LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

12/4 神性の起源 本編

・神性の起源 本編

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前々回→の予告編の続き

目次
1.世界認識の三層構造
2.虚構系での変質
3.混沌の技法
4.ファニーゲームの感想

1.世界認識の三層構造

「人間の認識能力の限界」という話から始めよう。
まずは時空間や因果関係に至るまで、人間が事物を把握する能力は「何らかのルールを経由しなければ機能しない」という著しい制約を被っていることについて説明する。
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これは適当なフリ素HPから引っ張ってきた公園の写真だが、もし「この写真は何か説明しろ」と言われたときにどう答えるか。と言っても大してレパートリーはなく、97%の人は「二つ遊具がある公園です」というようなことを言うだろう。もう少し長ければ、

「公園です。木製の遊具が二つあります。手前は赤い柵の付いたブランコ、奥側は滑り台の付いたアスレチック、奥には窓の多い建物があって、何本か枯れ木も立ってます」

あたりが平均的な回答か。
独特の感性を持つ人は右奥の青と黄色のなんかから話し始めるかもしれないが、何に注目するかに関して多少の差はあれど、目に入ったオブジェクトの名前を列挙してそれらの大小や位置関係について説明を行うという点については誰でも同じはずだ。「木製の遊具」「赤い柵」「ブランコ」「滑り台」「アスレチック」などの要素名に風景を分解するのが唯一の説明手段である。

補足90:「これは公園に見えるように並んだ画素の集合が映ったモニターと認識する」「俺なら左上から順に1ドットずつ画素のRGB値を伝える」などと屁理屈をこねないでほしい。今提示しているのが風景そのものではなく、電子的な風景画像であることに大した含みはない。本当は一緒に公園に行って「じゃあ目の前の風景を見てくれ」とやった方が正確ではあるのだが、単にブログという媒体の限界により画像で代用した。


このとき、「名前への分解」は複雑な風景を口頭で説明するために便宜的に行われたわけではないということに注意してほしい。画像を認識した段階から「名前に分解できるような要素の集まりとして風景を認識する」というルールに従っているというのが真相だ。
枠を作って見せるのがわかりやすいだろう。
V
遊具A、遊具B、建物をそれぞれ緑、黄、紫で囲ってみた。
風景を認識する際には無意識に上のような切り分けを行っているはずだ。その証拠に、それぞれの枠で囲まれた部分を数分おきに見せられたとしても、それらを頭の中で結合して冒頭のような風景を構成することはそう難しくない。正確な位置関係は微妙かもしれないが、「二つ遊具があって建物に面した公園」という、人に説明できる程度の理解は得られる。
この切り分けが如何に恣意的かということは下の画像と比較すればわかりやすい。
H
前の例とは違い、全く適当に三分割してみた。
この分割は名前に基づいておらず、それぞれの枠の中身には名前が欠けている。黄枠の中身は「ブランコっぽいものの『一部』と建物の『一部』」と説明するのが限界で、囲まれた領域を過不足なく指す単語は存在しない。真ん中でセパレートした遊具のそれぞれに別名を付けてバラバラに記述することが日常でまず起こらないのと同じで、我々の視認もまたそのような手段を採用しない。また、こちらでも数分おきにそれぞれの枠の中身を見せられるような意地悪をされたとして、今度は「二つ遊具があって建物に面した公園」という全体を組み立てるのは難しい。この分割が認識として極めて不自然だからだ。

これで「名前に分解できるような要素の集まりとして風景を認識する」というルールを実感して貰えたと思うが、これは「人間が事物を把握する能力は『何らかのルールを経由しなければ機能しない』という著しい制約を被っている」と冒頭で書いた「何らかのルール」の一例である。ルールを制約と言い換えれば、風景の把握という行為は物の名前という秩序で制約されているため、(適当に三分割する枠を付けたときのように)全く自由な発想では行えないとも言える。

