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21/5/23 二月の勝者の感想 本物の受験戦争を見よ!

二月の勝者の感想

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現行で出ている10巻まで読んだ。かなり面白かった。
まだ未完結だが、既に受験漫画の水準を何ランクも上に押し上げた金字塔と言ってしまってよいと思う。

俺は長いこと受験戦士をやっていたので、元テニス部がテニス漫画を好むのと同じ意味で受験ものという題材が無条件に好きだ。俺の中では受験ものはスポーツものとほとんど同じ場所にカテゴライズされており(自己研鑽によって敵を倒す営みなので)、俺が唯一心から楽しめるスポーツものが受験ものであるような気もする。

この漫画がかなり独特で面白いのは、受験生の小学生だけではなくそれを取り巻く様々な利害関係者にスポットを当てていることにある。
その典型は主人公の職業である塾講師だ。『ドラゴン桜』では桜木は子供たちを導くお助けキャラに過ぎなかったが、『二月の勝者』では「塾講師ですらも透明な協力者ではない、むしろ一つの利害主体である」ということが大きなテーマの一つになっている。塾講師は決して子供を導く大人の模範ではなく、塾という企業に雇われているサラリーマンに過ぎない。本当に重視されるのは子供の合格ではなく、それによってもたらされる信頼のバリュー、そして最終的には高額なコースの受講者を増やすことによる金銭的ノルマの達成。
そもそも教育者としての塾講師が持つ裁量は、全人格的に子供たちを導く学校教師に比べて大きく制約を受けている。塾講師による子供たちのプライベートへの介入は基本的には職権濫用として認められないだろう。しかしその一方、過酷な受験戦争を勝ち抜くには各家庭との密な連携が必要というジレンマがある。家庭崩壊や虐待すら発生しうる中学受験という極限状態において、塾講師はどこまで家庭に干渉してよいのか。サラリーマンでも教育者でもある塾講師という職業自体が既に矛盾の産物であり、その立場は常に危うい。

そして受験に巻き込まれて試練を課せられるのは受験生と塾講師だけではない。小学生の親もまた受験の参加者であり、合否に大きく影響する因子の一つである。
これは中学受験に特有の年齢の問題でもある。「受験する子供を信頼して親は黙って見守る」というのは港区在住でハイソ気取りのお受験ママがいかにも言いそうな理想論だが、中学受験でその夢が現実化することはまずない。小学生はまだ自分の進路決定に責任を持ったり金銭的な支払いを行ったりできる年齢ではない以上、本当に親が黙って見守っていたら受験は絶対に始まらないし進まないのだ。受講料や受験料の支払いを一手に引き受ける親には、試験の回答以外の受験に係る決定の全てをパトロンとして代行する権利と義務がある。そうして親が選ぶ教材や塾や受験校に振り回されるのは子供だけではなく、サラリーマンに過ぎない塾講師も金銭と信頼の取引を通じて多大な影響を受けることになる。

この「受験に関わるのは子供だけではない」という当たり前の事実。中学受験の利害関係者は常に三者いるのだ。試験を受ける張本人の子供、営利企業のサラリーマンである塾講師、金銭的なパトロンである親。彼らは表面的には協力して受験に立ち向かう味方同士でありながら、常に強烈な緊張関係の中で牽制し合っている。
例えば塾講師は子供を導く教育者だが、学校教師とは異なり職権が限られている中でどこまで子供のプライベートに介入してよいのか。そしてサラリーマンとしてのノルマを達成する踏み台として子供をどこまで利用してよいのか。塾講師は子供を導く存在なのか。例えば親は子供を支援するパトロンだが、勉強法や受験校に無数の選択肢がある中で今目の前にある塾を信じる根拠はあるのか。そして幼い子供たちの成績や意志をどのように汲み取って彼らの人生を代行する責任をどうやって履行するのか。親は子供を信じるべきなのか。例えば塾講師にとって親は金銭的な契約を結ぶ大切な顧客だが、どうすれば転塾を防ぎ高額なコースを受講させられるのか。そして親に何を言えばプロフェッショナルとしての信頼を得て直接干渉できない子供を間接的にコントロールできるのか。塾講師は親を信じさせ続けられるのか。

「合格を目指す」という表面的な協力関係の下に無数の疑心暗鬼が潜んでいるのが本物の受験戦争だ。大人たちも巻き込んだ腹の探り合いの中で、子供が学ぶ「勉強の知識」などそのほんの一部を占めるに過ぎないことを思い出させてくれる。
実際、広い視点で様々な利害が盛り込まれる『二月の勝者』では作中で描かれる受験戦略も非常に多様だ。それは単なる「試験対策」や「勉強方法」の範疇を大きく逸脱し、「塾講師が親を説得するレトリック」「受験に起因する虐待を防ぐ術」「親のメンタルコントロール法(子供ではなく!)」「塾講師が子供に接する際の倫理」にまで及んでいく。
こうして描かれる包括的な受験戦略は極めて解像度が高く、一部は受験経験者以外はさっぱり意味がわからないのではないかと心配になるほどだ。例えば「2月頭の受験スケジュールは親が合否を見ながらリアルタイムに決定していく必要があるため、最初から全合否の組合せを想定した意思決定チャートを用意しておかないと間に合わない」とか、「大手塾が行う統一模試は塾ごとに強い傾向があり、単に点数から学力を計るだけではなく個別の傾向を踏まえた検討をしなければ意味がない」とかいうことは受験経験者には常識だが、たぶん大手中学受験塾を5つくらいはソラで言える程度の中学受験リテラシーがなければ、これらがどれだけ切実な話なのかを理解するのはかなり難しいように思われる。
ちなみに漫画内で登場する大手塾はいずれもSAPIX日能研四谷大塚といった大手受験塾を露骨にモデルにしているのだが、それぞれの体制や模試の傾向は実際のものに酷似しており、綿密な取材が行われていることを伺わせる。個人的なことを言えば俺はSAPIXの出身なので、「(SAPIXをモデルにした)フェニックス塾においては熾烈なクラス変動制度があるが最上位クラスの上位10席程度は実質的な固定席でありそこには宇宙人が居座っている」という描写には「あるあるあるあるあるあるあるあるある……」とマジで千回くらい頷きながら見てしまった。

以上、『二月の勝者』は単純化を嫌って様々な利害をリアルに織り込んだハイクオリティな中学受験漫画であり、受験ものの水準は大きく更新された。
幸いにも都市部で意識の高い親の下に生まれて中学受験をガチったことがある人は読んだ方がいい。子供の頃から大手塾に通って中学受験などするような教育水準にある層は生まれの格差と再生産という観点からネット上で叩かれがちな昨今だが、彼らには「『二月の勝者』を楽しめる」という大きなボーナスがまた一つ付け加わってしまったようだ。

補足380:これは前にも一度書いた気がするが、俺が受験を好んでいるのは受験は学力で人を殺していい唯一の機会だからだ。勉強でも研究でもいいが、理性的な営みは年齢を重ねるにつれて徐々に抽象的で崇高な使命を帯びるようになってくる。それは特に理系で顕著であり、研究室に入る頃には学術研究の目的は「人類に貢献するため」か「真理を解明するため」か「自分の好奇心を満たすため」あたりになっているだろう。「他人を殺すため」と述べる研究者は失格で、「受験など学力レースであって本物の研究や真理からは程遠い」という見解に俺は同意する。そしてだからこそ良いのだ。他人を殺すためだけに自己を研鑽する無為な営みがどれだけ楽しいかは対人ゲーマーなら誰でも知っている。

21/5/15 お題箱回:交渉AIと狂気、海老ルーミアの動画技法

お題箱82

276.大学院時代の話、kwsk

タイミング的にこのツイートへの反応だと思うので、交渉AIという研究分野についての私見を軽く書きます。

交渉AIというのはマルチエージェントシステムの一種で、基本的には自律して動作するエージェント同士が相互に情報を出し合って何らかの決定をするシステムというイメージでよいです。

例えば任天堂SONYセガが何らかの利権についての交渉をしたいとします。こういうとき普通は偉いおっさんたちが会議室に出向いて話し合うんですが、一般的に言って人間同士の交渉って非常に労力がかかるし接待とか根回しも絡んできて面倒かつ非効率なことこの上ないです。
そこで人間の代わりにロボットに交渉してもらおうということになって、任天堂SONYセガも偉いおっさんの代わりに交渉ロボを会議室に送り出します。それぞれの交渉ロボは各社が知力を結集して作り上げたもので、「最低限欲しい利権の条件」とか「ここまでは譲歩していいライン」とか交渉に必要な情報が全て持たせられています。三体のロボが人間の代わりに一定のルールの下で情報を交換し合い、最終的に三者の利益が大きくなるwin-winの妥協点に達することを目指します。
ロボット同士の交渉は高速で効率的な上に、人間では発見できなかったような理想的な合意点を見つけ出せる可能性があります。特に今のコロナ禍では会議室に集まってネチョネチョする交渉もやりづらいですから、遠隔で自動的に交渉を締結してくれる交渉エージェントシステムの需要は高まっていると思われます。

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さて、エージェントAIの中でも交渉AIが極めて特異なのは、「協調」でも「敵対」でもなく、その中間くらいの目的意識を持つシステムであるということです。
まず協調路線を取るマルチエージェントシステムとしては、例えば自動運転システムが挙げられます(まだ自動運転はエージェント同士がマルチに干渉するフェイズまでは普及していませんが、将来的にはそうなるでしょう)。自動運転車両が何台も車道を走っているとき、それぞれの自動車同士がぶつかったり渋滞を起こしたりしないように相互に配慮しながら協調するようなシステムです。
その一方、敵対路線を取るものとしては対戦ゲームAIがあります。対戦ゲームは自動運転とは真逆に相手をいかに蹴落として勝利するかという営みですから、相手を妨害するのが得意なエージェントであればあるほど強力です。

交渉エージェントはこれら協調と敵対の中間的な性格を有します。
まず協調的な要素としては、交渉相手は別に商売敵ではなくビジネスパートナーですから、交渉した結果お互いに利益が出なければ困るということがあります。少なくとも一方だけ得をして一方だけ損をするという結末は交渉では有り得ません。仮にその状況になった場合、損をする側は椅子を蹴っ飛ばして交渉を破棄するからです。よって、二人とも得をする結果を求めるという意味で、交渉AIは一定の協調ができなければ存在意義がありません。
しかし、だからといって全面的に協調するわけにもいきません。交渉において合意点を決める探索とは、「お互いに持っている情報を全部オープンに共有してお互いの利益が最大になる点を探しましょう!」などという牧歌的な探索では有り得ないのです。何故ならば、お互いに交渉に持ち寄る情報は社内機密情報の類であり、交渉の場においてさえ可能な限り秘匿しておきたいからです。「二か月後は金が高騰する」「あと三日でbitcoinは暴落する」というような自社のデータサイエンティストが必死に出したデータを全て相手に晒すのは得策とは言えません。一般的に言って、それぞれの交渉主体が持っている情報や事物への評価は常に異なっており、それをなるべく秘匿したままで自分に有利な妥結点へと結論を誘導するのが交渉の本質です。

以上のように、敵対AIと違って相手と協力して利益を出さないといけないが、かといって協調AIのように自分の手の内をさらけ出すわけにはいかないというのが交渉AIのジレンマです。
そういう状況設定でAIがどう振る舞うべきかというのは極めて難しい問題です。最も単純に考えれば交渉AIの最初の目標は「自分の利益を最大化すること」ですが、それだけを行動原理とするAI同士を戦わせるのは時間の無駄です。何故ならそういうAIは自分の利益が最大になる提案以外は絶対に受けないため、たまたまお互いに利益最大となる案が一致していない限りは交渉が終わらないからです。交渉を終わらせるためにはどこかで自分の利益を諦める必要があります。

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こうした状況を回避するため、交渉AI同士のシミュレーションにおいては「時間が経てば経つほど利益が漸減するので早めに締結しなければならない」とか「交渉失敗時にも最低保証の効用を与えてそこを妥協ラインとするように仕向ける」とかいう設定を追加するのが一般的です。

しかし、僕にとってはそれは極めて不自然な設定であるように思われます。というのは、人間同士の交渉においては、明らかにそういう不自然な追加設定なしでも無理筋なはずの交渉が何故か締結されるからです。人間同士の交渉で「お互いの腹の内がわからず、自分の利益が最大化されるのかもわからない」という状況に直面した場合、人間はAIとは違って「適当なところで手打ちにする」という意味不明な判断によって交渉を終わらせることができます。「しょうがねえなあ」とか「俺の顔も立ててくれよ」とか「これは貸しだぞ」とか訳わかんねえことを言って交渉を〆るのは企業同士の交渉でも普通に行われることです。人間はAIと違って金銭的ではない「貸し借り」や「面子」によって交渉を締結できるというのは端的に事実です。

さて、ここで有り得る見解として以下のようなものがあるでしょう。「貸し借りや面子も決して不合理な概念ではなく、利益を最大化するためのツールに過ぎない。何故ならば、それは今ここの交渉だけではなく将来的な人間関係まで見据えて人生全体の利益を最大化するものだからだ。その意味で、人間と交渉AIは同じように生存期間のスパンで利益を最大化しているに過ぎない」。これは半分は合っていますが半分は間違っています。「人間は今ここの交渉テーブル限りではなく生存期間のスパンで物事を考える」という部分は合っていますが、「生存期間のスパンで利益を最大化する」という部分は誤っています。

