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18/10/30 SSSS.GRIDMANの感想

・華やかであれヴィランたち

Shinjou%20Akane%2001
新条アカネのことしか見てないから新条アカネの話しかしないけど、とりあえずヴィランについて書きます。

ヴィランという単語はざっくりアメコミですごいコスプレをしてるタイプの敵キャラを指すものではあるが、もう少し狭義に「自己実現の手段として犯罪を選択する人々」と定義し直した場合、それは日本にも少なくない。例えば吉良吉影もその一人で、彼の異常性とその付き合い方についてはにゃるらのブログがよくまとまっていて面白い→

ジョジョは敵の方が魅力的というのはよく言われることだ。そのあたりは荒木自身もインタビューでよく喋っている→
荒木曰く、ジョジョが掲げる「人間賛歌」は内容の善悪を区別しておらず、人間としての意志の強さだけにフォーカスしているもので、最も強い意志を持つ敵こそが一番進化する……ということはわかるのだが、俺が気になるのは、「吉良吉影は何故敗北しなければならないのか」ということだ。最も強く意志を進化させた、賛歌を捧げられるべき人間が吉良吉影であるならば、彼が敗北する結末は一体どのように正当化されるのだろうか?
これについても荒木は明言している。

ただし善悪を分ける、守るべき一線はあります。『ジョジョ』の悪役は自分の理念を実現するために他人を利用することをよしとする。いくら高潔な理念があったとしても、これは許されないという視点で描いています。連載開始時よりも悪役を複雑に描けるようになりましたが、その一点はぶれていないですね。理念を実現したいなら一人であってもやらないといけない。他人を利用してはいけない。

要するに、善悪を分ける分水嶺は意志が自己完結しているか否かにあるという。
この理屈は人間賛歌に照らしても筋が通っている。一人の人間が自己実現のために他人を犠牲にする場合、犠牲にされた人間は当然に自己実現の道を閉ざされることになる。よって、単純な算数の問題として、実現される自己の総和は減少してしまう。だから、個人としては人間賛歌を体現していながら、集団としては人間賛歌を否定する吉良吉影は敗北しなければならないというロジックが成り立つ。

いま、個人の自己実現よりも集団の自己実現が優先されたことから明らかなように、人間賛歌度(?)の計算を個人単位ではなく集団単位で行うというルールが暗に存在していることは非常にクリティカルだ。この意味でジョジョイデオロギー功利主義に近いのだが、これがフィクション内で支持された場合の問題点は、その判断が物語に参加する個々人の外部、ほとんど物語自体の外部からしか行えないということにある。すなわち、上の理屈を認めたとしても、吉良吉影が敗北すべき積極的な理由は漫画の内部には見つけられない(東方仗助が勝利すべき理由は見つけられるが、吉良吉影のそれを上回る理由が無い)。外部から荒木の理念が混入するという形で、強いて言うなら神によって吉良吉影は敗北を宿命づけられているという解釈しか出来ない。
以上、人間賛歌というテーマに照らしたヴィランの扱いは卓抜しているが、肝心な局面では個人よりも集団を優先するために功利主義に変質してしまうというのがジョジョの良心であると同時に限界でもある。

もっとも、吉良吉影のように信条(彼の場合は性癖)を改訂しないまま死んでいく悪役はまだマシな方で、改心するパターンはもっと悪い。
あまりにも数が多い上に全てに対して一律にネガティブな評価になるので列挙はしないが、その中では球磨川禊はかなりうまく処理をしたパターンになると思う。これはロジックの問題ではなく、小手先の演出の上手さの問題である。というのは、球磨川ヴィランとしてのオリジンである「弱者の意地」を放棄する理由は、その直接の契機となっためだか戦においても説得力に乏しく、過程と結果を見るなら評価できる部分はない。しかし、彼の異常性を信条ではなく性格の方に帰してしまってキャラを立て続けるのが抜群に上手かった。ハリボテではあるが、ハリボテの完成度が傑出していた。

では、吉良吉影のように敗北もせず、球磨川禊のように改心もせず、最初から最後まで何の問題もなくヴィランヴィランであり続ける作品となると、悪徳の栄えがそれに該当する。
何度かこのブログでも名前を出したが(大好きなので)、超絶美少女ジュリエットちゃんが特に意味も無く仲間やモブを殺していくというだけの内容の小説である。ヴィラン小説としては間違いなく完成している。しかし、道徳教育の成果なのか、捻くれオタクのオタク文化にあっても道徳というものは頑健であり、悪徳の栄え的なものは日の当たる場所には出てこない。あと読んでいて思うのは、ヴィランヴィランとして完成している作品はストーリーとしてはあまり面白くはない。ジュリエットやその仲間たちの悪性は無数の長セリフによって論理的に正当化されており、あまりにも何の問題も無いので、キャラクター性に萌えるだけのキャラクター小説でしかない(日常系として楽しめる)。

