LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

18/5/3 レディプレイヤーワンの感想

・レディプレイヤーワン感想

20180417160432
ネタバレを含むので追記

==== なんか、全体的に事前知識の要求量が多いね。
単純なパロディとか言及だけならまだしもシャイニング視聴済みで無ければ理解できない長めのシーンがあったり、特にキーになっている「イースター・エッグ」について、情報系の人以外はニュアンスを掴めただろうか?

そもそも単語自体が日本ではあまり一般的ではない気がするのだが、「イースター・エッグとは、コンピュータのソフトウェア・書籍・CDなどに隠されていて、本来の機能・目的とは無関係であるメッセージや画面の総称である」(→wikipedia)。
これを読んで「要するに隠しコマンドのことか」と思ってしまうのは誤りではないにせよ適切ではない。ゲーム内で何か機能を持つ隠しコマンドと違って、イースターエッグは何も起こさない無意味さに特徴がある。隠しコマンドは攻略本に載ることもあるが、イースターエッグは載らない。

何故わざわざ無意味なものをプログラムに盛り込むのかという気持ちは、ゲーム的なプログラムを趣味で組んだことのある人にしかわからないところがある(逆に、趣味で何かプログラムを作った経験のある人のほとんどはイースターエッグを仕込もうとしたことがあるはずだ)。
更に言えば、同じ創作物でも絵や小説にはイースターエッグを仕込めないというところが理解の幅を狭める。一般的に言って絵や小説は製作者と消費者が見ているものが一致しているので、「普通はまず気付かれない要素」を盛り込むのは不可能ではないにせよ困難である。一方、プログラムは内容の全てを消費者に向けて開示するわけではないというところに大きな特徴がある。プログラムの本体はソースコードだが、普通は消費者はそれを見ることはない(大抵リバースエンジニアリングを防ぐためにガードされている)。この多層化した構造によって、プログラムは絵や小説と違って目に映らない・感知されないものを仕込むのが容易になる。

そして不可視で無意味であるからこそ、イースターエッグは製作者の自己顕示欲そのものとして機能するようになる。
もし仮にイースターエッグがポジティブな機能を持つ有意義なものであれば、それはプログラムの性能を上げるための合目的的な作業として理解されてしまう。プログラムのクオリティを上げるのは他のプログラマーでもできるので、「他の誰でもなくこの俺が作った」という主張にはならない。だからこそ、完全に無意味なものを仕込んで自分専用のマーキングをするわけだ。無意味かつ私秘的、完全にプライベートなオタクのエゴがイースターエッグのコアである。

ハリデーがZにイースターエッグを渡すことも、そういうイースターエッグが持つ独特のニュアンスの下で理解する必要がある。
そもそもZはイースターエッグを渡されるよりも前にオアシス破壊ボタンを押す権利(運営権)を入手しているわけで、今更イースターエッグを得ることに実質的な意味はない。それでもハリデーがZにイースターエッグを渡さなければならないと思って机の下をゴソゴソ探すのは、それが本当にZを認めたことの証左としてプライベートな領域を共有する行為だからである。
なんだか国語の教科書にある解説みたいなことを書いてしまって恥ずかしいけど、そもそもイースターエッグっていう単語自体そこまで知られてない感があるのに、その辺のニュアンスはオタクというかプログラミングへの造詣が深い人以外に通じるのかな?とは見ながら思った。


話変わって、「俺はガンダムで行く」"I Choose the form of GUNDAM" は本当に良かったね。
俺はだいたい斜に構えてるからコンテンツから発生する定型文に対しては「寒ww俺は絶対に言わんわw」みたいな態度を取りがちけど、俺もガンダムでは行ってしまうわ。そのくらいインパクトがあるし痺れた。確実に好きな映画シーンベスト5くらいには入る。

「俺はガンダムで行く」が日本語である理由は、あれが伝達を放棄した完全に私的な発言だからだ。
まず前提としてレディプレイヤーワンでは英語が公用語で、他のシーンではダイトウを含めた全キャラが英語を喋っている。英語がコミュニケーション言語として、伝達を行う目的で選択される世界なのだ(「レディプレイヤーワンはもともと英語圏の映画だから、異世界転生もので日本語が使われるのと同じように、便宜的に英語で喋っているように表現しているだけかもしれない」という反論は不可能ではないが、そう考える意味も特にないので棄却する。また、万が一英語ではなかったとしても、日本語でなければ十分だ)。
しかし、だからといって各個人にとって思考したり独り言を言う際に最も自然な第一言語が英語であるとは限らない。主人公を代表とした英語圏出身のキャラクターは第一言語が英語だから英語で思考して人とコミュニケーションするのにもそのまま英語を使っているのだろうが、ダイトウはそうではないんだろう。恐らくダイトウは名前や顔的にも(何よりも「俺はガンダムで行く」と日本語で述べることから)日本語文化圏の出身、すなわち第一言語は日本語であるはずだ。

だからダイトウが英語ではなく日本語で喋るということは、それがコミュニケーションのためのパブリックな発言ではなく、彼自身のためだけのプライベートな発言ということを意味する。
ダイトウが伝達不能な私的言語によって「俺はガンダムで行く」と呟くのは誰かへそれを伝えるためではなく彼自身の内なる意志が発露したからであり、それ以外の何物でもない。あの瞬間のダイトウは他のレディプレイヤーワンのキャラクターと関わりを完全に放棄したという意味で独立した外部の存在であり、その意味においてオタク全般を無人格に代表するメタキャラクターだったと言ってよい。