まず、「生存期間のスパンで利益を最大化する」は「死亡時点での利益を最も大きくする」とイコールです。そして資本主義においては利益とは金銭で数量的に可視化されますから、「死亡時点での所持金額を最も大きくする」のが人生の目標だと言い換えて問題ないでしょう。実際、そんなようなことを掲げている資本主義者は少なくありません。
では、この状況に合わせて以下のようなシミュレーションを考えましょう。人間社会を再現するため、たくさんの交渉エージェントを用意し、交渉は一回限りではなく様々な主体の間で複数回繰り返されるものとします。そして各交渉AIには「死亡時点での所持金額を最も大きくする」という目的を持たせます。この設定において死亡直前のAIがどんな挙動をするか考えてみてください。
答えは「死亡直前に全資産を1円で投げ売る」です。各AIが持つ目標は「死亡時点での所持金額を最も大きくする」ですから、死亡時にそれ自体は金銭ではない資産を抱え込んでいることは目標に照らして何の得にもなりません。よって、売却金額が1円だろうが資産を現金に換金すべきですし、他の交渉AIもそれをわかっているために最大まで足元を見てくるので1円で売らざるを得ません。
しかし、死の床についた老人が必死に自分の資産を1円で換金している光景を見たことがあるでしょうか? 「人間の価値は生涯に稼いだ金で決まる」などとほざく資本主義者は交渉AIと同様に死亡直前に全資産を最安値で換金しないといけないはずですが、彼はその仕事を忘れ「☆5スーパーカーも☆5マンションも手に入れた良い人生だった……」などと見当違いの目的関数を持ち出しながら召されていくことでしょう。
ちなみに「☆5マンションが死亡時の評価額にして300億円程度の価値がある場合、無理に換金しなくても死亡時に300億円そのものを持っていたことにしてもよいのでは?」というのは的外れな反論です。何故ならば、彼は死の床に入る前には「☆5マンションは適当なバイヤーと交渉することでいつでも300億円と交換できる」という潜在的な交渉可能性において☆5マンションに300億円の価値を見出していたはずだからです。「交渉可能性」と「交渉」を同一視することが許されてしまうのであれば、交渉シミュレーションは破綻します。如何に客観的な評価額らしきものがあろうともそれが相手の評価と一致しないことが有りうるが故にわざわざ交渉という問題を考えるのであって、交渉上の価値は実際に交渉して換金することによってのみ証明されます。

そろそろ話が佳境に入ってきました。少なくとも交渉という問題設定から見て、人間には「死亡時にも資産を換金せずに三途の川に持ち越す」という性質が間違いなくあります。それ故に「死亡時点で全てを換金する交渉AI」と「死者の国に換金しない資産を持ち込む人間」の挙動は本質的に異なっています。生者の世界で全てが閉じるAIの目的関数と異なり、人間の目的関数は黄泉比良坂に片足を突っ込んでいるのです。数理モデルが扱えるのは合理と生者の世界だけで狂気と死者の世界は管轄外ですから、人間の交渉のモデリングなど最初から不可能だったと言わざるを得ません。
そして人間が決して死亡時に清算しないのは資産だけではありません。他の人間に作った貸し借りも同様です。本人たちは貸し借りを「いずれ返してもらうぞ」とか思っていたとしても、本当に貸し借りが清算されたら二人の人間関係が終わってしまいます。貸し借りとは見た目上は清算を目指してはいるが、実際には絶対に清算されずに常にどちらかに傾くからこそ価値があるものです。そういう返済の終わらない負債も死亡時には資産と一緒に三途の川に持ち越されるわけで、「いずれ清算される」という前提で交渉における貸し借りを合理的に考える立場はここで破綻します。更に言えばこの「死亡時にすら決して清算されない負債」という狂気こそが、いずれ確実に破綻する資本主義の無謀な拡大再生産を支えていることは言うまでもありません。だとすれば正気と合理でしか動けない交渉AIが現代社会に参戦できる道理など最初からありません。

まあ、これは僕の私見であって交渉AI界の総意などでは全く無いのでそこは勘違いしないでください。というか、僕はこういうことばっかり考えてるから交渉AIのアルゴリズム開発とかが全然できなくて大学院を中退したわけですが……
ちなみに交渉問題に関心を持たれた方がいたら、ANACという自動交渉AIの国際競技会絡みの論文から読み始めるのがよいと思います。ANACのレギュレーションとか戦略について語っている論文群がわりとゲーム攻略っぽくてオモロいのでarxivとかで探してみてください。

 

277.海老ルーミアが意図的に画面を揺らしてる話、詳しくして欲しい

このツイートに対するレスポンスで、海老ルーミアというのはホモビデオの動画を加工して投稿する趣味を持つ者の一人です。

海老ルーミアが用いる「意図的に静止背景を揺らす」という技法が最もわかりやすい作品としては、以下の『女の特権を行使してやりたい放題する先輩』があります。

www.nicovideo.jp

この作品において海老ルーミアが画面揺らしを最初に用いているのは、0:07~0:11で鈴木が「三浦、来いよ」と言いながら手を振るシーンです。画面全体が僅かに揺れていることは若干わかりにくいですが、画面端右下にある障子が作る三角形に注目すると4秒間の間に大きく変形していることからわかります。
ホモビの二次創作に詳しくない方は「最初から鈴木と三浦の二人を引きで映しているシーン(0:00~0:07)でも画面は揺れているのではないか? よって初めて画面を揺らす技法が用いられているのは0:07~0:11ではなく0:00~0:07ではないか?」と思うかもしれませんが、それは全く誤りです。「0:00~0:07における揺れ」と「0:07~0:11における揺れ」が別物であるというのがこの話の最大のポイントです。

それら二つのシーンでは画面の作り方が全く異なっています。つまり、この作品には

①ホモビをそのまま切り抜いて使用しているシーン
②ホモビの静止背景に切り抜き素材を乗せているシーン

の二つが存在し、0:00~0:07が①、0:07~0:11が②に対応します。
0:00~0:07では元々のホモビ(誘惑のラビリンス)をそのまま切り抜いて使用しているのですが、0:07~0:11では誘惑のラビリンスの背景に別の出演作(ザ・フェチ Vol.3)から切り抜いた画像を乗せることで、さも同じ場所で野獣先輩が不満げな表情をしているかのようなシーンを作り出しています。
①②は全シーンについて区別でき、例えば0:11~0:12は①、0:12~0:22は②です。②の場合はホモビ男優が切り抜き画像なので静止画になることが多いのですが、必ずしも「動いているのが①、止まっているのが②」というわけではありません。例えば0:50~0:51で三浦が頭を振るシーンでは三浦が動いていますが、別シーンから三浦を動画で切り抜いてきて背景に乗せているだけなので②です。①②の区別はホモビの本編を全部覚えていればすぐわかりますが、そうでない場合も人物と背景の境目に注目すればある程度は可能です。

この区別において、①のシーンで画面が揺れることは避けられません。何故ならホモビは大抵は手振れ補正のない手持ちカメラ(?)で撮影されており、元々の素材からして僅かに振動していることがほとんどだからです(誘惑のラビリンス本編を見ればすぐにわかります)。よって、本編の一部をそのまま切り出して作ったシーンでは元々の手振れが反映されており、これが0:00~0:07における画面揺れの正体です。
その一方、②においては逆に画面は揺れない方が自然な状態です。というのも、②ではもともと自由に扱える素材を切り貼りして動画を作っているだけであり、作成が編集ソフト内で完結するために手振れが混入する余地が無いからです。

つまり、海老ルーミアは②の作り方をしたシーンでもわざわざ画面を揺らす手間を加えていることになります。その理由は僕は「手振れを再現することでシーンを滑らかに繋ぎたいから」だと思っています。
というのは、①で作るシーンにおいてはどうしても手振れが混入してしまうため、②で作るシーンでいきなり手振れが無くなると急に切り貼り画面が混入したような堅い印象になってしまいます。そこで②のシーンでは編集で画面を揺らして手振れを再現することによって、どちらもまるで手持ちカメラで撮影したかのように見せて滑らかに二つのシーンを繋ぎ合わせることができます。このように画面揺らしは作成手順の違いによる動画の違和感を減じるための技法と思われます。

海老ルーミアはほとんどの作品でこの画面を揺らす技法を用いていますが、振れの程度は作品によってまちまちで、『迫真ヒッチハイク部』では画面の揺れはかなり少なくなっています(一見すると静止しているようですが、目を凝らしてみると極僅かに揺れています)。

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これはもともと舞台になっているのがホモビ素材が存在しない荒野背景であり、ほとんどのシーンを①ではなく②によって作成しているため本編由来のハンディカメラの手振れがほとんど存在せず、それに合わせて揺らす必要も薄かったのではないかと思います(固定カメラに寄せている)。

なお、海老ルーミア以外の動画投稿者においては①の作り方をしたシーンでは画面が揺れ、②の作り方をしたシーンでは画面が揺れないという違いが明らかに見て取れます。例えばノワクマの『痴呆MUR』においては0:00~0:10は①の作り方であるために画面が揺れる一方、0:51~0:55が②の作り方であるために画面が揺れません。

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ただ、ノワクマは海老ルーミアと違って画面を揺らす一手間をかけていないから劣っているという話では決してなく、あくまでも作品の方向性による技法の違いだと考えています。
ノワクマの作品は冒頭の導入は①で行い中盤から②を多用するという構成であることが多いですが、②に入った時点で手振れが止まるため実際に撮影したことによる自然な雰囲気が消えて一気にコメディめいた印象になってきます。これに比べると海老ルーミアの作品は一貫して手振れで覆われているためにBBを使用しても比較的リアリティのあるドラマ的な印象が維持されています。大雑把に言えば、コメディ志向のノワクマは揺らさず、ドラマ志向の海老ルーミアは揺らすという違いがあるように思われます。

21/5/9 第10回サイゼミ 現代アートの哲学/ 格ゲー入門/ TRPG入門

第10回サイゼミ

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2021年5月4日に麻布十番で第10回サイゼミを催した(過去のサイゼミは「カテゴリ:サイゼミ」を参照→)。

補足378:第9回が抜けているのには事情がある。第9回は2月あたりに秋葉原Vtuber批評(『Vtuber存在論と指示論』)をやったのだが、それは俺がDMで誘われたVtuber批評同人誌に寄稿する予定の内容だったので、他媒体に載ることを考慮して個別の記事は書かなかった。結局その文章は四万字くらい書かれたのだが、同人誌の主催者と連絡が取れなくなりお蔵入りとなった。

今回はなんか色々なゲームの体験会みたいのしたいねという話になって、前座としてLWが最近読んだ『現代アートの哲学』の面白かったところだけ軽く喋ったあと、格ゲーとTRPGについて有識者が解説しつつプレイする進行だった。

サイゼミ現代アート

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

  • 作者:西村 清和
  • 発売日: 1995/10/01
  • メディア: 単行本
 

芸術界隈では学部生が読むような教科書的なやつらしく、欲しいものリストから送って頂いた。読み物として平易で面白いし一般教養も身に付きオタクコンテンツとの相性も良いという隙の無い一冊。

啓蒙のジレンマ

ここは書評解説ブログではないので内容については各自で読んでもらうとして(以下は読んだ前提の感想であって要約ではない)、ネットの普及によってSNSや人権思想で本格化した啓蒙のジレンマは芸術領域ではもっと以前から起こっていたのだなと思った。

「普遍的な人間精神の称揚」という意味でのいわゆる啓蒙は「誰しもが素晴らしい」として強固な自尊心を擁立する表面を持つ一方、「誰でも素晴らしい」として特権的な価値を認めずに解体していく裏面をも併せ持つ。当初はポジティブな表面によって楽観的な自画自賛が流通するが、しばらくするとネガティブな裏面の存在が気付かれて衝突が生じてくるという流れが様々な領域で起こっている。
例えばSNS普及当初のTwitterには「誰しもが価値ある意見を発信できる」という今思えば頭のイカれた期待が込められていた。これが啓蒙の表面で、個々の人間の価値を過度に高く見積もって参加者を無根拠な自尊心の渦に巻き込んでいく。しかしこの夢は大衆の暴走と共に崩壊し、いまや「誰でも無価値な野次を発信するにすぎない」という諦観がTwitterの言論空間(笑)を覆っている。
人権思想においても、フランス人権宣言の段階では「誰しもが自由と平等を持つ」という普遍性を基盤とする崇高な理想が掲げられていた。しかしネットの普及と前後して、実際の人間の多様性は当初想定されていたよりも極めて多彩であり、時には相互排他的であることが判明していく。「誰でも自由と平等」を本当に実現する上で乗り越えなければならない課題があまりにも多いという認識は現代ではむしろ常識に属している。

このような流れが芸術においてもあったらしい。近代美的モダンの時代においては普遍的人間精神の純粋な美的表現が可能であると信じられていたが、時代が下るにつれて崇高な普遍性は「芸術は誰でもできる」という俗物たちの舐めた態度に変質する。すなわち、芸術の普及による大衆化である。悪趣味、卑俗、キッチュ、生活空間への侵入、成金趣味、情緒過多……啓蒙が広がれば広がるほど、(少なくとも当初の意図からすると)実現されるもののクオリティはどんどん下がっていくというジレンマがある。

