LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

5/29 スカッとジャパンvsクロエの流儀

・お題箱12

22.ファイアパンチについて

かなり面白くて、全巻買ってる漫画の一つです。

プロットより勢い重視で描いているから展開が暴れやすいらしい(そうインタビューで答えてたってみんとんから聞いた)んですけど、今のところはなんとか価値を保ってバランスしている気がします。ミクロなセンスとマクロなバランスの漫画ですよね、ファイアパンチは。

まだ途中だし巻数も少ないのであまり言うことが無いんですけど、現時点での作品自体のクライマックスはトガタが活躍する二巻のあたりです。
トガタみたいに悪い意味でトリックスター的に機能するキャラ、実際の立ち位置はともかくメタ的な行動原理を持つキャラってかなり危険です。他のキャラや話の筋を馬鹿にすることができるために作品全てを矮小化するし、アグニの行動原理とも全然噛み合わないし、しばらくトガタの独擅場になっててこれはやばいな~と思ったんですけど、三巻あたりで擬装をテーマにトガタをうまく利用してアグニに話の筋を戻したのは凄いなと思いました。

続きが楽しみです。

・スカッとジャパン

たまたま人が見てたから一緒に見たけど、思っていた内容と全然違ってびっくりした。
内容を簡単に説明すると「悪者が現れて困っていたら善人が助けてくれてスカッと解決した」というVTRを流し続ける番組で、例えば

「主人公がスーパーでレジ打ちをしていると、一人一限のセール品を二つ購入しようとする悪いババアが現れて『夫が病気で歩けないので代わりに買いに来た』とゴネるので困っていたところ、横から良いババアが現れて『夫は歩けないはずなのにサンダルを二足買っているのはおかしい』と指摘し、嘘を見抜かれた悪ババアは退散した」

みたいな感じ。

「悪者がなんかゴネて主人公困る→善人が登場してなんか言って悪者をやっつける」というフォーマットが徹底されており、全てのVTRがこの構造を取っている。
俺が見たVTRをいくつか解体して記す。

・VTR1(冒頭で書いた話)
場所:スーパー
悪者:悪いババア
悪者のゴネ:夫が病気で歩けない(これが嘘であることは最初から示唆されている)ので一人一限のセール品を二つ買わせてほしい
善人:良いババア
善人の主張:夫が病気で歩けないのにサンダルを買うのはおかしい!

・VTR2
場所:クリーニング屋
悪者:悪いババア
悪者のゴネ:去年クリーニング屋に出したズボンを今年履こうとしたら小さくて履けない(縮んだ?)のでズボンを弁償してほしい
善人:良いババア
善人の主張:ズボンが履けなくなったのはお前が太っただけ!

・VTR3
場所:ハンバーガー屋
悪者:悪いババア
悪者のゴネ:途中まで食べたハンバーガーを床に落としたから新品に交換してほしい(途中まで食ってからわざと落としている)
善人:子供たち
善人の主張:悪いババアがハンバーガーをわざと床に落としているのを見た!

という具合。

どのパターンでも解決が極めてミクロなところに注目したい。というのは、どの解決手段からも「再現性のなさ」「精神性を打倒しない」という、二つの特徴が抽出できるのだ。

・善人の主張に再現性がない
善人の主張は一般論ではなく、機能する状況が限られている。
例えばVTR1の場合、このシチュエーション自体はサンダル以外の商品に対しても起こりうる。仮に悪者が買い込んでいたのがティッシュやレタス等、病人が使用してもおかしくない商品だったとしたら、「それを病人が使うのはおかしいね」パターンでは悪者を倒すことができない。VTR2では悪いババアがスマートババアだったら終わりだし、VTR3ではもし子供がハンバーガーを捨てているのを見ていなかったらどうしようもない。
どれも解決手段が状況限定の細部に支えられているため、同じような困った状況を打開する再現性がないのだ。

・悪者の精神性を打ち倒していない
そもそも主人公が困る状況が引き起こされた原因は「嘘を吐いてゴリ押そうとする悪いババアの精神性」にあり、別に「サンダルを二足買おうとしたこと」にあるわけではない。ゴリ押しババアが今回はたまたまゴリ押しの対象をサンダルにしただけで、他の商品でも同じことは起こりうる(「悪者がゴリ押してワンチャンを狙う」というところに根本的な原因があるのは他のVTRでも全く同じである)。
しかしさっきも書いた通り、解決手段はたまたま悪いババアがサンダルを買おうとしていたことから嘘を見抜けたというだけで、セールDEゴリ押し精神自体を打倒するものではない。撃退されたところで悪いババアの悪の心自体が影響を受けたわけではないので、別の場所か別の日にまた同じことをしてもおかしくない。

上記二つをまとめて、「たまたま運よく適用できた解決手段によって、根本的な原因は解決していないにせよ、困った状況を凌いだ」というのがスカッとジャパンのVTRの特徴となる。問題解決の有効範囲が小さいという意味で、これをミクロな解決手段と表現した。

