LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

5/31 俺は冷徹なアニメ視聴マシーン

・お題箱13

23.補足ナンバーを記事毎にリセットせずに積み重ねてるのって何か意味があったりする?
過去の補足に言及したいときは「◯◯記事の補足××で〜」とどっちにしろ掲載記事を指定して遡るから、記事毎に補足1,2,3でいいような気がする。
いずれ補足が3桁超えたあたりでオタクは補足が多いネタをかますつもりだったならすまん

単に面白いからですね。いちいち累積すると「もう30かあ~」「100かあ~」とか感じるところがあってちょっと面白くないですか?お題箱周りを通し番号にしているのも同じ理由です。
古い補足に言及するときも通しの方がわかりやすいと思います(記事で言及するときはリンクを貼ると思いますが、検索するにしても検索窓で「補足28」とか打ち込めば済むので)。強いて言えば、理系の論文は通し番号で注を書くので終盤には50を超えることとかもザラにあって、そういう影響もあるかもしれません。

・ひふみさんに捧ぐ

サイゼリヤのLWを読んで

ひふみさんが感想をかいてくれた。このTwitterじゃなくてブログで馴れ合う感じ、めちゃ久しぶりで震えてくる。
エタバトで会った反空さんにブログで雲魔物シンクロについて書いたとき以来か?

なんだか俺はマシーンのようにアニメを見ているのではないかと思われていることが多いのだが、いい機会なので誤解を解いておきたい。
別に俺は冷徹なアニメ視聴マシーンではない。ノートとペンを片手に、目を皿のようにして、コマ送りで何度も行ったり来たりしつつ、テレビに釘付けになっているわけではない。
アニメはベッドに寝っ転がってノンストップで一回見れば終わりだし、ファイアパンチも一回しか目を通していない。何より、普通に楽しんで見ている。ゲームも普通に楽しんでプレイしているし、漫画もラノベも普通に楽しんで読んでいる(ラノベに関してはキツすぎて挫折することも多いので嘘かもしれない)。

補足35:実はノートとペンは大抵手元に置いてあるが、これはただの物忘れ対策で、別にアニメを考察(って何?)するためのものではない。20歳を過ぎたあたりから記憶力が爆落ちしており、何かを考えていたことすら忘れてしまうため、とりあえずメモするためのノートを持ち歩いていることが多い。
サクラクエストを見ながら由乃の演説が変だったなと思ったときは「サクラクエスト#3 演説 変?」くらいのメモを書くことはあるが、これは後で忘れるのが勿体ないから外部メモリにセーブしているだけで、それ以上の意味はない。アニメを見ている間にハースストーンのコンボを思いついたときは、一時停止して「ドレイク+餌→クエストローグ死亡」とか書いていることもある。その程度のものだ。


というか、俺は考察はほとんど書いたことがない。
そもそも考察とは「物事を明らかにするために、よく調べて考えをめぐらすこと」(goo辞書)という意味であり、明らかにされるところの絶対的・外部的・具体的存在を仮定するニュアンスがある。
「アニメの考察」で語られるのはそういう条件を満たしている対象に限られてきて、「登場人物の気持ち」「制作側の想定」「設定の整合性」「伏線の内容」あたりが考察されていることが多いが、俺がそのへんを書いたことは弱肉二式でもサイゼリヤでもほとんどないと思う(ちょっとはあるかもしれない)。思想や哲学が導入される以前の基本的なテクスト読解として小~中学校の国語教育で教わるのはこのあたりなので、それを踏まえている人が多いのかもしれない。

補足36:今のところ俺から発信する気にはあまりならないというだけで、価値がないとか意味がないと言っているわけでは全くない。細かい設定について調べて個人ブログの考察を読んで「ほほう」とか言ってることも、キャラに感情移入して泣いてる(泣いてない)ことも普通にある。

まあ、単語の定義は本題ではなくて、今言いたいことは、俺は具体物よりも固有名詞に依存しない構造や性質の方に興味があるということだ。
弱肉二式の感想では長々と一般論を語ったあとに最後に作品についてちょっと触れて終わりというフォーマットを取ることが多いが、これは俺の語りでは具体物(作品)は大して重要ではないからだ。作品は一般論の一パターンでしかないので、そこから話を始める必要はないし、最後に少し持ち出せば十分である。

具体的な細部に注目するために行きつ戻りつしなければならない考察と違って(知らんけど)、一般構造や性質は普通の感想からスタートする気がする。
俺がファイアパンチを読みながら考えていたことだって、「トガタってなんかチートっぽいな~」「トガタって黒幕やな~」「そもそもトガタって要らなくない?」「アグニがトガタに逆らっていきなり牢を破壊するシーンで感動した!」くらいのことしかない(さすがにこの感想が突飛ということはないだろう)。
ひふみさんが「読んでる時に絶対その言葉は頭に浮かんでこない」と言っていた文章も、こういう感想からスタートして一般化していれば勝手に辿り着く。一般化作業はたぶん漫画を読み終わったあとに感想を整理する段階でしていて、サイゼリヤで感想を言い合っているうちに出てくるようなものだ。

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サイゼリヤ店内イメージ)

・「トリックスター的に機能するキャラ」について
「トガタってなんかチートっぽいな~」
「タダでさえ強い上に頭がいいからすぐ暗躍するよね」
「そうそう~そういうのなんていうんだっけ?」
トリックスターでしょ」
「それw」