ちなみに、俺が次にこの啓蒙のジレンマに直面するだろうと思っているのはアバター文化及びXR界隈である。VRChatの魅力をプレゼンするとき、「誰しもが現実の制約を離れて理想的な容姿や声を手に出来るのは素晴らしいことだ」という実は極めて差別的な売り文句を口走らずにいられる者は多くない。なるほど確かに、冴えないオタクが美少女に、中年のおっさん同士が恋人になれるのは素晴らしいことだ。黄色人種でも黒人でも白人になれるということは。
そろそろ歴史に学べ! SNSが、人権思想が、芸術運動が、当初掲げていた「誰しもが素晴らしい」という理念が本当に誰にでもリーチしてしまったとき、辿り着いた終局がここでも再演される。それは恐らく民主化されたアバターの使用によって、バーチャル空間で特定の性別ないし人種ないし容姿ないし体型ないしエクリチュールが、要するにある種のステレオタイプが握った覇権に対する異議申し立てとして提出されるだろう。いずれそれが起きたとき、このブログを思い出してGoz-Mezに投稿してほしい。

やや意地の悪い憶測ではあるが、この転倒は捻れたエリーティズムの問題であろうと思う。というのも、最初に啓蒙の表面だけが発露している段階で「誰しもが素晴らしい」と述べることによって意図されているのは、実は本当に誰しもが素晴らしいということではなく「我々の素晴らしさには普遍的裏付けがある」ということに過ぎないのだ。根本にはエリーティズムが隠れており、本当に誰でも素晴らしくなってしまうと、差異によって担保されていた価値は音を立てて崩壊する。啓蒙は達成されない理想としては機能するが、現実に達成が近付くと少なくとも当初の形では維持されない。

しかしとはいえ、一応誤解のないように申し上げておくが、俺は「最初から普遍的な人間精神など擁立しなければよかったのだ」とか、「啓蒙は大衆にリーチすべきではない」と考えているわけではない。時には啓蒙の末路が悲惨であるとしても、啓蒙が行われなかった世界よりは行われた世界の方が「善い」という確信がある。それは恐らく趣味の領域なので大した理由は無いが、そちらの方が「フェアである」という漠然とした認識、そして俺自身が戦争状態を特に厭わないこと、闘争は回避すべき対象ではなくむしろどこにでも薄く広がっている基本状態であるという世界観に依っているように思われる。

寄生の美学

美的モダンの段階では芸術作品は作者の高尚な精神と結び付いてそれ自体価値あるものと見做されたが、大衆化によって生活の中で消費される段階に至るとそうした素朴な価値や様式は揺らぎ始める。『現代アートの哲学』においては近代の「自存性の美学」に代わって現代の新たな美学として挙げられている「寄生の美学」が興味深い。

寄生の美学が最もわかりやすいのは広告の美的戦略である。というのも、現代消費社会で流通する大量生産商品における「それ自体誇るような機能がもはや特にないのでどうにかして消費者にアピールする価値を表現しなければならない」という事情が、現代芸術作品が置かれた「作品自体が自明に価値を持てるわけではないので自ら何とかして価値を確保しなければならない」という状況と酷似しているからだ。
この状況において、広告が取る手口は消費者の持つ人生経験や既存の価値観に寄生することだ。例えば、辛く厳しい状況に置かれたケインコスギがファイト一発と言いながらリポビタンDを飲むことで一念発起して問題を解決するCMがある。そこで示されているのは実際に商品が持つ具体的機能に関する説明ではなく、消費者の「人生には辛く苦しいことがある」という経験及び「困難が解決するのは良いことだ」という出来合いの価値観でしかない。

近年オタク界隈で「エモ」とか「感傷マゾ」とか言われるものの一部はこの寄生の美学の最新形態のようにも思われる。作品それ自体の持つ情報量は大して多くなく、それが消費者に喚起する人生経験の方に力点があるからだ(とはいえ、俺はその手のカルチャーには疎く、文化的関心もあまりないので的を外しているかもしれない)。
仮にこれら他の何かに便乗して成り立っているように思われるコンテンツが寄生の美学に依っているとすれば、批判のメソッドも寄生の美学に対するそれを流用できる。例えば、可能な批判の一つとしては、寄生の美学によるコンテンツは経験として貧しいことがある。というのも、それ自体が新しい価値を提供するわけではなく消費者の中にある既存の要素を使い回しているだけなので、消費者の美的経験を拡充しないのだ。他にも、寄生の美学によるコンテンツは価値を詐称しているという批判も可能だろう。それは既にある経験を喚起しているに過ぎないので、実際に提供する価値よりも作品が持っている価値は小さいことになる。

とはいえ、こうした批判は未だ近代のドクサに囚われたアナクロなものではないかという声はサイゼミ内でもかなり上がった。作品の「本当の価値」とか「本当の美的経験」というものをナイーブに想定している時点でもう終わった近代から寄生の美学を評しているに過ぎないのであって、本当にパラダイムを転換したあとのポストモダンの美学として寄生の美学を認めるならば相互参照の中で価値概念それ自体が上滑りしている事態をまずは率直に承認すべきである。その上で可能なポジティブな評価の例としては、例えば東浩紀が『動ポモ2』で「ゲーム的リアリズム」を擁立したのも、ロラン・バルトが「読者の誕生」と言って意図していたのも、作品が独立した価値を持てない世界において代わりに何らかのネットワーク的なものの中で価値のようなものを創出しようとする営みだったはずだ。

こうして積極的に寄生の美学を承認していく立場からすると、そもそも寄生対象であるところのソリッドな「人生経験」だの「既成の価値観」だのが存在するかということも怪しくなってくる(それもまた「本当の〇〇」系の近代の遺物に過ぎないのでは?)。実際、感傷マゾ界隈(?)において「実際にあった経験」よりは「実際には無かった経験」をこそ想起の基準に置いていることは、そうした寄生先が不要であることを示す証左で有りうる。
ただ、個人的なことを言えば、俺は少なくとも個人が消費する限りにおいては人生経験とやらに寄生先としての特権的な地位を認めてもよいと思っている。そうした個人的な経験に立脚する言説は客観性を持たないために批評として機能せず発信する意味もないというだけの話だ。つまり、他人に向けて語る価値の有無と、各個人の中での価値の有無は厳密には別の話である。そして、実際の人生において経験の価値を語るのであれば後者の方が重要である局面は決して少なくないはずだ。

 

サイゼミ格ゲー部

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何気にラスベガスの大会でそこそこ勝ち抜いたこともあるらしい格ゲーマーひふみが格ゲーの基礎を解説し、その後アケコン二台と巨大モニターによって体験会という最強の布陣(画像はパッドだが、このあとヨグルティがアケコンを追加で持ってきた)。

格ゲーの遊び方

まず最初に大抵の格ゲーで通用する普遍的な格ゲーの遊び方を教えてもらった。
プレイヤーが使える基本行動として投げ・打撃・ガード・ジャンプ・対空・波動拳あたりの間に明確な勝ち負け関係が設定されており、それを把握するのがスタート地点となる。その上でリスクリターンを認識しながら仕掛けたり、相手の挙動を見てからカウンターしたりして攻撃を通していくのが基本的な立ち回りである。

補足379:ちなみに俺は中下段への反応速度とコンボ精度が格ゲーだと思っていたのだが、その二つは最初は知らなくていいくらいどうでもいい部分らしい(たぶんGGの動画ばかり見ていたエアプ勢なので華やかな起き攻めとコンボに認識が偏っていた)。

この話だけだと格ゲーとは技相性でジャンケンをするだけのゲームのように聞こえるが、「状況ごとにいちいち出す手を決定しているわけではない」というのが誤解を打ち破るポイントだ。
というのも、格ゲーはタイムスパンが短いため、行動選択にかけられる時間が0.1秒もないことが珍しくない。相手が飛んだのを見てから「ジャンプに有利なのは対空行動! このキャラの対空は立K! よってK入力!」などとやっていては到底間に合わないのだ。よって、状況の変化に無意識で反応してボタンを叩けるシステム、先ほどの例で言えば「(相手が飛んだことを認識)→K」まで省略した回路を頭の中に作っておかなければならない。この回路を無意識で発動させるためには試合前に身体に叩き込んでおく必要があり、試合中に考えていては間に合わない。試合開始までにどれだけ完成度の高いルーチンを作っておけるかが一つの勝負になる。
つまり、試合中に使用できる道具は「無意識に使える行動を体系化したルーチンのシステム」であって、「一つ一つの状況に対応する個々の応手」ではないというのが最大のポイントだ。確かに相手の癖に応じて応手を変えることはできるが、それは反応の一つ一つを意識的に変えているのではない。試合前に前もって作ったいくつかのルーチンの総体を適宜切り替えているのだ。

ここでただちに出てくる疑問は、「それは結局『個別行動のジャンケン』が『システムのジャンケン』に変わっただけで、全体としてジャンケンであることは変わっていないのではないか?」というものだ。しかし、戦いの単位が個別行動からシステムに変わるとそう簡単にはいかなくなってくる理由が主に二つある。
まず一つには、シンプルに複雑さの問題がある。システムは個別行動よりも遥かに高度である。事前に完成度の高いシステムを身体に染み込ませて手札として自由に扱えるようにしておくにはそれ自体非常に手間がかかるし、環境の変化に応じて適宜アップグレードする必要もある。まして「今勝てるシステム」を試合中に自在に創造できるわけではない。極端な話、相手が用いるシステムに勝てる新システムが頭の中には思い描けていたとしても、それはその場で実行できるわけではない。しつこいようだが、システムとは元より思考していては間に合わないことを無意識でこなせるようにした訓練の賜物であり、試合中に思考しながら生成できるものではないのである。
また、システムの切り替えに伴うオーバーヘッドの問題もある。例えば俺は異なるシステムAとシステムBを使えるように訓練しており、今はシステムAで戦っているがシステムBに切り替えれば勝てることがわかっているとしよう。しかし、システムは「じゃあ次のフレームからシステムBで行こう」と自由自在に切り替えられるものでもないのだ。というのも、システムとは無意識レベルで発動するように身体に刷り込んで初めて意味を持つものだからだ。そうそう簡単にチェンジできるわけではなく、かなり熟練したプレイヤーですらラウンド間の小休止で間に合うかどうかという速度に留まる。

逆に言えば、豊富なシステムの引き出しを持ち、かつ、相手のシステムを見てから短時間でシステムを切り替えられるプレイヤーが最強である(ひふみによればウメハラがこれらしい)。ただ、それにはまずシステムを開発して定着させるという身体レベルの訓練と、それらを自在に切り替えるというメタレベルの訓練が必要になる。この状態は当初想定された「単なるジャンケン」を遥かに離れ、システム構築→身体訓練→システム運用という高度なスキルを求めることは明らかだろう。

カードゲームへの適用

サイゼミはもともとカードゲームのコミュニティからスタートしているため、カードゲームへの適用もかなり話題に上がった。つまり、格ゲーマーが様々な事態に無意識で対処できるルーチンを持つのと同様に、カードゲーマーも上級者は個々の応手はいちいち考えずに打てるようにルーチン化していることが多いということについてだ。
ただ、個人的にはこの二つは別の原因から来た別の事態であるように思われる。というのも、格ゲーの場合はタイムスパンが短いため無意識に行わなければならないという時間的な問題から判断のチャンク化が要請される一方で、カードゲームの場合は有限のリソースで一貫したプレイをしなければならないというリソース管理の問題から判断のチャンク化が要請されるからだ。

例えばカードゲームにおける無意識化されたルーチンの典型例として、コントロールミラーのマッチアップにおいて各カードの使用先が試合開始前からほとんど決まっていることがある。低速なデッキ同士では試合の再現性が非常に高いため、「このカードはあのカードの返しに打つ」とか「このカードは絶対に打たない」というようなルーチンが最初から決まっていて、それを間違えた時点でそのプレイヤーの敗北が決定する。そのようにカードの使用先が限定されているのは、いちいち手元のカードから勝ち筋やゲームプランを考え直していては思考にかかる負荷が高すぎるため、勝ち筋とゲームプランに照らして逆算した情報を試合前から持っておくからだ。
その背後には、カードゲームはデッキや手札にあるカードが限られているために勝ち筋の一貫性がなければ勝利に辿り着けないというリソース管理の問題がある。仮にお互いの手札に常にカードプールの全カードがあって何でも仕掛けられる状態であればセオリーの形成はほとんど意味を持たなくなり、相手の動きに応じたアドリブだけが勝負を分けることになるだろう。

一方で、実は格ゲーは手札に全カードがある状態に近い。(ゲージ等のリソース管理を一旦無視すれば)ニュートラル状態から使おうと思えばどの選択肢も使うことができ、立ち回りの上では特に制約が無い。カードゲームとは異なり、勝ちという目的に照らす限りでは判断に一貫性が求められる理由は特にない。体力さえ削れれば何をしてもいいし、波動拳は何度でも打てる。
ただし、格ゲーにおいては人間の認知的な限界がある。理論上は何でもできるとはいっても実際に状況に対して有効な速度でできる判断がそう多くない。それこそが事前に無意識レベルで取れる行動ルーチンを身体に擦り込んでおく理由だったはずだ。これはカードゲームには存在しない観点であり、「ゲームのタイムスパンが早い」というただその一点によって格ゲーは判断のパッケージングを要求する。

