LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

6/26 ナウシカの巨神兵ショボくてビビった

・お題箱17

28.巨神兵東京に現るのどこが高評価なんですか?

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世界の終わりと新世界創造をよく描いているところです。

補足43:なんか特撮オタク的には全部アナログで撮ってるのがすごいらしくて「特撮技術」っていうテーマで語る人がかなり多いんですけど、僕はそれには興味がないのでどうでもいいです(別に全編CGでもいいです)。あと、その次に多いのが原発事故のメタファーと再起のメッセージっていう解釈で、これは更にどうでもいいです。

世界の終わりというテーマ自体はかなりメジャーなものですが、大抵は(大衆受けするストーリーを作らないといけない都合で?)終わりに抗う人間のパワーの話や、終わる世界の中で繰り広げられるヒューマンドラマにすり替わられてしまうんですよね。
純粋な破壊と破壊神だけを見たいという需要に答える作品は貴重……ではないにせよ、まあ、「世界の終わり」と言ってあれこれ思い浮かぶ中でも多少は絞られてきます。

誤解されないために一応言っておくんですけど、この世界終末願望はいじめられっ子が学校に行く代わりに抱くものとは全く別のものです。
具体的なエピソードに誘発されたものではないし、具体的な目的への過程でもありません。人生で最も幸せな瞬間でも世界の終わりを望む、根源的に破滅志向性の人間がたぶん世の中には一定数いて、そういうタイプのものです。

とはいえ「世の中に一定数存在する終末願望に合致した世界の終わりをよく描いているから」というのでは、回答としてはちょっと貧弱ですね。
目的のない終末が何故望まれているのかについてもう少し説明をしておきたいのですが、これに関しては宮台真司シンゴジラ評がちょうどいいので、リンクを貼っておきます→

終末願望は「破壊の享楽」という単語でクローズアップされており、最初と最後にそれに触れられています(中盤のエヴァについて喋っている部分は関係ないので読み飛ばしていいです。具体的には「岡本喜八『日本のいちばん長い日』の再現」~「ファンタズムぶりを暴き出すアスカ・ラングレー」の部分は読まなくていいです)。

補足44:ついでなのでシンゴジラの話をすると、日本礼賛的な感想が非常にどうでもよくて呆れてしまうという宮台の意見には(オタク的なマウントを取りまくっている文章がちょっと(かなり)鼻に付くとはいえ)、正直僕も同意します。しかし、その理由は彼が言っているような「本当に庵野が込めているのはそれに対する皮肉だから」という積極的な妄想ではなく、「意図を逆流させるべきではない」という消極的なスタンスです(それは宮台に対しても同じです)。

終末願望=「破壊の享楽」が発生するメカニズムを書いているのは1ページ目なのでそこを読んでくれればいいんですけど、「言語は否定性と表裏一体」っていう部分は少しわかりにくいかもしれないので補足します(多分ソシュールが言ってた差異性の話だと思うのでその説明をするんですが、違うかもしれません)。

例えば、生まれてこの方動物を見たことが無い人に「猫」という言葉を教えることになったとします。
一番最初に思い付くのは猫のサンプルを何匹か適当に持ってきて「これが猫ですよ」と言って渡してみるという方法ですが、実はこれでは「猫」という言葉を把握するのは難しいことが知られています。
例えばシャム猫と三毛猫とペルシャ猫をサンプルとして渡されて「猫」の学習を終えた人が、次にアメショを見たときに「これも猫だ」と判断できる可能性は低いです。アメショとシャム猫では、毛の色・顔の形・大きさなどが違います。見てきたサンプルに合致しない以上、「猫ではない」判断する可能性の方が高いです。

補足45:大雑把な捉え方をする人であれば「猫です」と答えることも考えられますが、そいつは犬やウサギを見ても「猫です」と答えるはずです。

じゃあどうすればいいのかというと、猫のサンプルを見せて「これが猫ですよ」と教えると同時に、ついでに犬も渡して「こっちは猫ではありません」と教えてやるのです。

「猫」を教えるために「猫でないもの」を見せなければならないというのが重要なポイントです。
猫だけを渡されて「猫です」と言われてもどこに注目してどこがどう似ていれば「猫」の範疇に入るのかがわかりませんが、「猫ではありません」と言って渡された犬と見比べれば、類似点や相違点がどこにあるのかを理解できます。デカ牙があって目が小さければ猫でない、顎が丸ければ猫、というような判断基準の確立(加えて、「四つ足なら猫」「毛があれば猫」というような誤判定の消去)は犬が出現して初めて可能になります。

