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19/1/11 バーチャルさんは見ている の感想

・バーチャルさんは見ている 感想

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内容は全く面白くなかったが、自律型キャラクターとしてのVtuberとメディア形式との関連を考えれば評価せざるをえないという話をする。

まず、Vtuberを自律型キャラクターといったときの「自律」には

1.世界やプロットと切り離された存在であること
2.自分で自分の行動を定義していること

の二つの意味がある。
この二つは元々はHIKAKINのようなyoutuberが保持していた特徴であり、これをバーチャルアバターが流用することで自律型キャラクターとしてのVtuberというキャラクター形態が現れた、つまり、自律型キャラクターであるところのVtuberがyoutuberという形態を取って登場したことには一定の合理性があるという話をしばらくする。

一つ目「世界やプロットと切り離された存在であること」については、TRPGと比較するとわかりやすい。
例えばTRPGで最初に指定されたゲームボードが剣と魔法の世界であれば、プレイヤーの選ぶキャラクターはエルフや魔法使いに限られる(エイリアンやロボットはあまりそぐわない)。キャラクターには所属する世界との結びつきが存在しており、世界と整合する範囲のキャラクター設定しか認められないからだ。また、キャラクターは世界における立ち位置を持つと同時にそこで展開した歴史も背負っており、過去に発生したプロットに対して整合する設定を持つ必要がある(足を切断された過去があるキャラクターは義足でなければならない)。この意味で、古典的なキャラクター像は世界やプロットに制約されている。
その一方、基本的にVtuberは所属する世界や背負うべき過去を持たない。キズナアイやミライアカリはどこかよくわからない部屋に一人でいる上にAIとして未学習であったり記憶喪失であったりして、そもそも世界やプロットとの繋がりが薄いので、キャラクター設定がそれらと整合する必要もない。最近ではVtuberの増加に伴い差別化のために奇抜な世界や過去の設定もよく見られるが、動画の内容によっていつでも放棄できる程度のものだ(例えば、コラボ動画では設定上では別の世界にいるはずのキャラクターでも平気で同じ画面に映る)。よって、それは常に存在するソリッドな制約ではなく暫定的な制約に過ぎないという意味で、依然として世界や過去からは距離を置いていると言えるだろう。
この意味での自律性はキャラクターとしてのyoutuberにも共有されている。

これはHIKAKIN TVの最新動画「【絶望】1900万円の時計買って8時間で終了…【悲報】」で、適当にシークバーを動かして見てもらえれば十分だが、要約すれば「1900万円の腕時計を買ったら金属アレルギーで付けられなかった」という内容の動画である。いま注目すべき点は、この動画はこれ一本だけでも消費できるように作ってあるということだ。俺も普段HIKAKIN TVを見ているわけではないが、この動画を楽しむのに特に支障はない(HIKAKINファンであれば「ボイパ時代からの叩き上げ」のようなストーリーを知っていればより楽しめるかもしれないが、それはコンテンツに必須ではない)。これと対照的なのはアニメや漫画で、途中のある一話だけ見て楽しむというわけにはいかないだろう。
これはYoutubeという配信形態が全話見ることを想定していない、断片的に再生されるメディアであることに由来する特徴であり、このためにyoutuberの動画は基本的に「完結型の一発ネタである」という性質を持つ。その際ネタ以外の文脈は積極的に切断されるという意味で、キャラクターとしてのyoutuberもまた「世界やプロットとの切断可能性が高い」という自律性を持っていると言える。もっとも、順番としてはyoutuberの方が先なので、youtuberが持つ自律性に注目したある種のキャラクター(エヴァ以来のポストモダン論におけるキャラクター像という含みがあるが、長くなるので今は省略する)がそれを相似的に流用することでVtuberというキャラクター形態が発生したわけだ。

二つ目「自分で自分の行動を定義していること」については、演劇と比較するとわかりやすい。
当たり前のことだが、演劇において演者は自分の意志ではなく誰かの筋書きで動いており、観客も演者自身もそのことを知っている。youtuberもまた演劇的な行動=日常なら絶対しないような行動やリアクションをすることがあるが(HIKAKINはyoutubeに一切配信しないときに意味もなく1900万円の腕時計を買ったりはしないだろう)、演劇とは異なるのは、これは他の誰かに指示されて行っているわけではないと我々は同時に理解することだ。つまり、youtuberのネタはyoutuber自身が考えたものであって、ドラマやバラエティのように誰か別の脚本家が考えたものではないと想定するのが普通だ。この理由は単純で、youtuberが市井からの叩き上げカルチャーなので基本的に個人活動であるというだけのことに過ぎない(少なくともテレビ局の後ろ盾はない)。しかし、このyoutuberの「自己立案」という性質がキズナアイのキャラクター性に強い説得力を持たせたことは明白だ。つまり、キズナアイがアニメや演劇のように「脚本家に動かされるキャラクター」ではなく、「自ら企画して動画を作るキャラクター」という体裁を保つことができたのはこのyoutuberに対する鑑賞態度が流用されたからに他ならない。youtubeというメディアを介することで、キャラクター自身が自分の行動をメタな視点から定義する自律的な存在であるという情報が暗に伝達されていたというわけだ。

ここまで、元来はyoutuberの持っていた自律性を流用することで自律型キャラクターとしてのVtuberが生み出されたことについて書いてきた。Vtuberyoutubeという配信形態を選択したことには一定の合理性があり、その性質の少なくない部分をメディアの特性に負っているのだ。最近はVtuberもニコニコや生配信にも移行しつつあり、HIKAKINのようにyoutubeに10分くらいの動画を投稿し続けるキャラクターはそう多くはないが、「一発ネタ(概ね単体で楽しめる)」「個人活動(というスタンス)」は辛うじて維持されており、現在でもこの図式は有効であると考える。

以上を踏まえたとき、Vtuberがアニメになるという事態の重大さがわかってくる。メディアの特性を考えれば、youtubeからアニメへの移行に際して二つの自律性は完全に破壊されると言っていいからだ。一般的に言って、アニメは各話が連携していてネタの独立性が低く(世界・プロットとの癒着)、動画投稿とは比べ物にならない人数の参与がキャストクレジットで明示される(キャラクターの自己完結の否定)。
よって、アニメ化に際しては自律型キャラクターとしてのVtuberは死なざるをえないということになるが、この予想は幸いにも裏切られた。つまり、自律性を確保するために維持すべき二点の特性において、「バーチャルさんは見ている」一話はほとんど完璧に近い回答を示した。内容をネタの羅列にして話の連関を破壊することでキャラクターと他文脈の切り離しを行い、モーション・声・ネタ全てにおいて極めて質の低い文化祭レベルの内容を流すことによって企画がプロの立案ではないという印象を確保した。この意味で、メディア移行に際してキャラクター特性を維持するためのベストアンサーを提示したこのアニメの評価は高い。

まあ冒頭で書いた通り内容は純粋につまらないのだが、こういう内容がつまらないこと自体が重要な意味を持つ作品ってつまらなければつまらないほど評価せざるを得ないからずるいね。