奇しくも、カードゲームと格ゲーで「構える」というワードが共通して使われることがこの違いを分かりやすく提示する。
格ゲーにおいて、波動拳に対して竜巻旋風脚を「構えておく」のは、有効なカウンターを食らわせるためには無意識のレスポンス速度で竜巻旋風脚を放つ必要があるからだ。一方、カードゲームで変異種に対して対抗呪文を「構えておく」のはデッキ内に一度着地した変異種を除去する手段がなく打ち消さねば敗北が確定するからで、限られたリソースから逆算したプレイの実行が根底にある。

格ゲー体験会

講義のあと、初心者たちで適当に戦ったり総当たりリーグを催したりした。なお、皆初心者なのでシステム構築までは全く到達しておらず、使えるスキルは行動ごとの相性の認識とそれを前提とした立ち回りというレベルに留まっている。

俺は昔少し一人でカチャカチャ遊んだくらいで対人経験が一切ないのだが、正直なところ他の人の格ゲーやったことなさがヤバすぎて相対的に一番強いくらいだった。
皆は波動コマンドも安定しておらず昇竜を狙って出せないレベルなので、俺は昇竜を出せるというアドバンテージだけでどうにかなる局面が多すぎた。攻撃の最中に相手がぶっ放した昇竜をきっちり防ぐというガード技術を持つ人がほぼいないため、攻められたら適当に昇竜を擦っておいてどこかの隙間フレームで暴れてどうにかなるというかなりセコいことをしていた。

今回解説を受けて基本がわかったことで、各キャラの特徴や各技の意図されている使い方が解釈できるようになったのが大きい。
例えばミカの両足キックは身体全体が浮くために下段を回避しながらカウンターを決めることができ、これは本来であれば下段をガードしてから一応有利フレームで反撃するところをカウンターヒットにまで昇華させる機能がある。
また、リュウとケンの竜巻旋風脚は見た目は似ているが用途が異なっており、リュウの竜巻は波動拳を消しながら進めるためジャンプでも届かない安全圏から放たれた波動拳咎められ、波動拳に対して無意識で打つ回答で有りうる。その一方、ケンの竜巻は波動拳を消せないが(少なくとも今回の参加者のレベルでは)後隙が少なく軌道が見辛いために突進技のように使うのが良さそうだった。

この段階で遊ぶのがやたら楽しいのは戦略に異様なまでの多様性があることだが、はっきり言ってそれは全体の練度が低いことに由来しているのは言うまでもない。具体的に言えば、一つにはそもそもそれぞれに可能な行動に制約がある(コマンドや昇竜を打てなかったりする)のでありあわせの武器でオリジナル戦略を作るしかないこと、もう一つにはキャラごとの行動の長所短所が把握されていないために攻略されるまでは「攻略されていない」というだけで有効な戦略になることだ。
俺は結構カジュアル勢なのでこれって多分全員のレベルが上がっていくと戦略はいくつかの最適解に収束していってバリエーションが減っていくのが寂しいねみたいなことを思ったが、ひふみによれば幸いにもその段階はかなり先らしい。

 

サイゼミTRPG

最後にクトゥルフ神話TRPGをプレイした。キャラメイキングはスマホでしてあとは口頭で進めるやつだったので写真が残っていない。
GM以外は初体験ということもあり、正直なところセッション自体は大した盛り上がりもなく事件は解決せず真相もよくわからんまま終わってしまった。派生なので当たり前だがマーダーミステリーにかなり似ており、そちらに比べると自由度が高い分だけ参加者の練度の低さがダイレクトに反映された形ではある。現実世界でも適当に物を判断する適当な性格の人間が多かったためにセッション中の選択も適当だったが、ドラマチックなセッションを作るためにはもう少しちゃんと生きた方が良さそうだ。

また、俺は一応趣味で小説を書いているので(リンク集も参照→)、オタク第一世代あたりがよく言う「小説を書きたいならTRPGをやれ」という言説がどれだけ説得力があるのか確かめたいという下心もあった。
正直なところ、俺にとっては小説を書くのにそこまで有効ではない印象だった。TRPGをガチ推ししている大塚英志が「各ジャンルの基本を抑えよう」と言っていたのと同じで「特に書きたいことが決まっていないが何かは書きたい」という人には極めて有益だろうが、俺はそのタイプではない(この話は前にも書いた→)。
とはいえポテンシャルは全然あるというか、何にせよ自由度が高すぎるので熟練すれば色々創作の役に立ちそうな気配はある。例えば完全なキャラクタードリブンでオマケ程度にストーリーを生成するタイプの創作者とか、二次創作でキャラクター設定が共有されている状態とか、とにかく流行っているキャラクター属性から商業的にウケそうな最大公約数的な話を作りたいとか、いずれにしても俺にはあまり縁のない話ではある。

21/5/3 ポインタと確定記述、変数名と固有名のアナロジーについて

C言語ポインタ完全制覇

俺はエンジニアではないのでC言語を使う予定は特にない(最近は非エンジニア向け言語であるところのSQLVBAに詳しくなりつつある)。よってポインタを完全制覇したところで意味は無いのだが、むかし情報系の人間だった頃に意味もなく購入して家に積まれていたので売るために読んだ。
読み物としてかなり面白かった。技術オタク丸出しの解説は立場に一貫性があって地に足が付いており、平易な割に説得力がある。

 

派生としてのポインタ

俺はポインタについて「アドレスに型情報が乗ったもの」くらいの解像度でしか理解していなかったのだが(挙動の理解にはそれで必要十分な気はするが)、そもそも規格書ではポインタ型は以下のような記載で与えられているというのは目から鱗だった。

ポインタ型は、被参照型と呼ぶ関数型、オブジェクト型または不完全型から派生してもよい。ポインタ型は、被参照型の実体を参照するための値を持つオブジェクトを表す。被参照型Tから派生されるポインタ型は"Tへのポインタ"と呼ぶ。被参照型からポインタ型を構成することを"ポインタ型派生"と呼ぶ。派生型を構成する方法は、再帰的に運用できる。

長いので要点だけ切り出すと以下の三点になる。

  1. ポインタ型は被参照型から派生する。
  2. ポインタ型は被参照型の実体を参照するための値を持つオブジェクトを表す。
  3. 派生型を構成する方法は再帰的に運用できる。

この見方がポインタの理解に新しい光を当ててくれるのは、被参照型とポインタ型の関係という観点からポインタを語っていることにある(派生という概念自体が、元になるものと新たに生成されたものの参照関係を前提していることは言うまでもない)。
通常の理解ではポインタとはコンパイラが型情報を付与した「アドレス」のことであって、間接参照演算子でアドレスを手繰って元の変数に到達できるのは、結果的にそうなっているに過ぎない。というのも、このイメージではintなりcharなりが宣言された時点でそれを格納している座標が先にメモリ上にあって、ポインタは論理アドレス空間上を走ってそれを拾ってくる使い走りでしかないからだ。
しかし、ポインタをまずは「派生型」と解釈するならば原因と結果が逆転する。ポインタが元の変数から派生したものであるというのが第一義的機能であるならば、それを変数がメモリ上に占める領域云々の話は間接的にそれを実現する実装の話に過ぎない。実際どれだけ本気かはわからないが、筆者は「たいていの処理系では『ポインタ型の値』は、実際にはメモリのアドレスのことです」と述べてポインタ型の値がアドレスではない実装も不可能ではないことを示唆している。

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一般的な「アドレスのイメージ」が空間と座標で捉えるポインタだとすれば、上記の規格書に記述されている「派生のイメージ」は関係と指示で捉えるポインタとして対比できる。これらは実際にはポインタ概念の両面ではあろうが、どちらかといえば「派生のイメージ」の方が現実的に取り回しが良いように思われる。
というのも、派生のイメージによって、すなわち指示として理解できるポインタの使い方とは、むしろ極々一般的なポインタの使い方だからだ。複雑なコードの中でリスト構造を作る際に「さてどんな風にメモリが使われているのかしらん」などと思いを馳せながらnextメンバを記述する人はそうそういないだろう。逆に「アドレスのイメージ」の方が理解しやすいポインタの使い方としては、領域破壊じみた裏技の使用やmallocを用いた動的なメモリの確保があるかもしれない。

 

ポインタと変数名

ポインタを「派生のイメージ」で捉えたときに非常に気になってくることが一つある。ポインタが何らかの変数から派生して間接的にその値を指示するためのものだとして、ポインタが生まれる以前から全く同じ機能を持つものが既に存在しているということについてだ。それとはすなわち「変数名」である。

例えば

int a = 5;
int *a_p = &a;

と書いたとき、5という値に到達する手段は二つある。
一つはaのポインタであるa_pから間接参照演算子を用いて「*a_p」と書くことだ。しかしあまりにも当たり前すぎることだが、当然ただ単に「a」と書くことによっても同じものが返ってくる。いずれも同じ値を返すものだとすれば、ポインタと変数名の違いは何なのか。

むろん、技術的に説明するならば答えはあまりにも自明である。一つの答え方としては、「変数名は最初にコードに書くだけのもの、コンパイルされた時点で消えて実行時のバイナリレベルには残らない」というものがある。よって動的なメモリ確保には適さず、実行時点では詳細がわからないサブルーチン内で変数を確保したいときにはいちいち異なる変数名を付けることはできない。だからmallocで確保した領域にポインタを与えて使い終わった時点でfreeとかいう手順を踏むことになるわけだ。

しかし俺が気にしているのは、元変数から派生して値を指示するものとしてポインタを解釈したとき、指示の様態において変数名とポインタが持つ機能がどう異なるのかということだ。このあたりで俺の関心は必ずしも情報科学の話ではないと先に言ってしまった方がいいのかもしれない。
ではそうしよう。変数名やポインタが行う指示を言語における指示とアナロジカルに捉えたときの、それらの振る舞いの違いとは何か?

 

自動生成されるポインタときょうだいの名前

まずは入口として変数名とポインタの違いを「自動生成を受け付けるか否か」という点に求めたい。これが最もわかりやすいのは配列の生成である。例えば5人分の生徒の点数を格納する必要があるとき、初心者は以下のようなコードを書くかもしれない。

int alice_score, alex_score, bob_score, jon_score, kate_score;

これがかなり最悪なコードであることは言うまでも無い。それぞれの変数を独立して与えてしまっているのでforで走査できないし、読みづらいし書きにくいしタイプミスも起こる。普通は以下のように配列を宣言して済ませるだろう(どうしても名前の情報が欲しければ二次元配列か構造体配列にせよ)。

int score[5];

このとき、score[0]~score[4]は一括りに自動生成される。つまり4人目のscoreはわざわざ宣言していないにも関わらず、score[3]によってそれを呼び出せる。score[3]は*(score+3)と同値であるから、結局のところポインタを経由して4人目のscoreに相当する値への指示を自動生成したわけだ。

この配列による自動生成は、戦前の家庭がよく子供の名前を機械的命名していたのと似ている。五人のきょうだいが上から順に一郎、二郎、三郎、四郎……と名付けられていたとき、どう考えても二郎以降は生まれるたびに頭を捻って名前を考えられたわけではないだろう。名前は規則によって自動生成されたものであるから、子供が命名されている現場を見ていなくても、五人子供がいるならば四郎と呼べば対応する子供がいることが最初からわかっている。

逆に、こうではない命名の仕方としては、命名規則を作らずにきょうだいの名前を一人一人考えて付けていくことがある。例えば良太、義男、恒弘……といった具合に名付けられているきょうだいの列がそれだ。こうした場合、子供が命名される現場を見ていなければ子供の名前を呼ぶことができない。一つ一つ変数名を宣言する場合、それぞれを綴りまで追跡しなければならないのと同じだ。

だが、ここからが本題なのだが、少なくとも日本語においては、必ずしもこの二つは明瞭に分かれるわけではない。むしろ一つの名前が持つ二つのアスペクトとして考える方が妥当である。
例えば、いくら一郎、二郎、三郎、四郎……という名前が自動的に生成されるとしても、それは日本語話者にとっては自明というだけだ。一、二、三、四……という漢字の列に関する知識が無ければこの生成は成功しない。この意味において、完全に機械的に生成されているかのように思われた名前には、「漢字」という島国ローカルで予測しがたいオリジナリティが隠れている。厚切りジェイソンにとっては三郎の次が四郎であることは自明ではない。
同様に、良太、義男、恒弘……という名前群もまた、完全に規則から独立して文脈無く与えられているわけでもない。親が名前を考えていたとき見ていたドラマに義男という俳優が出ていたのかもしれないし、親が友人に借金を踏み倒された直後で「子供には義に篤い男になってほしい」という思いが生まれたのかもしれない。要するにその背景には恐らく確実に何らかの社会的文脈があって、命名の現場を見ていなくても、義男という名前を規則的に推測することも不可能ではないのである。

つまり、どんな名前においても社会的文脈に応じて自動生成される側面と、その名前に固有の意図でもって生成される側面があるはずだ。これらはウェイトが異なっており、一郎、二郎、三郎、四郎……列の場合は自動生成される側面の方が強く、良太、義男、恒弘……列の場合は固有の意図で生成される側面の方が強いという表現が妥当だろう。
この二つの対比が、変数の値に対する「ポインタとしての側面」と「変数名としての側面」とパラレルに対応していることは言うまでも無い。ポインタは派生として自動生成され、変数名はプログラマに固有の意図で生成されるからだ。

