LWのサイゼリヤ

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18/8/19 カメラを止めるな!の感想

カメラを止めるな!

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カメ止め、面白かったです。
致命的なネタバレを含むので、もう見た人か残りの人生で絶対に見ない人しか読まないでください。
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要するにゾンビ映画がホラーかと思ったらコメディだったという話だが、一つの物事に対して複数の意味づけをすること自体は珍しくはなく、ある程度普遍的に見られる手法である。
例えば、お笑いでは漫才で一つの発言に対してそれぞれ異なる解釈をしてすれ違うアンジャッシュが有名だし、いわゆる群像劇は一つの行動が他の人々に対して意図しない効果を生んでいくところに面白さがある。この「多重解釈」とも言うべきコンセプトはジャンルに限定されたことでもなく、「単線的ではない意図の交錯」としてもっと広く取れば、よくできたストーリー漫画には必ず含まれていると言ってもいい。

よって、枠組みとしては根本的に新しいわけではないが、かといってありきたりで退屈な映画では全くない。多重解釈のレベルが非常に高く、また、大枠を支える細部も注目に値する。具体的には、信頼の逆用という話と、多重解釈のフォーマットが虚構の入れ子構造に対応していることがもたらす効果、映画メディアの利用あたりについてダラダラ書いていこうと思う。
なお、これらに新規性があるのかどうかは正直よくわからない。それら全てについて同じことをやった作品も(もっと低レベルかもしれないが)あるような気はする。今は思い浮かばない。

まず多重解釈がジャンルを越境していることから話を始めよう。
これは単純に、37分の映画という一つの出来事に対する複数の解釈が、シリアスホラーとギャグコメディという二つのジャンルに振り分けられていることを指す。多重解釈にも色々なやり方があるが、恐怖と笑いはかなり遠い感情なので、このどちらの感情も誘発できる映像というのは多分かなり凄いことだ(スプラッターかつギャグという描写は北斗の拳やハピツリなど結構多いが、それらは文脈自体は一つしか持たない点で少し違う)。

このあたりは製作努力の賜物というよりは、鑑賞者の信頼を逆手にとっているという印象を受ける。
グライスが「協調の原理」として指摘したように、ふつう人はコミュニケーションの際には相手が真面目にコミュニケーションに参加していることを前提する。日常的に受け答えが成立しているときに、「実は相手には何も通じていないが、たまたま相手が発声練習をしているのが運よく会話のように聞こえているのかもしれない」などと考える人はいない。コミュニケーションが成立するよりも早くにお互い真剣にコミットしているという前提が成立しており、この基本的な信頼を元にして解釈や補完(または逸脱)が行われていく。

映画を製作者と鑑賞者のコミュニケーションとみなせば、協調の原理を流用できる。つまり、鑑賞者は作り手が真剣に映画を撮っていることを勝手に前提し、アンビバレントな描写の数々を相手にとって都合が良いように好意的に解釈するという性質があり、この映画にはそうした過剰な協調性を暴き出すシーンが無数に存在している。
例えば、最初の三人のぎこちない会話シーンが「失敗したアドリブ」だと初見で見抜く人はほぼおらず、むしろ適切な意味を積極的に付加していく人の方が多いのではないだろうか。「三人は仲が悪いわけではないにせよ付き合いが長いわけでもなく、怒って出て行った監督のせいで空気も気まずくなっていることを表したシーン」とか。黄色いハゲがトイレを我慢できずに「ちょっとちょっと」とか言いながら外に出て行ったシーンも同様で、「恐怖に耐え切れず、外に出れば襲われるというリスクを冷静に考えられないまま、飛び出して逃げようとしたシーン(考えと行動が一致せずうまく説明できないので「ちょっと」としか言えない)」という解釈になる。こうした「鑑賞者が都合よく行間を補ってホラーとして適切な解釈を作り出したシーン」は数え切れないほどあり、無根拠な作り手への信頼は頑健である(レンズに付いた血糊を拭くシーンやカメラを落とすシーンなどはあまりにも露骨だったので何か仕掛けがあることを予想した人も多いと思うが、逆にそうした物質的な根拠による疑いをかけられるシーン以外は協調的に考えたのではないだろうか)。
最初にこの映画のジャンルを定義し、我々の協調回路を作ったのは冒頭にある監督迫真のパワハラ演技だろう。続く内容をシリアスホラー(少なくともコメディギャグではない)にするためには、あそこだけは本気でやらないといけなかった。にも関わらず、すぐ後に続く「前からグチャグチャ言いやがってよお」的なことを若い俳優に言うシーンは二周目には笑いを誘うものであり、ジャンルを定義する発言を最小限に抑えるあたりがうまくできている。

