LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

4/6 お仕事シリーズ

・続き/お仕事シリーズ

SHIROBAKOは最初から最後まで見たが、花咲くいろはは二話で見るのをやめてしまった(テポドンみたいなセリフの辺りは面白そうなのでそれが出るまで頑張って見ればよかったと思ってはいる)。花咲くいろはSHIROBAKOの違いみたいなことを話そうとすると、見ていないアニメを推測で語るエアプになってしまうので、この話はここで切って、「全然関係ないけど」という前置きをしなければならない。

 

例えば、アニメ内で描写される人間関係が手段か目的かということを考えるときに、最も単純にはストーリーラインを見ることがある。SHIROBAKOの場合はアニメ製作という大目標がまずあって、人間関係を築くことはそれを実現するための手段である。

一方、朝ドラみたいなシリアス寄りのコメディ?(コメディっていう単語、原義では「喜劇」だけど、実際には「明確な目標がなく、テーマよりもアドリブ寄りのジャズ的な作品」くらいの意味で使うことが多い気がする)では、大目標が無いという意味で人間関係の描写が目的だと言うことはできる。

 

のだが、これはかなり恣意的な判断で、SHIROBAKOを「人間関係を描くためのアニメで、たまたまアニメ製作という題材が選ばれている」と見るのは可能だ。実際にどう意図して作られているかはインタビューすればわかるかもしれないが、それは一つの立場に過ぎないし、少なくとも視聴者としてそう意図してみれば解釈としてはそういうことになる。

 

今「作品の目標」について二つのレベルが混在しているわけで、一つにはストーリー構造として比較的システマチックに見られる部分、もう一つには作者や視聴者の「意図的なもの」が介入した部分ということになる。

 

今この文章はめっちゃ適当にアドリブで書いてるけど、なんか普段から適当に使っている「意図」という概念をそろそろきちんと整理しなければならないな……と思い立って今日(4/5)はもう眠いので寝る。

 

・続き

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↑これからこの話をする

 

意図の介入について考えるとき、多分一番最初の分岐は虚構の自律性をどの程度仮定するかということになる。

自律性というのは、「どの程度独立して存在しているか」ということだ。自律性を最大まで設定した場合、つまり完全に独立している場合は、別次元に実際にある物語世界を製作者が撮影して現実に引っ張ってきたのがコンテンツだし、最小に設定した場合は製作者が合目的的に発したもの・完全に現実に内包された記号の連なりがコンテンツだ。

しげすぎちゃんが酒を呑みながら「富野は神に命じられてたまたまガンダムを作らされた巫女的な存在で~」とか言っているやつは前者である(このエピソードは結構気に入っているので虚構の自律性について喋るたびに喋っている)一方、「どういうものがウケるのか」という市場調査などを元にして、展開や設定の一つ一つに様々な可能性を考え、最適と思われるものを選び出して並べるのが後者である。

 

この二つの立場は実際には検証不可能であって、どちらを考えるかということに深い意味はない。現実的には後者が実際であるように思われるが、前者も厳密に否定する根拠は特にない(ガンダムを作ろうという人間の思考が本当に自発的に生起しているのかという話を始めるとこれは自由意志論の範疇になるが、結論は出ていないので、別世界の意志を受信しているという主張も不可能ではない)。俺的には前者の方が好きなので、よくそういうスタンスを取っている。

 

深い意味は無いと言いつつ何故こんな前置きをしたのかというと、エンコードとデコードについて話すのに必要だからだ。

昔、一般的に文章などの創作行為には情報理論における信号伝達モデルを流用できると思ったことがあって、さっきから話してきた「意図」という話は、結局この話に繋がっていく(今日の話はいつも以上に取っ散らかっているが、メインテーマは「意図」である)。

 

前に思い付いたときに二式に半分くらい書いたやつがあるので、そのときの没記事を載せる。

 

********

タイトル:一般的創作行為における信号伝達モデルの適用

 

目次

0.問題意識
1.情報理論における信号伝達モデル
2.信号伝達モデルの創作一般への適用
3.意味論と構造論
4.階層レベル
5.文章以外への適用
 
0.問題提起
例えば「文章を書く」という行為は俺が今まさにパソコンに向かってやっていることなのだが、この「文章を書く」行動はどういう過程と目的を持つものかをもう少し噛み砕いてやると、「俺が頭の中で考えていることを文章を介して人に可能な限り伝えようとする」行動である。これは説明文でも物語文でも同じで、ブログを書くなら『今皆さんに伝えたい話』をブログ作成画面に書くし、ラノベを書くなら『主人公が異世界に飛ばされてチートする話』を作文用紙かなんかに書く。要するに、アイデアを文章にして伝えるのだ。
この過程を「言語化」と呼ぶことにするが、言語化はよく失敗する。アイデアを伝えようと思って文章を作成したにも関わらず、読んだ人にはアイデアが正しく伝わらないということが起こる。
例を挙げてみる。
 
・何を言っているのか全くわからない
 例:「キュレーターが持ってきた三角形を四分割して電気の呪文が唱えるとブックカバーは太陽です」
・何を言っているのかはだいたいわかるが、非常に読みづらい
 例:「カードを買ったが、10円だが、10000円札しか無かったが、店員に悪かった」
・何を言っているのかはわかるが、微妙に読みづらい
 例:「昨日渋谷に行ったんだけど、人は少なかったけど、息苦しかった」
・何を言っているのかはわかるが、つまらない
 例:「桃太郎のあらすじを書きます……少年が鬼を倒したおわり」
・何を言っているのか微視的にはわかるが、巨視的に見ると話が破綻している
 例:「私はコンビニで肉まんを買いました。なので、自転車が500円で驚きました」
 