このアナロジーをついでにmallocにおける領域確保に対応させておこう。mallocした領域に固有の変数名をあてがうことができずポインタを割り振ることは、例えば紛争中の村で生まれた赤ん坊に名前を付ける両親がもう死んでいて、それを拾った治安部隊が応急処置として適当な管理番号を割り当てる場合に似ている。赤ん坊には赤ん坊自身に固有の命名儀式が欠落しているため、社会的ポジションから辛うじて呼び名を得ることしかできないのである。

 

確定記述としてのポインタ、固有名としての変数

ポインタあるいは社会的文脈に応じて自動生成される名前には、その名前自体にその人のポジションに関する情報が含まれており、この意味でその対象を確定する記述、確定記述と言える(二郎という名前には二番目に生まれたという情報が含まれている)。
一方、変数名あるいはそれ自身に特有の意図をもって命名される名前は一度限りのオリジナルで固有のもの、固有名と言える(義男という名前には二番目に生まれたという情報は含まれていない)。
だが、この二つの区別は少なくとも人間の名前においてはスペクトラム上の分配に過ぎず、全ての名前を二分する区別というよりはそれぞれの名前について有りうる二つのアスペクトであるということは既に述べた通りである。大雑把に言って、ポインタ(確定記述)が出生者の社会的文脈を尊重した保守的な呼び名である一方で、変数名(固有名)は先天的な性質に縛られないリベラルな呼び名であるようなイメージを得ておけば十分だ。

情報科学言語哲学のアナロジーがなかなか面白いことになってきた。このままどこまで突き進めるか試してみよう。ここまでポインタは配列絡みについてだけ扱ってきたが、他にメジャーな使い方としては「リスト構造」や「参照渡し」がある。

まずはリスト構造について。ここは技術ブログではないので詳説は省くが、どの入門書にも書いてある典型的な例として、例えば連絡網を管理するためにある家庭を表す構造体を定義し、自身のポインタ型変数としてnextをメンバに含めるあれのことだ。
そしてこれも言うまでもないことだが、リスト構造においてポインタの使用が要請される理由は主に高速化のためである。要素が入れ替わる際、いちいち実体を全てメモリ上でコピーペーストしていると処理に時間がかかってしまう。その点、ポインタならばただ参照先を張り替えるだけで済むため相対的にオーバーヘッドが小さい。
この局面でもポインタを「社会文脈に依存した確定記述」という名前のアスペクトに対応させると、一貫したイメージが得られる。そうした名前の側面とは、要するに現実の複雑さを一定程度捨象した上で既存の文化的流れの中にその名前を乗せようとする営みである。それぞれが個々に異なるオリジナリティを持っているということを無視して、「三番目に生まれたから三郎」「男だから花子ではなく太郎」とか呼んでしまう方が楽なのは当たり前のことだ。いちいちオリジナルな固有名を呼んでいると参照情報が増えて呼び間違えるリスクも増えるので、社会文脈から見た限りでの確定記述として呼んだ方が迅速なのだ。

続いて、参照渡しについて。これも目に穴が開くほど見た典型的な例だが、C言語でswap(a, b)を実装する際にはポインタを経由しなければ実際には値を変更できないという例の話だ。また、C言語は関数一つにつき値を一つしか返せないので、実質的に複数の結果を返したいときに複数のポインタを渡してそこに中身を詰めてもらうという用途で使うこともある。
この話の本質は明らかにC言語が標準で値渡しをするという挙動にある(最初から参照渡しならこんなポインタの使い方はしなくて済むのだし、実際他の言語ではそうなっていることも多い)。ここでもアナロジーを働かせるならば、人間において値渡ししかできないというのは、名前を剥ぎ取ってその人それ自体のコピーを渡すということだ。この局面において固有名による記載は闇に葬られる。というのも、そもそも固有名とはその人の持つ社会的文脈から寸断されて無関係に与えられたものだからだ。固有名は自動生成できず含みを持たないから、それを一度無理矢理剥がしてしまえばもう二度と復旧できない。
しかし、完全に記憶を喪失した人間にも呼び掛ける道はまだ残っている。それは社会的文脈の元へと彼を復帰させることだ。彼自身を見ていても何もわからないとしても、彼が三番目の入院患者であることさえわかれば、それに対応した適当な名前を復活させて看護師の間で流通させられるだろう。つまり、aという名前が剥ぎ取られていたとしても、&aというポジションは未だに機能しているのだ。ポジティブに見れば記憶喪失の人間が何度でも社会へと復帰できるのかもしれないし、ネガティブに見ればいくら自由になりたくても文脈からは拘束されて強制的に引き戻されるのかもしれない。

 

ポインタとしての確定記述、変数名としての固有名

言語哲学的には、名前のポインタ的側面はフレーゲ&ラッセルの名前観、変数名的側面はクリプキの名前観に対応する。
このあたりは説明すると長くなるので興味のある人は過去の記事を読むか(→)自分で調べてもらうとして(→)、このアナロジー言語哲学サイドからスタートしても有効なのかを「同一性」と「必然性」の二点から考察したい(問題設定についても詳説は略する)。

同一性の問題とは要するに「ヘスペラスはフォスフォラスである」という例文をどう解釈するかという話である。

補足377:楠栞桜が引退したので「夜桜たまは楠栞桜である」が使えなくなってしまった。

確定記述として見るならば、ヘスペラスとフォスフォラスは異なる情報を含む異なる名前と見做すことが許される。何故なら、名前とは対応する対象に到達するための情報が記述として刻まれているものであって、ヘスペラスとフォスフォラスは異なる情報を含んでいるからだ。
これはポインタ表現においては異なるポインタが間接参照によって同じ値を指す(同じポインタを格納する)のが許容されることと対応している。例えば、int* p;とint* qを宣言し、pとqに同じアドレスを格納することは全く可能である。というのも、pとqはたまたま同じ値に対応しているだけで、それらはそれぞれに異なる文脈的な経緯でアドレスを保持しているからだ。

一方で、固有名として見るならば、ヘスペラスはフォスフォラスは同じ情報を含む同じ名前である。何故なら、名前とはある対象がそれに与えられている情報とは独立してオリジナルに持つ固有のものであるはずなのに、それが同じ対象を指してしまっている以上は同一の固有性を持つもの、つまり同じものであるからだ。
これは変数名表現において同じ実体を指す名前はあらゆる意味で同じでなければならず、そのために変数名の重複が許容されないことと対応している。int a;とint b;が実は同じ実体であるということは有り得ないのだ。それぞれを一度個別に命名してしまったらそれは絶対に異なるものでなければならず、同じ実体を指すものがあるとすればそれは自分自身しか存在しない。この挙動がポインタと真逆であることは言うまでも無い。

最後に、必然性についても駆け足でさらっておこう。クリプキの直接指示としての固有名においては同じ名前は必然的に同じ対象を指示する。すなわち、状況の異なる可能世界においても固有の同じ対象を指示する。一方、確定記述においては状況の異なる可能世界では当然記述の内容が異なるので、同じ対象を指示できない。
C言語における可能世界は何かと言えば、コードが実行されるごとに異なることができる環境のことだろう。同じコードをコピペして別のマシンで動かすのでもいいし、同じマシンで違う日に動かすのでもいいし、同じマシンで並列に動かすのでもいい。
このとき、変数名(固有名)はどの環境で実行されようが同じ実体を正しく追跡する。というのも、変数名は実体がどのアドレスにどうあるかとは無関係に、宣言された時点でその実体に固有のものとして縛り付けられた形で存在するからだ。ソクラテスが仮にソフィストだろうが羊飼いだろうがどの世界でもソクラテスと呼ばれるのと同様、実行される環境が東大のスパコンだろうが京大のスパコンだろうが変数名は同じものに紐づけられる。
一方で、ポインタ(確定記述)はそうはいかない。アドレス空間の組成は環境によってまちまちであり、違う環境で実行されたポインタが同じアドレスを保有していることはほとんどないからだ。ある系ではpが0xbfffdc37だったのに別の系では0xbfeedc24だったなどということはいくらでも起こるのであって、前者の値をメモしておいてそれを使い回そうなどというコーディング(?)は愚の骨頂どころの騒ぎではない。それはソクラテスソフィストである世界で彼の有様を綿密に絵に描き起こしたとして、そのスケッチはソクラテスが羊飼いである世界では彼を発見するのに全く機能しないのと同じことである。

21/4/29 お題箱回:人狼延長戦

お題箱81

前回お題箱返答回で人狼に触れてからTwitterで色々リプライを貰ったりして完全にこのゲームを理解しました。色々来ている人狼関連の投稿に答えつつ、「我が人狼理解に一点の曇り無し」ということを証明します。

 

273.LWさんが人狼ゲームをどう認識しているのか、多少は理解できているつもりで質問するのですが
そもそも人狼が「各プレイヤーがどんなルールを内面化しているのか?」を互いに読み解き合う(騙り合う)ゲームで(も)ある、という側面についてはどうお考えになるでしょうか?

なまじ、偶発的に似た偏り方をして「ルール(定石ムーブ)」を前提かのように錯覚、共有する集団内でプレーするから「それは幻想だ!」という看破に意識を割かれるのであって、
そもそもが「偶発的に共有できた(かのように見える)ルールを手掛かりに、他プレイヤーの見ている"ルールの像"を読む(そして解釈を誘導する)」ところに力点があるゲームに思えます。
「その点は承知しており、かつそれを好ましいとは思わない」という感じかもしれませんが、何か語ることがあればお聞きしたいです。

少なくとも事実上、人狼が他プレイヤーが持っているルールの像(=無根拠な妄想)を推測するゲームとして営まれていることと、その妄想に寄り添うのが楽しまれていることについては同意します。
ただ一つ大きな異論があるのは、「『各プレイヤーがどんなルールを内面化しているのか?』を互いに読み解きあう」と表現できるほど妄想には多彩なバリエーションがあるわけではないだろうということです。それぞれが多様な妄想を持っているわけではなく、知らんけどどっかにセオリーと偽って書かれている支配的な妄想を皆が共有していて、「支配妄想の保持者」と「それ以外」に分かれているのが実情であるように思われます。
よって、「偶発的に似た偏り方をする」という表現にもあまり同意できません。現実的にも、皆がそれぞれ異なる源泉から異なる妄想を産出してそれがたまたま一致しているわけではなく、支配妄想を保持する方が有利になることに気付いた上で便乗しているはずです。既にある特定の妄想が支配的になっている場においては、それを取り込むのが最も有効であることは理解できます。

人狼における支配妄想を麻雀で喩えると、「三手目に中を捨てたやつは皆で狙い撃ちにするとよい」という妄想が流通している状態に近いです(ルール上は中と白と發は可換なはずなのに、何故か中だけが対象になっているあたりが妄想ポイントです)。
仮にこの妄想が麻雀界隈で支配的になっている場合、それを知らずに三手目に中を捨ててしまう新人プレイヤーはまず勝てないでしょう。何局か戦ってボコボコにされ続けた末に途中で妄想ルールの存在に気付き、自身もその妄想に従うことで負けを防げることを理解します。こうして支配妄想はニューカマーを取り込んで更に拡大し、実質的な追加ルールとして機能していきます。それはそれで戦略性のあるプレイを生み、多少は牌効率を崩してでも中は二手目や四手目に捨てることが勝率を最大化するためのセオリーとなるかもしれません。

ただ、仮に「三手目に中を捨てたやつは皆で狙い撃ちにするとよい」という支配妄想が十分に共有されていたとしてもなおそれが明文ルールと決定的に異なるのは、支配妄想は「ゲーム内のルールを参照している限りは絶対に把握できない」という意味でゲームの外部にある点です。
具体的に言えば、「334の塊からは4を落として刻子を狙うより、3を落として順子を両面待ちする方がツモ上がりしやすい」というセオリーはいつどこで誰と卓を囲んでいても正しいですが、「三手目に中を捨てない方がよい」というセオリーは皆が支配妄想を共有していることによってのみ成り立ちます。どちらも勝率を最大化するセオリーであるとしても、前者は明文ルールから生まれたゲーム内のセオリーである一方、後者は支配妄想から生まれたゲーム外のセオリーです。
よって、支配妄想由来のセオリーに沿わなかったという理由で敗北したとして、それはゲームに負けたことになるのかどうかが微妙なところです。もし麻雀プロリーグとかでトップランカーだけが「三手目に中を捨てたやつは皆で狙い撃ちにする」っていう妄想を共有してて、それを知らない新人は三手目に中を捨てて理由もよくわからないまま負けた場合に「新人は麻雀が下手だった」ということになるのでしょうか。それはゲーム前にどれだけ情報を集めたかを競う就活セミナーのビジネスマナーワークみたいなもので、少なくとも我々が通常ゲームと呼んでいる営みとはかなり異なる営みであるように思われます。

補足375:とはいえ、カードゲームのメタゲーム読みデッキ選択なんかはこの営みに近いので、これを言ってしまうとアグロが流行っているときにミッドレンジを持ち込むのもゲームではないと言わなければいけなくなる恐れがあります。ないかもしれませんが、少なくとも類似ケースではあります。

とはいえ、その支配妄想という名の既得権益が勝敗を決定する排他的で内輪な性質自体が悪辣とか陰湿とかいう攻撃をするつもりはあまりありません(まあ、その気持ちが全くないと言えば嘘になりますが……)。
僕が誤っていたのは人狼を理詰めのゲームだと勘違いしていたというただ一点であり、コミュニケーションワークとして考えるならば楽しむ道も十分に残されているように思います。実際、高校生が自習時間に打つ麻雀で「三手目に中を捨てたやつは皆で狙い撃ちにするとよい」というローカルなノリが自然発生するのはいかにもあり得そうなことですし、それは明文化されたルールではないからこそ場の盛り上がりに大いに貢献するでしょう。

