LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

18/12/31 目を覚ませ僕らの世界が何者かに侵略されてるぞ

・お題箱45

75.Vtuberアニメ化するらしいですがどうなるんでしょうね。Vtuber自身を演じるとかいう滑稽な感じになるんでしょうか。

どうなるんでしょうね。キャラ設定を保持したまま演劇としてやるのか、保持せずにスターシステムでやるのか、キャラそのものでアドリブっぽくやるのかの三択くらいでしょうか。
正直それほど楽しみでもないし期待していることも特にないんですが、ニコニコ最新話無料に入ると思うのでハースストーンでもプレイしながら見ていこうと思います。

・SSSS.GRIDMAN(S4GM)敗戦処理

まず最初に言えば、俺はS4GMを最終話まで見てがっかりした方の視聴者である。
それは何故かという話をするが、一応フォローしておけば、別にアニメ側に何か欠陥や落ち度があったわけではないと思う。それよりは俺が勝手に期待して勝手に幻滅したいつものパターンの方が近い。とはいえ、(今まで俺が勝手に幻滅してきた作品に比べれば)周囲でも同じような感想を辿る人が多いように感じるので、的外れな期待を招来する誤解を生じる要素が多かったと言うことにもあまり抵抗はない。
よって、何に誘発されてどういう誤解によりどんな期待を抱いて何を考えながら見ていたのかを一応残しておく。

まず一番はじめに感心したのはOPで、最初に聞いたときは天才だと思った。

歌詞全文は適当なサイトで調べてほしいが、

・常に呼びかけの体裁を取っていること

・著しい危機感が先行していること

・具体的な内容を伴わないこと

が一貫しており、このあたりの感じはサビの「目を覚ませ僕らの世界が何者かに侵略されてるぞ」に集約されている。「目を覚ませ」と覚醒を促すことによって周囲の人々を啓発して自分の方に引っ張ろうとしていることが伺えるが(周りの人も侵略に気付いているのなら警告する必要がないので)、「僕らの世界」とやたら主語がデカい割には、敵は「何者か」と判然とせず、被害報告も「侵略されている」という完全に具体性を欠いたものだ。

このグリッドマンOPの主張は新宿とかによくいる統合失調症らしき人たちにかなり似ている。
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彼らは「電磁波」「集団ストーカー」「マイクロチップ」あたりによる被害をデモやブログで熱心に報告する。この三つの攻撃の共通点は、目で見える実体を持たないため「ある」とも「ない」とも判然としないことだ。まあ、現実問題として彼らの被害は妄想に過ぎず、実際には攻撃は発生していないので、無理に原因を言葉にしようとすればこういう不可視で曖昧な形態を取らざるを得ない。まさに「僕らの世界が何者かに侵略されてるぞ」である。

補足163:俺は彼らが好きで西新宿一丁目交差点あたりでその姿を見るたびにエネルギーを貰っていたのだが(一応念のために言うが電磁波エネルギーを受信したという意味ではない)、ここ数年は警察に取り締まられたのかめっきり見なくなった。例の黄色い看板を持った終末論者は今でも東口あたりによく出没しているものの、正統すぎてイマイチ元気が出ない。ついでに言えば、それに限らず、最近どんどん目の届く範囲からアウトローたちが提供する非日常空間が排除されているように感じてならない。今ではとても信じられないだろうが、ほんの10年少し前には渋谷駅構内の空中連絡通路にホームレスが堂々と段ボールハウスを建てていた。

この種の曖昧な被害報告において、敵の具体的な本性はそれほど重要ではない。原因と結果が完全に逆転しており、現にあるように感じられる結果を生じうるような原因をとりあえず措定することが急務なのだ。すなわち、「作り物のようなこの日々」「何かが違う」という漠然とした世界への不信に対して、(敵の内容を充実させるのではなく)敵の存在を確保したいという病的な心理である。

OPが提示するこうした問題意識を踏まえれば、序盤の新条アカネは「日常への違和感に対して(ヒーローや怪獣のような)適当な原因を見つけられない場合にどうすればいいのか?」という問題に対して「自分で怪獣を作る」という回答を提示するキャラクターとして解釈できる。実際、夢怪獣回くらいまでの新条アカネは怪獣騒動を楽しんでいるだけのキャラとして描写されていたはずだ。先生を殺すために怪獣を作った割には殺害を失敗したことを気にも留めないし、(正常な目的を持っているならば現れてほしくない敵であるはずの)グリッドマンの登場を求めて山中を徘徊していた。一貫して結果への執着が薄く、非日常的な騒乱の追求が先行している。

