LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

18/9/4 自殺を止めるな!

 

・お題箱40

62.胎界主(http://www.taikaisyu.com)っていう無料のWEB漫画がオススメなので、いつでもいいので読んで欲しいです。感想や解釈が聞けるともっと嬉しいです。

最初の三話くらい読みました。
確かにこれは面白いですね。アフタヌーンの巻末付近に載っていそうです。

今のところ感想ってそのくらいしかなくて、解釈もあんまりないですね……
解釈を期待されるのは多分展開とかセリフの意味がいちいちわかりにくいからだと思うんですけど、本質的に寓意的・象徴的な読みを要求しているわけではなく、単に作者が設定を順序だてて説明する気もコマ割りや絵をわかりやすく描く気もないというだけのように感じます。僕は娯楽作品の精読はあんまり得意じゃないので、そういう意味では多分30%くらいしかわかってないです。なんか詳しく読んでるファンの人が他にたくさんいそうですね。

63.結論の最終段落はレポート用?
人類の未来に興味なくない?
(自分がアマプラに支配されないようにしておくのは大事だと思うけど)

これはアマプラ回→で、レポートが「未来の人類は偶然を引き受ける能力が失われる」という結論で〆られたことに対するものですね。

確かに、レポート用に書いた段落という節はあります。課題が「人類の変化を論じよ」である以上、「人類は~~のように変化する」という形でまとめないと質問に答えたことにならないので。

しかしかといって取って付けたというわけでもなく、僕がかなりの程度アクチュアルに思っている内容ではあります。
あんまりVRとは関係ないのでレポートには書かなかったんですが、いま最も人生を切り売りするのに使われているメディアって明らかにTwitterですよね。どんな出来事でもツイートすればそれはただちに公共物になって、個人でそれを背負う責任からは解放されるっていう。そういう人生のコンテンツ化ってもう極限まで来ていて、切り売りできない体験ってほとんど存在しないと思います。いま家族の死くらいならツイートしてしまえば余裕でコンテンツになりますからね。逆に絶対にコンテンツにならない体験って、「wifiが壊れた」みたいな物理的な通信途絶系のものだけじゃないですか。本当に自分一人で背負わないといけないという意味では、肉親の死よりもルータの故障の方が一大事っていうのも面白いですね。

厳密に言えば、「人生のコンテンツ化」と「偶然の積極的意味」って全く反目するわけではなくて、共存することもよくあります。
不条理な体験をタイムラインに流すことでインパクトを薄めて自然消滅を待つか、言語化によって事後的な物語化を可能にするかって真逆ではありますが、紙一重です。例えば、親の死を大袈裟にツイートしたものが出版社の目に止まって「ただのサラリーマンが親の死を乗り越えた話」みたいな書籍を出すところまでこぎつけた場合、人生のコンテンツ化も甚だしいですが、親の死を契機にしてライターとしての自分の可能性を発掘したことになりますよね。人生をコンテンツ化しつつも偶然を積極的に使っています。

よって、本当はレポートの論旨は少し捩れていて、人生をコンテンツ化することへの反発をねじ込むために、偶然の可能性という話から偶然を引き受ける覚悟という話に意図的にすり替えたところがあります。

64.小学生の自殺止めるの許せないというの、正確には「自殺はやってはいけない」「自殺は悪である」という考え方が許せないだけだったりしません?
自殺したくなるほど苦しんでいる小学生を救済する(極端な例だと一生暮らせるだけのお金を与える)ことも許せませんか?

確かに僕は「自殺はいけない」という倫理観を支持しない自殺消極肯定派です。だから自殺積極否定派を見るとポジションニングの違いによってついつい反発したくなることは認めます。しかしそれが許せない理由というわけではないですし、信条は議論する意味が無いので永久に棚に上げましょう。

僕が許せないのは自分の利害によって他人の尊厳を踏みにじっていることに気付かない愚かさです、という話をします。

これはだいたいの人が同意してくれると思うんですけど、個人にとって人生で死よりも重要な出来事は存在しません。よって、ある個人が自ら死を選択したという事実はその人にとって最も私的で最も重大な出来事であり、他人を尊重する気持ちが少しでもあるなら、その自殺という決定には最大の敬意を払うべきです。