ダイトウと対極にあるのがZやアルテミスで、彼らは何かあるとすぐにオタク知識をベラベラ喋り、そのやり取りによって互いの地位を確認することによって公的にオタクになる。一方で、ダイトウは伝達を放棄した言語でたった一人呟くことによって私的にオタクになる。スピルバーグにオープンな"American Geek"とクローズな「日本のおたく」を対照しようという意図があったかはわからないにせよ、ダイトウの「俺はガンダムで行く」という誰にも伝わらない呟きに俺は自己完結するオタクの美学を見る。
多分センスない監督ならこれはオタクのガンダム愛を表明するシーンだ!って考えて「俺はガンダムが好きだ」" I love GUNDAM" とか言わせそうだけど、好き嫌いをわざわざ表明してしまうとパフォーマンスじみて見えるし(何故個人的な感情をわざわざ公に言う必要があるのか?)、「で行く」"choose"で抑えたところも秀逸という他ない。

もう一つの「俺はガンダムで行く」が凄い点は、完全に消費者目線の発言であるということ。
だって「俺はガンダムで行く」ってアムロは絶対言わないからね。もちろん「(ガンタンクでもガンキャノンでもなく)俺はガンダムで行く」くらいのことは言うかもしれないけど、ダイトウが言ってるのは「(エヴァでもナイトメアでもなく)俺はガンダムで行く」って意味なので、これはアムロには絶対に言えない(英語字幕では"the form of GUNDAM" なのでもっと明らかだ)。
アムロになりきるのではなく、あくまでも一人の消費者として数多のコンテンツの中からガンダムを選択しますというのがダイトウの発言の真意であり、コンテンツそのものからは距離を取った発言だ。ガンダムが画面に映るということは、ともすれば「ガンダムというコンテンツ」とのクロスオーバーに見えてしまうのだが、そうではなくて「ガンダムのおたく」とのクロスオーバーと見るのが正しい。この距離感によって、ダイトウはガンダムコンテンツ外部にいる一般の、つまり我々とほぼ同じ地点にいるオタクになる。

ここでも好対照を成すのはやはりZが終盤で放った「波動拳!」だろう。「俺はガンダムで行く」とは言わないアムロに対して、「波動拳!」はリュウがよく言うセリフだ。シチュエーションを検討しても、Zの「波動拳!」は「技の発動時に敵に向かって放つ咆哮」程度の意味であるから、リュウの「波動拳!」と同一のものである(もしZの「波動拳!」に相当するものをダイトウが言うとすれば、「ダイトウいっきまーす!」だろう)。Zはスト2から距離を取った消費者目線ではなくリュウのなりきり、スト2との部分的なクロスオーバーということになる。

以上、「俺はガンダムで行く」は

・伝達不能なのでレディプレイヤーワンから距離を取っている
アムロなら言わないのでガンダムから距離を取っている

という二つの意味でコンテンツから独立しており、それ故に我々オタクを(彼がプライベートに喋っていたことを踏まえれば、「(オタクである)俺を」)代表したことで俺の胸を打った。


再び話変わって、ラストシーンには納得がいかないところがある。
マトリックスから無限月読から人類補完計画からランドルーからCの世界まで、「理想的なバーチャル世界が成立したとして、我々はリアルとバーチャルのどちらを選ぶべきか」という問いは無数のコンテンツで今までにも何度となく行われてきた。これは「水槽脳」や「完全なる贋作のアウラ」などにも繋がる哲学的な問いである一方で、多少の例外を除けば「リアルこそがリアル」という説得力に欠ける理由で(でなければ自明に)バーチャル世界が棄却されるというのがお決まりのパターンと言っていいように思う。
個人的には俺はバーチャル世界の方をこそ支持したいという強い気持ちがあるが、それはポリシーの問題だから、レディプレイヤーワンがリアルを支持したことに対する不満はない(不満はあるが、不満を述べることに大した意味はない)。それに、一見すれば強くバーチャル世界を描いた映画ではあるが、よく見るとZやハリデーの物語は最初から一貫して「リアルにおける欠損の回復」というテーマを持っており、ハリデーが「リアルこそがリアルだ、わかるね?」と言ってZが頷く流れ自体はストーリーとしては十分整合している。

しかし、火曜と木曜にオアシスを畳む必要があったのかだけがどうしてもわからない。
上の問いに戻ればハリデーとZが最終的にリアルを承認したのは「リアルでいいことがあったから」という個人的な理由に留まる。オアシスの住人全てを巻き込んでまで、ラストシーンの最後の一言という貴重なカットを消費してまで重大な主張にする理由がわからない。映画外のオタクへの理解を強く示す「俺はガンダムで行く」が存在する以上、作品内の出来事とも割り切れないところがある(ダイトウを通してオアシスの住人と我々は繋がってしまったため)。
バーチャルに対して意欲的であった割には最終的にはお決まりのパターンとしてのリアル礼賛に留まった印象があり、もう少し踏み込んでほしかった。あるいはそこまで断言しなくてもアルテミスとキスして「リアルも悪くはない」とか言うくらいで妥協して誤魔化しても良かったのではと思うが、スピルバーグの譲れない信条があるのかもしれない。