次に、多重解釈が虚構内虚構として実現されていることは、無限後退が可能なことを示唆するという話をする。
というのは、この映画はいつでも「はい、カット!」という音声を入れて打ち切ることができる。登場人物たちは全員「中年監督が無茶な生放送企画で奔走するうちに熱い思いを取り戻していく」という設定の映画を撮っている役者だったということにして、それまでの内容を全て虚構内虚構の扱いにして強制終了できる。彼らは演技をしていただけで本当は親子ではないし、酔った演技をしていただけで本当は酒を飲んでもいないし、ウンコする演技をしていただけで本当に野グソしていたわけではない……といつでも言えてしまう。既にホラーとコメディというジャンルを端から端へ跨いでいるために、次のレイヤーがSFでもサスペンスでもおかしくない。とすると、この映画の本当のレイヤーは不定である。動的には無限後退可能性であるが、静的には今のレイヤー(コメディ映画としての階層)が暫定的なものではないかという不安に繋がってくる。

もちろん、その類のちゃぶ台返しはやろうと思えばどんな作品でも出来ないことはない(からくりサーカスを見よ)。世界五分前仮説のようなもので、言おうと思えばおよそ何にでも言えてしまう。しかし、とりわけこの映画は緻密に作られているために無限ネストを喚起できるとする理由を三つ挙げようと思う。

まず第一に、多重解釈が時空間的に同一の地点で実現していること。
これと対比できるのはノベルゲーム的な意味の多重性である。つまり、ある時間にある場所でした行動が、別の時間や別の空間でバタフライエフェクト的に思いもよらない効果をもたらすこと、因果の連鎖を経由することで初めて一つの行為に複数の解釈が可能になることと対照できる。この映画はそれとは異なり、作中のゾンビ映画を撮影している37分の時空間だけに複数の解釈が付与されるようになっている。この映画を二回目に見る人は最初の30分をコメディ的に見て帰宅することも可能だろう。全てはコンテントではなくコンテクストの問題なのだ。
これが意味するのは、37分間に更に別の意味を紐付けるのも可能であるということ。情報が付加されることでホラーがコメディになった以上、映画を見終わった段階ですらそれがコメディであったのかどうかは定かではない。過剰な協調性によって細部を都合よく解釈して自発的にホラーを見てしまったことが既に暴かれているため、コメディに対しても同様の回路が働いていたことを否定できる人はいないのだ。解釈は「どこで打ち切るか」という問題でしかなく、真相に辿り着ける理由が無い。

第二に、鑑賞者に対して限定された情報が次々に開示されていく構造をしていること。
ここで対比されるのは登場人物である。群像劇的な手法の場合(特に映像作品では)、どちらかといえば鑑賞者は登場人物よりも広い視点を持っていることが多いと思う。例えば、ある登場人物が良かれと思ってやっていることが裏目に働くことを視聴者はわかっていてやきもきする……というようなことはよくあるだろう。アンジャッシュの漫才でも、会話がすれ違っていることがわからないのは漫才師(が演じるキャラクター)だけで、客は全てを理解して笑っている。多重解釈は神の視点から行われがちなのだ。
しかし、この映画では情報は逆向きに絞られている。登場人物は一貫して自分の立場を理解している一方で、鑑賞者には限られた情報しか与えられず、徐々に上書き修正されるという過程を踏む。新たに得た情報をもとにして解釈を更新するのは鑑賞者であって、登場人物ではないのだ。鑑賞者の立場が弱いため、現状の「コメディである」というような見解が暫定的なものであり、決して確定しないことが肯定されてくる。

第三に、この映画が実写映画メディアであること。
さっきは喩えとして「彼らは演技をしていただけで本当は親子ではないかもしれない」と言ったが、実はこれは純然たる事実である。何故なら、濱津隆之真魚は親子ではないからだ。撮影が終わった瞬間、彼らは「お疲れ様で~す」とか言って親子であることをやめて、リアルのコンテクストへと戻っていくだろう。ここで行われる文脈の更新は、今まで見てきたようなホラーからコメディへという更新と全く同じものだ。ゾンビ映画の階層のひとつ上にコメディ映画の階層があるとすれば、その上に上田監督の撮影現場の階層が来る。全ては陸続きであり、映画であるという時点で、コンテクストの階層はリアルの撮影現場の階層で蓋をされることが確定している。映画メディア自体が虚構内虚構的な文脈変更可能性を最初から示唆していると言ってもいい。エンドロールでは(多分)実際の撮影現場が流され、クレーンでも組体操でもなく脚立が映ったことこそが、映画に潜む潜在的な文脈更新なのである。
これをアニメメディアでやるのは難しい。アニメを作る監督やアニメーターは実写的な存在(?)であり、アニメに落とし込まれる二次元絵の存在とはどうしても異なるからだ。撮影のコンテクストがそのままで多重化しているという基盤を最初から持っているのは、劇や映画などの実写系のメディアに限られ、この特徴をうまく利用した作品として理解できる。