 

274.こんにちは。いつも楽しくブログ拝見させていただいています。
2021/04/18のブログにて人狼の話をされていたと思うのですが、結論に疑問を持ちました。
もっと根本的な話として「人狼は空気を読むゲーム」的な側面があり、それが出来ていない人間を人狼として排除する傾向があると思います。
自分は浅学の身で仔細を言葉にできないのですが、例えば仮に20人で人狼をしていて、みんながAを吊ろうとしている時、その全員が「誰に投票しても影響がないだろう」と考えてランダムに投票した場合、結果は議論の内容とはまったく関係のない方向に転がっていくことになります。そうなってしまっては議論の意味が無く、ゲームは成立しません。ゲームを成立させるために、「議論の結果そう決まった」ことに逆らってはいけないという暗黙のルールが存在すると言えます。それが空気を読むことだからです。
そこでランダムに投票を行う人間はその暗黙のルールを破る≒ゲームをかき乱す存在として認識されるし、それを行って今メリットがある人間は人狼しかいない、というように結論付けられてもおかしくはないと思います。テスト中に大声を出して妨害する奴、みたいな認識を持たれるのではないでしょうか?
以上です。不躾な内容で申し訳ありません。

ありがとうございます。
こちらも基本的に上で書いたことと同じで、人狼が支配妄想の保持を前提としたコミュニケーションワークであるということを仰っているのだと思います。

ここで仰っている「ランダム投票するやつがいるとゲームが成り立たなくなる」として表現されている「ゲーム」というのも、明文化されたルールによるいわゆるゲームではなく、支配妄想で駆動している妄想ワークの方でしょう。というのは、ルールで決まっている範疇ではランダム投票は禁止されていないため、ルールに禁止されていない行為を行うことでゲームが成り立たなくなるということはルールの定義上有り得ないからです。

なお、僕一人しかランダム投票していない段階から「僕に感化された結果、全員がランダム投票を開始する」という事態を警戒するのはかなりの過剰反応であるように思われますが(実際にそれが起こるまでにはあまり現実的ではないステップをいくつもクリアする必要があるでしょう)、彼らが立脚している妄想が寄る辺ないことを認識しているからこそ滑りやすい坂を滑らないように過剰な滑り止めが散布されることも理解できます。

補足376:一般的に言っても、十分な人数が参加する選挙の本質は投票行為それ自体ではなく選挙運動であるため、「実際に僕の投票が結果を変えないこと」より「その異常性がパフォーマンスとして影響力を持ってしまうこと」を警戒するということは筋が通っているように思われます。これは普通の民主主義国家における普通の選挙を想像してもらえればよいのですが、まさか「自分が投票に行くかどうか」が投票結果を左右すると勘違いしている人はいませんよね。僕が次回の都知事選挙に行こうが行くまいが、都知事になる人は変わらないというのは端的に事実です。というのも、(実際の選挙を最大まで単純化して候補二人への多数決とすると)自分の投票が結果を左右するのは、自分以外の投票が綺麗に半分ずつに割れていて自分のプラス一票によってどちらが多数派か変わるという天文学的な確率のケースだけだからです。だからこそ選挙では「投票に行け!」とか「共産党に投票しろ!」とかアジって自分以外の票を操作することこそが重要なのであって、あなたが黙って投票所に行って黙って一票入れる行為には、少なくとも選挙結果から見れば全く何の意味もありません(なお、この補足は僕が自分の持つ一票を超えて投票率を操作しようとするアジテーションではありません)。

ただ、これに関しては「人狼は支配妄想を共有するゲームである」という理解の発展版として、りっぷるがいみじくも「人狼は馬鹿の動員ゲームである」と指摘したことはかなり説得力があります。
つまり人狼ゲームの参加者には、「妄想を妄想と認識している人」と「妄想を妄想と認識していない人」の二種類がおり、前者が後者を騙して動員することが人狼ゲームの本質であるということです。
この括りにおいては、妄想に乗ることを勧めてきている投稿者も、妄想に絶対に乗らない僕も「妄想を妄想と認識している」という点で前者にカテゴライズされます。一方でそれとは別に、そもそも妄想とルールを区別できていない層がおり、この層は支配妄想から導かれる偽のセオリーと、ルールから導かれる真のセオリーも区別できていません。よって、彼らに対して完成度の高い支配妄想を叩き付けることによって、(実際は無根拠であるというシニカルさを経由せずに)迫真の同意を取って投票を有利に運ぶことが可能になります。

そして、そういう扇動者にとっては僕のように意味もなく支配妄想から外れた行動を取る参加者は非常に厄介な存在となります。というのも、僕の行動は絶対に妄想と整合するように位置付けることができないため、動員対象の人が混乱してしまうからです。そうなると動員に失敗して投票を操作できずに不利になってしまいます(人狼を動員ゲームと見る限り、これはゲーム内の事態です)。
だから僕がランダムに投票すると吊られる理由は「本当に人狼だと思われたから」ではなく、「(人狼かどうかとは特に関係ないのだが)動員時のノイズを排除する必要があるから」です。僕を放置できないことについても、「僕を放置していると感化された人が現れて支配妄想が崩壊するかもしれないから」という過剰防衛説よりは、「僕を放置していると支配妄想の説得力が薄れて動員に差し支えるから」という切実に邪魔説の方が納得できます。

 

275.人狼周りの議論を見て思ったんですが、Lwさんってアニメや漫画で言うところの天才キャラっぽい悩みしてません?

最初は「適当に投票していいわけねえだろ~」って言ってた人も僕としばらく問答した末に説得されてしまって「確かによく考えると別にランダムに投票してもいいのかもしれない……」とか言い始めるみたいなことが何度かあって、「ソクラテスかよ」とツッコミされたのはかなりウケました。

21/4/18 お題箱回:プラチナエンド、葬送のフリーレン、人狼etc

・お題箱80

264.ジャンプ+でプラチナエンドが少し読めたけどもどう評価してますか

最近完結したので読みました。ぼちぼち面白かったです。
途中でいきなりジャンルが変わってビックリしました。前半戦の1~8巻と後半戦の9~14巻で全く別の漫画になりますね。

前半戦では「12人の人間が天使から与えられた能力を用いて神の座を奪い合う」という露骨なバトルロワイヤル設定からスタートしてずっと頭脳派バトルをやっていました。前半戦のラスボスであるメトロポリスマンは激烈な差別主義者であると同時に「妹を蘇生させる」というわかりやすい目的を持っており、彼の暴挙を止めるという目的の下でバトルが展開していきます。
しかし8巻でメトロポリスマンが死亡したことにより「神になりたい人」が一人もいなくなり、バトルロワイヤルの前提が崩壊します。あとは残った参加者6人で「世界と我々はどうあるべきか」を冷静に話し合いつつ多数決で神を決めるという会話劇が7巻くらい延々と続くことになります(長!)。

当初は素朴に究極の目的として措定されていた「神」も後半になると疑問に付されることになり、登場人物たちの思索は「そもそも神とは何か?」にまで及びます。ここで言う「神」とは「作中で神と名指されているキャラクター」という設定上の固有名詞の話ではなく、普通名詞としての神です。よって「神は原理的に存在しうるか」「存在論的に循環しない神の定義は可能か」といった思弁的な議論が展開します。
バトル的な意味でエキサイティングな悪党がラスボスだった前半戦とは打って変わって、後半戦では象牙の塔に住んでいる無神論者の大学教授がラスボスになります(思弁的な意味でエキサイティングな悪党)。これもうエンタメやる気一切ないだろと思いつつ、僕はそういう話が好きなのでまあまあ面白く読んでいました。

この話って明確に『DEATH NOTE』の裏面でもあって、基本設定の類似度合いはセルフパロディの域に達しています。人間に憑くのが死神から天使になって、人を殺せるノートが人を殺せる矢になって、神を目指した月の意志は神争奪として残っている。神になりたいメトロポリスマンの選民思想も明らかに夜神月を引き摺っており、前半戦は月を葬る話として読むのが妥当でしょう。

だというのに、既に書いたようにメトロポリスマン以外はさっぱり神になる気が無く、後半戦ではほとんど神の押し付け合いという様相すら呈してきます。

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主人公も夜神月とは正反対に「自分は幸せになりたいし皆にも幸せでいてほしい」というナイーブな最大幸福思想があるのですが、その末路は月と同じです。つまり、彼の優しい思想もまた厳しい現実に直面して挫折していく物語でもあります。
というのも「殺人によってのみ幸福になれる人」が登場し、その幸福の実現に間接的に加担したことによって、幸福が両立できないこと、人によって幸福の形は異なるので全員が幸福にはなれないという当たり前の事実を知るからです。最終的には最大幸福を諦め、かつ、「皆に幸せになってほしい」という願いすら自分一人のローカルな幸福の条件でしかないことを認め、独断の境地に達します。

補足374:これは『仮面ライダー龍騎』で城戸真司が歩んだ過程とほぼ一致しています。

とはいえ、それって言ってしまえば開き直りであって、大義が無い分だけ夜神月より更に性質が悪いです。メトロポリスマンを殺したことによって夜神月を葬って民主主義が到来したように見えて、結局のところより悪い形で主人公がその座に返り咲くという極めて悲観的な末路があります。

 

265.功利主義についてですが、短期的な視点で観察した時に起きる一定の失敗(≒大きな犠牲)を長期的な視点で観察した時の小さな犠牲としてみなし許容することを前提とすれば理想に近い運用ができると思うのですが、どうでしょうか?

功利主義の枠内で見れば概ね正しいと思います。
強いて言えば、運用を開始した時点では「短期的な犠牲」も「長期的なリターン」もまだ起こっていないことの期待値に過ぎないので、その精度と説得力をどの程度確保できるのかという問題があるくらいです(実際にはそれが最大のボトルネックであることも少なくありません)。

また、功利主義の枠外から見れば、短期的であるとしても犠牲を引き受ける人々の反発をどう処理するのかという問題もあります。最大多数の最大幸福しか勘定していないプリミティブな功利主義は結果的に莫大な格差を許容するので、その折り合いをどう付けるのかという疑問は功利主義に対する典型的な批判の一つです。

補足375:この格差は典型的には階級格差ですが、時間格差も十分に含まれます。つまり、例えば現在は損をして未来に得をする場合、そんなに長生きできない高齢者や、そもそも未来を重視しない刹那主義者の幸福は明確に奪われるということです。

いずれにせよ、功利主義というのはそれ単独ではかなりアバウトな第一次近似にしかならない指針であって、結局どうすればいいのかについては功利主義とは直接は関係のない信条を混入させた二次的な規則を作らざるを得ず、そう簡単には運用には移せないという印象があります。
功利主義者の間でも父権主義と自由主義で割れたりするくらいですし、最も原始的な行為功利主義から現実的な運用を見越した規則功利主義になった途端に説得力が薄れてくることにも、やはり理念と実践の間に超え難い壁の存在があるように思われます。

 

266.「葬送のフリーレン」読みました?

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欲しいものリストから送っていただいたので読みました。ありがとうございます。
かなり面白かったです。フリーレンちゃんがダウナー最強系女性主人公で萌えでした。

「勇者パーティーが世界を救ったあとのエピローグ」というユニークな設定(と言いつつ多分探せば他にも結構ありそうな設定)は魅力的ではありつつも、「本当に全てが解決したエピローグだと面白くないので、ドラマを語れる程度には現在進行形のイベントを残しておこう」という作劇上の意志は感じました。

というのも、「葬送」というワードはフリーレンの二つ名である以上に「死んでしまった勇者パーティーを葬送する旅」を示してもいるわけですが、しかし言うほど世界が穏やかになっているわけでもないですよね。なんか普通に魔族の生き残りとバチバチのバトル展開になりますし、旅の行程上ではハンター試験みたいなものに参加する羽目にもなります。フリーレンが新しくパーティーを作っているのも、別に過去に執着しているからではなく、もっと前向きな次世代の育成という側面の方が強いです。少なくとも現状、タイトルで「葬送」と言っているほど後ろ向きな旅でもないということです。

そういう局面で「フリーレンが過去に一度世界を救っている」というエピローグ要素が活かされるのは、「フリーレンの持つ情報量が卓越している」という点です。彼女は一度経験しているために大抵の事情や技を既に把握しており、彼女自身の技量もあって割と余裕をもって事態に対処できます。
そのあたり、何となく異世界転生無双作品の変奏であるような趣きもあります。フリーレンが行く先行く先でもう知識があって「これがあのときのアレかあ」みたいなリアクションするやつ、なんか異世界転生主人公が「これがゲームでよくある〇〇ってやつかあ」みたいなリアクションするやつと若干似てません? 過去という経験も優越性を担保する一つの異世界であるというか。

とはいえ魔王については過去に討伐している以上、少なくとも過去と同じではいられないはずです。
復活しているのか死んでいるのか継いでいるのかはわかりませんが、まあ旅の目的地が魔王城でもあるあたり、そこに辿り着こうとするあたりで何か物語が大きく動くのでしょう。続きを楽しみにしています。

 

267.男子校はまだわかるんですがオタクコミュニティって所有の対象が2次元から3次元になっただけみたいなとこありません?