補足152:この時点で「いや、人間は本質的に共同体であり、死は公共物だ」という反論をする人とは価値観が違いすぎて会話が成り立たないので残りは読まなくていいです。

ここで誤解されていると思うんですが、「敬意」とは「一度自殺が決定されたならば絶対にそれを阻止してはならない」という意味ではないです。
やっぱり人間はバグだらけなので、単純な論理的推論を見誤って不合理に自殺をすることは有り得ます(自殺という局面で合理・不合理を決定する客観性がどこにあるのかは自明ではないですが)。なので、「自殺しなくてもいいんじゃない?」くらいの口の挟み方をすることは問題ないと思います。
僕だって親しい人が自殺三秒前だったらふつうに止めに入ると思いますよ。必ず止めるわけじゃないけど、まあ止めたとしてもおかしくはないくらい。「他の選択肢を考える気力がまだあるなら協力はする」くらいのことは言うと思います。一億円プレゼントみたいな一瞬で問題を解決する強力な手立てによって救済するのも良いことだと思いますし、あらゆる状況であらゆる自殺を阻止することがただちに許せないと言っているわけではないです。

ただ、他人の自殺への介入が自分の利害に基づいて行われていることは自覚しないといけません。
「あなたが死ぬと悲しいから止める」ってさも正しいことのように言われますけど、「自分が悲しい」って「自分が感情的に損害を被る」という意味でしかないですからね。多少媒体が違うだけで、「自分が1000円損する(金銭的に損害を被る)」と大した違いは無いです。公理系の存在しない生死という現場では、他人の自殺を止めたいどんな理由も結局はその人の都合でしかありません。
とはいえ、人が利害によって振る舞うこと自体は普遍的な行動の原理ですし、それを否定するほどラディカルな主張をしているわけではありません。社会が全体として自殺を止めようとするのも、構成員の消滅が大抵は共同体の弱体化に繋がることを鑑みれば、自殺者以外の利害に照らして全く合理的です。少なくとも対外的には自殺を悪とする道徳が構成されることも適正ですね。

さて、ここまでに述べた

1.「死の決定は極めてプライベートな事柄である」
2.「他人の判断に介入するのは自分の利害による」

という二つの常識的な見解を組み合わせると、「自殺阻止という試みは自分の利害の都合で他人の最もプライベートな領域に足を踏み入れる行為である」という所見が導かれます。重要なのは、こういう行為のデリケートさを忘れないことです。
自殺を阻止しても良いのは、それを忘れずに謙虚でいる限りです。つまり、「あなたが死ぬと私にとっては損害なので死なないで貰ったほうが相対的にありがたいが、一般に私の利害とあなたの利害は一致しないので、あなたが自殺という選択をして私が損を被ったとしてもその判断自体は尊重する」というスタンスを忘れない限りは許容範囲内です。
僕が許せないと言っているのは、介入のデリケートさを忘れ去り、気分良く他人の尊厳を踏みにじる愚かさのことです。声高に自分や社会の利益を叫び、物質的な手段も辞さずに自殺を止めようとする暴力性のことです。他人の犠牲によって成り立つ自分の感情的な利益を自分で正当化するのって、風俗でプレイ後に説教するオッサンと変わらないですよ。それが気持ち良いのはわかりますが、その隠蔽の構造を忘れてしまったら人間は終わりです。

とはいえ、ゲッタ~に「止められても死ぬ奴は死ぬからどっちでも良くない?」って言われたのはけっこう一理あります。何故なら、裏返せば「止められた程度で自殺を止めるやつは本当は死にたくなかった」ということになり、これを反駁するのは難しいからです。人の心中は観測不可能である以上、「死にたくないやつは死なない」という推論は不可能で、「死ななかったやつは死にたくなかった」という因果が逆転した推論しか成立しませんからね。となると、「自殺を阻止できた以上、その人は本当は死にたくなかったわけだから、本当の判断を肯定しただけで介入性は存在しなかった」という遡及的な正当化の論理も成り立ちうるわけです。
しかし、仮にもしそうだったとしても、実際に自殺した人が本当に死を選択したことは100%事実です。だというのに、あとで「なんてバカなことをしたんだ」とかゴチャゴチャ言うのはもう言い逃れできない死者への冒涜です。いや、その発言が本当に死んだ人の魂かなんかを傷付けているとは思いませんが、他人の尊厳を事後的に踏みにじるパフォーマンスを行うその人は僕にとって極めて有害です。なので、実際のところ、僕が不愉快さを最も感じるのは自殺を止める言説というよりは、誰かが自殺したあとの感想戦の方が多いです。夏の終わりにある小学生が大量自殺したニュースのコメンテーターとかね。
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