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5/28 発達障害

発達障害の擁護について

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NHKスペシャル発達障害についての番組を見たが、「発達障害」とは単一の起源を持つ一つの病気なのか、複数の症状の集合なのかがよくわからなかった。
wikipediaで調べたら、原因については不明だが、とにかく現状として期待される発達段階に達しないグループをまとめて発達障害と呼ぶことにしているらしい(症候群に近い?)。

俺が原因/症状の区別に注目して番組を見ていたのは、その違いはそのまま発達障害者の擁護の仕方の違いに繋がるからだ。
「擁護」というのは庇い守ることを示すわけだが、この単語を使った時点で暗に示している内容について歯に衣着せず言うと、発達障害者は庇い守られなければならないような苦境にいるという想定がある。もう少し踏み込んで言えば、「ある特定のシーンでは発達障害者はそうでない者に比べて機能が劣る(ために攻撃を受ける)」という前提がある。

補足29:もう少しデリケートに言うならば、たまたま規定されているルールからたまたま漏れている個体が発達障害として括られる(異常性は個体ではなく社会の問題である)みたいな表現になるけど、まあ。

この劣等性について差別をせず、「人によって向き/不向きがある」「個性だから仕方ない」「的確な指示を出せば使えるようになる」とか色々な表現で発達障害者を受け入れようとするのが最近の(Twitterで漫画になってよく流れてくる)風潮だが、原因/症状のどちらに重きを置くかに応じてこうした擁護ロジックの性質は分かれてくる。

原因に重きを置く場合、擁護は免責寄りになる。
免責というのは「責任がない」という意味で、発達障害者の学習障害や不注意は気まぐれや意図ではなく、脳の欠陥などの彼自身が動かせない事情によってそうなっているという「仕方なさ」を示す。
身体的なもので言い換えると、例えば、体育祭への参加を頑なに拒否する学生が足を骨折しているという状況が免責に該当する。参加拒否に彼の趣味嗜好は絡んでおらず、骨折という(骨折の原因まで追う場合はその限りではないが、少なくとも足が折れているという現状としては)彼が責任を負うべき範囲外に原因があるため、「参加したくない」という発言だけを見て攻撃するのは適切ではないというわけだ。

症状に重きを置く場合、擁護は共感寄りになる。
発達障害者の学習障害や不注意は気まぐれや意図ではなく、実際に発生している耐えがたい事情によって引き起こされたものであり、そうした苦痛ある状況に置かれていることを外部から考慮しなければならないという理屈だ。
番組内で紹介されていた例としては、発達障害者の感覚鋭敏についての話はこれに該当する。発達障害者がうまくコミュニケーションを取れないのは、感覚鋭敏によって周りの雑音や風景が強いノイズとして認識され目の前の物事に集中できないからだという話である。これは一見すると原因的な説明であるが、あくまでもうまくコミュニケーションが取れない理由を感覚の次元で追求したものであり、「どこかに炎症がある」というような器質的・遺伝的な次元の原因とは異なっている(とはいえ、感覚鋭敏の場合は「どうしようもない」領域の話であるため、部分的に免責論も含んでいる)。

実際のところ、発達障害者の擁護はこれらを組み合わせて「発達障害は彼に責任を帰すべきではない原因によるものであるし、実際に症状が存在して苦痛を感じているのだから共感しなければならない」という一連の流れを構成することが多い。「個性だから尊重しなければならない」という綺麗ごと系擁護の言わんとしていることも、発達障害が生まれ持った性質であることに注目して免責を適用しようということだろう。
逆に言えば、免責と共感に立脚した擁護は、責任を考慮しない(常に結果だけを見る)上に一切他人に共感しないサイコパス人間にエンカウントした場合は根本から無効となる。

補足30:補足29で触れた話と関連して、「そもそもあらゆる異常性は個体ではなく社会によって定義されるために個人への攻撃に結び付けることは原理的な過ちである(攻撃するなら社会にするべきだ)」という擁護もなくはない(個性尊重説もこれを含んでいるのかもしれない)。内容が正しいかどうかで言えば正しいとは思うが、ラジカルすぎて支持はあまり得られない気がする。
また、「的確な指示を出せば使えるようになる」という擁護は免責でも共感でもない打算的な発想だが、実は「機能が劣る」という想定自体を克服できるのはこの擁護しかない。実現できるのであれば、この方向を目指すのが一番皆が幸せになりやすい路線のような気がする。


・補足/ゲーム思考の次元

たまたま見ていたクイズ番組で

「Q:枝豆と組み合わせたとき、健康効果(具体的な内容は覚えてない)が出やすいものはどちらか? A.鮭 B.チーズ」

という問題を出していたが、こういうタイプの問題は具体的な知識(栄養学に関する知識)が無くても正解を選ぶのは難しくない。考えるまでもなく、鮭が正解に決まっている。

仮に正解がチーズだった場合、出題者がダミー選択肢を鮭にすることはまず有り得ないからだ。
ダミー選択肢の役割は回答者を惑わせることなのだから、正解と比べて遥かに不自然なものを持ってくることは考えにくい。鮭はチーズと比べて遥かに枝豆と合わなさそうな食材であり、実際にクックパッドの検索結果では「枝豆 鮭」が626件、「枝豆 チーズ」が3276件と実に5倍の差がある。
「仮に正解がチーズならば選択肢に鮭が来ることはない」が正しいとすれば、選択肢に鮭があるという現状を鑑みて、正解がチーズではないこと(=正解は鮭であること)が背理的にわかる。

クイズというのは出題者がいて初めて実現する営みであるから、クイズ内容以外にも出題者/回答者の情報が混入してきてしまい、それを情報源として処理することもできる(センター試験でも出題者の気持ちになって回答を導くテクニックが存在する)。
この辺のセコい考え方は、前回言及したゲームプレイヤーの製作者次元の思考とも繋がるところがある。が、ゲームと違って、クイズで盤外情報を利用するのは申し訳ない気持ちにはならない(クイズはゲームのようなごっこ遊びではなくまさに出題者との戦いなので、隙を見せた出題者が悪い)。