補足155:ただし本当に四部で吉良吉影が勝利した場合、彼がジュリエットになれるとは思えないというのが面倒なところである。何故なら、吉良吉影の勝利は「正義の相対性」という文脈に回収されてしまうからだ。人々が素朴に共有する理念が失われた時代では正義は無根拠にならざるをえないわけで、今まで絶対正義のように見えていたものも実は相対正義であって、今まで悪のように見えていたものも別の正義なのかもしれない……という、なんかやたらオタクが好む世界観が、現実にもリアリティを持って、例えばアメリカとイラクの戦争を捉えてきている。この文脈で悪が肯定されうるのはそれが相対性の名の下に毒抜きされたからであって、悪が悪としてそのまま称揚されたわけではない。悪の勝利ではなく、悪の正義化(または正義の自滅)なのである。具体的に言えば、吉良吉影の勝利はいかにも「彼もまた懸命に生きようとする別の正義の在り方だったのかもしれない」という風に受容されそうなのが若干気に食わない。その点、ジュリエットは論理的に自らの悪性を正当化しており、常に最悪なので正義化に対して強い抵抗力を示すところが良い。

では敗北せず改心せずそれなりのストーリーをということになると、やはりバットマン(を含むアメコミ)の本家ヴィラン処理が優れていることが見えてくる。
バットマンの基本思想は、悪と悪の調整機構にある。ヴィランであるジョーカーを食い止めるバットマンもまた異常者であり、異常者同士の潰し合いがたまたま治安維持システムのように駆動しているのだ。犯罪者を捕まえることに病的に執着するバットマンの異常性はダークナイトでジョーカーが顕在化させたことが有名ではあるが、ティムバートン版でもこの構図はきちんと描かれているし、DVD特典のヒーロー紹介ムービーで「いい大人がコスプレして空を飛ぶのは異常だよ」と言及されていたのをよく覚えている。

補足156:この狂人としてのバットマン観が時代的にどこまで遡れるのかは不明。wikipediaによると、一時期は単純娯楽路線に走ったりもしていたらしい。

言うまでもなく、これは現実では機能しない(一秒でバランスが崩れる)。しかし、別に現実の悪を調整するためにフィクションを利用するのではなく、フィクションを楽しむために悪について考えているのだから、虚構特有の解決方法を提示するというのはむしろ積極的な評価に値する。

補足157:ニンジャバットマンではバットマンの異常性は完璧にオミットされており、極めて単純な正義と悪の構図にジャパナイズされている。特に、バットマンが悪人を殺せないという性質は(少なくとも二つの三部作では)バットマンが悪人を取り締まることにしか人生の価値を見出せない異常性に由来していたのだが、ニンジャバットマンでは真逆でただの道徳に由来するようにしか見えない。もっとも、ニンジャバットマンの制作陣がそのあたりを理解していないということはないだろうから、色々な事情を鑑みてあえて図式を変更したのだろう。

補足158:ちゃんと調べたわけではないけど、アメコミの世界観はアメリ現代思想の影響を受けているんだろう。正義とは悪との間に線を引いて定義するものではなく、林立している前提の下で調整されるものなのだ。補足155では正義相対論はそんなに好きじゃないという話をしたが、バットマンでのヴィランはなかなか正義化を受け付けないし、バットマンの方を悪化させるという悪相対論なのがよくできている。まあ、この辺は趣味の問題というか、完全に恣意的な判断であるが。
ところで、スーパーヴィランという概念がリベラルの化身であるとみなすならば、キャプテンアメリカやスーパーマンのような初期のアメコミヒーローがナショナリズムの化身なのは矛盾していないかという気もしてくる。真っ向から対立する概念が同じような場所から出てきたことになってしまうが、初期はサンドバックだったものが人気を得ていったのだろうか。アメリカのポップカルチャーには詳しくないので、わかる人教えて。


そう、それで、この記事はSSSS.GRIDMANの感想で、現状で理想的なヴィランである新条アカネの落としどころを整理するために、ヴィランの処理方法を色々確認してきたのだった。
新規性のある回答を示してくれるのが最も良くて、次点でジュリエット、次にバットマン、その次に吉良吉影、最後に球磨川禊の順で良い末路ということになる(それ以下は終わり)。
DpcCbicUwAEgZs9
せっかくいいキャラなので、なんか、いい感じに……頼む!