・「メタ的な行動原理を持つキャラ」について
「トガタって黒幕やな~」
「本当に黒幕っていうわけじゃなくない?」
「どういうこと?」
「実際の黒幕は他にいるっぽいしトガタはただ他のキャラを動かしたいだけっていうか」
「他のキャラの上に立ちたがりってことか」
「それって本来は作者の仕事だからなんかメタっぽいよね」
「それw」

・「アグニの行動原理とも噛み合わない」について
「そもそもトガタって要らなくない?」
「なんでそう思うの?」
「アグニは真面目に復讐したいのにトガタって映画撮りながらすぐ馬鹿にしてくるじゃん やりたいことが全然違うじゃん」
「キャラのやりたいことが違うのは普通でしょ 使途は街を破壊したいけどエヴァは街を守りたいじゃん」
「でもアグニとトガタって衝突すらしてないからそれとも違うよね 別に敵同士じゃないし」
「ぶつかりすらしないってことは噛み合ってないってことじゃん?」
「それw」

・「トガタを利用してアグニの話に筋を戻した」について
「アグニがトガタに逆らっていきなり牢を破壊するシーンで感動した!」
「いきなりでもないでしょ 段階は踏んでたよ」
「そうだっけ?そもそもなんでアグニは牢を破壊したんだっけ?」
「演技してるうちに本心に気付いたからでしょ」
「それってトガタのおかげってことか?」
「トガタにとっては不本意な結果なんだから、トガタは利用されただけじゃん」
「それw」

みたいな。

強いて言えば、感想を一般論に回収する段階では他の体系から構造や話を流用することが多くて、ひふみさんの言う「"考察"の教科書」はそれ(他の体系の知識)に当たるかもしれない。
自分で自分の文章を解説するのって普通に恥ずかしいんだけど、例えば「三巻あたりで擬装をテーマにトガタをうまく利用してアグニに話の筋を戻したのは凄いなと思いました」っていう文章の「擬装」なる単語は「物語における擬装言語行為」という話に立脚した表現で、そういう含意がある(普段なら補足にするところだけど、どのようにベースになったのかは書かないといけないと思うので、しばらく講義をする)。

言語行為とはざっくり言うと「何かを言うことで何かを行う」という言葉の捉え方であり、例えば、「私はブルーアイズを召喚します」という発言が(叫び声のような無意味な発声ではなく)実際に手を動かしてブルーアイズを出す行為に結び付くことを示す。
この言語行為自体は日常生活でも普通に行われているのだが、言語行為が行われるフリをするのが語りであり、特にそれが虚構の場合は物語になると考えることもできる。
例えば、幼稚園で先生が絵本を開いて「お爺さんは山に芝刈りに行きました」と言ったとする。この発声を言語行為的に解釈すると、「『お爺さんが山に芝刈りに行く』という発言」は「実際に『お爺さんが山に芝刈りに行く』という行為」に結び付かなければならないのだが、もちろん、先生が何を語ったところで「芝刈りに行ったお爺さん」が現実にいるわけがない。
しかし、少なくとも先生(語り手)と園児(聞き手)の間では想像上のお爺さんが何らかの形で発言された行動を遂行したという共通了解、「フリ」は存在する。このフリ=擬装的言語行為こそが物語の本質だとする。

で、ファイアパンチ二巻でトガタとアグニの間で行われた行為は虚構内虚構における擬装言語行為と解釈することができる(ここで言う「虚構内虚構」の一つ目の虚構は「ファイアパンチという漫画自体」、二つ目の虚構は「トガタが撮ろうとしている映画」)。
さっきの復習をすると、一般的に物語は擬装言語行為と解釈できるのだった。トガタが執着している映画も物語の一種なので、トガタも擬装言語行為をアグニに求める。つまり、アグニは自分の意思とは関係なく「ドマを殺すためなら何でもしてやる」と発言し、それを遂行するフリ=擬装をさせられることになる。この結果、却ってアグニは自分の殺意がフリであって、実際にしたいことは他にあった(人を助けたかった)ということを思い出し、この流れが三巻での牢破壊に繋がってくる。
整理すると、映画(物語の一種)と擬装は言語行為を通して結び付くし、復讐したいと自分に思い込ませていたというアグニのキャラクターも擬装を内包している。よって、「トガタの映画」「アグニの復讐」という全く噛み合わないように見えた要素が擬装を軸にして綺麗に結び付くことができたのだった。

話を戻すと、そういうわけだから、あらかじめ「物語における擬装言語行為」について知らなければ、「三巻あたりで擬装をテーマにトガタをうまく利用してアグニに話の筋を戻したのは凄いなと思いました」という文章は出なかったと思う(念のために言うが、これも「アグニが牢を破壊してて感動した」という感想からスタートしていて、別に視聴中に大仰な過程を踏んだわけではない)。

俺が擬装言語行為について読んだのはこの本だったから、教科書は何か?と言われれば、これがその一つにはなる。


けど、これは別に「これを読んでおけばオッケー」的な本では全くない。俺が今までにこの本の内容を使って文章を書いたことはファイアパンチの感想の一文しかないからだ(ひふみさんのブログが無ければ今日の自己解説をする予定も無かった)。たしか500ページくらいあって読むのがかなり大変だったので、コスパはめちゃめちゃに悪い。
他のネタ元もたぶん探せば出てくるものが多いけど、無限に散らばっていて、別の本だったり適当な個人サイトだったりする。

あとひふみさんのブログで言及されていた「語りと恥」についても前から考えていて、いい機会なので次回に書く。