同様にして、「法に従う」という言語プログラムも「法に従わない」状態があって初めて成立するものだから、言語プログラムが秩序的であればあるほど社会は相反する破壊を内包してしまう、それ故に社会は「破壊の享楽」と隣り合わせである……みたいな説明でいいんですかね?よくわかんないですけど。

まあ、正しいかどうかはともかく、この説明で一応の筋は通るので僕はある程度は「なるほど」って納得できたんですけど、理屈はわかっても納得はしない人の方が多いような気もします。

補足46:そういえば坂口安吾堕落論にも「私は偉大なる破壊を愛していた」みたいな文章があったと思って今読み直してみたんですけど(青空文庫で無料です→)、破壊願望の根本についてあまり深くは触れていないですね。偉大なる破壊が堕落に対する抵抗の一種であるというのはわかったんですが、無根拠に発生する堕落に対してストップをかける機構について、「人は弱いから(?)」よりもうちょっと詳しく解説してほしかったです。

これで「巨神兵東京に現る」のどこが高評価なんですかという質問に対して納得させられるような回答ができたとはあんま思えないんですけど、手は尽くしたのでそんな感じです。

そういえば、似たようなことを前に二式で「悪の華」の感想にかこつけて扱ったことがありますね。あれも「アンチ現実」的な衝動の源泉はどこにあるんだろうっていうテーマで、僕の中では同じ話です。

・Pixel


オタクを扱ってはいるけど、金+女+栄誉→サクセス!っていうアメリカン陽キャ映画だった。
日本のオタクが陰キャすぎるだけでアメリカではオタクも陽キャなのか、それともアメリカのオタクも陰キャだけど大衆向けに陽キャノリで作ったのかよくわからない(前者のような気がする)。
まあまあ、退屈しないし普通に面白かったですよ。

映画の内容とは全然関係ないけど、連想される話題として

・作品から要素を抜き出してくることについて(デブオタクが現実化したヒロインと結婚したやつ)
レトロゲームの感想(近所のゲーセンに怪しいエミュ基盤、かなり色の濃いグレー筐体があって俺はたまにそこでレトロゲームをプレイする)

みたいなことをいつか書くかもしれない。

・文系コンプレックスについて

最近文系っぽい話ばっかりしてるけど、分類としては俺はバリバリの理系である。
仮想マシンベンチマーク測定とか二足歩行ロボットあたりが本来の専門領域なわけで、「正規の文系教育を受けていない」というコンプレックスが実は俺の中にはかなりある。正規の教育を受けていないことの何がまずいのかというと、「何がわからないのかがわかっていない」可能性が常にある。

理系分野に関しては、大学のカリキュラム上、線形代数から熱力学までそれっぽいことを広く浅く勉強したので、理系という範疇に入る話題であれば、「どの分野の話か」「どのくらい深い話か」という検討が付くようになっている。
俺がよく知っているなら多分基礎に近い話だし、聞いたこともなければそれはそれで極めて専門的な話だなという情報は得られる。別によく知らなくても「よく知らない」という情報が活きるので、何を聞いてもそれを適切な場所に定位できるのではないかという一応の安心感があるけど、文系にはそれがない。

とはいえ、文系は理系のようにふんわりとした分科ネットワークを共有しているわけではなく、いわゆる一般常識はせいぜい高校教育で完了しているという見解も聞く(文系の人に聞いた)。型にはまった進め方をする理系と違って文系は興味の細分化が早いので共通了解は基本的なところに留まっているらしい、本当か?

まあでももし仮に文系に進学していたら、それはそれで科学哲学あたりで相対論とか量子論についての理系的文脈教養が無いことを嘆く羽目になっていたと思うので、文系を選択しておけばよかった~的な後悔は特にない。

なんか定期的に書いてる、「知らないという状態には2状態ある:1.何を知らないかを知っている状態 2.何を知らないかすら知らない状態」っていう話をまたしてしまった。