これは多分僕が「男子校やオタクのコミュニティって女性に対しては斥力が働くので、むしろ女性の所有による連帯を基本とする原義のホモソーシャルとは異なる」と言ったことに対するものですね。たしかにカスのオタクには三次元女性を所有する能力は無いが、代用品として二次元女性を所有しているのであって、その意味では原義のホモソーシャルの亜種に過ぎないのではないかという文脈でしょう。

そうであるとも言えるし、そうでないとも言えます。それは恐らく結論が出ませんが、とりあえずそうである要素とそうでない要素を書いておきます。

三次元女性の代わりに二次元女性を所有していると言える要素としては、なんと言っても女性ユニットを入手するタイプのソーシャルゲームの隆盛があります。ガチャで見られる「所有までにかなりの金銭が必要になる」「所有したことはSNSで共有する」「所有している女性の活躍を逐一報告する」という身振りは原義のホモソーシャルでマッチョ男性が行う動きそのものです。もっと言えば、ソーシャルゲームという新しいメディアがオタクにここまで適合的だった理由として、かつてはグッズやポスターが賄っていた「キャラを所有する」という身振りをデジタル化して原型を抽出できたからだ……という印象は拭い難くあります。

ただその一方で、二次元女性キャラクターはどこまでいっても無機物です。まさか「オタクがガチャで引いたカレンチャンのスクショを喜々としてTwitterに貼っている」という事態を、「オタクが彼女を作って匂わせ会食写真を喜々としてTwitterに貼っている」という事態と全く同一視するのは、いくら何でも喩えが行き過ぎているでしょう。
というのも、原義のホモソーシャル的な所有が権力と暴力という能力を示すのは、相手方の女性が意志を持つ主体であるという前提の下、その主体性の一部を剥奪する権利を持っていることによるはずだからです。あえて古典的な言い方をすればカレンチャンはもともとオタクが引いて喜ぶために描かれた「絵」であって、ゲーム内にいるカレンチャンに対して主体的権利の剥奪を行うことは無限に譲歩してもなお有り得ません。

むろん、「オタクはその豊かな想像力によりカレンチャンの主体性を前提できるのであり、少なくともオタク共同体の中では剥奪は機能している」とか「結果的に実現している営みが大きく乖離するとしても、根本にあるモチベーションは同一である(オナニーを性行為の代替とみなせるのと同じ)」のように食い下がることはいくらでも可能です。
個人的には、この話を進めるにあたっては(疑似)女性の扱いを見るのと同じくらい男性の連帯の方を見るのも有効ではないかとも思っています。それもコミュニティと語り手依存なので何かがスッキリ解決することは無いでしょうが……

 

268.見知らぬおじさんからリプ来た時に好青年っぽくなるの草

いつでも好青年です。

 

269.子供とかお持ちになられないんですか

これ聞く意味あります?

 

270.効率主義者な割にノート手書きなの何でなんですか(PCとかスマホで打った方が早くない?)

それ実はかなりあります。
僕はタイピングがまあまあ早い方なので、ノートよりPCのキーボードの方が数倍早いです。ノートに勝る点があるとすれば物理的なフェチズムを満たしてくれる点と図を書きやすい点くらいで、その二つが決して小さくないので現状はまだノートを使っているという感じです。

 

271.lwさんが理解した人狼の基本について教えて欲しい。

272.人狼論について語ってほしい

人狼で僕が理解したこととこれから理解しないといけないことは本当に無数にあって、その中のほんの一つに過ぎないのですが、この前超えた大きなブレイクスルーとしては「適当に投票をしてはいけない」と理解したことがあります。

例えば、初手からローラーをやっていて全会一致で「Aさんに投票しましょう」ということが決まっていて、Aさんも「俺は市民だけどこの流れなら仕方ないな」とか言って消化試合の投票をするとき、僕はだいたいAさんには投票せずに誰か他の人を指さします(代わりに指す相手を仮にBさんとします)。この行動には誰の役職も全く関係なくて、僕が人狼でも市民でもやりますし、Aさんが人狼でも市民でもやりますし、Bさんが人狼でも市民でもやります。
皆には「お前なんでそういうことするの?」って言われるんですけど、僕にとってはそれは全く頭を使わずに当たり前にやることで、逆になんでそんなに皆が引っかかるのかずっとわかりませんでした。皆は俺が何でそれをやるのかわからないし、俺は皆は何がわからないのかわからない泥沼で、「LWの人狼が終わってる問題」の未解決事項として長らく積まれていました。

僕がBさんを指すのは、僕がAさんに投票してもBさんに投票してもどうせAさんが吊られるに決まっているからです。現実的に考えて、僕の適当投票が全体の結果を左右することは有り得ません(ちなみに残り人数が3人とかで明らかに僕の行動が結果に影響を及ぼす場合は普通に投票します。今はまだ10人以上残っている状態を想定してください)。
「市民だったらそれをする理由が無い」というのは反論としては成立していません。人狼でもそれをする理由がないからです。人狼が「市民も巻き込んで奇跡が起きればワンチャン噛めるかもしれない」という砂粒ほどの可能性に賭けて莫大なリスクを背負って決死の行動をするというのは現実的に考えて有り得ず、僕の行動によって僕が市民か人狼か判明することはありません。実際、僕は市民だろうが人狼だろうがやるのでなおさらです。
また、「勝ちを目指していない行動だから良くない」という反論も謎です。僕の投票によって投票結果が変わらず、かつ、何も判明しないのであれば、それは勝ちにも負けにも関与しません。その類の行動は無数にあり、例えば「ゲーム中に右足を上に組んで座るか左足を上に組んで座るか」がその一つです。「Aさんのローラーが決まっているときにAさんに投票するかBさんに投票するか」は僕にとって足の組み方と同じなので、気分で適当に投票するというだけです。

しかしこの前、三時間以上かけて「自分から見た他者の自分への評価」と「実際の他者の自分への評価」が一致していない可能性があるので良くないということを教えてもらって、なるほどそういうことだったのか!とようやく理解しました。
というのも、例えば僕が幼稚園児で初めて人狼をプレイするとすれば、僕が適当に投票することは明確に僕を人狼とする理由になります。何故なら、まだルールがよくわかっていないので「よくわからないけど今吊りたい人を指すと吊れるゲームなのか」と思ってBさんを指さしている可能性が客観的に見ても十分にあるからです。僕が人狼というゲームを「殺したい人を指さすゲームである」と誤解している想定を加えるならば、たしかに僕がローラー作戦に逆らってBさんを指さすことは僕が人狼であることを支持する有力な根拠になるということです。
つまり、僕は「まさか俺はそんなに馬鹿だと思われていないだろう(俺は賢いので)」と無意識に思って適当に投票するのですが、他の人は僕のことを「こいつ幼稚園児並みに馬鹿な上に人狼じゃね?」と考える可能性はあって、だから適当に投票してはいけないということです。

僕は普段から「自分が他人から見てどういうポジションにいるか」を把握する自己マネジメント能力が完全に欠落しているというのは親しい友人たちからよく指摘されるところであり、その欠陥が人狼というゲームを通じて発露しているというのが真相のように思われます。
僕にとって他者認識のスタート地点は「私はあなたではない」であって、情操教育の根幹を成す「私とあなたは同じ人間である」という発想を何か根本的な部分で本当に理解していないようです。「自分と他人は異なるクラスの存在者である」というのは僕にとっては1+1=2と同じくらい当たり前の話なので、僕は他人と同じ行動を取らないことが当たり前だし、他人が自分をどう見積もっているかも把握できません。人狼という枠組みが決められた二次的なコミュニケーションゲームの中では、僕が普段わからないなりに何となく人まねをして補っている部分(えらい!)が完全に崩壊し、根本的に終わっている欠陥が露出するみたいな感じだと思います。

あと人狼についてはまだまだわからないことがいくらでもあるのでわかったら書きます。ちなみに次に理解したいと思っている問題は「議論中に何か喋ることと何も喋らないことは何が違うのか」です。

21/4/11 2021年2月消費コンテンツ

2021年2月消費コンテンツ

note.com

なんか消費コンテンツの輪が広がってました。2021年1~3月まで更新されていたので読みましたが、言われてみればそうだなと感心する解釈が多くて面白かったです。
2月号で言及している「邪神ちゃんで本当に召喚されているのはゆりねの方で、世界が反転したゼロ魔ではないか」みたいな話とか、3月号の「(一見したときの過酷さとは異なり、実は他の無双系異世界転生と同じように)リゼロもアスペルガーのスバルが元の世界よりは順応しやすい世界に召喚される話なのでは」みたいな話は確かに~と思いました。オススメです。

メディア別リスト

映画(6本)

ハッピーエンド
メランコリア
天使にラブソングを…
2010年
レオン
ハンガーゲーム

アニメ(6話)

ぶらどらぶ前半(1~6話)

書籍(2冊)

はじめてのウィトゲンシュタイン
宗教学の名著30

漫画(48冊)

約束のネバーランド(1~20巻)
フラジャイル(16~19巻)
お別れホスピタル(1~4巻)
薬師のひとりごと(1~4巻)
青のオーケストラ(1~6巻)
聖お兄さん(1~10巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

2010年
ハッピーエンド
約束のネバーランド
フラジャイル

消費して損はなかったコンテンツ

メランコリア
宗教学の名著30
薬師のひとりごと
天使にラブソングを…
はじめてのウィトゲンシュタイン

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

ぶらどらぶ前半
聖お兄さん
青のオーケストラ
お別れホスピタル

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

ハンガーゲーム
レオン

ピックアップ

ハッピーエンド

ハッピーエンド [Blu-ray]

ハッピーエンド [Blu-ray]

  • 発売日: 2018/08/03
  • メディア: Blu-ray
 

ミヒャエル・ハネケの最新作(2018年だが)。見た直後は面白くなかったのに後から思い出すと面白かった気がしてくる、本当に記憶に残る作品はそういうところがある。
タイトルこそ『ハッピーエンド』だが同監督の名作『ファニーゲーム』が一家が殺戮される映画だったのと同様、最初から最後までハッピーな要素は特にない。独特のぼんやりした嫌らしさも健在で、家族の中にそれぞれ隠し事や噛み合わないものがあり原因もよくわからないままそれぞれちょっと噛み合わない。それは決して華やかに解決しないどころか破局を迎えることすらなく、家族間の不協和音が上滑りしていくだけ。

もともと俺はそういう漠然とした不安感を扱う作品がかなり好きだが、特に現代らしくSNSのモチーフが見事に組み合わされている。確かにSNSにも「物語がきっちり終わらない」という悪辣な性質がある。
例えば人生の大問題について何か非常に重要な幕引きをツイートしたとしても、それがツイートである限りはすぐにプリキュア実況やウマ娘のスクショやよくわからんプロモーションに押し流されてしまう。締め切った部屋の一室であれば停留して固着したかもしれない言葉はTwitterでは霧のように拡散するだけだ。ネットに投げ出された物語は常に開放系、文脈の嵐の渦中にあって、終わりの線をきっちり引くことは誰にもできない。

特にラストシーンが非常に良かった。妻を殺した過去を告白した老人が車椅子を海に向かって進めていくが、しかし入水自殺という華やかな終わりは決して成功しない。黙って見送ればいいものを、気付いた家族が止めに入ってしまい、それを捉えているのは孫のスマートフォンだ。自殺すらピシっと決まらないグダグダ感だけがカメラロールに残り、それも結局適当にSNSにアップされて押し流されていくのだろう。

 

メランコリア

メランコリア

メランコリア

  • メディア: Prime Video
 

全体的に冗長だったがぼちぼち面白かった。開幕のシーンがあまりにも良すぎたのが唯一最大の失敗で、ラストシーンですらも開幕を超えていないため、優れたPVと残り膨大な蛇足という趣がある。

鬱病に陥った主人公の元に何故か全てを破壊する惑星メランコリアが衝突して地球が滅ぶ、『ザ・ワールド・イズ・マイン』の鬱病バージョンみたいな感じ。
今まさに地球が滅ぼうというときであっても鬱病の者だけは最初から未来を悲観しているので絶望することもない。健常者が取り乱す一方で鬱病患者は淡々と終わりに向けた準備を進める。とはいえ、鬱病患者は『インデペンデンス・デイ』の主人公ではない。迫る滅びへの解決策を提示できるわけもなく、終わりは回避できない。気休めの結界を作って穏やかに死を迎えるのみ、それがメランコリストの勝利である。

 

2010年

2010年 [Blu-ray]

2010年 [Blu-ray]

  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: Blu-ray
 

映画としてはそんなに面白くないけどかなり良くてガチで泣きながら見た。

前作『2001年宇宙の旅』で暴走したあのHALが遂に救済されたのが本当に良かった。
今作ではHALが前作主人公の位置におり、作中時間では9年越しに前作での暴走の真相が明らかにされる。前作でHALがバグった原因は、出発前に秘密の計画をインプットされたことにあった。誠実でいなければならないはずのクルーに対して秘密を抱えなければならない矛盾にHALの論理回路は耐えられなかったのだ。
今作のミッションでは地球に戻るためにHALを犠牲にせざるを得なくなり、博士はHALに対して計画を秘密にしたまま犠牲にするか、それとも真実を告げた上で犠牲にするかの二者択一を迫られる。悩んだ末に後者を選んだ博士に対し、HALが「真実をありがとう」と告げて死を受け入れるところでマジで泣いてしまった。AIが求める倫理が、自身の存亡よりも正確な真理値という意味での誠実さにあることには説得力がある。
2001年宇宙の旅』から立て続けに見ていたら予定調和感があってあまり感動しなかった気がするが、幸いにも『2001年宇宙の旅』を見たのがかなり前だったのが良かった。実時間を置いたという経験は強い。あまり認めたくはないが、『シンエヴァ』と同じでコンテンツ消費には時機というものがある。

