LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

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・昨日の続き/オカルト理論

「初手に魔法カードがある確率は50%」と言う言葉には二つの意味がある。

 

 A.シャッフルしたデッキから初手を引き直す作業を十分に多い回数行ったとき、魔法カードがある頻度は2回に1回である

 B.今目の前でシャッフルしたデッキから初手を引いたとき、魔法カードがある可能性は6面ダイスを振ったときに数字が偶数である可能性と同程度である

 

同じじゃん……と思うかもしれないが、試行回数が違う。

 

 A.無限回の試行についての頻度

 B.一回の試行についての可能性

 

例を挙げると、一日サイコロを振り続けた人が「1が出る確率は1/6」と言ったときはA、天気予報で「明日の降水確率は50%」と言ったときはBの意味だ。

この二つは混同して用いられることが多いが、実証可能性という観点から見たとき、Aは実験で容易に確かめられる一方、Bはどうやっても確かめられないという重大な違いがある。

Aを確かめるのは簡単で、実際にサイコロを振り続ければよいだけだ。対して、降水確率が50%だったのを確かめるとはどういうことか。降水確率が10%でも90%でも降るときは降るし、降らないときは降らない。空を見上げてわかるのは、降った/降らないという事実だけだ。どの程度降るはずだったのかを確かめる方法はない。
実際には、実験結果からまずAが導かれ、そこから類推するという方法でしかBは得られない。サイコロを600回振ると1は100回出たから、1回あたりで1が出る可能性は1/6なんじゃないかな?という。
何故こんなことになってしまうのかというと、可能性という概念は実在しないからだ。我々が生きる物理世界において、事象は常に100%確定する(※量子力学的な見地から入るツッコミに対する反論は文末に付けたので、ここで「ん?」と思った人はそっちを読んでほしい)。例えば、初手を知りたければハイスピードカメラを設置すればいい。録画を見ればトップを捲るまでもなく初手がわかるだろう。そこには確率など存在せず、あるかないかの二択だけがある。
ただ、現実にはハイスピードカメラを設置するのにはコストがかかるし、技術的限界から予測しきれない事象もたくさんある。そのため、便宜的な概念として確率を使って考えようということになるわけだ。証明はできないけれど、とりあえず確率が存在するということにして物事を考えるとなんかうまくいくぜ……ということで、無根拠に導入されている。
勘違いしてほしいのだが、確率というのは信用できない!ということを言いたいのではない。確率という概念は高度に実用的であり、現実の適用に際しての検証が不可能ということ、ポジティブに言い換えると、実証ではなく実績に支えられた概念であるということが重要だ。
 
さて、いわゆるオカルト理論とは運に流れが存在することを主張する信仰である。サイコロを振ったときにそれぞれの目が出る可能性が常に等しくあるのではなく、1が出やすい流れとか、4が出にくい流れがあると言うわけだ。
ここで、「運の流れ」という概念は冒頭の分類で言うとB的な考え方と親和性が高いことに注目してほしい。特定のタイミングで確率が膨らんだり萎んだりするという主張なわけで、無限回試行したときになんちゃらと言っているわけではない。

ここで、さっきまで語ってきたBの検証不可能性が活きてくる。Bという意味での確率はそもそも検証を放棄して成り立っている概念であるため、オカルト理論の主張する「運の膨らみ」を否定することは根本的に不可能だ。オリキャラの強さ議論をするようなもので、そういう厳密な議論に対して立ち向かえるように作られていない。

またまた勘違いしないでほしいのだが、だからといってオカルト理論を支持すると言っているわけではない。ただ、「オカルト理論は現実に合わない」という主張は無効で、「正しいかもしれないけど、そう考えることに特に意味がない」とするのが正しい。

 

えー今日は本の感想について書く予定で、ここまでの話は大して重要ではない前座なんだけど、長くなったので次回に続く。きっちり仕上げようとするとまた重さで溺死してしまうので。

 
量子力学的なツッコミへの反論
これも次回
 

・雑多感を出していきたい

1記事1トピックだと絶対ちゃんと書いちゃうから、1記事に2、3個くらいトピックを箇条書きみたいな感じにしたい。
 

・ネタバレについて

不幸な事故を防ぐために一応フィクションのネタバレについてのスタンスを書いとく(Twitterでもだいたいこのノリでやっていると思う)。

メディアによってまちまちで、配慮度で言うと

 
ゲーム>映画>漫画アニメ
 
漫画アニメについては、明らかに物語の根幹に関わる重大なネタバレとか「これは流石にやべーだろ」みたいなやつは配慮するけど、基本的にはしない。
映画は有料だし、なるべくネタバレを避けるようにするが、オモバレ(面白かったかどうかのバレ)までは避けられないかもしれない。
ゲームは他のメディアとは一線を画する人生の拡張(この辺の違いは二式に書いた)なので、最大限の配慮をする。エモバレ(雰囲気のバレ)から徹底的に封じる。
 
ただ、古典に関しては全体的にガードが甘くなってしまうかもしれない。例えばスタープラチナが時を止めるのはラスボス戦の結末を左右するネタバレだけど、うーんまあそれはさすがに良くない?……みたいな。
まあ、ネタバレは周囲と協調して妥協案を探っていくべきことの一つなので、言ってくれれば随時改訂していきます。