逆に言えば、人間が認識していないありのままの風景はこうした制約の一切を脱しており、その意味で「認識された世界」と「認識されていない世界」は峻別できる。上の例で言えば、人間がいない状態では「名前」という分解要素は存在しないので、「ブランコ」「木」「建物」を別のものとして分ける理由はない。本当はそれらは区別なく混ざり合っていて、無理矢理言うなら「ブランコ木建物」というような一回性の何物かを構成しているとみる方が妥当だろう。何にせよ、そういうありのままの混沌とした世界と、我々の認識フィルターを通して要素集合として秩序化された世界を区別しよう。

補足91:外部世界の実在可能性についてもう少し厳密に言うと、今回は「有りよりの不明」というスタンスを取る。検証手段がないので確定しないという前提を採用しつつも、「何らかのものがある」ということだけは認める。我々の認識可能な形式であるという保証は全くないが、恐らく秩序を生むような何かはある。

もう少し一般化すれば、これは以下のような三層構造として理解できる。

第一層:混沌。まだ因果関係や名前が定義されていない、ありのままの世界。
第二層:秩序。混沌に対して何らかの法則を与える世界。
第三層:理解。秩序を受けて初めて物の関係や感想が生じてくる世界。

コーヒーのドリップをイメージしてほしい。蒸らしたコーヒー豆のように、そのままでは食せない混沌がまず最上位にある。次に秩序化というフィルター機構が作用し、そこで初めて飲み下せる理解が出てくるわけだ。
また、三層構造はトップダウンボトムアップの二種類の方法で説明できる。上から下には「先んじて存在する混沌から何とか秩序を見出しそれを利用して混沌を理解する」というストーリーが、下から上には「理解にそぐう何らかの秩序を仮置きしそれを用いて混沌に取り組む」というストーリーが存在する。

先の例は空間認識についての例だが、同じことは時間認識や因果関係についても言える。

補足92:三つ例を挙げますが、本当にただの例なので読まずに次節に行ってもいいです。

・歴史

因果関係について例を挙げると、例えば実証史学と対を成す解釈学的な歴史学では

第一層:混沌→理想的年代記
第二層:秩序→物語行為
第三層:理解→価値観を含む歴史

という三層が同様に存在する。
「理想的年代記」とは歴史上のあらゆる事象を瞬時に把握して記録した壮大な年表のことで、この年表には全ての時間帯に存在する全ての人間の行動や思考が記述されている。理想的年代記はただひたすら時系列順に何が発生したかを記録しているのみで、因果関係を語る能力を持たない。このままでは歴史は価値や意味を持たないというのが解釈学的な歴史論の立場であり、そこから人間が物語る、すなわち二つ以上のイベントを抽出してそれらに時系列的な因果関係を付与し、捨象を伴って秩序化することによって初めて理解可能な歴史になる。このイベントへの意味づけは恣意的であるから、この意味での歴史は後からいくらでも改変されうる(一方、理想的年代記は拡張こそ無限にされるが遡っての改変はされない)。
こうした秩序化機構を陽に想定する歴史の捉え方自体が妥当かどうかはともかくとして、この議論が先程の公園の風景と全く同じ構造を持っていることは明らかだろう。

・経験系の科学

科学についても同様である。この場合は、

第一層:混沌→何らかの実体
第二層:秩序→測定
第三層:理解→方程式

という具合になる。先程は上から下に説明したので、今度は下から上に書いてみよう。
例えば運動方程式には「質量」なる項が含まれているが、質量それ自体の実在は保証されていない。実際、重さを量るのに使われる測定器具の仕組みをよく見ると本当に測っているのは「ひずみ」や「加速度」であり、質量という想定可能な変数に対して感覚的に合致する量を調べているだけだ。無論同じことは「ひずみ」や「加速度」についても言えて、確実な値を確定できる変数は無くなる。構造主義的には「何らかの方程式に従うような何らかの量が測定できるので何らかの実体を想定して世界を理解する」という営みが科学である(念のために言うと、「何らかの」というのは「任意の」ではなく「詳細は不明だが」のニュアンス)。

