LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

11/2 勉強の哲学の感想

・お題箱27

40.LWの由来はなんですか?いつからそう名乗り始めましたか?その前に使ってたハンネはありますか?

この質問、色々なところから定期的に来てませんか?
Image[1]
MtGのカード、Living Wallを縮めてLWです。弱肉一色を立ち上げるときに適当に決めました。
まあ、インターネットをやっている以上、その前とか現行で別に使っているハンネもたくさんありますけど、事故が起きると困るのであまり公言はできないですね。
s1772[1]living_wall_big
TwitterのアイコンもLiving Wallの中身(?)の赤ちゃんです。Living Wallは生きた人間の肉体をパッチワークして出来たという設定なので、巻き込まれてしまったんでしょう。
僕が作った箱ドットの中で一番うまく出来ていると思うんですが、評判は最悪です。

・勉強の哲学の感想


かなり昔、図書館で予約して数ヶ月待ってたけど、諦めて購入して読んだ。
この前たまたま大学の研究室で例の茶髪の机の上にこの本が置いてあるのを発見して、いい加減読んどいて話合わせよう的な社会性が発動したため。

補足76:現在、茶髪は就活のため染め直して黒髪になっている。

読んだ直後にこういう感想をツイートしたけど、これはちょっと強く言い過ぎたというか、読む必要のない本であるという受け取られ方をされるのは本意ではない。偽りなきファーストインプレッションとして撤回する気はないが、かなり優良な本であるからまあ概ね誰にでも目を通す価値は十分にあるという話をしばらくする。

内容を一言でざっくり言うと価値観(公理系)の相対化について語っている本で、基本的には未だそういう概念を持たざる人に向けて懇切丁寧に書くという啓蒙本の体裁を取っている。もう少し歯に衣着せずにいえば、一定以上の知的水準にある人(選民意識!)が当たり前すぎて誰もわざわざ説明しないことを、そうでない人(オブラート!)に伝えようという強い意志を感じる。

「公理系の相対化」というテーマはサイゼリヤでも前に一度お題箱経由で触れたことがある話題ではある。
そのとき(→)俺が「倫理規範の相対性って現状でそれを認識しているような人にとっては当たり前な一方、そうでない人が外部から付与されるのって無理だろうと思います」とか言って投げ捨てたことを見事に実現しているのがこの本であり、その説明能力には脱帽する。重要な概念を明確に言語化できることはそれだけで貴重だし、もし「やれ」と言われても少なくとも俺には全く出来ないことは言うまでもない。非常に言語化が難しい内容を扱っていながら、論理の飛躍が無いように配慮して具体例を挟みながら重要なワードは何度も繰り返して懇切丁寧に書かれている。

そう、この本は常軌を逸して説明が上手いことが、俺の(若干上からな)ファーストインプレッションを誘発してしまった感はある。というのは、あまりにも説明が巧みな文章は頑張って頭を使わなくても水が流れるようにスルスル理解できてしまうため、内容を「当たり前じゃないか」と過小評価してしまうという現象が起きる(逆に、大したことのない内容でも小難しく書いてあるものと一生懸命格闘すれば高級な概念を理解したような気分になったりもする、悲しいことに)。
しかもそれはある程度は無意識に起きる。
(少なくとも読む前には)当たり前だとは思っていなかったことを、読みながら記憶を書き換えてさも当然であるかのように勘違いしたとしても、はっきりと自覚できないので、そういう効果が働いていたことくらいは言及しておかないとアンフェアだ。

アンフェアついでにもう一つ反省しておくと、俺が個人的に若干の予備知識を持っていたこともある。
「言語が環境のコードとして思考を規定する」というアイデアがこの本の根底にあるが、そのあたりで詰まらずに「ふんふん」と読み流せたのは、ラカンやサピア的な言語の捉え方としてそういう発想が既に存在することを知っていたからで(一般書を齧った程度だけど)、それも込みで自明と表現したのは勢いがつきすぎていた。

あと、四章(と補論)は良かった。
文系の勉強をどうやってすればいいのか未だによくわからないので、入門書や教科書の使い方を示してくれたのは素直にありがたい。

難解な本を読む技術 (光文社新書)
高田 明典
光文社
2009-05-15


前に同じ目的でこういう本を読んだりもしたが、結局は「やり込んでればそのうちわかる!」的な感じであまりよくわからなかった(でもこの本は実際に学習を進める際の事例として哲学者ごとに読むべき本の順番と心構えのガイドを載せてくれていて、それは大変役に立ちそうな感じがある。まだやってないけど)。

