LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

19/4/17 ズートピア/アバター/ダヴィンチコード の感想

ズートピア

30000000004983
序盤こそ強者=肉食動物優位な社会で弱者=草食動物が自己決定権を主張するリベラルの夢物語かと思って見ていたが、途中からもっと複雑なテーマを持った映画であることがわかってくる。中盤で肉食動物が潜在させている攻撃性が社会から危険視されると同時に、数の上では草食動物が勝っていることが明らかになり、草食動物優位な社会に逆転してしまうのだ。差別が逆差別に転じる様子を描き、透明性が有り得ない差別構造の流動性を描いてみせたのは素直に感心した。

まあそんなことは見れば誰でもわかるとして、気になるのはやはり「推奨される自己決定の範囲が恣意的に限定されていないか?」ということだ。
主人公は小型動物でありながら慣習的に大型動物の仕事とされてきた警察官の職に就いた。そのギャップがステレオタイプを打ち砕いた英雄を生むわけだが、その反面、いかにも小型動物らしい農家の仕事に従事する両親たちが頑迷で古風な人間として描写されている印象を受ける。
だが、小型動物らしい仕事がしたい小型動物は胸を張って農家になればよいではないか。警察官になりたい小型動物だけが持ち上げられ、農家になりたい小型動物が否定されることには問題がある。「そうあるべき」と公認されている自己決定しか認めないならば、否定したかったはずの偏見と大差がなくなってしまうからだ。ジェンダーに置き換えるならこういうことだ。「本当に働きたい女性」が働く権利を推進した結果、「本当に家庭に入りたい女性」が古風で頑迷な人間として否定される状態は健全ではない(と俺は思うが、そういう風潮はもう既にかなり強くなっているような気もする)。

ここでポイントとして、ズートピアでは「自然状態における種族間の優劣」が明確に設定されていることに注意したい。
野生では肉食動物は草食動物を捕食するという食物連鎖が成立していたことは冒頭から提示されている。また、その本能は薬一つで戻ってくる程度には存続している。肉食動物が「ウサギを食べたい」と言うのは自然な発言だし、同じ意味で野生の中で立場が弱い小型動物も農家になるのが自然と言える。
人間社会ではこうはなっていない。つまり、「肉食動物は草食動物を捕食するのが自然である」が真であるのに対し、「女性は家庭に入って男性に養われるのが自然である」だとか、「黒人は白人よりも不潔で知性が劣るのが自然である」は真ではない(真だと考えている人間は少なくないが、誰かが見て確認してきたわけではない)。
このように、「自然」というナイーブな言葉がほとんど意味を持たない人間社会とは違って、ズートピアは自然状態の優劣を設定したおかげで話が簡単になっていることがわかる。「自然な傾向性」なるものが明確に存在し、それに抗った主人公は「自然ではない選択で自分の意志を示した」という意味で自己決定権の行使者となっているわけだ。

最初の疑問に戻ろう。ズートピアは寓話として不誠実だったのではないか?「本来の性質」を否定してわかりやすいリベラル運動に加担する限りにおいてしか自己決定権は奨励されていないのではないか?
結論から言えば、否である。俺はズートピアは誠実だったと思う。その根拠はヌーディストのシーンにある。
そもそも、聞き込みシーンで突然挿入されるヌーディストコミュニティを不自然だと思わなかっただろうか。「動物が裸であることに驚く」というギャグをやるためだけに、大勢の子供が見る作品でヌーディストという説明しにくい(変態)性癖をフィーチャーするコストを支払うのは高すぎると思わなかっただろうか。
ヌーディストの動物たちが提示するのは自然状態の別パターンである。ヌーディストコミュニティには肉食・草食動物が共存している(ワンカットだけではあるが、毛づくろいをしている黒ヒョウがいる)。ズートピアにも通常の社会規範から切断された場所で本能の赴くままに振る舞う場所が存在し、それが捕食と殺戮の場にならずにとりあえず穏当なコミュニティを形成していることを描写したのがあのシークエンスの存在意義なのだ。裸になることで疑似的に自然に帰るという選択の決定権がズートピアでも担保されており、これが「自然な選択は奨励されないのではないか?」という当面の疑惑に対するエクスキューズとなっている。動物にもヌーディストになる権利がある。まあ、理想を言えばヌーディストコミュニティよりもコロッセウムでも描いた方が誠実ではあるが、そこは作品の雰囲気との兼ね合い、妥当な落としどころというやつだ。