・言葉

先程は省略したが、名前や言葉に関してももう少し掘り下げることができる。公園の二つの遊具(ブランコとアスレチック)で言えば、それぞれを周囲から切り離して認識する段階とそれらをまとめて「遊具」と呼ぶ段階までに存在する過程、すなわち事物の切り分けから命名までの流れもまた自明ではなく、

第一層:混沌→切り分けられた事物系列
第二層:秩序→グループ化
第三層:理解→(日常的な)言語の使用

として秩序化の機構の中にある。
例えば、鉛筆の束を想像してほしい。あなたがそれらを束ねているゴムを外すと、十数本の鉛筆が音を立てて机の上に転がる。このとき、鉛筆の一本一本を周囲にある机から区別して、独立した挙動をするオブジェクトと見做したとする。しかし、この段階ではまだ鉛筆のそれぞれは「A」「B」「C」と便宜的に区別できるだけで、鉛筆と机が別の物であるのと同じくらい別物だ。ここから「A」「B」「C」をまとめて「鉛筆」と呼ぶためには、「(傷や座標のような多少の差異は無視して)黒鉛が詰まった木の棒を鉛筆と呼ぼう」というルールが必要になる。このグループ化は手元の鉛筆のみならず世界中の鉛筆に対してただちに拡張され、いつどこで鉛筆を見ても「鉛筆」と呼ぶことが可能になるわけだ。すなわち、「A」「B」「C」という事物の系列は鉛筆の定義を経て(日常的な)「鉛筆」という単語の使用に至るという流れがある。
ところで、冒頭の公園に関する議論は既にこうした事物系列に対する秩序化の完了が前提になっていたことに注意してほしい。このことは三層構造はスケール別に適用できるということを意味する。対象の審級に応じてバラバラに適用可能であり、混乱しないように層別に展開することがわりと許される。

2.虚構系での変質

まず、前節の三層構造は現実系=我々が生きているまさにこの世界でのみ成り立つことに注意してほしい。
予告編でも話した通り、興味が向いているのは主に美少女やシンゴジラが存在する想像上の世界であるから、現実系から虚構系に移動するにあたってこの三層構造がどのような変形を被るかを今から問題にしたい。
なお、現実という言葉の含みは多様だが、しばらくは「現実系」と言ったときは「我々が存在するまさにこの世界」、「虚構系」はそれ以外の世界全般を指すことにしよう。まあ、SF的な平行世界や過去世界の独立した実在をとりあえず今は認めないことにすると、虚構系は「フィクションの世界」「想像の世界」とほぼ同じ意味としていい。

さて、虚構系ではまず第一層:混沌が削除されることはほぼ自明だろう。
混沌は人間が認識不可能な世界なので、虚構系は人間の産物であるという時点で混沌を持つことはできなくなる。禅問答のようだが、名前に分解できるような要素の集まりとしてしか風景を認識できない人間が風景画を描いた時点でそれは「名前に分解できるような要素の集まり」でしかなく、ありのままの風景とは別物である。認識されていない世界を認識で描くというのは原理的な不可能事だ。
また、厳格な三層構造を適用する立場からすれば、「現実世界と同じような確度で作品世界もどこかに存在する」というオタク特化型リアリズムはレトリック以上の意味は持たないとして却下せざるをえない。混沌的なものを措定しているように見えたとしてもそれは現実系に似せて作られた幻に過ぎず、本物の混沌とは完全に区別できる。

次に、混沌の削除に伴い、第二層:秩序の性質が大きく変化する。
現実系では秩序層は混沌を理解するための「繋ぎ」に過ぎなかったのだが、虚構系ではもはや説明されるべき混沌そのものが存在していない。しかし、だからといって秩序層まで丸ごと削除されるわけではない。元々、フィルターとしての秩序層は「混沌を咀嚼する」「理解を生成する」という二つの役割を果たす管理職だったことを思い出してほしい。混沌の削除によって前者は消えるが、後者の働きはむしろ強まる。すなわち、虚構系では秩序層は「無根拠に存在し、第三層を規定して生成するもの」という強い権限を得る。もはや秩序層はフィルターではなく、画像を描き出すドットのような役割を担うことになる。