対になるマクロな解決手段の例として、クロエの流儀の話をしておく。
クロエの流儀も「なんか暴れてる迷惑なやつをクロエが一撃で黙らせる」という似たような内容の漫画だが、解決手段はスカッとジャパンとは真逆だ。
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これはポイ捨てした悪いババアをクロエが撃退するシーンだが、スカッとジャパンと比べて主張がかなり一般論寄りになっている。

さきほどの特徴を反転させて示すと、

・善人(クロエ)の主張に再現性がある
・悪者(ポイ捨てババア)の精神性を打ち倒している

とも書ける。

クロエの主張はポイ捨て全般に対する攻撃であるため、悪いババアが吸殻を捨てていようと空き缶を捨てていようと同じセリフで撃退できる(再現性がある)。また、根本的な問題は今回ババアがたまたま取った行動ではなくその精神性にあることも併せて指摘しており、抑止効果はスカッとジャパンのそれよりも高い。

補足31:スカッとジャパンのケースをマクロに(クロエの流儀的に)解決するなら、突然現れたクロエが見開きで「卑しいお前は乞食そのものだな」とか説教を垂れるだろうし、逆にクロエの流儀のケースをミクロに(スカッとジャパン的に)解決するなら、捨てた空き缶がたまたま一万円の当たりクジ付きで、拾った他の人が喜ぶのを見て捨てたババアが歯噛みする……とか、なんかそんな感じだろう。

さて、このマクロ/ミクロという違いは話の寓意性の有無に帰着できる。
寓意とはある現実の概念を(存在論的な境界を超越して)一つの個体に仮託するという話のやり方で、昔話や民話によく現れる。
例えば舌切り雀では「大小二つのつづらのうち、小さなつづらを取った無欲なお爺さんは幸せになり、大きなつづらを取った強欲なお婆さんは不幸になった」という話があるが、この「つづら」「お爺さん」「お婆さん」はリアリティある登場人物ではない。それぞれ「欲望(の対象)」「無欲」「強欲」の象徴であり、その概念自体が振る舞っているかのように読まれるからこそ、このお話からは「あまり強欲すぎるのはよくない、謙虚に生きましょう」という寓意的教訓が得られるわけだ。

補足32:元々のバージョンでは特に寓意性は無かった(時代を経るうちに子供向けに変化していった)らしいが、そういう歴史的経緯は現在の消費とはあまり関係ないので今は触れない。

話が寓意的であるためにはいくつか条件が考えられるが、特に「物語中の寓意的存在は対応する象徴物として一般的な挙動をしなければならない」というルールに注目する。強欲の象徴であるお婆さんは強欲な者として振る舞い、強欲な者が受けるにふさわしい罰を受けなければいけないのだ。
例えば、お婆さんは普段は極めて強欲だがつづらに限っては幼少期のトラウマからどちらも選べずに逃げ出してしまうとか、大きなつづらからはお化けたちが現れたがお婆さんはネクロマンサーの素質を備えていたために難なく撃退したとか、そういうあまり一般的でないレアケースを持ち込まれると、もはやこの話は教訓を得るための寓意小説としては機能しなくなってしまう。

このルールをスカッとジャパンとクロエの流儀にも適用してみよう。

クロエの流儀における悪いババアはポイ捨てが好きな一キャラではなく、「ポイ捨てをする老人」の象徴であり、クロエはそれを罰する社会正義の象徴として寓意的に機能できる。悪いババアはキャラや状況特有の細かい特徴ではなくポイ捨てそのものが俎上に上がって咎められるし、再現性のある形で問題が解決されるからだ。

一方で、スカッとジャパンにおける悪いババアは「セールでゴリ押し」の象徴とは見做しにくい。スカッとジャパンで悪いババアが打倒されるのは彼女だけが持つ細かい特徴によってであり、その悪辣たる精神性も影響を受けず、このような再現性がないケースから寓意的教訓を引き出すのは難しい。

補足33:スカッとジャパンにおける悪者の打倒は「天罰」とみなすこともできる。細かい打倒過程には再現性が無いかもしれないけれど、悪者は必ず何らかの理由によって打倒されるという構造自体には再現性があるとみなすと、悪いことは必ず罰せられるというかなり単純化された寓意性を保っている。

俺はスカッとジャパンのことを現実への怨念に立脚した番組(現実であった嫌なことは現実では解決できないけど番組内ではスカッと解決できるから気持ちいい)だと思っていたのだが、それをやるのであればクロエの流儀のようなマクロ方式の方がカウンター能力は高い。より一般的な寓意に体験を回収する方が、現実でも適用可能な形の気持ちよさを得ることができるからだ。
クロエの流儀に比べれば、スカッとジャパンはまだコント的な面白さがある番組だと感じる。一回性のおもしろ成敗話とみるならば、ミナミの帝王あたりの方がスカッとジャパンに近い。

補足34:コンテンツを消費することで守られる世界観の差と言ってもいいかもしれない。クロエの流儀は一般論としてそれなりのスケールで社会正義を守ってくれるが、スカッとジャパンは一回性のネタであるために全く世界観を守らないか、さもなくば補足33に書いたような壮大かつ神秘的な形で世界観を守る。