補足77:ちなみに理系の場合は学部~大学院初期くらいの内容であれば一般論的な内容が確立されていて、どの本にもまあだいたい同じような内容が書いてある。適当にやっても文系よりはどうとでもなると思うのだが、俺が理系だからそう思うだけなのか。
また、理系では業績はすぐに人物から引き離されるのに対して、文系では頑なにそれらを結び付けようとする傾向があり、それも体系化を妨害してわかりづらくしている一因だと俺は感じる。理系ではクロード・E・シャノンの名前を知らなくても情報理論の勉強ができるのに、文系では全然違う内容を「前期○○」「後期○○」だのという時代区分まで持ち出して頑なに人名でラベリングしようとする。その理由として「公理系の解体まで前提にすると最終的にラベルとして残せるのは個人名くらいしかないから」というのを今考えたけど、どうなんでしょう。


フォローが終わったのでもう少し内容の話をすると、俺に言わせれば公理系の解体というテーマはオタク論とは切り離せない(ここから前々々回の続きみたいな話になる)。
この本は啓蒙書というスタンスを取っているから「勉強をしたことが無い人に自己解体(ないしは社会の解体、意味はあまり変わらないので以後は区別しない)のやり方を教えてあげよう」という楽観的な論調でいられるが、逆に自己解体があまりにも自明であるが故にその暴走を止められず、危機的精神状況に陥る人間が世の中には一定数いる。この人らにとって、自己解体は教えられたから始める勉強どころではなく、人生を賭けて戦わねばならない病理である(東大生に発達障害やオタクが多いのはそういうわけだと俺は思っている)。


『私とハルマゲドン』はもう20年以上前の本だが、その手の最悪な自己解体の行き着く先とオタク化の関係が既に指摘されている。
T3IeliC4[1]
自己解体の病理を抱えてしまったが最後、人間やめるか、自殺するか、革命するかというレベルでオタクをやらざるをえないのだ。死にたくはないからね。
また、この本では『勉強の哲学』で言う「ユーモア」や「アイロニー」についても、ギャグ漫画の分析として「非常識」「反常識」という言葉を用いてかなりオーバーラップする内容が語られている(もっとも、この作者も自己解体をせずにはいられない側の人間であり「ユーモア」などやっている余裕がないので、分析は「アイロニー」について掘り下げるという形になっている)。同じテーマについてオタク風に語りなおしたバージョンがこっちと言えるか。

補足78:ちなみにこの本、文庫版のあとがきに

……庵野秀明監督が本書を読まれた直後に電話を下さり、「百パーセント同意する」という言葉をいただいた……

という衝撃的なエピソードが追加され、一気にエヴァ関連文献最重要書物と化した。
まあ、それを差し引いても非常に面白いのでオススメの一冊。LW一般書ランキングで五本の指に入る。


最後に、最近お気に入りのゴルフ漫画「上ってナンボ」から関係あるような無いような話をして終わろう。
uP-cH0Lx[1]
KYRv2qtm[1]
これは二人のプレイヤーがいわゆる「ゾーン」に入るシーンである。
「ゾーン」は人によって異なるイメージを取り、主人公の太一にとっては野球のグローブとして、もう一人のプレイヤー(名前忘れた)にとってはチェスの盤面としてグリーン上に出現する。ちなみに念のために言うと、「上ってナンボ」は基本的にリアル志向のゴルフ漫画であり、選手ごとの得意技くらいはあるが、後期の咲-saki-に匹敵するようなオカルト能力はない。「ゾーン」は純粋にイメージの産物であり、特殊能力は持たない。

こういう、「似た能力の発現形式の細部がまちまちである描写」が俺はかなり好きだ。
しかし能力の発現形式の差異と言っても、スタンドや斬魄刀まで行くと機能的・合目的的ないやらしさが出るからやりすぎという匙加減もある。「どういうイメージであろうと本筋にはあまり関係がないのだが、しかし個々人によって明確に異なる」くらいのレベルに留まっているのが理想だ。

他に例を挙げるなら、ハガレンの「真理の扉」もかなりこれに近い。真理の扉の模様は人によってまちまちで、エドにとっては生命の樹だが、ロイにとってはサラマンダーである(錬成手段の違いもこれに近いところがあるが、それはちょっと行きすぎかもしれない)。犬魔戦伝でも、呪術師の一族が呪殺を実行するとき、当主のジジイは眼球に梵字が出現するのだが、息子の修道者の眼球に浮かぶのは六芒星で、孫のアイドルともなるとハートマークで呪殺を起動する。

そのくらいのささやかな違いでいい。
何らかの体系だったルールによって機能している共通能力があったとしても、解体されずに意味もなく無根拠に残って差別化される世界の捉え方、究極の個人性が確実にあるというのはとてもハッピーなことだろう。これは現実で求めても絶対に手に入らない、フィクションの専売特許である。『勉強の哲学』風に言えば個人の享楽のマイナーチェンジかもしれないが、漫画の紙面上にはっきりと絵として明示されるのは羨ましいことだ。

補足79:この手の「微妙でささやかな違い」の表現ってメディア依存かもしれないということを今思った。
アニメ漫画みたいなビジュアルのメディアならとりあえず描き込んでおけば済むけど、小説だといちいち「野球のグローブが見えた気がした」「チェスの盤面にも似ていた」とか書かないといけなくなって、なんかいやらしくない?