので、いつも楽しみにしています。この辺りのエピソードに関してはご本人もヤバ…と思いながらお出ししていますか?ウケるやろwくらいの感覚でしょうか?

あと、友人と合流するのが困難な場合、Zenlyという位置情報共有アプリを使うと便利かもしれません。簡単に言うと、フレンドの位置情報と自分の位置情報を共有して可視化できるアプリです。現代のJKはこれで待ち合わせするらしいです。

楽しみにして頂けるのは幸いですが、実害は普通に出まくっているし全然ヤバいです。

例えば僕がGPS機能を教えてもらうきっかけになったこの事件が起きたのは友達数人と脱出ゲームに行ったときです。脱出ゲームって人数固定で予約して貸し切って時間厳守なので遅刻するのは相当な重罪なんですが、僕一人だけが目的地に辿り着けずに周りをグルグルして脱落しかけていました。これもう完全に無理だわって諦めたときにdiscordでガチ謝罪を送っています。

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幸いにも親切なやつが会場から一度出て逆に僕を捜索することによって何とか辿り着いたものの、参加費3700円と友達からの信頼と休日の娯楽全てを一気に失うところでした。
もっとも、僕は生まれもった欠点を補うよりはその手間で長所を伸ばした方がよいと考える方であり、こういう特性を本気で矯正する必要があるとはあまり思っていませんが、状態としてヤバいかヤバくないかで言えば全ガチでヤバいです。

ただ、現状はGPSで概ねどうにかなっているので追加のアプリが無くても耐えられる気がします。チャリを漕ぐときは常に画面を見ているわけにもいかないため、決め打ちで1kmくらい漕いで信号待ちでGPSを確認したら全然別の方角に向かってたみたいなことは本当によくありますが、それもGPSがあるおかげで修正が効いて耐えてはいます。

 

349.百合コンテンツの良さが分かりません。
「男映らなくて美少女しかいないから得!」みたいな肉二倍バーガーみたいな楽しみ方をしている百合好きオタクと、「二人の関係性が~同性愛という禁忌性が~」みたいな妙に同性同士の恋愛を特別視して好きになってるオタクがいるな、というのが外野からの見解なのですが、LWさんの思う百合の魅力などあれば語っていただけると嬉しいです。

僕は完全に前者の派閥です。どういうキャラなのか何も知らなくても絵が上手い絵師のオリキャラがレズレズしてるやつで全然良いです。単独の美少女としていい感じかどうかが最も重要なので、単純な画力とかキャラ単体での造形を重視します。
関係性とかはあってもいいけどなくてもいいです。禁忌云々の話も得るものが特にないので同性愛がどうこうとかいう説明は全部省いてもらって、美少女同士が恋愛するのが世界の常識でそれには特に誰も言及しないやつが楽で好みです。

後者の派閥の人は色々語ることがある一方で、前者の派閥の人はあまり語ることがないんですよね。「百合とは関係性萌えである」とか言うと多少の独自性があって目を引きますが、「百合とは美少女萌えである」と言っても誰でも知っている美少女萌えという営みの延長でしかないのであまり目立ちません(実際そうですが)。そうやって可視化される言説の非対称性が、百合とは深淵でホニャララという過剰な持ち上げ風潮を作っている原因のような気はします。

 

350.なんで脇好きなの?

通常は汚い寄りの器官であるために、美少女は腋も絶対に綺麗なので逆説的に美少女ぽさが際立って担保されるみたいな感じだと思います。Twitterでのガチな腋フェチ絵師はよく匂いフェチと複合していますが、同じ理由で僕は絶対いい匂い派です(毛有り派・臭い派とは敵対しています)。
ちなみに英語だとarmpit(腋)という単語には特に汚いという意味が込められていて、「嫌な匂いのする場所、汚い所、むさ苦しい場所」くらいの意味まであるらしいです(豆知識)。

 

351.これはお題箱の内容に関してブログで触れる前にTwitterで軽く呟いていらっしゃるというメタも込みでの質問なのですが、LWさんによる映画20選(ベスト20ではございません)をパッと挙げていただけないでしょうか。タイトルの列挙で構いませんので

要望頂いた通りにあまり考えずにパッと上げるとファニーゲーム、トーキングヘッド、巨神兵東京に現る、ルナシー田園に死すあたりが思い付きます。そんなに映画好きではないので20個は全然思い出せないです。
ただ、こういうリストって以前に一度頭を捻って外向けにリストアップしたものが記憶に定着して再生されるだけで、実際に面白かったかどうかとは若干のずれがあるような気もします。

 

352.エロファボ博士のLW先生に質問です
先生はエロファボを評価する際に減点要素はありますか?(メガネをかけてたら減点、など)

あります。単純な好みとしてあるよりはない方がいい要素というのはどうしてもあって、眼鏡もそれ寄りではあります。
それはほとんど好みの定義だと思うのでだいたいの人にはあると思うのですが、ない人もいるんですかね?

 

353.女性Vtuberの定番ネタとして、萌え声配信に挑戦するけど結局「汚い」地声が出てしまうというくだりがありますけど、あれってなんだかんだ地声でも最低限の「綺麗さ」が保障されているからこそネタが成立してるみたいなところがありませんか?二次元美少女が行うセクハラ行為には不快感が無いみたいなアレです。

うーん、別に地声ってそもそも特に汚くはないんじゃないですかね? そういう意味で別にそもそもあまりヤバいものではないという話であればわかります。
(別にVtuberの萌え声ではなくても)女性って普段からある程度は作った高めの声を使っているわけで、それが外されたニュートラル状態に過剰にネガティブな印象はありません。そもそも「萌え声配信に挑戦する」という営み自体が結構謎で、普段の配信に使っている声だって明らかに地声ではないため、萌え声に挑戦するというよりは普段使いの萌え声からまた別の萌え声に挑戦するという方が正確です。
ちなみにこうやって僕が女性の地声周りについて知ったような口を利く背景には僕には女きょうだいがいるために成人女性の地声を普通に知っているという明確な知見のアドバンテージがあり、その点で女性の地声を知らないリスナー層の認識とはかなり乖離がある気はします。

それはそれとして、美少女の図像があるためにイメージブレイク的なパフォーマンスがカバーされているというのもまた真実だとは思いますが、それは地声に限らずVtuberの大前提ではあります。あともう一つ追記すると、僕はVtuberをキャラクターとして捉えたい派閥なので「Vtuberは腹から萌え声を出せ」を信条としており、地声ガチアンチです。