なお、第三層:理解には大した変化はない。別に現実系だろうと虚構系だろうと(近所の公園だろうとアニメの公園だろうと)、このレベルにおけるイメージ的な認識が変化するわけではない。

以上、虚構系における三層の変質を整理する。

第一層:混沌→(削除)
第二層:秩序→存在しない混沌には影響されず、理解の産出のみを担当する
第三層:理解→現実系のものと同様

上から下のストーリーは「もはや混沌は存在せず、最大の自由度を手に入れた秩序が理解を規定する」、下から上のストーリーは「理解を元にして秩序が構成される。その上に見せかけでない混沌は無い」。
最も重要なのは、現実系では中間層だった秩序が虚構系では最上位層になっているということだ。二層にまで縮小された世界の最上位階層が秩序層になると言っても良い。我々が最終的に手に入れる理解は第三層にあるのだが、それを規定する大元、すなわち神の居所が混沌から秩序に変化していると言える。これこそが虚構系特有の神性の起源である。

これを踏まえ、先程の定義を更新してこれからは現実系を「混沌層を含む三層構造を持つ世界」、虚構系を「混沌層が削除された三層構造を持つ世界」と呼ぶことにする。

補足93:あまり本質的ではなく議論が混乱すると困るので補足に回すのだが、先程までの定義とは若干ニュアンスが変わっている(さっきまでは、現実系=我々が存在するまさにこの世界、虚構系=それ以外の世界全般と定義していた)。これによって生じる変化と言えば、アイドルや宗教はさっきまでは現実系だったのだが、今は虚構系になる。これは世界というよりは個人的な世界観に起因する問題として、我々が存在するまさにこの世界にあったとしてもAKB48麻原彰晃には述べた意味での神性が付与されうるからだ。そういう「フィクション的な変形を経た現実要素」は虚構系として取り扱うのが妥当と思われるので、感覚には合致する風に定義を更新したことになる。

少し抽象に走りすぎた感があるので、具体的な話で補足していこう。

現実系では秩序立てられたルールが便宜的なものに過ぎず、後から(実際に変わったのではなく単なる理解や認識の変化によって)ひっくり返される可能性を含んだ仮置きでしかないというのは既に述べた通りである。
先に述べた三例で言えば、ある時期には主流だった歴史解釈が後世の価値観の変化によって改変されること、十八世紀には支持されていた燃素説が理論の変化と共に消え去ったこと、ある特有の現象を示す古語がその現象自体の変質によって失われたこと(昔は月光が地上にまで届いてたのに今はもう無理だからそれを指示する単語自体が消えたみたいな話があったと思うんだけど、古語に詳しくないから調べてもわからなかった)は全て混沌の介入による秩序の改変として捉えられる。

一方で、虚構系での秩序は混沌によっては絶対に改変されない。
認識を超えた無理を押し付けてくる混沌が存在しないため、一度定義された設定はボルトで留められた板金のように確実である。第三層に向かって絶対的に作用するルールであり、基本的には誤りがないし改変もされない。
ここで、虚構系での秩序とはすなわち設定の集合であり、明文化されていないものも含めてキャラやワールドの規定を指す。現実で言うところの運動方程式は実際に起こる現象を説明するためのものだったが、ねぎマのやたらと大量にある魔法関連設定は別に何を説明しているわけでもないと言うと違いがわかりやすいだろう。第三層の理解について具体的に書こうとすると文章に起こした時点で秩序層的になってしまうため、最も正確に虚構系の様子を書けば下のようになる。

