LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

5/24 リトルナイトメア1200円くらいかと思ったら2376円

アイアムアヒーロー最終巻

最終巻を読んだ。
最終巻の感想というよりはアイアムアヒーロー全体の感想を書くんだけど、俺的にはアイアムアヒーロールサンチマンのマイナーチェンジ漫画という印象である。表し方がジャンルによって違うだけで、花沢健吾の社会的弱者への執着は一貫している気がする。

補足27:『悪の華』は現実逃避に執着する押見修造の『漂流ネットカフェ』のマイナーチェンジ漫画だということを前に喋ったのと同じ。作品と作者を結び付けるのはあまり良くないと言っておきながら、再びそういう語り方をしてしまう。

iama3[1]
この二巻の三谷の発言を筆頭に、アイアムアヒーローではスコップ男やタカシのような社会的弱者たちがゾンビ世界で救済されていく。これはルサンチマンにおいて拓郎や越後のような社会的弱者たちがVR世界に救済を求めた流れと同じだ。
ルサンチマンアイアムアヒーローの対応関係を書き出すと、

現実:現実世界⇔ゾンビがいない頃の世界
非現実:VR世界⇔ゾンビ世界
現実のヒロイン:長尾⇔つぐみ
非現実のヒロイン:月子⇔ヒロミ

みたいな感じになる。
まあ、俺的にはヒロイン勢はかなりどうでもよくて、最も記憶に残るキャラはコロリ隊長だった。
「非現実にネガティブに適合していく社会的弱者」「現実にも非現実にも属しきれずにその狭間で揺れ動く主人公」に対して、唯一現実と非現実の両方に(現実的に)ポジティブに適合する存在がコロリ隊長だ(このタイプのキャラはルサンチマンにはいなかった)。コロリ隊長は社会不適合寄りの人格であるにも関わらず、現実で漫画を描くにしても非現実でゾンビと戦うにしても、他人に慕われながら一定の結果を残せる万能キャラである。

最終的に、コロリ隊長が避難先の島で平穏な現実に帰還する一方、英雄は一人東京に取り残されるという対比でアイアムアヒーローは終わる。
この結末を導く分岐点になったのは浅田戦で英雄がコロリ隊長を狙撃したところで、ここで英雄は現実世界へ続く糸を自ら手放してしまった。現実世界で英雄を最もよく理解・評価していたのはコロリ隊長であり、彼が持っていた漫画もまた英雄が現実と適合した証だったわけで、その二つを撃ち抜いた英雄には現実に戻る資格が無くなってしまったのだ。

なんか理が勝ちすぎる気持ち悪いことを言っている(ネットで読んだら「何言ってんだこいつ」って言いそうなことを自分で言っている)ので、もうちょっと個人的な感想にシフトしたい。

しばらくルサンチマンのことを語ると、ルサンチマンは中盤まではかなり面白いんだけど、それ以降は全然ダメな漫画だった。
最初に「充実しない現実vs充実した非現実」っていう対立が提示されるのに、長尾が拓郎に好意を示したあたりで「充実した現実vs充実した非現実」に変わってしまって、せっかくのテーマが単にヒロイン二人から言い寄られてどうしよう?っていうヒューマンドラマに矮小化してしまう。最後のオチもよくわからんDNA技術で月子が現実と非現実の境を超えるというもので、もはや対立構造自体が完全に瓦解する。俺は最終巻を読んだとき「何がやりたかったの?」って思った。

一応、ヒューマンドラマに転向した主人公に代わって越後は当初の対立を受け継いでいる。
越後を最後まできちんと描くあたり、作者も対立への意識を捨てているわけではないはずだ。特にルサンチマン完全版で越後が救済された部分で、現実の拓郎を受け入れなかった月子と現実の越後を受け入れた恋人たちの差が露骨に描かれていて、俺は「やるやんけ」と唸ってしまった。
とはいえ越後はサブキャラだ。作者が本当に興味がある部分はヒューマンドラマなのか、主人公可愛さで希望を与えたくなってしまうのか、とにかく対立の主軸はずれた。

アイアムアヒーローの結末もルサンチマンのそれと似たようなところがあって、英雄は現実と非現実の狭間(文明は崩壊しているがゾンビはいない世界)に適合し、ほどほどに非現実的な妄想をしながら、それなりに現実的に図太く動物を狩って生き抜いていく。
まあでも、拓郎も英雄もあまり報われないっていうのは、俺的には好きかもしれない。

全然関係ないけど、クルス編クライマックスの戦闘シーン(14巻付近)はアイアムアヒーローの話をするときは多分必ず話題に出す。


補足28:数ある漫画の中で、「ルサンチマン」はトップクラスに話題に出しにくい漫画である。なまじオタクを泥臭く描いているだけに、「オタクがルサンチマンを話題に出す」という行為自体がその人間がルサンチマン的な世界観でオタクをやっているという誤解を誘発するからだ。
俺は拓郎のような社会的弱者ではないし、拓郎のバックグラウンドに共感はしていない。人の事情は色々だ。
この前の二式の記事も、そういうつまらない誤解を先制して封じるために書いた節がある。
本田透あたりがルサンチマン(漫画)のルサンチマン(原義)的な部分にバシバシに共感していることも誤解を後押しをする。