アバター

avatar
利己的な悪い人間が貴重な資源を求め最新鋭の兵器を使って原始的な生活をしている善良な自然の民を襲撃している!止めなくては!というベタな内容の映画。当然ながら、常に人間サイドが軍用ヘリや銃を使っているのに対して、青肌の部族は弓矢や動物騎乗で戦うので武力が劣っている。実際、中盤では人間が勝利するのだが、最終的には人間の主人公が青肌たちに寝返って部族仲間を集めることで人間を撃退するという展開になる。

驚いたのは、不毛な戦争に対して本当に何の解決策も提示していないことだ。
部族が人間を倒せたのは「総武力を集めたら実は人間を上回っていた」というだけの理由でしかない。戦争のシステム自体は一貫して不変であり、ただ単に「暴力が大きい方が小さい方を倒せる」というルールに則って、最初は人間が勝ち、次は青肌が勝ったというだけだ。そこにはあらゆる意味で何の葛藤もなく、現実への適用可能性もない。「こうやって返り討ちにあうので未開部族をいじめるのはやめましょうね」という単純な寓話的教訓を読み取るのが精々だ。

ここまでならよくある駄作だが、ラストが良かった。
ラストでは元々は人間だった主人公が超自然的なシステムによって青肌の部族に転生する。不毛な戦争は何らかの革新的な手段によってシステムレベルでマクロに打倒されるのではなく、むしろポジションへの原始的な固執によってミクロに解決されるという話だったのだが、それを更に徹底して、生物としての種を変更するという本質的かつ不可逆、究極のポジショニングを行ったわけだ。興行収入上位に来るような映画は既存の価値観を変革するのではなく温存するものでありがちだが、その極致と言えよう。「対立におけるポジショニング」というテーマで引用価値が高い……かもしれない。

ダ・ヴィンチコード

mig
ネタバレが致命的なので追記に回す。
==== 絵画などに隠された様々なコードを読み解きながらカトリック教会の陰謀を告発する内容でどんどん進んでいくのだが、その信憑性は色々な意味で微妙なところだ。
この映画で展開される教会への告発が本当に神学的に有効なものだったら、この映画が無事に公開されて興行収入上位に来るはずがない。しかしそうは言っても告発そのものはリアルベースで行われており、造り物の証拠や大法螺で進んでいるという様子でもない。実際の神学的な経緯や実在の絵画を交えて、少なくとも見かけ上は現実的な告発に見えるように作られているのだ。なので終始「これ大丈夫なんか?」「この映画で次々に明らかにされていく『真実』に対してどんな反応をすればいいんだ?」という不安定な立場で見ることを余儀なくされる。物語世界のベタな視点だけではなく現実世界のメタな視点からもドキドキできるのがちょっと面白い(ちなみに純粋にエンタメとして見たこの映画は、スリリングに陰謀を解き明かしながら進む逃走劇という感じで普通にかなり面白い)。

しかし衝撃のラストシーンで全てが一変する。なんと、ヒロインが聖母マリアの末裔だったというのだ!!
このシーン見たとき俺はマジで一分くらい笑ってしまった。この笑いのニュアンスを正確に伝えるのは少し難しいのだが、少なくとも俺にとってこのオチは「俺はバットマンの末裔だった」と同じだ。荒唐無稽なオチとそこまでのシリアスな展開との落差が本当に面白く、ドキュメンタリーかと思ったらシュールギャグだったというのが近い。また、このオチが「この映画はギャグです」「ここまでの話は全部真面目に取り合う必要はありません」「教会への告発も迫真ではなくエンタメの範疇です」という安全弁でもあることが更に脱力した笑いを誘う。

とはいえ、それは俺がキリスト教の外部にいる自然科学の信奉者だから激ウケしたという話に過ぎないことは留意しておいた方がいいのかもしれない。「復活」とか「処女懐胎」とかいう概念が出てきた時点で「フィクションだな」と反応するような世界観にいるから脱力できるのであって、そうではない層にとってはむしろ更に深刻な議論を生んでもおかしくはない。
まあ、そういう論争はそういう層がやっていてくれればいい。俺は「一分笑った」という理由でこの映画を評価する。それで終わりだ。