(例)
第二層:秩序→通称「サターニャ」。ガヴリールを勝手にライバル視している悪魔。ヴィーネとは異なり率先して悪行をしようとしているが、悪行のスケールは非常に小さく、宿題を忘れたことに対して堂々としていたところ、廊下に立たされ泣き崩れることも。また、妙に人の好い部分があり、根は良い子が悪ぶろうとしているような妙に可愛い悪戯レベルで収まってしまう。 時に悪魔として真面目にやろうとしても、イベント好きのヴィーネに押し切られてしまったり、ラフィにおちょくられて、結局当初の目的を
第三層:理解↓
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補足94:どの記述を原器と見做すか、すなわちアニメ会社から発行された設定資料集からアニメ視聴者が書いたニコニコ大百科の記述まで含めると一つの作品に対して無数の設定資料があるがどれが確定記述かということはあまり問題にしない。
混沌の介入による変形がないということが今の主旨なので、その要件を満たしている限りはどれでも構わない。まあ、(解釈違いというレベルではなく)設定がひっくり返されることもたまにあるが、それは第二層の内部で混乱が起きただけで依然として第一層からの干渉はなく、第三層への強権を振るうという図式に変化はない。むしろ、混沌と関係なく任意に変更できるという意味で自由度を補強しているとも捉えられる。


そろそろ予告編の内容と繋がってきた。
神性のうちで「完全に規定不能なもの」「完全に規定されたもの」という二種類があるということは予告編で述べたが、それぞれお題箱に入っていた用語を流用して規定不能性と聖性と呼ぶことにすると、規定不能性の起源は第一層:混沌、聖性の起源は第二層:秩序にあるというのが大まかな説明である。
それらが神性を帯びるのは我々が利用する第三層:理解の基盤になっているからであり、また、混沌が削除されて秩序が最上位層になる虚構系では聖性の働きが非常に強くなる(虚構と聖性は親和性が高い)。

3.混沌の技法

ここまでに三層構造を定義して現実系と虚構系での大まかな振る舞いについて述べてきたが、前節の内容では「虚構系における規定不能性は如何にして生まれるのか?」がまだ説明できていない。この節では混沌の挙動を拡張し、上の疑問に答える形で虚構系における規定不能性の起源の説明を試みる。

まずは現実系における混沌の現れ方から検討したい。
現実系での混沌の代表的なものと言えば天災や幽霊だろうか。科学の発展によってそれらの混沌感はだいぶ薄れてきたものの、圧倒的な津波をテレビで見れば物理的な脅威以上の畏れを感じるものだし、科学の教育を受けた者でさえ暗闇の墓地で霊に怯えるのは妙なことではない。
ではそれらの「混沌感」がどのように生じるのかを考えると、霊への恐怖は明らかに秩序化を経ていないので、通常の理解と同じように「混沌感」も第二層を経て生まれたと考えるのには無理がある(怪談となってくると「お決まりの怖いオチ」などがあるので微妙なところだが、少なくとも自分自身で墓地を歩くときの恐怖は明らかに不明なものへのそれだろう)。よって、秩序層が機能していない領域があると考えるのが妥当だ。つまり、先程までは三層構造はかっちりとしたパイプのような話し方をしてきたが、実際には第二層のフィルターにはところどころに穴が開いていて、第一層と第三層が直結する部分がある。その領域では秩序化を経ない混沌がそのまま理解に流れ込むので脅威を感じる、そんなところだろう。

次に虚構系における混沌についてだが、前節で述べた通り、大前提として虚構系には混沌が存在しないという部分は変わらない。原理的に無いものは無いとしか言えない。よって、虚構系に混沌的なものを感じるとすれば、それは実際には無いものをまるであるように誤解する体験が如何にして生じさせられたかという、作品の技法的な問題だということになる。