ルサンチマンのキャラが表紙を飾る本田透の「電波男」はそういう背景から書かれた本だが、ルサンチマンと全く同じ理由で人にはすごく勧めづらい。
電波男の中で俺が面白いと思ったのは神を失ったアガペーが家族愛を経由して萌えに繋がっていくという解釈あたりで、作者が最も力を入れているであろう負け犬精神的な部分はやはりかなりどうでもいい。しかし、弁明をせずにこの本を人に勧めたとき、それが正確に理解される可能性は限りなく低い。


・リトルナイトメア感想

含ネタバレ

==== まあって感じだった。
DL専売ソフトにありがちなステージクリア式のアドベンチャーで、アクションというよりは謎解き的な面が強い。
つまらなくはないし、記憶に残る部分もあるが、内容が少ないために(ボリューム不足と言っているわけではなく、語ってくる部分が少ない。製作者的にもフルプライスタイトルじゃないからテーマを絞ろうという気分になるのかもしれない、知らんけど)どうという気持ちがあまり起きない。

最近よく思うのだが、謎解きゲームにはメタ的な思考が要求されるところがある。
というのは、プレイヤーがゲーム世界内の事情で振る舞うのではなく、現実世界にいる製作者のことを念頭に置いてゲーム内での行動を決定してしまう(この種のメタ思考はあらゆるゲームにあるのだが、謎解きものでそれが一番強く出てくる)。

例えば、謎解きで本当に行き詰ったとき、何をすればいいのか全くわからなくなったとき、鍵が必要なのは明らかなのにそれがどこにあるのかわからないとき、何らかの弱点を持つであろうボスの弱点が何度試してもわからないとき、探し回ってもヒントが全く見つからないとき。
こういうとき、プレイヤーの思考は対ゲームを離れて対製作者にシフトしがちだ。製作者は何を考えてオブジェクトを配置したのか、製作者なら鍵をどこに置くか、製作者なら敵の弱点をどういう場所に付けるだろうかということを考えて活路を見出す。探求の対象がゲーム世界から現実世界の製作者に変わってしまう。

俺は最も誠実なゲームプレイの態度というのは、そのゲームの世界系に乗っ取って思考・行動するごっこ遊びだと考えているのだが、謎解きギミックを前にすると、この「誠実な態度」は崩れ去り、現実系に立脚して思考・行動する不誠実なプレイに走ってしまいやすい。
例外として、ゲーム側にメタフィクション的な要素がある場合は必ずしも不誠実とも限らないが(メタルギアソリッドのサイコマンティス戦)、基本的には現実での事情を利用して攻略するのはどうもチート気味というか、ちょっと罪悪感がある。

補足29:「ゲームの世界系に乗っ取って思考する」というのは、「主人公に感情移入する」という意味ではない。そのゲーム世界のルールを理解している匿名の登場人物として振る舞うということである。例えば、重力が逆転した世界が舞台のゲームをする場合、特定の誰かに転移するわけではなくても、とりあえず「重力が逆転している」ことを認識しているその世界の住人aとしてゲームに参加するべきだ。

これは謎解きに限った話でもないと冒頭で言ったので、RPGにおける例も出しておこう。
氷っぽい見た目のキャラに炎属性攻撃を仕掛けるとき、「誠実な態度」による思考は「氷っぽい見た目だし、この俺の炎攻撃で溶かせそうだ」というもの。一方、「不誠実な態度」による思考は「氷っぽい見た目のキャラに対しては、炎攻撃が効くものとして設定するのが現実に生きる我々にとって妥当な発想ではないだろうか」というもの。

さて、こういう思考を誘発してしまう原因はゲームの特性にある。
特性とはいっても大した理由ではなく、ゲームは創作物であるが故に製作者の手を逃れられないというだけの話だ。製作者が一度「ドアを開けるには特定の鍵が必要」と設定してしまうと、「特定の鍵を入手する」以外のドアを開ける方法は全て遮断される。
当たり前すぎて逆にわかりにくいので現実と対比すると、現実には創造主が存在しないので(するかもしれないが、少なくとも我々の知覚の遥か向こうにいる。もしくは、ルールがもっとミクロなスケールで定まっているために)、特に誰かの意図に依存しているということがない。現実でドアを開けるには、鍵を探さなくても鍵を壊すなりドアを壊すなりという他の方法が無数にある。

攻略に製作者の意図性が絡むことを排除する方向性も存在し、switchのゼル伝最新作はそれに該当する。
製作者が意図した謎解き方法はあるにせよ、物理的に(?)謎が解けるなら他の方法も全て認めており、ゲームシステムとして別解を遮断していないので、「まさかそんなやり方が」という解法が許容される(よく別解動画がTwitterでRTされてくる)。
この方式であれば、プレイヤーはゲーム内のルールで考えて答えを出す(ごっこ遊びに参加する)モチベーションを後押しされ、誠実な態度でゲームに臨みやすくなるだろう。もっとも、製作側にとっては別解を管理することが難しくなり、一歩間違えればバグやショートカットの温床になりかねないハイリスクな方針かもしれない。

そういえば、はやみねかおる清志郎シリーズでレーチが「ゲームで鍵のアイテムを手に入れてドアを開けるんじゃなくて、銃で壊して開けられる」という発言をしていたような気がするのだが、何巻のどこでどういう文脈で喋られたのかは全く覚えていない。
この発言を今回の話題の主旨に照らして正確に解釈すれば、「システム上、ドアの開錠には鍵の入手以外にも発砲動作が認められている」では不十分で、「鍵の3Dモデルが発砲によって破壊されることを理由に、物理演算的にドアが開閉する」でようやく十分となる。