もう一歩踏み込めば、S4GMがエヴァ以来共有されてきた「物語無き世界をどう生きるか」という問題系に取り組むアニメのバリエーションという解釈をするのも無理からぬことのように思われる(今自分で書いていてそんなに突飛な発想だとは思わないし、中盤くらいまではそういう声もちらほら見たような気がするのだが)。そういう目でこのアニメを見たときに優れているのは、上の問題に対して、「フィクションに逃げ込んで満喫する」という回答を持つキャラクターである新条アカネを最初から設定していたことだ。回答を探索する段階を既に終えて自己完結したシステムとして完成していたのが初期の新条アカネ像であり、これに対抗するグリッドマン陣営がどう戦うか、というよりはもう終わっている話に対してどう収拾を付けるのかを楽しみにしていた。

補足164:ここで言う「フィクション」とは、最終話であったような実写世界との対比や、アノシラスが説明したような神設定を念頭においた表現ではない。新条アカネが日常とは連続しない世界観で生きるキャラクターであるということは最初から明らかで、それが話が進むにつれて設定上でも補強されたに過ぎない。

しかし、この主題は夢怪獣回あたりから新条アカネのキャラと共に大きくブレ始める。
新条アカネについて当初に想定されたキャラからズレていたのは、「本当にグリッドマンを倒す気があったこと」「日常的な幸福を望みうること」の二点である。まず一つ目について、物語が進み失敗を重ねるにつれて彼女の精神状態はどんどん悪くなっていき、アンチ君への態度も悪化していく。彼女が本当に怪獣によって物語を手に入れた者だったら、むしろグリッドマンが倒せてしまったら困るはずなのだ(その時点で物語としての騒乱が終わってしまうため)。当初の結果に無頓着な態度は、単なる楽観的な予測に基づく余裕の表れに過ぎなかったと言わざるを得ない。また、二つ目については、夢怪獣によって新条アカネが怪獣のいない世界も志向しうるとわかったことを指している。新条アカネが夢見たのは、裕太と付き合ったり内海と遊ぶような極めて卑近で現実的な物語であり、怪獣が登場するような非現実的な物語ではなかった。怪獣は一つの選択肢ではあるが、だからといって唯一の選択肢ではない。OPのような強烈に何者かの侵略を望む心性からはギャップがある。

それ以降このギャップは増幅し続け、「物語なき世界をどう生きるか」という主題が「本当は存在していた物語をどう発見するか」という主題にすり替わって最終話は終わる。すなわち、怪獣が闊歩する非日常的な世界観に逃げ込まなくても、怪獣がいない実写世界の現実でも生きていけるという結論に至る。最初の主題から見れば、これはちゃぶ台返しと言わざるを得ない。「物語なき世界」というそもそもの前提が破棄されただけなので、回答としては機能していないからだ(手持ちの250円でどう夕食をやりくりするか考えていたら、1000円札を拾って全部解決したという状況に近い)。また、当初の期待が単なる誤読だったことを認めたとしても、新しい主題についてもあまり議論されておらず(単純に新条アカネが心変わりする理由がイマイチよく見当たらない)、説得力も新規性もないのでポジティブな評価は与えにくい。

なお、新条アカネが期待を裏切ったあとの段階で旧テーマを受け継ぐ素養があったキャラクターが内海君であることは言うまでもない。内海が優秀なのは自分が問題の解決を目指しているというよりは戦いやロボットに憧れているに過ぎないときちんと自己認識していたことで、非現実に取りつかれた人間として新条アカネと波長があったのも頷ける。これは彼が相対的に大きな物語の中でロールを持てない(持つべきではない)という自覚に繋がってきて、病室で「一般人だから戦いに参加できない」という線引きを行うに至るのだが、立花の説得によってあっさりと放棄されてしまう。結局のところ、内海もまた大きな物語を保持することが唯一の解決策ではなく、「友達を助ける」という卑近な目標での代用が効いてしまうのだ。

強いて言えば、アレクシスが旧テーマを最も受け継いでいたと言えなくもない。無限の命による退屈を持て余したアレクシスが撃破されることで救済されるという構図は成り立ちうるが、たぶんアドホックな設定を過剰に好意的に解釈した無理筋な主張なので、あまり頑張って擁立する気はない。