現実系での規定不能性の生まれ方を踏まえると、基本的には「秩序に穴を開ける」ことが混沌を錯覚させる必要条件と言えるだろう。
元々虚構系はカッチリとした秩序を神として回っている世界なので、僅かな穴でも目立って見えて混沌の影を感じるものだ。秩序化不能でさえあればよいので、ただ単に「語らない」という方法でも良いし、「他のルールに従っていない」「制御不能」でもいい。シンゴジラが規定不能性を最も激しく爆発させるのは例のビームを放つ例のシーンだが、(作品内/外における)それまでの予測を遥かに超えた超常的な挙動がその基盤になっていることは言うまでもない。
また、「広げた風呂敷を畳まない」というやり方もある。「風呂敷を畳む」というのは提示した事物に何らかの理由を付け加えるということだから、まさに秩序化の作用に他ならない。秩序の欠落が混沌の幻を導くことを思い出せば、これもまた混沌を生む苗床になる。最近これを感じたのは「自殺サークル」という映画を見たときだ。連続自殺事件に対して主人公?の警察が一生懸命捜査をするのだが、そんなことは意に介さずに異常な自殺が起こりまくり、関係あるような無いような、でも別に事件は説明できない原因をバラ撒いた末に事態を収拾せずに終わる。俺が気に入ったのはその説明を全く放棄した態度だったのだが、続編の「紀子の食卓」では家族を取り巻くテーマが明示されてわかりやすいテーマが展開されるので萎えてしまった。
先に述べた通り三層構造自体は色々な形で現れるので、秩序への穴のあけ方も探せばきっともっと色々あるだろう。

4.ファニーゲームの感想

ほとんど書き終えたが、感想を書くために二点だけ補足する。

まず、原則的には虚構系では秩序が最上位層になり混沌の表出は技法的なものに留まるという話をしてきたが、それは混沌はノイズであるという意味ではなく、まさにその混沌=規定不能性こそが求められるジャンル要素は結構ある。
巨神兵東京に現る」のように神絡みのものをテーマにする際はうまく混沌を表さなければならないし、「不安的な脅威」もその一つだ。人間にしても幽霊にしても原因がわかりきっている不安は不安ではない。何らかの未知性、得体の知れなさがあるから不安は成立するのであり、その意味で不安という要素は定義から混沌の存在を要求する。俺が定期的に言っているように、不安的な脅威はファジーな状況で最大の力を発揮するのだ。

次に、規定不能性と聖性を同時に持つ事態について。
主に美少女キャラクターがそれらを兼備することは珍しくない。予告編にも書いた通り、初期の綾波は不可解な女の子ではあるが、それはそれとして気張ってウンコもしない。このことはどうやって理解できるだろうか。
第一節の言葉に関する具体例の項で少し触れたことだが、これは三層構造が局所的な作用を許容するところに起因する。例えば一人のキャラと言えど、性格や身体性や行動など様々な要素から構成されているわけで、それらについて別々の三層構造を設定することが許される。美少女の例で言えば、「完璧な秩序を持つ虚構系」で身体を、「混沌に繋がる穴を持つ虚構系」で性格を構成したものが不可解な美少女を構成する。
ただし、それらの要求は全く同じ要素に同時には作用できないということにも注意しなければならない。「完璧な秩序」と「穴を持つ秩序」は明らかに物理的に矛盾した要求であり、前者が崩れた瞬間に聖性は崩れるし、後者が崩れた瞬間に規定不能性も崩れる。時系列や部分のように何らかの切り分けを行う必要はある。

これでようやくファニーゲームの感想が書けるようになった。
ファニーゲームの青年二人というキャラクターには、脅威を規定する部分にのみ完全な秩序の穴が開いている。というのはもちろん「脅威」というステータスそのものを指しているのではなく、脅威に繋がる要件全てが秩序を欠いた結果として完全なる規定不能な脅威が出現したという意味である。具体的には存在の不安定さ、目的の欠落、因果の破壊など無数にあり、全て列挙することは難しいが、恐らく脅威を構成する要件全てなのであろうと予想している。
一方で、神性を持つ虚構系のキャラクターにしては珍しく聖性が見受けられないことも特筆に値する。不在だけを拠り所にしてキャラクターが成り立つということは考えにくいので何らかの秩序に立脚しているはずなのだが、聖性を帯びない程度の霞のような秩序しかないというのが真相なのかもしれない。
いずれにせよ、完全なる規定不能性による脅威の寓意という困難なキャラクターが成し遂げられた点で俺はファニーゲームを評価している。

おわりです。