また、本当の前作主人公であるところのスターチャイルド(元艦長)が肉体時間を超越した存在としてちょろっと登場するのも良かった。今作でも結局スターチャイルドの目的は何だったのかはっきり明かされることがなく、モノリスも同じく特に何も解決しない。「人類は漠然と進化を促されているが、進化後の世界は進化前の人類が簡単に理解できるようなものではない」というSF的理解できなさはそのまま温存されている。

もともと『2001年宇宙の旅』が観念的な内容の名作だったので駄作を覚悟していたのだが、想定外に良かった。
とはいえ、今作から導入された安直な米ソ対立のモチーフと安直な平和的解決は大して面白くなかった。前作へのリスペクトは充実していて前作ファンは満足できるがこれ単体で見るとあまり面白くない作品、『ドラッグオンドラグーン2』みたいな感じ。

 

ハンガーゲーム

ハンガーゲーム (吹替版)

ハンガーゲーム (吹替版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

二ヶ月前に見た超B級映画『アーチャー』が勝手に名前を挙げて寄生していたので(→)一応見たが、正直なところこれも『アーチャー』と大して変わらないレベルの駄作だったように思えてならない。

「国中の地域から学生24人が集められ1人しか生き残れないバトルロワイヤルが開かれる」という基本設定は使い古された陳腐なものでありつつも、それに並走する「スポンサー制」というオプションは独特で非常に面白い。
このバトルロワイヤルはアンダーグラウンドの賭け事ではなく、国が主催する見世物イベントとして催されている。よってイベントを大いに盛り上げるため、参加者には本戦開始前にサバイバル訓練を受ける機会や、スポンサーや国民に対して人気をアピールする機会が与えられている。人気になればなるほどスポンサーから支援物資が届いたりして殺し合いが有利になるため、単なる身体的強さだけではなく人気取りが勝敗を左右する。殺し合いに臨む少年少女は自身の人間的魅力をアピールするトークショーやエキシビジョンまでこなすことになり、バトルロワイヤルに参加したバックグラウンドやプライベートな恋人関係などをアピールして戦いをドラマチックに脚色することが戦いを勝ち抜く秘訣である。
この「バトルロワイヤル×スポンサー事業」というモチーフは実に興味深い。この個人の自己マネジメントが全盛を迎えたSNS時代において、一見するとフィジカルで全てが決まりそうな殺し合いですら人気取りが深く介入するという発想には説得力がある。バトルロワイヤルの正統なアップデートとして、高見広春バトル・ロワイアル』もいま続編が書かれたらきっとこんな内容になっていただろうと思わせる秀逸なオプション設定だ。

だが、この優れたモチーフはほぼほぼ不発に終わったと言わざるを得ない。バトルロワイヤル開始前に人気の取り合いに力を入れて描写した割には、本戦ではそれが活かされることはほとんどなかった。
バトル本体は主人公パーティーと徒党を組んだ連中がちょっとした機転を活かして戦うだけの前時代的なものでしかなかった。あれだけスポンサーからの人気を強調していた割には、それが活かされたのは御都合展開のために途中で救援物資が差し入れされたくらいのものだ。人気に鑑みてバトルロワイヤルが面白くなりそうな方向に主催者が介入してくるシーンも良かったが、設定のポテンシャルの高さに比べれば、プリミティブなバトルロワイヤルでも普通にありそうな些末な描写に留まっていたという感は否めない。

こんなに面白そうな設定からこんなにつまらない映画を作れるのか……という勉強にはなった。続編もあるらしいので、そっちも気が向いたら見る。

 

ぶらどらぶ

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すみません、このアニメ面白いですか?
なんかジジイのオタクが「ノリが懐かしいw」「シリアスじゃない押井守ってこういう感じだよなw」とか言ってるけど「面白い」って言ってみろよ、オイ!……と思って「ぶらどらぶ 面白い」でTwitterで検索すると本当に面白いと言っている人もいるのでわからないものだ。

アニメージュのインタビュー記事がぼちぼち面白かった。

animageplus.jp

押井 でも、出す気はまったくなかったので(キッパリと)。僕にしては珍しく女の子はいっぱい出しているけど、男はケダモノみたいな空手部の男子生徒が4人と、オッサンだけ。これは最初から決めてたから。

――何なんですか、その固い意志は。

押井 だって(美少年に)興味がないんだもの。こっちはいたってノーマルな男性で、実写の時だって可能な限り女性の頭数を増やそうと企むんだから。

この美少女は増やし得という発想は好感度が高い。「実写の時だって~」にはあんま思い当たる節無いけど、ひょっとして『東京無国籍少女』とかのことですかね……?
「血祭先生はさすがに古いかも」みたいなこと言ってるけど他の全員ももれなく十五年くらい古い(ただし主人公だけがかなり今風のやり方で女の子が女の子に萌える行為を自明に内面化していて、一人だけ違う文化圏から紛れ込んでいるようなアナクロな異物感がある)。

押井 改めて考えて思ったのは、要するに人間ならざる者、異文化ということ。人間そっくりなんだけど生態系と価値観が違う者を描くっていうことは、要するに人間の物語になるんです。価値観の相違を巡って血を流す、というのはあらゆるドラマに通底するものだからね。僕好みの非日常な舞台で、しかもとんがったキャラでそれを実現するとしたら、吸血鬼かサイボーグのどちらかですよ。これぞ身体性の両極ですから。で、サイボーグはもうさんざんやったから。

マイの異常性がサイボーグと同根であることは俺が察知した通りで、答え合わせに緊急オタクスマイルが発動した。

『ぶらどらぶ』全体を貫く、結局のところ何がしたいのかわからない、恐らく意図的な一貫性の欠如はヒロインであるマイに集中している。マイは基本的にはお嬢様らしくおっとりしているのかと思いきや、いきなり怒鳴りつけたり罵倒し始めたり性格が全く安定しない。素面の状態でもそんな有様なのに、「血を飲んだ相手の性格が上書きされる」という設定のせいで更にキャラクターは迷走する一方だ。
そういうあまりにも空虚なマイという人格の在り方は、『攻殻機動隊』を筆頭にして散々語られてきた肉体に紐づいた人格の寄る辺なさとパラレルである。サイバーパンクにおいて記憶や思想がゴーストとして着脱可能なパッケージと化した事態は、萌えの文脈から言えば、萌え要素たる言動や行動が生命の素である血液を仲介して次々に切り替わる事態として現れるわけだ。

 

約束のネバーランド

完結したので一巻から再読。ゴールディ・ポンド編くらいまではかなり面白かった。

主人公たちが直面しているのは偏見や差別ではなく、もっとプリミティブで解決し難い圧倒的な生の問題である。政治ではなく生存の問題であるからこそ、農園脱出編ではイサベラやクローネですらも死が迫って来れば翻意することは吝かではないのだが、しかし政治ではなく生存の問題であるが故に、彼女らが寝返ったところで大局を変えることはできない。ゴールディ・ポンド編でもレウウィス大公やソンジュの優れたキャラクター造形が状況の詰みっぷりをよく表わしている。彼らの敵性は決して悪意ではなく、人間への敬意と殺意が両立する。自然的な闘争本能や食物連鎖に由来しているが故に、和解という選択肢があり得ない(最初から敵対していないから!)。

こうした無人格的なシステムを敵とするモチーフは進撃の巨人(初期)や鬼滅の刃とも共通しており、これもまた時代を背負って立つ漫画か……と感心しながら読んでいた。しかし、この問題は明らかに二方向へと軸をズラして解体されていく。一方では政治的な問題への退却へ、もう一方では形而上学的な問題への過剰な発展へ。

第一に、政治的な問題への退却について。ノーマンが暗躍し始めたあたりから、明らかに人間の問題は鬼の問題へとスライドしていく。それは生存の問題から政治の問題へのスライドでもある、というのも、搾取されている側にとっては生きるか死ぬかの問題も、搾取している側にとっては利権を巡るパワーゲームだからだ(例えば奴隷船の劣悪な環境で死んでいく奴隷たちについて、黒人奴隷の目線から見れば生きるか死ぬかだが、奴隷商人の白人目線で見れば在庫管理に過ぎない)。
それ自体は問題を様々な側面から豊かに描くものとして歓迎できるが、政治闘争というモチーフを通して本来は独立しているはずの生存にかかる問題がなし崩し的に修正されたことは歓迎できない。主人公たちの問題系でソンジュかレウウィス大公がラスボスであることと、鬼たちの問題系で女王がラスボスであることは全く別の問題であるはずだ。

第二に、形而上学的な問題への過剰な発展について。序盤からのキーワード「七つの壁」がカントのいう時空の形式だったというオチは結構ウケたが、その哲学的な問答が当初の問題に貢献したとはあまり思えない。約束を結び直す、すなわち世界の根本的な法則を変更するという方向性自体は、(ファンタジックではあるが)自然法則に匹敵する無人格的なシステムを構成し直すという意味では一つの有効なソリューションであるようにも思われる。しかし、その際には当然それが都合の良い逃げではなく説得力を持たせるための仕掛けが必要になるはずで、その理由付けに成功していたとは言い難い。

両方向のいずれにせよ、「邪血の少女・ムジカ」というちゃぶ台返しデウス・エクス・マキナに全てを託してしまったのが敗因だったように思われる。「鬼は人間を食わなければならない」という最も根幹にある設定を無かったことにできるムジカの血は到底容認できないタイプの奇跡である。最初期から伏線が張られていたあたり収拾がつかなくなって後出しされたのではなく一貫した想定の元に提出されていたことはわかるが、それはムジカの存在に説得力を与えるものではない。

ただし唯一かなり優れていた点として、「二つの世界を完全にパージして行き来不能にする」という結論がある。殲滅と和解の中間にある完全相互不干渉という選択。政治力学ではなく無人格的に自然発生している問題の詰みっぷりから言って和解は有り得ず、かといって悪意が介在していないが故に敵として殲滅するのも気が進まない、だったらもう相互不干渉として完全に世界を切断するしかないという結論は、当初の問題設定に対して誠実だ(ムジカの血よりも)。
現実には世界に完全な線を引くことなど出来ずに更なる軋轢を生むに決まっているわけだが、そこは実現不可能であるが故に却って漫画的な想像力による優れたソリューションと言い繕えばよろしい。

 

聖おにいさん(1~10巻)

聖☆おにいさん(1) (モーニングコミックス)
 

遠い昔に読んだ気がするので再読ではある。

最初期には皆が知っているキリストとブッダのネタを知っている前提で擦りまくる話だったが、日本人が共有している宗教ネタの数などたかが知れていて枯渇も早く、三巻くらいから天界・仏界関係者が増え始めると共に宗教ネタから独立したキャラクターのコメディ要素が混ざり始める。
要するに宗教漫画からキャラクター漫画へのシフトが段階的に進んでいくわけだ。例えば比較的マイナーな仏界関係者の宗教ネタについては、(宗教がバックグラウンドにあることをうっすら察しつつも)「宗教ネタ」というよりはそのキャラクター固有の持ちネタとして読む人の方が多いのではなかろうか。

この「当初は歴史上のイエスその人であったはずのキャラクターが次第に独立した漫画キャラクターに漸近してくる現象」、もう少し一般的に言えば「一般的な寓意から出立した漫画が後からオリジナルなキャラクターの漫画になる」という現象は枚挙に暇がない。二次創作としてのパロディ漫画が一次創作としてのキャラクター漫画に転じるという逆向きの相転移、それは元々は何かの寓意であったはずのキャラクターが自律した魅力を獲得してもはや寓意に縛られなくなる事態でもある。

これはTwitter漫画やTwitterオリキャラ(うちの子)にありがちな光景でもあり、例えばらむちが投稿するメイドちゃんにはその変動の痕跡がリアルタイムに見て取れる。

最初(2020年初頭頃?)は主人公的な存在に奉仕するメイドキャラとして生まれ、メイド服を着てメイド的な営み(主人の求めに応じてパンツを見せたりすること)をこなしていた「メイドちゃん」であるが、2020年末頃から「オフの日」という名目でメイド服を着ないことが増えてくる。

このあたりからメイドちゃんは「面倒見の良い幼馴染」くらいのキャラクターに移行し、初見では彼女が何故メイドちゃんなのか理解することは難しい。

更に最近では友達と温泉に行く様子が描写されるようになり、メイド要素は「わりとしっかりものらしい」という振る舞いに痕跡を残すのみとなる。

このツイートはメイドちゃんがメイドで無くなる過程を念頭に置いたものだが、同じことはらむちのメイドちゃんに限らず漫画のキャラクター全般についてかなり一般的に言えるように思われる。ルフィだって最初は「夢見る陽気な少年の寓意」がどこかで「ルフィという個人」になったタイミングがあり、そこが真にキャラクターというものが発生する瞬間ではなかろうか。

聖おにいさんはその格好の題材でもある。当初出立している現実への寓意の立脚点が人類史上で最も有名なナザレのイエスであり、擬人化ですらなく本人という体裁を取っていたはずが、それでも彼が「ひょうきんで優しいジョニーデップ似の男性キャラクター」へと変質する瞬間は意外と早く訪れるものだ。