それぞれ文章のどこが破綻しているのかを指摘して修正するのは難しくないし、これに関しては「悪文 第三版」という神本があり、これを読めば上のような文章を書くことはまず無くなる。

しかし、俺が「悪文 第三版」では不十分だと感じたのは、体系的なモデルを提供していないという点にある。「悪文 第三版」という本は巻末の50個のアドバイス集に集約されるのだが、アドバイスを定理とすれば、公理系が存在しない。飛行機で言えば「どうすればうまく飛ばせるか」という操縦者へのガイドブックに留まっており、「何故飛行機は空を飛べるのか」という航空力学の教科書ではない。摩耗した塀をコンクリートで補強するが如き方法論であり、塀の組み立て方を教えたものではない。
 
俺はそういう良いモデルと分類(※1)が欲しくなり、それを考え始めた(※2)が、「情報理論における信号伝達モデルを流用する」というやり方がかなり良かったのでそれについて書く。
 
※1:「良い」というのは排他的かつ完全、つまり、漏れなく被りがないことである。この概念は数学では商集合(同値類分解)、経営学ではMECEと呼ぶらしい。
 
※2:俺がこれを何としても自力で見つけなければならないと思ったのは、フィクションにおいては、アイデア→テキストという変換はそのまま物語世界を現実世界に変換する作業になるからだ。
テキストをアイデアに復元する段階で、本来接触不能な非現実世界に触れる方法を提供するという意味において、このシステムは神を降ろす巫女の舞に相当する。
 
1.情報理論における信号伝達モデル
この節では情報理論の講義をする。
本当に情報理論学の話しかしないので興味のない人は飛ばしてもいいぜ……と言いたいのは山々なのだが、今回の話の中核を成す部分なので頑張って読んでほしい。
 
地点Aから地点Bへと情報を伝達する際の信号作成について考えてみよう。
 
例えば、東京から大阪にいる友達に向けて何かメールを送ることを想像してほしい。
送るメッセージは何でもいいのだが、話をわかりやすくするために今は「3」というメッセージを送ることにしよう。さっき「彼女にするならどれ? 1:年上 2:年下 3:同い年」というメールが来たところなので、ただ「3」とだけ返信すれば十分なのだ。

君が入力した「3」というメッセージは電波になってスマホから発信され、詳しくは知らんが基地局とかを通りつつ相手の元へと飛んでいく。ざっくり言うと電気のパワーを使って情報を送信するわけだが、電気は0と1しか扱えないので、「3」というメッセージは電波として伝わる際は2進数の「11」に変換される。この「11」は、相手の元へと届く際には再び変換されて「3」に戻り、ようやく元の情報として相手に伝わるわけだ。
 
3という情報を「11」という符号にするという意味で「3→11」を符号化、元に戻すという意味で「11→3」を復号化という。

ポイントとしては、符号化にはいくらかの任意性があるということである。
一番わかりやすい例で言えば、何桁の情報を送るのかは我々が勝手に決める部分になる。2桁送るなら「11」だが、4桁送るなら「0011」、16桁送るなら「00000000000011」だ。また、2進法を用いる必要はない。復号さえできるなら符号化に使うルールはなんでもいいのだ。例えば「8桁のうちにある1の個数が送る数字になる」というルールを使えば、「00000111」で「3」、「01111111」で「7」ということにもできる。
 
この節で覚えておいてほしいポイントは、
・情報は符号化によって符号になり、その後、復号化によって情報に戻る
・その際、使う符号化には任意性がある
という2点である。
 
**************
 
この後、アイデア⇔テキスト間の変換において符号化と復号化を逆変換にすることは可能か~とか単語レベルと文章レベルでの符号の障害は~というような話が続くのだが、話がごみごみする割に結論がよくわからないので没記事になった。
 
今日の話は色々なところに飛んでいて空中分解寸前なのだが、最終的に「意図とバーチャルリアリティ」的なところに着地する予定である(次回に続く)。
 

遊戯王ArcVの感想

この前最終回ラッシュで書こうと思って忘れてた。
俺はカードバトルにあまり執着していないのでシンクロ次元編のデュエルを軽視した脚本は自由度が増していて面白かったけど、融合次元編以降は遊矢の話を無限に繰り返していて、ただ単に退屈だった。
 
あと、終盤でズァーク救済をやらないのが本当に謎だった。俺は作品に対して「こうした方がいい」みたいなことはあんま言わない方だと思うんだけど、あまりにも違和感がデカすぎる。
「全ての人を笑顔に=エンタメ!」っていうのは最初期からのテーマだったはずなのに、ズァークの処理が「ズァークから悪の心を取り除いてズァークを含めた皆を笑顔にする」じゃなくて、「悪の心=ズァークを排除してズァーク以外を笑顔にする」っていう正反対の方向を向いているのは筋が通らない。零児がそう主張するのはともかく、遊矢までそうしようとするのは流石におかしくないか。君は何を学んできたんだ?
あまりにも不自然だから脚本的にそうしなければいけない理由があったのかを大会再開以降ずっと考えていたけど、よくわからなかった。最後の最後にズァークも笑顔になった~的なことを少しだけ言ってたけど、クライマックスに柚子の救出を設定したせいでその尺が一瞬しかなくて、問題の重大さに対してあまりにも描写が軽すぎる。
 
まあ、シンクロ次元編は本当に良かったので、全体的な面白さは今までのシリーズと同じか、精々少しつまらないくらい。いつもは尻上がり式に面白くなるけど、今回は富士山型だった。